HUNTER×HUNTER ―紅き公爵の剣譚― 作:アトレトル
第7話 疑惑の帳簿
リナは、差し出された紙の下から読むことになった。
いつもなら、品名より先に発注番号を確かめる。どの便の書類かを揃えてから、数量と行先を追う。それなのに今朝は、マルセルの指が止まった欄から、目を離せなかった。
一次受付確認の欄に、リナ・ウェルズと記されていた。
「この書類を、以前に見た覚えはあるか」
主任の声を聞いて、リナはようやく紙の上へ視線を戻した。レダン商会から提出された、配送先の変更に関する書類だった。指定していた届け先とは違う場所が記され、受付の確認を得て手配したという説明が添えてある。
秋の開門祭まで九日。準備する品も、確かめる紙も増えていたが、変更の書類を受けたらどうするかは、毎日繰り返してきた仕事だった。
「……いいえ。この行先を、こちらの便で確認した覚えはございません」
「署名の方は、どうだろう」
机の向こうからヴィクトルが尋ねた。リナはもう一度、自分の名前を見た。いつも使う文字に似ている。似ていると思うほど、いつ書いたのかを探そうとしてしまった。
「私のものに似ております。ですが、これへ書いたとは、思い出せません」
「似ていることと、書いた記憶があることは、分けて聞かせてくれればいいよ」
ヴィクトルは紙を引き寄せず、彼女が見直せる場所へ置いていた。リナは小さく息を吸い、名前の脇にある日付を確かめる。
その日に何をしたか。朝に受けた便は何だったか。頭へ幾つも浮かんだが、全部を一度に言おうとすると、順序がつかなくなる。
「受付簿を見ても、よろしいでしょうか」
「ああ。まず、手元のものから確かめよう」
マルセルが棚から簿冊を取り、該当する日を開いた。普段の自分の字が並んでいる。受けたもの、返答を待つもの、主任へ回したもの。リナは指を添え、問題の便に当たるところを辿った。
荷の到着を問い合わせた記録はあった。だが、そこに配送先変更の書類を受けたという記載はない。端末へ入力した控えも、マルセルが順に開いてくれた。
「この件を、私が照合して送った記録は、今のところ見つかっておりません」
主任がヴィクトルへ告げる。その隣で、テオドール・エーベルは、別に用意した原本の綴りを閉じた。
「こちらにも、正式な変更承認を経た原本はございません。この配送先への変更を、私が承認した事実もありません」
テオドールの前には、通常の変更手続きを済ませた別件の紙があった。受付から照合、承認へと進んだ記載が、段階を分けて残っている。商会が持ってきた方には、リナの名があっても、その続きを確かめられなかった。
「私が、間違えて回さなかったのでしょうか」
言ってから、リナは自分の指を見た。書いた記憶がないと言ったばかりなのに、回し忘れたことを探している。
マルセルは、開いた受付簿へ指を置いた。
「まだ、そう決めないでいい。受けたのか、誰へ渡したのか、順に確かめる。そのために記録を出している」
「それに、一次受付の署名だけで、正式な配送変更が済むわけではないからね」
ヴィクトルが続けた。紙に公爵家の者の名があったことは、確かめなければならない。だが、そこへ署名した者が、一人で行先まで決めたという扱いにはしなかった。
廊下で台車の音がした。マルセルは入口へ顔を向け、今朝の納入について、別の者へ受け取りを頼む。リナが立ち上がろうとすると、その前に声をかけた。
「今日は、こちらの確認に時間が要る。予定の便の引き継ぎをしてから、勤務の控えも持ってきてくれ。覚えていることを、あとで改めて聞く」
「はい」
リナは頷いた。仕事が止まらないための手配だと、説明はわかった。それでも、自分の代わりに受付簿を持って立つ者を見て、胸の奥が詰まった。
ヴィクトルは、商会から届いた紙と、公爵家の原本を別に分けた。署名を消すことも、見覚えがないという返事を聞いただけで片づけることもしない。
「記録は、そのまま残そう。今ここで出た話も、先方の説明とは分けておいてくれるかな」
マルセルが新しい紙を取る。リナは、自分の名前のある一枚を机へ残し、引き継ぐための控えを取りに行った。
◇
ルシアンがリナを見かけた時、彼女は管理室へ入る廊下の角で、布の数量を書いた紙を渡していた。
相手の使用人が行先を尋ねると、リナはいつものように答える。ただ、説明を終えたあとにも、その紙の端を離すのが少し遅かった。受け取る方も、持っていってよいかを、もう一度確かめている。
「あとの確認も、リナさんへお返しすれば?」
「いえ、今日は、主任の方へ……」
リナの声が途切れた。脇へ来た別の使用人が、管理室へ呼ばれた件は何だったのかと尋ねる。悪いことを聞き出そうという調子ではなかったが、返事を待つ顔が二つ並ぶと、彼女は手元の控えを持ち直した。
「お仕事の受け渡しは、マルセル主任からお聞きになった通りに。途中のお話を、皆で確かめ直す必要はございませんよ」
マルタが、廊下の先から声をかけた。足を速めて誰かを追い払うのではなく、近づいて、布を運ぶ者の行先を確かめる。
「こちらの分は、そのまま保管室へお願いできますか。受け取りの確認は主任へ回してください」
用事が決まると、使用人たちはそれぞれ動き出した。一人が、リナへ聞きすぎてしまったかと小さく言う。マルタは、まだ確認中のことを、別の場所で話し足さないでほしいと頼んだ。
ルシアンは二人が通り過ぎてから、リナの前へ寄った。
「今日は、君の机へ行く前に会えたね」
「ルシアン様。失礼いたしました」
「俺が来たことに気づかないくらい、紙を見ていたのかな」
いつもなら、彼女はそこで顔を上げ、何を確認しているかを教えてくれる。だが、今日は返事をしかけて、マルタを見た。
ルシアンは、手にある紙へ視線を落とした。
「何か、困ったことがあった?」
「配送の書類に、私の署名がございまして。ですが、書いた覚えがなく、今、確かめていただいております」
マルタが、今朝から確認のために仕事を一時的に分けていると補った。仕事を外す処分が決まったわけではない。ルシアンはリナへ向き直り、誰かが勝手に名前を書いたのかと尋ねた。
「それも、まだ……私が忘れているだけなのではないかと」
「覚えていないことまで、君が引き受けるのは早いだろう。俺は、君を疑っていないよ」
リナが顔を上げた。ルシアンはその目を見てから、少しだけ声を和らげた。
「見ていない紙を、見たように話す必要はないさ。わからないところは、兄上たちに確かめてもらえばいい」
「ですが、私の名前がある以上、皆様のお手間を……」
「君の名前だろう? なら、なおさら、勝手な話にさせたくないね」
リナは控えを抱え直した。すぐに安心した顔にはならなかったが、握り込んでいた端へ、ようやく手を添える持ち方に戻る。ルシアンはその小さな変化を見て、マルタへ尋ねた。
「仕事を引き継いだあと、君はリナと一緒にいられるかな」
「ええ。今、必要な控えを揃えているところでございます。お話を伺う時刻も、主任から知らせていただきます」
「では、俺はヴィク兄上に聞いてこよう。こちらで誰かが困るような扱いになっていないことも、確かめておきたいからね」
リナが礼を言おうとしたところで、管理室から人が顔を出した。引き継ぎの紙の続きを確かめたいらしい。彼女は反射的に身を寄せたが、今度はマルタが、どの記載かを先に尋ねる。
声をかけてきた者は、まだ入っていない分を予定数へ足してよいか迷っていた。リナは紙を広げ、届いた分とは別に記した行を示した。
「こちらは、まだ受け取りを確認しておりません。今ある分は、この下で分けてあります」
「ありがとう。それなら、主任にもそう伝えます」
相手が戻ると、ルシアンは、彼女が示した欄をもう一度見た。
「その話なら、俺も前に聞いたね。今日も、混ぜずに残してくれていたのか」
「はい。それは、受け取った時に確かめる分ですので」
「では、そこは君が知っていることだ。ほかの話に合わせて、変えてしまわなくていいよ」
マルタは、次に来る人が通れるよう、廊下の脇を示した。ルシアンも道を空ける。自分がここで立ったまま何度も尋ねれば、リナがまた説明を繰り返すことになるのは、わかった。
「あとで、また話を聞かせてくれるかな」
今度の返事は、先ほどより早かった。ルシアンは二人と別れ、執務棟へ歩き出す。いつもと同じ廊下なのに、振り返った先でリナの立つ場所が、今日は少し狭く見えた。
◇
「リナの名前を使って、誰がこんな真似をしたのかな」
部屋へ入って事情を聞くと、ルシアンは、机に置かれた書類を見たまま言った。怒鳴るほど声を大きくする必要はなかった。自分の家の者の名前で、本人が知らない話が進んでいる。それだけでも、愉快ではない。
ヴィクトルは弟の向かいへ紙を寄せた。
「誰が作ったのかは、まだ確かめている。商会は、公爵家側へ連絡して進めた変更だと説明してきた」
「彼女は、そんな紙を見た覚えがないと言っていたよ」
「うん。今朝、私も聞いた」
「それで、仕事の方は?」
「確認の間も納入はあるから、受け取りをほかの者へ振り分けている。彼女に罰を与えたわけではない。マルセルにも、事情を聞くことと処分を混ぜないよう伝えてあるよ」
ルシアンは椅子へ座った。書類には、変わった届け先と、元の便の品が記されている。署名のある欄を読むと、彼女が管理室で示してくれたものと同じ、受付の確認だった。
「ここに書くだけでは、行先を決められない。前に、リナから聞いたよ。それを使って、こちらが決めたことにしたいわけか」
「少なくとも、了承を得ていたという説明に、この署名を添えている。その説明が、こちらの記録と合わない」
「俺は、彼女を疑っていないと伝えた。名前の方に合わせて、知らないことまで思い出そうとしていたからね」
「それは、言ってくれてよかった」
兄の返事は、すぐに来た。ルシアンが顔を上げると、ヴィクトルは、商会の説明がついた紙を脇へ分けている。
「彼女が、わざと記録を曲げていたとは、私も考えていない。ただ、信じていると伝えるだけでは、この紙を出した相手から、何があったかを聞ききれない」
「間違いだった、と言い直させるところまでかな」
「それに、どこで違うものが作られたかも。ここの名を別の名に直して終われば、荷の方は届かないままになる」
ルシアンは、書類の上側へ目を戻した。保存食も毛布も、待っている人がいる。リナの名前を消しても、その人たちが受け取れるようにはならなかった。
だからといって、彼女を待たせたままにしてよいとは思えない。
「荷を待つ方にも、名前を使われた方にも、同じように待てと言うだけでは、面白くないね」
「そうだね。だから、どちらも進めている。今日の聞き取りは、彼女を追い込むためではないよ」
ヴィクトルは、まだ別の仕事が残っていた机から、一枚の控えを抜いた。聞く項目が、短く並んでいる。いつ、どの書類を受け取り、誰へ渡したか。記憶にないものまで、辻褄を合わせて埋めるための欄はなかった。
「あとで、勤務の記録も合わせる。覚えていないところは、そう答えてもらう。誰かの欲しい返事を探す必要はない」
「では、そのことも、俺から伝えておこうかな。さっきは、俺にまで手間をかけたと気にしていたよ」
兄は少し眉を寄せた。それは弟を咎める顔ではなかった。
「リナは、たぶん、今朝予定していた仕事が残ることも心配している。そちらは主任が引き受けていると、もう一度伝えておくよ」
「では、俺も聞いてみよう。自分の仕事のことなら、リナの方から話したいこともありそうだ」
ルシアンは、廊下で控えを抱えていた彼女を思い出し、背を椅子へ戻した。兄は頷き、机の上を空ける。
「先方から来た順も、確かめているところだ。書いたものと、書いたとされている時刻が合うかを見たい」
「俺が持って帰った工房の控えも、役に立ちそう?」
「あちらの照会は別に進めている。今は車を動かした記録待ちだね。同じ商会の話だからといって、この署名へすぐに結びつけるつもりはない」
ルシアンは了承し、目の前の書類へ触れかけた手を止めた。消したいのは、ここにある名前そのものではない。本人がそうしたという、相手の説明だった。
「俺の言葉だけで、その説明を通させたくはないと言うことはできるよ。でも、リナが後から同じ話を聞かれても、困らずに答えられる方がいいわけだね」
「そう。あの子が覚えていることと、残したものを、こちらもきちんと確かめたい」
廊下から、午後の予定を尋ねる声がした。ヴィクトルは照合の時刻を答え、弟へ、今はこの写しを読んでいてよいと告げる。
「俺が持って走り出すと思っているのかな」
「持っていくなら、どこへ置くかを先に教えてくれればいいよ」
ルシアンはわずかに笑った。机の脇の空いている場所へ紙を置き直し、まず、本人が何を確かめたとされているのかを読み始めた。
◇
昼食のあと、管理室の机には、出どころの違う記録が並んだ。
公爵家の受付簿、当日の勤務割、端末から出した入力の履歴。それとは別に、レダン商会が今回提出した変更書類と、以前に送ってきた連絡の控えがある。マルセルは、同じ便に関係するというだけで、それらを一束にはしなかった。
リナは、自分が朝にいた場所から話し始めた。
「こちらの便を受けるため、搬入口へ行っております。そのあと、納品書を持って戻り、入力をいたしました」
勤務割と、ほかの荷を受けた記録が、その仕事に対応していた。マルセルも一緒に確かめたものだった。だが、それで午前中ずっと机にいなかったことになるわけではない。
「その間に、ほかの紙を受け取った覚えは?」
「小さな確認は幾つかございました。ですが、この変更については、覚えがありません」
ヴィクトルが、その答えを記録してもらう。勤務の場所が違うから無関係だと決めることも、ほかの紙を受けたから、これも受けただろうとすることもしなかった。
次に開いたのは、未着分の問い合わせを記した頁だった。リナの字で、連絡を待っている旨が残されている。行先を変える話ではなく、残りの便がいつ到着するかについて尋ねた記録だった。
「この返答は、ここまででよろしいか」
テオドールが、商会から聞いた説明の終わりを示した。
「はい。そのあと、見通しが決まったら知らせていただくことになりました」
「届け先を変えるという話は、あったかな」
「ございません。もし、そのようなお話でしたら、私だけではお返事できませんので、主任へお伝えします」
マルセルは、自分が照合した紙と、テオドールへ送った記録を出した。別件は、受付から先へ進んだ順が追える。問題の変更だけは、その間をつなぐものが見つからなかった。
リナの署名が本物だったとしても、そのあとの正式な変更を示す原本はない。だが、署名そのものを誰が書いたかについては、さらに見なければならない。
マルセルが、商会側の送付記録を画面へ出した。
「こちらの変更書類は、先方の控えでは、午後に初めて送った扱いになっています。しかし、提出された紙の受付時刻は、その日の午前中です」
ヴィクトルは二つを並べ、同じ内容の書類かを確かめた。便と数量、変更先の記載は一致している。先に電話で済ませていたのか、別の紙があったのか、あるいは、送付の記録を後から付けたのか。それは商会へ尋ねる必要があった。
「今の説明では、送るより前に、リナがこれを確認していたことになるね」
「こちらで受け取った記録とも、合いません」
マルセルは、公爵家側に残る当日の受領と入力の履歴を示した。商会から来た別の連絡は残っているのに、この内容を受け、確認して送り返した流れが、そこにはなかった。
「転記した時刻の間違いでは、ございませんか」
リナが尋ねた。自分の覚えが正しいと言うために、わからないところを放っておきたくはなかった。
「それも、尋ねよう」
ヴィクトルは答え、確認する項目へ足してもらった。
「ただ、時刻を直せば、こちらに正式な変更の原本が出てくるわけではない。どの紙を、どう渡したかまで、説明してもらう必要がある」
テオドールも、手元の綴りを一度だけ開き、正規の受付、照合、承認が揃う別件を示した。制度の名を持ち出して叱る必要はない。日々進めている仕事と、今回の紙が、どこで離れたかを見ればよかった。
最後に、リナが以前に署名した原本を、問題の紙の横へ置いた。
名前の形は、よく似ていた。同じ名が並ぶのを見て、リナはまた、自分が忘れてしまったのではないかと思いかける。けれど、机の上には、その心配だけでは説明できない違いが、すでに幾つも残っていた。
「字だけを見れば、私には、似ているとしか申し上げられません」
「うん。これだけで書いた人を決めるつもりはないよ」
ヴィクトルは、署名の書き方の感想と、時刻や記録の違いを分けて残した。似た字を見た者の印象だけで、今日までリナが付けてきた受付簿を、誤りにすることはしなかった。
「商会の説明通りに、彼女がこの紙を受けて返したとは、確認できない。むしろ、本人の確認がないまま名が使われた可能性を、調べるべきだと思う」
テオドールが頷いた。マルセルは、原本の所在と送付の順を、先方へ改めて求める準備を始める。
リナは自分の膝へ置いていた手を開いた。見知らぬ紙に名前があった。それは変わらない。だが、あの一枚に書かれていることより、自分たちの記録の方を無条件に疑う必要はなかった。
「ほかにも、思い出したことがあれば、そのまま知らせてほしい。今ここで全部答えようとしなくていいよ」
ヴィクトルの言葉を受け、彼女は、わかっていることを記した控えを確かめた。受けた便のこと、問い合わせた内容、覚えていない変更のこと。マルセルがまとめた記載は、自分の話した通りだった。
間違いがないと答えてから、リナは席を立った。机に残る書類は、来た時より増えている。彼女の知らないところにあった署名だけが、そこに残る証拠ではなくなっていた。
◇
リナがマルタのいる部屋へ戻ると、窓際に、まだ温かい茶が用意されていた。
外苑へ運ぶ布の確認を終えたところらしく、机の片側には揃えた控えが置かれている。ルシアンはその隣の椅子から立ち、彼女が入る場所を空けた。
「お待たせしてしまいました」
「俺が先に来ていただけだよ。座って話す方が、廊下へ立ち続けるより楽だろう?」
リナは礼を言って座った。マルタが、聞き取りは終わったのかと尋ねる。今わかる範囲の確認は済み、追加で尋ねることがあれば主任から知らせてもらう。そう答えたところで、リナは二人へ頭を下げた。
「本日は、皆様にご迷惑をおかけいたしました」
「やっていないなら、謝る必要はないよ」
ルシアンは、下がったままの顔へ言った。
「見覚えがないことを、ないと答えたのだろう? その返事まで、悪いことにしなくていい」
「ですが、仕事も、ほかの方へお願いすることに……」
「確認している間の分は、主任が引き受けていると聞いたよ。君がここに座るために、仕事を二人分にして返すつもりはないさ」
リナが顔を上げると、マルタも頷いた。今朝の引き継ぎで、足りなかったことがあるかを確かめておく。頼む人が困らないようにする仕事は、そちらでも進めているという。
「それなら、少し伺いたいことがございます」
リナは膝の上で手を揃え、言葉を選んだ。
「私に尋ねてよいものまで、皆さんが迷ってしまうかもしれません。お受けした分の置き場所などは、私からお話ししてもよろしいでしょうか」
「今朝も、そうして答えていたね」
「はい。ですが、あとでまた、違うことを申し上げたと思われましたら」
ルシアンは、彼女が渡した紙を、相手もなかなか持っていかなかったことを思い出した。仕事の手順を変えただけでも、そこへ理由を足す人がいる。本人が何も言わなければ、かえって、聞きづらいままになることもあるのだろう。
「それは、君から主任へ話してみたらいい。確かめ終わっている荷のことまで、知らないふりをする必要はないのだから」
「私からで、よろしいのでしょうか」
「君が困っている話だろう。俺が全部代わりに言ってしまったら、今の続きも聞けなくなるじゃないか」
マルタは、次に主任へ連絡する時、一緒に確認しましょうと添えた。勝手に普段の分担へ戻すのではなく、何を本人が答え、何を主任へ回すかを、相手にもわかるようにしておく。
リナはようやく杯へ手を伸ばしたが、その手前で止まった。
「ルシアン様は、どうして、私を信じてくださるのですか」
「信じてはいけない理由でも、君は知っているのかな」
「そうではございません。ただ、私が毎日何をしているかを、全部ご覧になっているわけではありませんから」
「全部は見ていないよ。今朝のことだって、俺より君や主任の方が知っている。だから、兄上が確かめているのだろう?」
ルシアンは椅子の背へ腕を預け、彼女の方を向いた。
「でも、俺が箱を持っていく前に、行先を確かめてくれたのは覚えている。まだ届いていない分を、来たことにしなかったところもね」
あの日、リナは彼を急がせるのをためらいながら、それでも、通り道が空くまで待ってほしいと伝えた。目の前にある箱を、誰がどこへ持っていくかを見失わないためだった。
「名前のある紙が一枚来たからといって、俺が見てきた君の仕事まで、なかったことにはしないよ」
リナはすぐに返事をしなかった。代わりに、手元の茶を見た。朝から紙の字ばかり追っていた目に、杯から上がる細い湯気が入る。
「ありがとうございます。覚えていることは、私からも、きちんと申し上げます」
「そうしてくれるといい。間違ったと思うところも、わからないところも、先に俺たちの欲しそうな答えを探さずにね」
マルタが、茶菓子の皿を机へ置いた。話すことが残っている間にも、冷めてしまうものはある。食べるよう勧められ、リナが小さな一片を取ると、ルシアンも皿を覗き込んだ。
「こちらは、俺の分もあるのかな」
「ご覧になるより先に、お皿へ手が伸びておりますよ」
ルシアンは指を止め、取る前に聞いたつもりだったのだけれど、と笑った。リナの口元も、わずかに緩む。
茶を飲んでから、彼女は、主任へ尋ねたいことを短く書き留めた。ルシアンが覗くと、渡す紙ではなく、自分が話す時に見返すためのものだと教えてくれた。
「では、それは君が持っていて。俺より、先に確かめるところを知っているのだから」
リナは頷き、控えを自分の前へ置いた。知らない紙に自分の名を見つけた朝から、初めて、自分の方から次に話したいことを選べた。
◇
夜の執務室で、ヴィクトルは、日中に並べた書類をもう一度開いた。
テオドールが、リュネール市へ確認に出ていた調査担当からの報告を持ってきた。電話をつなぐと、相手は、先に商会から提出された帳簿とは別に、支店内で経理の実務記録が保管されていることを伝えた。
「その記録を扱う者が、内容を説明できるとのことです。ただ、今お預かりした写しと、こちらから求めている原本は、まだ一緒には確認できておりません」
「では、説明を聞く場所と、原本を確かめる段取りを整えてほしい。先方の責任者へ、ただ話を戻してもらうだけにはしたくない」
ヴィクトルは紙へ書き留めた。提出されてきた帳簿が、日々の仕事で使うものと同じなのか。金額と取引先、荷を出した先を、別々に照合できるか。声だけで全部の答えを得ようとせず、次に持ち寄るものを決めていく。
テオドールも脇で連絡を聞き、記録を扱う本人へ無理な持ち出しをさせないよう確かめた。話をする者に、足りない証拠を一人で揃えてこいと頼むつもりはなかった。
「原本は、何が保管されているかを確認し、必要な手続きで預かります。話を聞く相手のことも、支店のほかの者へ不用意には広げません」
担当者が答える。ヴィクトルは了承し、商会が提出したものと違う点があっても、説明した者自身の不正と決めないよう伝えた。何を日々記録していたかと、誰が今回の資料をまとめたかは、別に聞く必要がある。
通話を終えると、テオドールが机の変更書類へ目を戻した。
「受付確認の名だけで、正式な変更があったかのように説明されております。私どもの承認したものとは、つながりません」
「こちらの者が確認済みだと言えば、まずは商会の説明を通せると考えたのかもしれないね」
ヴィクトルは、リナの名のある欄へ視線を落とした。書いた人物と、そのように使うと決めた人物が同じかどうかも、まだわからない。だが、少なくとも、誰かが受付の一段階を、実際以上の意味を持つものとして差し出していた。
日付を直し、別の署名へ差し替えれば済む話にはできなかった。
「商会の出荷と入金の記録を合わせたい。中継倉庫の入出庫原本も、先に提出された一覧と比べられるようにしておこう。正規の行先と違う先へ出た荷があるなら、受けた側の記録も必要になる」
テオドールは、すでに求めている資料と、追加で必要になったものを分けた。問い合わせる範囲が広がっても、全商会員へ同じ嫌疑を向けることはしない。何を知っている者に、何を尋ねるかを決める。
「リナについては、今朝の分担変更の説明も、主任から補っております。本人から、答えてよい仕事の範囲を確かめたいと申し出があったそうです」
「そう。分担を変えた理由も、必要な相手へ正確に伝えてほしい。困ったことがあれば知らせてもらって」
「承知いたしました。日々の仕事の記録も、本人の確認を得て残しております」
ヴィクトルは、昼の聞き取りをまとめた紙を取った。リナが覚えていると答えたところも、覚えがないと答えたところも、同じように記されている。署名があるからといって、彼女の言葉の方を無理に変える必要はなかった。
ルシアンは、本人を信じていると言った。明らかに腹を立てていたが、知らない相手を捕まえに出る代わりに、紙の上で何をしたことにされているのかを読んでいた。
そのあと、マルタのところへ寄ったことも聞いている。ヴィクトルは、リナが答えた内容をまとめた控えを、商会への照会資料に添えた。何を確認したという説明と、本人の返事が食い違うのか、相手にも確かめられるようにする。
テオドールが次の照会先を確かめた。
「経理の記録についての説明は、準備が整い次第、直接聞く手配をいたします」
「頼むよ。誰の欄を見れば済むかではなく、実際に動いた荷と金を追おう」
ヴィクトルは、帳簿の提出元を示す紙を、倉庫へ求める資料の横へ置いた。まだ揃っていない原本を受け取る場所を空け、テオドールへ引き渡す。
机の端には、リナが残していた未着分の控えがあった。届いていないものを、届いたとは書いていない。その記載を残したまま、ヴィクトルは次の照会に使う便を選び、必要な資料へ印を付けた。
第7話 了