星野アイに嘘をつかなくていい日を   作:M1tarash1

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01.星野アイ

星野アイは、いつか死ぬ。

 

 それが、俺の知っている未来だった。

 

 前世で読んだ漫画のタイトルは覚えている。登場人物の顔も、物語の大まかな流れも、ところどころ頭に残っていた。

 

 その中でも、星野アイという少女のことは、なぜか忘れられなかった。

 

 紫色の瞳。星のような輝き。誰もが目を奪われる笑顔。

 

 そして、あまりにも早すぎる死。

 

 細かいことは覚えていない。誰が何をしたのか。何がきっかけだったのか。どうすれば彼女を救えるのか。

 

 肝心なことは、何ひとつ分からなかった。

 

 ただ、彼女が本当の意味で幸せになれないまま、物語から退場してしまうことだけは覚えていた。

 

 だから、俺は決めた。

 

 今度こそ、彼女を救おうと。

 

 ……なんて。

 

 格好のいい決意をしたところで、俺にできることなんてほとんどなかった。

 

 生まれ変わった俺は、特別な力を持っていたわけでも、未来を正確に予知できるわけでもない。

 

 前世の知識がある。それだけだ。

 

 しかも、その知識すら穴だらけ。

 

 それでも、何もしないよりはましだと思った。

 

 彼女がまだアイドルになる前なら。

 

 彼女がまだ、あの悲劇にたどり着く前なら。

 

 ほんの少しでも、未来を変えられるかもしれない。

 

 そう考えて、俺は彼女の生まれ育った施設を訪ねた。

 

 もちろん、いきなり「星野アイに会わせてください」なんて言えるはずもない。

 

 事情があって、しばらくこの施設で生活することになった。

 

 それが、俺と星野アイの出会いだった。

 

 *

 

 初めて彼女を見たのは、施設の廊下だった。

 

 窓から差し込む午後の日差し。少し古びた壁紙。誰かが置き忘れたらしい玩具。

 

 そんな何でもない風景の中で、彼女だけが妙に目立っていた。

 

 少女は、廊下の隅にしゃがみ込んでいた。

 

 小さな子どもが目の前で泣いている。

 

 どうやら玩具を壊してしまったらしい。子どもは手の中の部品を握りしめ、しゃくり上げながら何度も謝っていた。

 

「だいじょーぶ、だいじょーぶ!」

 

 少女は笑った。

 

「これくらい、すぐ直るって! お姉ちゃんに任せなさーい!」

 

 明るい声。大げさな身振り。子どもの目線に合わせて、わざとらしいくらい楽しそうに笑っている。

 

 子どもは少しずつ泣きやんだ。

 

「ほんと?」

 

「ほんとほんと! お姉ちゃん、こういうの得意だから!」

 

 少女は胸を張った。

 

 その笑顔を見た瞬間、俺は息を止めた。

 

 紫色の瞳。

 

 瞳の中に浮かぶ、星のような光。

 

 間違いない。

 

 星野アイだ。

 

 画面越しにしか知らなかった少女が、今、俺の目の前にいる。

 

 動いている。

 

 笑っている。

 

 生きている。

 

 当たり前のことなのに、胸の奥が妙に苦しくなった。

 

 俺は、彼女の未来を知っている。

 

 けれど、彼女はそんなことを知らない。

 

 目の前で笑っている少女は、まさか自分の未来を誰かが案じているなんて、想像すらしていないだろう。

 

 俺が黙って見つめていると、彼女がこちらを向いた。

 

 目が合う。

 

 ほんの一瞬。

 

 それから、彼女はにこっと笑った。

 

「ん? なに?」

 

 見つかった。

 

 俺が慌てて視線をそらすと、彼女は小さく首を傾げた。

 

「もしかして、私に見とれちゃった?」

 

「……は?」

 

「えへへ、冗談!」

 

 彼女は楽しそうに笑った。

 

 その笑顔は、あまりにも自然だった。

 

 自然すぎて、かえって怖かった。

 

 俺は知っている。

 

 星野アイは、嘘をつくのが上手な少女だ。

 

 誰かに好かれるために笑うことも、相手が喜ぶ言葉を選ぶことも、自分の本当の気持ちを隠すことも。

 

 彼女はきっと、俺が思っている以上に、それらを上手にやってのける。

 

 だからこそ、気になった。

 

 彼女は今、何を考えているんだろう。

 

 何を感じているんだろう。

 

 あの笑顔の裏側には、どんな気持ちが隠れているんだろう。

 

「ねえ」

 

 考え込んでいると、彼女が近づいてきた。

 

「君、今日来た子?」

 

「ああ。黒瀬透」

 

「透くんね。私はアイ!」

 

 知っている。

 

 喉まで出かかった言葉を、なんとか飲み込んだ。

 

「よろしく」

 

「うん、よろしく!」

 

 彼女は俺の顔をじっと見た。

 

 視線が、少しだけ落ち着かない。

 

「……なに?」

 

「いや。なんでもない」

 

「ふーん?」

 

 アイは疑わしそうに目を細めた。

 

 そして、突然にっこり笑う。

 

「じゃあさ、透くん。ひとつお願いしていい?」

 

「お願い?」

 

「うん!」

 

 彼女は、廊下の向こうを指さした。

 

「そこのお部屋に、私の荷物があるんだけど。ちょっと持ってくれる?」

 

「それくらいなら」

 

「やったー! ありがと!」

 

 ぱっと顔を輝かせた彼女は、俺の手を取るでもなく、先に歩き始めた。

 

 その背中を追いながら、俺は思った。

 

 なんてことのない会話。

 

 なんてことのないお願い。

 

 それなのに、俺はこの瞬間を、きっと忘れない。

 

 画面の向こう側にいた少女と、初めて言葉を交わした日。

 

 俺の知っている物語が、少しずつ形を変え始めた日。

 

 *

 

 夕食の時間が近づくと、施設の中はにぎやかになった。

 

 子どもたちが食堂に集まり、職員が料理を運ぶ。誰かが笑い、誰かがふざけ、誰かが叱られている。

 

 アイはその中心にいた。

 

「はいはい、順番ねー! 押さない押さない!」

 

 小さな子どもが皿を落としそうになると、すぐに手を伸ばす。

 

 誰かが泣き始めれば、隣に座って話を聞く。

 

 自分の食事が冷めても、誰かの面倒を見ることを優先していた。

 

 それは、優しさなのだろう。

 

 少なくとも、周りからはそう見える。

 

「アイちゃんって、ほんと面倒見いいよね」

 

 職員の女性がそう言うと、アイは得意げに笑った。

 

「でしょー? 私、将来いいお母さんになると思うんだよね!」

 

「はいはい」

 

「えー、信じてない!」

 

 周囲から笑い声が上がった。

 

 俺もつられて笑いそうになった。

 

 けれど、そのとき気づいた。

 

 アイは、自分の皿にほとんど手をつけていなかった。

 

 他の子どもの食事を手伝っているうちに、時間が過ぎてしまったらしい。

 

「アイ」

 

 俺が呼ぶと、彼女はこちらを向いた。

 

「ん?」

 

「冷めるぞ、それ」

 

「あっ」

 

 彼女は自分の皿を見て、それからへらっと笑った。

 

「ほんとだ! やっちゃったー」

 

「お前、ずっと他の子の世話してただろ」

 

「え? そうだっけ?」

 

 とぼけるのが、あまりにも上手だった。

 

 俺は自分の隣の席を指さした。

 

「こっち来れば?」

 

「なんで?」

 

「……なんでって。食べるんだろ」

 

 アイは少しだけ目を丸くした。

 

 それから、いつもの笑顔を浮かべる。

 

「透くんって、意外と優しいんだね!」

 

「普通だろ」

 

「えー? そうかなあ?」

 

 彼女は俺の隣に座った。

 

 それから、食事を始める。

 

 ほんの数分。

 

 ただ隣で食べただけ。

 

 それだけなのに、俺は少し安心していた。

 

 この子は、ちゃんと食事をする。

 

 笑うし、話すし、冗談も言う。

 

 俺の知っている悲劇だけが、彼女のすべてではない。

 

 そんな当たり前のことを、確かめたかったのかもしれない。

 

「ねえ、透くん」

 

 食事を終えたアイが、ふいに口を開いた。

 

「さっきから、私のことよく見てるよね」

 

 心臓が跳ねた。

 

「……そうか?」

 

「うん。すっごく」

 

 彼女は頬杖をついた。

 

 その瞳が、まっすぐ俺を見つめる。

 

「私のこと、前から知ってた?」

 

 息が詰まった。

 

 もちろん、知っている。

 

 誰よりも知っているつもりだった。

 

 でも、それは彼女自身を知っているという意味じゃない。

 

 俺が知っているのは、物語の中の星野アイだ。

 

 笑顔の裏に何を隠しているのか。

 

 何を望み、何を恐れているのか。

 

 そんなことは、何ひとつ知らない。

 

「……いや」

 

 俺は答えた。

 

「今日、初めて会った」

 

「そっか!」

 

 アイはあっさりとうなずいた。

 

 疑っているのか、信じたのか。

 

 表情からは読み取れなかった。

 

「じゃあさ」

 

 彼女は、少しだけ声を落とした。

 

「これから、いっぱいお話ししようよ!」

 

「……え?」

 

「だって、せっかく会ったんだもん。仲良くなれたら楽しいじゃん?」

 

 彼女は笑った。

 

 いつもと同じ、明るい笑顔。

 

 だけど、俺にはなぜか、その言葉が少しだけ寂しく聞こえた。

 

 仲良くなれたら。

 

 楽しいじゃん。

 

 それは、本当に彼女が望んでいることなのだろうか。

 

 それとも、相手が喜びそうな言葉を選んだだけなのだろうか。

 

 分からない。

 

 分からないから、知りたいと思った。

 

「……ああ。そうだな」

 

 俺が答えると、アイは満足そうに笑った。

 

「約束ね!」

 

 小指を差し出される。

 

 俺は少し迷ってから、その小指に自分の指を絡めた。

 

 小さな約束だった。

 

 明日になれば忘れてしまうかもしれないくらい、ささやかな約束。

 

 それでも俺は、心の中で誓った。

 

 絶対に、彼女を死なせない。

 

 未来のすべてを覚えているわけじゃない。

 

 彼女がどんな道を歩むのかも、何が彼女を傷つけるのかも、正確には分からない。

 

 それでも。

 

 俺は、彼女が生きている未来を見たい。

 

 アイが笑っている未来を。

 

 誰かのためだけじゃなく、自分自身のためにも笑える未来を。

 

 そのためなら、俺は何度だって考える。

 

 何度だって間違える。

 

 そして、間違えたなら、何度だってやり直す。

 

 たとえ彼女に嫌われたとしても。

 

 たとえ俺の知っている物語が、跡形もなく変わってしまったとしても。

 

 星野アイに、嘘をつかなくていい日を。

 

 いつか、そんな日が来ることを願って。

 

 俺は、彼女の小指を握り返した。

 

 ――このときの俺は、まだ知らなかった。

 

 星野アイを救うということが、彼女の命を守るだけでは済まないのだと。

 

 そして。

 

 俺自身もまた、彼女によって救われることになるのだと。

 




原作からかけ離れている部分が多いです
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