星野アイは、いつか死ぬ。
それが、俺の知っている未来だった。
前世で読んだ漫画のタイトルは覚えている。登場人物の顔も、物語の大まかな流れも、ところどころ頭に残っていた。
その中でも、星野アイという少女のことは、なぜか忘れられなかった。
紫色の瞳。星のような輝き。誰もが目を奪われる笑顔。
そして、あまりにも早すぎる死。
細かいことは覚えていない。誰が何をしたのか。何がきっかけだったのか。どうすれば彼女を救えるのか。
肝心なことは、何ひとつ分からなかった。
ただ、彼女が本当の意味で幸せになれないまま、物語から退場してしまうことだけは覚えていた。
だから、俺は決めた。
今度こそ、彼女を救おうと。
……なんて。
格好のいい決意をしたところで、俺にできることなんてほとんどなかった。
生まれ変わった俺は、特別な力を持っていたわけでも、未来を正確に予知できるわけでもない。
前世の知識がある。それだけだ。
しかも、その知識すら穴だらけ。
それでも、何もしないよりはましだと思った。
彼女がまだアイドルになる前なら。
彼女がまだ、あの悲劇にたどり着く前なら。
ほんの少しでも、未来を変えられるかもしれない。
そう考えて、俺は彼女の生まれ育った施設を訪ねた。
もちろん、いきなり「星野アイに会わせてください」なんて言えるはずもない。
事情があって、しばらくこの施設で生活することになった。
それが、俺と星野アイの出会いだった。
*
初めて彼女を見たのは、施設の廊下だった。
窓から差し込む午後の日差し。少し古びた壁紙。誰かが置き忘れたらしい玩具。
そんな何でもない風景の中で、彼女だけが妙に目立っていた。
少女は、廊下の隅にしゃがみ込んでいた。
小さな子どもが目の前で泣いている。
どうやら玩具を壊してしまったらしい。子どもは手の中の部品を握りしめ、しゃくり上げながら何度も謝っていた。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ!」
少女は笑った。
「これくらい、すぐ直るって! お姉ちゃんに任せなさーい!」
明るい声。大げさな身振り。子どもの目線に合わせて、わざとらしいくらい楽しそうに笑っている。
子どもは少しずつ泣きやんだ。
「ほんと?」
「ほんとほんと! お姉ちゃん、こういうの得意だから!」
少女は胸を張った。
その笑顔を見た瞬間、俺は息を止めた。
紫色の瞳。
瞳の中に浮かぶ、星のような光。
間違いない。
星野アイだ。
画面越しにしか知らなかった少女が、今、俺の目の前にいる。
動いている。
笑っている。
生きている。
当たり前のことなのに、胸の奥が妙に苦しくなった。
俺は、彼女の未来を知っている。
けれど、彼女はそんなことを知らない。
目の前で笑っている少女は、まさか自分の未来を誰かが案じているなんて、想像すらしていないだろう。
俺が黙って見つめていると、彼女がこちらを向いた。
目が合う。
ほんの一瞬。
それから、彼女はにこっと笑った。
「ん? なに?」
見つかった。
俺が慌てて視線をそらすと、彼女は小さく首を傾げた。
「もしかして、私に見とれちゃった?」
「……は?」
「えへへ、冗談!」
彼女は楽しそうに笑った。
その笑顔は、あまりにも自然だった。
自然すぎて、かえって怖かった。
俺は知っている。
星野アイは、嘘をつくのが上手な少女だ。
誰かに好かれるために笑うことも、相手が喜ぶ言葉を選ぶことも、自分の本当の気持ちを隠すことも。
彼女はきっと、俺が思っている以上に、それらを上手にやってのける。
だからこそ、気になった。
彼女は今、何を考えているんだろう。
何を感じているんだろう。
あの笑顔の裏側には、どんな気持ちが隠れているんだろう。
「ねえ」
考え込んでいると、彼女が近づいてきた。
「君、今日来た子?」
「ああ。黒瀬透」
「透くんね。私はアイ!」
知っている。
喉まで出かかった言葉を、なんとか飲み込んだ。
「よろしく」
「うん、よろしく!」
彼女は俺の顔をじっと見た。
視線が、少しだけ落ち着かない。
「……なに?」
「いや。なんでもない」
「ふーん?」
アイは疑わしそうに目を細めた。
そして、突然にっこり笑う。
「じゃあさ、透くん。ひとつお願いしていい?」
「お願い?」
「うん!」
彼女は、廊下の向こうを指さした。
「そこのお部屋に、私の荷物があるんだけど。ちょっと持ってくれる?」
「それくらいなら」
「やったー! ありがと!」
ぱっと顔を輝かせた彼女は、俺の手を取るでもなく、先に歩き始めた。
その背中を追いながら、俺は思った。
なんてことのない会話。
なんてことのないお願い。
それなのに、俺はこの瞬間を、きっと忘れない。
画面の向こう側にいた少女と、初めて言葉を交わした日。
俺の知っている物語が、少しずつ形を変え始めた日。
*
夕食の時間が近づくと、施設の中はにぎやかになった。
子どもたちが食堂に集まり、職員が料理を運ぶ。誰かが笑い、誰かがふざけ、誰かが叱られている。
アイはその中心にいた。
「はいはい、順番ねー! 押さない押さない!」
小さな子どもが皿を落としそうになると、すぐに手を伸ばす。
誰かが泣き始めれば、隣に座って話を聞く。
自分の食事が冷めても、誰かの面倒を見ることを優先していた。
それは、優しさなのだろう。
少なくとも、周りからはそう見える。
「アイちゃんって、ほんと面倒見いいよね」
職員の女性がそう言うと、アイは得意げに笑った。
「でしょー? 私、将来いいお母さんになると思うんだよね!」
「はいはい」
「えー、信じてない!」
周囲から笑い声が上がった。
俺もつられて笑いそうになった。
けれど、そのとき気づいた。
アイは、自分の皿にほとんど手をつけていなかった。
他の子どもの食事を手伝っているうちに、時間が過ぎてしまったらしい。
「アイ」
俺が呼ぶと、彼女はこちらを向いた。
「ん?」
「冷めるぞ、それ」
「あっ」
彼女は自分の皿を見て、それからへらっと笑った。
「ほんとだ! やっちゃったー」
「お前、ずっと他の子の世話してただろ」
「え? そうだっけ?」
とぼけるのが、あまりにも上手だった。
俺は自分の隣の席を指さした。
「こっち来れば?」
「なんで?」
「……なんでって。食べるんだろ」
アイは少しだけ目を丸くした。
それから、いつもの笑顔を浮かべる。
「透くんって、意外と優しいんだね!」
「普通だろ」
「えー? そうかなあ?」
彼女は俺の隣に座った。
それから、食事を始める。
ほんの数分。
ただ隣で食べただけ。
それだけなのに、俺は少し安心していた。
この子は、ちゃんと食事をする。
笑うし、話すし、冗談も言う。
俺の知っている悲劇だけが、彼女のすべてではない。
そんな当たり前のことを、確かめたかったのかもしれない。
「ねえ、透くん」
食事を終えたアイが、ふいに口を開いた。
「さっきから、私のことよく見てるよね」
心臓が跳ねた。
「……そうか?」
「うん。すっごく」
彼女は頬杖をついた。
その瞳が、まっすぐ俺を見つめる。
「私のこと、前から知ってた?」
息が詰まった。
もちろん、知っている。
誰よりも知っているつもりだった。
でも、それは彼女自身を知っているという意味じゃない。
俺が知っているのは、物語の中の星野アイだ。
笑顔の裏に何を隠しているのか。
何を望み、何を恐れているのか。
そんなことは、何ひとつ知らない。
「……いや」
俺は答えた。
「今日、初めて会った」
「そっか!」
アイはあっさりとうなずいた。
疑っているのか、信じたのか。
表情からは読み取れなかった。
「じゃあさ」
彼女は、少しだけ声を落とした。
「これから、いっぱいお話ししようよ!」
「……え?」
「だって、せっかく会ったんだもん。仲良くなれたら楽しいじゃん?」
彼女は笑った。
いつもと同じ、明るい笑顔。
だけど、俺にはなぜか、その言葉が少しだけ寂しく聞こえた。
仲良くなれたら。
楽しいじゃん。
それは、本当に彼女が望んでいることなのだろうか。
それとも、相手が喜びそうな言葉を選んだだけなのだろうか。
分からない。
分からないから、知りたいと思った。
「……ああ。そうだな」
俺が答えると、アイは満足そうに笑った。
「約束ね!」
小指を差し出される。
俺は少し迷ってから、その小指に自分の指を絡めた。
小さな約束だった。
明日になれば忘れてしまうかもしれないくらい、ささやかな約束。
それでも俺は、心の中で誓った。
絶対に、彼女を死なせない。
未来のすべてを覚えているわけじゃない。
彼女がどんな道を歩むのかも、何が彼女を傷つけるのかも、正確には分からない。
それでも。
俺は、彼女が生きている未来を見たい。
アイが笑っている未来を。
誰かのためだけじゃなく、自分自身のためにも笑える未来を。
そのためなら、俺は何度だって考える。
何度だって間違える。
そして、間違えたなら、何度だってやり直す。
たとえ彼女に嫌われたとしても。
たとえ俺の知っている物語が、跡形もなく変わってしまったとしても。
星野アイに、嘘をつかなくていい日を。
いつか、そんな日が来ることを願って。
俺は、彼女の小指を握り返した。
――このときの俺は、まだ知らなかった。
星野アイを救うということが、彼女の命を守るだけでは済まないのだと。
そして。
俺自身もまた、彼女によって救われることになるのだと。
原作からかけ離れている部分が多いです