翌朝、星野アイはいつも通り笑っていた。
「透くん、おはよー!」
「……おはよ。朝から元気だな」
「えー? アイドルを目指す女の子は、朝から元気じゃないとダメなんだよ?」
「そんな決まりあったっけ」
「今できた!」
アイは得意げに胸を張った。
その姿は、いつもと何も変わらない。
明るくて、ちょっと調子がよくて、こっちが呆れるくらい前向きで。
昨日の電話のあと、何かあったようには見えなかった。
――いや。
見せていないだけなのかもしれない。
「……アイ」
「ん?」
「昨日の電話、何の話だったんだ?」
アイの手が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
けれど、俺は見逃さなかった。
「んー? お仕事の話!」
「それは分かってる。どんな話?」
「えー、透くんってば気になるの?」
「気になるだろ。あんな顔してたんだから」
「どんな顔?」
「……困ったような顔」
アイはぱちぱちと瞬きをした。
それから、いつもの笑顔を浮かべる。
「気のせいだよ!」
そう言って、俺の肩を軽く叩いた。
「ほらほら、朝ごはん食べよ! 遅れちゃう!」
逃げられた。
いや、正確には、逃げられたというより――これ以上踏み込ませてもらえなかった。
俺はアイの背中を見つめた。
昨日、彼女は言った。
最近、誰を信じればいいのか分からない、と。
仕事は楽しい。夢に近づいているのも嬉しい。けれど、自分を見ている人たちが、本当に自分自身を見てくれているのか分からない。
そんな話をしてくれた。
だからこそ、今の俺は無理に聞き出したくなかった。
ここでしつこく問い詰めれば、アイはきっと、俺にも本音を話さなくなる。
でも。
何も聞かずに見過ごすことが、彼女のためになるとも思えなかった。
「……難しいな」
「透くん、何してんのー? 置いてくよー!」
「今行く」
俺は小さく息を吐き、アイのあとを追った。
今はまだ、待つしかない。
そう自分に言い聞かせながら。
*
その日の午後。
アイは施設の職員に呼ばれ、事務室へ向かった。
仕事の予定について、確認したいことがあるらしい。
俺は廊下で、年下の子どもたちと一緒に遊んでいた。
「透お兄ちゃん、見て! 高く積めた!」
「お、すごいじゃん。昨日より高いな」
「もっと高くする!」
「崩れないようにな」
積み木を囲んで騒ぐ子どもたち。
いつもなら、アイもここに混ざっているはずだった。
最近は仕事の準備が増えたせいで、一緒に過ごせる時間が少しずつ減っている。
寂しくないと言えば嘘になる。
それでも、アイが自分の夢に向かって進んでいるのなら、俺は応援したかった。
そう思っていた、そのとき。
事務室の扉が開いた。
「ありがとうございました」
アイの声が聞こえた。
いつもより少しだけ、硬い声だった。
彼女は事務室から出てくると、廊下の途中で立ち止まった。
そして、誰もいないことを確かめるように左右を見たあと、ポケットから携帯電話を取り出した。
画面を見つめる。
何かを確認する。
そして、すぐに画面を消した。
その表情を、俺は遠くから見ていた。
声をかけようとした瞬間、アイがこちらを向いた。
目が合う。
すると彼女は、ぱっと笑顔になった。
「透くーん!」
いつも通りの声。
いつも通りの笑顔。
「なに?」
「今日のおやつ、何だと思う?」
「知らん」
「えー、予想くらいしてよ!」
「じゃあ、プリン」
「ぶっぶー! 正解はクッキーでした!」
「惜しくもなんともないな」
「ふふっ、残念でしたー!」
アイは楽しそうに笑った。
俺も、つられて少し笑った。
けれど、その笑顔の裏にあるものを、俺はまだ知らなかった。
*
その日の夕方。
アイは、職員に頼まれた買い物のため、近くの店へ出かけていた。
帰ってきた彼女は、いつもより少し遅かった。
「ただいまー!」
「おかえり。遅かったな」
「ちょっと混んでたんだよねー」
アイは買い物袋を職員に渡し、靴を脱いだ。
それから俺のそばにやってくる。
「ねえ、透くん」
「ん?」
「もしさ、すっごく大事なチャンスがあったら、どうする?」
唐突な質問だった。
「……大事なチャンス?」
「うん。ずっと夢見てたことが、やっと叶いそうなの。でも、ちょっと怖いこともあるんだよね」
アイは笑っていた。
けれど、俺を見てはいなかった。
視線は床の一点に落ちている。
「透くんなら、どうする?」
俺は少し考えた。
答えは簡単じゃなかった。
安全な道を選べば、夢を諦めることになるかもしれない。
夢を選べば、思いもしなかったものを失うかもしれない。
それでも、俺が彼女に言えることはひとつだった。
「……何が怖いのか、ちゃんと考える」
「うん」
「それで、自分で納得できるなら挑戦する。納得できないなら、誰かに相談する」
「誰かに相談したら、やめろって言われるかもしれないよ?」
「言われるかもしれないな」
「それでも?」
「それでも。相談することと、相手の言う通りにすることは別だろ」
アイが、ゆっくりと顔を上げた。
「……そっか」
「ただ、怖いって気持ちを無視してまで、急いで決める必要はないと思う」
「急いで決めなきゃいけないことだったら?」
「それなら、なおさら一人で決めない」
少し厳しい言い方になった。
アイは何も言わなかった。
俺は、彼女がまた笑顔を作るのを待った。
やがてアイは、小さく笑った。
「透くんって、たまにお兄ちゃんみたいなこと言うよね」
「たまにってなんだよ」
「普段は全然そんな感じしないのに」
「余計なお世話だ」
「あははっ!」
アイは笑った。
今度は、少しだけ自然な笑顔に見えた。
けれど、彼女は結局、何も話してくれなかった。
そして、その夜。
俺が眠りについたあと、アイは自分の部屋で携帯電話を開いた。
画面には、昼間から何度も確認していたメッセージが表示されていた。
『先日の件ですが、明日の午後、予定していた打ち合わせを行います』
『当日は担当者が直接ご案内します』
『まだ正式な発表前の案件なので、周囲には話さず、まずは本人だけでお越しください』
送り主は、彼女の所属先で仕事の話を進めている担当者だった。
その下には、場所と時刻が記されている。
アイは何度も、その文章を読み返していた。
初めて聞いたときは、嬉しかった。
自分に声がかかったことが。
自分のことを、もっと知りたいと言ってくれる人がいたことが。
もしかしたら、これが夢への大きな一歩になるかもしれないと思ったことが。
けれど、あとから届いた説明には、気になることがいくつもあった。
打ち合わせの相手は、いつもの担当者とは別の人物らしい。
まだ正式に決まっていない話だから、施設の職員にも詳しく伝えないでほしい。
当日は一人で来てほしい。
どうしてなのか尋ねたとき、担当者はこう答えた。
『大きな仕事につながる可能性があるから、今は慎重に進めたいんです』
その言葉自体は、不自然ではなかった。
未発表の仕事なら、秘密にする必要もあるのだろう。
アイはそう考えようとした。
けれど、電話の向こうの説明は曖昧で、会う相手の名前も、具体的な仕事の内容も、はっきりとは教えてもらえなかった。
そして最後に、こう言われた。
『せっかくのチャンスですから。ここで逃さないでほしいですね』
その言葉が、ずっと耳に残っていた。
逃したくない。
その気持ちは本当だった。
アイは、アイドルになりたい。
たくさんの人に笑顔を届けたい。
自分のことを知らない人にまで、自分の歌や笑顔を届けられるようになりたい。
そのためなら、努力だってする。
苦手なことにも挑戦する。
今までだって、そうしてきた。
だから、今回の話だって。
少しくらい怖くても、頑張ればいい。
そう思った。
そう思いたかった。
でも。
「……なんで、一人なんだろ」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
アイは携帯電話を握りしめた。
透に相談したら、どうするだろう。
きっと心配する。
きっと、詳しく話を聞こうとする。
もしかしたら、職員にも相談したほうがいいと言うかもしれない。
それが正しいのだろうということは、アイにも分かっていた。
それでも。
もし、相談したせいで話がなくなったら?
もし、自分が面倒な子だと思われたら?
もし、せっかく掴みかけたチャンスを、自分から手放すことになったら?
考えるほど、胸の奥が苦しくなった。
「……大丈夫」
アイは、自分に言い聞かせるように呟いた。
「ちゃんと話を聞くだけだもん」
行って、話を聞く。
それだけなら、きっと大丈夫。
嫌なことがあったら断ればいい。
帰りたくなったら帰ればいい。
そう考えれば、怖くないはずだった。
携帯電話の画面に、返信欄が表示されている。
アイはしばらく指を止めていた。
そして、短い文章を打ち込んだ。
『分かりました。明日、伺います』
送信。
それだけで、もう後戻りできないような気がした。
もちろん、実際にはそんなことはない。
行くかどうかは、明日だって自分で決められる。
そう分かっているのに、アイは携帯電話を閉じると、布団の中に潜り込んだ。
明日になれば、きっと何とかなる。
そう信じたかった。
そして、彼女はひとつだけ決めた。
このことは、透には言わない。
まだ何も起きていないのだから。
心配させる必要なんて、ないのだから。
――そうやってアイは、自分の不安に蓋をした。
*
翌朝。
「透くん、おはよ!」
アイはいつも通り、俺に声をかけた。
「おはよ。今日、仕事だっけ?」
「うん! ちょっと用事があるんだー」
「レッスン?」
「んー、まあ、そんな感じ!」
アイは笑った。
けれど、その答えは少しだけ曖昧だった。
「何時ごろ帰ってくる?」
「夕方くらいかな? そんなに遅くならないと思う!」
「そっか」
俺はそれ以上、何も聞かなかった。
アイが話したくないのなら、無理に聞き出すべきじゃない。
でも、何かあったときには頼ってほしい。
その二つを両立させる方法を、俺はまだ見つけられずにいた。
「……透くん?」
「ん?」
「今日、帰ってきたらさ。ちょっと話したいことがあるかも」
俺は思わず顔を上げた。
「話したいこと?」
「うん。……まだ、分かんないけど」
アイは少し困ったように笑った。
「だから、帰ってきたら聞いてね?」
「……ああ。もちろん」
「約束!」
アイは小指を差し出した。
俺も小指を絡める。
いつもの約束。
けれど、その指先は、いつもより少し冷たかった。
「じゃ、行ってきまーす!」
「気をつけてな」
「はーい!」
アイは手を振って、施設を出ていった。
俺はその背中が見えなくなるまで、玄関に立っていた。
胸の奥に、嫌な予感が残っていた。
それでも俺は、彼女を引き止めなかった。
アイが自分で決めたことなら、まずは信じようと思ったからだ。
ただし。
信じることと、何も知らないままでいることは違う。
もし本当に困っているのなら。
もし誰かに無理をさせられているのなら。
そのときは、ちゃんと手を伸ばせるようにしておきたい。
俺はそう考えながら、部屋に戻った。
*
午後二時。
アイは、指定された建物の前に立っていた。
駅から少し離れた場所にある、雑居ビル。
表にはいくつか会社の名前が並んでいたが、携帯電話に送られてきた案内には、詳しい説明がなかった。
アイは入口を見上げた。
「……ここ、だよね」
もう一度、メッセージを確認する。
住所は合っている。
時間も合っている。
アイは深呼吸をした。
大丈夫。
ただの打ち合わせだ。
これからアイドルとして活動するために、必要なことなのかもしれない。
そう考えて、建物の中へ入った。
エレベーターを降りると、廊下の奥に一人の男性が立っていた。
「星野アイさん?」
「……はい」
「お待ちしていました。今日は来てくれてありがとう」
男性は、にこやかに笑った。
年齢は、三十代くらいだろうか。
アイは軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。今日は難しい話をするわけじゃありませんから」
そう言われても、緊張が消えるわけではなかった。
男性は廊下の奥を指した。
「こちらへ。少しお話ししましょう」
アイは一歩を踏み出した。
その瞬間、携帯電話が震えた。
画面を見る。
透からのメッセージだった。
『今日、帰り遅くなりそうなら教えて。心配だから』
短い文章。
いつもの透らしい、不器用な気遣い。
アイは画面を見つめた。
今なら、まだ返信できる。
今なら、まだ誰かに相談できる。
それでも彼女は、携帯電話を閉じた。
「……大丈夫」
小さく呟く。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
そしてアイは、男性のあとを追った。
その日、彼女がどんな話を聞いたのか。
何を求められ、何に戸惑ったのか。
そのすべてを、透はまだ知らない。
ただひとつ確かなことがある。
アイは初めて、透に隠し事をした。
夢を守るために。
自分で選んだ道を、途中で諦めないために。
そして何より――誰かに心配をかけずに、自分ひとりで何とかするために。
それが本当に、夢を守ることにつながるのか。
今の彼女には、まだ分からなかった。
*
夕方。
俺は何度も時計を見ていた。
アイが言っていた帰宅時間は、もう過ぎている。
連絡はない。
携帯電話にメッセージを送っても、返事はなかった。
もちろん、仕事中なら返信できないこともある。
打ち合わせが長引くことだってあるだろう。
それでも、昨日までの様子を思い出すと、どうしても落ち着かなかった。
俺は携帯電話を握りしめた。
そして、もう一度メッセージを送ろうとしたところで、手を止めた。
何度も連絡したら、かえって困らせるかもしれない。
けれど、何もしないままでいるのも違う。
「……くそ」
俺は立ち上がった。
まずは施設の職員に、今日の予定について確認しよう。
アイがどこへ行ったのか、誰と会う予定だったのか。
俺ひとりで判断する前に、知っている大人に相談するべきだ。
そう考えた、そのとき。
玄関の扉が開いた。
「……ただいま」
アイの声だった。
俺は振り返った。
「アイ!」
「わっ、びっくりした。どうしたの?」
彼女は笑っていた。
でも、その笑顔は、朝よりもずっとぎこちなかった。
「遅かったから、心配した」
「ごめんね。ちょっと長引いちゃって」
「……何の仕事だったんだ?」
アイの表情が止まった。
ほんの一瞬。
それから彼女は、いつものように笑った。
「打ち合わせだよ!」
「誰と?」
「……お仕事の人」
「アイ」
俺は、できるだけ落ち着いた声で呼んだ。
「何かあった?」
アイは俺を見た。
その目には、何かを伝えようとする気配があった。
今にも口を開きそうだった。
けれど。
「……何もないよ」
彼女はそう言った。
そして、笑った。
「大丈夫!」
いつもの言葉。
いつもの笑顔。
でも、今度だけは。
俺には、それが本当だとは思えなかった。
アイは俺の横を通り過ぎ、部屋へ向かっていった。
呼び止めることはできなかった。
その背中を見つめながら、俺は思った。
アイは、何かを隠している。
俺に心配をかけたくないからなのか。
夢を諦めたくないからなのか。
それとも、俺には話せない理由があるのか。
まだ分からない。
だけど、もう、ただ待っているだけではいけない気がした。
彼女の夢を守ることと、彼女の選択を尊重すること。
その二つを、俺はずっと考えてきた。
けれど、もしアイが、自分を守るための選択さえできないほど追い詰められていたら。
俺はどうすればいいのだろう。
その答えを、俺はまだ知らなかった。
ただ、ひとつだけ。
あの笑顔の裏側に、彼女が一人で抱え込んでいるものがあるのなら。
いつか、ちゃんと知りたいと思った。
アイが自分から話してくれる、その日まで。
そして、彼女が助けを求めてくれたときには、絶対に見逃さないように。
俺は、静かに拳を握った。
――その夜。
アイの携帯電話には、また一通のメッセージが届いていた。
『本日の件は、まだ誰にも話さないようにお願いします』
アイは画面を見つめた。
そして、返信を打つ。
『分かりました』
送信したあと、彼女は携帯電話を伏せた。
部屋の中は静かだった。
廊下の向こうから、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
その中には、透の声もあった。
いつもと変わらない、穏やかな日常。
アイは目を閉じた。
明日になれば、きっと大丈夫。
そう思わなければ、眠れそうになかった。
――彼女はまだ知らない。
秘密を守ることと、自分を守ることは、同じではないのだと。
そして俺も、まだ知らない。
彼女が守ろうとしている秘密が、やがて俺たちの関係を変えていくことを。