星野アイに嘘をつかなくていい日を   作:M1tarash1

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10.笑顔の裏の秘密

翌朝、星野アイはいつも通り笑っていた。

 

「透くん、おはよー!」

 

「……おはよ。朝から元気だな」

 

「えー? アイドルを目指す女の子は、朝から元気じゃないとダメなんだよ?」

 

「そんな決まりあったっけ」

 

「今できた!」

 

 アイは得意げに胸を張った。

 

 その姿は、いつもと何も変わらない。

 

 明るくて、ちょっと調子がよくて、こっちが呆れるくらい前向きで。

 

 昨日の電話のあと、何かあったようには見えなかった。

 

 ――いや。

 

 見せていないだけなのかもしれない。

 

「……アイ」

 

「ん?」

 

「昨日の電話、何の話だったんだ?」

 

 アイの手が、一瞬だけ止まった。

 

 ほんの一瞬。

 

 けれど、俺は見逃さなかった。

 

「んー? お仕事の話!」

 

「それは分かってる。どんな話?」

 

「えー、透くんってば気になるの?」

 

「気になるだろ。あんな顔してたんだから」

 

「どんな顔?」

 

「……困ったような顔」

 

 アイはぱちぱちと瞬きをした。

 

 それから、いつもの笑顔を浮かべる。

 

「気のせいだよ!」

 

 そう言って、俺の肩を軽く叩いた。

 

「ほらほら、朝ごはん食べよ! 遅れちゃう!」

 

 逃げられた。

 

 いや、正確には、逃げられたというより――これ以上踏み込ませてもらえなかった。

 

 俺はアイの背中を見つめた。

 

 昨日、彼女は言った。

 

 最近、誰を信じればいいのか分からない、と。

 

 仕事は楽しい。夢に近づいているのも嬉しい。けれど、自分を見ている人たちが、本当に自分自身を見てくれているのか分からない。

 

 そんな話をしてくれた。

 

 だからこそ、今の俺は無理に聞き出したくなかった。

 

 ここでしつこく問い詰めれば、アイはきっと、俺にも本音を話さなくなる。

 

 でも。

 

 何も聞かずに見過ごすことが、彼女のためになるとも思えなかった。

 

「……難しいな」

 

「透くん、何してんのー? 置いてくよー!」

 

「今行く」

 

 俺は小さく息を吐き、アイのあとを追った。

 

 今はまだ、待つしかない。

 

 そう自分に言い聞かせながら。

 

     *

 

 その日の午後。

 

 アイは施設の職員に呼ばれ、事務室へ向かった。

 

 仕事の予定について、確認したいことがあるらしい。

 

 俺は廊下で、年下の子どもたちと一緒に遊んでいた。

 

「透お兄ちゃん、見て! 高く積めた!」

 

「お、すごいじゃん。昨日より高いな」

 

「もっと高くする!」

 

「崩れないようにな」

 

 積み木を囲んで騒ぐ子どもたち。

 

 いつもなら、アイもここに混ざっているはずだった。

 

 最近は仕事の準備が増えたせいで、一緒に過ごせる時間が少しずつ減っている。

 

 寂しくないと言えば嘘になる。

 

 それでも、アイが自分の夢に向かって進んでいるのなら、俺は応援したかった。

 

 そう思っていた、そのとき。

 

 事務室の扉が開いた。

 

「ありがとうございました」

 

 アイの声が聞こえた。

 

 いつもより少しだけ、硬い声だった。

 

 彼女は事務室から出てくると、廊下の途中で立ち止まった。

 

 そして、誰もいないことを確かめるように左右を見たあと、ポケットから携帯電話を取り出した。

 

 画面を見つめる。

 

 何かを確認する。

 

 そして、すぐに画面を消した。

 

 その表情を、俺は遠くから見ていた。

 

 声をかけようとした瞬間、アイがこちらを向いた。

 

 目が合う。

 

 すると彼女は、ぱっと笑顔になった。

 

「透くーん!」

 

 いつも通りの声。

 

 いつも通りの笑顔。

 

「なに?」

 

「今日のおやつ、何だと思う?」

 

「知らん」

 

「えー、予想くらいしてよ!」

 

「じゃあ、プリン」

 

「ぶっぶー! 正解はクッキーでした!」

 

「惜しくもなんともないな」

 

「ふふっ、残念でしたー!」

 

 アイは楽しそうに笑った。

 

 俺も、つられて少し笑った。

 

 けれど、その笑顔の裏にあるものを、俺はまだ知らなかった。

 

     *

 

 その日の夕方。

 

 アイは、職員に頼まれた買い物のため、近くの店へ出かけていた。

 

 帰ってきた彼女は、いつもより少し遅かった。

 

「ただいまー!」

 

「おかえり。遅かったな」

 

「ちょっと混んでたんだよねー」

 

 アイは買い物袋を職員に渡し、靴を脱いだ。

 

 それから俺のそばにやってくる。

 

「ねえ、透くん」

 

「ん?」

 

「もしさ、すっごく大事なチャンスがあったら、どうする?」

 

 唐突な質問だった。

 

「……大事なチャンス?」

 

「うん。ずっと夢見てたことが、やっと叶いそうなの。でも、ちょっと怖いこともあるんだよね」

 

 アイは笑っていた。

 

 けれど、俺を見てはいなかった。

 

 視線は床の一点に落ちている。

 

「透くんなら、どうする?」

 

 俺は少し考えた。

 

 答えは簡単じゃなかった。

 

 安全な道を選べば、夢を諦めることになるかもしれない。

 

 夢を選べば、思いもしなかったものを失うかもしれない。

 

 それでも、俺が彼女に言えることはひとつだった。

 

「……何が怖いのか、ちゃんと考える」

 

「うん」

 

「それで、自分で納得できるなら挑戦する。納得できないなら、誰かに相談する」

 

「誰かに相談したら、やめろって言われるかもしれないよ?」

 

「言われるかもしれないな」

 

「それでも?」

 

「それでも。相談することと、相手の言う通りにすることは別だろ」

 

 アイが、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……そっか」

 

「ただ、怖いって気持ちを無視してまで、急いで決める必要はないと思う」

 

「急いで決めなきゃいけないことだったら?」

 

「それなら、なおさら一人で決めない」

 

 少し厳しい言い方になった。

 

 アイは何も言わなかった。

 

 俺は、彼女がまた笑顔を作るのを待った。

 

 やがてアイは、小さく笑った。

 

「透くんって、たまにお兄ちゃんみたいなこと言うよね」

 

「たまにってなんだよ」

 

「普段は全然そんな感じしないのに」

 

「余計なお世話だ」

 

「あははっ!」

 

 アイは笑った。

 

 今度は、少しだけ自然な笑顔に見えた。

 

 けれど、彼女は結局、何も話してくれなかった。

 

 そして、その夜。

 

 俺が眠りについたあと、アイは自分の部屋で携帯電話を開いた。

 

 画面には、昼間から何度も確認していたメッセージが表示されていた。

 

『先日の件ですが、明日の午後、予定していた打ち合わせを行います』

 

『当日は担当者が直接ご案内します』

 

『まだ正式な発表前の案件なので、周囲には話さず、まずは本人だけでお越しください』

 

 送り主は、彼女の所属先で仕事の話を進めている担当者だった。

 

 その下には、場所と時刻が記されている。

 

 アイは何度も、その文章を読み返していた。

 

 初めて聞いたときは、嬉しかった。

 

 自分に声がかかったことが。

 

 自分のことを、もっと知りたいと言ってくれる人がいたことが。

 

 もしかしたら、これが夢への大きな一歩になるかもしれないと思ったことが。

 

 けれど、あとから届いた説明には、気になることがいくつもあった。

 

 打ち合わせの相手は、いつもの担当者とは別の人物らしい。

 

 まだ正式に決まっていない話だから、施設の職員にも詳しく伝えないでほしい。

 

 当日は一人で来てほしい。

 

 どうしてなのか尋ねたとき、担当者はこう答えた。

 

『大きな仕事につながる可能性があるから、今は慎重に進めたいんです』

 

 その言葉自体は、不自然ではなかった。

 

 未発表の仕事なら、秘密にする必要もあるのだろう。

 

 アイはそう考えようとした。

 

 けれど、電話の向こうの説明は曖昧で、会う相手の名前も、具体的な仕事の内容も、はっきりとは教えてもらえなかった。

 

 そして最後に、こう言われた。

 

『せっかくのチャンスですから。ここで逃さないでほしいですね』

 

 その言葉が、ずっと耳に残っていた。

 

 逃したくない。

 

 その気持ちは本当だった。

 

 アイは、アイドルになりたい。

 

 たくさんの人に笑顔を届けたい。

 

 自分のことを知らない人にまで、自分の歌や笑顔を届けられるようになりたい。

 

 そのためなら、努力だってする。

 

 苦手なことにも挑戦する。

 

 今までだって、そうしてきた。

 

 だから、今回の話だって。

 

 少しくらい怖くても、頑張ればいい。

 

 そう思った。

 

 そう思いたかった。

 

 でも。

 

「……なんで、一人なんだろ」

 

 呟いた声は、誰にも届かなかった。

 

 アイは携帯電話を握りしめた。

 

 透に相談したら、どうするだろう。

 

 きっと心配する。

 

 きっと、詳しく話を聞こうとする。

 

 もしかしたら、職員にも相談したほうがいいと言うかもしれない。

 

 それが正しいのだろうということは、アイにも分かっていた。

 

 それでも。

 

 もし、相談したせいで話がなくなったら?

 

 もし、自分が面倒な子だと思われたら?

 

 もし、せっかく掴みかけたチャンスを、自分から手放すことになったら?

 

 考えるほど、胸の奥が苦しくなった。

 

「……大丈夫」

 

 アイは、自分に言い聞かせるように呟いた。

 

「ちゃんと話を聞くだけだもん」

 

 行って、話を聞く。

 

 それだけなら、きっと大丈夫。

 

 嫌なことがあったら断ればいい。

 

 帰りたくなったら帰ればいい。

 

 そう考えれば、怖くないはずだった。

 

 携帯電話の画面に、返信欄が表示されている。

 

 アイはしばらく指を止めていた。

 

 そして、短い文章を打ち込んだ。

 

『分かりました。明日、伺います』

 

 送信。

 

 それだけで、もう後戻りできないような気がした。

 

 もちろん、実際にはそんなことはない。

 

 行くかどうかは、明日だって自分で決められる。

 

 そう分かっているのに、アイは携帯電話を閉じると、布団の中に潜り込んだ。

 

 明日になれば、きっと何とかなる。

 

 そう信じたかった。

 

 そして、彼女はひとつだけ決めた。

 

 このことは、透には言わない。

 

 まだ何も起きていないのだから。

 

 心配させる必要なんて、ないのだから。

 

 ――そうやってアイは、自分の不安に蓋をした。

 

     *

 

 翌朝。

 

「透くん、おはよ!」

 

 アイはいつも通り、俺に声をかけた。

 

「おはよ。今日、仕事だっけ?」

 

「うん! ちょっと用事があるんだー」

 

「レッスン?」

 

「んー、まあ、そんな感じ!」

 

 アイは笑った。

 

 けれど、その答えは少しだけ曖昧だった。

 

「何時ごろ帰ってくる?」

 

「夕方くらいかな? そんなに遅くならないと思う!」

 

「そっか」

 

 俺はそれ以上、何も聞かなかった。

 

 アイが話したくないのなら、無理に聞き出すべきじゃない。

 

 でも、何かあったときには頼ってほしい。

 

 その二つを両立させる方法を、俺はまだ見つけられずにいた。

 

「……透くん?」

 

「ん?」

 

「今日、帰ってきたらさ。ちょっと話したいことがあるかも」

 

 俺は思わず顔を上げた。

 

「話したいこと?」

 

「うん。……まだ、分かんないけど」

 

 アイは少し困ったように笑った。

 

「だから、帰ってきたら聞いてね?」

 

「……ああ。もちろん」

 

「約束!」

 

 アイは小指を差し出した。

 

 俺も小指を絡める。

 

 いつもの約束。

 

 けれど、その指先は、いつもより少し冷たかった。

 

「じゃ、行ってきまーす!」

 

「気をつけてな」

 

「はーい!」

 

 アイは手を振って、施設を出ていった。

 

 俺はその背中が見えなくなるまで、玄関に立っていた。

 

 胸の奥に、嫌な予感が残っていた。

 

 それでも俺は、彼女を引き止めなかった。

 

 アイが自分で決めたことなら、まずは信じようと思ったからだ。

 

 ただし。

 

 信じることと、何も知らないままでいることは違う。

 

 もし本当に困っているのなら。

 

 もし誰かに無理をさせられているのなら。

 

 そのときは、ちゃんと手を伸ばせるようにしておきたい。

 

 俺はそう考えながら、部屋に戻った。

 

     *

 

 午後二時。

 

 アイは、指定された建物の前に立っていた。

 

 駅から少し離れた場所にある、雑居ビル。

 

 表にはいくつか会社の名前が並んでいたが、携帯電話に送られてきた案内には、詳しい説明がなかった。

 

 アイは入口を見上げた。

 

「……ここ、だよね」

 

 もう一度、メッセージを確認する。

 

 住所は合っている。

 

 時間も合っている。

 

 アイは深呼吸をした。

 

 大丈夫。

 

 ただの打ち合わせだ。

 

 これからアイドルとして活動するために、必要なことなのかもしれない。

 

 そう考えて、建物の中へ入った。

 

 エレベーターを降りると、廊下の奥に一人の男性が立っていた。

 

「星野アイさん?」

 

「……はい」

 

「お待ちしていました。今日は来てくれてありがとう」

 

 男性は、にこやかに笑った。

 

 年齢は、三十代くらいだろうか。

 

 アイは軽く頭を下げた。

 

「よろしくお願いします」

 

「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。今日は難しい話をするわけじゃありませんから」

 

 そう言われても、緊張が消えるわけではなかった。

 

 男性は廊下の奥を指した。

 

「こちらへ。少しお話ししましょう」

 

 アイは一歩を踏み出した。

 

 その瞬間、携帯電話が震えた。

 

 画面を見る。

 

 透からのメッセージだった。

 

『今日、帰り遅くなりそうなら教えて。心配だから』

 

 短い文章。

 

 いつもの透らしい、不器用な気遣い。

 

 アイは画面を見つめた。

 

 今なら、まだ返信できる。

 

 今なら、まだ誰かに相談できる。

 

 それでも彼女は、携帯電話を閉じた。

 

「……大丈夫」

 

 小さく呟く。

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

 そしてアイは、男性のあとを追った。

 

 その日、彼女がどんな話を聞いたのか。

 

 何を求められ、何に戸惑ったのか。

 

 そのすべてを、透はまだ知らない。

 

 ただひとつ確かなことがある。

 

 アイは初めて、透に隠し事をした。

 

 夢を守るために。

 

 自分で選んだ道を、途中で諦めないために。

 

 そして何より――誰かに心配をかけずに、自分ひとりで何とかするために。

 

 それが本当に、夢を守ることにつながるのか。

 

 今の彼女には、まだ分からなかった。

 

     *

 

 夕方。

 

 俺は何度も時計を見ていた。

 

 アイが言っていた帰宅時間は、もう過ぎている。

 

 連絡はない。

 

 携帯電話にメッセージを送っても、返事はなかった。

 

 もちろん、仕事中なら返信できないこともある。

 

 打ち合わせが長引くことだってあるだろう。

 

 それでも、昨日までの様子を思い出すと、どうしても落ち着かなかった。

 

 俺は携帯電話を握りしめた。

 

 そして、もう一度メッセージを送ろうとしたところで、手を止めた。

 

 何度も連絡したら、かえって困らせるかもしれない。

 

 けれど、何もしないままでいるのも違う。

 

「……くそ」

 

 俺は立ち上がった。

 

 まずは施設の職員に、今日の予定について確認しよう。

 

 アイがどこへ行ったのか、誰と会う予定だったのか。

 

 俺ひとりで判断する前に、知っている大人に相談するべきだ。

 

 そう考えた、そのとき。

 

 玄関の扉が開いた。

 

「……ただいま」

 

 アイの声だった。

 

 俺は振り返った。

 

「アイ!」

 

「わっ、びっくりした。どうしたの?」

 

 彼女は笑っていた。

 

 でも、その笑顔は、朝よりもずっとぎこちなかった。

 

「遅かったから、心配した」

 

「ごめんね。ちょっと長引いちゃって」

 

「……何の仕事だったんだ?」

 

 アイの表情が止まった。

 

 ほんの一瞬。

 

 それから彼女は、いつものように笑った。

 

「打ち合わせだよ!」

 

「誰と?」

 

「……お仕事の人」

 

「アイ」

 

 俺は、できるだけ落ち着いた声で呼んだ。

 

「何かあった?」

 

 アイは俺を見た。

 

 その目には、何かを伝えようとする気配があった。

 

 今にも口を開きそうだった。

 

 けれど。

 

「……何もないよ」

 

 彼女はそう言った。

 

 そして、笑った。

 

「大丈夫!」

 

 いつもの言葉。

 

 いつもの笑顔。

 

 でも、今度だけは。

 

 俺には、それが本当だとは思えなかった。

 

 アイは俺の横を通り過ぎ、部屋へ向かっていった。

 

 呼び止めることはできなかった。

 

 その背中を見つめながら、俺は思った。

 

 アイは、何かを隠している。

 

 俺に心配をかけたくないからなのか。

 

 夢を諦めたくないからなのか。

 

 それとも、俺には話せない理由があるのか。

 

 まだ分からない。

 

 だけど、もう、ただ待っているだけではいけない気がした。

 

 彼女の夢を守ることと、彼女の選択を尊重すること。

 

 その二つを、俺はずっと考えてきた。

 

 けれど、もしアイが、自分を守るための選択さえできないほど追い詰められていたら。

 

 俺はどうすればいいのだろう。

 

 その答えを、俺はまだ知らなかった。

 

 ただ、ひとつだけ。

 

 あの笑顔の裏側に、彼女が一人で抱え込んでいるものがあるのなら。

 

 いつか、ちゃんと知りたいと思った。

 

 アイが自分から話してくれる、その日まで。

 

 そして、彼女が助けを求めてくれたときには、絶対に見逃さないように。

 

 俺は、静かに拳を握った。

 

 ――その夜。

 

 アイの携帯電話には、また一通のメッセージが届いていた。

 

『本日の件は、まだ誰にも話さないようにお願いします』

 

 アイは画面を見つめた。

 

 そして、返信を打つ。

 

『分かりました』

 

 送信したあと、彼女は携帯電話を伏せた。

 

 部屋の中は静かだった。

 

 廊下の向こうから、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。

 

 その中には、透の声もあった。

 

 いつもと変わらない、穏やかな日常。

 

 アイは目を閉じた。

 

 明日になれば、きっと大丈夫。

 

 そう思わなければ、眠れそうになかった。

 

 ――彼女はまだ知らない。

 

 秘密を守ることと、自分を守ることは、同じではないのだと。

 

 そして俺も、まだ知らない。

 

 彼女が守ろうとしている秘密が、やがて俺たちの関係を変えていくことを。

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