星野アイに嘘をつかなくていい日を   作:M1tarash1

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11.笑顔のままでは

アイが帰ってきた夜、俺はなかなか眠れなかった。

 

 部屋の明かりを消して、布団に潜り込んで、目を閉じる。

 

 それでも、頭の中には何度も同じ光景が浮かんできた。

 

『何もないよ』

 

『大丈夫!』

 

 あの笑顔。

 

 俺が何かを聞こうとするたび、アイは笑ってみせた。

 

 それは、いつものアイだった。

 

 明るくて、誰かを心配させるのが苦手で、自分が困っていても、先に相手の顔色をうかがってしまう。

 

 だからこそ、俺は気づいていた。

 

 あの笑顔は、俺に安心してほしくて浮かべたものだった。

 

 でも。

 

 安心させるための笑顔と、本当に安心している人間の笑顔は、同じじゃない。

 

「……何やってんだ、俺」

 

 小さく呟く。

 

 俺はアイの未来を知っている。

 

 少なくとも、知っているつもりでいる。

 

 彼女がいつか有名なアイドルになること。

 

 たくさんの人に愛される存在になること。

 

 そして――その人生に、取り返しのつかない悲劇が待っていること。

 

 けれど、俺が知っているのは、あくまで大まかな物語だけだ。

 

 何がきっかけで、誰が関わって、どんな順番で物事が進んでいくのか。

 

 肝心なことは、ほとんど分からない。

 

 今、アイの周りで起きていることが、あの未来につながっているのかどうかさえ、俺には判断できなかった。

 

 だから、怖かった。

 

 彼女が何かを隠していることが。

 

 俺の知らないところで、彼女の人生が動いていることが。

 

 そして何より。

 

 俺が何も知らないまま、また何かを見逃してしまうことが。

 

「……明日、ちゃんと話そう」

 

 そう決めて、ようやく目を閉じた。

 

 けれど、その夜は結局、いつもよりずっと浅い眠りしか取れなかった。

 

     *

 

 翌朝。

 

「透くん、おはよー!」

 

 アイは、いつも通りの声で俺を起こした。

 

「……ん。おはよ」

 

「なにその顔。めっちゃ眠そう」

 

「誰のせいだと思ってんだよ」

 

「えっ、私?」

 

「お前が気になって眠れなかったんだよ」

 

 口に出してから、少し後悔した。

 

 アイの笑顔が、ぴたりと止まったからだ。

 

「……私?」

 

「いや、そういう意味じゃなくて」

 

「昨日のこと?」

 

 いつもなら、冗談にして流してしまうところだった。

 

 けれど、アイは俺の顔をじっと見ていた。

 

 笑っていない。

 

 その目には、ほんの少しの不安が浮かんでいた。

 

「……うん」

 

 俺は頷いた。

 

「昨日、何があったのか、気になってる」

 

「……そっか」

 

「話したくないなら、無理に話さなくてもいい。でも、もし困ってるなら――」

 

「困ってないよ」

 

 返事は、あまりにも早かった。

 

 まるで、その言葉を言うために、ずっと準備していたみたいに。

 

「本当に、大丈夫だから」

 

「……アイ」

 

「ね、透くん」

 

 アイは一歩、俺に近づいた。

 

「私のこと、信じてる?」

 

 不意に聞かれて、言葉に詰まった。

 

 信じている。

 

 それは本当だ。

 

 アイが自分で選んだ夢を、俺は信じている。

 

 彼女が努力して、前に進もうとしていることも。

 

 怖くても、悩んでも、それでも自分の足で歩こうとしていることも。

 

 だからこそ、俺は彼女の選択を尊重したいと思っていた。

 

 けれど。

 

「……信じてるよ」

 

「じゃあ、大丈夫」

 

 アイは笑った。

 

「私はちゃんと、自分で考えてるから」

 

 そう言って、俺の横を通り過ぎる。

 

 その背中を見ながら、俺は何も言えなかった。

 

 信じていると伝えた途端、彼女はそれを理由に、俺を遠ざけてしまった。

 

 違う。

 

 俺が言いたかったのは、そういうことじゃない。

 

 信じているからこそ、何かあったときには頼ってほしい。

 

 失敗してもいい。

 

 怖がってもいい。

 

 自分ではどうにもできないことがあってもいい。

 

 そういう姿を見せても、俺は彼女を信じることをやめたりしない。

 

 それを伝えたかった。

 

 でも、俺の言葉はそこまで届かなかった。

 

「……難しいな」

 

 俺は小さく息を吐いた。

 

 アイを守りたい。

 

 でも、守りたいという気持ちだけで、彼女の心に踏み込んでいいわけじゃない。

 

 それは、もう何度も自分に言い聞かせてきたことだった。

 

 それでも、今の俺には。

 

 どうすることが正しいのか、分からなかった。

 

     *

 

 その日の昼過ぎ。

 

 アイは施設の職員に呼ばれ、外出の予定について話をしていた。

 

 俺は少し離れた場所で、子どもたちの宿題を見ていた。

 

「透お兄ちゃん、ここ分かんない!」

 

「どれ?」

 

「この問題!」

 

「……ああ、ここか。先にこっちを計算してみ」

 

「えー、なんで?」

 

「順番にやったほうが簡単だから」

 

「うーん……」

 

 子どもが鉛筆を動かし始める。

 

 俺はその様子を見守りながら、何となく事務室のほうに視線を向けた。

 

 扉が開く。

 

 アイが出てきた。

 

 職員に頭を下げて、それから携帯電話を取り出す。

 

 画面を確認した彼女の顔が、一瞬だけ曇った。

 

 けれど、すぐに携帯電話をポケットへしまう。

 

 俺と目が合うと、アイは笑った。

 

「透くん、あとでちょっといい?」

 

「……いいけど」

 

「ありがと!」

 

 それだけ言って、彼女は廊下の向こうへ歩いていった。

 

 あとで。

 

 その言葉に、少しだけ期待した。

 

 もしかしたら、昨日のことを話してくれるのかもしれない。

 

 俺から聞き出すのではなく、アイ自身が話したいと思ってくれたのなら。

 

 今度こそ、ちゃんと聞こう。

 

 そう思った。

 

 けれど、夕方になっても、アイは俺のところへ来なかった。

 

 食事のときも、いつも通りだった。

 

 子どもたちの話に笑って、今日あったことを話して、職員の手伝いをして。

 

 ただひとつ違ったのは、何度も携帯電話を確認していたことだった。

 

 画面が光るたび、アイの視線がそちらへ向く。

 

 そして、メッセージを確認するたび、笑顔がほんの少しずつ硬くなっていく。

 

 何かを待っている。

 

 あるいは、何かを恐れている。

 

 俺には、そう見えた。

 

 食事のあと、アイはすぐに自分の部屋へ戻ろうとした。

 

「アイ」

 

 俺は声をかけた。

 

「……ん?」

 

「昨日、話したいことがあるって言ってなかった?」

 

 アイの足が止まった。

 

「あ……」

 

 少し困ったような顔。

 

 それから、彼女は申し訳なさそうに笑った。

 

「ごめん。ちょっと、まだまとまってなくて」

 

「そっか」

 

「もう少し考えてからでもいい?」

 

「……もちろん」

 

「ありがと、透くん」

 

 アイはほっとしたように笑い、部屋へ戻っていった。

 

 俺はその場に残った。

 

 話したくないわけじゃない。

 

 でも、話せない。

 

 そんな感じがした。

 

 俺は、ふと考えた。

 

 もし、アイが何かを話せない理由が、俺にあるとしたら。

 

 俺が心配しすぎるから。

 

 俺が何でも悪い方向に考えるから。

 

 俺が彼女の夢を応援すると言いながら、心のどこかで危険を恐れているから。

 

 もし、それが理由なら。

 

 俺は、どうすればいいのだろう。

 

 彼女が話せるようになるまで待つ?

 

 それとも、彼女が話せないこと自体を問題として考えるべきなのか。

 

 答えは出なかった。

 

 ただ、ひとつだけ分かっていた。

 

 アイは今、一人で何かを抱え込んでいる。

 

 そして、その何かは、昨日よりもずっと重くなっているように見えた。

 

     *

 

 翌日。

 

 俺は、施設の職員に相談することにした。

 

 もちろん、アイの秘密を勝手に暴こうというつもりはなかった。

 

 ただ、彼女が仕事でどこかへ出かけていること。

 

 最近、様子が少しおかしいこと。

 

 それから、俺自身が不安を感じていること。

 

 それらを、信頼できる大人に伝えておきたかった。

 

 俺は、施設で長く働いている職員の一人に声をかけた。

 

「すみません。ちょっと相談したいことがあるんですけど」

 

「どうしたの、透くん?」

 

「……アイの仕事のことで」

 

 職員は、少し表情を改めた。

 

「アイちゃん?」

 

「はい。最近、仕事のことで何か悩んでるみたいで……」

 

 俺は言葉を選びながら、話した。

 

 アイが最近、誰を信じればいいのか分からないと言っていたこと。

 

 仕事の電話を受けたあと、様子が変わったこと。

 

 そして、先日、打ち合わせから帰ってきた彼女が、何かを隠しているように見えたこと。

 

 ただし、本人が話していない内容については、俺も分からない。

 

 そこは、はっきりと伝えた。

 

 職員は最後まで黙って聞いていた。

 

「……そうだったのね」

 

「俺の考えすぎなら、それでいいんです。でも、もし何かあったら……」

 

「心配しているのね」

 

「……はい」

 

 職員は、少し考えてから口を開いた。

 

「透くん。心配してくれてありがとう。でも、ひとつだけ覚えておいてね」

 

「はい」

 

「アイちゃんが自分で選んだ仕事だから、私たちも、その気持ちは大切にしたいと思っているの。でも、自分で選んだことだからって、何でも一人で背負わなきゃいけないわけじゃないのよ」

 

 俺は顔を上げた。

 

「……そうですよね」

 

「仕事のことは、必要なら私たちも確認するわ。アイちゃんが安心して活動できるように、所属先の方ともきちんと話しておきたいから」

 

 その言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。

 

 俺ひとりで何とかしなければいけないわけじゃない。

 

 それは、当たり前のことだった。

 

 けれど、俺はずっと、その当たり前を忘れていたのかもしれない。

 

 アイを守らなければ。

 

 悲劇を防がなければ。

 

 そんなことばかり考えて、俺自身も、一人で何とかしようとしていた。

 

 彼女と同じように。

 

「……ありがとうございます」

 

「ううん。こちらこそ、話してくれてありがとうね」

 

 職員は優しく笑った。

 

「ただ、アイちゃんにも自分の気持ちがあるから。まずは、本人の話を聞いてみるわ。透くんも、何か気づいたことがあったら教えてね」

 

「はい」

 

 俺は頷いた。

 

 アイの許可なく、彼女のすべてを調べるわけにはいかない。

 

 けれど、彼女が困っている可能性を知りながら、何もしないわけにもいかない。

 

 その境界線を、俺はこれからも考え続けなければならないのだろう。

 

     *

 

 その日の夕方。

 

 アイは、職員に呼び止められた。

 

「アイちゃん、少しお話しできる?」

 

「……はい?」

 

 アイは不思議そうに首を傾げた。

 

「お仕事のことでね。最近、困っていることはない?」

 

 その瞬間、アイの顔から笑顔が消えた。

 

 けれど、ほんの一瞬だった。

 

「えっ? ないですよ!」

 

 すぐに笑顔を浮かべる。

 

「お仕事、楽しいですし!」

 

「そう。それならよかった。でも、もし困ったことがあったら、いつでも相談してね」

 

「はい! ありがとうございます!」

 

 アイは頭を下げた。

 

 職員がその場を離れる。

 

 アイは、しばらくその背中を見つめていた。

 

 そして、ゆっくりと携帯電話を取り出した。

 

 画面には、新しいメッセージが届いていた。

 

『次回の予定について、確認をお願いします』

 

 アイは、画面を見つめたまま動かなかった。

 

 次回。

 

 つまり、あの打ち合わせの続きだ。

 

 前回の話では、まだ何も決まっていなかった。

 

 けれど、相手はすでに、次の予定を組もうとしている。

 

 断るなら、今なのかもしれない。

 

 そう思った。

 

 でも、もし断ったら。

 

 もう二度と、こんなチャンスは来ないかもしれない。

 

 せっかく、自分を見つけてくれた人がいたのに。

 

 せっかく、夢に近づけるかもしれないのに。

 

 アイは唇を噛んだ。

 

「……どうしよう」

 

 声は、小さかった。

 

 誰にも聞かれないように。

 

 自分自身にさえ、聞こえないように。

 

 それでも、胸の奥では、ずっと同じ言葉が響いていた。

 

 怖い。

 

 でも、諦めたくない。

 

 怖い。

 

 でも、ここでやめたくない。

 

 その二つの気持ちが、彼女の中でぶつかり合っていた。

 

     *

 

 夜。

 

 俺は廊下でアイを見つけた。

 

 窓際に立って、外を眺めている。

 

 声をかけようか迷った。

 

 最近、彼女は一人でいる時間が増えた。

 

 俺が近づくと笑ってくれる。

 

 話しかければ、いつも通り返してくれる。

 

 けれど、その笑顔の奥にあるものには、なかなか触れられなかった。

 

「……アイ」

 

 それでも、俺は声をかけた。

 

「ん?」

 

 アイが振り返る。

 

「何してんの?」

 

「んー? 外を見てただけ」

 

「そっか」

 

 俺は隣に立った。

 

 窓の外には、街の明かりが見えた。

 

 少し離れた道路を車が走り、遠くから誰かの話し声が聞こえてくる。

 

 何でもない夜だった。

 

 少なくとも、見た目には。

 

「……透くん」

 

 しばらくして、アイが口を開いた。

 

「ん?」

 

「私さ」

 

 そこで、言葉が止まった。

 

 アイは窓の外を見たまま、何かを考えていた。

 

 俺は急かさなかった。

 

 今度こそ、最後まで聞こうと思った。

 

「……私、ちゃんと頑張れてるかな」

 

 ようやく出てきた言葉は、予想していたものとは違った。

 

「何が?」

 

「お仕事」

 

 アイは小さく笑った。

 

「まだ始まったばっかりだけどさ。私、ちゃんとできてるのかなって」

 

「……できてると思うよ」

 

「ほんと?」

 

「ああ。少なくとも、俺はそう思ってる」

 

 アイは少しだけ顔を上げた。

 

「でも、私、分かんないんだよね」

 

「何が?」

 

「何を頑張ればいいのか」

 

 その声は、いつもよりずっと小さかった。

 

「歌もダンスも、まだまだだし。もっと練習しなきゃいけないこと、いっぱいあるし。私より上手な人だって、たくさんいると思う」

 

「うん」

 

「だから、もっと頑張らなきゃって思うんだ」

 

 アイは自分の手を見つめた。

 

「でも、頑張れば頑張るほど、何が正解なのか分かんなくなるときがあるの」

 

 俺は黙って聞いていた。

 

「誰かに褒められると嬉しい。期待してもらえると、もっと頑張ろうって思う。でも、期待されてることが、私のやりたいことと違ったら……どうしたらいいんだろうって」

 

 その言葉を聞いて、胸が痛んだ。

 

 俺は知っていた。

 

 アイが、誰かを笑顔にすることを大切にしていることを。

 

 自分が笑えば、誰かが喜んでくれる。

 

 自分が頑張れば、誰かが笑ってくれる。

 

 だから彼女は、いつも笑顔でいようとする。

 

 けれど。

 

 誰かを笑顔にすることと、自分の気持ちを押し殺すことは、同じじゃない。

 

「……アイ」

 

「ん?」

 

「誰かに期待されたからって、その人の望む通りにならなきゃいけないわけじゃないよ」

 

 アイは俺を見た。

 

「でも、期待を裏切っちゃうかもしれない」

 

「そうだな」

 

「嫌われるかもしれない」

 

「……そうかもしれない」

 

 俺は、簡単に否定しなかった。

 

 世の中には、期待通りに動かなかった人を嫌う人もいる。

 

 自分の望みを優先して、相手の気持ちを考えない人もいる。

 

 そんな人がいないなんて、俺には言えなかった。

 

「でもさ」

 

 俺は続けた。

 

「誰かに嫌われないために、自分が嫌なことまで全部引き受ける必要はないと思う」

 

 アイの目が揺れた。

 

「……嫌なこと」

 

「うん。自分が嫌だと思ったこととか、怖いと思ったこととか。そういう気持ちは、ちゃんと大事にしていいんだよ」

 

「……そっか」

 

「うん」

 

 しばらく、沈黙が続いた。

 

 アイは何かを言おうとしているようだった。

 

 けれど、結局、口を開かなかった。

 

「……透くんってさ」

 

「ん?」

 

「私が何か失敗しても、怒らない?」

 

 思いがけない質問だった。

 

 俺は少し考えた。

 

「失敗したことだけで、怒ったりしないよ」

 

「……ほんと?」

 

「ああ」

 

「もし、すっごく大きな失敗だったとしても?」

 

「……一緒に考える」

 

 俺は、できるだけはっきりと答えた。

 

「何が起きたのか、どうすればいいのか。俺にできることがあるなら、手伝うよ」

 

 アイは、じっと俺を見ていた。

 

「……なんで?」

 

「なんでって?」

 

「なんで、そこまでしてくれるの?」

 

 俺は言葉に詰まった。

 

 なぜだろう。

 

 彼女を救いたいから。

 

 彼女が悲しむ未来を知っているから。

 

 もう二度と、あんな思いをしたくないから。

 

 理由はいくらでもあった。

 

 けれど、そのどれもが、今のアイに伝えるべき言葉ではない気がした。

 

 俺は少しだけ考えてから、答えた。

 

「……友達だから」

 

 アイは目を丸くした。

 

「それだけ?」

 

「それだけじゃ、ダメか?」

 

「……ううん」

 

 彼女は、ゆっくりと首を横に振った。

 

「……そっか」

 

 その顔に、少しだけ笑顔が戻った。

 

 でも、まだ何かを抱えている。

 

 俺には分かっていた。

 

 そして今度こそ、俺はそれを見ないふりをしたくなかった。

 

「アイ」

 

「ん?」

 

「俺、最近のお前がちょっと心配なんだ」

 

 アイの笑顔が、止まった。

 

「……私?」

 

「うん」

 

 俺は続けた。

 

「仕事が忙しいのは分かってる。疲れることもあるだろうし、悩むことだってあると思う」

 

「……うん」

 

「でも、最近、何かあるたびに『大丈夫』って言うだろ」

 

 アイは何も言わなかった。

 

「本当に大丈夫なら、それでいいんだ。でも、もし大丈夫じゃないのに言ってるなら……」

 

 俺は、一度言葉を切った。

 

 ここで間違えたくなかった。

 

 心配だから話してほしい。

 

 でも、話さないなら信じない。

 

 そんな言い方にはしたくなかった。

 

「……無理して大丈夫って言わなくてもいいんだよ」

 

 アイの瞳が揺れた。

 

「……透くん」

 

「うん」

 

「私……」

 

 声が、かすれた。

 

 彼女は唇を開きかけた。

 

 その瞬間だった。

 

 ポケットの中で、携帯電話が震えた。

 

 アイの肩がびくりと揺れた。

 

 彼女は反射的に携帯電話を取り出し、画面を確認した。

 

 そして。

 

 ほんの一瞬で、表情を変えた。

 

「……ごめん」

 

「アイ?」

 

「ちょっと、電話してくるね」

 

 そう言って、彼女は俺から離れた。

 

 廊下の向こうへ歩いていく。

 

 俺は追いかけなかった。

 

 けれど、胸の奥に、嫌な感覚が残った。

 

 今の反応。

 

 あの表情。

 

 そして、電話が鳴る前に、彼女が何かを話そうとしていたこと。

 

 もしかしたら。

 

 アイは、助けを求めようとしていたのかもしれない。

 

 それなのに、電話が鳴った途端、何も言えなくなってしまった。

 

「……くそ」

 

 俺は小さく呟いた。

 

 もう少し、あと一歩だったのかもしれない。

 

 でも、俺は何もできなかった。

 

     *

 

 その夜。

 

 アイは自分の部屋で、携帯電話を握りしめていた。

 

 通話は、もう終わっている。

 

 相手は、先日の打ち合わせを担当した男性だった。

 

『次回の日程について、確認したいことがありまして』

 

 電話の向こうの声は、穏やかだった。

 

『前回お話しした企画ですが、こちらとしても、ぜひ前向きに進めたいと思っています』

 

 アイは、嬉しかった。

 

 自分のことを必要としてくれている。

 

 自分に期待してくれている。

 

 それが、素直に嬉しかった。

 

 けれど。

 

『ただ、正式な契約や発表の前ですから、まだ周囲には詳しく話さないでくださいね』

 

 また、その言葉だった。

 

『それから、次回はもう少し具体的なお話をしたいので、できればお一人で来ていただけると助かります』

 

 アイは、すぐに返事ができなかった。

 

『……何か気になることでもありますか?』

 

「いえ……」

 

 反射的に答えてしまった。

 

『そうですか。もちろん、分からないことがあれば質問してください。ただ、こういうお仕事はタイミングも大事ですからね』

 

 タイミング。

 

 その言葉が、重くのしかかった。

 

『せっかくのチャンスですから、ぜひ逃さないでほしいと思っています』

 

 電話は、それで終わった。

 

 アイは携帯電話を見つめた。

 

 次の打ち合わせに行くべきなのか。

 

 断るべきなのか。

 

 それとも、誰かに相談するべきなのか。

 

 分からない。

 

 分からないのに、時間だけが過ぎていく。

 

「……どうしよう」

 

 小さく呟く。

 

 今日、透は言ってくれた。

 

 嫌なことまで全部引き受ける必要はない、と。

 

 失敗しても、一緒に考える、と。

 

 それは、嬉しかった。

 

 本当に、嬉しかった。

 

 でも。

 

 だからこそ、怖かった。

 

 もし透に話して、彼が心配したら。

 

 もし職員に相談して、仕事の話がなくなったら。

 

 もし、自分の判断が間違っていて、せっかくのチャンスを逃してしまったら。

 

 そのとき、自分は後悔しないだろうか。

 

 アイは布団の上に座り込んだ。

 

 膝を抱える。

 

 こんなふうに悩むのは、初めてだった。

 

 夢を持つことは、楽しいことだと思っていた。

 

 努力して、少しずつ上手になって。

 

 できなかったことができるようになって。

 

 誰かに褒められて、また頑張ろうと思って。

 

 そうやって、一歩ずつ進んでいくものだと思っていた。

 

 でも、今は違う。

 

 頑張れば頑張るほど、分からないことが増えていく。

 

 何が正しくて、何が間違っているのか。

 

 どこまでなら頑張ってよくて、どこからは無理をしないほうがいいのか。

 

 誰を信じて、誰に頼ればいいのか。

 

 何も分からない。

 

「……私、アイドルになりたいのに」

 

 声が震えた。

 

「ただ、アイドルになりたいだけなのに……」

 

 どうして、こんなに難しいのだろう。

 

 アイは顔を伏せた。

 

 涙は出なかった。

 

 泣いてしまえば、何かが変わるような気がした。

 

 でも、何も変わらないことも分かっていた。

 

 だから彼女は、また自分に言い聞かせる。

 

 大丈夫。

 

 まだ何も起きていない。

 

 まだ、自分で何とかできる。

 

 そうやって、何度も何度も、自分の心に蓋をした。

 

     *

 

 翌日。

 

 俺は、アイの様子を気にしながら一日を過ごしていた。

 

 話しかければ、いつも通り返事をしてくれる。

 

 笑いかければ、笑い返してくれる。

 

 けれど、どこか遠い。

 

 同じ場所にいるはずなのに、手を伸ばしても届かないような距離があった。

 

 昼過ぎ、俺はアイを見つけた。

 

 廊下の窓際。

 

 携帯電話を手に持ち、画面を見つめている。

 

「……アイ」

 

 声をかけると、彼女はすぐに顔を上げた。

 

「透くん!」

 

 笑顔。

 

 いつもの笑顔。

 

「何してんの?」

 

「んー? ちょっと連絡!」

 

「仕事?」

 

「うん!」

 

 アイは携帯電話をポケットにしまった。

 

「……ねえ、透くん」

 

「ん?」

 

「もしさ、誰かに『これを逃したら、もうチャンスはないよ』って言われたら、どうする?」

 

 俺は、彼女を見つめた。

 

 まただ。

 

 また、何かを尋ねようとしている。

 

「……それは、誰に言われたの?」

 

 そう聞くと、アイの表情が少しだけ曇った。

 

「……もしもの話だよ」

 

「そっか」

 

 俺は、少し考えた。

 

「俺だったら、まず、本当にそうなのか聞く」

 

「本当に?」

 

「うん。『もうチャンスはない』って、誰が決めたんだよって思う」

 

 アイは黙っていた。

 

「それに、もし本当にそのチャンスが一度きりだったとしても、自分が納得できないなら、無理に選ぶ必要はないと思う」

 

「……でも」

 

「うん?」

 

「それを逃したら、夢が遠くなっちゃうかもしれないよ?」

 

「そうだな」

 

 俺は頷いた。

 

「遠くなるかもしれない。でも、遠くなることと、なくなることは違うだろ」

 

 アイは、じっと俺を見ていた。

 

「……なくならないかな」

 

 その声は、とても小さかった。

 

「……なくならないよ」

 

 俺は答えた。

 

「少なくとも、アイがアイドルになりたいって思ってる限り、その夢はなくならない」

 

「……ほんと?」

 

「うん」

 

 それは、俺が確信を持って言えることだった。

 

 彼女が夢を諦めない限り、道は続いていく。

 

 もちろん、思い通りにならないこともあるだろう。

 

 遠回りをすることもあるだろう。

 

 時には、立ち止まることだってある。

 

 それでも、夢そのものが消えるわけじゃない。

 

 少なくとも、誰か一人の言葉だけで、決められるものじゃないはずだ。

 

 アイは、ゆっくりと視線を落とした。

 

「……そっか」

 

 それから、小さく笑った。

 

「ありがと、透くん」

 

「……うん」

 

 今度は、俺から何も聞かなかった。

 

 聞けば、彼女は答えてくれるかもしれない。

 

 けれど、今の彼女に必要なのは、答えを急かされることではない気がした。

 

 自分の気持ちを、自分で確かめる時間。

 

 そして、どんな答えを選んでも、すぐにすべてが終わるわけではないと知ること。

 

 俺にできるのは、そのことを伝えるくらいだった。

 

     *

 

 その日の夕方。

 

 アイは、職員のところへ向かった。

 

 俺は少し離れた場所から、その様子を見ていた。

 

「……あの、ちょっと相談したいことがあるんですけど」

 

 アイの声が聞こえた。

 

 職員は、優しく頷いた。

 

「もちろん。どうしたの?」

 

「……お仕事のことで」

 

 アイは、携帯電話を握りしめた。

 

「今度、また打ち合わせがあるんです。でも……」

 

 そこで、言葉が止まる。

 

 俺は息を止めた。

 

 話すんだ。

 

 アイが、自分から。

 

「……相手の人に、まだ周りには話さないでって言われてて」

 

「そうなのね」

 

「それで、次も一人で来てほしいって……」

 

 職員の表情が、少しだけ真剣になった。

 

「そのお話は、いつもの担当の方から?」

 

「……違います」

 

 アイは、小さく首を横に振った。

 

「別の人です。仕事につながるかもしれないって言われて……」

 

「そう。具体的には、どんなお仕事なの?」

 

「……まだ、よく分からないんです」

 

 その言葉を聞いて、職員は少し考えた。

 

「アイちゃん。話してくれてありがとうね」

 

「……はい」

 

「その打ち合わせについては、まず、いつもの担当の方に確認してみましょう。どんなお仕事なのか、誰が関わっているのか、きちんと分かったうえで考えたほうがいいと思うの」

 

 アイは、不安そうに職員を見た。

 

「……でも、せっかくのチャンスなんです」

 

「うん。アイちゃんにとって、大事なお話なのね」

 

「……はい」

 

「だからこそ、急いで決めなくてもいいのよ。きちんと確認することは、チャンスを捨てることとは違うから」

 

 アイは、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……分かりました」

 

 小さく頷いた。

 

「確認してもらっても、いいですか?」

 

「もちろん」

 

 職員は笑った。

 

「一緒に確認しましょう」

 

 その言葉を聞いた瞬間、アイの肩から、ほんの少しだけ力が抜けたように見えた。

 

 俺は、胸の奥で息を吐いた。

 

 よかった。

 

 少なくとも、彼女はもう、一人で何とかしようとはしていない。

 

 それだけで、少し安心できた。

 

 けれど。

 

 これで全部が解決したわけじゃない。

 

 相手が何者なのか。

 

 どんな意図でアイに接触したのか。

 

 そして、なぜ彼女に一人で来るよう求めたのか。

 

 それは、まだ分からない。

 

 俺は、職員と話しているアイを見つめた。

 

 彼女は、不安そうな顔をしていた。

 

 でも、その顔を隠そうとはしていなかった。

 

 少しだけ。

 

 本当に少しだけだけれど。

 

 アイは、自分の弱さを誰かに見せることができたのだ。

 

     *

 

 夜。

 

 俺は自分の部屋で、窓の外を眺めていた。

 

 結局、アイが相談した相手について、俺から詳しく聞くことはしなかった。

 

 彼女が自分で話してくれるなら、そのときに聞けばいい。

 

 今は、それでいいと思った。

 

 ただ、ひとつだけ気になっていた。

 

 以前、施設の近くで見かけた男。

 

 こちらを見ていた、あの人物。

 

 彼が今回の件に関わっているのかどうか。

 

 まだ何の証拠もない。

 

 ただの偶然かもしれない。

 

 仕事関係者が施設の場所を確認していただけかもしれない。

 

 俺が不安になりすぎて、関係のないものまで結びつけている可能性だってある。

 

 だから、今の時点で決めつけることはできなかった。

 

 それでも。

 

 アイが知らない大人と会い、詳しい説明もないまま次の予定を求められていたこと。

 

 そして、彼女自身が不安を感じていたこと。

 

 その二つは、確かに起きたことだった。

 

 俺は携帯電話を手に取った。

 

 アイに何か送ろうかと思った。

 

 でも、結局、何も打てなかった。

 

 今日、彼女は自分から相談した。

 

 その一歩を、俺が余計な心配で台無しにしたくなかった。

 

「……信じる、か」

 

 俺は呟いた。

 

 信じることは、何も心配しないことじゃない。

 

 相手が何を選んでも、何が起きても、ただ見守っていることでもない。

 

 相手が自分で考え、自分で決められるように、必要なときには手を差し伸べること。

 

 そして、相手が助けを求めてくれたとき、ちゃんとその声を聞くこと。

 

 たぶん、そういうことなのだろう。

 

 俺は、ようやく少しだけ分かった気がした。

 

 俺がアイの未来を変えたいと思うのなら。

 

 ただ、彼女を危険から遠ざけるだけでは足りない。

 

 彼女自身が、自分の人生を選べるようにならなければならない。

 

 誰かの期待に応えるためだけじゃなく。

 

 誰かに嫌われないためだけでもなく。

 

 自分がどうしたいのか。

 

 何を大切にしたいのか。

 

 それを、自分の言葉で選べるように。

 

 そのために、俺ができることは何だろう。

 

 まだ、答えは出ない。

 

 けれど、少なくとも。

 

 俺が先回りして、彼女の代わりにすべてを決めることではない。

 

 それだけは、分かっていた。

 

     *

 

 翌日。

 

 アイは、朝食のあとで俺のところへやってきた。

 

「……透くん」

 

「ん?」

 

「昨日、ありがとね」

 

「……昨日?」

 

「うん。いろいろ」

 

 アイは少し照れくさそうに笑った。

 

「透くんが言ってくれたこと、ちゃんと考えたよ」

 

「そっか」

 

「それでね。私、ちょっとだけ分かった気がする」

 

 彼女は、自分の胸に手を当てた。

 

「私、夢を叶えたいって思ってたのに、いつの間にか、夢を叶えるためなら何でもしなきゃって思ってたのかもしれない」

 

 俺は黙って聞いていた。

 

「頑張るのは、嫌じゃないんだよ。むしろ、頑張りたい。でも……」

 

 アイは、少しだけ言葉を探した。

 

「頑張ることと、何でも我慢することは、違うんだよね」

 

「……うん」

 

「私、昨日、職員さんに相談したの。仕事のことで」

 

「……そっか」

 

「うん。まだ、どうなるか分かんないけど」

 

 アイは俺を見た。

 

「でも、ちょっとだけ楽になった」

 

 その顔には、昨日までとは違う表情があった。

 

 まだ不安は残っている。

 

 怖さだって、消えていないのだろう。

 

 それでも、彼女は少しだけ前に進んでいた。

 

「……よかった」

 

 俺がそう言うと、アイは笑った。

 

「ふふっ。透くん、心配しすぎなんだよ」

 

「誰のせいだよ」

 

「えー? 私?」

 

「お前以外に誰がいるんだ」

 

「あははっ!」

 

 アイは声を上げて笑った。

 

 久しぶりに聞いた、自然な笑い声だった。

 

 俺も、少しだけ笑った。

 

 その瞬間、ようやく肩の力が抜けた気がした。

 

 もちろん、これですべてが解決したわけじゃない。

 

 仕事の話がどうなるのかも分からない。

 

 あの人物が何者なのかも分からない。

 

 それでも、昨日までとは違う。

 

 アイは、もう一人ではない。

 

 俺も、彼女を守ろうとして一人で抱え込む必要はない。

 

 そう思えた。

 

「……ねえ、透くん」

 

「ん?」

 

「私、これからもアイドル目指していいよね?」

 

 俺は、すぐに頷いた。

 

「もちろん」

 

「……そっか」

 

 アイは、嬉しそうに笑った。

 

「じゃあ、もっと頑張らなきゃね!」

 

「いや、だからって無理はすんなよ」

 

「分かってるって!」

 

「本当か?」

 

「ほんとほんと!」

 

 アイは笑いながら、俺の肩を軽く叩いた。

 

 その仕草が、いつも通りで。

 

 俺は、少しだけ安心した。

 

 彼女は、まだ夢を諦めていない。

 

 そして、俺も。

 

 彼女が夢を叶える未来を、諦めていない。

 

     *

 

 その日の午後。

 

 施設の職員から、アイの所属先へ確認の連絡が入った。

 

 いつもの担当者は、少し驚いた様子だったという。

 

 アイに別の人物から打ち合わせの連絡があったこと。

 

 その人物が、施設の許可なく、アイに直接予定を調整させていたこと。

 

 そして、打ち合わせの内容について、十分な説明がなされていなかったこと。

 

 それらを伝えると、担当者はすぐに確認すると約束した。

 

 その後、アイにも連絡があった。

 

 先日の話は、正式な仕事の依頼として決まったものではなかったらしい。

 

 相手は、今後の企画に関わる可能性がある人物だったが、正式な担当者を通さずに話を進めていた。

 

 そして、次回の打ち合わせについては、いったん保留になった。

 

 アイは、その説明を静かに聞いていた。

 

「……そうですか」

 

 電話を切ったあと、彼女はしばらく動かなかった。

 

 嬉しいような。

 

 悲しいような。

 

 ほっとしたような。

 

 いろいろな気持ちが、胸の中で混ざり合っていた。

 

 これで、もう悩まなくていい。

 

 そう思う気持ちもあった。

 

 でも、同時に。

 

 もしかしたら、本当に大きなチャンスだったのかもしれない。

 

 もし、何も相談せずに話を進めていたら、もっと違う未来があったのかもしれない。

 

 そんな考えも、頭の片隅に残っていた。

 

「……難しいなあ」

 

 アイは小さく呟いた。

 

 夢を追いかけることは、簡単じゃない。

 

 誰かを信じることも。

 

 自分の気持ちを大切にすることも。

 

 全部、思っていたよりずっと難しい。

 

 それでも。

 

 アイは、もう一度、携帯電話を手に取った。

 

 画面を開き、透とのやり取りを確認する。

 

 そこには、何でもない会話が並んでいた。

 

 今日のおやつの話。

 

 昨日、子どもたちが遊んでいたゲームの話。

 

 透が少し寝不足らしいという話。

 

 何でもない、いつものやり取り。

 

 アイは、その画面を見つめた。

 

 そして、新しいメッセージを打った。

 

『透くん、今日の夜、ちょっと話してもいい?』

 

 送信。

 

 しばらくして、返事が来た。

 

『いいよ。どうした?』

 

 アイは、少しだけ笑った。

 

 今度は、ちゃんと話そう。

 

 何があったのか。

 

 何が怖かったのか。

 

 自分が何を考えていたのか。

 

 全部を話せるかは分からない。

 

 途中で、また言葉に詰まるかもしれない。

 

 それでも。

 

 少しずつなら、話せる気がした。

 

 アイは携帯電話を胸元に抱えた。

 

「……ありがと、透くん」

 

 その言葉は、誰にも聞こえなかった。

 

 けれど、今度は。

 

 自分の気持ちを隠すための言葉ではなかった。

 

     *

 

 夜。

 

 俺は、いつもの場所でアイを待っていた。

 

 廊下の窓際。

 

 以前、彼女と夢の話をした場所だ。

 

 しばらくして、足音が聞こえた。

 

「……透くん」

 

 振り返る。

 

 アイが立っていた。

 

 いつもより、少しだけ緊張した顔をしている。

 

「おう」

 

「……待った?」

 

「いや、今来たとこ」

 

「そっか」

 

 アイは隣に立った。

 

 窓の外には、街の明かりが見える。

 

 昨日と同じ景色。

 

 でも、今日は少しだけ違って見えた。

 

「……あのね」

 

 アイが口を開いた。

 

「私、ずっと隠してたことがあるんだ」

 

 俺は、彼女を見た。

 

「……うん」

 

「仕事のことで、ちょっと怖いことがあったの」

 

 その言葉を聞いて、胸が痛んだ。

 

 けれど、俺は何も言わなかった。

 

 彼女が、自分の言葉で話そうとしている。

 

 だから、最後まで聞きたかった。

 

「最初はね、嬉しかったんだ。私に興味を持ってくれた人がいて、もっと大きな仕事につながるかもしれないって言われて」

 

「……うん」

 

「でも、何をするのか、ちゃんとは分からなくて。一人で来てほしいって言われて、周りには話さないでって言われて……」

 

 アイは、指先を握りしめた。

 

「私、どうしたらいいのか分かんなくなっちゃった」

 

 その声は、少し震えていた。

 

「断ったら、夢が遠くなっちゃうかもしれないって思った。せっかくのチャンスなのに、自分から手放すことになるかもしれないって」

 

「……うん」

 

「だから、透くんにも言えなかった」

 

 アイは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「透くん、心配するでしょ?」

 

「……するな」

 

「だよね」

 

 彼女は、少しだけ笑った。

 

「それに、止められるかもしれないって思ったの」

 

 俺は、息を止めた。

 

「私がアイドルになること、応援してくれてるのは分かってる。でも、危ないことがあったら、やめたほうがいいって言うんじゃないかなって」

 

 アイは、窓の外を見つめた。

 

「私、夢を諦めたくなかったんだ」

 

 その言葉は、とてもまっすぐだった。

 

「だから、怖いって思ってることも、ちゃんと話せなかった。自分でも、どうしたらいいのか分からなかったから」

 

 俺は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 彼女は、俺を信じていなかったわけじゃない。

 

 信じていたからこそ、怖かったのだ。

 

 俺に心配をかけたくなかった。

 

 夢を諦めるように言われたくなかった。

 

 そして何より、自分自身が、夢を諦めることを恐れていた。

 

 だから、隠した。

 

 自分の不安を。

 

 自分の迷いを。

 

 そして、本当は誰かに助けてほしいという気持ちを。

 

「……アイ」

 

「……うん」

 

「話してくれて、ありがとう」

 

 アイは、少し驚いたように目を見開いた。

 

「……怒らないの?」

 

「何に?」

 

「隠してたこと」

 

 俺は首を横に振った。

 

「怒らないよ」

 

「……でも」

 

「心配はした。すごく」

 

 アイは、申し訳なさそうに目を伏せた。

 

「……ごめんね」

 

「謝らなくていい」

 

 俺は、できるだけ優しく言った。

 

「話せなかったのにも、理由があったんだろ」

 

「……うん」

 

「だったら、今こうして話してくれたことが、俺は嬉しい」

 

 アイの瞳が揺れた。

 

「……ほんと?」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

「それに、俺も悪かったと思う」

 

「……透くんが?」

 

「うん。俺、ずっとアイのことが心配で、何かあったらどうしようって考えてばっかりだったから」

 

 アイは黙って聞いていた。

 

「だから、もしかしたら、アイにとっては、俺に話すこと自体が怖くなってたのかもしれない」

 

「……そんなこと」

 

「ないとは言い切れないだろ」

 

 俺は苦笑した。

 

「俺、心配すると、すぐ顔に出るし」

 

「……それは、そうかも」

 

「おい」

 

 アイが、少しだけ笑った。

 

 俺も笑った。

 

 でも、すぐに真面目な顔に戻る。

 

「俺は、アイに夢を諦めてほしいわけじゃない」

 

「……うん」

 

「アイがアイドルになりたいって思ってること、ちゃんと応援してる」

 

 それは、何度でも伝えたいことだった。

 

「でも、夢を叶えるために、何でも我慢しなきゃいけないわけじゃない。怖いことがあったら、怖いって言っていいし、分からないことがあったら、分からないって言っていい」

 

 アイは、俺を見つめていた。

 

「それで、誰かに相談したからって、夢を諦めたことにはならないよ」

 

「……うん」

 

「むしろ、自分の夢を大切にするために、必要なことなんじゃないかな」

 

 アイは、ゆっくりと頷いた。

 

「……そっか」

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「……私、まだ、ちゃんとできるかな」

 

「何が?」

 

「アイドル」

 

 俺は、すぐに答えた。

 

「できるよ」

 

「……ほんとに?」

 

「ああ。でも、ちゃんとできなくてもいいと思う」

 

 アイは、きょとんとした。

 

「え?」

 

「最初から何でもできる人なんていないだろ。失敗したっていいし、分からないことがあったら聞けばいい。困ったら相談すればいい」

 

 俺は、彼女を見た。

 

「アイは、アイのままで頑張ればいいんだよ」

 

 アイは、しばらく何も言わなかった。

 

 そして。

 

「……透くんって、ずるいね」

 

「は?」

 

「そんなこと言われたら、泣きそうになっちゃうじゃん」

 

 彼女は笑った。

 

 でも、その目は少し潤んでいた。

 

 俺は、何も言えなかった。

 

 どう声をかければいいのか、分からなかった。

 

 ただ、隣に立っていた。

 

 彼女が、自分の気持ちを落ち着かせられるように。

 

 無理に笑わなくてもいいように。

 

 しばらくして、アイは小さく息を吐いた。

 

「……ありがと」

 

「うん」

 

「私、これからも頑張るね」

 

「うん。応援してる」

 

「でも、無理しすぎないようにする」

 

「それも大事」

 

「あと、困ったら相談する」

 

「……うん」

 

「だから、透くんも」

 

 アイは、俺を見た。

 

「一人で何とかしようとしないでね」

 

 その言葉に、俺は目を見開いた。

 

「……え?」

 

「透くんも、たまにすっごく心配そうな顔するから」

 

 アイは、少しだけ困ったように笑った。

 

「私のことを守ろうとしてくれるのは嬉しいよ。でも、透くんだって、一人で全部背負わなくていいんだよ?」

 

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。

 

 俺は、彼女を守ろうとしていた。

 

 ずっと。

 

 彼女が傷つかないように。

 

 悲しまないように。

 

 未来の悲劇にたどり着かないように。

 

 でも、そのために、自分ひとりで何とかしようとしていた。

 

 彼女に頼ってほしいと言いながら、自分は誰にも頼ろうとしていなかった。

 

 アイは、そんな俺を見ていたのかもしれない。

 

「……そうだな」

 

 俺は、ゆっくりと頷いた。

 

「俺も、気をつける」

 

「約束ね!」

 

 アイは、小指を差し出した。

 

 俺も小指を絡める。

 

 いつもの約束。

 

 でも、今度の約束は、少しだけ違っていた。

 

 俺が彼女を守るための約束じゃない。

 

 彼女が俺を安心させるための約束でもない。

 

 お互いに、一人で抱え込まないための約束だった。

 

「……約束」

 

 俺たちは、小指を離した。

 

 アイは、笑った。

 

 今度こそ。

 

 何かを隠すためでも、誰かを安心させるためだけでもない。

 

 自分の気持ちを少しだけ伝えられた、そのあとの笑顔だった。

 

 俺は、その笑顔を見て思った。

 

 俺が救いたいと思っていたのは、未来のアイだけじゃなかったのかもしれない。

 

 今、目の前にいる彼女。

 

 不安になって、迷って、失敗を恐れて、それでも夢を追いかけようとしている彼女。

 

 そんな彼女が、自分の気持ちを大切にできるように。

 

 誰かの期待だけに縛られず、自分の人生を選べるように。

 

 俺は、そのためにできることをしたい。

 

 そう思った。

 

     *

 

 数日後。

 

 アイの仕事は、また少しずつ進み始めた。

 

 所属先の担当者と改めて打ち合わせをし、これからの活動について、具体的な予定を確認することになった。

 

 あの男性からの連絡は、いったん途絶えていた。

 

 今回の件については、所属先も確認を続けているらしい。

 

 アイは、以前よりも少しだけ慎重になった。

 

 分からないことは、その場で質問する。

 

 不安に感じたことは、誰かに相談する。

 

 そして、自分が納得できないことについては、すぐに返事をしない。

 

 そんな当たり前のことを、ひとつずつ覚えていった。

 

 もちろん、簡単ではなかった。

 

 時には、相手の顔色をうかがってしまうこともあった。

 

 断るのが怖くなることもあった。

 

 自分の判断が正しかったのか、不安になることもあった。

 

 それでも、以前とは少し違っていた。

 

 アイは、自分の不安を、一人だけで抱え込まなくなった。

 

 そして俺も、彼女のすべてを自分ひとりで守ろうとするのを、少しずつやめていった。

 

 俺たちは、まだ何も知らない。

 

 この先、彼女がどんな仕事をするのか。

 

 どんな人たちと出会うのか。

 

 どんな未来が待っているのか。

 

 俺が知っている物語と、今ここで起きている出来事が、どこまで重なっているのか。

 

 その答えは、まだ分からない。

 

 それでも。

 

 俺は、今のアイを見ていたいと思った。

 

 未来の彼女だけじゃなく。

 

 今、目の前で笑っている彼女を。

 

 迷っている彼女を。

 

 自分の気持ちを言葉にしようとしている彼女を。

 

 そのすべてを、ちゃんと見ていたい。

 

「透くーん!」

 

 廊下の向こうから、アイの声が聞こえた。

 

「なにー?」

 

「ちょっと来て!」

 

「何だよ」

 

「いいから!」

 

 呼ばれるままに近づくと、アイは一枚の紙を差し出してきた。

 

「これ、見て!」

 

 そこには、次のレッスンの予定が書かれていた。

 

「……おお。結構、予定入ってるな」

 

「でしょー? これから忙しくなるんだって!」

 

「無理すんなよ」

 

「分かってるってば!」

 

 アイは頬を膨らませた。

 

「もう、透くんってば心配しすぎ!」

 

「誰のせいだよ」

 

「私じゃないもーん!」

 

 そう言って、アイは笑った。

 

 俺も笑った。

 

 何でもない会話。

 

 何でもない日常。

 

 けれど、俺にとっては、それが何より大切だった。

 

 この時間が続いてほしい。

 

 彼女が笑っていられる日が、一日でも長く続いてほしい。

 

 その願いは、変わらない。

 

 ただ、今はもう、少しだけ違う。

 

 彼女の笑顔を守るために、彼女の気持ちを無視することはしない。

 

 彼女の未来を守るために、彼女の選択を奪うこともしない。

 

 俺は、彼女と一緒に考える。

 

 彼女が自分で選べるように。

 

 そして、選んだ先で困ったときには、いつでも戻ってこられるように。

 

 そんな場所でありたいと思った。

 

 アイは、俺の顔を覗き込んだ。

 

「……透くん?」

 

「ん?」

 

「何か、また変なこと考えてない?」

 

「考えてねえよ」

 

「うそだー!」

 

「うるさいな」

 

「あははっ!」

 

 アイの笑い声が、廊下に響いた。

 

 その声を聞きながら、俺は思った。

 

 ――まだ、大丈夫。

 

 そう思いたかった。

 

 けれど、その願いの裏側で。

 

 俺たちの知らないところでは、まだ何かが動いていた。

 

 アイの夢を見ているのは、俺たちだけではない。

 

 彼女を応援する人もいれば、彼女に期待する人もいる。

 

 そして、彼女の可能性を、自分の都合で利用しようとする人間だっているのかもしれない。

 

 そのすべてを、俺が見分けられるとは限らない。

 

 それでも。

 

 今度こそ、見逃したくなかった。

 

 彼女が助けを求める声を。

 

 彼女が、本当は何を望んでいるのかを。

 

 そして、彼女自身が、自分の人生を選ぼうとする、その瞬間を。

 

 俺は、アイの隣に立っていた。

 

 彼女の夢が、彼女自身の幸せにつながることを願いながら。

 

 ――そのとき、俺はまだ知らなかった。

 

 アイが自分の気持ちを誰かに話せるようになったことを、喜ばしく思っていたのは俺だけではなかったということを。

 

 彼女が一人で抱え込むのをやめた、その小さな変化を。

 

 遠くから、別の誰かもまた、見つめていたことを。

 

 そして、その人物が次に動くとき。

 

 俺たちは、もう一度、大きな選択を迫られることになる。

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