アイが帰ってきた夜、俺はなかなか眠れなかった。
部屋の明かりを消して、布団に潜り込んで、目を閉じる。
それでも、頭の中には何度も同じ光景が浮かんできた。
『何もないよ』
『大丈夫!』
あの笑顔。
俺が何かを聞こうとするたび、アイは笑ってみせた。
それは、いつものアイだった。
明るくて、誰かを心配させるのが苦手で、自分が困っていても、先に相手の顔色をうかがってしまう。
だからこそ、俺は気づいていた。
あの笑顔は、俺に安心してほしくて浮かべたものだった。
でも。
安心させるための笑顔と、本当に安心している人間の笑顔は、同じじゃない。
「……何やってんだ、俺」
小さく呟く。
俺はアイの未来を知っている。
少なくとも、知っているつもりでいる。
彼女がいつか有名なアイドルになること。
たくさんの人に愛される存在になること。
そして――その人生に、取り返しのつかない悲劇が待っていること。
けれど、俺が知っているのは、あくまで大まかな物語だけだ。
何がきっかけで、誰が関わって、どんな順番で物事が進んでいくのか。
肝心なことは、ほとんど分からない。
今、アイの周りで起きていることが、あの未来につながっているのかどうかさえ、俺には判断できなかった。
だから、怖かった。
彼女が何かを隠していることが。
俺の知らないところで、彼女の人生が動いていることが。
そして何より。
俺が何も知らないまま、また何かを見逃してしまうことが。
「……明日、ちゃんと話そう」
そう決めて、ようやく目を閉じた。
けれど、その夜は結局、いつもよりずっと浅い眠りしか取れなかった。
*
翌朝。
「透くん、おはよー!」
アイは、いつも通りの声で俺を起こした。
「……ん。おはよ」
「なにその顔。めっちゃ眠そう」
「誰のせいだと思ってんだよ」
「えっ、私?」
「お前が気になって眠れなかったんだよ」
口に出してから、少し後悔した。
アイの笑顔が、ぴたりと止まったからだ。
「……私?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「昨日のこと?」
いつもなら、冗談にして流してしまうところだった。
けれど、アイは俺の顔をじっと見ていた。
笑っていない。
その目には、ほんの少しの不安が浮かんでいた。
「……うん」
俺は頷いた。
「昨日、何があったのか、気になってる」
「……そっか」
「話したくないなら、無理に話さなくてもいい。でも、もし困ってるなら――」
「困ってないよ」
返事は、あまりにも早かった。
まるで、その言葉を言うために、ずっと準備していたみたいに。
「本当に、大丈夫だから」
「……アイ」
「ね、透くん」
アイは一歩、俺に近づいた。
「私のこと、信じてる?」
不意に聞かれて、言葉に詰まった。
信じている。
それは本当だ。
アイが自分で選んだ夢を、俺は信じている。
彼女が努力して、前に進もうとしていることも。
怖くても、悩んでも、それでも自分の足で歩こうとしていることも。
だからこそ、俺は彼女の選択を尊重したいと思っていた。
けれど。
「……信じてるよ」
「じゃあ、大丈夫」
アイは笑った。
「私はちゃんと、自分で考えてるから」
そう言って、俺の横を通り過ぎる。
その背中を見ながら、俺は何も言えなかった。
信じていると伝えた途端、彼女はそれを理由に、俺を遠ざけてしまった。
違う。
俺が言いたかったのは、そういうことじゃない。
信じているからこそ、何かあったときには頼ってほしい。
失敗してもいい。
怖がってもいい。
自分ではどうにもできないことがあってもいい。
そういう姿を見せても、俺は彼女を信じることをやめたりしない。
それを伝えたかった。
でも、俺の言葉はそこまで届かなかった。
「……難しいな」
俺は小さく息を吐いた。
アイを守りたい。
でも、守りたいという気持ちだけで、彼女の心に踏み込んでいいわけじゃない。
それは、もう何度も自分に言い聞かせてきたことだった。
それでも、今の俺には。
どうすることが正しいのか、分からなかった。
*
その日の昼過ぎ。
アイは施設の職員に呼ばれ、外出の予定について話をしていた。
俺は少し離れた場所で、子どもたちの宿題を見ていた。
「透お兄ちゃん、ここ分かんない!」
「どれ?」
「この問題!」
「……ああ、ここか。先にこっちを計算してみ」
「えー、なんで?」
「順番にやったほうが簡単だから」
「うーん……」
子どもが鉛筆を動かし始める。
俺はその様子を見守りながら、何となく事務室のほうに視線を向けた。
扉が開く。
アイが出てきた。
職員に頭を下げて、それから携帯電話を取り出す。
画面を確認した彼女の顔が、一瞬だけ曇った。
けれど、すぐに携帯電話をポケットへしまう。
俺と目が合うと、アイは笑った。
「透くん、あとでちょっといい?」
「……いいけど」
「ありがと!」
それだけ言って、彼女は廊下の向こうへ歩いていった。
あとで。
その言葉に、少しだけ期待した。
もしかしたら、昨日のことを話してくれるのかもしれない。
俺から聞き出すのではなく、アイ自身が話したいと思ってくれたのなら。
今度こそ、ちゃんと聞こう。
そう思った。
けれど、夕方になっても、アイは俺のところへ来なかった。
食事のときも、いつも通りだった。
子どもたちの話に笑って、今日あったことを話して、職員の手伝いをして。
ただひとつ違ったのは、何度も携帯電話を確認していたことだった。
画面が光るたび、アイの視線がそちらへ向く。
そして、メッセージを確認するたび、笑顔がほんの少しずつ硬くなっていく。
何かを待っている。
あるいは、何かを恐れている。
俺には、そう見えた。
食事のあと、アイはすぐに自分の部屋へ戻ろうとした。
「アイ」
俺は声をかけた。
「……ん?」
「昨日、話したいことがあるって言ってなかった?」
アイの足が止まった。
「あ……」
少し困ったような顔。
それから、彼女は申し訳なさそうに笑った。
「ごめん。ちょっと、まだまとまってなくて」
「そっか」
「もう少し考えてからでもいい?」
「……もちろん」
「ありがと、透くん」
アイはほっとしたように笑い、部屋へ戻っていった。
俺はその場に残った。
話したくないわけじゃない。
でも、話せない。
そんな感じがした。
俺は、ふと考えた。
もし、アイが何かを話せない理由が、俺にあるとしたら。
俺が心配しすぎるから。
俺が何でも悪い方向に考えるから。
俺が彼女の夢を応援すると言いながら、心のどこかで危険を恐れているから。
もし、それが理由なら。
俺は、どうすればいいのだろう。
彼女が話せるようになるまで待つ?
それとも、彼女が話せないこと自体を問題として考えるべきなのか。
答えは出なかった。
ただ、ひとつだけ分かっていた。
アイは今、一人で何かを抱え込んでいる。
そして、その何かは、昨日よりもずっと重くなっているように見えた。
*
翌日。
俺は、施設の職員に相談することにした。
もちろん、アイの秘密を勝手に暴こうというつもりはなかった。
ただ、彼女が仕事でどこかへ出かけていること。
最近、様子が少しおかしいこと。
それから、俺自身が不安を感じていること。
それらを、信頼できる大人に伝えておきたかった。
俺は、施設で長く働いている職員の一人に声をかけた。
「すみません。ちょっと相談したいことがあるんですけど」
「どうしたの、透くん?」
「……アイの仕事のことで」
職員は、少し表情を改めた。
「アイちゃん?」
「はい。最近、仕事のことで何か悩んでるみたいで……」
俺は言葉を選びながら、話した。
アイが最近、誰を信じればいいのか分からないと言っていたこと。
仕事の電話を受けたあと、様子が変わったこと。
そして、先日、打ち合わせから帰ってきた彼女が、何かを隠しているように見えたこと。
ただし、本人が話していない内容については、俺も分からない。
そこは、はっきりと伝えた。
職員は最後まで黙って聞いていた。
「……そうだったのね」
「俺の考えすぎなら、それでいいんです。でも、もし何かあったら……」
「心配しているのね」
「……はい」
職員は、少し考えてから口を開いた。
「透くん。心配してくれてありがとう。でも、ひとつだけ覚えておいてね」
「はい」
「アイちゃんが自分で選んだ仕事だから、私たちも、その気持ちは大切にしたいと思っているの。でも、自分で選んだことだからって、何でも一人で背負わなきゃいけないわけじゃないのよ」
俺は顔を上げた。
「……そうですよね」
「仕事のことは、必要なら私たちも確認するわ。アイちゃんが安心して活動できるように、所属先の方ともきちんと話しておきたいから」
その言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
俺ひとりで何とかしなければいけないわけじゃない。
それは、当たり前のことだった。
けれど、俺はずっと、その当たり前を忘れていたのかもしれない。
アイを守らなければ。
悲劇を防がなければ。
そんなことばかり考えて、俺自身も、一人で何とかしようとしていた。
彼女と同じように。
「……ありがとうございます」
「ううん。こちらこそ、話してくれてありがとうね」
職員は優しく笑った。
「ただ、アイちゃんにも自分の気持ちがあるから。まずは、本人の話を聞いてみるわ。透くんも、何か気づいたことがあったら教えてね」
「はい」
俺は頷いた。
アイの許可なく、彼女のすべてを調べるわけにはいかない。
けれど、彼女が困っている可能性を知りながら、何もしないわけにもいかない。
その境界線を、俺はこれからも考え続けなければならないのだろう。
*
その日の夕方。
アイは、職員に呼び止められた。
「アイちゃん、少しお話しできる?」
「……はい?」
アイは不思議そうに首を傾げた。
「お仕事のことでね。最近、困っていることはない?」
その瞬間、アイの顔から笑顔が消えた。
けれど、ほんの一瞬だった。
「えっ? ないですよ!」
すぐに笑顔を浮かべる。
「お仕事、楽しいですし!」
「そう。それならよかった。でも、もし困ったことがあったら、いつでも相談してね」
「はい! ありがとうございます!」
アイは頭を下げた。
職員がその場を離れる。
アイは、しばらくその背中を見つめていた。
そして、ゆっくりと携帯電話を取り出した。
画面には、新しいメッセージが届いていた。
『次回の予定について、確認をお願いします』
アイは、画面を見つめたまま動かなかった。
次回。
つまり、あの打ち合わせの続きだ。
前回の話では、まだ何も決まっていなかった。
けれど、相手はすでに、次の予定を組もうとしている。
断るなら、今なのかもしれない。
そう思った。
でも、もし断ったら。
もう二度と、こんなチャンスは来ないかもしれない。
せっかく、自分を見つけてくれた人がいたのに。
せっかく、夢に近づけるかもしれないのに。
アイは唇を噛んだ。
「……どうしよう」
声は、小さかった。
誰にも聞かれないように。
自分自身にさえ、聞こえないように。
それでも、胸の奥では、ずっと同じ言葉が響いていた。
怖い。
でも、諦めたくない。
怖い。
でも、ここでやめたくない。
その二つの気持ちが、彼女の中でぶつかり合っていた。
*
夜。
俺は廊下でアイを見つけた。
窓際に立って、外を眺めている。
声をかけようか迷った。
最近、彼女は一人でいる時間が増えた。
俺が近づくと笑ってくれる。
話しかければ、いつも通り返してくれる。
けれど、その笑顔の奥にあるものには、なかなか触れられなかった。
「……アイ」
それでも、俺は声をかけた。
「ん?」
アイが振り返る。
「何してんの?」
「んー? 外を見てただけ」
「そっか」
俺は隣に立った。
窓の外には、街の明かりが見えた。
少し離れた道路を車が走り、遠くから誰かの話し声が聞こえてくる。
何でもない夜だった。
少なくとも、見た目には。
「……透くん」
しばらくして、アイが口を開いた。
「ん?」
「私さ」
そこで、言葉が止まった。
アイは窓の外を見たまま、何かを考えていた。
俺は急かさなかった。
今度こそ、最後まで聞こうと思った。
「……私、ちゃんと頑張れてるかな」
ようやく出てきた言葉は、予想していたものとは違った。
「何が?」
「お仕事」
アイは小さく笑った。
「まだ始まったばっかりだけどさ。私、ちゃんとできてるのかなって」
「……できてると思うよ」
「ほんと?」
「ああ。少なくとも、俺はそう思ってる」
アイは少しだけ顔を上げた。
「でも、私、分かんないんだよね」
「何が?」
「何を頑張ればいいのか」
その声は、いつもよりずっと小さかった。
「歌もダンスも、まだまだだし。もっと練習しなきゃいけないこと、いっぱいあるし。私より上手な人だって、たくさんいると思う」
「うん」
「だから、もっと頑張らなきゃって思うんだ」
アイは自分の手を見つめた。
「でも、頑張れば頑張るほど、何が正解なのか分かんなくなるときがあるの」
俺は黙って聞いていた。
「誰かに褒められると嬉しい。期待してもらえると、もっと頑張ろうって思う。でも、期待されてることが、私のやりたいことと違ったら……どうしたらいいんだろうって」
その言葉を聞いて、胸が痛んだ。
俺は知っていた。
アイが、誰かを笑顔にすることを大切にしていることを。
自分が笑えば、誰かが喜んでくれる。
自分が頑張れば、誰かが笑ってくれる。
だから彼女は、いつも笑顔でいようとする。
けれど。
誰かを笑顔にすることと、自分の気持ちを押し殺すことは、同じじゃない。
「……アイ」
「ん?」
「誰かに期待されたからって、その人の望む通りにならなきゃいけないわけじゃないよ」
アイは俺を見た。
「でも、期待を裏切っちゃうかもしれない」
「そうだな」
「嫌われるかもしれない」
「……そうかもしれない」
俺は、簡単に否定しなかった。
世の中には、期待通りに動かなかった人を嫌う人もいる。
自分の望みを優先して、相手の気持ちを考えない人もいる。
そんな人がいないなんて、俺には言えなかった。
「でもさ」
俺は続けた。
「誰かに嫌われないために、自分が嫌なことまで全部引き受ける必要はないと思う」
アイの目が揺れた。
「……嫌なこと」
「うん。自分が嫌だと思ったこととか、怖いと思ったこととか。そういう気持ちは、ちゃんと大事にしていいんだよ」
「……そっか」
「うん」
しばらく、沈黙が続いた。
アイは何かを言おうとしているようだった。
けれど、結局、口を開かなかった。
「……透くんってさ」
「ん?」
「私が何か失敗しても、怒らない?」
思いがけない質問だった。
俺は少し考えた。
「失敗したことだけで、怒ったりしないよ」
「……ほんと?」
「ああ」
「もし、すっごく大きな失敗だったとしても?」
「……一緒に考える」
俺は、できるだけはっきりと答えた。
「何が起きたのか、どうすればいいのか。俺にできることがあるなら、手伝うよ」
アイは、じっと俺を見ていた。
「……なんで?」
「なんでって?」
「なんで、そこまでしてくれるの?」
俺は言葉に詰まった。
なぜだろう。
彼女を救いたいから。
彼女が悲しむ未来を知っているから。
もう二度と、あんな思いをしたくないから。
理由はいくらでもあった。
けれど、そのどれもが、今のアイに伝えるべき言葉ではない気がした。
俺は少しだけ考えてから、答えた。
「……友達だから」
アイは目を丸くした。
「それだけ?」
「それだけじゃ、ダメか?」
「……ううん」
彼女は、ゆっくりと首を横に振った。
「……そっか」
その顔に、少しだけ笑顔が戻った。
でも、まだ何かを抱えている。
俺には分かっていた。
そして今度こそ、俺はそれを見ないふりをしたくなかった。
「アイ」
「ん?」
「俺、最近のお前がちょっと心配なんだ」
アイの笑顔が、止まった。
「……私?」
「うん」
俺は続けた。
「仕事が忙しいのは分かってる。疲れることもあるだろうし、悩むことだってあると思う」
「……うん」
「でも、最近、何かあるたびに『大丈夫』って言うだろ」
アイは何も言わなかった。
「本当に大丈夫なら、それでいいんだ。でも、もし大丈夫じゃないのに言ってるなら……」
俺は、一度言葉を切った。
ここで間違えたくなかった。
心配だから話してほしい。
でも、話さないなら信じない。
そんな言い方にはしたくなかった。
「……無理して大丈夫って言わなくてもいいんだよ」
アイの瞳が揺れた。
「……透くん」
「うん」
「私……」
声が、かすれた。
彼女は唇を開きかけた。
その瞬間だった。
ポケットの中で、携帯電話が震えた。
アイの肩がびくりと揺れた。
彼女は反射的に携帯電話を取り出し、画面を確認した。
そして。
ほんの一瞬で、表情を変えた。
「……ごめん」
「アイ?」
「ちょっと、電話してくるね」
そう言って、彼女は俺から離れた。
廊下の向こうへ歩いていく。
俺は追いかけなかった。
けれど、胸の奥に、嫌な感覚が残った。
今の反応。
あの表情。
そして、電話が鳴る前に、彼女が何かを話そうとしていたこと。
もしかしたら。
アイは、助けを求めようとしていたのかもしれない。
それなのに、電話が鳴った途端、何も言えなくなってしまった。
「……くそ」
俺は小さく呟いた。
もう少し、あと一歩だったのかもしれない。
でも、俺は何もできなかった。
*
その夜。
アイは自分の部屋で、携帯電話を握りしめていた。
通話は、もう終わっている。
相手は、先日の打ち合わせを担当した男性だった。
『次回の日程について、確認したいことがありまして』
電話の向こうの声は、穏やかだった。
『前回お話しした企画ですが、こちらとしても、ぜひ前向きに進めたいと思っています』
アイは、嬉しかった。
自分のことを必要としてくれている。
自分に期待してくれている。
それが、素直に嬉しかった。
けれど。
『ただ、正式な契約や発表の前ですから、まだ周囲には詳しく話さないでくださいね』
また、その言葉だった。
『それから、次回はもう少し具体的なお話をしたいので、できればお一人で来ていただけると助かります』
アイは、すぐに返事ができなかった。
『……何か気になることでもありますか?』
「いえ……」
反射的に答えてしまった。
『そうですか。もちろん、分からないことがあれば質問してください。ただ、こういうお仕事はタイミングも大事ですからね』
タイミング。
その言葉が、重くのしかかった。
『せっかくのチャンスですから、ぜひ逃さないでほしいと思っています』
電話は、それで終わった。
アイは携帯電話を見つめた。
次の打ち合わせに行くべきなのか。
断るべきなのか。
それとも、誰かに相談するべきなのか。
分からない。
分からないのに、時間だけが過ぎていく。
「……どうしよう」
小さく呟く。
今日、透は言ってくれた。
嫌なことまで全部引き受ける必要はない、と。
失敗しても、一緒に考える、と。
それは、嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
でも。
だからこそ、怖かった。
もし透に話して、彼が心配したら。
もし職員に相談して、仕事の話がなくなったら。
もし、自分の判断が間違っていて、せっかくのチャンスを逃してしまったら。
そのとき、自分は後悔しないだろうか。
アイは布団の上に座り込んだ。
膝を抱える。
こんなふうに悩むのは、初めてだった。
夢を持つことは、楽しいことだと思っていた。
努力して、少しずつ上手になって。
できなかったことができるようになって。
誰かに褒められて、また頑張ろうと思って。
そうやって、一歩ずつ進んでいくものだと思っていた。
でも、今は違う。
頑張れば頑張るほど、分からないことが増えていく。
何が正しくて、何が間違っているのか。
どこまでなら頑張ってよくて、どこからは無理をしないほうがいいのか。
誰を信じて、誰に頼ればいいのか。
何も分からない。
「……私、アイドルになりたいのに」
声が震えた。
「ただ、アイドルになりたいだけなのに……」
どうして、こんなに難しいのだろう。
アイは顔を伏せた。
涙は出なかった。
泣いてしまえば、何かが変わるような気がした。
でも、何も変わらないことも分かっていた。
だから彼女は、また自分に言い聞かせる。
大丈夫。
まだ何も起きていない。
まだ、自分で何とかできる。
そうやって、何度も何度も、自分の心に蓋をした。
*
翌日。
俺は、アイの様子を気にしながら一日を過ごしていた。
話しかければ、いつも通り返事をしてくれる。
笑いかければ、笑い返してくれる。
けれど、どこか遠い。
同じ場所にいるはずなのに、手を伸ばしても届かないような距離があった。
昼過ぎ、俺はアイを見つけた。
廊下の窓際。
携帯電話を手に持ち、画面を見つめている。
「……アイ」
声をかけると、彼女はすぐに顔を上げた。
「透くん!」
笑顔。
いつもの笑顔。
「何してんの?」
「んー? ちょっと連絡!」
「仕事?」
「うん!」
アイは携帯電話をポケットにしまった。
「……ねえ、透くん」
「ん?」
「もしさ、誰かに『これを逃したら、もうチャンスはないよ』って言われたら、どうする?」
俺は、彼女を見つめた。
まただ。
また、何かを尋ねようとしている。
「……それは、誰に言われたの?」
そう聞くと、アイの表情が少しだけ曇った。
「……もしもの話だよ」
「そっか」
俺は、少し考えた。
「俺だったら、まず、本当にそうなのか聞く」
「本当に?」
「うん。『もうチャンスはない』って、誰が決めたんだよって思う」
アイは黙っていた。
「それに、もし本当にそのチャンスが一度きりだったとしても、自分が納得できないなら、無理に選ぶ必要はないと思う」
「……でも」
「うん?」
「それを逃したら、夢が遠くなっちゃうかもしれないよ?」
「そうだな」
俺は頷いた。
「遠くなるかもしれない。でも、遠くなることと、なくなることは違うだろ」
アイは、じっと俺を見ていた。
「……なくならないかな」
その声は、とても小さかった。
「……なくならないよ」
俺は答えた。
「少なくとも、アイがアイドルになりたいって思ってる限り、その夢はなくならない」
「……ほんと?」
「うん」
それは、俺が確信を持って言えることだった。
彼女が夢を諦めない限り、道は続いていく。
もちろん、思い通りにならないこともあるだろう。
遠回りをすることもあるだろう。
時には、立ち止まることだってある。
それでも、夢そのものが消えるわけじゃない。
少なくとも、誰か一人の言葉だけで、決められるものじゃないはずだ。
アイは、ゆっくりと視線を落とした。
「……そっか」
それから、小さく笑った。
「ありがと、透くん」
「……うん」
今度は、俺から何も聞かなかった。
聞けば、彼女は答えてくれるかもしれない。
けれど、今の彼女に必要なのは、答えを急かされることではない気がした。
自分の気持ちを、自分で確かめる時間。
そして、どんな答えを選んでも、すぐにすべてが終わるわけではないと知ること。
俺にできるのは、そのことを伝えるくらいだった。
*
その日の夕方。
アイは、職員のところへ向かった。
俺は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
「……あの、ちょっと相談したいことがあるんですけど」
アイの声が聞こえた。
職員は、優しく頷いた。
「もちろん。どうしたの?」
「……お仕事のことで」
アイは、携帯電話を握りしめた。
「今度、また打ち合わせがあるんです。でも……」
そこで、言葉が止まる。
俺は息を止めた。
話すんだ。
アイが、自分から。
「……相手の人に、まだ周りには話さないでって言われてて」
「そうなのね」
「それで、次も一人で来てほしいって……」
職員の表情が、少しだけ真剣になった。
「そのお話は、いつもの担当の方から?」
「……違います」
アイは、小さく首を横に振った。
「別の人です。仕事につながるかもしれないって言われて……」
「そう。具体的には、どんなお仕事なの?」
「……まだ、よく分からないんです」
その言葉を聞いて、職員は少し考えた。
「アイちゃん。話してくれてありがとうね」
「……はい」
「その打ち合わせについては、まず、いつもの担当の方に確認してみましょう。どんなお仕事なのか、誰が関わっているのか、きちんと分かったうえで考えたほうがいいと思うの」
アイは、不安そうに職員を見た。
「……でも、せっかくのチャンスなんです」
「うん。アイちゃんにとって、大事なお話なのね」
「……はい」
「だからこそ、急いで決めなくてもいいのよ。きちんと確認することは、チャンスを捨てることとは違うから」
アイは、しばらく黙っていた。
そして。
「……分かりました」
小さく頷いた。
「確認してもらっても、いいですか?」
「もちろん」
職員は笑った。
「一緒に確認しましょう」
その言葉を聞いた瞬間、アイの肩から、ほんの少しだけ力が抜けたように見えた。
俺は、胸の奥で息を吐いた。
よかった。
少なくとも、彼女はもう、一人で何とかしようとはしていない。
それだけで、少し安心できた。
けれど。
これで全部が解決したわけじゃない。
相手が何者なのか。
どんな意図でアイに接触したのか。
そして、なぜ彼女に一人で来るよう求めたのか。
それは、まだ分からない。
俺は、職員と話しているアイを見つめた。
彼女は、不安そうな顔をしていた。
でも、その顔を隠そうとはしていなかった。
少しだけ。
本当に少しだけだけれど。
アイは、自分の弱さを誰かに見せることができたのだ。
*
夜。
俺は自分の部屋で、窓の外を眺めていた。
結局、アイが相談した相手について、俺から詳しく聞くことはしなかった。
彼女が自分で話してくれるなら、そのときに聞けばいい。
今は、それでいいと思った。
ただ、ひとつだけ気になっていた。
以前、施設の近くで見かけた男。
こちらを見ていた、あの人物。
彼が今回の件に関わっているのかどうか。
まだ何の証拠もない。
ただの偶然かもしれない。
仕事関係者が施設の場所を確認していただけかもしれない。
俺が不安になりすぎて、関係のないものまで結びつけている可能性だってある。
だから、今の時点で決めつけることはできなかった。
それでも。
アイが知らない大人と会い、詳しい説明もないまま次の予定を求められていたこと。
そして、彼女自身が不安を感じていたこと。
その二つは、確かに起きたことだった。
俺は携帯電話を手に取った。
アイに何か送ろうかと思った。
でも、結局、何も打てなかった。
今日、彼女は自分から相談した。
その一歩を、俺が余計な心配で台無しにしたくなかった。
「……信じる、か」
俺は呟いた。
信じることは、何も心配しないことじゃない。
相手が何を選んでも、何が起きても、ただ見守っていることでもない。
相手が自分で考え、自分で決められるように、必要なときには手を差し伸べること。
そして、相手が助けを求めてくれたとき、ちゃんとその声を聞くこと。
たぶん、そういうことなのだろう。
俺は、ようやく少しだけ分かった気がした。
俺がアイの未来を変えたいと思うのなら。
ただ、彼女を危険から遠ざけるだけでは足りない。
彼女自身が、自分の人生を選べるようにならなければならない。
誰かの期待に応えるためだけじゃなく。
誰かに嫌われないためだけでもなく。
自分がどうしたいのか。
何を大切にしたいのか。
それを、自分の言葉で選べるように。
そのために、俺ができることは何だろう。
まだ、答えは出ない。
けれど、少なくとも。
俺が先回りして、彼女の代わりにすべてを決めることではない。
それだけは、分かっていた。
*
翌日。
アイは、朝食のあとで俺のところへやってきた。
「……透くん」
「ん?」
「昨日、ありがとね」
「……昨日?」
「うん。いろいろ」
アイは少し照れくさそうに笑った。
「透くんが言ってくれたこと、ちゃんと考えたよ」
「そっか」
「それでね。私、ちょっとだけ分かった気がする」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
「私、夢を叶えたいって思ってたのに、いつの間にか、夢を叶えるためなら何でもしなきゃって思ってたのかもしれない」
俺は黙って聞いていた。
「頑張るのは、嫌じゃないんだよ。むしろ、頑張りたい。でも……」
アイは、少しだけ言葉を探した。
「頑張ることと、何でも我慢することは、違うんだよね」
「……うん」
「私、昨日、職員さんに相談したの。仕事のことで」
「……そっか」
「うん。まだ、どうなるか分かんないけど」
アイは俺を見た。
「でも、ちょっとだけ楽になった」
その顔には、昨日までとは違う表情があった。
まだ不安は残っている。
怖さだって、消えていないのだろう。
それでも、彼女は少しだけ前に進んでいた。
「……よかった」
俺がそう言うと、アイは笑った。
「ふふっ。透くん、心配しすぎなんだよ」
「誰のせいだよ」
「えー? 私?」
「お前以外に誰がいるんだ」
「あははっ!」
アイは声を上げて笑った。
久しぶりに聞いた、自然な笑い声だった。
俺も、少しだけ笑った。
その瞬間、ようやく肩の力が抜けた気がした。
もちろん、これですべてが解決したわけじゃない。
仕事の話がどうなるのかも分からない。
あの人物が何者なのかも分からない。
それでも、昨日までとは違う。
アイは、もう一人ではない。
俺も、彼女を守ろうとして一人で抱え込む必要はない。
そう思えた。
「……ねえ、透くん」
「ん?」
「私、これからもアイドル目指していいよね?」
俺は、すぐに頷いた。
「もちろん」
「……そっか」
アイは、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、もっと頑張らなきゃね!」
「いや、だからって無理はすんなよ」
「分かってるって!」
「本当か?」
「ほんとほんと!」
アイは笑いながら、俺の肩を軽く叩いた。
その仕草が、いつも通りで。
俺は、少しだけ安心した。
彼女は、まだ夢を諦めていない。
そして、俺も。
彼女が夢を叶える未来を、諦めていない。
*
その日の午後。
施設の職員から、アイの所属先へ確認の連絡が入った。
いつもの担当者は、少し驚いた様子だったという。
アイに別の人物から打ち合わせの連絡があったこと。
その人物が、施設の許可なく、アイに直接予定を調整させていたこと。
そして、打ち合わせの内容について、十分な説明がなされていなかったこと。
それらを伝えると、担当者はすぐに確認すると約束した。
その後、アイにも連絡があった。
先日の話は、正式な仕事の依頼として決まったものではなかったらしい。
相手は、今後の企画に関わる可能性がある人物だったが、正式な担当者を通さずに話を進めていた。
そして、次回の打ち合わせについては、いったん保留になった。
アイは、その説明を静かに聞いていた。
「……そうですか」
電話を切ったあと、彼女はしばらく動かなかった。
嬉しいような。
悲しいような。
ほっとしたような。
いろいろな気持ちが、胸の中で混ざり合っていた。
これで、もう悩まなくていい。
そう思う気持ちもあった。
でも、同時に。
もしかしたら、本当に大きなチャンスだったのかもしれない。
もし、何も相談せずに話を進めていたら、もっと違う未来があったのかもしれない。
そんな考えも、頭の片隅に残っていた。
「……難しいなあ」
アイは小さく呟いた。
夢を追いかけることは、簡単じゃない。
誰かを信じることも。
自分の気持ちを大切にすることも。
全部、思っていたよりずっと難しい。
それでも。
アイは、もう一度、携帯電話を手に取った。
画面を開き、透とのやり取りを確認する。
そこには、何でもない会話が並んでいた。
今日のおやつの話。
昨日、子どもたちが遊んでいたゲームの話。
透が少し寝不足らしいという話。
何でもない、いつものやり取り。
アイは、その画面を見つめた。
そして、新しいメッセージを打った。
『透くん、今日の夜、ちょっと話してもいい?』
送信。
しばらくして、返事が来た。
『いいよ。どうした?』
アイは、少しだけ笑った。
今度は、ちゃんと話そう。
何があったのか。
何が怖かったのか。
自分が何を考えていたのか。
全部を話せるかは分からない。
途中で、また言葉に詰まるかもしれない。
それでも。
少しずつなら、話せる気がした。
アイは携帯電話を胸元に抱えた。
「……ありがと、透くん」
その言葉は、誰にも聞こえなかった。
けれど、今度は。
自分の気持ちを隠すための言葉ではなかった。
*
夜。
俺は、いつもの場所でアイを待っていた。
廊下の窓際。
以前、彼女と夢の話をした場所だ。
しばらくして、足音が聞こえた。
「……透くん」
振り返る。
アイが立っていた。
いつもより、少しだけ緊張した顔をしている。
「おう」
「……待った?」
「いや、今来たとこ」
「そっか」
アイは隣に立った。
窓の外には、街の明かりが見える。
昨日と同じ景色。
でも、今日は少しだけ違って見えた。
「……あのね」
アイが口を開いた。
「私、ずっと隠してたことがあるんだ」
俺は、彼女を見た。
「……うん」
「仕事のことで、ちょっと怖いことがあったの」
その言葉を聞いて、胸が痛んだ。
けれど、俺は何も言わなかった。
彼女が、自分の言葉で話そうとしている。
だから、最後まで聞きたかった。
「最初はね、嬉しかったんだ。私に興味を持ってくれた人がいて、もっと大きな仕事につながるかもしれないって言われて」
「……うん」
「でも、何をするのか、ちゃんとは分からなくて。一人で来てほしいって言われて、周りには話さないでって言われて……」
アイは、指先を握りしめた。
「私、どうしたらいいのか分かんなくなっちゃった」
その声は、少し震えていた。
「断ったら、夢が遠くなっちゃうかもしれないって思った。せっかくのチャンスなのに、自分から手放すことになるかもしれないって」
「……うん」
「だから、透くんにも言えなかった」
アイは、ゆっくりと顔を上げた。
「透くん、心配するでしょ?」
「……するな」
「だよね」
彼女は、少しだけ笑った。
「それに、止められるかもしれないって思ったの」
俺は、息を止めた。
「私がアイドルになること、応援してくれてるのは分かってる。でも、危ないことがあったら、やめたほうがいいって言うんじゃないかなって」
アイは、窓の外を見つめた。
「私、夢を諦めたくなかったんだ」
その言葉は、とてもまっすぐだった。
「だから、怖いって思ってることも、ちゃんと話せなかった。自分でも、どうしたらいいのか分からなかったから」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
彼女は、俺を信じていなかったわけじゃない。
信じていたからこそ、怖かったのだ。
俺に心配をかけたくなかった。
夢を諦めるように言われたくなかった。
そして何より、自分自身が、夢を諦めることを恐れていた。
だから、隠した。
自分の不安を。
自分の迷いを。
そして、本当は誰かに助けてほしいという気持ちを。
「……アイ」
「……うん」
「話してくれて、ありがとう」
アイは、少し驚いたように目を見開いた。
「……怒らないの?」
「何に?」
「隠してたこと」
俺は首を横に振った。
「怒らないよ」
「……でも」
「心配はした。すごく」
アイは、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……ごめんね」
「謝らなくていい」
俺は、できるだけ優しく言った。
「話せなかったのにも、理由があったんだろ」
「……うん」
「だったら、今こうして話してくれたことが、俺は嬉しい」
アイの瞳が揺れた。
「……ほんと?」
「ああ」
俺は頷いた。
「それに、俺も悪かったと思う」
「……透くんが?」
「うん。俺、ずっとアイのことが心配で、何かあったらどうしようって考えてばっかりだったから」
アイは黙って聞いていた。
「だから、もしかしたら、アイにとっては、俺に話すこと自体が怖くなってたのかもしれない」
「……そんなこと」
「ないとは言い切れないだろ」
俺は苦笑した。
「俺、心配すると、すぐ顔に出るし」
「……それは、そうかも」
「おい」
アイが、少しだけ笑った。
俺も笑った。
でも、すぐに真面目な顔に戻る。
「俺は、アイに夢を諦めてほしいわけじゃない」
「……うん」
「アイがアイドルになりたいって思ってること、ちゃんと応援してる」
それは、何度でも伝えたいことだった。
「でも、夢を叶えるために、何でも我慢しなきゃいけないわけじゃない。怖いことがあったら、怖いって言っていいし、分からないことがあったら、分からないって言っていい」
アイは、俺を見つめていた。
「それで、誰かに相談したからって、夢を諦めたことにはならないよ」
「……うん」
「むしろ、自分の夢を大切にするために、必要なことなんじゃないかな」
アイは、ゆっくりと頷いた。
「……そっか」
そして、少しだけ笑った。
「……私、まだ、ちゃんとできるかな」
「何が?」
「アイドル」
俺は、すぐに答えた。
「できるよ」
「……ほんとに?」
「ああ。でも、ちゃんとできなくてもいいと思う」
アイは、きょとんとした。
「え?」
「最初から何でもできる人なんていないだろ。失敗したっていいし、分からないことがあったら聞けばいい。困ったら相談すればいい」
俺は、彼女を見た。
「アイは、アイのままで頑張ればいいんだよ」
アイは、しばらく何も言わなかった。
そして。
「……透くんって、ずるいね」
「は?」
「そんなこと言われたら、泣きそうになっちゃうじゃん」
彼女は笑った。
でも、その目は少し潤んでいた。
俺は、何も言えなかった。
どう声をかければいいのか、分からなかった。
ただ、隣に立っていた。
彼女が、自分の気持ちを落ち着かせられるように。
無理に笑わなくてもいいように。
しばらくして、アイは小さく息を吐いた。
「……ありがと」
「うん」
「私、これからも頑張るね」
「うん。応援してる」
「でも、無理しすぎないようにする」
「それも大事」
「あと、困ったら相談する」
「……うん」
「だから、透くんも」
アイは、俺を見た。
「一人で何とかしようとしないでね」
その言葉に、俺は目を見開いた。
「……え?」
「透くんも、たまにすっごく心配そうな顔するから」
アイは、少しだけ困ったように笑った。
「私のことを守ろうとしてくれるのは嬉しいよ。でも、透くんだって、一人で全部背負わなくていいんだよ?」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
俺は、彼女を守ろうとしていた。
ずっと。
彼女が傷つかないように。
悲しまないように。
未来の悲劇にたどり着かないように。
でも、そのために、自分ひとりで何とかしようとしていた。
彼女に頼ってほしいと言いながら、自分は誰にも頼ろうとしていなかった。
アイは、そんな俺を見ていたのかもしれない。
「……そうだな」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「俺も、気をつける」
「約束ね!」
アイは、小指を差し出した。
俺も小指を絡める。
いつもの約束。
でも、今度の約束は、少しだけ違っていた。
俺が彼女を守るための約束じゃない。
彼女が俺を安心させるための約束でもない。
お互いに、一人で抱え込まないための約束だった。
「……約束」
俺たちは、小指を離した。
アイは、笑った。
今度こそ。
何かを隠すためでも、誰かを安心させるためだけでもない。
自分の気持ちを少しだけ伝えられた、そのあとの笑顔だった。
俺は、その笑顔を見て思った。
俺が救いたいと思っていたのは、未来のアイだけじゃなかったのかもしれない。
今、目の前にいる彼女。
不安になって、迷って、失敗を恐れて、それでも夢を追いかけようとしている彼女。
そんな彼女が、自分の気持ちを大切にできるように。
誰かの期待だけに縛られず、自分の人生を選べるように。
俺は、そのためにできることをしたい。
そう思った。
*
数日後。
アイの仕事は、また少しずつ進み始めた。
所属先の担当者と改めて打ち合わせをし、これからの活動について、具体的な予定を確認することになった。
あの男性からの連絡は、いったん途絶えていた。
今回の件については、所属先も確認を続けているらしい。
アイは、以前よりも少しだけ慎重になった。
分からないことは、その場で質問する。
不安に感じたことは、誰かに相談する。
そして、自分が納得できないことについては、すぐに返事をしない。
そんな当たり前のことを、ひとつずつ覚えていった。
もちろん、簡単ではなかった。
時には、相手の顔色をうかがってしまうこともあった。
断るのが怖くなることもあった。
自分の判断が正しかったのか、不安になることもあった。
それでも、以前とは少し違っていた。
アイは、自分の不安を、一人だけで抱え込まなくなった。
そして俺も、彼女のすべてを自分ひとりで守ろうとするのを、少しずつやめていった。
俺たちは、まだ何も知らない。
この先、彼女がどんな仕事をするのか。
どんな人たちと出会うのか。
どんな未来が待っているのか。
俺が知っている物語と、今ここで起きている出来事が、どこまで重なっているのか。
その答えは、まだ分からない。
それでも。
俺は、今のアイを見ていたいと思った。
未来の彼女だけじゃなく。
今、目の前で笑っている彼女を。
迷っている彼女を。
自分の気持ちを言葉にしようとしている彼女を。
そのすべてを、ちゃんと見ていたい。
「透くーん!」
廊下の向こうから、アイの声が聞こえた。
「なにー?」
「ちょっと来て!」
「何だよ」
「いいから!」
呼ばれるままに近づくと、アイは一枚の紙を差し出してきた。
「これ、見て!」
そこには、次のレッスンの予定が書かれていた。
「……おお。結構、予定入ってるな」
「でしょー? これから忙しくなるんだって!」
「無理すんなよ」
「分かってるってば!」
アイは頬を膨らませた。
「もう、透くんってば心配しすぎ!」
「誰のせいだよ」
「私じゃないもーん!」
そう言って、アイは笑った。
俺も笑った。
何でもない会話。
何でもない日常。
けれど、俺にとっては、それが何より大切だった。
この時間が続いてほしい。
彼女が笑っていられる日が、一日でも長く続いてほしい。
その願いは、変わらない。
ただ、今はもう、少しだけ違う。
彼女の笑顔を守るために、彼女の気持ちを無視することはしない。
彼女の未来を守るために、彼女の選択を奪うこともしない。
俺は、彼女と一緒に考える。
彼女が自分で選べるように。
そして、選んだ先で困ったときには、いつでも戻ってこられるように。
そんな場所でありたいと思った。
アイは、俺の顔を覗き込んだ。
「……透くん?」
「ん?」
「何か、また変なこと考えてない?」
「考えてねえよ」
「うそだー!」
「うるさいな」
「あははっ!」
アイの笑い声が、廊下に響いた。
その声を聞きながら、俺は思った。
――まだ、大丈夫。
そう思いたかった。
けれど、その願いの裏側で。
俺たちの知らないところでは、まだ何かが動いていた。
アイの夢を見ているのは、俺たちだけではない。
彼女を応援する人もいれば、彼女に期待する人もいる。
そして、彼女の可能性を、自分の都合で利用しようとする人間だっているのかもしれない。
そのすべてを、俺が見分けられるとは限らない。
それでも。
今度こそ、見逃したくなかった。
彼女が助けを求める声を。
彼女が、本当は何を望んでいるのかを。
そして、彼女自身が、自分の人生を選ぼうとする、その瞬間を。
俺は、アイの隣に立っていた。
彼女の夢が、彼女自身の幸せにつながることを願いながら。
――そのとき、俺はまだ知らなかった。
アイが自分の気持ちを誰かに話せるようになったことを、喜ばしく思っていたのは俺だけではなかったということを。
彼女が一人で抱え込むのをやめた、その小さな変化を。
遠くから、別の誰かもまた、見つめていたことを。
そして、その人物が次に動くとき。
俺たちは、もう一度、大きな選択を迫られることになる。