星野アイが、俺に秘密を打ち明けてから一週間が経った。
その一週間は、思っていたよりも穏やかだった。
アイは相変わらず忙しそうだったけれど、以前のように、携帯電話が鳴るたびに表情を曇らせることは少なくなった。
仕事の予定を確認するときも、分からないことがあれば担当者に質問しているらしい。
そして何より。
「透くん、聞いて聞いて!」
朝から、こうして俺のところへ駆け寄ってくるくらいには、元気だった。
「……何だよ。朝から騒がしいな」
「ひどっ! 大事な話なのに!」
「はいはい。で、何?」
「なんとですねー!」
アイは、もったいぶるように一度咳払いをした。
「私、今度、オーディションを受けることになりました!」
「……オーディション?」
「そう!」
彼女は両手を握りしめ、目を輝かせた。
「事務所の人から連絡があってね。これから始まるアイドルの企画で、新しい子を探してるんだって!」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸が大きく跳ねた。
ついに来た。
アイが、アイドルとして本格的に動き始める。
そのための、最初の大きな一歩。
俺が知っている未来へ、彼女が近づいていく。
……いや。
違う。
これは、俺が知っている未来へ近づいているんじゃない。
アイが、自分の未来を選び取ろうとしているんだ。
「……すごいじゃん」
俺は、できるだけ自然に笑った。
「よかったな」
「でしょー!」
アイは嬉しそうに笑った。
「まだ受かるって決まったわけじゃないけどね。でも、受けてみたいなって思って!」
「うん。受けてみればいいと思う」
「……本当に?」
「本当に」
俺がそう答えると、アイは少しだけ安心したような顔をした。
その表情を見て、俺は気づいた。
彼女は、俺が反対するかもしれないと思っていたのだ。
もちろん、心配がないわけじゃない。
オーディションの先には、今まで以上に忙しい生活が待っているかもしれない。
うまくいかなければ、傷つくこともあるだろう。
うまくいったとしても、今までとは違う苦労が増えるかもしれない。
それでも。
俺は、アイの夢を応援すると決めた。
だから、ここで俺が言うべきことは、心配だからやめておけ、ではない。
「頑張れよ」
俺は言った。
「でも、分からないことがあったら聞けよ。困ったら相談しろ。あと、ちゃんと寝ろ」
「最後だけ急にお母さんみたい!」
「大事だろ」
「分かってるってば!」
アイは声を上げて笑った。
その笑顔を見て、俺も笑った。
彼女の夢が、少しずつ形になっていく。
それが嬉しかった。
同時に、怖くもあった。
夢が大きくなればなるほど、彼女の周りには、今まで出会わなかった人たちが集まってくる。
彼女を応援する人。
彼女に期待する人。
彼女を評価する人。
そして、彼女を利用しようとする人。
そのすべてを、俺が見分けられるとは限らない。
だからこそ、彼女自身が、自分の気持ちを大切にできるようになってほしかった。
「……アイ」
「ん?」
「オーディション、楽しんでこいよ」
俺がそう言うと、アイは一瞬きょとんとした。
それから、いつもの笑顔を浮かべた。
「うん!」
その返事は、まっすぐだった。
少なくとも、その瞬間は。
*
オーディションの日程が決まったのは、それから二日後のことだった。
一次審査は、書類と写真。
その結果によって、次の審査に進めるかどうかが決まるらしい。
アイは、担当者から説明を受けたあと、さっそく準備を始めた。
写真を選んだり、必要な書類を確認したり。
施設の職員にも相談しながら、ひとつずつ進めていく。
俺は、そんな彼女を少し離れたところから見ていた。
「……透くん、ちょっと来て!」
呼ばれて近づくと、アイが何枚かの写真を机に並べていた。
「どれがいいと思う?」
「写真?」
「うん! 応募に使う写真!」
机の上には、いろいろな表情のアイが写っていた。
笑っているもの。
少し真面目な顔をしているもの。
何かを見つけたように、目を輝かせているもの。
どれも、アイらしい写真だった。
「……どれもいいと思うけど」
「それじゃ分かんないよー!」
「いや、本当に」
「じゃあ、どれが一番、私らしい?」
俺は写真を見比べた。
少し考えてから、一枚を指さす。
「これかな」
「これ?」
アイは、その写真を手に取った。
そこには、自然な笑顔の彼女が写っていた。
カメラを意識して作ったような笑顔ではなく、誰かと話している途中に撮られたような、柔らかい表情。
「……なんで?」
「一番、楽しそうだから」
「え?」
「他のもいいけど、これが一番、アイっぽい気がする」
アイは写真をじっと見つめた。
「……そっか」
それから、少し照れくさそうに笑った。
「じゃあ、これにしようかな」
「うん」
「透くんが選んでくれたんだし!」
「いや、最終的に決めるのはお前だろ」
「分かってるよー!」
アイは笑った。
そして、その写真を応募書類の横に置いた。
その様子を見て、俺は思った。
彼女は、少しずつ変わっている。
誰かに言われたからではなく、自分で考えて、自分で決めるようになっている。
もちろん、まだ迷うことはあるだろう。
誰かの意見に揺れることだってある。
それでも、彼女は自分の意思で前に進もうとしていた。
俺は、そのことが嬉しかった。
*
数日後。
アイは、一次審査の結果を待っていた。
応募書類は、無事に提出できたらしい。
あとは連絡を待つだけ。
そう分かっていても、彼女は落ち着かない様子だった。
「……まだかなあ」
食堂で、アイが携帯電話を見つめている。
「何が?」
「結果!」
「まだ数日しか経ってないだろ」
「分かってるけどさー!」
アイは頬を膨らませた。
「気になるものは気になるの!」
「まあ、そりゃそうか」
「でしょ?」
彼女は携帯電話を机に置いた。
けれど、数秒後にはまた手に取っている。
「……アイ」
「ん?」
「そんなに気になるなら、ちょっと別のことでもしてれば?」
「例えば?」
「……散歩とか?」
「今から?」
「いや、別に今じゃなくても」
「じゃあ、透くんも一緒に行こ!」
「俺も?」
「うん!」
アイは、俺の返事を待たずに立ち上がった。
「ほら、行こ!」
「……はいはい」
俺たちは、施設の近くを歩くことにした。
外は、よく晴れていた。
風が少し冷たくて、空が高い。
アイは歩きながら、何度も携帯電話を確認していた。
「……気になる?」
俺が聞くと、彼女は少しだけ笑った。
「うん。めっちゃ」
「そっか」
「だってさ、もし受かったら、次の審査に進めるんだよ?」
「そうだな」
「それって、すごいことじゃない?」
「うん。すごいと思う」
アイは、嬉しそうに笑った。
「……でも、落ちたらどうしよう」
その言葉は、さっきまでの明るさとは違っていた。
「……落ちたら、悔しいだろうな」
「うん」
「でも、受けたことまで間違いになるわけじゃないだろ」
アイは、俺を見た。
「……またそれ?」
「何が?」
「透くん、いつもそう言うよね」
「そうか?」
「うん。失敗してもいいとか、やり直せるとか」
彼女は、少しだけ笑った。
「……でも、そういうの、嫌いじゃないよ」
「そりゃどうも」
アイは空を見上げた。
「私ね、昔から、すっごく有名になりたいって思ってたんだ」
「うん」
「テレビに出て、歌って、踊って、みんなに笑ってもらって。そういうの、ずっと憧れてた」
彼女は、ゆっくりと言葉を続けた。
「でも、最近はね。それだけじゃないのかもって思うようになった」
「……それだけじゃない?」
「うん」
アイは、少し考えてから言った。
「私、自分がアイドルになったら、何かが変わると思ってたんだ。今よりもっと楽しくなるとか、もっと自信が持てるとか」
俺は黙って聞いていた。
「でも、実際に仕事の話が進み始めたら、嬉しいことばっかりじゃなかった。怖いこともあるし、分からないこともあるし……」
アイは、少しだけ苦笑した。
「だから、アイドルになったら全部解決する、なんてことはないんだなって」
「……うん」
「それでも、なりたいんだよね」
その言葉は、はっきりしていた。
「怖いことがあっても、分からないことがあっても。やっぱり、私はアイドルになりたい」
俺は、彼女を見つめた。
その横顔は、いつもより少し大人びて見えた。
「……そっか」
「うん!」
アイは笑った。
「だから、受かりたい!」
「頑張れ」
「頑張る!」
その返事を聞いて、俺は少しだけ安心した。
彼女は、怖さをなくしたわけじゃない。
不安が消えたわけでもない。
それでも、自分が何を望んでいるのかを、ちゃんと分かっていた。
それなら、きっと大丈夫。
俺は、そう思いたかった。
*
一次審査の結果が届いたのは、その翌日の午後だった。
アイは、職員に呼ばれて事務室へ向かった。
俺は廊下で待っていた。
しばらくして、扉が開いた。
「……透くん!」
アイが飛び出してきた。
「受かった!」
「……え?」
「一次審査、通ったって!」
彼女は、満面の笑みを浮かべていた。
「次の審査に進めるんだって!」
「……おお!」
俺は思わず笑った。
「すごいじゃん!」
「でしょー!」
アイは、嬉しそうに何度も頷いた。
「やったー!」
その声が、廊下に響いた。
近くにいた子どもたちが、何事かと顔を出す。
「アイちゃん、どうしたの?」
「聞いて聞いて! 私、オーディションの一次審査に受かったの!」
「すごーい!」
「アイちゃん、アイドルになるの?」
「まだ分かんないけどね!」
アイは笑った。
「でも、次も頑張るよ!」
子どもたちが、彼女の周りに集まった。
みんなが嬉しそうに笑っていた。
アイも、笑っていた。
その光景を見て、俺は思った。
これだ。
俺が守りたいと思っていたもの。
彼女が笑っていること。
彼女の夢を、周りの人たちが一緒に喜んでくれること。
そして、彼女自身が、その喜びを素直に受け取れること。
俺は、その場面を見ているだけで、胸がいっぱいになった。
もちろん、まだ何も決まっていない。
次の審査に受かるかどうかも分からない。
その先に何が待っているのかも分からない。
それでも。
今、この瞬間だけは。
彼女が夢に近づいたことを、心から喜びたいと思った。
「……よかったな、アイ」
俺がそう言うと、彼女は俺を見た。
「……うん!」
その笑顔は、眩しかった。
*
けれど、その喜びは、長くは続かなかった。
その日の夜。
アイのもとに、次の審査についての連絡が届いた。
日時。
場所。
必要な持ち物。
そして、審査内容についての簡単な説明。
そこまでは、普通だった。
しかし、メッセージの最後に、ひとつ気になる文面があった。
『なお、審査に関する詳細は、当日まで他の応募者には共有しないようお願いいたします』
アイは、その文章を見つめた。
秘密にすること自体は、特別おかしなことではないのかもしれない。
公平性を保つため。
審査の内容が事前に広まらないようにするため。
そういう理由は考えられる。
でも。
彼女は、先日の出来事を思い出していた。
あの男性。
詳しい説明をしないまま、一人で来るよう求めてきたこと。
そして、誰にも話さないようにと言われたこと。
今回の連絡は、いつもの担当者から届いたものだった。
だから、同じことだと決めつける理由はない。
それでも、アイの胸には、少しだけ不安が残った。
「……考えすぎかな」
彼女は呟いた。
そして、担当者に確認のメッセージを送ろうとした。
けれど、指が止まる。
こんなことを聞いたら、面倒な子だと思われるだろうか。
せっかく一次審査に受かったのに、疑っていると思われるだろうか。
そんな考えが、頭をよぎる。
アイは、携帯電話を握りしめた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
――分からないことは、聞いていい。
透が言ってくれた言葉。
職員が言ってくれた言葉。
彼女は、それを思い出した。
そして、今度は、ちゃんと質問を送った。
『審査の内容について、事前に確認しておいたほうがいいことはありますか?』
送信。
返事が来るまで、少し時間がかかった。
その間、アイは何度も画面を確認した。
そして、ようやく返信が届いた。
『基本的には、当日の説明に従っていただければ大丈夫です。分からないことがあれば、会場の担当者に確認してください』
それは、自然な返事だった。
少なくとも、今のところは。
アイは、少しだけ安心した。
けれど、そのあとで。
もう一通、メッセージが届いた。
『それから、今回の審査は今後の活動にも関わる大事な機会です。できるだけ集中できる環境で臨んでくださいね』
アイは、その文章を見つめた。
集中できる環境。
それは、何を意味しているのだろう。
余計なことを考えずに、審査に集中してほしいという意味なのか。
それとも、何か別の意図があるのか。
分からなかった。
ただ、彼女はひとつだけ決めた。
今度の審査では、分からないことを曖昧にしたままにしない。
不安に思ったことは、ちゃんと確認する。
そして、もし何かおかしいと感じたら、無理に我慢しない。
それは、夢を諦めることではない。
自分の夢を守るために、必要なことなのだ。
*
翌日。
アイは、オーディションの準備を始めた。
歌の練習。
ダンスの確認。
自己紹介で話す内容を考えること。
やることは、たくさんあった。
俺は、彼女が練習している様子を見ていた。
「……どう?」
アイが、少し不安そうに尋ねた。
「何が?」
「歌!」
「……いいと思うよ」
「ほんと?」
「ああ」
アイは、少しだけ頬を膨らませた。
「透くんって、褒めるの下手だよね」
「いや、下手っていうか……」
「もっとこう、『すごい!』とか、『感動した!』とか!」
「……すごい」
「棒読み!」
「注文が多いな!」
アイは声を上げて笑った。
俺も笑った。
そのあと、彼女はもう一度歌い始めた。
今度は、さっきよりも少しだけ声が伸びていた。
緊張しているのだろう。
何度も歌詞を確認して、音程を気にして、少しでも間違えると悔しそうな顔をする。
それでも、彼女は練習をやめなかった。
歌い終わると、アイは深く息を吐いた。
「……難しいね」
「うん」
「でも、楽しい」
その言葉を聞いて、俺は笑った。
「なら、いいじゃん」
「うん!」
アイは、もう一度、歌詞を手に取った。
俺は、その姿を見つめていた。
彼女は、確かに夢を追いかけている。
誰かに言われたからではなく。
誰かに期待されたからだけでもなく。
自分がやりたいから。
自分が、そうなりたいと思っているから。
その気持ちがある限り、彼女はきっと、前に進める。
俺は、そう信じていた。
*
そして、オーディション当日。
アイは、いつもより早く起きた。
朝食を食べて、身支度を整え、必要なものを確認する。
何度も持ち物を確かめている姿を見て、俺は思わず笑った。
「……何回確認すんだよ」
「だって、忘れ物したら困るでしょ!」
「まあ、そうだけど」
「透くんは心配じゃないの?」
「心配だよ」
「えっ?」
「受かるかどうか、気になるし」
アイは、少しだけ驚いた顔をした。
それから、嬉しそうに笑った。
「……そっか」
「でも、受かるかどうかだけが大事なわけじゃないだろ」
「……うん」
「ちゃんと、自分の力を出してこいよ」
アイは、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
そして、玄関へ向かう前に、俺のところへ戻ってきた。
「透くん」
「ん?」
「……私、頑張ってくるね」
その言葉は、いつもより少しだけ緊張していた。
俺は、笑って頷いた。
「いってらっしゃい」
「……いってきます!」
アイは、手を振って出ていった。
俺は、その背中を見送った。
彼女がどんな結果を持ち帰るのか。
それは、まだ分からない。
でも、俺は信じていた。
アイが、自分の夢に向かって、ちゃんと歩いていることを。
そして、もし何かあったとしても。
今度は、彼女が一人で抱え込まずに、誰かに相談できることを。
そう信じていた。
――そのとき、俺の携帯電話が震えた。
画面には、知らない番号からの着信が表示されていた。
俺は、しばらくその画面を見つめた。
誰だろう。
少し迷ってから、通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
返事は、すぐにはなかった。
数秒の沈黙。
そして、低い男の声が聞こえた。
『……黒瀬透くん、で合ってるかな』
俺は、息を止めた。
「……誰ですか?」
『少し、話したいことがあるんだ』
声に聞き覚えはなかった。
けれど、その言い方には、どこか引っかかるものがあった。
『君、星野アイさんと親しいんだろう?』
その瞬間、背筋が冷たくなった。
「……何の話ですか」
『いや、そんなに警戒しなくてもいい。ただ、ひとつ伝えておきたいことがあってね』
男は、淡々と続けた。
『彼女のことを、本当に応援しているのなら――』
そこで、声が少しだけ低くなった。
『あまり、余計なことに首を突っ込まないほうがいい』
通話は、それだけで切れた。
俺は、携帯電話を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
何者なのか。
なぜ、俺の番号を知っているのか。
どうして、アイのことを知っているのか。
そして、なぜ今、こんな連絡をしてきたのか。
何も分からなかった。
ただ、ひとつだけ。
アイが夢に向かって歩き出したその日に。
俺の知らない誰かが、彼女の周りで動いている。
その事実だけは、はっきりしていた。
俺は、ゆっくりと携帯電話を下ろした。
窓の外には、いつもと変わらない街が広がっている。
アイは今、オーディション会場に向かっているはずだ。
彼女は、自分の夢を叶えるために、頑張っている。
なら、俺も。
俺にできることを、考えなければならない。
彼女の夢を邪魔するためではなく。
彼女の代わりに未来を決めるためでもなく。
彼女が、自分の意思で夢を追いかけられるように。
俺は、もう一度、携帯電話を握りしめた。
――アイ。
どうか、今日という日が。
君にとって、ただの怖い思い出になりませんように。
そして、いつか。
君が、自分の夢を心から誇れる日が来ますように。
俺は、そう願った。
けれど、まだ知らなかった。
アイがその日、オーディション会場で何を見て、何を聞き、何を選ぶことになるのか。
そして、その選択が、彼女の未来を大きく変えることになるのを。