星野アイに嘘をつかなくていい日を   作:M1tarash1

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12.夢を叶えるために

星野アイが、俺に秘密を打ち明けてから一週間が経った。

 

 その一週間は、思っていたよりも穏やかだった。

 

 アイは相変わらず忙しそうだったけれど、以前のように、携帯電話が鳴るたびに表情を曇らせることは少なくなった。

 

 仕事の予定を確認するときも、分からないことがあれば担当者に質問しているらしい。

 

 そして何より。

 

「透くん、聞いて聞いて!」

 

 朝から、こうして俺のところへ駆け寄ってくるくらいには、元気だった。

 

「……何だよ。朝から騒がしいな」

 

「ひどっ! 大事な話なのに!」

 

「はいはい。で、何?」

 

「なんとですねー!」

 

 アイは、もったいぶるように一度咳払いをした。

 

「私、今度、オーディションを受けることになりました!」

 

「……オーディション?」

 

「そう!」

 

 彼女は両手を握りしめ、目を輝かせた。

 

「事務所の人から連絡があってね。これから始まるアイドルの企画で、新しい子を探してるんだって!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の胸が大きく跳ねた。

 

 ついに来た。

 

 アイが、アイドルとして本格的に動き始める。

 

 そのための、最初の大きな一歩。

 

 俺が知っている未来へ、彼女が近づいていく。

 

 ……いや。

 

 違う。

 

 これは、俺が知っている未来へ近づいているんじゃない。

 

 アイが、自分の未来を選び取ろうとしているんだ。

 

「……すごいじゃん」

 

 俺は、できるだけ自然に笑った。

 

「よかったな」

 

「でしょー!」

 

 アイは嬉しそうに笑った。

 

「まだ受かるって決まったわけじゃないけどね。でも、受けてみたいなって思って!」

 

「うん。受けてみればいいと思う」

 

「……本当に?」

 

「本当に」

 

 俺がそう答えると、アイは少しだけ安心したような顔をした。

 

 その表情を見て、俺は気づいた。

 

 彼女は、俺が反対するかもしれないと思っていたのだ。

 

 もちろん、心配がないわけじゃない。

 

 オーディションの先には、今まで以上に忙しい生活が待っているかもしれない。

 

 うまくいかなければ、傷つくこともあるだろう。

 

 うまくいったとしても、今までとは違う苦労が増えるかもしれない。

 

 それでも。

 

 俺は、アイの夢を応援すると決めた。

 

 だから、ここで俺が言うべきことは、心配だからやめておけ、ではない。

 

「頑張れよ」

 

 俺は言った。

 

「でも、分からないことがあったら聞けよ。困ったら相談しろ。あと、ちゃんと寝ろ」

 

「最後だけ急にお母さんみたい!」

 

「大事だろ」

 

「分かってるってば!」

 

 アイは声を上げて笑った。

 

 その笑顔を見て、俺も笑った。

 

 彼女の夢が、少しずつ形になっていく。

 

 それが嬉しかった。

 

 同時に、怖くもあった。

 

 夢が大きくなればなるほど、彼女の周りには、今まで出会わなかった人たちが集まってくる。

 

 彼女を応援する人。

 

 彼女に期待する人。

 

 彼女を評価する人。

 

 そして、彼女を利用しようとする人。

 

 そのすべてを、俺が見分けられるとは限らない。

 

 だからこそ、彼女自身が、自分の気持ちを大切にできるようになってほしかった。

 

「……アイ」

 

「ん?」

 

「オーディション、楽しんでこいよ」

 

 俺がそう言うと、アイは一瞬きょとんとした。

 

 それから、いつもの笑顔を浮かべた。

 

「うん!」

 

 その返事は、まっすぐだった。

 

 少なくとも、その瞬間は。

 

     *

 

 オーディションの日程が決まったのは、それから二日後のことだった。

 

 一次審査は、書類と写真。

 

 その結果によって、次の審査に進めるかどうかが決まるらしい。

 

 アイは、担当者から説明を受けたあと、さっそく準備を始めた。

 

 写真を選んだり、必要な書類を確認したり。

 

 施設の職員にも相談しながら、ひとつずつ進めていく。

 

 俺は、そんな彼女を少し離れたところから見ていた。

 

「……透くん、ちょっと来て!」

 

 呼ばれて近づくと、アイが何枚かの写真を机に並べていた。

 

「どれがいいと思う?」

 

「写真?」

 

「うん! 応募に使う写真!」

 

 机の上には、いろいろな表情のアイが写っていた。

 

 笑っているもの。

 

 少し真面目な顔をしているもの。

 

 何かを見つけたように、目を輝かせているもの。

 

 どれも、アイらしい写真だった。

 

「……どれもいいと思うけど」

 

「それじゃ分かんないよー!」

 

「いや、本当に」

 

「じゃあ、どれが一番、私らしい?」

 

 俺は写真を見比べた。

 

 少し考えてから、一枚を指さす。

 

「これかな」

 

「これ?」

 

 アイは、その写真を手に取った。

 

 そこには、自然な笑顔の彼女が写っていた。

 

 カメラを意識して作ったような笑顔ではなく、誰かと話している途中に撮られたような、柔らかい表情。

 

「……なんで?」

 

「一番、楽しそうだから」

 

「え?」

 

「他のもいいけど、これが一番、アイっぽい気がする」

 

 アイは写真をじっと見つめた。

 

「……そっか」

 

 それから、少し照れくさそうに笑った。

 

「じゃあ、これにしようかな」

 

「うん」

 

「透くんが選んでくれたんだし!」

 

「いや、最終的に決めるのはお前だろ」

 

「分かってるよー!」

 

 アイは笑った。

 

 そして、その写真を応募書類の横に置いた。

 

 その様子を見て、俺は思った。

 

 彼女は、少しずつ変わっている。

 

 誰かに言われたからではなく、自分で考えて、自分で決めるようになっている。

 

 もちろん、まだ迷うことはあるだろう。

 

 誰かの意見に揺れることだってある。

 

 それでも、彼女は自分の意思で前に進もうとしていた。

 

 俺は、そのことが嬉しかった。

 

     *

 

 数日後。

 

 アイは、一次審査の結果を待っていた。

 

 応募書類は、無事に提出できたらしい。

 

 あとは連絡を待つだけ。

 

 そう分かっていても、彼女は落ち着かない様子だった。

 

「……まだかなあ」

 

 食堂で、アイが携帯電話を見つめている。

 

「何が?」

 

「結果!」

 

「まだ数日しか経ってないだろ」

 

「分かってるけどさー!」

 

 アイは頬を膨らませた。

 

「気になるものは気になるの!」

 

「まあ、そりゃそうか」

 

「でしょ?」

 

 彼女は携帯電話を机に置いた。

 

 けれど、数秒後にはまた手に取っている。

 

「……アイ」

 

「ん?」

 

「そんなに気になるなら、ちょっと別のことでもしてれば?」

 

「例えば?」

 

「……散歩とか?」

 

「今から?」

 

「いや、別に今じゃなくても」

 

「じゃあ、透くんも一緒に行こ!」

 

「俺も?」

 

「うん!」

 

 アイは、俺の返事を待たずに立ち上がった。

 

「ほら、行こ!」

 

「……はいはい」

 

 俺たちは、施設の近くを歩くことにした。

 

 外は、よく晴れていた。

 

 風が少し冷たくて、空が高い。

 

 アイは歩きながら、何度も携帯電話を確認していた。

 

「……気になる?」

 

 俺が聞くと、彼女は少しだけ笑った。

 

「うん。めっちゃ」

 

「そっか」

 

「だってさ、もし受かったら、次の審査に進めるんだよ?」

 

「そうだな」

 

「それって、すごいことじゃない?」

 

「うん。すごいと思う」

 

 アイは、嬉しそうに笑った。

 

「……でも、落ちたらどうしよう」

 

 その言葉は、さっきまでの明るさとは違っていた。

 

「……落ちたら、悔しいだろうな」

 

「うん」

 

「でも、受けたことまで間違いになるわけじゃないだろ」

 

 アイは、俺を見た。

 

「……またそれ?」

 

「何が?」

 

「透くん、いつもそう言うよね」

 

「そうか?」

 

「うん。失敗してもいいとか、やり直せるとか」

 

 彼女は、少しだけ笑った。

 

「……でも、そういうの、嫌いじゃないよ」

 

「そりゃどうも」

 

 アイは空を見上げた。

 

「私ね、昔から、すっごく有名になりたいって思ってたんだ」

 

「うん」

 

「テレビに出て、歌って、踊って、みんなに笑ってもらって。そういうの、ずっと憧れてた」

 

 彼女は、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「でも、最近はね。それだけじゃないのかもって思うようになった」

 

「……それだけじゃない?」

 

「うん」

 

 アイは、少し考えてから言った。

 

「私、自分がアイドルになったら、何かが変わると思ってたんだ。今よりもっと楽しくなるとか、もっと自信が持てるとか」

 

 俺は黙って聞いていた。

 

「でも、実際に仕事の話が進み始めたら、嬉しいことばっかりじゃなかった。怖いこともあるし、分からないこともあるし……」

 

 アイは、少しだけ苦笑した。

 

「だから、アイドルになったら全部解決する、なんてことはないんだなって」

 

「……うん」

 

「それでも、なりたいんだよね」

 

 その言葉は、はっきりしていた。

 

「怖いことがあっても、分からないことがあっても。やっぱり、私はアイドルになりたい」

 

 俺は、彼女を見つめた。

 

 その横顔は、いつもより少し大人びて見えた。

 

「……そっか」

 

「うん!」

 

 アイは笑った。

 

「だから、受かりたい!」

 

「頑張れ」

 

「頑張る!」

 

 その返事を聞いて、俺は少しだけ安心した。

 

 彼女は、怖さをなくしたわけじゃない。

 

 不安が消えたわけでもない。

 

 それでも、自分が何を望んでいるのかを、ちゃんと分かっていた。

 

 それなら、きっと大丈夫。

 

 俺は、そう思いたかった。

 

     *

 

 一次審査の結果が届いたのは、その翌日の午後だった。

 

 アイは、職員に呼ばれて事務室へ向かった。

 

 俺は廊下で待っていた。

 

 しばらくして、扉が開いた。

 

「……透くん!」

 

 アイが飛び出してきた。

 

「受かった!」

 

「……え?」

 

「一次審査、通ったって!」

 

 彼女は、満面の笑みを浮かべていた。

 

「次の審査に進めるんだって!」

 

「……おお!」

 

 俺は思わず笑った。

 

「すごいじゃん!」

 

「でしょー!」

 

 アイは、嬉しそうに何度も頷いた。

 

「やったー!」

 

 その声が、廊下に響いた。

 

 近くにいた子どもたちが、何事かと顔を出す。

 

「アイちゃん、どうしたの?」

 

「聞いて聞いて! 私、オーディションの一次審査に受かったの!」

 

「すごーい!」

 

「アイちゃん、アイドルになるの?」

 

「まだ分かんないけどね!」

 

 アイは笑った。

 

「でも、次も頑張るよ!」

 

 子どもたちが、彼女の周りに集まった。

 

 みんなが嬉しそうに笑っていた。

 

 アイも、笑っていた。

 

 その光景を見て、俺は思った。

 

 これだ。

 

 俺が守りたいと思っていたもの。

 

 彼女が笑っていること。

 

 彼女の夢を、周りの人たちが一緒に喜んでくれること。

 

 そして、彼女自身が、その喜びを素直に受け取れること。

 

 俺は、その場面を見ているだけで、胸がいっぱいになった。

 

 もちろん、まだ何も決まっていない。

 

 次の審査に受かるかどうかも分からない。

 

 その先に何が待っているのかも分からない。

 

 それでも。

 

 今、この瞬間だけは。

 

 彼女が夢に近づいたことを、心から喜びたいと思った。

 

「……よかったな、アイ」

 

 俺がそう言うと、彼女は俺を見た。

 

「……うん!」

 

 その笑顔は、眩しかった。

 

     *

 

 けれど、その喜びは、長くは続かなかった。

 

 その日の夜。

 

 アイのもとに、次の審査についての連絡が届いた。

 

 日時。

 

 場所。

 

 必要な持ち物。

 

 そして、審査内容についての簡単な説明。

 

 そこまでは、普通だった。

 

 しかし、メッセージの最後に、ひとつ気になる文面があった。

 

『なお、審査に関する詳細は、当日まで他の応募者には共有しないようお願いいたします』

 

 アイは、その文章を見つめた。

 

 秘密にすること自体は、特別おかしなことではないのかもしれない。

 

 公平性を保つため。

 

 審査の内容が事前に広まらないようにするため。

 

 そういう理由は考えられる。

 

 でも。

 

 彼女は、先日の出来事を思い出していた。

 

 あの男性。

 

 詳しい説明をしないまま、一人で来るよう求めてきたこと。

 

 そして、誰にも話さないようにと言われたこと。

 

 今回の連絡は、いつもの担当者から届いたものだった。

 

 だから、同じことだと決めつける理由はない。

 

 それでも、アイの胸には、少しだけ不安が残った。

 

「……考えすぎかな」

 

 彼女は呟いた。

 

 そして、担当者に確認のメッセージを送ろうとした。

 

 けれど、指が止まる。

 

 こんなことを聞いたら、面倒な子だと思われるだろうか。

 

 せっかく一次審査に受かったのに、疑っていると思われるだろうか。

 

 そんな考えが、頭をよぎる。

 

 アイは、携帯電話を握りしめた。

 

 それから、ゆっくりと息を吐いた。

 

 ――分からないことは、聞いていい。

 

 透が言ってくれた言葉。

 

 職員が言ってくれた言葉。

 

 彼女は、それを思い出した。

 

 そして、今度は、ちゃんと質問を送った。

 

『審査の内容について、事前に確認しておいたほうがいいことはありますか?』

 

 送信。

 

 返事が来るまで、少し時間がかかった。

 

 その間、アイは何度も画面を確認した。

 

 そして、ようやく返信が届いた。

 

『基本的には、当日の説明に従っていただければ大丈夫です。分からないことがあれば、会場の担当者に確認してください』

 

 それは、自然な返事だった。

 

 少なくとも、今のところは。

 

 アイは、少しだけ安心した。

 

 けれど、そのあとで。

 

 もう一通、メッセージが届いた。

 

『それから、今回の審査は今後の活動にも関わる大事な機会です。できるだけ集中できる環境で臨んでくださいね』

 

 アイは、その文章を見つめた。

 

 集中できる環境。

 

 それは、何を意味しているのだろう。

 

 余計なことを考えずに、審査に集中してほしいという意味なのか。

 

 それとも、何か別の意図があるのか。

 

 分からなかった。

 

 ただ、彼女はひとつだけ決めた。

 

 今度の審査では、分からないことを曖昧にしたままにしない。

 

 不安に思ったことは、ちゃんと確認する。

 

 そして、もし何かおかしいと感じたら、無理に我慢しない。

 

 それは、夢を諦めることではない。

 

 自分の夢を守るために、必要なことなのだ。

 

     *

 

 翌日。

 

 アイは、オーディションの準備を始めた。

 

 歌の練習。

 

 ダンスの確認。

 

 自己紹介で話す内容を考えること。

 

 やることは、たくさんあった。

 

 俺は、彼女が練習している様子を見ていた。

 

「……どう?」

 

 アイが、少し不安そうに尋ねた。

 

「何が?」

 

「歌!」

 

「……いいと思うよ」

 

「ほんと?」

 

「ああ」

 

 アイは、少しだけ頬を膨らませた。

 

「透くんって、褒めるの下手だよね」

 

「いや、下手っていうか……」

 

「もっとこう、『すごい!』とか、『感動した!』とか!」

 

「……すごい」

 

「棒読み!」

 

「注文が多いな!」

 

 アイは声を上げて笑った。

 

 俺も笑った。

 

 そのあと、彼女はもう一度歌い始めた。

 

 今度は、さっきよりも少しだけ声が伸びていた。

 

 緊張しているのだろう。

 

 何度も歌詞を確認して、音程を気にして、少しでも間違えると悔しそうな顔をする。

 

 それでも、彼女は練習をやめなかった。

 

 歌い終わると、アイは深く息を吐いた。

 

「……難しいね」

 

「うん」

 

「でも、楽しい」

 

 その言葉を聞いて、俺は笑った。

 

「なら、いいじゃん」

 

「うん!」

 

 アイは、もう一度、歌詞を手に取った。

 

 俺は、その姿を見つめていた。

 

 彼女は、確かに夢を追いかけている。

 

 誰かに言われたからではなく。

 

 誰かに期待されたからだけでもなく。

 

 自分がやりたいから。

 

 自分が、そうなりたいと思っているから。

 

 その気持ちがある限り、彼女はきっと、前に進める。

 

 俺は、そう信じていた。

 

     *

 

 そして、オーディション当日。

 

 アイは、いつもより早く起きた。

 

 朝食を食べて、身支度を整え、必要なものを確認する。

 

 何度も持ち物を確かめている姿を見て、俺は思わず笑った。

 

「……何回確認すんだよ」

 

「だって、忘れ物したら困るでしょ!」

 

「まあ、そうだけど」

 

「透くんは心配じゃないの?」

 

「心配だよ」

 

「えっ?」

 

「受かるかどうか、気になるし」

 

 アイは、少しだけ驚いた顔をした。

 

 それから、嬉しそうに笑った。

 

「……そっか」

 

「でも、受かるかどうかだけが大事なわけじゃないだろ」

 

「……うん」

 

「ちゃんと、自分の力を出してこいよ」

 

 アイは、ゆっくりと頷いた。

 

「……分かった」

 

 そして、玄関へ向かう前に、俺のところへ戻ってきた。

 

「透くん」

 

「ん?」

 

「……私、頑張ってくるね」

 

 その言葉は、いつもより少しだけ緊張していた。

 

 俺は、笑って頷いた。

 

「いってらっしゃい」

 

「……いってきます!」

 

 アイは、手を振って出ていった。

 

 俺は、その背中を見送った。

 

 彼女がどんな結果を持ち帰るのか。

 

 それは、まだ分からない。

 

 でも、俺は信じていた。

 

 アイが、自分の夢に向かって、ちゃんと歩いていることを。

 

 そして、もし何かあったとしても。

 

 今度は、彼女が一人で抱え込まずに、誰かに相談できることを。

 

 そう信じていた。

 

 ――そのとき、俺の携帯電話が震えた。

 

 画面には、知らない番号からの着信が表示されていた。

 

 俺は、しばらくその画面を見つめた。

 

 誰だろう。

 

 少し迷ってから、通話ボタンを押した。

 

「……もしもし?」

 

 返事は、すぐにはなかった。

 

 数秒の沈黙。

 

 そして、低い男の声が聞こえた。

 

『……黒瀬透くん、で合ってるかな』

 

 俺は、息を止めた。

 

「……誰ですか?」

 

『少し、話したいことがあるんだ』

 

 声に聞き覚えはなかった。

 

 けれど、その言い方には、どこか引っかかるものがあった。

 

『君、星野アイさんと親しいんだろう?』

 

 その瞬間、背筋が冷たくなった。

 

「……何の話ですか」

 

『いや、そんなに警戒しなくてもいい。ただ、ひとつ伝えておきたいことがあってね』

 

 男は、淡々と続けた。

 

『彼女のことを、本当に応援しているのなら――』

 

 そこで、声が少しだけ低くなった。

 

『あまり、余計なことに首を突っ込まないほうがいい』

 

 通話は、それだけで切れた。

 

 俺は、携帯電話を握りしめたまま、しばらく動けなかった。

 

 何者なのか。

 

 なぜ、俺の番号を知っているのか。

 

 どうして、アイのことを知っているのか。

 

 そして、なぜ今、こんな連絡をしてきたのか。

 

 何も分からなかった。

 

 ただ、ひとつだけ。

 

 アイが夢に向かって歩き出したその日に。

 

 俺の知らない誰かが、彼女の周りで動いている。

 

 その事実だけは、はっきりしていた。

 

 俺は、ゆっくりと携帯電話を下ろした。

 

 窓の外には、いつもと変わらない街が広がっている。

 

 アイは今、オーディション会場に向かっているはずだ。

 

 彼女は、自分の夢を叶えるために、頑張っている。

 

 なら、俺も。

 

 俺にできることを、考えなければならない。

 

 彼女の夢を邪魔するためではなく。

 

 彼女の代わりに未来を決めるためでもなく。

 

 彼女が、自分の意思で夢を追いかけられるように。

 

 俺は、もう一度、携帯電話を握りしめた。

 

 ――アイ。

 

 どうか、今日という日が。

 

 君にとって、ただの怖い思い出になりませんように。

 

 そして、いつか。

 

 君が、自分の夢を心から誇れる日が来ますように。

 

 俺は、そう願った。

 

 けれど、まだ知らなかった。

 

 アイがその日、オーディション会場で何を見て、何を聞き、何を選ぶことになるのか。

 

 そして、その選択が、彼女の未来を大きく変えることになるのを。

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