電話が切れたあとも、俺はしばらく受話器を耳に当てたまま立ち尽くしていた。
『彼女のことを、本当に応援しているのなら――あまり、余計なことに首を突っ込まないほうがいい』
男の声は、落ち着いていた。
怒鳴られたわけじゃない。脅迫めいた言葉を並べられたわけでもない。
それなのに、妙に耳に残った。
まるで、俺が何か悪いことをしようとしていると、最初から決めつけているみたいだった。
「……なんなんだよ、いったい」
受話器を置き、番号を確認する。
知らない番号だった。
かけ直すべきか。いや、そもそも相手が出る保証はない。出たとして、何を聞けばいい? お前は誰だ、どうして俺の番号を知っている、アイに何をするつもりだ――。
頭の中に質問ばかりが浮かんで、どれひとつとして答えに繋がる気がしなかった。
俺は窓の外を見た。
アイが出発してから、まだそれほど時間は経っていない。
今日、彼女はオーディションを受けている。
ずっと憧れてきたアイドルになるために、自分で応募して、自分で写真を選び、自分で挑戦することを決めた。
それは、彼女が自分で選んだ道だ。
なら、俺がするべきことはなんだ。
何もかも疑って、彼女の行動を止めることか。
それとも、心配だからといって、知らない男の言葉を無視して、何もなかったことにすることか。
「……どっちも違うだろ」
口に出してみると、少しだけ頭が冷えた。
アイの夢を応援することと、彼女の周囲で起きていることを何もかも黙って見過ごすことは、同じじゃない。
彼女が選んだ道を尊重することと、彼女が危険かもしれない状況にひとりで向かうのを放置することも、同じじゃない。
俺ひとりで何とかしようとするから、考えが極端になる。
だったら。
「……大人に相談するか」
俺は部屋を出た。
施設の職員室には、午前中の事務作業をしている職員がいた。俺は少し迷ってから、声をかけた。
「すみません。ちょっと、相談したいことがあるんですけど」
「どうしたの、透くん?」
職員は手を止め、俺の顔を見た。
俺は、今朝かかってきた電話について話した。
アイがオーディションへ向かったこと。電話の相手が俺の名前を知っていたこと。そして、アイを応援しているなら余計なことに首を突っ込むな、と言われたこと。
ただし、男の正体については何もわからない。
アイの仕事に関係している人間なのかもしれないし、まったく別の人物なのかもしれない。
俺が話し終えると、職員はすぐに答えを出そうとはしなかった。
「それは、気になるね」
「はい。でも、アイに連絡したら、オーディションの邪魔になるかもしれないし……」
「うん。今すぐ何もかも止める必要があるかどうかも、まだわからない。ただ、透くんがひとりで抱え込む必要もないよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「電話の番号や、相手の声について覚えていることはある?」
「番号は残ってます。声は……男の人で、落ち着いた感じでした。それくらいしか」
「わかった。記録しておこう。必要なら、アイちゃんの仕事の窓口にも確認する。君が直接、相手を探しに行くようなことはしないでね」
「……はい」
「それから、アイちゃんが帰ってきたら、本人の話も聞こう。本人が何を経験したのか、何を不安に感じているのか。それを確かめずに決めつけるのはよくないからね」
俺は頷いた。
正直、もっと強く動いてほしいと思った気持ちもあった。
今すぐアイを迎えに行ってほしい。オーディションなんて中止にしてほしい。正体のわからない相手を見つけて、二度と近づけないようにしてほしい。
そんな考えが、頭の隅に浮かんでは消える。
けれど、職員の言葉は間違っていなかった。
何もわからないまま騒ぎ立てれば、アイの夢を傷つけるかもしれない。
何もわからないまま放っておけば、アイが困るかもしれない。
だからこそ、確かめる必要がある。
「……ありがとうございます」
「うん。心配だと思うけど、今はここで待とう。連絡が来たら、一緒に考えようね」
俺は職員室を出た。
廊下の窓から空を見る。
雲の少ない、よく晴れた日だった。
どうか今日が、アイにとっていい日でありますように。
そう願う気持ちは、本当だった。
だからこそ、余計に怖かった。
願うだけでは、守れないものがあると知っているから。
*
同じころ。
オーディション会場の前で、星野アイは深呼吸をしていた。
「……よしっ」
正面にある建物を見上げる。
大きすぎず、小さすぎない、落ち着いた雰囲気のビルだった。入口には案内板が置かれ、受付の近くには数人の女の子が集まっている。
みんな、年齢は自分とそう変わらないように見えた。
きれいな服を着ている子。何度も鏡を確認している子。友達らしい相手と小声で話している子。
その姿を見て、アイは少しだけ安心した。
自分だけが特別に緊張しているわけじゃない。
そう思えただけで、呼吸がしやすくなった。
「……透くん、見てるかな」
小さく呟く。
今日、透はここにいない。
それは当たり前のことだった。オーディションを受けるのは自分で、審査されるのも自分だ。誰かに代わってもらえるものじゃない。
それでも、出発するときに交わした会話を思い出す。
『緊張してる?』
『してないよ?』
『その返事、緊張してる人のやつだろ』
『うるさいなあ! 透くんだって、私が緊張してるってわかってるくせに!』
『わかってるから聞いたんだよ』
『なにそれ!』
思い出すと、自然に口元が緩んだ。
そして、最後に透が言った言葉。
『いってらっしゃい』
あれは、ただの挨拶だった。
でも、アイには少し違って聞こえた。
行くことを止めない言葉。
失敗しないようにと縛る言葉でも、絶対に成功すると無責任に約束する言葉でもない。
自分で行って、自分で帰ってくることを信じてくれる言葉。
「……よし」
アイはもう一度、背筋を伸ばした。
「いってきます、だもんね」
そう呟いて、受付へ向かった。
「すみません。今日のオーディションを受けに来ました。星野アイです」
「はい、星野さんですね。応募番号を確認しますので、こちらへお願いします」
受付の女性は、名簿を確認してから笑顔で案内してくれた。
アイは必要な書類を提出し、待合室へ通された。
そこにはすでに何人かの参加者がいた。
部屋の前方には、今日の進行について書かれた紙が掲示されている。
受付、歌唱審査、簡単な質疑応答。終了後は順番に帰宅してよいこと。
事前に受け取った案内と、大きく変わらない。
アイは掲示を二度確認してから、空いている椅子に座った。
そのときだった。
「星野アイさん、ですよね?」
声をかけられ、顔を上げる。
立っていたのは、スーツ姿の男性だった。
見覚えがあるような、ないような。
少なくとも、受付で見たスタッフとは違う。
「はい。そうですけど……」
「少し、お話しできますか?」
「お話、ですか?」
「ええ。あなたのプロフィールを見ましてね。今回のオーディションとは別に、少し確認したいことがあるんです」
男性は、慣れた様子で微笑んだ。
声は穏やかだった。
けれど、アイはすぐには立ち上がらなかった。
今回のオーディションとは別に。
その言い方が、引っかかった。
「それって、オーディションの担当の方ですか?」
「まあ、関係者ですよ」
「お名前、聞いてもいいですか?」
一瞬、男性の笑顔が止まった。
ほんのわずかな変化だった。
気のせいだと言われたら、それまでかもしれない。
「……今、名前を聞いてもわからないと思いますよ。少し来てもらえれば説明しますから」
「ここじゃ、だめなんですか?」
「少し込み入った話なので」
男性は待合室の外へ視線を向けた。
「こちらへ。すぐに終わります」
アイの胸の奥に、小さな不安が生まれた。
以前にも似たような言葉を聞いた気がする。
詳しいことは会ってから。
今は説明できない。
ひとりで来てほしい。
全部が同じ言葉だったわけじゃない。状況も違う。目の前の男性が、以前に会った人物と同じかどうかもわからない。
でも、わからないからこそ、確認しなければならない。
アイは椅子から立ち上がらずに言った。
「すみません。先に受付の方に確認してもいいですか?」
「受付?」
「はい。今日のオーディションに関係するお話なら、担当の方にも伝わってると思うので」
男性の表情から、笑みが少しだけ薄れた。
「そんなことをしていたら、時間がかかりますよ」
「でも、私、今日のオーディションを受けに来たので」
「あなたにとっても悪い話ではないんです。せっかくの機会なんだから、柔軟に考えたほうがいい」
その言葉に、アイは唇を結んだ。
柔軟に考える。
せっかくの機会。
どこかで聞いたような言葉だった。
アイドルになりたい。
有名になりたい。
たくさんの人を笑顔にしたい。
その夢を知った大人たちは、ときどき同じようなことを言う。
今しかない。チャンスを逃すな。言われたとおりにすればいい。
もちろん、本当に自分のことを考えてくれている人もいるのだろう。
でも、夢を叶えたい気持ちがあるからといって、何でも受け入れなければいけないわけじゃない。
アイは、そのことを透と話した。
自分の夢を応援してくれるなら、失敗しないように見張るんじゃなくて、自分で選ぶことを信じてほしい。
そう言ったのは、自分だった。
なら、今ここでどうするかも、自分で決めなければならない。
「……すみません」
アイは男性を見上げた。
「お名前と、どこの会社の方なのか教えてもらえますか? それと、今日のオーディションの担当者にも確認したいです」
男性は、少し黙った。
そして、ため息をつくように息を吐いた。
「慎重なんですね」
「はい」
「それでは、今回はいいです。考えが変わったら、連絡してください」
男性は名刺を出そうともしなかった。
そのまま踵を返し、待合室を出ていった。
アイは、しばらくその背中を見送った。
心臓が少し速くなっている。
断った。
たったそれだけのことなのに、妙に疲れた。
「……これで、よかったんだよね」
自分に問いかける。
もしかしたら、本当に大事な話だったのかもしれない。
自分の対応が悪くて、せっかくの機会を逃したのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
けれど、相手の名前も、会社も、話の内容もわからなかった。
確認したいと言っただけなのに、相手はそれを嫌がった。
それなら、少なくとも今すぐついていく必要はないはずだ。
アイは立ち上がり、受付へ向かった。
「すみません。ちょっと確認したいことがあって……」
受付の女性は、すぐに手を止めた。
「はい、どうされました?」
アイは、先ほどの男性について説明した。
別の話があると言われたこと。名前を尋ねても教えてもらえなかったこと。別の場所で話そうと言われたこと。
話しながら、自分が思っていた以上に緊張していたことに気づいた。
受付の女性の表情は、次第に真剣なものになっていった。
「……その方のお名前は、確認できなかったんですね?」
「はい」
「わかりました。教えてくださってありがとうございます。念のため、責任者に確認しますね」
女性は近くのスタッフを呼び、短く状況を説明した。
その後、アイは受付のそばにある椅子で待つよう案内された。
数分後、別の女性がやって来た。胸元の名札には、今日のオーディションの運営担当者であることがわかる肩書きが書かれている。
「星野さん、少しお話ししても大丈夫ですか?」
「はい」
「まず、先ほどの方についてですが、こちらでは、あなたに個別の面談をお願いする予定はありません」
「……そうなんですか?」
「はい。今日の審査内容は、事前にお渡しした案内のとおりです。別の面談を行う場合も、担当者と目的を明確にお伝えすることになっています」
アイは胸の奥が冷えるのを感じた。
やっぱり、確認してよかった。
「その方がどなたなのか、こちらでも確認します。ただ、今の段階では、どこの誰なのか断定できません」
「……わかりました」
「不安にさせてしまって申し訳ありません。オーディションを続けるかどうかは、星野さん自身が決めてください。無理に続けてほしいということではありませんから」
女性は、アイの目を見てそう言った。
その言葉には、急かすような響きがなかった。
続けてもいい。
やめてもいい。
どちらを選ぶかは、自分で決めていい。
アイは少し考えた。
帰ることもできる。
怖くなったから、今日はやめる。それだって、間違いじゃない。
でも。
「……私、受けたいです」
自分でも驚くくらい、はっきりと声が出た。
「ここまで練習してきたし、せっかく来たから。ちゃんと、私が受けたいオーディションを受けたいです」
担当者は、穏やかに頷いた。
「わかりました。では、予定どおり進めましょう。何かあれば、近くのスタッフに声をかけてください」
「はい。ありがとうございます」
アイは頭を下げた。
胸の中には、まだ不安が残っている。
知らない人に声をかけられて、怖かった。
何か大事な機会を逃したのではないかと、少し気になってもいる。
それでも。
自分が何を受けに来たのか、何をしたいのか。
そこだけは、見失わずにいられた。
*
審査の順番が近づくにつれて、待合室の空気が張り詰めていった。
参加者たちは、それぞれ自分の番に備えている。
小さな声で歌詞を確認する子。
目を閉じて集中している子。
手元の紙を何度も読み返している子。
アイも、膝の上で両手を握っていた。
緊張している。
さっきの出来事のせいだけではない。
ここにいる全員が、何かを目指している。
その中で、自分がどこまでできるのか。
自分の歌が、誰かに届くのか。
考え始めると、急に何もかも不安になってきた。
そんなとき、ふと透の言葉を思い出した。
『失敗したとしても、挑戦したことまで間違いになるわけじゃない』
透は、いつも不思議な顔をする。
自分の夢を応援してくれているはずなのに、ときどき、まるで何かを怖がっているみたいな顔をする。
アイには、その理由がまだわからない。
でも、ひとつだけわかることがある。
透は、アイに何もかも成功してほしいと言っているわけじゃない。
失敗してもいいから、自分で選んでほしい。
そう思っているのだろう。
「……なら」
アイは小さく息を吸った。
「ちゃんと、やろう」
名前を呼ばれた。
「星野アイさん。次、お願いします」
「はい!」
返事をして立ち上がる。
足が少し震えていた。
それでも、前に進む。
案内された部屋には、審査員が三人座っていた。
自己紹介をして、指定された位置に立つ。
「では、まず自己紹介をお願いします」
「はい。星野アイです。今日はよろしくお願いします!」
笑顔を向ける。
いつもの自分なら、ここで少しおどけてみせるかもしれない。
相手が笑ってくれそうな言葉を選んで、場の空気を明るくする。
それは、アイにとって難しいことではなかった。
でも今日は、それだけでは終わらせたくなかった。
自分の歌を聞いてほしい。
自分がどんな気持ちでアイドルになりたいと思ったのか、ちゃんと伝えたい。
歌唱審査が始まった。
最初の一音を出す瞬間、心臓が大きく跳ねた。
声が裏返ったらどうしよう。
途中で歌詞を間違えたらどうしよう。
頭の中にいくつもの不安が浮かんだ。
けれど、歌い始めると、少しずつその不安が遠のいていった。
歌うことは、好きだった。
誰かが自分の歌を聞いてくれることも、好きだった。
歌が終わるころには、最初に感じていた震えは、ほんの少しだけ違うものになっていた。
怖さは残っている。
でも、その奥に、確かな楽しさがあった。
審査員のひとりが質問した。
「星野さんは、どうしてアイドルになりたいと思ったんですか?」
アイは、すぐには答えなかった。
以前なら、きっと迷わず答えられた。
みんなを笑顔にしたいから。
有名になりたいから。
たくさんの人に自分を見てほしいから。
どれも嘘ではない。
けれど、今はもう少しだけ、言葉にできることが増えていた。
「……私、誰かを笑顔にするのが好きなんです」
アイはゆっくり話し始めた。
「私が笑ったら、つられて笑ってくれる人がいたり。私が何かしたことで、誰かが楽しそうにしてくれたり。そういうのを見ると、私も嬉しくなるんです」
施設で過ごしてきた日々を思い出す。
小さな子たちが笑ってくれたこと。
失敗して落ち込んだ子に声をかけたこと。
自分が笑顔でいれば、周りも明るくなると信じていたこと。
でも、それだけではなかった。
「でも、アイドルになったら、たぶん、いつも笑っていられるわけじゃないと思います。失敗することもあるし、嫌なことを言われることもあるかもしれないし……自分の思いどおりにならないことも、きっとあると思います」
自分で口にして、少し驚いた。
前よりも、夢のことを現実的に考えるようになったのかもしれない。
それでも、夢を諦めたいとは思わなかった。
「それでも、やってみたいんです。誰かを笑顔にしたいっていう気持ちは、本当だから。私自身も、アイドルになりたいって思ってるから」
言い終えてから、少しだけ恥ずかしくなった。
こんなに真面目なことを話すつもりはなかった。
もっと上手に、もっと魅力的に答えられたらよかったのかもしれない。
けれど、審査員のひとりが小さく頷いた。
「ありがとうございます。よくわかりました」
それ以上、何かを付け足すことはなかった。
アイは礼をして、部屋を出た。
廊下に出た瞬間、肩から力が抜ける。
「……終わったぁ……!」
思わず、小さな声が漏れた。
うまくできたのかどうかは、わからない。
合格するかもしれないし、落ちるかもしれない。
でも、ひとまず、最後までやり切った。
それだけで、今は十分だった。
*
審査が終わると、参加者は順番に帰宅するよう案内された。
アイは受付で退室の手続きを済ませ、建物の外に出た。
空は、朝と変わらず晴れていた。
スマートフォンを取り出す。
透に連絡しようと思って、指を止めた。
何から話せばいいだろう。
オーディションは終わったこと。
ちゃんと歌えたこと。
少し緊張したけれど、楽しかったこと。
それから、知らない男性に声をかけられたこと。
担当者に確認して、予定外の面談ではないとわかったこと。
どれも伝えたい。
でも、全部まとめて送ると、きっと透は心配する。
いや。
心配させたくないからといって、黙っておくのは違う。
それは、ふたりで約束したことだった。
困ったことがあったら、話す。
何でもないふりをして、ひとりで抱え込まない。
アイは、スマートフォンを握り直した。
まずは、帰ってから話そう。
文字だけでは、伝えきれないこともある。
そう思って歩き出したときだった。
「星野さん」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、さっきの男性が少し離れた場所に立っていた。
アイの足が止まった。
男性は周囲を気にするように視線を動かしてから、こちらへ歩いてきた。
「先ほどは、失礼しました」
「……はい」
「あなたのことを、少し気にかけている人がいましてね。今回のオーディションとは別に、話をしたいということだったんです」
「その方のお名前は?」
「それは、会ってから説明するつもりでした」
「どこの会社の方ですか?」
「いろいろと繋がりがある方です。あなたの将来にとっても、悪い話ではないと思いますよ」
まただ。
名前は言わない。
会社もはっきりしない。
でも、いい話だから聞いたほうがいいと繰り返す。
アイは、さっきよりも落ち着いて相手を見ていた。
「すみません。そういうお話なら、先に担当の方に確認してからにしたいです」
「まだそんなことを?」
男性の声が、わずかに硬くなった。
「せっかくの機会なんですよ。誰にでもあるものじゃない」
「はい。でも、私、今日のオーディションを受けに来たので」
「あなたは、もっと上を目指せるかもしれないんですよ」
「……それは、嬉しいです」
アイは一度、言葉を区切った。
「でも、よくわからないままお話を進めるのは、ちょっと怖いです」
男性は黙った。
その沈黙に、アイは胸がざわつくのを感じた。
やっぱり、断らないほうがよかったのだろうか。
相手を怒らせてしまったのかもしれない。
でも、だからといって、わからないことをわからないままにしていいわけじゃない。
「今日は、帰ります」
アイは頭を下げた。
「お話しする必要があるなら、私の担当の方を通してもらえますか?」
男性はしばらくアイを見ていた。
やがて、口元だけで笑った。
「……そうですか。わかりました」
それ以上、引き止めることはなかった。
男性は別の方向へ歩いていった。
アイはその姿を見送ってから、ようやく息を吐いた。
「……はぁ」
怖かった。
正直に言えば、今も少し怖い。
自分の対応が正しかったのか、まだ完全にはわからない。
でも、何も確認しないままついていくよりは、ずっとよかったと思う。
アイはスマートフォンを取り出し、先ほど対応してくれたオーディションの担当者へ連絡した。
男性が再び声をかけてきたこと。
担当者を通してほしいと伝えたこと。
相手がどこへ向かったか。
覚えていることを、できるだけ具体的に伝えた。
すぐに返事が来た。
『ご連絡ありがとうございます。こちらでも記録して確認します。今後、同じようなことがあれば、その場で判断せず、スタッフにご相談ください。本日は気をつけてお帰りください』
アイは、何度かその文章を読み返した。
少なくとも、話を聞いてくれる人はいた。
わからないことを確認してもいい。
怖いと思ったことを、怖いと伝えてもいい。
それだけで、世界が少しだけ違って見えた。
「……よし」
アイはスマートフォンをしまい、帰り道を歩き始めた。
今日は、いろいろなことがあった。
緊張した。
怖かった。
でも、歌うことは楽しかった。
夢を諦めたくないと思った。
それから、自分で決めることの難しさも、少しだけ知った。
何かを選ぶということは、何もかもを確かめてから進めるということではない。
わからないことは、まだたくさんある。
それでも、自分が納得できないことに、無理に頷かなくてもいい。
そのことを、今日、アイは自分で確かめたのだった。
*
施設に戻ったのは、午後の遅い時間だった。
玄関の扉を開けると、小さな子が駆け寄ってきた。
「あっ、アイちゃん! おかえり!」
「ただいまー!」
「どうだった? アイドルになれそう?」
「えー、まだわかんないよ!」
「えーっ!」
「結果が出るまでは、内緒なの!」
アイが笑うと、子どもは不満そうに頬を膨らませた。
「じゃあ、受かったら教えてね!」
「うん。ちゃんと教える!」
そんなやりとりをしていると、廊下の向こうから透が歩いてきた。
目が合う。
透は、何かを聞きたそうな顔をしていた。
でも、すぐには口を開かなかった。
アイは、その表情を見て少し笑った。
「ただいま、透くん」
「……おかえり」
「聞きたいこと、いっぱいある顔してる」
「そりゃあな」
「ふふっ。私も、いっぱい話したいことあるよ」
透の目が、わずかに揺れた。
「……そうか」
「うん。でも、その前に」
アイは、ぱっと笑顔を見せた。
「おなかすいた!」
「……は?」
「朝から緊張してたし、いっぱい歌ったし、もうおなかぺこぺこ!」
「いや、そこはもっとこう……大事な話があるんじゃないのかよ」
「あるよ? あるけど、おなかすいたの!」
「お前なあ……」
透が呆れたように息を吐く。
その顔を見て、アイは少しだけ安心した。
いつもどおりの透だ。
何かを心配していることはわかる。
それでも、最初から問い詰めることはしなかった。
「ごはん食べたら、話すね」
「……わかった」
「ちゃんと聞いてね?」
「聞くよ」
「途中で変な顔しないでね?」
「それは内容による」
「えーっ、ひどい!」
アイは笑った。
透も、ほんの少しだけ笑った。
その何気ないやりとりが、今日はいつもより大切に思えた。
*
夕食のあと、ふたりは庭に出た。
空は夕焼けから夜へと移り変わり始めていた。
アイはベンチに座り、今日あったことを順番に話した。
オーディションで歌ったこと。
質問に答えたこと。
緊張したけれど、最後までやり切れたこと。
それから、待合室で声をかけられたこと。
名前も会社もはっきりしない男性に、別の話があると言われたこと。
受付に確認したら、予定されていた面談ではないとわかったこと。
建物を出たあとにも、同じ男性に声をかけられたこと。
アイが話している間、透はほとんど口を挟まなかった。
ただ、時折、眉間にしわを寄せた。
話し終えると、庭に静かな時間が流れた。
「……そっか」
透は、ようやくそれだけ言った。
「うん」
「怖かっただろ」
アイは少し考えた。
いつもなら、きっとすぐに言っていた。
大丈夫だよ。
全然怖くなかったよ。
何でもないよ。
けれど、今日はそう言わなかった。
「……うん。ちょっと怖かった」
透は、唇を結んだ。
「ごめん」
「え?」
「俺、もっと早く気づけてたら……」
「透くん」
アイは、彼の言葉を遮った。
「それ、透くんが謝ることじゃないよ」
「でも、俺のところにも変な電話がかかってきたんだ」
透は、今朝の電話について話した。
相手が自分の名前を知っていたこと。
アイを本当に応援しているなら、余計なことに首を突っ込むなと言われたこと。
そして、職員に相談したこと。
アイは黙って聞いていた。
話が終わると、しばらく考え込むように視線を落とした。
「……そっか。透くんにも、そんな電話があったんだ」
「ああ」
「私のこと、知ってる人なのかな」
「わからない。俺にも、相手が誰なのかはわからないんだ」
「……うん」
アイは、自分の手元を見つめた。
少し前まで、自分の夢はもっと単純だった。
アイドルになりたい。
有名になりたい。
たくさんの人に笑ってほしい。
そこへ向かって頑張ればいいのだと思っていた。
でも今は、夢に近づこうとするたびに、知らない人の言葉や、見えない事情が入り込んでくる。
誰を信じればいいのか。
どこまで受け入れていいのか。
何を怖がればいいのか。
その答えは、まだ見つかっていなかった。
「……ねえ、透くん」
「ん?」
「私、今日ね。ちゃんと断ったんだ」
「うん」
「名前もわからない人に、別の場所へ来てって言われて。でも、何の話なのかもわからなかったから、先に確認したいって言ったの」
「……ああ」
「そしたら、ちょっと嫌な顔をされた」
アイは苦笑した。
「私、間違えたのかなって思ったよ。せっかくのチャンスだったのに、断っちゃったのかなって」
透は何も言わず、彼女の話を聞いていた。
「でもね、考えたの。私、アイドルになりたいんだよ。だから、アイドルになるためなら何でもするっていうのは、違うと思った」
アイは顔を上げた。
「私がなりたいのは、私が好きだと思えるアイドルだから。自分が怖いって思ったことを、怖くないふりして進んでも、たぶん、うまくいかない」
言葉にしてみると、少しだけ胸が軽くなった。
「だから、断ったの。……それでよかったんだよね?」
透は、すぐには答えなかった。
以前の自分なら、迷わずに言っただろう。
正しいよ。
絶対に間違っていない。
君は何も悪くない。
けれど、今の透にはわかっていた。
彼女が求めているのは、自分の判断をすべて正しいと言ってもらうことではない。
自分で考え、自分で決めたことを、ちゃんと聞いてもらうことなのだ。
「……少なくとも、俺は、よかったと思う」
「ほんと?」
「ああ。わからないことを確認しようとしたんだろ。相手の名前も、話の内容もわからなかった。だったら、すぐについていかずに、担当者に確認するのは自然なことだと思う」
透は、一度息をついた。
「ただ、相手が何者なのかは、まだわからない。俺たちだけで決めつけないで、施設の人や、オーディションの担当者にも相談していこう」
「……うん」
「それと、俺も職員の人に話した。俺にかかってきた電話のことも、確認してもらうつもりだ」
アイは、少し驚いたように目を見開いた。
「相談したんだ?」
「ああ。俺ひとりで考えても、わからないことばかりだからな」
「……そっか」
アイは、小さく笑った。
「よかった」
「何が?」
「透くんも、ちゃんと誰かに相談したんだなって思って」
透は、返事に詰まった。
アイは、そんな透を見て、いたずらっぽく笑う。
「だって透くん、すぐひとりで何とかしようとするから」
「……お前に言われたくないんだけど」
「えー? 私はちゃんと受付の人に相談したもん!」
「それはそうだな」
「でしょ!」
アイは得意げに胸を張った。
その姿がおかしくて、透は思わず笑った。
けれど、すぐに笑顔が消えた。
「……アイ」
「なに?」
「俺、正直、怖かったんだ」
アイは黙って透を見た。
「今朝、あの電話がかかってきたとき。お前が何かに巻き込まれてるんじゃないかって思った。今すぐ迎えに行ったほうがいいんじゃないか、とも思った」
「……うん」
「でも、それをしたら、お前が自分で決めたことまで、俺が勝手に止めることになるかもしれない。それが嫌だった」
透は膝の上で手を握った。
「俺は、お前に夢を諦めてほしくない。だからって、何が起きても黙って応援するだけでいいとも思わない。……どうしたらいいのか、まだよくわからないんだ」
アイは、すぐには答えなかった。
夕方の風が、ふたりの間を通り抜ける。
やがて、アイはゆっくり口を開いた。
「……私も、わかんないよ」
「え?」
「どうしたらいいか、全部わかってるわけじゃないもん。今日だって、怖かったし、断ったあとも、これでよかったのかなってずっと考えてた」
アイは、膝を抱えた。
「でも、透くんが全部決めてくれたら、それはそれで困る」
「……うん」
「私のことを心配してくれるのは嬉しいよ。でも、私の代わりに決めるんじゃなくて、一緒に考えてほしい」
その言葉に、透は顔を上げた。
アイは、まっすぐ彼を見ていた。
「私が自分で決められるように、話を聞いてほしい。私が間違えそうなときは、ちゃんと教えてほしい。でも、最後は私に選ばせてほしい」
少し照れたように笑う。
「……わがままかな?」
「いや」
透は、首を横に振った。
「それでいいんだと思う」
「ほんと?」
「ああ。俺も、そのほうがいい」
アイは、ほっとしたように息を吐いた。
「じゃあ、約束ね」
「また約束かよ」
「また約束ですー」
アイは小指を差し出した。
透は、その小指を見つめた。
最初に出会った日にも、こうして約束をした。
あのときの自分は、彼女を救うと決めていた。
彼女の未来を知っていると思い込んでいたから。
自分なら、悲劇を避けられると思っていたから。
けれど今は、少しだけ違う。
救うという言葉の中に、彼女の選択を奪うことまで含めてはいけない。
彼女が自分の足で進もうとするなら、その隣で考える。
彼女が助けを求めたら、手を差し伸べる。
自分だけでは判断できないことがあれば、信頼できる人に相談する。
それが、今の自分にできることだ。
「……約束な」
透は小指を絡めた。
「約束!」
アイは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、透はようやく少しだけ肩の力を抜くことができた。
今日、何もかもが解決したわけじゃない。
電話の相手が誰なのかもわからない。
アイに声をかけた男性が、何者なのかもわからない。
今後、どんなことが起きるのかもわからない。
それでも。
今日、アイは自分で考えて、自分で選んだ。
怖いと思ったことを怖いと言い、わからないことを確認し、夢を諦めずに前へ進んだ。
それは、確かな一歩だった。
*
その夜。
アイが眠ったあと、透は職員から呼ばれた。
「透くん、少し話せるかな」
「はい」
職員室に入ると、机の上にはメモが置かれていた。
今朝の電話について、覚えている範囲で記録したものらしい。
「アイちゃんのオーディションの件だけど、施設からも、先方の正式な窓口に確認を入れることになったよ」
「……何かわかったんですか?」
「まだ、はっきりしたことはわからない。ただ、今日のオーディションで予定されていなかった面談について、運営側も確認するそうだ」
「そうですか……」
「アイちゃん本人が、ちゃんと相談してくれたのはよかったと思う。今後も、仕事の話はできるだけ正式な窓口を通して確認しよう、ということになった」
透は、ゆっくり頷いた。
少なくとも、何もせずに終わるわけではない。
わからないことを、わからないまま放置しない。
今の自分たちにできることから始める。
「それから」
職員は、少し言いにくそうに続けた。
「君に電話をかけてきた相手についても、番号は控えておこう。今後、同じような連絡があれば、ひとりで対応しなくていいからね」
「……はい」
「アイちゃんを大切に思っているのは、よくわかる。でも、君自身も無理をしないこと。君がひとりで全部を背負う必要はないんだよ」
その言葉に、透は目を伏せた。
ひとりで全部を背負う必要はない。
そんなことは、頭ではわかっている。
でも、心のどこかでは、ずっとそう思っていた。
自分だけが知っている。
自分だけが、彼女の未来を変えられる。
自分が失敗したら、彼女を救えない。
だから、何があっても自分で何とかしなければならない。
その考えが、どれだけ危ういものなのか。
今日、少しだけわかった気がした。
「……ありがとうございます」
透は頭を下げた。
職員室を出て、自分の部屋へ戻る。
窓の外には、星がいくつか見えていた。
明日になれば、またいつもの日常が始まる。
アイはアイドルを目指して、練習を続けるだろう。
結果がどうなるかは、まだわからない。
今日の出来事が、どこへ繋がっていくのかもわからない。
それでも、アイは今日、自分の夢に向かって進んだ。
そして、俺もひとつだけ、決めた。
彼女を守るために、彼女の前に立ち続ける必要はない。
ときには隣に立ち、ときには少し後ろから見守り、ときには彼女と一緒に誰かの助けを求める。
その距離を、間違えないようにしたい。
「……頑張れよ、アイ」
誰もいない部屋で、俺は小さく呟いた。
その声は、彼女には届かない。
それでも、明日、顔を合わせたら伝えようと思った。
今日、自分で決めたことを、誇りに思っていいんだと。
彼女が選んだ一歩は、決して小さなものじゃなかったのだと。
そして。
俺がまだ知らない場所で、彼女の夢を利用しようとする誰かがいるのだとしても。
その存在を理由に、彼女の夢そのものを否定することだけは、もうしたくなかった。
守りたいから、止める。
心配だから、決めてしまう。
それでは、きっと駄目なのだ。
彼女が自分の人生を選べるように。
彼女が自分の足で歩き続けられるように。
俺は俺にできることを、ひとつずつやっていこう。
窓の向こうで、星が静かに瞬いていた。
――この日、星野アイは、夢に向かって一歩を踏み出した。
そして同時に、彼女の夢をめぐる小さな異変は、もう見過ごせないものになり始めていた。
まだ、誰もその全貌を知らない。
けれど少なくとも、今度はアイがひとりで抱え込むことはない。
彼女が自分の言葉で助けを求められる限り。
俺たちは、まだ間に合うはずだった。