オーディションの結果が届くまで、一週間。
長いようで、短いような時間だった。
アイは、いつもどおり施設で過ごしていた。
朝起きて、年下の子たちと朝食を食べる。時間があれば歌の練習をして、ダンスの振り付けを確認する。職員に頼まれた手伝いをして、夜になれば明日の準備をする。
ただ、ひとつだけ違うことがあった。
「……まだかなあ」
食堂の隅で、アイがスマートフォンを覗き込んでいた。
「何が?」
向かい側でパンを食べていた俺が尋ねると、アイは勢いよく顔を上げた。
「な、何でもないよ?」
「いや、今めちゃくちゃスマホ見てただろ」
「見てない!」
「見てたって」
「透くんの目がよすぎるんだよ!」
「それ、俺のせいなのか?」
アイは頬を膨らませた。
けれど、すぐにスマートフォンへ視線を戻す。
画面には、何も届いていない。
オーディションの結果は、数日以内に連絡すると説明されていた。具体的な日時までは決まっていない。
つまり、今日届くかもしれないし、明日かもしれない。
それはわかっている。
わかっているのに、通知が鳴るたびに期待してしまうのだ。
「……緊張してんの?」
「してないよ?」
「その返事、前にも聞いたぞ」
「してないったら!」
アイはスマートフォンを伏せた。
そして、少しだけ声を小さくした。
「……ちょっとだけ」
「そっか」
「うん」
「まあ、気になるよな」
俺はそれ以上、何も言わなかった。
頑張ったんだから絶対に受かる、なんて無責任なことは言えない。
でも、受かってほしいとは思っている。
アイが自分で選んだ夢だ。
その夢に向かって踏み出した一歩が、いい結果に繋がってほしい。
それは、素直な気持ちだった。
「……透くん」
「ん?」
「もし、落ちてたらどうしよう」
その言葉は、いつもの明るい調子とは少し違っていた。
アイは笑っていなかった。
ただ、伏せたスマートフォンを見つめている。
「落ちたら、悲しいと思う」
「うん」
「いっぱい練習したし、頑張ったし。受かりたいって、すごく思ってるから」
「うん」
「でも、もし落ちたら……私、ちゃんと次も頑張れるかな」
俺は少し考えてから答えた。
「今は、そこまで考えなくてもいいんじゃないか」
「え?」
「結果が出る前から、落ちたあとのことまで全部考えてたら疲れるだろ」
「……それは、そうだけど」
「受かってたら、そのとき考えればいい。落ちてたら、そのとき悲しめばいいし、次どうするかも、そのとき考えればいい」
アイは、ゆっくりと顔を上げた。
「……悲しんでもいいの?」
「そりゃあ、いいだろ」
「そっか」
「頑張ったんだから、悔しいのは普通だと思うぞ」
アイはしばらく俺を見つめていた。
それから、ふっと笑った。
「透くんって、たまにまともなこと言うよね」
「たまにって何だよ」
「いつもはちょっと変なのに」
「お前なあ……」
「あははっ!」
アイの笑い声が食堂に響く。
近くにいた子どもたちも、つられて笑った。
その光景を見ながら、俺は思った。
こういう時間を守りたい。
彼女が夢を追うことだけじゃない。
結果を待って不安になることも、失敗を怖がることも、何でもないことで笑うことも。
その全部が、彼女の人生なのだ。
俺が守りたいのは、未来の有名なアイドルだけじゃない。
今、ここで笑っている星野アイもなのだ。
*
その日の午後、施設に電話がかかってきた。
俺は廊下を歩いていたが、職員室から聞こえた声に足を止めた。
「はい、いつもお世話になっております。……ええ、星野の件ですね」
アイの名前。
思わず、職員室の扉を見た。
けれど、すぐに首を横に振る。
盗み聞きするのは違う。
俺はその場を離れようとした。
「はい。本人にも伝えます。……ありがとうございます」
受話器を置く音がした。
少しして、職員が廊下に顔を出した。
「透くん、ちょうどよかった」
「え、俺ですか?」
「アイちゃんを呼んできてもらえる?」
「……はい」
胸が、少しだけ高鳴った。
もしかして。
いや、まだ決まったわけじゃない。
期待しすぎるなと自分に言い聞かせながら、アイを探しに行った。
彼女は庭にいた。
年下の子たちと一緒に、花壇の周りを片づけている。
「アイ」
「んー?」
「職員さんが呼んでるぞ」
「えっ、私?」
「ああ」
「何かしたっけ……?」
「いや、知らん」
アイは手を止め、少し不安そうに俺を見た。
「……怒られるのかな」
「心当たりあるのか?」
「ないよ!」
「じゃあ大丈夫だろ」
「透くんの大丈夫って、たまに信用できないんだよね」
「ひどくない?」
アイは笑いながら手を洗い、職員室へ向かった。
俺はその背中を見送った。
扉が閉まる。
中で何を話しているのかは聞こえない。
ただ、数分後。
「――えっ!?」
廊下まで響く声がした。
思わず振り返る。
続いて、職員の笑い声が聞こえた。
「はい。一次審査の結果は、合格だそうです」
その言葉のあと、短い沈黙があった。
そして。
「……ほんと、ですか?」
アイの声が聞こえた。
さっきよりずっと小さくて、信じられないという気持ちが、そのまま声になったようだった。
「はい。次の選考に進んでほしいとのことです。詳しい案内は、改めて届くそうですよ」
「……っ」
また沈黙。
俺は、扉の向こうを想像する。
目を見開いているアイ。
口元に手を当てているアイ。
そして、きっと。
「……やったああああっ!」
廊下に、明るい声が響き渡った。
俺は思わず吹き出した。
「うるさっ……!」
扉が勢いよく開く。
「透くん!!」
「お、おう!?」
「受かった!!」
アイが走ってきた。
「次に進めるって! 私、合格だって!!」
「聞こえたよ!」
「ほんと!? 聞こえた!?」
「聞こえたって!」
「やったあああっ!」
アイはその場でぴょんと跳ねた。
それから、どうしていいかわからなくなったように両手を握り、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「どうしよう! どうしよう、透くん!」
「どうしようって、そりゃ……」
「私、受かったんだよ!? 次に進めるんだよ!?」
「だから、そう言ってるだろ!」
「あははっ! そっか! そうだよね!」
笑いながら、アイは目元をこすった。
その仕草を見て、俺は少しだけ驚いた。
泣いているのかと思った。
けれど、アイはすぐに顔を上げた。
「……嬉しい」
声が、少し震えていた。
「すっごく、嬉しい」
「……うん」
「私、もっと頑張っていいんだって思えた」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
ああ。
よかった。
心から、そう思った。
「おめでとう、アイ」
俺がそう言うと、アイは一瞬だけきょとんとした。
それから、今まででいちばん嬉しそうに笑った。
「……うんっ!」
*
その日の夕食は、いつもより少しだけ賑やかだった。
アイが次の選考に進めると聞いて、年下の子たちは大喜びした。
「アイちゃん、すごーい!」
「アイちゃん、もうアイドルなの?」
「まだだよ!」
「じゃあ、いつアイドルになるの?」
「えーっと……これから?」
「これから!?」
「うん! これから!」
アイは笑いながら答えていた。
まだ合格が決まったわけではない。
次の選考に進めるというだけだ。
それでも、彼女にとっては大きな一歩だった。
食事のあと、子どもたちが職員と一緒に片づけをしている間、俺はアイと庭に出た。
「……嬉しそうだな」
「そりゃあね!」
アイは満面の笑みで答えた。
「でも、次もあるんだよね」
「そうだな」
「また緊張するんだろうなあ」
「するだろうな」
「透くん、そこは否定してよ!」
「いや、緊張はするだろ」
「むう……」
アイは頬を膨らませた。
けれど、すぐに笑った。
「でも、いいんだ」
「ん?」
「緊張しても、怖くても、やってみたいから」
アイは夜空を見上げた。
「前はね、アイドルになれたら、きっと何でもうまくいくんだって思ってた」
「……うん」
「有名になれたら、みんなが私を見てくれる。私が笑ったら、みんなも笑ってくれる。そんなふうに思ってたんだ」
少しだけ、声が静かになる。
「でも、最近は、そうじゃないこともあるんだなって思う」
俺は黙って聞いていた。
「夢が叶っても、怖いことはあるんだよね。わからないこともあるし、嫌なことが起きるかもしれない」
「……ああ」
「それでも、私はアイドルになりたい」
アイは、俺のほうを向いた。
「怖いことがあるからって、やりたいことまで諦めたくないんだ」
その目は、まっすぐだった。
俺は、その言葉を聞いて、ふと思った。
この子は、強い。
何も怖がらないからじゃない。
何が起きるのか、全部わかっているからでもない。
怖いと知って、それでも自分で進むことを選べるからだ。
「……そっか」
俺は笑った。
「じゃあ、頑張れ」
「うん!」
「無理はするなよ」
「それも聞いた!」
「大事だからな」
「わかってるってば!」
アイは笑いながら、俺の肩を軽く叩いた。
「透くんは、心配性だなあ」
「誰のせいだと思ってんだ」
「えー? 誰だろう?」
「お前だよ!」
「あははっ!」
笑い声が、夜の庭に響いた。
俺は、その声を聞きながら、胸の奥で静かに願った。
どうか、この笑顔が続きますように。
ただし、今度は、その願いを理由に彼女の未来を決めつけたりはしない。
アイが進みたいと思うなら、応援する。
不安になったら、一緒に考える。
危険があるなら、確かめる。
そして、俺ひとりではどうにもできないことがあれば、助けを求める。
それが、今の俺にできることだった。
*
数日後。
施設の職員から、俺はひとつの報告を受けた。
「透くん、少し時間いいかな」
「はい」
職員室に入ると、職員は手元の書類を置いた。
「この前のオーディションの件なんだけどね」
「……何かわかったんですか?」
「運営側から連絡があったよ。アイちゃんに声をかけた人物については、現在確認中だそうだ」
「まだ、わからないんですね」
「うん。ただ、少なくとも、当日の正式な審査担当者として登録されていた人ではなかったそうだ」
俺は眉を寄せた。
正式な担当者ではなかった。
それだけで、何かを断定することはできない。
運営に関係する別の人間だった可能性もあるし、何らかの行き違いがあった可能性もある。
けれど、少なくとも、アイが感じた違和感は無視していいものではなかった。
「それで、今後の連絡は、必ず登録された窓口を通すことになったそうだよ。アイちゃんにも、そのことを伝えておくね」
「……ありがとうございます」
「それから、君のところに電話をかけてきた番号についてだけど、こちらでも記録しておいた。今後、同じ番号から連絡があった場合は、無理に対応せず、職員に知らせてほしい」
「わかりました」
職員は少しだけ表情を和らげた。
「今回のことで、アイちゃんが夢を諦める必要はない。ただ、夢を追うときにも、自分を守るために確認することは大切だからね」
「……はい」
俺は、深く頷いた。
それは、アイが自分で学んだことでもあった。
夢を叶えるために、何でも受け入れる必要はない。
誰かの期待に応えるために、自分の気持ちを押し殺す必要もない。
そして、怖いことがあったからといって、夢そのものを諦める必要もない。
どれも、当たり前のようでいて、難しいことだ。
俺だって、まだ全部を理解できているわけじゃない。
それでも。
アイが自分の足で進もうとしているのなら、俺も自分にできることをしよう。
*
その日の夜。
アイは、次の選考について届いた案内を確認していた。
「……次は、面談と実技審査かあ」
ベッドの端に座り、書類を読み返している。
俺は、少し離れた椅子に座っていた。
「何か気になることでもあるのか?」
「ううん。今のところは大丈夫」
そこで、アイは一度言葉を切った。
「……あ、でも」
「ん?」
「次は、わからないことがあったら、ちゃんと聞くことにする」
「そうだな」
「それから、知らない人に何か言われても、すぐに返事しない!」
「それがいいと思う」
「あと、困ったら相談する!」
「うん」
「……透くんにも」
アイは、少しだけ照れたように笑った。
「もちろん、透くんだけじゃなくて、職員さんにも相談するけどね」
「それでいいよ」
「ふふっ」
アイは書類を机の上に置いた。
「ねえ、透くん」
「何?」
「私、ちゃんとアイドルになれるかな」
その問いに、俺は少しだけ息を止めた。
簡単に答えることはできた。
なれるよ。
絶対大丈夫。
そう言えば、アイは笑ってくれるかもしれない。
でも、それは俺が保証できることじゃない。
だから、俺は正直に答えた。
「……まだ、わからない」
アイは、少しだけ目を丸くした。
「そっか」
「でも、お前がなりたいと思ってることは知ってる。今回だって、自分で応募して、練習して、ちゃんと審査を受けてきた。次もそうやって進めばいいんじゃないか」
「……うん」
「結果がどうなるかは、俺にもわからない。でも、頑張ってるお前を応援することはできる」
アイは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……そっちのほうが、嬉しいかも」
「え?」
「絶対なれるって言われるのも嬉しいけど、わからないことはわからないって言ってくれるほうが、安心する」
アイは、膝の上で手を組んだ。
「だって、私もわからないもん。これからどうなるかなんて」
「……ああ」
「でも、わからないから、やってみたいんだよね」
その言葉に、俺は笑った。
「そうだな」
アイは、満足そうに頷いた。
「よーし! 次も頑張るぞー!」
「おう」
「透くんも応援してね!」
「最初からそのつもりだよ」
「えへへっ」
アイは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、俺は思った。
彼女の未来を知っているつもりだった。
彼女が何を望み、何を失い、どんな結末を迎えるのか。
その大まかな流れだけは、俺の記憶の中にあった。
でも、目の前にいる彼女は、俺の知識だけでは説明できない人間だった。
不安になりながらも挑戦する。
怖いと感じたら、立ち止まって考える。
失敗するかもしれないと知っていても、自分の夢を諦めない。
そんな彼女の姿を、俺はまだ知らなかった。
だからこそ、俺はこれからも、彼女の言葉を聞かなければならない。
未来を知っているからといって、彼女の気持ちまで知っているわけじゃないのだから。
アイがベッドに入り、部屋の明かりが消える。
俺は静かに部屋を出た。
廊下の窓から、夜空を見上げる。
星は、今日も変わらずそこにあった。
彼女の夢が、どこへ向かっていくのか。
その先に何が待っているのか。
まだ、わからない。
それでも。
今夜だけは、少しだけ安心して眠れそうだった。
アイは夢を諦めなかった。
そして俺も、彼女の夢を守るために、何もかもをひとりで背負おうとすることをやめ始めていた。
けれど、ひとつだけ。
俺にはまだ、確かめられていないことがある。
あの電話の男は、どうして俺の名前を知っていたのか。
そして、どうして俺に、アイから手を引くようなことを言ったのか。
その答えは、まだ見えない。
ただ、ひとつ確かなことがある。
アイの夢は、確かに前へ進んでいる。
だからこそ、その夢の周りで起きていることから、目を逸らすわけにはいかなかった。