星野アイに嘘をつかなくていい日を   作:M1tarash1

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15.その笑顔を誰のために

星野アイは、よく笑う。

 

 それは、俺がこの施設に来てから何度も思ったことだった。

 

 年下の子が転んで泣きそうになれば、アイはすぐに駆け寄って、わざと大げさに転んだふりをする。

 

 食事の時間に誰かが失敗すれば、怒るより先に冗談を言って、みんなの緊張を解く。

 

 職員が忙しそうにしていれば、何も言われなくても手伝いに行く。

 

 そして、誰かが笑ってくれると、アイも嬉しそうに笑うのだ。

 

 だから、最初は気づかなかった。

 

 彼女が笑っていないときの顔を、あまり見せてくれないことに。

 

     *

 

「透くん、ちょっと聞いて!」

 

 朝食を終えたばかりの俺のところへ、アイが勢いよくやってきた。

 

「お、おう。何だよ」

 

「二次審査の案内、届いた!」

 

「おお、来たのか」

 

「うん! 日程も決まったよ!」

 

 アイは嬉しそうに書類を広げた。

 

 次の審査は、来週の午後。

 

 内容は歌唱とダンス、それから審査員との面談。一次審査よりも、本人の個性や考え方を見たいという説明が添えられていた。

 

「歌とダンスはわかるけど、面談って何を聞かれるんだろう?」

 

「さあな。アイドルになりたい理由とか?」

 

「それ、一次審査でも聞かれたよ?」

 

「じゃあ、好きな食べ物とか」

 

「それオーディションで聞く!?」

 

「知らんよ。俺、受けたことないし」

 

「もう、適当なんだから!」

 

 アイは笑った。

 

 その笑顔につられて、俺も笑う。

 

 けれど、彼女はすぐに書類へ目を落とした。

 

「……ちゃんと答えられるかな」

 

 ぽつりと落ちた声は、さっきより小さかった。

 

「準備すればいいんじゃないか?」

 

「準備?」

 

「聞かれそうなことを考えて、自分がどう答えたいか整理するとか。答えを丸暗記するんじゃなくてさ」

 

「うーん……」

 

 アイは腕を組んだ。

 

「でも、面接の答えって、正解があるわけじゃないんだよね?」

 

「たぶんな」

 

「じゃあ、難しいなあ」

 

「正解がないなら、間違いを怖がりすぎなくてもいいだろ」

 

 そう言うと、アイは不思議そうに俺を見た。

 

「……透くんって、そういうこと言うの得意だよね」

 

「そうか?」

 

「うん。なんか、私が考えてることを、ちょっとだけ整理してくれる感じ」

 

 その言葉に、俺は返事に困った。

 

 俺がしているのは、彼女の考えを整理する手伝いにすぎない。

 

 彼女が何を思い、何を選ぶかまで、俺が決めることはできない。

 

「まあ、自分のことなんだから、自分で考えるしかないだろ」

 

「……そうだね」

 

 アイは書類を畳んだ。

 

「よし。じゃあ、私がどんなアイドルになりたいのか、もう一回考えてみる!」

 

「おう」

 

「透くんも一緒に考えてね!」

 

「……結局、俺も参加するのかよ」

 

「当たり前じゃん!」

 

 アイは、いたずらっぽく笑った。

 

     *

 

 その日の午後、俺たちは施設の庭で向かい合っていた。

 

 アイが面談の練習をしたいと言い出したのだ。

 

「では、星野アイさん」

 

 俺は、できるだけ審査員らしい声を出した。

 

「あなたは、どんなアイドルになりたいですか?」

 

「はい! みんなを笑顔にできるアイドルです!」

 

「……うん。じゃあ、どうして笑顔にしたいんですか?」

 

「えっ?」

 

 アイが固まった。

 

「いや、今の質問の続き」

 

「えーっと……みんなが笑ってくれたら、私も嬉しいから?」

 

「なるほど。じゃあ、みんなが笑ってくれなかったら?」

 

「えっ、そんなことある!?」

 

「あるかもしれないだろ。ライブで誰も笑ってくれなかったらどうする?」

 

「そ、それは……」

 

 アイは困ったように眉を寄せた。

 

 しばらく考えてから、首を傾げる。

 

「……もっと頑張る?」

 

「何を?」

 

「歌とか、ダンスとか……ファンサービスとか?」

 

「それでも笑ってくれなかったら?」

 

「透くん、意地悪!」

 

「本番で聞かれるかもしれないぞ」

 

「聞かれないよ、こんなの!」

 

 アイは抗議したが、少しすると真面目な顔になった。

 

「……でも、そうだね」

 

「ん?」

 

「みんなを笑顔にしたいって思ってても、みんなが絶対に笑ってくれるわけじゃないんだよね」

 

 アイは、庭の向こうに目を向けた。

 

 年下の子たちが、花壇の近くで遊んでいる。

 

「私が何かしても、嬉しくない人はいるかもしれない。歌が下手だって思う人もいるかもしれないし、私のことが嫌いな人だっているかもしれない」

 

「まあ、そうだろうな」

 

「……うん」

 

 彼女は少し考えた。

 

「それでも、私は笑顔にしたいって思うんだよね」

 

「うん」

 

「でも……」

 

 そこで、言葉が途切れた。

 

 俺は続きを待った。

 

 アイはしばらく黙ってから、小さく笑った。

 

「……なんでもない!」

 

 まただ。

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺は思った。

 

 今、彼女は何かを言おうとした。

 

 けれど、途中でやめた。

 

 それが何なのかはわからない。

 

 無理に聞き出すこともできるだろう。

 

 でも、それでは以前と同じだ。

 

 俺は、少しだけ考えてから口を開いた。

 

「……言いたくないなら、無理に言わなくていいよ」

 

 アイが、こちらを向いた。

 

「え?」

 

「ただ、話したくなったら聞くから」

 

 彼女は、目をぱちぱちとさせた。

 

 それから、少しだけ困ったように笑った。

 

「……透くん、最近そういうこと言うね」

 

「何だよ、悪いか?」

 

「ううん」

 

 アイは首を横に振った。

 

「……ありがと」

 

 その声は、とても小さかった。

 

     *

 

 数日後。

 

 アイは、いつもより遅く庭にやってきた。

 

 いつもなら、朝食の片づけを終えたあと、年下の子たちと遊んでいる時間だ。

 

 けれど、その日はひとりでベンチに座り、スマートフォンを見つめていた。

 

「……何してんの?」

 

 声をかけると、アイは顔を上げた。

 

「あ、透くん」

 

「珍しいな。みんなと遊ばないの?」

 

「うん。ちょっとだけ休憩」

 

 笑顔だった。

 

 いつもどおりの、明るい笑顔。

 

 でも、俺はその笑顔に、ほんの少しだけ違和感を覚えた。

 

「……何かあった?」

 

「え?」

 

「いや、何となく」

 

「何もないよ!」

 

 返事は、いつもより少しだけ早かった。

 

 アイはすぐにスマートフォンをポケットへしまった。

 

「本当に何でもないって!」

 

「……そっか」

 

 俺は、それ以上聞かなかった。

 

 聞かなかったけれど、気にならなくなったわけではない。

 

 アイは立ち上がり、いつものように年下の子たちのところへ向かった。

 

 俺はその背中を見送った。

 

 何かあったのかもしれない。

 

 でも、何もないのかもしれない。

 

 今の俺には、判断できなかった。

 

     *

 

 その日の夕方。

 

 職員室から戻ってきたアイが、廊下で俺を見つけた。

 

「透くん!」

 

「ん?」

 

「ちょっと、話してもいい?」

 

 いつもより真剣な顔だった。

 

 俺は頷いた。

 

「いいよ」

 

 俺たちは、人の少ない談話室へ移動した。

 

 アイは椅子に座ると、しばらく膝の上で手を組んでいた。

 

「……あのね」

 

「うん」

 

「今日、事務所の人から連絡があったの」

 

 胸の奥が、わずかに冷えた。

 

「事務所の人?」

 

「うん。二次審査の前に、ちょっと話しておきたいことがあるって」

 

「……どんな話?」

 

「次の審査のこととか、これからの活動のこととか。そういう説明をしたいんだって」

 

「それで?」

 

「今度、担当の人と話すことになったの」

 

 俺は、少し考えた。

 

 正式な担当者から、仕事について説明を受ける。

 

 それ自体は不自然ではない。

 

 むしろ、これから活動する可能性があるなら、確認しておくべきことだろう。

 

「場所は?」

 

「事務所の会議室だって。職員さんにも話してあるよ」

 

「……そっか」

 

 アイは、俺の顔をじっと見た。

 

「透くん、心配してる?」

 

「そりゃ、少しはな」

 

「……だよね」

 

 彼女は苦笑した。

 

「でも、今回はちゃんと確認したよ。誰と話すのかも、場所も、時間も。職員さんも知ってる」

 

「ああ。それなら、いいと思う」

 

「うん」

 

 アイは、少しだけ安心したように息を吐いた。

 

 けれど、すぐに表情が曇った。

 

「……ただね」

 

「うん?」

 

「担当の人に、ちょっと言われたんだ」

 

「何を?」

 

 アイは、視線を落とした。

 

「アイドルになるなら、もっと自分を見せることも必要だって」

 

「……自分を見せる?」

 

「うん。笑顔とか、話し方とか、どういうふうに見られるかとか。そういうことを、もっと意識したほうがいいって」

 

 それは、芸能の仕事をするうえでは、あり得る助言だった。

 

 人前に立つ仕事なのだから、表情や話し方を意識することも必要だろう。

 

 ただ、アイの様子を見る限り、問題はそれだけではなさそうだった。

 

「それで、何か気になることがあるのか?」

 

「……私ね」

 

 アイは、指先をぎゅっと握った。

 

「笑ってると、みんな喜んでくれるんだよ」

 

「うん」

 

「私が明るくしてると、みんな安心するし、楽しいって言ってくれる。だから、もっと笑ったほうがいいのかなって思った」

 

 声が、少しずつ小さくなっていく。

 

「でも、たまに……疲れてるときもあるんだ」

 

 俺は黙っていた。

 

「何もしたくないときもあるし、ひとりでいたいときもある。誰かに話しかけられても、うまく笑えないときだってある」

 

 アイは、ぎゅっと唇を結んだ。

 

「そういうときでも、笑ってたほうがいいのかな」

 

 その質問は、思ったよりも重かった。

 

 アイドルになりたい。

 

 誰かを笑顔にしたい。

 

 そのために、自分の笑顔を磨く。

 

 それは、彼女の夢の一部だ。

 

 けれど。

 

 自分が笑えないときにも、笑わなければならないのだとしたら。

 

 自分の気持ちを隠してまで、誰かを安心させなければならないのだとしたら。

 

 それは、彼女が望んでいる夢なのだろうか。

 

「……アイ」

 

「うん」

 

「笑いたくないときまで、無理して笑わなくていいと思う」

 

 アイは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……でも、アイドルだよ?」

 

「そうだな」

 

「見てくれる人を、笑顔にする仕事だよ?」

 

「うん」

 

「だったら、私が笑ってないと、駄目なんじゃないの?」

 

 俺は、すぐには答えられなかった。

 

 アイドルの仕事について、俺が知っていることは多くない。

 

 ただ、彼女がこれから進もうとしている世界では、きっと、笑顔を求められる場面がたくさんある。

 

 ファンの前で笑うこと。

 

 カメラの前で笑うこと。

 

 期待に応えること。

 

 それが仕事の一部になることもあるだろう。

 

 だから、何も考えずに「そんなの気にしなくていい」と言うことはできなかった。

 

「……仕事として笑顔を見せることは、あると思う」

 

 俺は、正直に答えた。

 

「でも、それと、自分の気持ちを全部押し殺すことは違うんじゃないか」

 

「……違う?」

 

「笑顔を届けたいって思うことと、いつでも笑っていなきゃいけないって思い込むことは、同じじゃないだろ」

 

 アイは、じっと俺を見ていた。

 

「お前が誰かを笑顔にしたいと思うのは、お前自身がそうしたいからなんだろ?」

 

「……うん」

 

「だったら、自分がつらいときに、つらいって思うことまで否定しなくていいと思う。疲れたら休めばいいし、困ったら相談すればいい」

 

 俺は、少しだけ言葉を選んだ。

 

「誰かを笑顔にするために、自分がずっと苦しいままでいなきゃいけないわけじゃない」

 

 アイの目が、揺れた。

 

 彼女は何かを言おうとして、やめた。

 

 それから、ぽつりと呟いた。

 

「……私、笑ってないと、みんなに嫌われちゃうのかな」

 

 その声を聞いた瞬間、胸が痛んだ。

 

 アイは、いつも笑っている。

 

 周りの人が笑ってくれることを、何よりも喜んでいる。

 

 だからこそ、笑顔がなくなったら、自分には何も残らないと思っているのだろうか。

 

「……そんなことないよ」

 

 俺は、できるだけ穏やかに言った。

 

「少なくとも、俺は、お前が笑ってないからって嫌いになったりしない」

 

 アイは、目を見開いた。

 

「……透くん」

 

「もちろん、俺だけじゃないと思う。お前がいつも笑ってるから好きなんじゃなくて、お前がアイだから、一緒にいたいと思ってる人だっているはずだ」

 

 俺は、彼女の目を見た。

 

「年下の子たちだってそうだろ。お前が一緒に遊んでくれるから嬉しいんだ。いつも笑顔でいてくれるからだけじゃない」

 

 アイは、しばらく黙っていた。

 

 やがて、俯いていた顔を少しだけ上げた。

 

「……そっか」

 

「うん」

 

「……そっかぁ」

 

 今度の声は、少しだけ柔らかかった。

 

 アイは笑った。

 

 けれど、それはいつもの明るい笑顔とは違っていた。

 

 どこか照れくさそうで、少しだけ泣きそうな顔だった。

 

「……ありがと」

 

「おう」

 

 それ以上、俺たちは何も言わなかった。

 

 今は、それでいいと思った。

 

     *

 

 翌日。

 

 アイは、いつもどおり年下の子たちと遊んでいた。

 

 けれど、以前よりも少しだけ、自分の時間を取るようになった。

 

 朝の片づけを終えると、ひとりで歌の練習をする。

 

 疲れたら、ベンチに座って休む。

 

 誰かに話しかけられたときも、無理に笑おうとせず、普通に返事をする。

 

 それだけのことだった。

 

 でも、アイにとっては、少し勇気のいることだったのかもしれない。

 

 午後、俺が庭を通りかかると、アイがベンチで本を読んでいた。

 

「珍しいな。今日は遊ばないのか?」

 

「うん。ちょっと休憩」

 

「そっか」

 

 俺は隣に座った。

 

「……何読んでんの?」

 

「歌の本。歌詞の書き方とか、いろいろ載ってるの」

 

「へえ」

 

「自分で歌を作れたら、もっと面白いかなって思って」

 

「いいんじゃないか?」

 

 アイは、本を閉じた。

 

「……ねえ、透くん」

 

「ん?」

 

「私、もっといろんなことを知りたい」

 

「いろんなこと?」

 

「うん。歌もダンスも、演技も。人に見られる仕事だから、自分がどう見えるかも知りたい」

 

 そこで、少しだけ笑う。

 

「でも、それだけじゃなくて、自分が何をしたいのかも、ちゃんと知りたいんだ」

 

 俺は頷いた。

 

「いいと思う」

 

「……それでね」

 

 アイは、少し照れくさそうに視線を逸らした。

 

「私、透くんの前では、無理して笑わなくてもいい?」

 

 その問いに、俺は一瞬、言葉を失った。

 

 アイは慌てたように付け足した。

 

「いや、別に、今まで無理してたってわけじゃないよ!? 楽しかったし、笑いたかったから笑ってたんだけど……」

 

「うん」

 

「でも、たまには、ちょっと疲れたって言ったり、何もしたくないって言ったりしてもいいのかなって」

 

 俺は、ゆっくりと笑った。

 

「いいに決まってるだろ」

 

「……ほんと?」

 

「ああ。俺だって、ずっとお前の話を聞いてるだけじゃなくて、たまには何も話さずにいたいときもあるし」

 

「えっ、そうなの!?」

 

「そりゃそうだろ」

 

「透くん、いつも静かだから、何も考えてないのかと思ってた」

 

「おい!」

 

 アイは声を上げて笑った。

 

 俺も笑った。

 

 それから、しばらくふたりで黙っていた。

 

 風が吹いて、木々の葉が揺れる。

 

 遠くから、子どもたちの声が聞こえてくる。

 

 アイは本を膝の上に置き、空を見上げた。

 

「……静かなのも、悪くないね」

 

「だろ」

 

「うん」

 

 彼女は、目を細めた。

 

 その顔には、笑顔はなかった。

 

 でも、悲しそうでもなかった。

 

 ただ、穏やかだった。

 

 俺は、その表情を覚えておこうと思った。

 

 笑っていないアイも、星野アイなのだ。

 

 それを、彼女自身にも知っていてほしかった。

 

     *

 

 その日の夜。

 

 俺は、職員室で呼び止められた。

 

「透くん、少しいいかな」

 

「はい」

 

 職員は、机の上に置かれた書類を見ながら言った。

 

「アイちゃんの事務所との面談について、日程が決まったそうだよ」

 

「……そうですか」

 

「今回は、事務所の担当者から、今後の活動方針や契約に関する説明があるそうだ。施設の職員も同席することになったから、安心していいよ」

 

 俺は頷いた。

 

 正式な説明を、職員も一緒に聞く。

 

 それなら、前回のような曖昧な話とは違うはずだ。

 

「それから、オーディション当日に声をかけてきた人物についてだけど……」

 

 職員は、少し表情を引き締めた。

 

「事務所側でも、確認を続けているそうだ。まだ詳しいことはわからない。ただ、アイちゃん本人には、今後も知らない人からの誘いには慎重に対応するよう伝えておく」

 

「……わかりました」

 

「君も、気になることがあればすぐに相談してほしい。ひとりで何とかしようとしなくていいからね」

 

「はい」

 

 職員室を出たあと、俺は廊下の窓から外を見た。

 

 前回、アイに声をかけた男性。

 

 俺に電話をかけてきた、正体のわからない人物。

 

 ふたつの出来事が、同じ相手によるものなのかはわからない。

 

 ただ、今のところ、正式な確認の手続きは進み始めている。

 

 俺が勝手に動き回るより、ずっと確かな方法だ。

 

 それでも、気がかりは残っていた。

 

 俺の名前を、どうして知っていたのか。

 

 アイと俺が親しいことを、どうして知っていたのか。

 

 そして、どうして俺に、余計なことに首を突っ込むなと言ったのか。

 

 答えは、まだ見つからない。

 

 けれど、ひとつだけわかったことがある。

 

 俺は、アイを守りたい。

 

 でも、そのために彼女のすべてを管理する必要はない。

 

 彼女が自分で考え、選び、歩いていけるように。

 

 そのために必要な助けを、一緒に探せばいい。

 

 それが、俺にできることなのだ。

 

     *

 

 翌朝。

 

「透くん!」

 

 食堂へ向かう途中、アイが駆け寄ってきた。

 

「おはよう」

 

「おはよ!」

 

 彼女は、いつものように笑った。

 

 でも、以前のように、何もかもを明るく見せようとしている感じはなかった。

 

「ねえ、今日の午後、歌の練習に付き合ってくれる?」

 

「いいけど。俺、歌は詳しくないぞ」

 

「いいの! 聞いてくれるだけで!」

 

「それなら、まあ」

 

「やった!」

 

 アイは嬉しそうに手を叩いた。

 

 それから、少しだけ真面目な顔になった。

 

「……あ、でも」

 

「ん?」

 

「もし今日、私が疲れたって言ったら、ちゃんと休ませてね?」

 

「それは自分で言えよ」

 

「えーっ!」

 

「いや、俺が勝手に休ませるのも違うだろ」

 

 アイは一瞬きょとんとした。

 

 それから、くすくすと笑った。

 

「……そっか。そうだね」

 

「自分で休みたいと思ったら、休めばいい。俺はそれを応援するよ」

 

「うん!」

 

 アイは大きく頷いた。

 

 そして、俺の隣を歩き始めた。

 

 いつものように話して、笑って、ときどき言い合いをして。

 

 そんな時間が、これからも続いていく。

 

 もちろん、何もかもが順調に進むとは限らない。

 

 夢を追うなかで、アイはきっと、何度も迷うだろう。

 

 誰かの期待に応えたいと思うこともある。

 

 自分の気持ちがわからなくなることもある。

 

 笑いたくても笑えない日だって、きっとある。

 

 それでも。

 

 笑顔を見せることだけが、彼女の価値ではない。

 

 誰かを喜ばせることだけが、彼女の役目でもない。

 

 星野アイは、星野アイとして生きていい。

 

 俺は、そう思った。

 

 そして、そのことを彼女自身が信じられるようになるまで、そばで話を聞いていたいと思った。

 

 廊下の向こうから、年下の子たちがアイを呼んでいる。

 

「アイちゃーん!」

 

「今行くよー!」

 

 アイは手を振り返した。

 

 それから、俺のほうを向いて笑った。

 

「じゃあ、またあとでね、透くん!」

 

「おう」

 

 走っていく背中を見送る。

 

 彼女の笑顔は、今日も明るかった。

 

 けれど、俺はもう、その笑顔だけを見て安心することはしない。

 

 笑っているときも。

 

 笑っていないときも。

 

 彼女の言葉を聞き、彼女の気持ちを知ろうとする。

 

 その積み重ねが、いつか彼女を支えるものになると信じて。




推しの子
有馬かな2周目「10秒で泣ける天才子役は2周目の人生では泣かない」完結52話
https://syosetu.org/novel/425828/
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