約束の日は、思っていたよりも早くやってきた。
朝から、星野アイは落ち着かなかった。
「ねえ透くん。今日の私、変じゃない?」
「昨日も同じこと聞いてなかった?」
「聞いたけど! 今日は今日なの!」
アイはそう言いながら、姿見の前でくるりと一回転した。
いつもより少しだけきちんとした服。髪も丁寧に整えている。いつもの明るい声も、今日はほんの少しだけ高い気がした。
緊張しているのだろう。
今日、アイは事務所の担当者と正式に話をする。
これからの活動方針。レッスンの予定。契約に関する説明。そして、次の審査について。
夢だったアイドルへの道が、また一歩、現実に近づく日だ。
「変じゃないよ。ちゃんとしてる」
「ほんと?」
「うん。ただ、さっきから前髪を直しすぎ」
「えっ、うそ!?」
アイが慌てて鏡をのぞき込む。
その隙に、俺は小さく笑った。
「……あ、今笑った!」
「笑ってない」
「笑ったもん! 絶対笑った!」
「はいはい」
「むー……透くん、最近ちょっと生意気じゃない?」
「アイに言われたくないなあ」
いつも通りのやり取り。
それだけで、少し安心した。
今日のことを考えると、どうしても頭の片隅に引っかかるものがあった。
以前、アイに声をかけてきた身元の分からない男。
俺の携帯にかかってきた、知らない番号からの電話。
――彼女のことを、本当に応援しているのなら、あまり余計なことに首を突っ込まないほうがいい。
あの言葉の意味は、今も分からない。
ただ、分からないからといって、何もかもを疑うわけにはいかなかった。
今日の面談は、事務所から正式に案内されたものだ。施設の職員さんも同行する。予定も場所も確認済みで、こちらから担当者に連絡できる手段もある。
少なくとも、これまでの不審な接触とは違う。
だからこそ、必要以上に怖がらず、必要なところは確かめる。
それが今の俺にできることだった。
「透くん?」
「ん?」
「今日、ちゃんと見ててね」
鏡越しに、アイが俺を見た。
「私が話してるとき。ちゃんと、ここにいてね」
いつもの笑顔だった。
でも、そこにはほんの少しだけ、心細さが混じっていた。
「もちろん」
俺は頷いた。
「俺はここにいるよ」
「……うん!」
アイはようやく、いつもの笑顔を見せた。
今度は、無理に作ったものじゃない。
そう思えたことが、嬉しかった。
*
事務所の入っているビルは、駅から少し歩いたところにあった。
ガラス張りの入口。磨かれた床。受付の奥には、忙しそうに行き交う大人たちの姿が見える。
俺たちを案内してくれた施設の職員さんが、受付で名前を告げた。
「星野アイさんと、付き添いの者です。担当の方とお約束しています」
「確認いたしますので、少々お待ちください」
受付の女性は端末を操作し、すぐに顔を上げた。
「はい、確認できました。担当者が参りますので、そちらでお待ちください」
通された待合スペースには、パンフレットや雑誌が並んでいた。
壁には、所属タレントらしい人たちの写真が飾られている。
アイはそれを見上げた。
「すごいね……」
「そうだな」
「ここにいる人たち、みんなお仕事してるんだよね」
「たぶんね」
「私も、いつかあそこに写真が飾られるのかな」
その声は、浮き立っていた。
怖さがなくなったわけじゃない。それでも、アイはここに来ることを選んだ。
その事実を、俺は大切にしたかった。
「飾られたら教えてよ」
「えー? 透くん、毎日見に来るの?」
「いや、毎日はちょっと……」
「なんで!?」
「いや、だって俺にも生活があるし」
「ひどっ!」
アイが頬を膨らませる。
職員さんがくすりと笑った。
俺たちは、いつも通りだった。
だから、背後から声をかけられたときも、最初は普通のことだと思った。
「星野さん、ですね?」
振り返ると、三十代くらいの女性が立っていた。
落ち着いた色のスーツに、首から社員証を下げている。手には書類の入ったファイル。
事務所の人間だろう。
「はい!」
アイが立ち上がる。
「本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。担当の者が少し遅れているので、先に会議室へご案内しますね」
女性は柔らかく微笑んだ。
そして、俺たちのほうを見た。
「施設の方も、ありがとうございます。……それから」
彼女の視線が、俺に止まる。
「黒瀬透くん、ですよね?」
心臓が、一度だけ強く鳴った。
――どうして。
俺は何も言えなかった。
彼女は、俺の反応を不思議に思ったらしい。
「あら、違いましたか?」
「……いえ。合っています」
「よかった。お名前を伺っていたので」
「誰からですか?」
自分でも驚くほど、声が硬くなった。
女性は一瞬だけ目を瞬かせた。
「え?」
「俺の名前、誰から聞いたんですか?」
空気が変わった。
アイが俺を見た。施設の職員さんも、女性の顔に視線を向ける。
女性は困ったようにファイルを持ち直した。
「ええと……すみません。私、別の案件の資料と勘違いしたかもしれません。こちらの面談に、黒瀬くんのお名前は登録されていないはずですから」
それは、もっともな説明だった。
俺はアイの保護者でも、正式な付き添いでもない。今日の面談に来ることは、施設の職員さんとアイ以外には、特に伝えていないはずだった。
ただ、職員さんが事前に同行者の人数を伝えた可能性はある。
俺が疑いすぎているだけかもしれない。
それでも。
「……別の案件って、どんな案件ですか?」
女性は口を開きかけ、閉じた。
「申し訳ありません。個別の資料については、私からお答えできません」
その返事自体は、おかしくない。
だけど、彼女の表情からは、単なる勘違い以上の戸惑いが見えた。
「こちらから担当に確認しますね。どうぞ、会議室へ」
女性はそう言って、先に歩き出した。
俺はすぐには動けなかった。
アイが、そっと袖を引いた。
「透くん」
「……うん」
「行こう」
その声に、俺は我に返った。
アイは不安そうだった。
でも、逃げたいわけじゃない。
今日ここへ来た理由を、忘れてはいなかった。
「分かった」
俺は頷き、アイの隣を歩き出した。
ただひとつ、頭の中に残った疑問を抱えたまま。
――知らない誰かが、俺の名前を知っている。
その事実だけが、妙に冷たく胸に残っていた。
*
会議室は、思っていたよりも明るかった。
大きな窓。長いテーブル。壁際には、過去に所属タレントが出演した番組や雑誌の切り抜きが額に入れて飾られている。
俺たちが席につくと、さっきの女性がお茶を用意してくれた。
「担当者が参りますので、少々お待ちください」
女性が出ていく。
扉が閉まった瞬間、施設の職員さんが小さく息を吐いた。
「黒瀬くん。さっきの話だけど」
「はい」
「あなたの名前は、私から事務所に伝えていないわ。今日、あなたが一緒に来ることは知っていたけれど、先方に伝えたのは私と星野さんの名前だけよ」
「……そうですか」
「ただ、受付で同行者について聞かれる可能性はあるから、どこかで耳にしただけということも考えられる。今の時点では、何とも言えないわね」
冷静な言い方だった。
疑わしいからといって、すぐに危険だと決めつけない。
俺も、そうしなければならない。
「分かりました」
そう答えると、隣でアイが膝の上に置いた手を握りしめているのが見えた。
俺は、彼女のほうへ少しだけ体を向けた。
「アイ」
「……なに?」
「今日の話、聞きたいんだろ?」
アイは一瞬、きょとんとした。
「……うん」
「じゃあ、聞こう。分からないことがあったら質問すればいいし、嫌なことがあったら職員さんに相談すればいい」
「……うん」
「俺もいるし」
最後の言葉に、アイの指先から少し力が抜けた。
「……そうだね」
彼女は小さく笑った。
「ありがと、透くん」
そのとき、会議室の扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、四十代くらいの男性だった。
名刺を差し出しながら、彼は穏やかな声で挨拶をした。
「本日、星野さんを担当いたします、芸能部の佐伯です。よろしくお願いします」
職員さんが名刺を受け取り、挨拶を返す。
アイも少し緊張しながら頭を下げた。
「星野アイです。よろしくお願いします!」
「はい。今日は大事なお話ですから、分からないことがあれば遠慮なく聞いてくださいね」
佐伯さんはそう言って席についた。
彼はまず、これまでの経緯を簡単に説明した。
アイが受けた審査の内容。担当者が彼女に期待していること。今後のレッスンや活動について。そして、次の審査では歌やダンスだけでなく、本人の意思や活動に対する考え方も確認する予定だということ。
話は、具体的だった。
レッスンは週に何度か。学業や施設での生活との両立についても相談しながら決める。体調が悪いときには無理をさせない。活動に必要な費用や契約条件については、書面を確認したうえで説明する。
少なくとも、今日の話に関しては、曖昧なまま押し切ろうとする様子はなかった。
職員さんも、気になる点をひとつずつ質問していく。
アイは最初こそ緊張していたが、話が進むにつれて、少しずつ自分から質問するようになった。
「レッスンって、歌とダンス以外にもあるんですか?」
「あります。発声や表現の練習、それから、今後必要になればカメラの前で話す練習などもですね」
「カメラ……!」
アイの目が輝く。
「テレビとか、ですか?」
「そういう仕事につながる可能性もあります。ただ、まだ決まったわけではありません。まずは基礎からです」
「はい!」
元気よく返事をしたアイに、佐伯さんは微笑んだ。
「いい返事ですね。楽しみにしてくれているのが伝わります」
「はい。私、ずっとアイドルになりたかったんです」
アイは少しだけ照れたように笑った。
「だから、できることは何でも頑張りたいです」
その言葉を聞いて、俺は胸の奥が温かくなった。
知っている。
彼女が、どれだけその夢を大切にしているか。
誰かを笑顔にしたいという気持ちを、どれだけ真剣に抱いているか。
それでも、佐伯さんはすぐに頷くだけではなかった。
「頑張る気持ちは大切です。ただ、何でもひとりで背負わなくていいんですよ。体調や生活のことも含めて、相談しながら進めていきましょう」
「……はい」
アイは少し驚いたようだった。
俺は、その言葉を聞きながら、静かに息を吐いた。
頑張りたいという気持ちを否定しない。
けれど、頑張ることだけを求めない。
それは、俺が彼女に伝えたかったことでもあった。
今日の担当者は、少なくとも、その大切さを理解しているように見えた。
だからこそ、俺は次の質問を口にすることができた。
「すみません。ひとつ、確認してもいいですか?」
佐伯さんがこちらを見る。
「はい。どうぞ」
「さっき、受付の方が俺の名前を知っていました。黒瀬透という名前です。俺は今回の面談に正式に登録されているわけではないと思うんですが、事務所の中で、俺の名前が共有されるようなことってあるんでしょうか?」
佐伯さんの表情が変わった。
驚いた、というよりも、話を慎重に受け止めようとしているようだった。
「黒瀬くん、ですね」
「はい」
「確認します。通常、今回の面談に関する資料に、あなたのお名前が記載される理由はありません。施設の方からも、付き添いの人数については伺っていますが、個別のお名前までは受け取っていません」
職員さんが頷く。
「その通りです」
「……そうですか」
佐伯さんは少し考えてから、続けた。
「ただ、事務所では複数の案件が同時に進んでいます。どこかの資料に名前が記載されていた可能性はあります。もちろん、個人情報の取り扱いとして適切かどうかは別の話です。こちらで確認します」
「お願いします」
「ちなみに、黒瀬くんは星野さんのご友人ですか?」
「はい。同じ施設で生活しています」
「なるほど」
佐伯さんはアイのほうを見た。
「星野さんが信頼しているお友達なんですね」
アイは一瞬だけ俺を見て、それから頷いた。
「はい。透くんは、私が困ったときに話を聞いてくれる人です」
その言葉に、少しだけ胸が詰まった。
嬉しかったから、というだけではない。
彼女が俺を信頼してくれていること。
そして、その信頼を裏切りたくないと思っていること。
その両方が、今の俺には重かった。
佐伯さんは、真面目な顔で言った。
「分かりました。では、名前の件については、こちらで確認します。何か分かった場合は、施設の職員の方を通じてお伝えします」
「お願いします」
俺はもう一度、頭を下げた。
佐伯さんはそれ以上、無理に話を聞き出そうとはしなかった。
それから面談は、予定されていた内容へと戻った。
契約については、今日すぐに結論を出す必要はないという説明だった。書類を持ち帰り、施設の職員や必要な大人と一緒に内容を確認してから、本人の意思を確かめて進める。
アイは、ひとつひとつ頷きながら聞いていた。
途中、活動が忙しくなった場合の生活について質問した。
「もし、レッスンと学校のことが重なっちゃったら、どうしたらいいですか?」
「その場合は、まず担当に相談してください。活動を優先するために、生活を無理に崩すことは望んでいません」
「お休みしたいって言ってもいいんですか?」
「もちろんです。体調が悪いときや、どうしても難しいときには、きちんと相談してほしいです」
アイは、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「……よかった」
「不安でしたか?」
「はい。私、頑張りたいんですけど……頑張りすぎて、迷惑かけちゃうのも嫌だから」
佐伯さんは、ゆっくりと頷いた。
「自分の状態を伝えることは、迷惑ではありませんよ。むしろ、長く活動していくために必要なことです」
アイはその言葉を、心の中で確かめるように繰り返した。
「……自分の状態を、伝えること」
俺は何も言わなかった。
ここで俺が「よかったな」と言うのは簡単だ。
でも、アイが自分で聞いて、自分で納得していくことに意味がある。
彼女は、少しずつ自分の言葉で質問できるようになっている。
その変化を、俺が勝手に自分の手柄にするわけにはいかなかった。
やがて、面談は一通り終わった。
「本日はありがとうございました。次の審査については、正式な案内を改めてお送りします。焦らず、準備を進めてください」
「はい! ありがとうございました!」
アイは深く頭を下げた。
その顔には、緊張のあとに残る疲れと、それ以上の期待が浮かんでいた。
会議室を出るとき、佐伯さんは俺にも声をかけた。
「黒瀬くん」
「はい?」
「先ほどの件は、きちんと確認します。気になることがあれば、ひとりで抱えず、施設の方にも相談してください」
「……ありがとうございます」
彼の言葉は、まっとうだった。
少なくとも、今のところは。
俺は佐伯さんに頭を下げ、アイたちの後を追った。
*
エレベーターを待つあいだ、アイはずっとそわそわしていた。
「ねえ、透くん」
「ん?」
「私、ちゃんと質問できてた?」
「できてたよ」
「変なこと聞かなかった?」
「聞いてない」
「ほんとに?」
「本当。むしろ、ちゃんと考えてるんだなって思った」
アイは、ぱっと顔を明るくした。
「えへへ……そっか」
その笑顔を見て、俺も少しだけ安心した。
今日の面談は、彼女にとって前向きなものになったはずだ。
不審なことがひとつあったからといって、そのすべてを台無しにする必要はない。
俺が守りたいのは、アイが夢を見ることを怖がらなくていい未来だ。
何かが起こるたびに立ち止まり、何もかもを疑って、最後には夢そのものを手放してしまう。
そんな結末を、俺は望んでいない。
「透くん?」
「……何?」
「また難しい顔してる」
「え、そう?」
「うん。今日、何回目?」
「数えてたの?」
「数えてないけど、いっぱい!」
アイは得意げに言ったあと、少しだけ声を落とした。
「……さっきのこと、気になってる?」
俺は答えるまでに、少し時間がかかった。
「うん。気にはなってる」
「そっか」
「でも、今日の面談が悪いものだったとは思ってないよ。話もちゃんと聞けたし、分からないことも確認できた」
「……うん」
「名前のことは、大人の人に調べてもらおう。俺たちだけで考えても、分からないことは分からないから」
アイは、俺の顔をじっと見つめた。
「透くんってさ」
「うん?」
「前より、ちゃんと分からないって言うようになったね」
思わず、言葉に詰まった。
「……そうかな」
「そうだよ。前は、何か聞くとすぐに答えようとしてた」
アイは少し考えてから、続けた。
「でも最近は、分からないことは分からないって言うし、私に聞いてくれることも増えた」
「……嫌だった?」
「ううん」
アイは首を横に振った。
「そのほうが、私は嬉しい」
ちょうどエレベーターが到着した。
扉が開き、俺たちは中へ入る。
アイは前を向いたまま、小さく言った。
「私のこと、何でも分かってるみたいにされるより、ちゃんと聞いてくれるほうがいいな」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
俺は彼女の未来を知っている。
けれど、それは彼女のすべてを知っているという意味ではない。
彼女が今、何を怖がっているのか。
何を望んでいるのか。
どんな言葉をかけられたら嬉しくて、どんな言葉に傷つくのか。
そんなことさえ、俺はまだ知らないことだらけだ。
知っている未来があるからといって、目の前の彼女を理解したつもりになってはいけない。
「……そっか」
俺は、ようやくそれだけ答えた。
「じゃあ、これからも聞くよ」
「うん!」
アイは笑った。
「いっぱい聞いてね。私もいっぱい話すから!」
その声は、明るかった。
俺はその明るさを、疑いたくなかった。
*
ビルを出たところで、職員さんが事務所に確認の電話を入れるため、少し離れた場所へ移動した。
アイは近くのベンチに座り、今日もらった資料を鞄にしまっている。
「これ、あとでちゃんと読まなきゃ」
「分からないところがあったら、職員さんと確認しなよ」
「分かってるってば!」
「本当に?」
「……分かってるもん」
アイがむっとする。
俺が笑いかけた、そのときだった。
「黒瀬透くん」
背後から、名前を呼ばれた。
今度こそ、全身が強張った。
振り返る。
そこに立っていたのは、知らない男だった。
年齢は三十代前半くらいだろうか。濃い色のスーツに、手には薄い書類鞄。事務所の社員なのか、別の会社の人間なのか、それすら分からない。
男は、まるで知り合いに会ったかのように微笑んでいた。
「初めまして」
俺は返事をしなかった。
男は気にした様子もなく、続けた。
「君に会えてよかった。少し話がしたかったんだ」
「……どなたですか?」
「私のことは、まだ知らなくていいよ」
その言い方に、嫌な感覚が背筋を這った。
アイが立ち上がる。
「透くん、この人……」
「アイ。職員さんを呼んで」
俺は男から目を離さずに言った。
「え……?」
「お願い」
アイは一瞬迷ったが、すぐに職員さんのいる方向へ走った。
男は、その様子を見ても止めようとしなかった。
「なるほど。ずいぶん信頼されているんだね」
「あなたは誰ですか」
「そんなに警戒しなくてもいい。今日は、君にひとつ伝えておきたいことがあっただけだ」
「だったら、事務所か施設の職員さんを通して話してください」
男は、ふっと笑った。
「賢いね。だが、そういうやり方では伝わらないこともある」
「……何を伝えたいんですか」
男は少しだけ顔を傾けた。
「星野アイのことだよ」
その瞬間、頭の中で警報が鳴った。
やっぱり、アイが目的なのか。
だが、男はすぐに彼女の名前を出しただけで、それ以上のことは言わなかった。
「彼女は、これから大きく変わっていくだろう。環境も、人間関係も、見える景色もね」
「……だから?」
「君は、その変化についていけるのかな」
俺は男を睨んだ。
「何が言いたいんですか」
「彼女のそばにいることが、必ずしも彼女のためになるとは限らない。君も、いずれ分かるだろう」
以前の電話と、同じ匂いがした。
直接的な脅しではない。
何かを知っているような言い方をしながら、肝心なことは何ひとつ説明しない。
こちらに不安を抱かせ、勝手に想像させる。
それが目的なのかもしれない。
「……あなたは、俺のことをどこで知ったんですか」
男の笑みが、ほんの少しだけ深くなった。
「それを知ることが、今の君に必要かな?」
「必要です」
俺は、はっきりと言った。
「俺の名前を知っていて、アイのことを話して、俺に何かを諦めさせようとしている。だったら、あなたが誰なのか知る必要があります」
男は、初めて少しだけ黙った。
その沈黙に、俺は続けた。
「俺は、あなたの言葉だけでアイから離れるつもりはありません。アイがどうしたいかは、アイ自身が決めることです」
「……そうか」
男は、つまらなそうに息を吐いた。
「なら、ひとつだけ覚えておくといい」
そして、俺の目をまっすぐに見た。
「君が彼女を救おうとするほど、彼女の人生を変えてしまう可能性がある。そのことを、忘れないように」
心臓が、嫌な音を立てた。
それは、俺自身がずっと恐れていたことだった。
俺はアイを救いたい。
でも、そのために彼女の選択を奪ってしまったら?
未来を知っていることを理由に、彼女が進もうとする道を塞いでしまったら?
それは、本当に彼女を救うことになるのか。
男は、俺の表情を見て、満足そうに微笑んだ。
「考えておくといい」
「待ってください。あなたは――」
「それでは」
男は軽く頭を下げ、歩き出した。
追いかけようとした、その瞬間。
「黒瀬くん!」
施設の職員さんの声がした。
振り返ると、アイと職員さんがこちらへ駆け寄ってきていた。
「今の人、誰!?」
アイが不安そうに周囲を見回す。
俺は、もう一度男のほうを見た。
だが、彼の姿は人混みに紛れ、すでに見えなくなっていた。
「……分からない」
答えながら、俺は拳を握りしめた。
まただ。
また、名前だけを知っている誰かが現れた。
俺のことを知っていて、アイのことを知っていて、それなのに自分が何者なのかは明かさない。
そして今度は、俺がアイを救おうとすることそのものに、疑問を投げかけてきた。
「黒瀬くん、何を言われたの?」
職員さんに尋ねられ、俺はできる限り正確に説明した。
男の外見。言葉。話した内容。そして、以前の電話との共通点。
職員さんは最後まで聞くと、すぐに頷いた。
「分かったわ。さっきの事務所の件と合わせて、先方に確認しましょう。今は追いかけないで。あなたたちだけで対応することではないから」
「……はい」
俺は頷いた。
悔しかった。
何も分からない。
相手の正体も、目的も、どこまで知っているのかも。
でも、ここで追いかけて、何かを突き止めようとすることが正しいとは限らない。
俺はアイを守りたい。
だからこそ、自分の不安に任せて動くわけにはいかなかった。
*
帰り道、アイはいつもより静かだった。
さっきの男の言葉が、彼女の中にも残っているのだろう。
施設に戻るまで、職員さんは事務所への連絡や今後の対応について話していた。俺たちの前でできることと、職員さんが確認することを分け、必要な記録も残すという。
アイはそれを聞きながら、ときどき俺の顔を見ていた。
そして、施設の門をくぐったあと。
「透くん」
アイが、俺の袖をつまんだ。
「……さっきの人、何を言ってたの?」
俺は、少しだけ迷った。
怖がらせたくない。
でも、隠してしまえば、彼女自身が判断する機会を奪ってしまう。
「俺がアイを救おうとするほど、アイの人生を変えてしまうかもしれないって」
「……そっか」
アイは俯いた。
「それって……本当なのかな」
その声は、とても小さかった。
俺はすぐに「違う」と言いそうになった。
そんなことはない。
俺はアイを救うためにここにいる。
彼女が悲しむ未来を変えたい。
彼女が、あの笑顔のまま生きていける未来を作りたい。
でも、それを俺が決めつけてしまったら。
アイの気持ちを聞く前に、俺の知っている未来だけを信じてしまったら。
それこそ、男の言葉が現実になってしまう。
「……分からない」
俺は、正直に答えた。
「俺が何をしても、絶対にアイのためになるって保証はないと思う」
アイは顔を上げた。
「でも」
俺は、彼女の目を見た。
「だからって、アイのそばにいることをやめるつもりもないよ。アイが自分で選んだことを応援したいし、困ったときには話を聞きたい。それは、俺が勝手に決めるんじゃなくて、アイがそうしてほしいと思ってくれるなら、だけど」
アイは、しばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑った。
「……私、透くんにそばにいてほしいよ」
その言葉は、まっすぐだった。
「私がアイドルになりたいって言ったときも、怖いって言ったときも、透くんはちゃんと聞いてくれたでしょ」
「……うん」
「だから、これからも聞いてほしい。私が何をしたいか。何が嫌なのか。何が怖いのか」
アイは、俺の袖を握る手に少しだけ力を込めた。
「私が間違えたら、教えてほしい。でも、私が何を選ぶかまで、透くんに決めてほしくない」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
それは、以前にも聞いた言葉だった。
彼女はずっと、同じことを伝えてくれていたのだ。
自分の人生を、自分で選びたい。
そのうえで、誰かに支えてほしい。
俺は、それを分かっていたつもりだった。
けれど、未来を変えることばかり考えているうちに、いつの間にか忘れかけていたのかもしれない。
「……分かった」
俺は頷いた。
「約束する。アイの気持ちを聞く前に、勝手に決めたりしない」
「うん」
「でも、俺が心配になったときは、ちゃんと話すよ」
「それはいいよ」
アイは、少しだけいたずらっぽく笑った。
「ただし、難しい顔ばっかりするのは禁止ね!」
「えっ、それは無理じゃない?」
「無理じゃない! 努力して!」
「はいはい……」
俺が肩をすくめると、アイはようやく声を立てて笑った。
その笑顔を見て、俺も少しだけ笑った。
今日、何も解決したわけではない。
男の正体は分からないままだ。
俺の名前がどこから漏れたのかも分からない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
俺は、アイの未来を一人で背負うことはできない。
そして、背負おうとしてはいけないのだ。
彼女の人生は、彼女のものだから。
*
その日の夜。
施設の職員さんから、事務所への確認について報告があった。
俺の名前が記載された資料がないか、担当部署で調べてもらうことになったらしい。
また、今日のビルの出入りについても、可能な範囲で確認を依頼したという。
ただし、現時点では、あの男が事務所の関係者なのかどうかすら分からない。
「今後、同じようなことがあったら、すぐに知らせてね。相手が何を言ってきても、あなたたちだけで答えを出そうとしないこと」
職員さんは、念を押すように言った。
「分かりました」
俺はそう答えた。
部屋に戻ると、携帯電話が震えた。
画面には、知らない番号。
一瞬、指が止まる。
あの電話と同じ番号ではない。
それでも、すぐに出る気にはなれなかった。
俺は一度、職員さんに相談しようと考えた。
その直後、着信が切れた。
代わりに、短いメッセージが届く。
差出人の名前は表示されていない。
本文には、たった一行だけ。
『君が知っている未来と、彼女が望む未来は、同じとは限らない』
息が止まった。
携帯を持つ手に、力が入る。
――どうして。
どうして、そんなことを知っている?
俺が未来を知っていることを、誰かに話した覚えはない。
そもそも、俺が何者なのかを、正確に知っている人間などいるはずがない。
なのに。
俺の名前を知っている人間がいる。
アイのことを知っている人間がいる。
そして、俺が抱えているはずのない秘密にまで、触れようとしている。
偶然なのか。
ただの脅しなのか。
それとも、俺が知らない何かが、すでに動き始めているのか。
分からない。
何ひとつ、分からない。
俺はメッセージの画面を保存し、番号を消さずに、職員さんへ相談することにした。
今は、それが正しい。
相手の思惑に乗って、ひとりで動くわけにはいかない。
それでも、画面に残った言葉は、頭から離れなかった。
――君が知っている未来と、彼女が望む未来は、同じとは限らない。
俺は、アイの悲劇を知っている。
彼女が傷つく未来を、変えたいと思っている。
けれど、その先にある未来を、俺は本当に知っているのだろうか。
俺が救いたいと思っているアイは。
俺が幸せになってほしいと願っているアイは。
俺の知っている物語の中にいる彼女と、同じなのだろうか。
窓の外では、夜が静かに深まっていた。
明日になれば、アイはまたレッスンに向かうだろう。
夢を叶えるために、歌って、踊って、笑うだろう。
俺は、その姿を見守りたい。
彼女が選ぶ道を、応援したい。
そのために何が必要なのか。
俺は、まだ答えを持っていない。
ただ、ひとつだけ決めた。
誰かに何を言われても、俺はアイの気持ちを聞くことをやめない。
彼女の未来を、俺の知識だけで決めない。
それが、今の俺にできる、最初の一歩だ。
そして――。
俺の知らないところで、俺の名前を知る誰かが動いている。
その人物が何者なのか。
なぜ俺に接触してくるのか。
まだ、何も分からない。
けれど、もう無関係な偶然だと片づけることもできなかった。
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