携帯電話の画面には、見覚えのない書類の画像が表示されていた。
ぼやけた紙面。かすれた文字。隅に写り込んだ、何かの管理番号。
そして、中央に記された名前。
黒瀬透。
何度見直しても、そこに書かれているのは俺の名前だった。
画像の下には、短いメッセージが残っている。
『君は、自分がどうしてここにいるのか、本当に分かっているのか?』
「……分かるわけないだろ」
思わず、声が漏れた。
俺は自分が何者なのか、ある程度は理解しているつもりだった。
前世の記憶がある。『推しの子』という作品を知っている。目の前にいる星野アイが、いつか大きな悲劇に見舞われることも知っている。
だけど、どうしてこの世界に来たのかは分からない。
何かを成し遂げるために選ばれたのか。それとも、ただの偶然なのか。
そんなこと、考えたところで答えなんて出なかった。
だから俺は、目の前のアイを守ろうと思った。
未来を知っているなら、その未来を変えるために使いたい。
それだけだった。
なのに、誰かが俺の名前を知っている。
俺が知らない記録を持っている。
まるで、俺がこの世界に来たことそのものに、理由があるとでも言いたげに。
俺は画像を保存し、メッセージの送信元を確認した。
番号は非通知ではない。だが、見覚えはなかった。
返信欄を開き、しばらく文字を打ち込む。
『あなたは誰ですか?』
それだけ入力して、指が止まった。
送るべきだろうか。
相手は、俺を不安にさせることを目的にしているのかもしれない。返信すれば、こちらが動揺していると教えるだけになる可能性もある。
俺は一度画面を閉じた。
まずは、職員さんに相談する。
それが今、俺にできる一番まともな行動だった。
*
翌朝、施設の職員さんは画像を見て、すぐに表情を引き締めた。
「これは、いつ届いたの?」
「昨日の夜です。知らない番号から、画像とメッセージが送られてきました」
「送信元の番号は残っている?」
「はい」
「分かった。画像も番号も、こちらで記録しておくわ。勝手に返信したり、相手を探したりはしないでね」
「分かっています」
そう答えながらも、俺の視線は画像に戻っていた。
「……この書類、何だと思いますか?」
職員さんは、画像を拡大して確認した。
「今の状態では断定できないわね。施設の書類にも見えないし、どこかの会社の管理資料かもしれない。でも、名前が載っているからといって、あなたに関係する記録だとは限らない」
「そうですよね……」
「それに、画像が本物かどうかも分からない。切り取られたものかもしれないし、別の書類にあなたの名前だけを合成した可能性だってある。まずは確認できることから調べましょう」
俺は頷いた。
確かに、その通りだ。
画像一枚で、自分の過去が分かった気になってはいけない。
まして、送り主は正体を明かしていない。
俺に信じさせたいことがあるのなら、都合のいい情報だけを見せている可能性もある。
「それと、昨日の事務所への確認だけど」
職員さんが続けた。
「事務所側も、あなたの名前がどの記録に含まれていたのか調査を続けているそうよ。まだ、はっきりした回答はないわ」
「……分かりました」
「何か分かったら伝えるから。今は、普段通りに過ごして大丈夫」
普段通り。
簡単なようで、難しかった。
自分の知らないところで、何かが動いている。
その事実を知ってしまったあとで、昨日までと同じように笑えるだろうか。
けれど、だからといって、毎日そればかり考えているわけにもいかない。
俺には、俺の生活がある。
そして、アイにはアイの夢がある。
その夢を、俺の疑問で曇らせたくなかった。
*
「透くん、聞いてる?」
「え?」
「もー! 絶対聞いてなかった!」
昼食のあと、食堂でアイに頬を膨らませられた。
「ごめん。何の話?」
「次のレッスン! 今度、歌だけじゃなくてダンスもちゃんと見てもらえるんだって!」
「ああ、そうなんだ」
「そうなんだ、じゃないよ! すごいことなんだよ!?」
「うん、すごいすごい」
「絶対思ってない!」
アイがテーブルを軽く叩いた。
俺は苦笑する。
「いや、思ってるよ。アイが頑張ってるのは知ってるし」
「……ほんと?」
「本当」
アイは少しだけ機嫌を直したものの、すぐに俺の顔を覗き込んだ。
「でも、透くん、今日ずっと変だよ」
「そうかな」
「そうだよ。ご飯のときもぼーっとしてたし、さっきも話聞いてなかったし」
鋭い。
普段は自分のことを「何でも分かるよ!」と言い張るくせに、こういうときのアイは、本当に人をよく見ている。
「……ちょっと考え事してただけ」
「何の?」
「それは……」
言葉が詰まる。
昨日の画像を見せるべきか。
今すぐ話したところで、彼女を不安にさせるだけではないか。
けれど、何も言わなければ、アイは俺が何かを隠していると気づくだろう。
それに、昨日約束したばかりだ。
何かあったら、ちゃんと話す。
俺は小さく息を吐いた。
「俺の名前について、ちょっと気になることがあって」
「名前?」
「うん。俺の知らないところで、俺の名前を知っている人がいるみたいなんだ」
アイの表情から、笑みが消えた。
「……それって、昨日の人?」
「関係があるかは分からない。でも、知らない番号から変な画像が送られてきた」
「画像?」
「古い書類みたいなもの。そこに俺の名前が書かれてたんだ」
アイは黙って俺の話を聞いていた。
「職員さんには相談した。事務所にも確認してもらってる。だから、今のところ俺たちにできることはないんだけど」
「……そっか」
アイはテーブルの上で指を組んだ。
「透くん、怖くないの?」
俺は、すぐに答えられなかった。
怖くないと言えば嘘になる。
何も分からないことが怖い。
自分の過去について、知らない誰かのほうが多くを知っているかもしれないことが怖い。
そして何より、それがアイに関係しているかもしれないことが怖かった。
「……怖いよ」
正直に答える。
「でも、分からないことを考え続けても、今は何も変わらないから。ちゃんと大人の人に相談して、できることからやるつもり」
アイは俺を見つめた。
そして、少しだけ眉を下げる。
「……私、何かできることある?」
その言葉に、胸が痛んだ。
彼女はいつだって、誰かのために何かをしようとする。
自分が不安なときでさえ、相手を気遣ってしまう。
俺は、そんなアイに甘えてはいけない。
「今は、ないよ」
「……そっか」
「でも、話を聞いてくれたのは助かった。ありがとう」
アイは少し驚いたように瞬きをした。
それから、ゆっくりと笑った。
「……じゃあ、今度は私の話も聞いてね」
「もちろん」
「私、次のレッスン、ちょっと緊張してるんだ」
「うん」
「歌は好きだけど、ダンスはまだ自信なくて。周りの子のほうが上手だったらどうしようって思う」
アイは、膝の上で手を握った。
「でも、やってみたいんだよね。できるようになりたいから」
「なら、やってみればいいんじゃない?」
「……簡単に言うなあ」
「失敗してもいいんだろ?」
アイが顔を上げる。
俺は、以前彼女と交わした約束を思い出していた。
失敗しないように、俺が先回りして全部を整えるのではなく。
失敗したときに、彼女が話せる相手でいること。
「上手くいかなかったら、そのとき考えよう。最初から何でもできる人なんていないし」
「……うん」
「それに、アイはやってみたいんだろ?」
「うん!」
今度の返事は、迷いがなかった。
「じゃあ、頑張ってこいよ。応援してる」
「……えへへ。ありがと!」
アイの顔に、いつもの笑顔が戻った。
俺はその笑顔を見ながら、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
謎は残っている。
不安も消えていない。
でも、こうして誰かと話すことで、目の前の時間まで失わずに済むのだと分かった。
アイだけではない。
俺だって、ひとりで全部を抱えなくていいのかもしれない。
*
数日後、事務所から施設へ連絡が入った。
俺の名前が記載されていたという記録について、確認できたことがあるらしい。
職員さんに呼ばれ、俺は面談室へ向かった。
「事務所の担当者から、連絡があったわ」
「何か分かったんですか?」
「ええ。ただし、まだ確定ではないそうよ」
職員さんは手元のメモを見ながら説明した。
「あなたの名前が見つかったのは、現在のタレント管理資料ではなかったそうよ。もっと古い、整理中の記録の一部らしいの」
「古い記録……?」
「そう。しかも、その記録を管理していた部署は、現在は別の部署に統合されている。担当者も、当時の詳しい運用までは把握していないみたい」
「俺、芸能事務所とは関係ないはずなんですけど」
「その点も確認してもらっているわ。ただ、今の段階では、同姓同名の可能性も捨てきれないそうよ」
確かに、黒瀬透という名前が、世界に俺ひとりしかいないわけではない。
同じ名前の別人がいて、その記録が偶然見つかった。
それだけなら、説明はつく。
でも。
「……その記録に、俺の名前以外は何か書いてありましたか?」
「そこまでは、まだ確認できていないそうよ。資料自体が古く、関連する記録を探す必要があるらしいわ」
俺は頷いた。
手がかりは増えた。
けれど、答えに近づいたとは言い切れない。
むしろ、謎が大きくなった気さえする。
どうして芸能事務所の古い記録に、俺の名前があるのか。
そして、あの人物はどうやってその情報を手に入れたのか。
「それから、もうひとつ」
職員さんの声に、俺は顔を上げた。
「画像を送ってきた番号についても、確認できる範囲で調べてもらっているわ。ただ、現時点では送信元を特定できていない。こちらからも、引き続き必要な対応をしていくからね」
「……ありがとうございます」
「黒瀬くん。ひとつだけ、覚えておいてほしいの」
職員さんは、まっすぐ俺を見た。
「分からないことがあると、答えを急ぎたくなるものよ。でも、相手が何を望んでいるのか分からないときほど、慎重に動くことが大切なの。あなたの名前が記録にあることと、誰かがあなたを利用しようとしていることは、まだ同じではないから」
「……はい」
「疑うことは悪いことじゃない。でも、疑いだけで行動を決めないでね」
その言葉は、胸に残った。
俺は、あの人物を警戒している。
当然だ。
でも、警戒することと、相手の言うことを信じることは違う。
画像を送ってきた人物は、俺に何かを信じさせたいのかもしれない。
なら、俺は簡単に信じない。
確認できることを確認し、分からないことは分からないままにしておく。
少なくとも、今はそれでいい。
*
その日の夕方、アイはレッスンから帰ってきた。
施設の玄関を開けるなり、俺を見つけて駆け寄ってくる。
「透くん!」
「おかえり。どうだった?」
「聞いて聞いて! ダンス、前よりできるようになったんだよ!」
目を輝かせながら、アイは今日のレッスンについて話し始めた。
最初は振り付けを覚えるだけで精一杯だったこと。
先生に何度も動きを確認してもらったこと。
途中で上手くできなくて悔しかったけれど、最後には少しだけ形になったこと。
「まだまだだけどね!」
アイはそう言って、照れくさそうに笑った。
「でも、楽しかった!」
「よかったじゃん」
「うん!」
彼女の顔を見ていると、こちらまで嬉しくなる。
この子は、自分で選んで、努力して、少しずつ前へ進んでいる。
俺が未来を変えるために何かをしたからではない。
アイ自身が、そうしたいと思っているからだ。
「ねえ、透くん」
「ん?」
「私、もっと頑張るね」
「うん。応援してる」
「……でも、疲れたら休む!」
そう言って、アイは得意げに胸を張った。
俺は思わず笑った。
「お、それは大事」
「でしょ? ちゃんと覚えてるんだから!」
アイは嬉しそうに笑ったあと、ふと俺の顔を覗き込んだ。
「……透くんは?」
「え?」
「透くんも、ちゃんと休んでね」
予想していなかった言葉に、俺は固まった。
「最近、考え事ばっかりしてるでしょ。私、分かるんだから」
「……そんなに分かりやすい?」
「うん、すっごく!」
アイは、少しだけ真剣な顔になった。
「私のこと、応援してくれるのは嬉しいよ。でも、透くんがずっと苦しそうなのは嫌だな」
俺は、返事ができなかった。
彼女を救いたい。
そのために、自分のことなんて後回しでいいと思っていた。
けれど、それは本当に正しいのだろうか。
自分を犠牲にして誰かを守ろうとすること。
相手のためだと思い込み、ひとりで苦しみ続けること。
それは、俺がアイにしてほしくないと思っていることと、何が違うのだろう。
「……分かった。俺も、ちゃんと休むよ」
「約束ね!」
アイは小指を差し出した。
俺はそれに、自分の小指を絡める。
「約束」
彼女は満足そうに笑った。
「よーし! じゃあ、今日は一緒におやつ食べよ!」
「急に現実的だな」
「だって、お腹空いたんだもん!」
アイが笑う。
俺も笑った。
その瞬間だけは、何もかも忘れられた気がした。
いや、違う。
忘れたわけじゃない。
謎が消えたわけでも、問題が解決したわけでもない。
それでも、今ここにある時間を大切にすることはできる。
未来を変えることだけが、俺にできることではないのだ。
*
夜。
部屋に戻った俺は、携帯電話を手に取った。
あの画像は、まだ保存されている。
もう一度、書類の文字を確認する。
名前以外はほとんど読めない。
だが、画像の端に、かすかに数字らしきものが見えていた。
俺は拡大してみた。
数字の並びは不鮮明で、正確には読めない。
ただ、そこに何かの管理番号が記されていることだけは分かった。
もし、この画像が本物なら。
そして、俺の名前が本当に古い記録に存在しているのなら。
その番号を手がかりに、何かを調べられるかもしれない。
そう考えた瞬間、俺は手を止めた。
――焦るな。
職員さんの言葉を思い出す。
相手が何を望んでいるか分からないときほど、慎重に動く。
俺は画像をひとりで調べるのではなく、職員さんに管理番号らしきものが見えたことを伝えることにした。
送信する前に、ふと画面の上部に目が留まった。
画像が届いた時刻。
昨夜の、午後九時十三分。
そして、その数分前。
俺はアイと廊下で話していた。
レッスンのこと。夢のこと。これからのこと。
俺がこの世界に来た理由など、何も分からないまま。
けれど、ひとつだけ分かっている。
俺は、アイの未来を知っているからといって、彼女のすべてを知っているわけではない。
彼女の気持ちを聞き、彼女の選択を尊重し、必要なときに支える。
それを忘れたくない。
携帯を置き、窓の外を見た。
夜空には、いくつもの星が浮かんでいた。
その星のひとつひとつに、誰かの知らない物語があるのだろう。
俺の知らない過去。
俺の知らない記録。
俺の知らない、黒瀬透という人間。
それらが、いつかひとつにつながる日が来るのかもしれない。
けれど、その日が来るまで。
俺は、今ここにいる自分として、目の前の人生を生きるしかない。
星野アイの未来を変えるためだけではなく。
彼女と一緒に、まだ知らない明日を迎えるために。
そう考えたとき、少しだけ呼吸が楽になった。
推しの子
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