翌朝、俺は職員さんに、画像の端に写っていた数字について伝えた。
管理番号らしきもの。
不鮮明で、すべての数字を読み取ることはできない。それでも、昨日よりは一歩進んだはずだった。
「分かったわ。事務所に伝えてみる。ただ、これが本物の資料なのかどうかも含めて、慎重に確認してもらう必要があるわね」
「はい」
「それから、黒瀬くん」
「はい?」
「最近、ちゃんと眠れている?」
予想していなかった質問に、俺は少しだけ言葉に詰まった。
「……まあ、普通には」
「普通、ねえ」
職員さんは、あまり納得していないようだった。
「あなた、何かあるとひとりで考え込むでしょう。今回の件は、私たちも事務所も調べている。あなたがひとりで答えを見つけなければならないわけじゃないのよ」
「分かっています」
「本当に?」
「……努力します」
「よろしい」
職員さんは小さく笑った。
「それと、もうひとつ。今回のことについて、星野さんにどこまで話すかはあなたが考えていい。でも、彼女が関係している可能性があるなら、必要なことまで隠さないようにね」
「はい。昨日、少し話しました」
「そう。なら、彼女の気持ちも聞きながら、無理のない範囲で共有していきましょう」
俺は頷いた。
アイには、もう話している。
自分の名前が知らないところに残されていること。知らない人物から、不審な画像が送られてきたこと。
ただ、書類の正体も、送り主の目的も、まだ分からない。
今は、それ以上のことを伝えようがなかった。
俺は職員さんに礼を言って、面談室を出た。
廊下の窓からは、朝の光が差し込んでいた。
いつもと同じ景色。
いつもと同じ一日が始まろうとしている。
なのに、俺の頭の中には、あの一枚の画像がずっと残っていた。
黒瀬透。
俺の名前。
そして、俺がこの世界に来るよりも前の日付。
いったい、誰が。
何のために。
どうして、俺の名前を記録したのだろう。
*
「透くん!」
食堂に入った途端、アイに呼び止められた。
「おはよう。ねえ、今日の予定って空いてる?」
「おはよう。午後は特にないけど」
「ほんと!? じゃあ、お願いがあるんだけど!」
アイは両手を合わせ、期待に満ちた顔で俺を見上げた。
嫌な予感がした。
「……何?」
「歌、聞いて!」
「それだけ?」
「それだけって何!? 大事なことなんですけど!」
「いや、もっと難しいお願いかと思って」
「じゃあ、難しいお願いにする?」
「しなくていいです」
俺が即答すると、アイは声を上げて笑った。
最近、彼女はレッスンの話をよくするようになった。
前より上手くできたところ。
思うようにいかなかったところ。
先生に褒められて嬉しかったこと。
悔しくて、帰り道に何度も振り付けを思い返したこと。
どれも、彼女にとっては大切な出来事なのだろう。
以前のアイは、嬉しかったことも嫌だったことも、最後には「大丈夫!」という一言でまとめてしまうことがあった。
けれど最近は、少しずつ違ってきている。
嬉しいときには嬉しいと言う。
不安なときには、不安だと話す。
もちろん、何もかもを話してくれるわけではない。
それでいいと思う。
彼女には彼女の心があって、俺が知らない時間もある。
全部を知ることが、信頼の証明になるわけじゃない。
「じゃあ、午後ね! 約束だよ!」
「分かったって」
「絶対だからね!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
「よろしい!」
アイは満足そうに頷いた。
その姿を見て、俺は少しだけ笑った。
こういう時間を失いたくない。
謎の人物が何を知っていようと、俺がどんな過去を持っていようと、今ここにある日常まで明け渡したくはなかった。
それが、今の俺の正直な気持ちだった。
*
昼食のあと、職員さんから呼び出しがあった。
「事務所から返事が来たわ」
その一言で、俺の意識は一気に切り替わった。
「何か分かったんですか?」
「管理番号については、まだ確認中。ただ、古い資料を調べる中で、ひとつ気になることが見つかったそうよ」
職員さんは手元のメモを見た。
「黒瀬くんの名前が記載されていたのは、芸能事務所が過去に行っていた、児童向けの芸能体験企画に関連する記録だった可能性があるそうなの」
「……芸能体験?」
「ええ。正式なオーディションではなく、児童福祉施設などを訪問して、歌や演技に興味がある子どもたちに体験の機会を提供する企画だったらしいわ」
俺は眉を寄せた。
そんな企画があったのか。
もちろん、俺には覚えがない。
「でも、俺はそんな企画に参加したことありません」
「そうでしょうね。あなたがここに来た時期と、資料に記載されている日付が合わないそうだから」
「じゃあ、別の人……?」
「その可能性もあるわ。ただ、事務所の担当者は、単純な同姓同名として処理するには気になる点があると言っていたの」
職員さんがメモをこちらへ向けた。
そこには、事務所からの説明が簡潔にまとめられていた。
記録にある「黒瀬透」という名前は、参加者一覧ではなく、企画に関する連絡記録の一部に記載されていたらしい。
しかも、名前の横には、個人を特定するための情報がほとんどなかった。
住所も、年齢も、所属先もない。
ただ、名前と短い注記だけが残っている。
「その注記って、何て書いてあるんですか?」
「まだ原本を確認できていないから、正確な内容は分からないそうよ。ただ、当時の担当者の記憶では、『本人確認未了』という言葉が含まれていた可能性があるそうなの」
「本人確認未了……?」
「ええ。もちろん、記憶だけで判断することはできないわ。原本を確認してから、改めて説明してもらうことになっているの」
俺は、黙り込んだ。
名前があった。
でも、誰の名前なのか分からない。
本人確認ができていない。
それなら、俺の名前を知っている人物が、その記録を利用している可能性はあるのだろうか。
あるいは、誰かが偶然見つけた記録を、俺に関係があるものだと思い込んでいるだけなのか。
まだ、何も分からない。
「それとね」
職員さんは、もう一枚のメモを取り出した。
「事務所から、当時の企画に関わっていた元職員の方に連絡が取れたそうよ。現在は退職されているけれど、古い資料について覚えていることがあるかもしれないって」
「その人に、話を聞くんですか?」
「ええ。事務所が正式に連絡を取って、確認してくれるそうよ。必要があれば、私たちも説明を受けることになると思う」
少しだけ、道が見えた気がした。
書類を送ってきた人物を直接探すのではなく、記録の出どころを調べる。
そうすれば、少なくとも、俺の名前がなぜそこにあるのかについては何か分かるかもしれない。
「ありがとうございます」
俺が言うと、職員さんは頷いた。
「まだ解決したわけじゃないけれど、一歩は進んだわね」
「はい」
「ただ、ひとつお願いがあるの」
「何ですか?」
「もし、その人物からまた連絡が来ても、ひとりで返事をしないこと。記録の確認は、事務所と私たちに任せてちょうだい」
「分かりました」
今度は、迷わず答えられた。
俺がやるべきことは、相手の正体を暴くことだけではない。
自分が知らないことを、知らないまま受け止めること。
そして、必要な助けを求めること。
それもまた、今の俺に必要なことなのだと思った。
*
午後。
約束通り、俺はアイの歌を聞くことになった。
施設の空いている部屋で、アイは小さな音楽プレーヤーを用意していた。
「じゃあ、いきます!」
「どうぞ」
「……ちゃんと聞いてよ?」
「聞くって」
「スマホ触っちゃだめだからね!」
「触らないよ」
「考え事も禁止!」
「それは難しいな……」
「もー!」
アイが頬を膨らませる。
俺は苦笑して、携帯電話をポケットにしまった。
「分かった。今はアイの歌に集中します」
「よろしい!」
アイは満足そうに頷き、音楽を流した。
最初の音が響く。
彼女の歌声は、まだ完成されているわけではなかった。
音程が少し不安定になるところもある。
息継ぎが早くなってしまうところもある。
練習の成果が出ている部分もあれば、思うようにいかなかったのだろうと思う部分もあった。
でも。
俺は、聞き入っていた。
アイは、楽しそうに歌っていた。
上手く歌おうと一生懸命で、少し難しいところでは眉を寄せて、それでも最後まで歌い切ろうとしている。
曲が終わる。
アイは、緊張した顔でこちらを見た。
「……どうだった?」
「よかったよ」
「それ、具体的には?」
「えっ」
「どこがよかった? どこを直したらいい?」
真剣な目だった。
俺は少し考えてから、答えた。
「前より、声が安定してると思う。最初のほうは少し緊張してたけど、途中から自然になってた」
「ほんと?」
「うん。あと、最後までちゃんと歌い切ったのがよかった」
アイは、嬉しそうに笑った。
「えへへ……。実はね、そこ、何回も練習したんだ」
「そうなんだ」
「途中で息が苦しくなっちゃうから、先生に教えてもらって。今日は前より上手くできた気がする!」
「努力の成果だな」
「うん!」
それからアイは、もう一度歌った。
今度は、途中で少しだけつまずいた。
曲が終わると、彼女は悔しそうに唇を尖らせた。
「あー! 今のところ、間違えた!」
「でも、最後まで歌えたじゃん」
「そうだけど!」
「次、直せばいいんだろ?」
アイは、少しだけ考えた。
そして、ふっと笑った。
「……そうだね」
もう一度、最初からやり直す。
その姿を見て、俺は思った。
アイがアイドルになりたい理由は、ただ褒められたいからではない。
もちろん、褒められたら嬉しいだろう。
上手くできたら、自信もつくだろう。
それでも、彼女は自分ができないことをできるようになりたいと思っている。
失敗しても、悔しくても、また挑戦したいと思っている。
その気持ちを、俺は応援したい。
俺が知っている未来のために、彼女の夢を利用するのではなく。
彼女自身が望む未来を、彼女と一緒に考えたい。
「透くん!」
「はい?」
「今の、どうだった?」
「よかったよ」
「またそれ! もっと具体的に!」
「はいはい!」
俺たちは、そんなやり取りを繰り返した。
気づけば、窓の外が夕方の色に変わっていた。
*
その日の夜、事務所から追加の連絡が入った。
職員さんは、俺とアイを一緒に呼んだ。
「今日、事務所から新しい情報があったの」
アイは少し緊張した様子で、俺の隣に座った。
「黒瀬くんの名前が載っていた記録について、当時の企画を担当していた方から話を聞けたそうよ」
「何か分かったんですか?」
俺が尋ねると、職員さんは頷いた。
「その方の話では、当時、企画に関連して、いくつかの施設から問い合わせがあったそうなの。参加を希望する子どもたちだけでなく、企画について質問をしたいという職員の方や、保護者の方からの連絡もあったらしいわ」
「それで、俺の名前が?」
「その方は、名前を見たことがある気がすると話しているそうよ。ただし、誰から聞いたのか、どういう経緯だったのかまでは覚えていないそうなの」
結局、まだ曖昧なままか。
そう思いかけたとき、職員さんが続けた。
「でも、その方はひとつ、気になることを覚えていたそうよ」
俺は顔を上げた。
「何ですか?」
「当時の記録には、問い合わせをした人物の名前だけではなく、問い合わせの対象となった人物の名前が記されている場合もあったそうなの。そして、黒瀬くんの名前は、そのどちらなのかが分からない状態で残されていたらしいわ」
「……どういうことですか?」
「つまり、黒瀬くん自身が問い合わせたのか。それとも、誰かが黒瀬くんについて問い合わせたのか。その区別が、記録からは読み取れないということね」
俺は、息を呑んだ。
俺が問い合わせた?
いや、そんなはずはない。
俺はこの世界に来る前の記憶を持っている。
少なくとも、今の自分がこの事務所に連絡した覚えはない。
だが、誰かが俺について問い合わせたのだとしたら?
その誰かは、俺の名前をどこで知ったのだろう。
「……その記録、今も残っているんですか?」
「原本が残っている可能性は高いそうよ。ただ、保管場所が変わっているので、確認には少し時間がかかるとのこと」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
ようやく、何かが分かりそうな気がした。
名前があった。
記録があった。
そして、その記録が誰かによって作られた可能性がある。
だが、それが俺の過去とどうつながるのかは、まだ分からない。
「透くん……」
隣で、アイが小さく呼んだ。
「大丈夫?」
俺は彼女を見た。
心配そうな顔だった。
俺は少しだけ笑って頷いた。
「うん。まだ分からないことだらけだけど、少しずつ調べてもらえてるから」
「……そっか」
アイは、俺の手元を見てから、顔を上げた。
「ねえ、透くん」
「何?」
「もし、透くんの知らないことがいっぱい出てきてもさ」
彼女は、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「ひとりで何とかしようとしなくていいからね」
その言葉に、俺は思わず目を見開いた。
それは、俺が彼女に伝えようとしてきた言葉だった。
困ったときには、話してほしい。
ひとりで抱え込まないでほしい。
誰かを助けたいと思うなら、自分自身のことも大切にしてほしい。
そんな言葉を、今度は彼女が俺に返してくれている。
「……ありがとう」
俺は、そう答えた。
アイは少し照れたように笑った。
「どういたしまして!」
そして、いつもの調子で続けた。
「だから、明日もちゃんと朝ごはん食べること!」
「……そこにつながる?」
「つながるよ! ご飯食べないと元気出ないでしょ!」
「分かった、分かった」
「ほんとに?」
「本当」
アイは満足そうに頷いた。
その姿を見て、俺は少しだけ安心した。
俺の知らない過去がある。
俺の知らない誰かが、俺の名前を知っている。
その事実は、変わらない。
でも、それだけで俺の今が決まるわけではない。
俺は、黒瀬透としてここにいる。
星野アイの友人として、彼女のそばにいる。
その事実まで、誰かに決められる必要はない。
*
数日後。
俺は、施設の職員さんと一緒に、事務所からの追加報告を受けた。
今回は、前回話をしてくれた元職員の方が、さらに詳しい情報を確認してくれたらしい。
「記録の保管場所が分かったそうよ」
職員さんが言った。
「ただ、資料を整理している途中なので、原本を確認するにはもう少し時間が必要だそうなの」
「……そうですか」
「それと、当時の担当者から、もうひとつ話があったそうよ」
俺は顔を上げた。
「何ですか?」
「その方は、当時の企画に関連して、個人的に資料を持ち出したり、特定の子どもについて外部の人に情報を渡したりすることは、基本的に認められていなかったと話しているそうなの」
「つまり……」
「もし、あなたの名前が載った記録が外部に流れていたのだとしたら、正規の手続きによるものなのか、確認する必要があるということね」
胸の奥が冷たくなった。
画像を送ってきた人物は、どうやってその資料を手に入れたのか。
事務所の内部にいた人間なのか。
退職した人間なのか。
それとも、別の誰かから情報を受け取ったのか。
まだ分からない。
だが、少なくとも、画像を送ってきた人物が、ただ名前を知っているだけではない可能性が出てきた。
「……事務所は、どうするんですか?」
「まずは原本を確認し、記録がどのように保管されていたのかを調べるそうよ。必要があれば、情報管理の担当部署にも相談するとのこと」
「分かりました」
俺は頷いた。
自分で調べたいという気持ちは、まだある。
すぐにでも答えを知りたい。
誰が俺の名前を知っているのか。
どうして、俺の知らない記録が残っているのか。
けれど、今は待つしかない。
焦って動けば、相手の思惑に乗ってしまうかもしれない。
俺は、そう自分に言い聞かせた。
そして、ふと気づいた。
俺は今、アイのことを考えていなかった。
いや、正確には違う。
アイを守るために何をすべきかではなく、自分自身のことを考えていた。
それが悪いことだとは思わなかった。
俺だって、自分のことを知りたい。
自分が何者なのかを知りたい。
この世界に来た理由があるのなら、それを知りたい。
誰かに決められた役割があるのなら、それが本当に自分の望むものなのか、確かめたい。
アイの未来を変えるためだけに、自分の人生を使う必要はない。
彼女の人生が彼女自身のものであるように、俺の人生も、俺自身のものなのだから。
*
その夜、俺は久しぶりに、前世のことを思い返していた。
俺が『推しの子』を知ったのは、いつだっただろう。
どんなきっかけで作品を見て、どんな気持ちでアイのことを知ったのだろう。
思い出そうとすると、記憶は曖昧だった。
物語の大まかな筋は覚えている。
アイがアイドルになること。
双子を産むこと。
そして、彼女が悲劇に見舞われること。
けれど、それ以上のことは、霧がかかったようにぼやけている。
何度考えても、はっきりしない。
まるで、必要な部分だけを覚えているかのように。
いや、そんなことはない。
単に、俺の記憶が不完全なだけだ。
そう考えるのが自然だろう。
それでも、あのメッセージが頭から離れなかった。
――君が知っている未来と、彼女が望む未来は、同じとは限らない。
俺は、その言葉を否定できなかった。
俺が知っている未来は、あくまで物語の未来だ。
目の前のアイが、これからどんなことを経験し、何を考え、どんな選択をするのか。
そんなことまでは、分からない。
俺が彼女を救いたいと思うことは、間違いではないはずだ。
でも、救いたいという気持ちだけで、何もかもを決めてはいけない。
彼女の望む未来を聞かずに、俺の知っている未来を押しつけてはいけない。
そのことを、俺は何度も自分に言い聞かせてきた。
そして今、自分自身についても同じことが言えるのだと気づいた。
誰かが俺の名前を記録していたとしても。
誰かが俺について何かを知っていたとしても。
それだけで、俺の生き方が決まるわけではない。
俺は、自分が何者なのかを知りたい。
でも、その答えがどんなものであっても、これから何をするかは、自分で選びたい。
窓の外を見た。
夜空には、星が浮かんでいた。
星は、そこにあるだけだ。
誰かに見つけられたからといって、輝き方を変える必要はない。
そんなことを考えて、俺は小さく笑った。
少し、気持ちが軽くなった気がした。
*
翌日の夕方。
アイは、レッスンから帰ってくると、俺を見つけて駆け寄ってきた。
「透くん! 聞いて!」
「おかえり。どうした?」
「先生にね、歌い方が前よりよくなったって言われたの!」
「おお、すごいじゃん」
「でしょ!? それでね、次はもっと表現を意識してみようって!」
アイは嬉しそうに話し続けた。
先生から教わったこと。
上手くできた部分。
次に挑戦してみたいこと。
俺は、その話を聞きながら頷いた。
そして、ふと思った。
この子は、ちゃんと前に進んでいる。
誰かに未来を決められたからではなく、自分で選んで、努力している。
その姿を見ていると、俺も少しだけ勇気が湧いてくる。
「ねえ、透くん」
「ん?」
「今度、また歌を聞いてくれる?」
「もちろん」
「やった!」
アイは、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、俺は思った。
この子の未来を変えたい。
でも、その未来は、俺ひとりで作るものじゃない。
彼女が自分で選び、歩いていく道だ。
俺は、その隣にいたい。
彼女が望むなら、話を聞きたい。
困ったときには、一緒に考えたい。
そして、俺自身も、自分の人生を歩いていきたい。
それが、今の俺の願いだった。
*
その夜、携帯電話に新しいメッセージが届いた。
知らない番号からだった。
俺は一瞬、身構えた。
また画像が送られてくるのだろうか。
それとも、何か新しい情報が書かれているのだろうか。
画面を開く。
そこには、短い文章が表示されていた。
『記録のことを調べていると聞いた。君が知るべきことは、まだある』
俺は、息を止めた。
どうして知っている?
事務所からの報告は、職員さんと俺しか知らないはずだ。
いや、事務所の担当者も知っている。
元職員にも連絡が取られている。
その誰かから情報が漏れた可能性はある。
あるいは、送り主が事務所の関係者なのかもしれない。
だが、今はまだ何も断定できない。
続けて、もう一通メッセージが届いた。
『次に確認すべきなのは、記録に名前を書いた人物だ』
俺は画面を見つめた。
記録に名前を書いた人物。
つまり、誰かが俺の名前を記したということか。
それは、当時の担当者なのか。
問い合わせをした人物なのか。
それとも、まったく別の誰かなのか。
そして、最後にもう一通。
『その人物は、今も生きている』
心臓が、大きく鳴った。
今も、生きている。
なら、その人に話を聞けば、何かが分かるかもしれない。
俺の名前を知っている理由。
記録が作られた経緯。
そして、俺がこの世界に来る前の日付に、なぜ俺の名前が残されていたのか。
俺は携帯を置いた。
すぐに職員さんへ相談する。
自分で相手を探すことはしない。
けれど、もう何もせずに待つだけでもない。
事務所が原本を確認してくれるなら、その結果を待つ。
記録を書いた人物が分かれば、正式な手順で話を聞いてもらう。
それが、今の俺にできることだ。
画面には、最後のメッセージが残っている。
――その人物は、今も生きている。
俺は、その言葉を何度も読み返した。
俺の知らない過去。
俺の知らない記録。
そして、俺のことを知っている誰か。
少しずつ、何かがつながり始めている。
でも、まだ答えにはたどり着いていない。
俺が何者なのか。
なぜ、この世界に来たのか。
そして、誰が俺の名前を記録したのか。
その答えを知る人物は、今もどこかで生きている。
なら、いつか必ず、その人にたどり着くことができるかもしれない。
俺は、携帯を伏せた。
明日も、アイはレッスンに向かう。
俺はその姿を見送り、彼女の話を聞き、必要なときには支えたい。
それと同時に、自分の過去についても、少しずつ確かめていこう。
どちらかを諦める必要はない。
アイの未来も、俺自身の人生も。
どちらも、俺にとって大切なものだから。
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