星野アイは、よく笑う。
それが俺の、彼女に対する第一印象だった。
朝起きれば、職員に「おはよー!」と声をかける。
食堂では、小さな子どもたちの輪の中心にいる。
誰かが失敗して落ち込んでいれば、「だいじょーぶ、次があるって!」と肩を叩く。
そして、誰かに褒められれば、決まってこう言うのだ。
「えへへ、でしょ?」
自分の魅力をよく理解している。
相手が何を言えば喜ぶのかも、どうすれば場の空気が明るくなるのかも、彼女は分かっているらしかった。
たった数日一緒に過ごしただけで、それがよく分かった。
……いや。
本当に分かっていたのだろうか。
「透くーん!」
考え事をしていると、背後から声が飛んできた。
振り返ると、アイが廊下を走ってきていた。
「おはよ!」
「おはよう。朝から元気だな」
「そりゃあね! 元気が取り柄ですから!」
「自分で言うんだ、それ」
「えー? いいじゃん、別に!」
アイは楽しそうに笑う。
それから、俺の顔を覗き込んだ。
「透くん、今日ひま?」
「まあ、特に予定はないけど」
「じゃあ、手伝って!」
「何を?」
「お片づけ!」
「……自分でやれよ」
「ひどっ! 新しいお友達に対して冷たすぎない!?」
わざとらしく胸を押さえて、傷ついたような顔をする。
その表情があまりにも大げさで、俺は思わず吹き出した。
「ははっ」
「……あ」
アイが、ぴたりと動きを止めた。
「なに?」
「いや、透くんって笑うんだなーって」
「失礼だろ」
「だって、いつも難しい顔してるんだもん!」
「してねえよ」
「してるって!」
彼女はけらけら笑いながら、俺の袖を引っ張った。
「ほら、行こ!」
その手は小さくて、温かかった。
俺は引っ張られるまま、彼女についていった。
こうしていると、本当に普通の女の子だと思う。
少なくとも、俺が知っている物語の中で、彼女に起きる出来事なんて想像できないくらいには。
だからこそ、時々怖くなる。
この何でもない日常が、いつか失われてしまうことが。
俺がそれを知っているのに、何もできないかもしれないことが。
*
アイに連れてこられたのは、施設の物置だった。
棚には古い絵本や玩具が並び、段ボール箱には使わなくなった衣服が詰め込まれている。
「これを整理するんだって!」
「……思ったより多いな」
「でしょー? だから透くんを呼んだの!」
「最初からそれが目的かよ」
「えへへ!」
悪びれる様子はない。
俺たちは床に座り込み、箱の中身を一つずつ取り出していった。
絵本。積み木。ぬいぐるみ。誰かが作ったらしい折り紙。
途中でアイが、古びたウサギのぬいぐるみを手に取った。
「これ、懐かしー!」
「知ってるのか?」
「うん。小さい頃、よく遊んでたやつ!」
彼女はぬいぐるみの耳を指先で整えた。
「ずっとここにあったんだねえ」
声が、少しだけ柔らかかった。
俺はその横顔を見た。
いつもの笑顔はない。
ただ、懐かしいものを懐かしいと思っている、普通の少女の顔だった。
「……アイはさ」
「ん?」
「ここ、長いの?」
聞いてから、少し後悔した。
彼女の事情をどこまで知っているべきなのか、俺にはまだ分からない。
けれどアイは、特に気にした様子もなく答えた。
「まあね。ちっちゃい頃から!」
「そっか」
「うん!」
それだけだった。
彼女はすぐにいつもの調子に戻り、ぬいぐるみを箱にしまった。
「はい、思い出話おしまい! 次いこ、次!」
明るい声。
弾むような笑顔。
話したくないのかもしれない。
それとも、本当に何とも思っていないのかもしれない。
俺には判断できなかった。
ただ一つ分かったのは、俺が知っている彼女の設定だけで、目の前の彼女を理解したつもりになってはいけないということだった。
彼女には、彼女の時間がある。
俺が知らない思い出があり、俺の知らない気持ちがある。
当然のことだ。
なのに、俺はそれを忘れそうになる。
彼女の未来を知っているという、たったそれだけの理由で。
「透くん?」
「……ん?」
「手、止まってるよー?」
「ああ、悪い」
「もー。しっかりしてよね!」
アイが笑う。
俺も、今度はちゃんと笑い返した。
*
昼過ぎ。
整理を終えた俺たちは、施設の裏手にある小さな庭に出ていた。
庭といっても、花壇がいくつかあるだけの狭い場所だ。
それでも、日当たりはよかった。
「ふーっ、疲れた!」
アイはベンチに座るなり、背もたれに体を預けた。
「透くん、ありがとね!」
「別に。ほとんど運んだだけだし」
「それが助かるんだってば!」
彼女は足をぶらぶらさせた。
その仕草が妙に子どもっぽくて、俺は少し笑ってしまった。
「……何?」
「いや、別に」
「今、絶対なんか思ったでしょ!」
「思ってないって」
「うそだー!」
アイはむっと頬を膨らませる。
その顔を見て、俺はふと思った。
この子は、こんなふうに怒るんだ。
こんなふうに拗ねるんだ。
当たり前のことなのに、俺はそれすら新鮮に感じていた。
前世で知っていた星野アイは、いつも眩しかった。
ステージの上で輝き、観客を魅了し、誰からも愛されるアイドル。
けれど今、俺の隣にいる彼女は、ただの女の子だった。
疲れたら文句を言うし、手伝ってもらえば喜ぶし、からかわれたら頬を膨らませる。
そんな彼女を見ていると、少しだけ安心する。
彼女の人生は、最初から悲劇に向かって進んでいるわけじゃない。
少なくとも今は、こうして笑っている。
「ねえ、透くん」
不意に、アイが口を開いた。
「透くんって、将来の夢とかある?」
「将来?」
「そ! 大きくなったら何になりたいとか!」
「……考えたことなかったな」
嘘ではなかった。
前世の記憶を持って生まれ変わったとはいえ、俺だってこの世界で生きている一人の人間だ。
明日どうするかだって、まだはっきり決められない。
「アイは?」
「私?」
彼女は空を見上げた。
雲がゆっくり流れている。
「んー……」
少し考えてから、アイは笑った。
「有名になりたい!」
「有名に?」
「うん! みーんなが私のことを知ってて、私を見たら笑顔になってくれるの!」
彼女は両手を広げた。
「すごくない? 世界中の人を笑顔にできたら、めっちゃ楽しそうじゃん!」
その瞳は輝いていた。
少なくとも、今の俺にはそう見えた。
アイドル。
彼女の夢。
そして、俺が知っている未来へとつながる道。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
止めるべきなのだろうか。
彼女がアイドルにならなければ、あの悲劇は起きないのだろうか。
そもそも、彼女の夢と悲劇の間に、俺の覚えている以上の因果関係があるのだろうか。
何も分からない。
それでも、目の前の少女が夢を語る姿を見て、簡単に「やめたほうがいい」とは言えなかった。
「……いい夢だな」
俺がそう言うと、アイは一瞬だけ目を丸くした。
「え?」
「世界中の人を笑顔にするんだろ。いいじゃん」
「……そっか!」
彼女は、ぱっと笑顔になった。
「えへへ。ありがと!」
その笑顔を見て、俺は決めた。
彼女の夢を奪う形で救うのは、違う。
彼女が望んでいるものを、俺の都合で取り上げたくない。
救いたいからといって、彼女の人生を勝手に決めることはできないのだ。
なら、どうすればいい。
彼女が夢を追いかけても、幸せでいられる未来を作ればいい。
簡単なことじゃない。
俺にできるかどうかも分からない。
それでも、目指すべき場所は少しだけ見えた気がした。
「ねえ、透くん」
「ん?」
「透くんもさ、何か夢ができたら教えてよ!」
アイは笑いながら、俺の顔を覗き込んだ。
「私、応援するから!」
その言葉に、俺はうまく返事ができなかった。
応援する。
彼女が、俺を。
誰かを救おうと決めた俺が、いつか彼女に応援されるなんて。
そんな未来は、前世の知識のどこにもなかった。
「……ああ。ありがとな」
「うん!」
アイは満足そうにうなずいた。
それから、少しだけ声を落とした。
「……私も、応援してもらえると嬉しいしね」
「え?」
「んー? なんでもない!」
彼女はすぐに笑った。
いつもの、明るい笑顔に戻っていた。
けれど俺は、その一瞬を見逃せなかった。
応援してもらえると嬉しい。
それは、誰だってそうだ。
でも、彼女がわざわざ口にした理由は何だろう。
自分の夢を、誰かに認めてほしかったのだろうか。
それとも。
……いや。
勝手に考えるのはやめよう。
彼女の気持ちは、彼女にしか分からない。
知りたいなら、いつか本人に聞けばいい。
そう思った。
*
その日の夜。
消灯時間を過ぎても、俺はなかなか眠れなかった。
窓の外には、星がいくつか見えていた。
星野アイ。
彼女の名前にふさわしい、綺麗な夜空だった。
けれど、彼女自身はまだ知らない。
自分がどれだけ多くの人を惹きつけるのか。
どれだけ多くの人に愛されるのか。
そして、その先に何が待っているのか。
俺は知っている。
いや、知っているつもりだ。
前世の記憶は曖昧で、未来を変える方法も分からない。
それでも、今日、彼女と過ごした時間は確かに俺のものだった。
彼女が笑ったこと。
夢を語ったこと。
ほんの少しだけ、寂しそうな顔をしたこと。
どれも、物語のあらすじには書かれていなかった。
俺は布団の中で目を閉じた。
いつか彼女が、本当の気持ちを話してくれる日が来るだろうか。
笑顔でごまかさなくてもいい。
相手が喜ぶ言葉を選ばなくてもいい。
悲しいときには悲しいと言って、苦しいときには助けを求めてもいい。
そんな日が来てほしい。
そのために、俺は彼女の隣にいよう。
ただし、彼女のすべてを知っているふりはしない。
彼女を救いたいからこそ、彼女のことを知ろうとし続けよう。
そう決めた。
……そのはずだった。
翌朝、俺はアイの意外な一面を目にすることになる。
そして初めて、彼女の笑顔が、俺の想像以上に複雑なものなのだと知るのだった。