その日の朝、黒瀬透は目覚まし時計が鳴るよりも先に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光は、まだ薄い。部屋の中は静かで、廊下の向こうからも人の気配はほとんどしなかった。
枕元に置いたスマートフォンを手に取る。
通知はない。
昨夜、最後に届いたメッセージを開く。
『その人物は、今も生きている』
短い文章だった。
たった一行。名前も、住所も、連絡先もない。相手が何を知っているのか、どこまで知っているのか、そもそも何の目的で自分に接触してきているのか。
何ひとつ、確かなことは分からない。
それでも、その一文は透の頭から離れなかった。
記録に名前を書いた人物。
自分がこの施設に来るよりも前の日付が記された、古い書類。その中に、なぜか自分の名前があった。
自分が参加したはずのない企画の記録に。
自分がまだここにいなかった時期に。
まるで、誰かが自分の存在を先に知っていたかのように。
「……なんなんだよ、ほんと」
独り言は、誰に届くこともなく消えた。
透はスマートフォンを伏せた。
考えたところで、答えは出ない。
ならば、できることをするしかない。
昨日、施設の職員にも、事務所の佐伯にも、届いたメッセージを見せた。勝手に相手へ返信しないこと。ひとりで相手を探そうとしないこと。これから確認することは、信頼できる大人たちと一緒に進めること。
そう決めたのだ。
自分で決めたことを、今さら破るつもりはなかった。
透はベッドから起き上がり、制服に着替えた。
顔を洗い、髪を整え、いつもと同じように食堂へ向かう。
いつもと同じ朝を過ごす。
それが、思っていた以上に難しいことを、彼はまだ知らなかった。
*
「透!」
食堂へ入るなり、聞き慣れた声が飛んできた。
星野アイが、トレーを持ったまま手を振っている。
朝食の席には、ほかの子どもたちもいた。アイはその中でひとり、空いている椅子を足で引き寄せていた。
「おはよ。遅いじゃん」
「いや、まだ朝食の時間始まったばっかだろ」
「私の中では遅いの」
「お前の中の時計、だいぶせっかちだな」
「ふふん。アイドルになる人は時間に厳しいんですー」
「まだアイドルじゃないだろ」
「未来のアイドルですー」
アイは得意げに胸を張った。
その表情を見て、透はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
昨日までと変わらない。
アイは今日も、アイだった。
よく笑って、よくしゃべって、何でもないことを大げさに楽しんでみせる。
その笑顔を見ていると、昨夜まで頭の中を埋め尽くしていた不安が、ほんの一瞬だけ遠のく。
けれど。
「……透?」
「ん?」
「なんか今日、ぼーっとしてない?」
アイが、じっとこちらを見ていた。
その目は笑っているのに、妙に鋭い。
「寝不足?」
「いや、普通」
「ほんとに?」
「ほんと」
「ふーん」
アイは納得したような、していないような顔で自分の皿に目を落とした。
そして、ひと口食べてから、何気ない調子で言った。
「まあ、話したくなったら話してね」
透の手が止まった。
「……何を?」
「何か」
「雑だな」
「だって、何かあるんでしょ?」
「決めつけるなよ」
「決めつけてないよ。何かありそうだなーって思ってるだけ」
アイは味噌汁を飲んだ。
「私だって、いつも全部話せるわけじゃないし」
その言葉に、透は返事ができなかった。
アイは、自分の気持ちを簡単には話さない。
大丈夫だと笑う。何でもないよとごまかす。自分が不安なときでさえ、周りの人間が心配しないように、先に笑顔を見せる。
それを知っているから、透は彼女に無理をさせたくなかった。
けれど、今の自分はどうだろう。
何かありそうだと気づかれても、いつものようにごまかそうとしている。
心配をかけたくないから。
自分の問題だから。
そうやって、彼女が何度も口にしてきた言葉と同じものを、自分も使おうとしている。
「……ありがとな」
透が言うと、アイはきょとんとした。
「え、何が?」
「いや。なんでもない」
「それ、私の真似?」
「違う」
「絶対そうじゃん!」
アイは笑った。
透も、今度は少しだけ自然に笑えた。
食堂の窓から、朝の光が差し込んでいる。
この何でもない時間が、いつまでも続けばいい。
そう思うこと自体は、間違いではないはずだった。
ただし、そのために彼女の選択を奪ってはいけない。
彼女が望む未来を、自分の知っている物語の形に押し込めてはいけない。
透は箸を持ち直した。
今日も、アイは夢に向かって進んでいく。
ならば自分も、自分の問題から目を逸らさずにいよう。
*
朝食の後、透は施設の職員に呼び止められた。
「黒瀬くん。少し時間をもらえるかな」
声をかけてきたのは、以前から今回の件を一緒に確認してくれている職員だった。
表情はいつもと変わらないが、手には薄い封筒が握られている。
「何か分かったんですか?」
「うん。昨日、佐伯さんから連絡があってね。事務所のほうで、古い資料の保管先が分かったらしい」
透の胸が、小さく跳ねた。
「……原本ですか?」
「原本そのものか、少なくとも原本に近い資料だそうだ。これから確認することになるけど、少し進展があった」
職員はそこで一度、言葉を切った。
「ただし、先に言っておくね。何が書かれていても、ひとりで抱え込まないこと。分からないことが出てきたら、分からないまま一緒に考える。いいね?」
「……はい」
「それと、今日の確認には佐伯さんも同席してくれる。昔の企画に関わっていた人とも、正式な手続きを通して話をする予定だよ」
「その人って……」
「名前は水瀬さん。以前、その企画の運営を担当していた方だそうだ。もう退職されているけれど、当時の資料について話を聞けるかもしれない」
水瀬。
初めて聞く名前だった。
けれど、透はその名前を頭の中で繰り返した。
記録に名前を書いた人物。
その人物は、今も生きている。
あのメッセージを送ってきた相手は、こうなることを知っていたのだろうか。
水瀬という人物にたどり着くことを。
それとも、こちらが調べていることをどこかで知り、あとから話を合わせているだけなのか。
考えれば考えるほど、可能性ばかりが増えていく。
「黒瀬くん?」
「あ、すみません」
「緊張するよね。でも、今日の目的は犯人探しじゃないからね」
「……はい」
「まずは記録が何を意味しているのか、確かめよう。それから、必要なら次を考える」
透はうなずいた。
犯人。
その言葉が頭に浮かんだ自分に、少しだけ違和感を覚えた。
誰かが自分の名前を記録した。
誰かが自分にメッセージを送ってきた。
その事実だけで、相手を悪人だと決めつけることはできない。
それは、以前にも大人たちから言われたことだった。
記録に名前があるからといって、悪意があるとは限らない。
不自然なことが起きているからといって、すべてがひとつの陰謀につながっているとは限らない。
そして、分からないことを、分かったことにしてはいけない。
透はもう一度、深く息を吸った。
「……行きます」
「うん。じゃあ、放課後にね」
職員は封筒を抱え直し、事務室へ戻っていった。
透はその背中を見送った。
何かが分かるかもしれない。
その期待と、何も分からなかったらどうしようという不安が、胸の中でせめぎ合っていた。
それでも今度は、ひとりではない。
そのことだけは、確かだった。
*
午前中、アイはレッスンに向かう準備をしていた。
正確には、レッスンというよりも、次の審査に向けた練習だった。
歌だけではなく、簡単な受け答えや自己紹介、立ち方や表情の見せ方など、覚えることは山ほどあるらしい。
「ねえ、透。ちょっと聞いて」
昼前、アイは廊下で透を見つけると、いきなりそう言った。
「何?」
「自己紹介の練習!」
「ここで?」
「ここで!」
「いや、俺、審査員じゃないんだけど」
「いいの。審査員っぽい顔して」
「どんな顔だよ」
「なんか、こう……厳しそうな顔!」
アイは眉間にしわを寄せ、腕を組んだ。
その顔は、厳しそうというより、単に機嫌が悪そうだった。
「……お前、今の顔で審査員やったら全員落とすだろ」
「失礼すぎない!?」
「すみません、審査員様」
「よろしい!」
アイは咳払いをした。
そして、さっきまでのふざけた表情をすっと消した。
「星野アイです。歌やダンスを通して、たくさんの人に笑顔を届けられるアイドルになりたいと思っています。本日はよろしくお願いします」
言い終わったあと、彼女は透を見た。
「……どう?」
「いいんじゃないか」
「ほんと?」
「うん。ちゃんと伝わると思う」
「そっか」
アイは、ほっとしたように笑った。
それから少し考えるように目を伏せる。
「でもさ、これって、みんな同じようなこと言うのかな」
「どうだろうな」
「歌が好きです、とか。人を笑顔にしたいです、とか。そういうの」
「言う人はいるんじゃないか」
「だよねえ」
アイは壁にもたれた。
「私、自分のことを話すのって、ちょっと苦手かも」
「そうなのか?」
「うん。人の話を聞くのは好きなんだけどね。自分が何を考えてるのか説明するのって、難しいじゃん」
それは意外な言葉だった。
アイは誰とでも話せる。
初対面の相手にも、子どもにも、大人にも、自然に笑いかけることができる。
だから、話すこと自体が苦手だとは思っていなかった。
けれど、彼女が言っているのは、そういうことではないのだろう。
自分を見せること。
自分の気持ちを、自分の言葉で説明すること。
それは、彼女にとって簡単なことではないのかもしれない。
「……でも、さっきの自己紹介、嘘じゃないだろ?」
透が聞くと、アイは顔を上げた。
「うん。嘘じゃないよ」
「なら、それでいいんじゃないか。誰かと同じ言葉になったとしても、アイが本当にそう思ってるなら」
「……そっか」
「無理に珍しいことを言おうとしなくてもいいだろ」
「うん」
アイは小さくうなずいた。
そして、少しだけいたずらっぽく笑った。
「じゃあ、透も審査してあげる」
「なんでだよ」
「はい、黒瀬透さん。あなたの夢は何ですか?」
「……急に来たな」
「どうぞ!」
アイが手を差し出す。
透は困ったように頭をかいた。
夢。
自分の夢。
以前の自分なら、そんなものを聞かれても、適当に答えて終わらせていたかもしれない。
今の自分には、ひとつだけ、どうしても叶えたいことがある。
けれど、それをそのまま口にすることはできなかった。
彼女を救うこと。
彼女が未来にたどり着くこと。
彼女が、彼女自身の人生を生きられること。
それは夢と呼んでいいのだろうか。
そもそも、他人の人生を自分の夢にしてしまっていいのだろうか。
「……まだ、分からない」
透は正直に答えた。
アイは少し驚いた顔をした。
「え、ないの?」
「ないっていうか……考えてる途中」
「ふーん」
アイは腕を組んだ。
「じゃあ、私と一緒だね」
「一緒?」
「うん。私だって、アイドルになりたいって夢はあるけど、その先で何をしたいのかって聞かれたら、まだ分からないこともあるし」
彼女は窓の外を見た。
「たくさんの人を笑顔にしたい。それは本当。でも、どんなアイドルになりたいのかとか、どんな歌を歌いたいのかとか、まだまだ分かんないことばっかり」
「……そうだな」
「だから、今はそれでいいんじゃない?」
アイは、当たり前のことのように言った。
「分からないなら、これから見つければいいじゃん。最初から全部決まってなきゃいけないわけじゃないんだし」
透は黙った。
分からないことがある。
それは、何かが間違っているという証拠ではない。
すぐに答えを出せないからといって、答えを出す権利がないわけでもない。
自分は、いつからこんなにも焦っていたのだろう。
知っているはずの未来が、少しずつ変わっていくことに。
自分の知らない記録が、自分の過去に存在していたことに。
その理由を、今すぐ突き止めなければならないと思っていた。
けれど、アイは違う。
分からないことがあっても、立ち止まって、考えて、また進めばいいと言う。
自分の夢でさえ、まだ途中なのだから。
「……お前、たまにすごいこと言うよな」
「えっ、今のかっこよかった?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけ!?」
「かなり、と言ってほしかったのか?」
「もちろん!」
アイは笑いながら、透の肩を軽く叩いた。
「じゃあ、かなりって言って!」
「はいはい、かなりすごいです」
「棒読み!」
廊下に、ふたりの笑い声が響いた。
透はその声を聞きながら思った。
この時間も、彼女の人生の一部だ。
大きな舞台も、テレビも、何万人もの観客もない。
ただ廊下で自己紹介の練習をして、くだらないことで笑っているだけ。
それでも、彼女が自分で選んだ道の途中にある、大切な時間だった。
その時間を守りたいと思うことと、彼女の人生を自分の思い通りにしたいと思うことは、同じではない。
透は、その違いを忘れないようにしようと思った。
*
放課後。
施設の小さな会議室には、透と職員、そして事務所の佐伯が集まっていた。
机の上には、何枚かの資料が並べられている。
以前見せてもらったコピーとは違う。
古い紙の端は少し黄ばんでいて、ところどころに折り目がある。印刷された文字も、今のものより少し粗い。
それらが、何年も前に作られた記録であることを物語っていた。
「まず、今回確認できたことから説明します」
佐伯が資料を一枚、机の中央へ置いた。
「以前お話しした、児童向けの芸術体験企画についてです。企画そのものは実在していました。複数の施設を訪問して、子どもたちに歌や演技、簡単な表現活動を体験してもらうものだったそうです」
透は資料に目を落とした。
企画名、実施時期、運営団体。
どれも、これまで聞いていた話と大きく変わらない。
「この企画には、参加した子どもたちの名簿とは別に、施設との連絡記録がありました。訪問日程や担当者、事前の確認事項などをまとめたものです」
「……僕の名前があったのは、その連絡記録なんですよね」
「そうです。ただし、今回見つかった資料には、以前のコピーにはなかった情報があります」
佐伯は別の紙を取り出した。
「こちらが、当時の連絡記録の写しです。原本は現在、保管先の管理者立ち会いのもとで確認されています。こちらは、その場で許可を得て複写したものです」
透は紙を受け取った。
上部には企画名と実施期間。
その下には、日付ごとの連絡内容が記されていた。
そして、下のほう。
見覚えのある文字があった。
黒瀬透。
自分の名前だった。
ただし、名前が記されている欄は、子どもの参加者名簿とは違っていた。
欄の見出しには、こう書かれている。
『確認対象・照会事項』
その隣には、さらに小さな文字で、
『本人確認未了』
と記されていた。
「……これ」
透は思わず指でその部分を示した。
「僕は、この企画に参加していないんですよね?」
「今のところ、参加者名簿に黒瀬くんの名前はありません」
佐伯は慎重に答えた。
「少なくとも、参加者として登録されていた記録は確認できていません」
「じゃあ、どうしてここに……」
「そこを確認するために、当時の担当者に話を聞くことにしました」
佐伯は資料を裏返した。
裏面には、手書きのメモが残されている。
いくつかの文字は薄くなっていたが、日付らしき数字と、短い文章が読み取れた。
『照会あり。本人確認は未実施。回答保留』
その下に、もう一行。
『水瀬さんへ引き継ぎ』
透は息を止めた。
「……水瀬さん」
「はい。今回、話を聞く予定の方です」
佐伯がうなずいた。
「この記録を書いた人物についても、当時の管理担当者に確認してもらいました。少なくとも、最初にこの名前を記録へ追加したのは、水瀬さんである可能性が高いそうです」
「可能性が高い……」
「当時の担当者が複数いたことと、記録の一部に署名がないことから、現時点では断定できません。ただ、記録の書式や筆跡、引き継ぎ先などを照合すると、水瀬さんが記入したと考えるのが自然だそうです」
透は、紙の上の自分の名前を見つめた。
自分の名前を知っている人がいた。
自分がまだここにいなかった時期に。
そして、その名前を記録した人物が、今も生きている。
それは、これまでの曖昧な情報よりも、ずっと具体的な事実だった。
「……その水瀬さんは、僕のことを知ってるんですか?」
「それを、今日確認します」
佐伯はそう答えた。
「ただ、先にひとつ伝えておきたいことがあります。記録に名前が書かれていたとしても、水瀬さんが黒瀬くん本人を知っていたとは限りません。誰かから名前を聞いて、記録に残しただけという可能性もあります」
「……はい」
「逆に、本人と会ったことがあるのに記録が残っていない可能性も、完全には否定できません。今の段階では、どちらとも言えないんです」
透はうなずいた。
期待しすぎないようにしよう。
何かが分かるかもしれない。
けれど、すべての謎が一度に解けるとは限らない。
それでも、今日は一歩進んだ。
名前を書いた可能性が高い人物が、見つかったのだから。
*
水瀬が会議室に入ってきたのは、それから二十分ほど後のことだった。
年齢は六十代の終わりくらいだろうか。
落ち着いた色のカーディガンを着て、手には小さな鞄を持っている。
髪には白いものが混じっていたが、背筋はまっすぐだった。
「お待たせしてすみません」
水瀬は軽く頭を下げた。
「いえ、お時間をいただいてありがとうございます」
佐伯が立ち上がり、椅子を勧める。
水瀬は席につくと、机の上に置かれた資料を見た。
その瞬間、表情がわずかに変わった。
ほんの一瞬だった。
驚きというより、思い出したくないものを見たときのような、複雑な顔。
けれど、彼女はすぐにいつもの表情へ戻った。
「……この記録のことですね」
佐伯がうなずいた。
「はい。以前、水瀬さんが担当されていた企画の連絡記録です。この中に、黒瀬透という名前があります」
水瀬の視線が、透へ移った。
彼女はすぐには何も言わなかった。
透も、何を言えばいいのか分からなかった。
初対面のはずだった。
少なくとも、透には彼女と会った記憶がない。
それなのに、彼女は自分の名前を見て、何かを思い出したような顔をした。
「……あなたが、黒瀬くん?」
水瀬が聞いた。
「はい」
「そう……」
彼女は、もう一度資料へ目を落とした。
「本当に、そうなのね」
その言葉に、透の胸がざわついた。
「……僕のこと、知ってるんですか?」
水瀬は顔を上げた。
何かを答えようとして、口を開きかける。
しかし、すぐに閉じた。
そして、佐伯のほうを見た。
「先に確認しておきたいのですが、この記録について、どこまで分かっていますか?」
「企画の参加者名簿には黒瀬くんの名前がないこと。連絡記録に名前が追加されていること。そして、本人確認未了という記載があることです」
「……そうですか」
「水瀬さんが、この名前を記入された可能性が高いと聞いています」
水瀬はゆっくりとうなずいた。
「はい。おそらく、私が書いたものです」
透の指先に力が入った。
見つかった。
名前を書いた人が。
「……どうして、僕の名前を書いたんですか?」
透は、できるだけ落ち着いた声で尋ねた。
水瀬はすぐには答えなかった。
机の上に置かれた資料を、もう一度確認する。
そして、慎重に言葉を選ぶようにして話し始めた。
「最初に申し上げておきますね。私は、あなたを企画に参加させた覚えはありません。少なくとも、実際に参加した子どもたちの中に、あなたがいたという記憶はありません」
「……はい」
「それから、あなたと直接会った記憶も、今のところありません」
透は小さく息を吐いた。
やはり、そうなのか。
自分の名前を知っていたとしても、本人と会ったことがあるとは限らない。
その可能性が、ひとつ確かめられただけだった。
だが、水瀬はそこで話を終えなかった。
「ただ……あなたの名前を、私は確かに聞きました」
「誰からですか?」
「それが……」
水瀬は眉を寄せた。
「少し、説明が難しいのです」
会議室の空気が変わった。
佐伯も、職員も、黙って彼女の言葉を待っている。
「この記録が作られたのは、企画の実施日より少し後でした。私は当時、施設との連絡や、参加者の確認、保護者の同意書の整理などを担当していました」
水瀬は指先で紙の端を押さえた。
「ある日、事務所に電話がかかってきたのです。電話をかけてきた方は、ある施設に関する確認をしたいとおっしゃいました」
「施設、というのは……」
「あなたが暮らしている施設です」
透は息をのんだ。
水瀬は続けた。
「その方は、企画の参加者について確認したいと言いました。私たちが訪問した施設に、黒瀬透という名前の子どもがいるかどうか。そういう問い合わせでした」
「……僕がいるかどうか?」
「はい」
「でも、そのとき僕は、まだそこにいなかったんですよね?」
「……その可能性が高いと思います」
水瀬は苦しそうに眉を寄せた。
「申し訳ありません。当時の記録がすべて残っているわけではないので、あなたがいつその施設に来たのか、正確な時期までは分かりません。ただ、少なくとも、その問い合わせは企画の実施が終わった後でした」
「じゃあ、誰が僕の名前を……」
「それが、分からないのです」
水瀬は正直に答えた。
「電話をかけてきた方は、あなたの名前をはっきりとおっしゃいました。私は、その名前を記録に残しました。でも、問い合わせをした方の所属や、連絡先については、資料に残っていないのです」
「……どうしてですか?」
「当時の私は、企画に関係する問い合わせだと思っていました。実際、電話では企画の名前が出てきましたし、施設についても具体的な話がありました。だから、確認事項として記録に残したのです」
水瀬は、そこで言葉を切った。
「ただ、今になって考えると……あの電話が本当に企画に関係するものだったのか、私には判断できません」
透は黙った。
誰かが、自分の名前を知っていた。
そして、その人物は、企画に関係があるように装って問い合わせをした可能性がある。
水瀬はそれを信じ、記録に残した。
だが、問い合わせをした人物の正体は分からない。
これで謎が解けたわけではなかった。
むしろ、新しい疑問が増えた。
「……その人は、僕について何か言っていましたか?」
透は尋ねた。
「どんなことでもいいんです。年齢とか、見た目とか、家族のこととか」
水瀬は首を横に振った。
「具体的なことは、ほとんど話していませんでした。あなたの名前と、施設についての確認。それから……」
彼女はそこで、再び言葉を止めた。
「それから?」
「……その子が施設に来たら、本人に渡してほしいものがある、と」
透の背筋が冷たくなった。
佐伯が、すぐに口を開いた。
「渡してほしいもの、ですか?」
「はい」
「何を渡すという話だったのでしょう」
「それは……分かりません」
水瀬は申し訳なさそうに目を伏せた。
「その方は、具体的な品物については説明しませんでした。ただ、いずれ本人が来ることがあれば、そのときに渡してほしい、と。私は、企画に関係する資料か何かだと思ったのです」
「それで、記録に残したんですか?」
「はい。でも、私はその後、退職するまでに何度か部署を移りました。担当が変わるたびに、古い記録は整理され、保管場所も変わっていった。結局、その品物が何だったのか、そもそも預かることになっていたのかさえ、はっきりしなくなってしまいました」
水瀬は小さくため息をついた。
「今思えば、もっときちんと確認すべきでした」
透は、言葉を失っていた。
本人に渡してほしいもの。
その子が施設に来たら。
まるで、誰かが自分がここに来ることを知っていたかのようだった。
だが、そう考えるのは早すぎる。
問い合わせをした人物が、何らかの情報を持っていた可能性はある。
施設の関係者だったのかもしれない。
何かの手続きに関わった人間だったのかもしれない。
あるいは、名前を知っていただけで、未来を知っていたわけではないのかもしれない。
ひとつの説明に飛びつくことはできなかった。
「……その電話、いつ頃だったか覚えていますか?」
佐伯が尋ねた。
「正確な日付は覚えていません。ただ、企画の報告書を提出した後だったことは確かです」
「記録の作成日は、ここに記されていますね」
佐伯が日付を指した。
「この日付と同じ頃でしょうか」
水瀬は紙を見つめた。
「……そうですね。おそらく、その前後だったと思います」
「電話を受けたとき、相手の性別や声の特徴は覚えていますか?」
「男性だったと思います。ただ、声だけでは年齢も分かりませんでした。落ち着いた話し方で、急いでいる様子もなかった。こちらの質問にも、必要なことだけ答えるような感じでした」
「名前は名乗りましたか?」
「……いえ」
「所属は?」
「企画の関係者だとおっしゃっていたと思います。でも、会社名や部署名は、はっきりとは覚えていません」
佐伯はメモを取りながら、慎重に確認を続けた。
電話がかかってきた日時。
どの回線を使っていたのか。
当時、問い合わせを受けた際の手続きはどうなっていたのか。
ほかの職員が同じ電話を聞いていた可能性はあるのか。
水瀬は、思い出せる範囲で答えていった。
けれど、古い記憶はところどころ曖昧だった。
残っている資料も限られている。
今すぐ、電話の相手を特定することはできそうになかった。
それでも、以前よりは確かなことが増えていた。
名前を書いたのは、おそらく水瀬。
名前を伝えたのは、電話をかけてきた男性。
その男性は、黒瀬透という子どもが施設に来る可能性を示し、本人に渡してほしいものがあると言った。
その記録には、本人確認未了と書かれていた。
つまり、水瀬はその人物が本当に企画の関係者なのか、確認できていなかったのだ。
「……どうして、本人確認未了と書いたんですか?」
透は、記録の文字を指した。
「電話を受けた時点で、相手が企画の関係者かどうか、確認できていなかったからですか?」
「はい。今になって思い出しましたが、私はその方に、所属を確認できるものを送っていただけないかとお願いしたのだと思います」
「それで?」
「結局、届かなかったのです」
水瀬は、少しだけ苦い顔をした。
「だから、確認が取れるまでは対応を保留することにしました。記録には残したものの、その方の話をそのまま信用したわけではありません」
「……じゃあ、僕に何かを渡す話も、保留になったんですか?」
「そうです。少なくとも、私の記憶では、正式に何かを預かったということはありません」
透は、ゆっくりと息を吐いた。
少しだけ、安心した。
自分が知らないところで、誰かが自分に何かを託していた。
そんな話を聞けば、すぐにでも確認しなければならないと思ってしまう。
けれど、現時点では、実際に何かが存在していたかどうかも分からない。
記録に残されたのは、電話での問い合わせだけだった。
「……水瀬さん」
「はい」
「その電話をかけてきた人は、僕が施設に来ることを、どうして知っていたんでしょうか」
水瀬は、困ったように目を伏せた。
「それは、私にも分かりません」
静かな声だった。
「当時の私は、そこまで深く考えませんでした。施設に関する問い合わせは珍しいことではありませんでしたし、企画に関係する内容だと思っていましたから」
「……そうですよね」
「ただ、今になって考えると、確かに不自然です。参加者ではない子どもの名前を、どうしてわざわざ確認しようとしたのか。どうして、本人が来たら何かを渡してほしいと言ったのか」
水瀬は透を見た。
「私にも、分からないことばかりです」
透はその目を見つめた。
嘘をついているようには見えなかった。
もちろん、短い時間で人の本心を見抜くことなどできない。
水瀬が何かを隠している可能性も、完全には否定できない。
それでも、彼女の戸惑いは本物のように思えた。
彼女もまた、古い記録を前にして、何が起きていたのかを考えているのだ。
透は、机の上の資料へ視線を戻した。
そこに書かれた自分の名前は、ただの文字だった。
けれど、その文字が誰かの手によって書かれたという事実が、急に重たく感じられた。
誰かが自分の名前を口にした。
誰かが、その名前を記録に残した。
誰かが、自分がここへ来ることを知っていたのかもしれない。
そして、その誰かは、今もどこかにいるのかもしれない。
「……ありがとうございます」
透は言った。
水瀬は少し驚いたように顔を上げた。
「え?」
「話してくれて、ありがとうございます。昔のことなのに、思い出してもらって……」
言いながら、透は自分の声が少し震えていることに気づいた。
怖くないわけではない。
むしろ、怖かった。
自分の知らない過去が、自分の名前を使って、目の前に現れている。
それなのに、相手を責めることも、すぐに答えを求めることもできない。
何が起きたのか分からないからだ。
水瀬は、静かに首を振った。
「いいえ。こちらこそ、もっと早く確認できていればよかったのですが……」
「いえ。水瀬さんが全部悪いわけじゃないと思います」
透は、言葉を選びながら続けた。
「今の時点では、誰が何をしたのかも、どういう理由だったのかも分からないですし」
水瀬は、少しだけ目を見開いた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……そうですね。ありがとうございます」
会議室の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
けれど、まだ終わりではなかった。
佐伯が、資料の別のページを開いたからだ。
「水瀬さん。もうひとつ、確認したいことがあります」
「はい」
「こちらの記録ですが、名前が書かれた部分と、ほかの記載部分では、筆跡が少し違っています」
水瀬は紙を受け取った。
「……本当ですね」
「最初からこの記録に名前があったわけではなく、後から書き加えられた可能性があります。水瀬さんが電話を受けた際に、別の紙へ記録して、それを後で転記したということでしょうか?」
水瀬は、しばらく考え込んだ。
「……その可能性はあります。当時は、電話の内容を手元のメモに書いて、後から連絡記録へ転記することもありました」
「そのメモは、残っていると思いますか?」
「分かりません。ただ、記録の整理をした際に、関連するメモを一緒に保管した可能性はあります」
佐伯はうなずいた。
「では、原本の保管先に、関連メモが残っていないか確認を依頼します。水瀬さんにも、もし思い出したことがあれば教えていただけると助かります」
「分かりました」
透は、再び記録を見た。
名前が書き加えられている。
それは、少なくとも、最初から企画の名簿に載っていたわけではないということだった。
誰かが電話をかけてきた。
水瀬が、その内容をメモした。
そして、何らかの理由で、その名前が正式な連絡記録に追加された。
その過程で、何かが抜け落ちたのかもしれない。
あるいは、最初から必要な情報が与えられていなかったのかもしれない。
どちらにしても、まだ確認することが残っていた。
*
話し合いが終わる頃には、窓の外が少し暗くなっていた。
水瀬は帰り際、もう一度透に向き直った。
「黒瀬くん」
「はい」
「今回のことについて、私は何も確かなことをお伝えできませんでした。でも、もしまた何か思い出したら、必ず連絡します」
「……ありがとうございます」
「それから」
水瀬は少し迷ったように視線を落とした。
「あなたの名前を聞いたとき、私は、もう少し違うことを思い出した気がしたのです」
透の胸が、再びざわついた。
「違うこと……?」
「ええ。でも、今はまだ、はっきりと思い出せません。何かの書類を見たのか、誰かと話したのか。それとも、別の記憶と混ざっているのか……」
水瀬は小さく息を吐いた。
「曖昧なことをお伝えして、余計に不安にさせてしまったら申し訳ありません」
「いえ……」
「ただ、何か思い出したら、きちんと確認したうえでお伝えします。憶測のまま話すことはしたくありませんから」
透はうなずいた。
「お願いします」
水瀬は、最後にもう一度頭を下げて、会議室を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
透は机の上に残された資料を見つめていた。
名前を書いた人は、見つかった。
少なくとも、記録に名前を追加した人物は、水瀬である可能性が高い。
けれど、彼女は自分を知らなかった。
自分に何かを渡す約束をした覚えもなかった。
彼女が知っていたのは、名前と、施設に関する問い合わせ。
その程度だった。
では、電話をかけてきた男性は誰なのか。
なぜ自分の名前を知っていたのか。
なぜ、自分が施設に来ることを想定していたのか。
そして、なぜ今になって、自分に接触してくる人間がいるのか。
疑問は、まだ残っている。
だが、ひとつだけ。
はっきりしたことがあった。
「……佐伯さん」
「はい」
「水瀬さんは、僕のことを知っていたわけじゃないんですね」
佐伯は少し考えてから答えた。
「少なくとも、今日の話ではそう考えるのが自然だと思います。名前を知っていたのは、電話をかけてきた人物のほうでしょう」
「……そっか」
「ただ、今の段階で、その人物が誰なのかを決めつけることはできません。水瀬さんの記憶も、当時の資料も、まだ確認が必要です」
「はい」
透は椅子の背にもたれた。
胸の中には、失望に似た感情があった。
水瀬なら、何か知っているかもしれないと思っていた。
自分の知らない過去について、決定的なことを教えてくれるのではないかと。
けれど、彼女もまた、分からないことを抱えていた。
自分と同じように。
「……でも、前には進みましたね」
職員が言った。
透は顔を上げた。
「はい?」
「これまでは、名前が記録に残っていることしか分かりませんでした。でも今日は、誰が記録を書いた可能性が高いのか、どういう経緯で名前が追加されたのか、その一部が分かりました」
職員は、資料をまとめながら続けた。
「分からないことが増えたように感じるかもしれないけれど、分からないことの形が、少しはっきりしたんです」
透は、その言葉をゆっくりと飲み込んだ。
分からないことの形。
確かに、そうかもしれない。
これまでは、自分の名前が古い記録にあるという事実しかなかった。
それが今は、誰かからの問い合わせによって書き加えられた可能性が高いと分かった。
名前を伝えた人物がいて。
その人物が何かを確認しようとしていて。
記録を残した人は、その人物の身元を確認できなかった。
だからこそ、本人確認未了と記した。
曖昧だったものが、少しずつ輪郭を持ち始めている。
「……そうですね」
透はうなずいた。
「前には進んだと思います」
それは、無理に自分を納得させるための言葉ではなかった。
本当に、そう思えた。
*
会議室を出たあと、透は廊下の窓際で立ち止まった。
スマートフォンを取り出す。
新しい通知はない。
けれど、画面を見つめていると、ふと気づいた。
あのメッセージを送ってきた人物は、水瀬の存在を知っていた。
少なくとも、記録に名前を書いた人物が今も生きていると知っていた。
そして、透がその記録について調べていることも知っていた。
偶然だろうか。
それとも、誰かが調査の進み具合を把握しているのだろうか。
佐伯たちが調べている情報は、外部に簡単に漏れるものではないはずだった。
もちろん、完全に秘密というわけでもない。関係者に確認を依頼している以上、複数の人間が知る可能性はある。
だが、メッセージの送り主が、どこまで知っているのかは分からない。
透は、しばらく画面を見つめたあと、スマートフォンをしまった。
今は、返信しない。
ひとりで相手の正体を探ろうともしない。
今日の話を、佐伯たちに共有する。
それが、自分で決めたことだった。
「……透?」
背後から声がした。
振り返ると、アイが立っていた。
レッスンから帰ってきたばかりなのか、肩にバッグをかけている。
「何してんの?」
「ちょっと考え事」
「また?」
「またって何だよ」
「最近多いじゃん」
アイは頬を膨らませた。
「私がせっかく自己紹介の練習してあげたのに、まだ悩みがあるの?」
「お前の練習と俺の悩み、関係ないだろ」
「あるよ。私の練習を聞いた人は、みんな元気になるはずだから!」
「その理屈は初めて聞いた」
「今、私が作った!」
アイは胸を張った。
透は思わず笑った。
彼女は、こちらの様子をうかがうように、少しだけ首を傾げた。
「……何か分かった?」
透は、すぐには答えなかった。
アイに何も話さずにいることもできる。
今回のことは自分の問題だ。
彼女に余計な心配をかける必要はない。
そう考えることもできた。
けれど、以前、彼女は言った。
話したくなったら話してね、と。
自分だって、いつも全部話せるわけじゃない、と。
無理に話す必要はない。
けれど、話せることまで隠す必要もないのだろう。
「……少しだけ」
透は答えた。
「前に話した、俺の名前があった記録のこと。あれを書いた人が、誰なのか分かったんだ」
アイの表情が変わった。
「えっ、本当?」
「うん。水瀬さんっていう、昔その企画を担当していた人。今日、話を聞いた」
「その人、透のこと知ってた?」
「いや……俺のことを知ってたわけじゃないみたいだ」
透は、今日聞いたことを簡単に説明した。
古い企画の連絡記録。
参加者ではない自分の名前。
電話をかけてきた男性。
本人確認ができず、記録だけが残されたこと。
そして、本人に何かを渡してほしいと言われたこと。
アイは、途中で口を挟まずに聞いていた。
話し終えると、しばらく考え込むように黙った。
「……なんか、変な話だね」
「だろ」
「透がそこに来る前から、透の名前を知ってる人がいたってことでしょ?」
「そういうことになる」
「しかも、何かを渡してほしいって……」
アイは腕を組んだ。
「それ、ちょっと怖くない?」
「……まあ、怖いな」
透が正直に答えると、アイは意外そうに目を丸くした。
「え、怖いんだ?」
「そりゃ怖いだろ。自分の知らないところで、自分の名前が出てるんだぞ」
「いや、透って、そういうの平気なのかと思ってた」
「なんでだよ」
「だって、いつも私のこと心配してるじゃん。何があっても大丈夫、みたいな顔するし」
透は、言葉に詰まった。
大丈夫な顔。
自分は、そんな顔をしていたのだろうか。
「……別に、何があっても大丈夫なわけじゃないよ」
透は言った。
「ただ、今は自分ひとりで調べてるわけじゃないから。佐伯さんたちもいるし、施設の人も協力してくれてる。だから、少しは落ち着いていられるだけ」
「そっか」
アイはうなずいた。
それから、ふっと笑った。
「じゃあ、私と同じだね」
「……何が?」
「私も、ひとりで全部やろうとしてたときより、今のほうが少し安心するもん」
透は彼女を見た。
アイは、どこか照れくさそうに笑っていた。
「レッスンも、審査も、分からないことばっかりだけどさ。佐伯さんに聞けるし、施設の人にも相談できるし、透も話を聞いてくれるし」
「……うん」
「だから、何でもひとりで考えなくていいんだなって、最近ちょっと思う」
その言葉を聞いて、透は胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼女は、少しずつ変わっている。
自分の夢を追いかけながら、誰かに頼ることも覚えようとしている。
もちろん、急に何もかも変わったわけではない。
きっとこれからも、彼女は笑ってごまかすことがあるだろう。
大丈夫だと言って、本当の気持ちを隠すこともあるだろう。
それでも、少しずつ。
彼女自身のペースで。
その変化を見守ることができるのは、うれしかった。
「……アイ」
「ん?」
「ありがとな」
「またそれ?」
「またそれ」
「だから、何が?」
「話を聞いてくれて」
アイは、一瞬だけ目を丸くした。
それから、照れ隠しのように笑った。
「……別に。私、話を聞くの得意だし?」
「そうだったな」
「でしょ!」
彼女は、いつもの調子で胸を張った。
けれど、そのあと少しだけ声を落とした。
「……でも、無理しないでね」
透は、彼女を見た。
「うん」
「分からないことがあるのは、仕方ないけどさ。分からないからって、全部自分で何とかしようとしなくていいんだから」
「……うん」
「私に話せないことがあってもいいよ。でも、ひとりで抱えて苦しくなるくらいなら、誰かに頼ってね」
アイは、真剣な目をしていた。
「私だって、そうするように頑張るから」
透は、しばらく何も言えなかった。
彼女は、自分が何を言っているのか、どこまで理解しているのだろう。
きっと、記録の謎の本当の意味は知らない。
自分が何を恐れているのかも、すべては分かっていない。
それでも、彼女はこうして、自分の言葉で伝えてくれる。
誰かに頼ること。
ひとりで抱え込まないこと。
自分ができていないことを、相手にだけ求めないこと。
「……分かった」
透は、ゆっくりとうなずいた。
「無理しない。ちゃんと相談する」
「よろしい!」
アイは満足そうに笑った。
それから、思い出したようにバッグを持ち直した。
「あ、そうだ。今日のレッスン、先生に褒められたんだよ!」
「お、すごいじゃん」
「でしょ!? 歌の最後のところ、前より安定してるって!」
「ちゃんと練習した成果だな」
「うん!」
アイの顔が、ぱっと明るくなった。
「次は、もっと上手くなるからね。絶対!」
「期待してる」
「うん。見ててね!」
その言葉に、透はうなずいた。
見ている。
これからも。
彼女がどんな道を選んでも、その選択を尊重しながら。
彼女が失敗したときには、失敗したことだけを見て彼女自身を否定しないように。
彼女が笑っているときには、その笑顔の裏に何か隠れているのではないかと疑うばかりではなく、ただ一緒に笑えるように。
彼女が助けを求めたときには、彼女の望みを聞いてから、できることを考えられるように。
そのために、自分自身も、分からないことから逃げずにいよう。
透はそう思った。
*
その夜。
透は、今日の出来事を職員と佐伯に共有したあと、自分の部屋に戻った。
スマートフォンを机の上に置く。
今日、水瀬から聞いたことを、忘れないうちにノートへ書き出した。
記録が作られた時期。
電話の内容。
電話をかけてきた人物の特徴。
本人確認ができなかったこと。
本人に渡してほしいものがあると言われたこと。
そして、水瀬自身は、透と会った記憶がないこと。
書き終えたあと、透はペンを置いた。
ひとつずつ整理していくと、何が分かっていて、何が分かっていないのかが見えてくる。
自分が知っていること。
自分が推測していること。
誰かから聞いたこと。
それらを混ぜてしまえば、簡単に間違った結論へたどり着いてしまう。
だから、分けておく。
今の自分にできることは、それくらいだった。
透は、ノートの最後に新しい項目を書き加えた。
『確認すること』
一つ目。
水瀬が受け取った電話について、当時のメモが残っていないか確認する。
二つ目。
電話の相手が名乗った所属や、企画との関係を示す記録がないか調べる。
三つ目。
本人に渡す予定だったものが、実際に預けられていたのか確認する。
四つ目。
記録に残された日付と、自分が施設に来た時期との関係を、正確な資料で照合する。
そこまで書いて、透はペンを止めた。
まだある。
あのメッセージを送ってきた人物が、なぜこの記録を知っているのか。
どうして、自分にそれを知らせようとしているのか。
そして、その人物は、水瀬が名前を書いた経緯まで知っているのか。
それらは、今のところ確認のしようがない。
透はノートを閉じた。
焦っても、答えは出ない。
自分にできることを、ひとつずつ進めていくしかない。
そのときだった。
机の上のスマートフォンが、短く震えた。
透の体が、反射的に強張った。
画面を見る。
知らない番号。
通知欄に、メッセージが表示されていた。
『水瀬さんと話したんだね』
透は、息を止めた。
画面を開く。
続けて、もう一通。
『彼女は、すべてを覚えているわけではない』
指先が冷たくなった。
そして、三通目。
『だが、彼女が書いた名前は、間違いなく君のものだ』
透は、スマートフォンを握りしめた。
どうして知っている。
今日、水瀬と話したことを。
水瀬が何を言ったのかを。
まるで、会議室の中にいたかのように。
けれど、すぐに透は、スマートフォンを机の上に置いた。
返信してはいけない。
相手が自分の反応を待っているのだとしても。
自分が何かを問い詰めれば、相手の思うとおりに動くことになるかもしれない。
透はメッセージの画面を保存した。
そして、佐伯に送るための準備をした。
その直後。
四通目のメッセージが届いた。
『君に渡されるはずだったものは、まだ残っている』
透は、画面を見つめた。
心臓の音が、耳の奥で大きく響いている。
水瀬は、正式に何かを預かった覚えはないと言った。
ただし、電話をかけてきた人物は、本人に渡してほしいものがあると話していた。
その品物が何なのか。
本当に存在するのか。
水瀬の記憶違いなのか。
それとも、別の誰かが保管しているのか。
まだ、何も分からない。
それでも、メッセージの送り主は、何かを知っているようだった。
透は、震えそうになる指を押さえながら、佐伯にメッセージを転送した。
それから、施設の職員にも連絡する。
ひとりで動かない。
相手の言葉だけを信じない。
それを、今日、自分で決めたのだから。
数分後、佐伯から返信があった。
『確認しました。返信せず、そのまま保存しておいてください。明日、施設の方とも相談し、今日の記録と合わせて対応を考えます。ひとりで確認しようとしないでください』
透は、その文章を読み返した。
そして、短く返信した。
『分かりました。ありがとうございます』
それ以上は、何もしなかった。
スマートフォンを伏せ、椅子に座り直す。
部屋の中は静かだった。
けれど、心の中は、まったく静かではなかった。
自分に渡されるはずだったもの。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
もし、本当に何かが残っているのなら。
それを見れば、自分の過去が分かるのだろうか。
自分がなぜ、この世界にいるのか。
なぜ、黒瀬透という名前で生きているのか。
そして、どうして自分は、星野アイの未来を知っているのか。
答えが見つかるかもしれない。
その期待は、確かにあった。
けれど同時に、恐怖もあった。
もし、何も分からなかったら。
もし、知りたくなかったことを知ってしまったら。
もし、自分がこれまで信じてきたものが、何かの間違いだったら。
透は目を閉じた。
以前の自分なら、すぐに答えを求めていただろう。
どんな危険があっても、自分で調べて、確かめて、納得しようとしたかもしれない。
だが、今は違う。
自分の過去を知ることは、大切だ。
けれど、そのために、今ある生活を壊していいわけではない。
自分が不安だからといって、アイにまで不安を背負わせていいわけでもない。
何より、彼女の人生を、自分の謎を解くための道具にしてはいけない。
彼女は彼女の夢を追いかけている。
自分は、自分の過去と向き合う。
それぞれが、それぞれの人生を生きていく。
そのうえで、必要なときには支え合えばいい。
透は、ゆっくりと目を開けた。
「……逃げないよ」
小さく、そうつぶやいた。
何から逃げないのか、自分でもうまく説明できなかった。
自分の過去から。
自分の知らない記録から。
そして、分からないことを分からないまま抱えていくことから。
きっと、そのすべてだ。
*
翌朝。
施設の事務室には、佐伯と職員が集まっていた。
透も、学校へ行く前に短い時間だけ同席することになった。
机の上には、昨日の記録のコピーと、夜に届いたメッセージの内容が並んでいる。
「まず、昨夜のメッセージについてですが」
佐伯が説明を始めた。
「こちらで確認できる範囲では、送り主を特定できていません。今後もメッセージが届く可能性があるので、日時と内容を保存しておきます。こちらから連絡を取ることはしません」
「はい」
「それから、水瀬さんの話については、正式に記録を残しました。本人の記憶と、資料に残っている内容を分けて整理しています」
佐伯は紙を一枚、透の前に置いた。
「現時点で確認できたことは、四つです」
指で一つずつ示す。
「一つ目。黒瀬くんの名前は、企画の参加者名簿ではなく、連絡記録に記載されていた」
「はい」
「二つ目。水瀬さんの記憶では、企画の実施後に、施設について問い合わせる電話があった」
「はい」
「三つ目。電話の相手は、黒瀬くんの名前を伝え、本人が施設に来た場合に渡してほしいものがあると話した。ただし、その人物の身元は確認できていない」
透は、うなずいた。
「四つ目。水瀬さんは、正式に何かを預かった記憶がない。現在、関連するメモや保管物が残っていないか、確認を進めている」
佐伯は紙を机に置いた。
「これが、今の時点で分かっていることです」
「……分かりました」
「そして、ここからは推測になります」
佐伯は、慎重に言った。
「電話の相手が、本当に企画の関係者だったのか。それとも、企画の名前を利用した別の人物だったのか。まだ判断できません」
「はい」
「また、黒瀬くんの名前を知っていた理由についても、今のところ分かっていません。何らかの書類を見た可能性もありますし、施設や関係者を通じて知った可能性もあります」
透は黙って聞いていた。
「昨夜のメッセージの送り主が、その電話をかけた人物と同一かどうかも不明です。言葉の内容が一致しているように見えても、同一人物だと断定することはできません」
「……そうですね」
佐伯はうなずいた。
「ただ、昨日までより、確認するべき場所は明確になりました。まずは、当時の電話メモが残っているか。次に、記録に関連する保管物が存在するか。その二点を優先して調べます」
「お願いします」
「それと、もうひとつ」
佐伯は少しだけ声を落とした。
「黒瀬くん。今回のことは、あなた自身に関わる問題です。だからこそ、あなたの気持ちを置き去りにして調査を進めることはしません。何かを見つけたら、あなたに説明し、どうするかを一緒に考えます」
透は顔を上げた。
「……ありがとうございます」
「ただし、危険があると判断した場合は、先に安全を確保するための対応を取ります。それは、あなたの意思を無視するためではなく、あなたが自分で考え、選べる状態を守るためです」
その言葉は、どこかアイの言葉に似ていた。
自分で選べるようにする。
選択肢を奪わない。
けれど、選択できる状態そのものが失われないようにする。
守ることは、すべてを決めてあげることではない。
透は、ゆっくりとうなずいた。
「分かりました」
佐伯は、ほっとしたように笑った。
「では、今日も普段どおりに過ごしてください。こちらで進展があれば、必ず連絡します」
「はい」
話し合いは、そこで終わった。
透は事務室を出て、学校へ向かう準備を始めた。
謎は、まだ残っている。
けれど、昨日までのように、ただ暗闇の中を手探りで進んでいるわけではなかった。
名前を書いた人物。
名前を伝えた人物。
そして、何かを渡してほしいと告げた人物。
少なくとも、三つの役割があることが見えてきた。
それらが同じ人物なのか、別々の人物なのか。
どこまでが偶然で、どこからが意図されたことなのか。
それは、これから確かめていくしかない。
透は鞄を肩にかけた。
廊下の向こうから、アイの声が聞こえる。
「透ー! 早くしないと遅れるよー!」
「今行く!」
透は返事をして、走り出した。
彼女の声が、いつもの朝の中に響いている。
それを聞きながら、透は思った。
自分の過去に、何が隠されているのだとしても。
今、自分がここにいることは変わらない。
アイと出会ったことも。
彼女が夢を見つけ、その夢に向かって進み始めたことも。
その過程で、自分が彼女のそばにいることを選んだことも。
それらは、誰かが記録に書いた文字だけで決まるものではない。
自分がこれまで何をしてきたのか。
これから何を選ぶのか。
その積み重ねが、自分の人生を作っていく。
透は、前を向いた。
*
その日の午後、事務所には一本の電話が入った。
古い資料の保管先を管理している担当者からだった。
水瀬が関わっていた企画の記録を、もう一度詳しく確認したところ、連絡記録の原本と一緒に、別の封筒が保管されていることが分かったという。
封筒には、企画名と実施年度が記されていた。
中には、当時の担当者が残した手書きのメモが数枚。
そして、外側には、短い注意書きがあった。
『要確認。本人への引き渡しについて、指示待ち』
佐伯は、その報告を聞いたあと、すぐに施設の職員へ連絡した。
まだ、封筒の中身をすべて確認したわけではない。
それが本当に透に関係するものなのかも分からない。
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
水瀬の記憶にしか残っていなかった「渡してほしいもの」という話が、別の資料にも記録されていたのだ。
つまり、電話の内容は、少なくとも当時、何らかの形で書き留められていた。
佐伯は、資料の確認に立ち会うための手続きを進めた。
封筒は、正式な管理のもとで開封されることになった。
そのことを、透が知るのは、翌日のことだった。
*
夕方。
レッスンを終えたアイは、施設に戻ると、透を探して廊下を歩いていた。
「透ー?」
返事はない。
食堂にもいない。
いつもなら、この時間にはどこかで本を読んでいるか、職員の手伝いをしているはずだった。
「……どこ行ったんだろ」
アイは首を傾げた。
そのとき、事務室から出てきた職員を見つけた。
「あ、先生。透、見ませんでした?」
「黒瀬くんなら、さっき部屋に戻ったよ」
「そっか。ありがとうございます!」
アイは階段を上がった。
透の部屋の前まで来ると、扉を軽く叩く。
「透ー。いる?」
「……いる」
少し間があって、返事があった。
「入っていい?」
「いいよ」
アイが扉を開けると、透は机の前に座っていた。
ノートを開いている。
その表情は、いつもより真剣だった。
「何書いてんの?」
「今日のことを整理してた」
「また記録?」
「まあ、そんな感じ」
アイは部屋に入り、机の端からノートをのぞこうとした。
「見てもいい?」
「……大したこと書いてないぞ」
「じゃあ、見てもいいじゃん」
「そういう問題か?」
透は苦笑しながら、ノートを少しだけアイのほうへ向けた。
アイは、そこに並んだ箇条書きを目で追った。
電話をかけてきた人物。
水瀬。
本人確認未了。
渡してほしいもの。
「……いっぱいあるね」
「うん」
「これ、全部分かったら、透の過去が分かるのかな」
透は、すぐには答えなかった。
「……分からない」
アイは顔を上げた。
「そっか」
「何か分かるかもしれない。でも、全部分かるとは限らないし、そもそも、今調べてる記録が俺の過去とどこまで関係してるのかも、まだはっきりしてない」
「うん」
「だから、今は確認できることを確認するだけ」
アイは、少しだけ笑った。
「なんか、前より落ち着いてるね」
「そうか?」
「うん。前だったら、もっと焦ってた気がする」
透は、思わず苦笑した。
「……まあ、焦っても仕方ないって分かったから」
「ふーん」
アイは机のそばに置かれた椅子に座った。
「ねえ、透」
「ん?」
「もし、昔のことが分かったらさ」
「うん」
「それで、今の透が変わっちゃうことってあるのかな」
透は、少し考えた。
「……あるかもしれない」
「そっか」
「自分のことを知ったら、考え方が変わることもあるだろうし。今まで知らなかったことを知って、何かを選び直すこともあると思う」
アイは静かにうなずいた。
「でも」
透は続けた。
「何が分かっても、これまで俺が選んできたことが、全部なかったことになるわけじゃないと思う」
「……うん」
「俺がここに来て、お前と出会って、一緒に話して、今まで過ごしてきた時間は、本当にあったことだから」
アイは、じっと透を見つめていた。
それから、ふっと笑った。
「……そっか」
その笑顔は、いつもの明るい笑顔とは少し違っていた。
何かを安心したような、ほっとしたような。
そんな顔だった。
「じゃあ、私もそう思う」
「何を?」
「私がこれからアイドルになって、いろんな人に会って、いろんなことがあったとしてもさ。今までのことが、全部なくなるわけじゃないって」
アイは、自分の手を見つめた。
「楽しかったことも、失敗したことも、悔しかったことも。全部、私がここまで来た時間だから」
「……うん」
「だから、透もさ。昔のことが分かったら、ちゃんと自分のものにしてね」
透は、彼女を見た。
「自分のもの?」
「うん。誰かが書いた記録とか、誰かが言ったことだけで、透が何者なのか決まるわけじゃないでしょ?」
アイは、まっすぐに言った。
「透が何を考えて、何を選んで、どう生きていくか。それも、透のことを作っていくんだと思う」
透は、何も言えなかった。
その言葉は、今の自分が必要としていたものだった。
記録に書かれた名前。
誰かが知っていた自分の存在。
自分の知らない過去。
それらが、いずれ何かを教えてくれるかもしれない。
けれど、それだけが自分のすべてではない。
自分がこれまでに選んできたことも、これから選ぶことも、自分自身の一部なのだ。
「……ありがとな」
透が言うと、アイは笑った。
「だから、何が?」
「いろいろ」
「また雑!」
アイは、楽しそうに笑った。
そして、立ち上がった。
「あ、そうだ。明日、レッスンの前に自己紹介、もう一回聞いてくれる?」
「いいけど」
「今度はもっと上手くなってるから!」
「期待してるよ」
「うん!」
アイは扉のところで振り返った。
「……透も、明日、何か分かったら教えてね」
「分かった」
「無理はしないこと!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
「よろしい!」
アイは満足そうに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
透は、しばらくその扉を見つめていた。
それから、ノートへ視線を戻す。
自分の名前が書かれた記録。
その名前を書いた人。
そして、その名前を伝えた、まだ正体の分からない人物。
謎は、まだ続いている。
けれど、今の自分には、守りたいものがある。
それは、アイの夢だけではない。
彼女が自分の人生を、自分の意思で選べること。
そして、自分自身も、誰かの言葉や記録にすべてを決められるのではなく、自分の意思で生きていくこと。
透は、ノートの最後に一行を書き加えた。
『過去を知ることと、過去に自分のすべてを決めさせることは違う』
書き終えたあと、ペンを置く。
窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めていた。
明日になれば、また何かが分かるかもしれない。
何も分からないかもしれない。
それでも、進んでいく。
自分の足で。
誰かに急かされることなく。
誰かの思惑にすべてを委ねることなく。
そして、彼女の未来を、自分の知っている物語に閉じ込めることなく。
透は、机の上のスマートフォンを手に取った。
新しい通知はない。
今は、それでよかった。
*
同じ頃。
街のどこかにある、古い事務所の一室。
机の上には、薄い封筒が置かれていた。
表には、かすれた文字で企画名が記されている。
封筒の中には、古いメモが数枚。
その一枚の端に、手書きの名前が残っていた。
黒瀬透。
その文字を見つめる人物が、静かに息を吐いた。
「……ようやく、ここまで来たか」
声は低く、ひどく落ち着いていた。
机の脇には、使い込まれた携帯電話が置かれている。
画面には、送信済みのメッセージが並んでいた。
水瀬と話したこと。
記録に書かれた名前。
そして、まだ残っているもの。
相手がどこまで調べたのか。
何を知り、何を知らないのか。
その人物は、画面を見ながら考えていた。
「……まだ、全部を知る必要はない」
そうつぶやき、携帯電話を伏せる。
封筒の中から、もう一枚の紙を取り出した。
そこには、古い日付と、短い文章が記されていた。
そして、その下に。
別の筆跡で、一行だけ書き加えられている。
『本人に渡す時期については、再確認すること』
その人物は、その文字をしばらく見つめた。
やがて紙を封筒へ戻し、引き出しの奥へしまった。
まだ、渡すべきではない。
少なくとも、今は。
彼が何を知っているのか。
何を信じているのか。
そして、何を選ぶのか。
それを確かめる必要があった。
その人物は、引き出しを閉めた。
静かな部屋に、時計の音だけが響いていた。
古い記録に書かれた名前は、もう一度、誰かの手によって確かめられようとしている。
その名前が、何を意味するのか。
そして、その名前の持ち主が、何を選ぶのか。
答えは、まだ誰にも分からない。
ただひとつ。
記録は、まだ終わっていなかった。
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