翌朝、黒瀬透は、いつもより少し早く目を覚ました。
窓の外は曇っていた。
雨が降るほどではないらしいが、空は薄い灰色に覆われている。昨日までの明るい日差しが嘘のようだった。
透はベッドの上でしばらく天井を見つめ、それから枕元のスマートフォンに手を伸ばした。
通知はない。
昨夜、あのメッセージが届いてから、追加の連絡は来ていなかった。
それが安心につながるかといえば、そうでもない。
相手が何も送ってこないからといって、何もしていないとは限らない。そもそも、相手がこちらの調査をどこまで把握しているのかも分からないのだ。
ただ、昨日までとは違うことがひとつあった。
古い封筒が見つかった。
水瀬が話していた、本人に渡してほしいもの。
その存在を裏付けるような注意書きが、実際の資料に残されていたのだ。
『本人に渡す時期については、再確認すること』
誰が書いたのか。
何を渡そうとしていたのか。
そして、なぜ渡す時期を再確認する必要があったのか。
答えは、まだ分からない。
けれど、今日、その封筒の中身を確認することになっていた。
「……行くしかないか」
透はベッドから起き上がった。
顔を洗い、制服に着替え、鞄を手に取る。
いつもと同じ朝の準備をしながらも、頭の片隅には、ずっとあの封筒のことがあった。
もしかすると、何かが分かるかもしれない。
自分の知らない過去について。
自分がこの世界にいる理由について。
あるいは、そんな大きな話とは何の関係もない、単なる事務的な行き違いについて。
どれも可能性としては残っている。
透は玄関へ向かった。
そこで、ちょうど部屋から出てきたアイと鉢合わせた。
「おはよー」
「おはよ」
アイは大きく伸びをしてから、透の顔をのぞき込んだ。
「……今日、何かあるんだっけ?」
「なんで?」
「顔に書いてある」
「何が?」
「今日は何かあります、って」
「どんな顔だよ」
「こういう顔!」
アイは眉間にしわを寄せ、口をきゅっと結んだ。
どう見ても、何かに怒っている人の顔だった。
「それはただ機嫌が悪い人だろ」
「失礼だな! 真剣な顔って言ってよ!」
「はいはい、真剣な顔」
「絶対思ってない!」
アイは笑いながら、透の肩を軽く叩いた。
それから、少しだけ表情を落ち着かせる。
「……今日、また記録のこと?」
透は一瞬、迷った。
隠す理由はない。
けれど、まだ何も分かっていないことを、わざわざ話す必要があるのかとも思った。
それでも、彼女はすでに自分の事情を知っている。
話せることは話す。
無理に全部をひとりで抱え込まない。
昨日、そう決めたばかりだった。
「うん。昨日見つかった封筒の中身を、今日確認することになった」
「そっか」
「まだ何が入ってるか分からないけどな」
「うん」
アイは少し考えてから、にっと笑った。
「じゃあ、何か分かったら教えてね」
「分かった」
「あと、変なことがあっても、ひとりで突っ走らない!」
「分かってるって」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「よし!」
アイは満足そうにうなずいた。
それから、ふと思い出したように鞄を持ち直した。
「私も今日、次の審査について詳しい説明があるんだ」
「そうなのか?」
「うん。次の審査の日程とか、何をするのかとか。あと、レッスンの予定も正式に決めるんだって」
「いよいよだな」
「ね!」
アイの目が輝いた。
「なんか、急に本当に始まるんだなーって感じがしてきた」
その言葉には、期待と緊張が混ざっていた。
夢を語ることと、夢に向かって実際に進むことは違う。
これまで何度も聞いてきたはずの説明を、今、アイは自分自身の経験として知り始めている。
「緊張してる?」
透が聞くと、アイは少しだけ考えた。
「……してるよ」
いつものように、即座に大丈夫だと笑うのではなかった。
「楽しみだけど、失敗したらどうしようって思うし。ほかの子のほうが上手だったらどうしようとか、私だけできなかったらどうしようとか」
「うん」
「でも、やってみたい」
アイは、まっすぐに言った。
「怖いけど、やってみたいんだよね」
透はうなずいた。
「じゃあ、やってみればいい」
「……うん!」
アイは、ぱっと笑った。
「よーし! 今日も頑張るぞー!」
その声は、廊下の向こうまで響いた。
透は苦笑しながら、彼女と一緒に食堂へ向かった。
彼女は彼女の未来へ進んでいる。
自分も、自分の過去へ向き合おうとしている。
その道がどこかで交わることがあるのだとしても、どちらかが、もう片方の人生を決めてしまう必要はない。
今は、それぞれの場所で、それぞれにできることをする。
透は、そう考えることにした。
*
午前中、アイは事務所へ向かった。
次の審査について、担当者から説明を受けるためだった。
透は学校へ行く前に、施設の職員から今日の予定をもう一度確認された。
「午後、佐伯さんと一緒に資料の確認へ行くことになっているよ」
「はい」
「ただ、今日は学校があるからね。確認は放課後からになる。無理に授業を休む必要はないし、何か分かったとしても、すぐに全部を理解しなければいけないわけじゃない」
「分かってます」
「それならいいんだ」
職員は微笑んだ。
「黒瀬くん。今回のことは気になると思うけれど、学校での生活も大切にしてね。調べることだけが、今のあなたの生活ではないんだから」
透は、少しだけ苦笑した。
「……最近、みんな同じこと言いますね」
「そう?」
「アイにも言われました」
「ああ。いいことじゃないか」
「まあ……そうですけど」
職員は笑った。
「誰かに同じことを言われるのは、あなたがそれだけ心配されているということだよ」
透は返事に困った。
心配されることに慣れていないわけではない。
けれど、自分のことを心配してくれる人がいるという事実を、真正面から受け止めるのは、思った以上に難しい。
今までは、自分が誰かを守る側でいたいと思っていた。
誰かが困っていれば助けたい。
誰かが傷つきそうなら、先回りして危険を取り除きたい。
そうしていれば、自分が何を考えているのか、何に不安を感じているのかを、深く考えずに済んだのかもしれない。
けれど、今は違う。
自分にも分からないことがある。
自分にも怖いものがある。
そして、自分だって、誰かに頼っていい。
「……ありがとうございます」
透が言うと、職員は穏やかにうなずいた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
透は玄関を出た。
空は相変わらず曇っていたが、雨は降っていなかった。
*
午後四時過ぎ。
学校を終えた透は、施設の職員とともに事務所へ向かった。
佐伯はすでに到着していた。
「お疲れさま、黒瀬くん」
「お疲れさまです」
「資料の確認は、先方の保管室で行うことになっています。管理担当の方も立ち会います。内容を確認したうえで、必要なものだけ複写させてもらう予定です」
「分かりました」
「それから、先に伝えておきます。封筒の中に何が入っているかは、まだ分かりません。昨日の注意書きだけで、あなたに関係するものだと決まったわけではありませんから」
「……はい」
「もし関係がなかったとしても、それはそれで確認が進んだことになります。期待しすぎず、ひとつずつ見ていきましょう」
透はうなずいた。
期待しすぎない。
そう自分に言い聞かせていても、心のどこかでは、何かが分かることを願っていた。
それを完全に否定する必要はない。
ただ、期待した答えが出なかったからといって、目の前の事実まで否定しないこと。
それだけは、忘れないようにしよう。
事務所から車で移動すること約二十分。
資料の保管先は、街の中心部から少し離れた場所にある、古い事務所ビルの一室だった。
建物自体は、特別に大きいわけでも、新しいわけでもない。
入口には小さな案内板があり、廊下には長年使われてきたような床の傷が残っていた。
けれど、管理はきちんとされているようだった。
受付で身分を確認し、事前に申請した資料を閲覧するための手続きを済ませる。
そのあと、三人は奥の部屋へ案内された。
室内には、金属製の棚がいくつも並んでいた。
棚には年度ごとのラベルが貼られ、資料の箱が整然と収められている。
部屋の中央には大きな机があり、その上にはすでに一つの箱が置かれていた。
「こちらが、今回確認していただく資料です」
管理担当の男性が説明した。
「企画の実施年度に関連する記録をまとめたものです。原本の状態を確認しながら、必要な部分を閲覧していただきます。撮影や複写については、資料ごとに許可を取ってください」
「ありがとうございます」
佐伯が答えた。
男性は箱の蓋を開けた。
中には、薄いファイルが何冊か入っていた。
企画の概要。
実施日程。
施設との連絡記録。
参加者の同意書。
そして、その一番下に、封筒が一つ。
表には、企画名と年度。
その下に、小さな文字で書かれていた。
『要確認。本人への引き渡しについて、指示待ち』
透は、息を止めた。
見覚えのある文字だった。
昨日、別の資料の写しで確認した注意書きと、同じ文章。
ただし、こちらは紙そのものが古く、インクも少し薄くなっている。
管理担当の男性が、封筒を机の中央へ移した。
「この封筒は、連絡記録と一緒に保管されていました。保管台帳には、内容物について詳しい記載がありません。開封済みかどうかも、明確には分からない状態です」
「……中身を確認してもよろしいでしょうか」
佐伯が尋ねた。
「はい。ただし、原本を傷めないように、こちらで開封作業を行います」
男性は手袋を着け、封筒の状態を確認した。
封はすでに切られていた。
封筒の口には、古いテープの跡が残っている。
慎重に中身を取り出す。
まず出てきたのは、数枚のメモだった。
その次に、小さな紙袋。
そして、最後に。
薄い紙で包まれた、平たいものが出てきた。
「……これは」
佐伯が身を乗り出す。
管理担当の男性は、紙袋と包みを別々に置いた。
「順番に確認しましょう。まず、メモからです」
透は、机の上に並べられた紙を見つめた。
古い手書きのメモ。
その一枚目には、日付と短い文章が記されていた。
『施設からの照会について。本人確認未了。回答保留』
二枚目。
『黒瀬透。本人が施設に来た場合、封筒内の預かり品について再確認すること』
透の喉が、小さく鳴った。
黒瀬透。
自分の名前だった。
しかも、今度は、はっきりと記されている。
本人が施設に来た場合。
預かり品について再確認すること。
これまでの記録よりも、さらに具体的な文章だった。
「……これは、誰が書いたんでしょうか」
透が尋ねると、管理担当の男性は、すぐには答えなかった。
「筆跡の確認が必要です。ただ、連絡記録と同じ担当者が書いた可能性はあります」
「水瀬さん……?」
「その可能性はありますが、断定はできません」
佐伯が補足した。
「先ほどの記録と照合して、確認する必要があります」
透は、メモから目を離せなかった。
本人が施設に来た場合。
その文章は、まるで、誰かが自分がここへ来ることを想定していたかのようだった。
けれど、これだけでは何も決められない。
問い合わせをした人物が、施設に関する情報を持っていたのかもしれない。
あるいは、何らかの手続きのために、名前を確認していたのかもしれない。
ただし。
その人物は、なぜ、わざわざ「本人が施設に来た場合」と書かせたのだろう。
なぜ、預かり品を渡す時期を、後から再確認する必要があったのだろう。
「……次を確認しましょう」
佐伯の声で、透は我に返った。
管理担当の男性は、二枚目のメモを脇へ置いた。
そして、三枚目を取り出した。
そこには、短い文章が記されていた。
『預かり品について、引き渡し先を再確認すること。本人確認ができない場合は、施設職員を通じて対応する』
佐伯が眉を寄せた。
「……施設職員を通じて」
「はい」
管理担当の男性が答えた。
「この文面を見る限り、少なくとも、預かり品を本人に直接渡すことが前提だったわけではなさそうです。本人確認ができない場合の対応として、施設職員を通じるよう指示されています」
透は、ゆっくりと息を吐いた。
誰かが自分に何かを渡そうとしていた。
そのことは、かなり確かなものになった。
ただし、何を渡そうとしていたのかは、まだ分からない。
透は机の上の紙袋を見た。
「……その紙袋の中身は?」
管理担当の男性は、紙袋を持ち上げた。
「こちらも、内容を確認します」
袋の口は、古いテープで留められていた。
男性はテープを傷めないように、慎重に開封した。
中から出てきたのは、薄い布に包まれた小さな箱だった。
手のひらに収まる程度の大きさ。
表面には、何も書かれていない。
箱を開けると、中には小さな金属製のケースが入っていた。
そして、そのケースの中には。
一枚の写真が収められていた。
透は、思わず身を乗り出した。
写真には、古い建物の一室が写っていた。
窓際に小さな机。
壁際に並べられた椅子。
部屋の隅には、子ども向けの絵本が積まれている。
どこかの施設の一室のようだった。
しかし、透には、その場所がどこなのか分からなかった。
「……この写真は?」
佐伯が尋ねる。
「写真自体には、説明書きがありません。裏面を確認してみましょう」
男性が写真を裏返した。
裏には、鉛筆で短い文章が書かれていた。
『最初の約束を忘れないために』
その下に、日付。
そして、さらに下。
小さな文字で、名前が二つ書かれていた。
黒瀬透。
星野アイ。
透は、息を止めた。
目の前の文字が、すぐには理解できなかった。
自分の名前。
そして、アイの名前。
ふたりの名前が、同じ写真の裏に記されている。
しかも、その写真が撮られた日付は、透が施設に来るよりも前のものだった。
「……なんで」
声が、かすれた。
佐伯も、職員も、写真を見つめていた。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
やがて、佐伯が静かに尋ねた。
「黒瀬くん。星野さんの名前に、心当たりはありますか?」
透は、ゆっくりとうなずいた。
「……はい。アイは、今、一緒に暮らしてる友達です」
「この写真の場所に、見覚えは?」
「……ありません」
それは本当だった。
写真に写っている部屋を見ても、何も思い出せない。
知らない場所だった。
少なくとも、透の記憶には存在しない。
けれど、名前だけは知っている。
星野アイ。
自分が守りたいと思っている少女。
自分が知っている物語の中で、どうしても失いたくないと思った人。
その名前が、なぜ、古い写真の裏に書かれているのか。
なぜ、自分の名前と並んでいるのか。
そして、なぜ、その写真が、自分に渡されるはずだったものの中に入っているのか。
透は、頭の中が真っ白になりそうだった。
それでも、無理やりにでも考えなければならない。
今、目の前にあるのは、確かに写真だ。
そこに名前が書かれている。
日付もある。
だが、名前が書かれているからといって、ふたりがその場所にいたとは限らない。
誰かが後から書いた可能性もある。
写真そのものが、別の目的で保管されていた可能性もある。
何より、写真が本当にその日付に撮影されたものなのか、確認されていない。
「……日付を確認できますか?」
透は、ようやくそう尋ねた。
管理担当の男性がうなずいた。
「写真そのものに撮影日時の記録があるわけではありません。裏面の記載だけです。日付が正確かどうかは、別の資料と照合する必要があります」
「……そうですよね」
「この写真については、状態を確認したうえで、複写を作成することは可能です。ただし、原本は引き続き保管します」
「お願いします」
佐伯が答えた。
「写真の裏面も含めて、記録を残していただけますか」
「承知しました」
男性は、写真を慎重にケースへ戻した。
透は、目を離すことができなかった。
黒瀬透。
星野アイ。
最初の約束を忘れないために。
その言葉は、何を意味しているのだろう。
自分とアイの間には、確かに約束がある。
初めて会った頃、ふたりは、これからもたくさん話そうと約束した。
アイが夢を追いかけるようになってからは、自分が彼女の選択を尊重することを約束した。
けれど、その約束は、今の自分たちが出会ってから交わしたものだ。
写真の日付が正しければ、その時点では、透はまだ施設に来ていない。
アイとも、出会っていない。
では、最初の約束とは何なのか。
誰が、何のために書いたのか。
そして、なぜ、ふたりの名前が一緒に記されているのか。
透は、机の下で拳を握った。
怖い。
正直に言えば、怖かった。
これまでの記録は、単に自分の名前が不自然な形で残されているという話だった。
けれど、今度は違う。
自分だけではない。
アイの名前がある。
彼女の知らないところで、彼女の名前が、自分と一緒に記録されていた。
それが、何を意味するのか分からない。
だからこそ、慎重にならなければならなかった。
アイの人生を、自分の謎の一部として扱ってはいけない。
彼女が知らないことを、勝手に彼女の未来と結びつけてはいけない。
写真に名前があるというだけで、彼女の人生に何かの意味を押しつけてはいけない。
「……佐伯さん」
透は、声を絞り出した。
「この写真のこと、アイにも伝えるべきでしょうか」
佐伯は、すぐには答えなかった。
写真の裏面をもう一度確認し、それから透を見た。
「星野さんの名前が書かれている以上、彼女に関係する可能性はあります。ただ、今の段階では、写真の意味が分かっていません」
「……はい」
「だから、まずは資料の状態と、日付、筆跡、保管経緯を確認しましょう。そのうえで、何が分かり、何が分からないのかを整理してから、彼女に説明するのがいいと思います」
透は、少しだけ迷った。
アイに隠したくない。
彼女に関係するかもしれないものが見つかったのなら、知る権利があるのではないか。
けれど、何も分かっていない段階で話せば、彼女を不安にさせてしまうかもしれない。
何より、今の自分は、写真を見たばかりで、冷静に説明できる自信がなかった。
「……分かりました」
透はうなずいた。
「まずは、確認をお願いします」
「もちろんです」
佐伯は、静かに答えた。
「それと、黒瀬くん。今の段階では、この写真が何を意味するのか、私たちにも分かりません。あなたと星野さんの名前があることは事実ですが、それ以上のことは、まだ何も確定していません」
「……はい」
「不安になるのは当然です。でも、写真に書かれた言葉だけで、何かを決めつけないでください」
透は、ゆっくりとうなずいた。
分かっている。
分かっているはずだった。
それでも、頭の中では、さまざまな可能性が浮かんでは消えていた。
自分は、この世界に転生した。
前の人生の記憶を持ったまま、この世界で生きている。
そのことを、誰にも話していない。
話せるはずもない。
もし、誰かがその事実を知っていたとしたら。
もし、誰かが、自分がここに来ることを知っていたとしたら。
それは、一体どういうことなのだろう。
けれど、今の段階で、それを裏付けるものは何もない。
写真に名前が書かれている。
ただ、それだけだ。
透は、目を閉じた。
焦るな。
決めつけるな。
目の前の事実を、ひとつずつ確かめろ。
それが、今の自分にできることだった。
*
資料の確認は、その後も続いた。
写真のほかに、封筒の中からは小さな紙片が数枚見つかった。
そのうちの一枚には、電話の問い合わせについて、短い記録が残されていた。
『本人への引き渡しについて、再度連絡あり』
その下に、別の筆跡で、
『現時点では保留。本人確認ができるまでは、施設職員を通じて対応すること』
と書かれていた。
日付は、最初の問い合わせから数週間後。
つまり、誰かが一度だけ電話をかけてきたわけではなかった。
少なくとも、記録上は、二度目の連絡があったことになる。
「……再度連絡があったんですね」
透が言うと、佐伯がうなずいた。
「はい。これを見る限り、最初の問い合わせのあと、もう一度、連絡があったようです」
「そのとき、何か詳しい話は……」
「残念ながら、ここには書かれていません」
佐伯は、紙片を確認した。
「ただ、最初の記録と同じく、本人確認ができるまでは対応を保留する方針だったようです」
「……じゃあ、結局、その人が誰なのか分からないまま?」
「現時点では、そうです」
透は、ため息をつきそうになった。
少しずつ、何かが分かってきている。
けれど、そのたびに、新しい疑問が生まれる。
電話をかけてきた人物は、二度も連絡をしている。
自分に何かを渡すことを、諦めていなかったのだろうか。
それとも、何かの確認が必要だったのだろうか。
そして、二度目の連絡のあとも、品物は渡されなかった。
なぜだろう。
「……この後、もう一度連絡があった記録はありますか?」
佐伯が管理担当の男性に尋ねた。
「現時点で確認できる資料には、これ以降の記録はありません。ただし、当時の電話記録そのものが残っているわけではないので、これで最後だったと断定することもできません」
「分かりました。引き続き、関連資料を確認していただけますか」
「承知しました」
透は、机の上の紙片を見つめた。
この記録が残されているということは、少なくとも、誰かが内容を確認し、対応を考えていたということだ。
ただのいたずらだったのか。
何かの手続きに関することだったのか。
それとも、別の目的があったのか。
それを知るためには、電話をかけてきた人物の正体を確かめる必要がある。
だが、その人物の名前は、どこにも残っていなかった。
「……何も分からないですね」
透がつぶやくと、佐伯は首を横に振った。
「いいえ。分かったことはあります」
「……何ですか?」
「この記録が、一度きりの書き間違いではない可能性が高くなったことです」
佐伯は、二枚のメモを並べた。
「最初の問い合わせ。再度の問い合わせ。そして、本人への引き渡しを保留する指示。これらが同じ件について書かれたものなら、少なくとも、当時の担当者たちは、この件を継続して確認する必要があると考えていたことになります」
透は、ゆっくりとうなずいた。
「……確かに」
「それから、もうひとつ。写真の保管についてです」
佐伯は、管理担当の男性を見た。
「こちらの資料には、写真を封筒に入れた人物について、何か記録が残っていませんか?」
「少しお待ちください」
男性は、別のファイルを開いた。
保管台帳を確認し、何枚かの紙をめくる。
やがて、ひとつの記載を見つけたようだった。
「……ありました」
透は顔を上げた。
「何が書いてあるんですか?」
「封筒の保管を開始した時期についてです。こちらの記載では、企画の実施後、一定期間が経過した時点で、関連する資料をまとめて保管したことになっています」
「そのとき、誰がまとめたんでしょうか」
「担当者名は……」
男性は、文字を確認した。
「水瀬さんの名前があります」
透は、息を吐いた。
水瀬。
やはり、彼女が関わっていたのだ。
ただし、それは、彼女が写真の内容を知っていたことを意味しない。
資料を整理した人と、写真を入れた人が同じとは限らない。
保管するよう指示されたから、封筒をまとめた可能性もある。
それでも、確認するべきことは増えた。
水瀬は、この写真を見たことがあるのだろうか。
裏面に書かれたふたつの名前を、覚えているのだろうか。
そして、最初の電話の相手が言っていた「渡してほしいもの」とは、この写真のことだったのだろうか。
「……水瀬さんに、もう一度話を聞く必要がありますね」
透が言うと、佐伯はうなずいた。
「そうですね。ただし、写真の内容を確認したうえで、改めて正式にお願いしましょう」
「お願いします」
「それから、黒瀬くん」
佐伯は、少しだけ表情を和らげた。
「今日は、ここまでにしましょう。資料の確認は、まだ終わっていません。ほかにも関連するものが見つかる可能性がありますが、今すぐすべてを調べることはできません」
透は、机の上に並べられた資料を見た。
まだ、分からないことばかりだ。
それでも、今日の確認で、確かな事実が増えた。
自分の名前だけではない。
アイの名前も、同じ写真の裏に残されていた。
その写真は、本人に渡すためのものだった可能性がある。
そして、その引き渡しは、何らかの理由で保留されたままになっていた。
それが、今日まで続いている。
そう考えると、妙な感覚がした。
自分は、ずっと物語の先を知っているつもりでいた。
アイがどんな未来を迎えるのか。
どんな道を歩いていくのか。
その大まかな流れを知っているからこそ、彼女を救うことができると思っていた。
けれど、今、自分が見ている記録は、その知識の外側にある。
自分の知らない出来事。
自分の知らない人間関係。
自分の知らない過去。
それらが、確かにこの世界に存在している。
この世界は、自分が知っている物語だけでできているわけではない。
その当たり前のことを、透は改めて思い知らされていた。
*
事務所を出た頃には、空が少し暗くなっていた。
雨は降っていない。
けれど、風が強くなっていた。
透は佐伯たちと別れ、施設へ戻る車に乗り込んだ。
窓の外を流れる景色を見ながら、今日見た写真のことを考える。
小さな部屋。
机と椅子。
絵本。
そして、裏に書かれたふたつの名前。
黒瀬透。
星野アイ。
最初の約束を忘れないために。
何度考えても、その意味は分からなかった。
ただ、ひとつ気になることがあった。
写真に写っていた部屋は、どこかの施設の一室のようだった。
もし、あの部屋が、今自分たちが暮らしている施設に関係する場所だったら。
もし、写真が撮られた日付が正確だったら。
そして、もし、誰かが本当に自分とアイに関係するものとして、写真を残していたのだとしたら。
それは、どういうことなのだろう。
透は、窓に映る自分の顔を見た。
今すぐ、施設に戻って、アイにすべて話したい。
彼女の名前があったこと。
自分の名前と並んでいたこと。
その写真が、本人に渡すためのものだった可能性があること。
けれど、まだ、話せることと話せないことがある。
今の段階で、彼女に伝えれば、きっと不安にさせてしまう。
何より、自分自身が、まだ何も理解できていない。
それでも、隠し続けるつもりはなかった。
確認が進んだら、話そう。
彼女の名前が記録にあったことを、彼女自身が知るべきだと判断したなら。
そのときは、彼女の気持ちを聞きながら、どうするかを一緒に考えよう。
自分ひとりで、彼女のためだと決めつけない。
その約束を、守ろう。
透は、目を閉じた。
車が施設に到着するまでの間、彼は一度もスマートフォンを開かなかった。
*
施設に戻ると、食堂から明るい声が聞こえてきた。
「だからね、先生が、ここはもっと自分の声を信じていいって!」
「へえ、よかったじゃない」
「でしょ! 私、ちゃんと上手くなってるんだって!」
アイの声だった。
透は、食堂の入口で立ち止まった。
アイは職員と話していた。
手には、レッスンで使ったらしい紙が握られている。
その表情は、朝よりもずっと明るかった。
「透!」
アイがこちらに気づき、手を振った。
「おかえり!」
「ただいま」
「ねえ、聞いて聞いて!」
「何?」
「今日のレッスン、先生に褒められたんだよ!」
「朝も聞いた気がするけど」
「朝よりもっと詳しい話!」
アイは、紙を広げた。
「次の審査、歌だけじゃなくて、簡単な受け答えもあるんだって。だから、歌が上手いだけじゃなくて、自分が何を考えてるのか、ちゃんと話せることも大事なんだって!」
「なるほどな」
「それでね、私、今日の練習で、自分がどうしてアイドルになりたいのか、もう一回考えてみたの」
透は、彼女を見た。
「……何か分かった?」
「うん!」
アイは笑った。
「やっぱり、たくさんの人に笑ってほしいんだなって」
その言葉は、以前にも聞いたことがある。
けれど、今日のアイは、少し違う顔をしていた。
「でも、前は、みんなを笑顔にしなきゃって思ってたんだよね。私が笑わせなきゃ、みんなが楽しめるようにしなきゃ、って」
アイは、紙を持つ手を少し下げた。
「でも、先生と話してて思ったの。私が楽しいと思えることも、大事なんだなって」
「……うん」
「私が歌うのが好きで、踊るのが好きで、ステージに立ちたいと思ってるから、そこから始まるんだよね」
透は、静かにうなずいた。
それは、とても大切なことだった。
彼女は、誰かを笑顔にするためにアイドルになりたいと思っている。
けれど、そのために自分自身を犠牲にする必要はない。
自分が楽しいと思うこと。
自分がやりたいと思うこと。
それを大切にしながら、誰かを笑顔にすることだってできる。
「……いいじゃん」
透は言った。
「アイらしいと思う」
「ほんと?」
「うん」
アイは、照れくさそうに笑った。
「えへへ。じゃあ、次の審査も頑張らないとね!」
「応援してる」
「うん!」
アイは、元気よくうなずいた。
その笑顔を見ていると、透の胸の中にあった重たいものが、少しだけ軽くなった。
今日見つかった写真は、まだ何も説明してくれない。
けれど、目の前にいるアイは、自分の夢について、自分の言葉で話している。
その夢は、誰かが古い紙に書いた文字によって決まるものではない。
彼女自身が考え、選び、進んでいくものだ。
透は、そのことを忘れないようにしようと思った。
*
夕食のあと、透は職員から呼ばれた。
事務室に入ると、佐伯から連絡があったことを伝えられた。
「今日の資料について、いくつか確認できたことがあるそうだよ」
「……何か分かったんですか?」
「写真の保管について、もう少し詳しい記録が見つかったらしい」
職員は、メモを見ながら説明した。
「封筒が保管されたとき、関連資料を整理した担当者が、水瀬さんだけではなかった可能性があるそうだ。別の職員が、封筒の中身を確認したという記録が残っているらしい」
「別の職員……?」
「うん。ただし、名前の一部が読めなくなっているので、今はまだ特定できていない。明日、当時の勤務記録と照合するそうだよ」
透は、少し考え込んだ。
水瀬が写真を入れたとは限らない。
別の誰かが、写真を封筒に入れた可能性がある。
そして、その人物が、写真の裏に書かれたふたつの名前を知っていたのかもしれない。
「……その人は、今も生きているんでしょうか」
透は、思わずそう尋ねていた。
職員は少し驚いたように目を上げた。
「それは、まだ分からないよ。記録を確認してみないとね」
「……そうですよね。すみません」
「謝らなくていいよ」
職員は穏やかに笑った。
「気になることが増えるのは当然だ。でも、分からないことは、分からないままでいいんだよ。無理に答えを出そうとしなくていい」
透は、うなずいた。
分からないままでいい。
その言葉を、何度も聞いている気がした。
けれど、今の自分には、その言葉が必要だった。
自分は、ずっと答えを求めていた。
アイの未来を変えたいと思った。
彼女が失われる結末を避けたいと思った。
そのためには、すべてを知っていなければならないと考えていた。
何が起きるのか。
誰が関わるのか。
どうすれば防げるのか。
けれど、未来のすべてを知ることなどできない。
過去のすべてを知ることだって、簡単ではない。
それでも、今できることはある。
目の前にいる人の話を聞くこと。
分からないことを、分からないと認めること。
そして、分からないままでも、必要なときに手を差し伸べること。
透は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「うん。今日は、ゆっくり休んでね」
「はい」
透は事務室を出た。
廊下の窓から、夜の空が見えた。
雲の切れ間に、小さな星がひとつだけ光っている。
その光を見ながら、透は思った。
明日になれば、また何かが分かるかもしれない。
何も分からないかもしれない。
それでも、今夜は眠ろう。
自分の過去を知ることも大切だ。
けれど、明日を迎えるために、今日を生きることも大切なのだから。
*
その夜遅く。
透のスマートフォンが、机の上で震えた。
彼はすでにベッドに入っていたが、音に気づいて目を開けた。
画面には、知らない番号からのメッセージが表示されている。
『写真を見たんだね』
透は、しばらく画面を見つめた。
まただ。
どうして、相手は知っているのだろう。
今日、自分たちが写真を確認したことを。
その写真に、どんな名前が書かれていたのかを。
透は、スマートフォンを手に取った。
返信はしない。
まず、メッセージを保存する。
そのあと、佐伯に連絡する。
そう決めていた。
けれど、次のメッセージが届いた。
『裏に書かれた言葉を、読んだはずだ』
透の指が止まった。
『最初の約束を忘れないために』
相手は、その文章まで知っている。
偶然ではないのかもしれない。
少なくとも、写真について何らかの情報を持っている可能性が高い。
透は、息を吸った。
そして、画面を保存した。
その直後、さらに一通。
『その約束をしたのは、君ではない』
透は、目を見開いた。
何度も、文章を読み返す。
その約束をしたのは、君ではない。
どういう意味だ。
自分ではない誰かが、黒瀬透という名前で、アイと約束をしたということなのか。
それとも、写真に書かれた名前は、今の自分とは別の誰かを指しているのか。
あるいは、相手が意図的に混乱させようとしているだけなのか。
考えが、まとまらない。
けれど、ひとつだけ分かった。
相手は、ただ記録の存在を知っているだけではない。
写真の裏に書かれた言葉について、何かを知っている。
透は、メッセージを佐伯に転送した。
そして、スマートフォンを机に置いた。
今すぐ答えを聞きたい。
相手に問い詰めたい。
どういう意味なのか。
誰が約束をしたのか。
なぜ、自分ではないと言い切れるのか。
けれど、返信はしなかった。
相手が答えることを望んでいるのかどうかさえ、分からない。
もしかすると、こちらを焦らせることが目的なのかもしれない。
自分が動揺し、勝手に調べ始めることを期待しているのかもしれない。
ならば、その期待には応えない。
透は、目を閉じた。
写真に書かれた名前。
自分の名前と、アイの名前。
最初の約束を忘れないために。
その約束をしたのは、君ではない。
言葉が、頭の中をぐるぐると回る。
それでも、透は、ひとつのことだけは決めていた。
明日、佐伯たちと相談する。
水瀬にもう一度話を聞く。
写真を保管した人物を特定する。
そして、写真の裏に書かれた言葉が何を意味するのか、確かめる。
自分ひとりで答えを出すことはしない。
アイの名前が関係しているからこそ、慎重に進める。
彼女の人生を、誰かの言葉だけで決めさせないために。
そして、自分自身の人生も。
透は、スマートフォンを伏せた。
窓の外は、もう真っ暗だった。
明日、何が分かるのかは分からない。
けれど、今度は、ただ不安に飲み込まれるだけでは終わらない。
自分には、確かめるべきことがある。
そして、守りたいものがある。
そのために、今できることを、ひとつずつ進めていこう。
透は、ゆっくりと目を閉じた。
眠りにつく直前、最後に思い浮かんだのは、写真の裏に書かれたふたつの名前だった。
黒瀬透。
星野アイ。
そのふたつの名前が、何を意味するのか。
答えは、まだ見えない。
けれど、もう、ただの古い記録では済まされなかった。
誰かが、ふたりの名前を残した。
誰かが、何かを渡そうとした。
そして、誰かが、今もその意味を知っている。
記録の向こう側には、まだ、知らない誰かがいる。
その人物にたどり着いたとき、透は何を知ることになるのだろう。
そして、その真実は、彼が守ろうとしている未来を変えるのだろうか。
それとも。
彼がこれまで信じてきた「未来」そのものを、問い直すことになるのだろうか。
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