星野アイは、困っている人を放っておけない。
それが、彼女と過ごす日々の中で、俺が新しく知ったことだった。
小さな子が転べば真っ先に駆け寄る。
誰かが職員に叱られていれば、さりげなく話題を変えて場を和ませる。
自分が遊びたいときでも、誰かに頼まれれば嫌な顔ひとつせず手伝う。
もちろん、彼女だっていつも機嫌がいいわけではない。
面倒くさそうに頬を膨らませることもあるし、気に入らないことがあれば、ちゃんと文句も言う。
それでも最後には、たいてい笑って引き受けてしまうのだ。
「アイちゃんって、ほんと優しいよね」
ある日、年下の女の子がそう言った。
アイは得意げに胸を張る。
「でしょー? もっと褒めてもいいんだよ?」
「えへへ、アイちゃん大好き!」
「わっ、ちょっと! くすぐったいってば!」
二人はそのまま笑い合った。
少し離れた場所から見ていた俺は、なんとなく胸の奥がざわつくのを感じた。
彼女は、優しい。
それは間違いない。
けれど。
――どうして、そこまでして笑うんだろう。
そんな疑問が、最近は頭から離れなかった。
*
その日、施設の職員から頼まれたのは、近くの商店まで日用品を買いに行くことだった。
俺とアイ、それから年下の子が二人。
いつもなら職員が付き添うのだが、急な仕事が入ったらしく、近所への短い買い物なら俺たちに任せたいとのことだった。
「はーい! 任せてください!」
アイは元気よく返事をした。
「透くんもいるし、余裕余裕!」
「なんで俺がいると余裕なんだよ」
「え? だって透くん、しっかりしてるじゃん!」
「……そうか?」
「うん!」
即答だった。
そんなにしっかりしているつもりはないのだが。
俺が首を傾げていると、アイは楽しそうに笑った。
「じゃ、行こっか!」
外に出ると、空はよく晴れていた。
商店までは歩いて十分ほど。
道も何度か通ったことがあるらしく、アイは慣れた様子で先を歩いていた。
「こらこら、走らないの!」
少し前を走り出した子どもたちに声をかける。
「車が来たら危ないでしょ?」
「はーい!」
子どもたちは素直に返事をした。
アイは満足そうにうなずく。
その横顔を見て、俺は小さく息を吐いた。
やっぱり、面倒見がいい。
誰かを気遣うことが、彼女にとっては当たり前なのだろう。
だからこそ、気になってしまう。
彼女自身は、誰かに気遣ってもらうことがあるのだろうか。
そんなことを考えていた、そのときだった。
「あっ!」
前を歩いていた女の子が、突然立ち止まった。
手に持っていた小さな財布が、ない。
「お財布……!」
顔色が変わった女の子に、アイがすぐに駆け寄った。
「えっ、どこかで落としちゃった?」
「わかんない……!」
女の子の目に涙が浮かぶ。
財布には、施設から預かった買い物用のお金が入っていた。
なくしてしまったとなれば、本人も怖いだろう。
「大丈夫だよ!」
アイはすぐに笑った。
「みんなで探せば見つかるって!」
そう言って、来た道を戻り始めた。
俺も一緒に探した。
道端や、立ち寄った店の前。
女の子が歩いた場所を順番に確認していく。
けれど、財布はなかなか見つからなかった。
「ごめんなさい……」
女の子が、とうとう泣き出した。
「私がちゃんと持ってなかったから……」
「そんなことないよ!」
アイはすぐにしゃがみ込み、女の子の目線に合わせた。
「誰だって、うっかりすることくらいあるもん!」
「でも……」
「でもじゃないの!」
少しだけ強い声。
女の子がびくっと肩を揺らすと、アイは慌てて表情を和らげた。
「あっ、ごめんね。怒ってるわけじゃないよ?」
頭を優しく撫でる。
「一緒に探そ。ね?」
女の子は、こくんとうなずいた。
俺はその様子を見ながら、何か引っかかるものを感じていた。
アイは、女の子を安心させることばかり考えている。
自分がどうしたいかよりも、相手がどう感じるかを優先している。
それ自体は悪いことじゃない。
けれど、さっきの強い声。
あれは、女の子を責めたかったからじゃない。
たぶん、彼女自身が焦っていたのだ。
どうにかしなきゃ。
どうにかして、この子を安心させなきゃ。
そう思っていたのではないか。
……俺の考えすぎかもしれない。
そう思った直後。
「あっ、あった!」
アイの声が響いた。
道路脇の植え込みの近く。
小さな財布が、草の陰に落ちていた。
「よかったぁ……!」
女の子は財布を受け取ると、何度も頭を下げた。
「アイちゃん、ありがとう!」
「ううん! 見つかってよかったね!」
アイは笑った。
いつもどおりの、明るい笑顔だった。
女の子がほっとした表情になる。
それを見て、アイも安心したように息を吐いた。
その瞬間。
彼女の顔から、ほんの一瞬だけ笑顔が消えた。
俺は、それを見逃さなかった。
*
帰り道。
年下の二人は、財布が見つかったことで元気を取り戻していた。
アイはその少し前を歩き、二人の話に相槌を打っている。
俺は、彼女の隣に並んだ。
「……アイ」
「んー?」
「さっき、焦ってただろ」
彼女の足が、ほんの少しだけ止まった。
「え? なにが?」
「財布をなくしたとき」
「あー! そりゃ焦るよ! お金なくなったら大変だもん!」
笑いながら答える。
いつもの調子だった。
「それだけ?」
「それだけって?」
「……いや」
俺は言葉を選んだ。
「なんか、自分のことみたいに必死だったから」
アイは、きょとんとした。
それから、くすっと笑った。
「だって、あの子が困ってたんだよ?」
「それは分かるけど」
「じゃあ、いいじゃん!」
彼女は軽い調子で言った。
「困ってる子がいたら助ける。それだけ!」
それだけ。
確かに、彼女の言うとおりなのかもしれない。
でも俺は、どうしても気になった。
「アイはさ、自分が困ったときも、誰かに頼るの?」
問いかけた瞬間。
彼女の笑顔が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど今度は、見間違いではなかった。
「……え?」
アイは俺を見た。
その瞳に浮かんでいたのは、驚きだった。
それから、すぐに笑った。
「なにそれ! 急にどうしたの?」
「いや、別に……」
「私は大丈夫だよ!」
明るい声。
迷いのない言葉。
あまりにも早い返事だった。
「ほら、私って結構しっかりしてるし? 自分のことくらい、自分で何とかできるって!」
そう言って、彼女は笑った。
その笑顔を見た瞬間、俺は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
――大丈夫。
その言葉を、俺は知っている。
誰かに心配されたくないとき。
弱いところを見せたくないとき。
本当は大丈夫じゃないのに、そう言ってしまうとき。
人は、そんな言葉を口にする。
もちろん、アイが本当に大丈夫なのかもしれない。
俺には、彼女の心の中を覗くことなんてできない。
でも。
どうして、そんなに急いで答えたんだろう。
どうして、笑ったんだろう。
「……そっか」
俺は、それ以上聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
彼女が話したくないのなら、無理に聞き出すべきではない。
そう思った。
けれど、同時に。
俺は彼女を救うと決めたはずなのに、こんな簡単な問いかけひとつで立ち止まってしまう自分が、ひどく情けなかった。
*
施設に戻ったあと、アイはいつもどおりだった。
子どもたちと遊び、職員に買い物の報告をし、夕食の準備を手伝った。
俺にも、何度も話しかけてきた。
「透くん、これ運んで!」
「透くん、今日のご飯なにかな?」
「ねえ、聞いてるー?」
何も変わらない。
俺がさっきのことを気にしすぎているだけなのかもしれない。
そう思い始めた頃。
夕食後、廊下でアイと二人きりになった。
「ねえ、透くん」
「ん?」
「今日さ、変なこと聞いたよね」
心臓が跳ねた。
「……変なこと?」
「ほら。私が困ったとき、誰かに頼るのかって」
彼女は笑っていた。
でも、昼間のような明るさとは少し違った。
どこか、探るような笑顔だった。
「なんで、そんなこと聞いたの?」
俺は答えられなかった。
彼女を救いたいから。
未来を知っているから。
いつか彼女が、誰にも助けを求められないまま、悲劇に巻き込まれることを知っているから。
そんなこと、言えるはずがなかった。
「……気になっただけ」
結局、そう答えることしかできなかった。
アイは俺を見つめていた。
しばらくして、ふっと笑う。
「そっか」
それから、少しだけ首を傾げた。
「透くんって、変わってるね」
「よく言われる」
「えー、そうなの?」
「いや、今初めて言われた」
「なにそれ!」
彼女は声を上げて笑った。
俺も、少しだけ笑った。
いつもの空気に戻ったような気がした。
けれど、アイはそのあと、小さな声で付け足した。
「……でも、ありがとね」
「え?」
「心配してくれたんでしょ?」
俺は、言葉を失った。
彼女は俺の返事を待たずに、ぱっと笑顔を作った。
「じゃ、おやすみー!」
軽い足取りで廊下を歩いていく。
その背中を、俺はただ見送った。
心配してくれたんでしょ。
そう言った彼女の声は、いつもより少しだけ小さかった。
あれは、本当に感謝だったのだろうか。
それとも。
誰かに心配されることに、慣れていなかったのだろうか。
答えは分からない。
分からないけれど、ひとつだけ確かなことがあった。
俺は、星野アイのことを何も知らない。
彼女がどんな過去を持っているのかも。
何を怖がっているのかも。
どんなときに、本当に笑っているのかも。
俺は、何も知らない。
知っているのは、彼女がたどるはずだった未来だけだ。
そして、その未来を知っているということは、彼女の心を理解しているということにはならない。
むしろ、知っているつもりになってしまうことが、一番危険なのかもしれなかった。
俺は廊下の窓から、夜空を見上げた。
星は、いくつも輝いていた。
その中に、彼女の瞳に似た星があるような気がした。
けれど、どれだけ目を凝らしても、俺にはその星の本当の輝きなんて分からない。
遠くから見ているだけでは、何も分からないのだ。
だから、少しずつ知っていこう。
彼女が話してくれることを。
彼女が話したくないことも。
そして、いつか彼女自身が助けを求めてくれたなら。
そのときは、迷わず手を伸ばせるように。
――ただ、そのときの俺はまだ知らなかった。
星野アイが、誰かに助けを求めることを、どれほど難しいと感じているのか。
そして、彼女が俺に本当の気持ちを見せるまでには、まだ長い時間が必要なのだということを。