星野アイに嘘をつかなくていい日を   作:M1tarash1

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03.大丈夫

 星野アイは、困っている人を放っておけない。

 

 それが、彼女と過ごす日々の中で、俺が新しく知ったことだった。

 

 小さな子が転べば真っ先に駆け寄る。

 

 誰かが職員に叱られていれば、さりげなく話題を変えて場を和ませる。

 

 自分が遊びたいときでも、誰かに頼まれれば嫌な顔ひとつせず手伝う。

 

 もちろん、彼女だっていつも機嫌がいいわけではない。

 

 面倒くさそうに頬を膨らませることもあるし、気に入らないことがあれば、ちゃんと文句も言う。

 

 それでも最後には、たいてい笑って引き受けてしまうのだ。

 

「アイちゃんって、ほんと優しいよね」

 

 ある日、年下の女の子がそう言った。

 

 アイは得意げに胸を張る。

 

「でしょー? もっと褒めてもいいんだよ?」

 

「えへへ、アイちゃん大好き!」

 

「わっ、ちょっと! くすぐったいってば!」

 

 二人はそのまま笑い合った。

 

 少し離れた場所から見ていた俺は、なんとなく胸の奥がざわつくのを感じた。

 

 彼女は、優しい。

 

 それは間違いない。

 

 けれど。

 

 ――どうして、そこまでして笑うんだろう。

 

 そんな疑問が、最近は頭から離れなかった。

 

 *

 

 その日、施設の職員から頼まれたのは、近くの商店まで日用品を買いに行くことだった。

 

 俺とアイ、それから年下の子が二人。

 

 いつもなら職員が付き添うのだが、急な仕事が入ったらしく、近所への短い買い物なら俺たちに任せたいとのことだった。

 

「はーい! 任せてください!」

 

 アイは元気よく返事をした。

 

「透くんもいるし、余裕余裕!」

 

「なんで俺がいると余裕なんだよ」

 

「え? だって透くん、しっかりしてるじゃん!」

 

「……そうか?」

 

「うん!」

 

 即答だった。

 

 そんなにしっかりしているつもりはないのだが。

 

 俺が首を傾げていると、アイは楽しそうに笑った。

 

「じゃ、行こっか!」

 

 外に出ると、空はよく晴れていた。

 

 商店までは歩いて十分ほど。

 

 道も何度か通ったことがあるらしく、アイは慣れた様子で先を歩いていた。

 

「こらこら、走らないの!」

 

 少し前を走り出した子どもたちに声をかける。

 

「車が来たら危ないでしょ?」

 

「はーい!」

 

 子どもたちは素直に返事をした。

 

 アイは満足そうにうなずく。

 

 その横顔を見て、俺は小さく息を吐いた。

 

 やっぱり、面倒見がいい。

 

 誰かを気遣うことが、彼女にとっては当たり前なのだろう。

 

 だからこそ、気になってしまう。

 

 彼女自身は、誰かに気遣ってもらうことがあるのだろうか。

 

 そんなことを考えていた、そのときだった。

 

「あっ!」

 

 前を歩いていた女の子が、突然立ち止まった。

 

 手に持っていた小さな財布が、ない。

 

「お財布……!」

 

 顔色が変わった女の子に、アイがすぐに駆け寄った。

 

「えっ、どこかで落としちゃった?」

 

「わかんない……!」

 

 女の子の目に涙が浮かぶ。

 

 財布には、施設から預かった買い物用のお金が入っていた。

 

 なくしてしまったとなれば、本人も怖いだろう。

 

「大丈夫だよ!」

 

 アイはすぐに笑った。

 

「みんなで探せば見つかるって!」

 

 そう言って、来た道を戻り始めた。

 

 俺も一緒に探した。

 

 道端や、立ち寄った店の前。

 

 女の子が歩いた場所を順番に確認していく。

 

 けれど、財布はなかなか見つからなかった。

 

「ごめんなさい……」

 

 女の子が、とうとう泣き出した。

 

「私がちゃんと持ってなかったから……」

 

「そんなことないよ!」

 

 アイはすぐにしゃがみ込み、女の子の目線に合わせた。

 

「誰だって、うっかりすることくらいあるもん!」

 

「でも……」

 

「でもじゃないの!」

 

 少しだけ強い声。

 

 女の子がびくっと肩を揺らすと、アイは慌てて表情を和らげた。

 

「あっ、ごめんね。怒ってるわけじゃないよ?」

 

 頭を優しく撫でる。

 

「一緒に探そ。ね?」

 

 女の子は、こくんとうなずいた。

 

 俺はその様子を見ながら、何か引っかかるものを感じていた。

 

 アイは、女の子を安心させることばかり考えている。

 

 自分がどうしたいかよりも、相手がどう感じるかを優先している。

 

 それ自体は悪いことじゃない。

 

 けれど、さっきの強い声。

 

 あれは、女の子を責めたかったからじゃない。

 

 たぶん、彼女自身が焦っていたのだ。

 

 どうにかしなきゃ。

 

 どうにかして、この子を安心させなきゃ。

 

 そう思っていたのではないか。

 

 ……俺の考えすぎかもしれない。

 

 そう思った直後。

 

「あっ、あった!」

 

 アイの声が響いた。

 

 道路脇の植え込みの近く。

 

 小さな財布が、草の陰に落ちていた。

 

「よかったぁ……!」

 

 女の子は財布を受け取ると、何度も頭を下げた。

 

「アイちゃん、ありがとう!」

 

「ううん! 見つかってよかったね!」

 

 アイは笑った。

 

 いつもどおりの、明るい笑顔だった。

 

 女の子がほっとした表情になる。

 

 それを見て、アイも安心したように息を吐いた。

 

 その瞬間。

 

 彼女の顔から、ほんの一瞬だけ笑顔が消えた。

 

 俺は、それを見逃さなかった。

 

 *

 

 帰り道。

 

 年下の二人は、財布が見つかったことで元気を取り戻していた。

 

 アイはその少し前を歩き、二人の話に相槌を打っている。

 

 俺は、彼女の隣に並んだ。

 

「……アイ」

 

「んー?」

 

「さっき、焦ってただろ」

 

 彼女の足が、ほんの少しだけ止まった。

 

「え? なにが?」

 

「財布をなくしたとき」

 

「あー! そりゃ焦るよ! お金なくなったら大変だもん!」

 

 笑いながら答える。

 

 いつもの調子だった。

 

「それだけ?」

 

「それだけって?」

 

「……いや」

 

 俺は言葉を選んだ。

 

「なんか、自分のことみたいに必死だったから」

 

 アイは、きょとんとした。

 

 それから、くすっと笑った。

 

「だって、あの子が困ってたんだよ?」

 

「それは分かるけど」

 

「じゃあ、いいじゃん!」

 

 彼女は軽い調子で言った。

 

「困ってる子がいたら助ける。それだけ!」

 

 それだけ。

 

 確かに、彼女の言うとおりなのかもしれない。

 

 でも俺は、どうしても気になった。

 

「アイはさ、自分が困ったときも、誰かに頼るの?」

 

 問いかけた瞬間。

 

 彼女の笑顔が止まった。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 けれど今度は、見間違いではなかった。

 

「……え?」

 

 アイは俺を見た。

 

 その瞳に浮かんでいたのは、驚きだった。

 

 それから、すぐに笑った。

 

「なにそれ! 急にどうしたの?」

 

「いや、別に……」

 

「私は大丈夫だよ!」

 

 明るい声。

 

 迷いのない言葉。

 

 あまりにも早い返事だった。

 

「ほら、私って結構しっかりしてるし? 自分のことくらい、自分で何とかできるって!」

 

 そう言って、彼女は笑った。

 

 その笑顔を見た瞬間、俺は胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 

 ――大丈夫。

 

 その言葉を、俺は知っている。

 

 誰かに心配されたくないとき。

 

 弱いところを見せたくないとき。

 

 本当は大丈夫じゃないのに、そう言ってしまうとき。

 

 人は、そんな言葉を口にする。

 

 もちろん、アイが本当に大丈夫なのかもしれない。

 

 俺には、彼女の心の中を覗くことなんてできない。

 

 でも。

 

 どうして、そんなに急いで答えたんだろう。

 

 どうして、笑ったんだろう。

 

「……そっか」

 

 俺は、それ以上聞けなかった。

 

 聞いてはいけない気がした。

 

 彼女が話したくないのなら、無理に聞き出すべきではない。

 

 そう思った。

 

 けれど、同時に。

 

 俺は彼女を救うと決めたはずなのに、こんな簡単な問いかけひとつで立ち止まってしまう自分が、ひどく情けなかった。

 

 *

 

 施設に戻ったあと、アイはいつもどおりだった。

 

 子どもたちと遊び、職員に買い物の報告をし、夕食の準備を手伝った。

 

 俺にも、何度も話しかけてきた。

 

「透くん、これ運んで!」

 

「透くん、今日のご飯なにかな?」

 

「ねえ、聞いてるー?」

 

 何も変わらない。

 

 俺がさっきのことを気にしすぎているだけなのかもしれない。

 

 そう思い始めた頃。

 

 夕食後、廊下でアイと二人きりになった。

 

「ねえ、透くん」

 

「ん?」

 

「今日さ、変なこと聞いたよね」

 

 心臓が跳ねた。

 

「……変なこと?」

 

「ほら。私が困ったとき、誰かに頼るのかって」

 

 彼女は笑っていた。

 

 でも、昼間のような明るさとは少し違った。

 

 どこか、探るような笑顔だった。

 

「なんで、そんなこと聞いたの?」

 

 俺は答えられなかった。

 

 彼女を救いたいから。

 

 未来を知っているから。

 

 いつか彼女が、誰にも助けを求められないまま、悲劇に巻き込まれることを知っているから。

 

 そんなこと、言えるはずがなかった。

 

「……気になっただけ」

 

 結局、そう答えることしかできなかった。

 

 アイは俺を見つめていた。

 

 しばらくして、ふっと笑う。

 

「そっか」

 

 それから、少しだけ首を傾げた。

 

「透くんって、変わってるね」

 

「よく言われる」

 

「えー、そうなの?」

 

「いや、今初めて言われた」

 

「なにそれ!」

 

 彼女は声を上げて笑った。

 

 俺も、少しだけ笑った。

 

 いつもの空気に戻ったような気がした。

 

 けれど、アイはそのあと、小さな声で付け足した。

 

「……でも、ありがとね」

 

「え?」

 

「心配してくれたんでしょ?」

 

 俺は、言葉を失った。

 

 彼女は俺の返事を待たずに、ぱっと笑顔を作った。

 

「じゃ、おやすみー!」

 

 軽い足取りで廊下を歩いていく。

 

 その背中を、俺はただ見送った。

 

 心配してくれたんでしょ。

 

 そう言った彼女の声は、いつもより少しだけ小さかった。

 

 あれは、本当に感謝だったのだろうか。

 

 それとも。

 

 誰かに心配されることに、慣れていなかったのだろうか。

 

 答えは分からない。

 

 分からないけれど、ひとつだけ確かなことがあった。

 

 俺は、星野アイのことを何も知らない。

 

 彼女がどんな過去を持っているのかも。

 

 何を怖がっているのかも。

 

 どんなときに、本当に笑っているのかも。

 

 俺は、何も知らない。

 

 知っているのは、彼女がたどるはずだった未来だけだ。

 

 そして、その未来を知っているということは、彼女の心を理解しているということにはならない。

 

 むしろ、知っているつもりになってしまうことが、一番危険なのかもしれなかった。

 

 俺は廊下の窓から、夜空を見上げた。

 

 星は、いくつも輝いていた。

 

 その中に、彼女の瞳に似た星があるような気がした。

 

 けれど、どれだけ目を凝らしても、俺にはその星の本当の輝きなんて分からない。

 

 遠くから見ているだけでは、何も分からないのだ。

 

 だから、少しずつ知っていこう。

 

 彼女が話してくれることを。

 

 彼女が話したくないことも。

 

 そして、いつか彼女自身が助けを求めてくれたなら。

 

 そのときは、迷わず手を伸ばせるように。

 

 ――ただ、そのときの俺はまだ知らなかった。

 

 星野アイが、誰かに助けを求めることを、どれほど難しいと感じているのか。

 

 そして、彼女が俺に本当の気持ちを見せるまでには、まだ長い時間が必要なのだということを。

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