星野アイには、夢がある。
世界中の人を笑顔にしたい。
自分を見た人が、少しでも幸せな気持ちになってくれたら嬉しい。
彼女はそう言っていた。
あの日、施設の裏庭で。
空を見上げながら、まるで明日にはその夢が叶うと信じているみたいに、楽しそうに笑っていた。
俺は、その夢を応援すると決めた。
彼女が夢を追いかけても、幸せでいられる未来を作りたい。
そう思ったはずだった。
なのに。
「透くん、聞いてる?」
「……え?」
「もー! 絶対聞いてなかったでしょ!」
目の前で、アイが頬を膨らませている。
しまった。
考え事をしているうちに、話を聞き逃していたらしい。
「悪い。何の話だっけ」
「ひどっ! 私、結構大事な話してたんだけど!」
「ごめんって」
「じゃあ、もう一回言うから、ちゃんと聞いてね!」
彼女はわざとらしく咳払いをした。
そして、いつもより少しだけ背筋を伸ばす。
「今日ね、施設の人から聞いたんだけど……」
そこで、アイは一度言葉を切った。
いつもの冗談めいた笑顔とは、少し違う表情だった。
「私、芸能事務所の人に会ってみることになったんだ」
――来た。
心臓が、嫌な音を立てた。
芸能事務所。
アイドル。
俺が知っている物語の始まり。
彼女が夢を叶えるための、最初の一歩。
そして、俺の知っている未来へと続く道。
「……そっか」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
アイは、俺の顔をじっと見つめた。
「……あれ?」
「何?」
「反応、薄くない?」
「いや、びっくりしたよ」
「ほんとにー?」
彼女は疑わしそうに目を細めた。
「だって、前に言ったじゃん。私、有名になりたいって!」
「覚えてるよ」
「世界中の人を笑顔にするんだよ?」
「それも覚えてる」
「じゃあ、もっとこう……『すごいじゃん!』とか、『応援してる!』とか、ないの?」
いつもの調子。
少し大げさで、からかうような口ぶり。
でも、その瞳は俺の返事を待っていた。
俺は、すぐに答えられなかった。
応援してる。
そう言えばいい。
彼女が望んでいる言葉を、そのまま返せばいい。
それだけのことなのに。
頭の中に浮かぶのは、笑顔の彼女ではなかった。
画面の中で輝く星野アイ。
大勢の観客に囲まれて、誰よりも眩しく笑う少女。
そして、その輝きが突然失われてしまう未来。
俺の知っている物語は、そこで大きく形を変えてしまう。
もし、俺が何かを間違えたら。
もし、彼女が芸能界に入ることを止められなかったら。
もし、俺が何もできないままだったら。
また、彼女を失うことになるのだろうか。
「……透くん?」
アイの声で、我に返った。
俺は慌てて口を開いた。
「応援してるよ」
言葉にした瞬間、胸が痛んだ。
「アイなら、きっとできると思う」
嘘ではなかった。
本当に、そう思っている。
彼女なら、きっと多くの人を笑顔にできる。
でも同時に、怖かった。
俺が応援することで、彼女が悲劇へと進んでしまうのではないか。
そんな考えが、どうしても頭から離れなかった。
アイは、しばらく俺を見つめていた。
それから、ふっと笑った。
「……そっか!」
ぱっと表情が明るくなる。
「えへへ、ありがと!」
嬉しそうだった。
少なくとも、そう見えた。
俺は、その笑顔を見て安心した。
同時に、胸の奥に小さな罪悪感が残った。
彼女は、俺の言葉を信じてくれたのだ。
俺が本当は何を恐れているのかも知らずに。
*
数日後。
施設の職員に付き添われ、アイは芸能事務所の関係者と会うことになった。
俺がそのことを知ったのは、前日の夕食後だった。
「明日、アイちゃんを迎えに来る方がいるんですって」
職員の女性がそう言うと、アイは目を輝かせた。
「ほんと!?」
「ええ。まずはお話をするだけだから、緊張しなくても大丈夫よ」
「うん!」
返事は元気いっぱいだった。
けれど、その日の夜。
廊下で偶然すれ違ったアイは、いつもより少し静かだった。
「アイ?」
「ん?」
「明日、楽しみ?」
何気なく尋ねると、彼女は目を丸くした。
それから、にっこり笑った。
「もちろん!」
即答だった。
あまりにも迷いのない返事。
俺は、何となく違和感を覚えた。
「……そっか」
「うん!」
アイはそのまま通り過ぎようとした。
けれど、数歩進んだところで立ち止まる。
「ねえ、透くん」
「何?」
「もしさ……」
彼女は振り返った。
言いかけて、口を閉じる。
「……ううん。なんでもない!」
また、笑顔。
「おやすみ!」
彼女は手を振って、部屋へ戻っていった。
俺は、その背中を見つめていた。
もし、何だというのだろう。
もし、失敗したら。
もし、思っていたのと違ったら。
もし、自分には向いていなかったら。
彼女にも、不安があるのかもしれない。
当然だ。
夢を追いかけるというのは、そういうことなのだから。
俺は彼女の不安を取り除いてやりたかった。
でも、何を言えばいいのか分からなかった。
大丈夫だよ、と言うだけなら簡単だ。
きっと上手くいく、と励ますこともできる。
けれど、未来を知っている俺がそれを言うのは、あまりにも無責任な気がした。
彼女が進もうとしている道には、俺の知っている限り、悲しい結末が待っている。
そのことを隠したまま、何も心配するなと言っていいのだろうか。
……いや。
そもそも、俺の知識が正しい保証すらない。
未来は変わるかもしれない。
変えられるかもしれない。
それなのに、俺は彼女の夢を応援することさえ、怖がっている。
そんな自分が、少し嫌になった。
*
翌朝。
アイはいつもより早く起きていた。
食堂に入ると、すでに身支度を整えた彼女が、椅子に座っていた。
髪をきれいにまとめ、服のしわを何度も伸ばしている。
「……おはよう」
俺が声をかけると、彼女は勢いよく顔を上げた。
「おはよ!」
「早いな」
「そりゃあね!」
アイは胸を張った。
「大事な日だから!」
そう言って笑ったあと、彼女はテーブルの上のコップを持ち上げた。
けれど、口をつける前に、また置いた。
落ち着かないらしい。
指先が、コップの縁を何度もなぞっている。
俺は向かいの席に座った。
「緊張してる?」
「してない!」
即答。
それから、数秒。
「……ちょっとだけ」
小さな声だった。
俺は思わず笑ってしまった。
「何笑ってんの!」
「いや、別に」
「絶対笑った!」
「悪い悪い」
アイはむっとした顔をした。
でも、すぐに表情を緩める。
「……ねえ、透くん」
「ん?」
「私、ちゃんとできるかな」
その声は、いつもの明るさとは違っていた。
俺は、真剣に彼女を見た。
彼女の瞳の中の星が、朝の光を受けて揺れている。
「できるかどうかは、俺には分からない」
「えー、そこはできるって言ってよ!」
「でも」
俺は続けた。
「アイがやりたいと思ってるなら、挑戦してみればいいと思う」
彼女は黙って聞いていた。
「上手くいくかどうかなんて、やってみないと分からないだろ。失敗したって、それで全部終わりじゃないし」
「……うん」
「それに、アイは……」
そこで、言葉が止まった。
何を言えばいい。
君なら大丈夫。
君は人を笑顔にできる。
君は、誰よりも輝ける。
いくらでも言葉は浮かぶ。
でも、俺は彼女を励ますために、彼女の未来を勝手に決めたくなかった。
だから。
「……自分がどうしたいか、ちゃんと考えて決めればいいと思う」
そう言った。
アイは、少し不思議そうな顔をした。
「自分が、どうしたいか?」
「ああ」
「……そっか」
彼女はコップを両手で包んだ。
しばらくして、ゆっくりと笑った。
「ありがと、透くん」
今度の笑顔は、さっきまでのものとは少し違って見えた。
俺は、ほっと息を吐いた。
少しは役に立てただろうか。
彼女が自分の夢を、自分の意思で選べるように。
俺ができるのは、その手助けくらいなのかもしれない。
*
午前十時。
施設の玄関に、一台の車が止まった。
降りてきたのは、きちんとした服装の女性だった。
年齢は三十代くらいだろうか。
彼女は職員に挨拶をすると、アイの姿を見て微笑んだ。
「あなたがアイちゃんね?」
「はい!」
アイは、いつもの笑顔で頭を下げた。
「星野アイです! よろしくお願いします!」
その声は、明るく、はっきりとしていた。
女性は少し感心したように目を細めた。
「元気がいいのね」
「はい! よく言われます!」
会話は順調に進んでいるようだった。
女性は、アイにいくつか質問をした。
好きなこと。
得意なこと。
将来、どんなふうになりたいのか。
アイは、ひとつひとつ丁寧に答えていた。
「世界中の人を笑顔にできるようなアイドルになりたいです!」
その言葉を聞いたとき、女性の表情が少し変わった。
「アイドルになりたいの?」
「はい!」
「どうして?」
アイは、ほんの少し考えた。
それから、にっこり笑った。
「だって、楽しそうだから!」
間違いではないのだろう。
でも、俺は知っていた。
彼女が、誰かを笑顔にしたいと言っていたことを。
その夢が、彼女にとってどれだけ大切なものなのか。
女性は満足そうにうなずいた。
「そう。いいわね」
その後も話は続き、やがて女性は施設の職員と今後のことを相談するため、別室へ移動した。
アイは玄関に残された。
しばらくの間、彼女はじっと閉じた扉を見つめていた。
俺は、そっと近づいた。
「……どうだった?」
「ん?」
「話」
「あー、うん!」
彼女は振り返った。
「楽しかった!」
笑顔。
けれど、その手はぎゅっと握られていた。
俺は、それを見た。
何か言おうとした、そのとき。
「ねえ、透くん」
アイが口を開いた。
「私、アイドルになれるかな?」
今度は、冗談めかした笑顔ではなかった。
まっすぐに、俺を見ていた。
俺は、すぐには答えられなかった。
なれるかどうか。
そんなことは、俺には分からない。
でも、彼女がアイドルになる未来は知っている。
そして、その先にある悲劇も。
もし、ここで「なれるよ」と言ったら。
もし、彼女がその言葉を信じて進んだら。
俺は、彼女の背中を押したことになる。
その先にあるものを知っていながら。
……それでも。
彼女が夢を諦める姿なんて、見たくなかった。
「……なれると思う」
俺は答えた。
「アイなら」
アイは、目を丸くした。
それから、ゆっくりと笑った。
「……そっか」
その笑顔を見て、俺は思った。
彼女は、きっとこれからも笑うのだろう。
夢を追いかけるときも。
失敗したときも。
誰かに傷つけられたときも。
きっと、笑うのだろう。
だからこそ。
俺は、その笑顔だけで安心してはいけない。
笑っているから大丈夫だと、決めつけてはいけない。
彼女が何を感じているのか、ちゃんと見なければならない。
そう思った。
*
女性が帰ったあと、アイは少し浮かれていた。
「ねえねえ、透くん!」
「ん?」
「私、もしかしたら本当にアイドルになれるかも!」
「そうだな」
「そしたらさ、テレビに出たりするのかな?」
「あるかもな」
「すごくない!?」
彼女は目を輝かせた。
「そしたら、透くんも私のこと見つけてよね!」
「……ああ」
「絶対だよ?」
アイは、小指を差し出した。
「約束!」
俺はその小指を見つめた。
少し前にも、同じことがあった。
施設で初めて会った日。
これから仲良くしようと、彼女が小さな約束を交わしてくれた。
あのときと同じように、俺は小指を絡めた。
「約束する」
アイは、満足そうに笑った。
「えへへ。やった!」
それから、ふと思い出したように俺を見た。
「……ねえ」
「何?」
「透くんってさ、時々、変な顔するよね」
心臓が跳ねた。
「変な顔?」
「うん」
彼女は俺の顔を覗き込んだ。
「私が何か言うと、嬉しそうなのに、ちょっと悲しそうな顔するの」
俺は、息を止めた。
気づかれていた。
自分では隠しているつもりだった。
彼女を心配していることも、未来を恐れていることも。
全部、知られないようにしているつもりだった。
でも、アイは見ていた。
俺の表情を。
俺の言葉を。
俺が何を言わずにいるのかを。
「……気のせいだろ」
俺は、そう答えた。
アイは、じっと俺を見つめていた。
そして、少しだけ目を細めた。
「ふーん」
それ以上、何も聞かなかった。
ただ、いつものように笑った。
「ま、いっか!」
彼女は、くるりと踵を返した。
「私、これから忙しくなるかもしれないからねー!」
「まだ決まったわけじゃないだろ」
「いいの! 夢は大きく!」
そう言って、彼女は廊下を駆けていった。
俺は、その背中を見送った。
彼女は前に進んでいる。
自分の夢に向かって。
俺は、その隣にいたいと思った。
けれど、俺の心はまだ、彼女の未来に縛られていた。
彼女が夢を叶えた先に何があるのか。
俺は、その答えを知っているつもりだった。
だからこそ、彼女の幸せを願うことさえ、怖かった。
応援したい。
でも、失いたくない。
夢を叶えてほしい。
でも、悲劇には近づいてほしくない。
矛盾している。
そんなことは、分かっていた。
それでも俺は、彼女の小さな背中を見つめながら、願わずにはいられなかった。
どうか。
どうか、この先に待っている未来が、俺の知っているものとは違いますように。
星野アイが、心から笑える未来でありますように。
そしていつか。
彼女が俺の前で、笑顔を作らなくてもいい日が来ますように。
――その願いが、いつか彼女を傷つけることになるなんて。
このときの俺は、まだ知らなかった。