星野アイに嘘をつかなくていい日を   作:M1tarash1

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04.夢を見つけた君へ

星野アイには、夢がある。

 

 世界中の人を笑顔にしたい。

 

 自分を見た人が、少しでも幸せな気持ちになってくれたら嬉しい。

 

 彼女はそう言っていた。

 

 あの日、施設の裏庭で。

 

 空を見上げながら、まるで明日にはその夢が叶うと信じているみたいに、楽しそうに笑っていた。

 

 俺は、その夢を応援すると決めた。

 

 彼女が夢を追いかけても、幸せでいられる未来を作りたい。

 

 そう思ったはずだった。

 

 なのに。

 

「透くん、聞いてる?」

 

「……え?」

 

「もー! 絶対聞いてなかったでしょ!」

 

 目の前で、アイが頬を膨らませている。

 

 しまった。

 

 考え事をしているうちに、話を聞き逃していたらしい。

 

「悪い。何の話だっけ」

 

「ひどっ! 私、結構大事な話してたんだけど!」

 

「ごめんって」

 

「じゃあ、もう一回言うから、ちゃんと聞いてね!」

 

 彼女はわざとらしく咳払いをした。

 

 そして、いつもより少しだけ背筋を伸ばす。

 

「今日ね、施設の人から聞いたんだけど……」

 

 そこで、アイは一度言葉を切った。

 

 いつもの冗談めいた笑顔とは、少し違う表情だった。

 

「私、芸能事務所の人に会ってみることになったんだ」

 

 ――来た。

 

 心臓が、嫌な音を立てた。

 

 芸能事務所。

 

 アイドル。

 

 俺が知っている物語の始まり。

 

 彼女が夢を叶えるための、最初の一歩。

 

 そして、俺の知っている未来へと続く道。

 

「……そっか」

 

 それだけ言うのが精いっぱいだった。

 

 アイは、俺の顔をじっと見つめた。

 

「……あれ?」

 

「何?」

 

「反応、薄くない?」

 

「いや、びっくりしたよ」

 

「ほんとにー?」

 

 彼女は疑わしそうに目を細めた。

 

「だって、前に言ったじゃん。私、有名になりたいって!」

 

「覚えてるよ」

 

「世界中の人を笑顔にするんだよ?」

 

「それも覚えてる」

 

「じゃあ、もっとこう……『すごいじゃん!』とか、『応援してる!』とか、ないの?」

 

 いつもの調子。

 

 少し大げさで、からかうような口ぶり。

 

 でも、その瞳は俺の返事を待っていた。

 

 俺は、すぐに答えられなかった。

 

 応援してる。

 

 そう言えばいい。

 

 彼女が望んでいる言葉を、そのまま返せばいい。

 

 それだけのことなのに。

 

 頭の中に浮かぶのは、笑顔の彼女ではなかった。

 

 画面の中で輝く星野アイ。

 

 大勢の観客に囲まれて、誰よりも眩しく笑う少女。

 

 そして、その輝きが突然失われてしまう未来。

 

 俺の知っている物語は、そこで大きく形を変えてしまう。

 

 もし、俺が何かを間違えたら。

 

 もし、彼女が芸能界に入ることを止められなかったら。

 

 もし、俺が何もできないままだったら。

 

 また、彼女を失うことになるのだろうか。

 

「……透くん?」

 

 アイの声で、我に返った。

 

 俺は慌てて口を開いた。

 

「応援してるよ」

 

 言葉にした瞬間、胸が痛んだ。

 

「アイなら、きっとできると思う」

 

 嘘ではなかった。

 

 本当に、そう思っている。

 

 彼女なら、きっと多くの人を笑顔にできる。

 

 でも同時に、怖かった。

 

 俺が応援することで、彼女が悲劇へと進んでしまうのではないか。

 

 そんな考えが、どうしても頭から離れなかった。

 

 アイは、しばらく俺を見つめていた。

 

 それから、ふっと笑った。

 

「……そっか!」

 

 ぱっと表情が明るくなる。

 

「えへへ、ありがと!」

 

 嬉しそうだった。

 

 少なくとも、そう見えた。

 

 俺は、その笑顔を見て安心した。

 

 同時に、胸の奥に小さな罪悪感が残った。

 

 彼女は、俺の言葉を信じてくれたのだ。

 

 俺が本当は何を恐れているのかも知らずに。

 

 *

 

 数日後。

 

 施設の職員に付き添われ、アイは芸能事務所の関係者と会うことになった。

 

 俺がそのことを知ったのは、前日の夕食後だった。

 

「明日、アイちゃんを迎えに来る方がいるんですって」

 

 職員の女性がそう言うと、アイは目を輝かせた。

 

「ほんと!?」

 

「ええ。まずはお話をするだけだから、緊張しなくても大丈夫よ」

 

「うん!」

 

 返事は元気いっぱいだった。

 

 けれど、その日の夜。

 

 廊下で偶然すれ違ったアイは、いつもより少し静かだった。

 

「アイ?」

 

「ん?」

 

「明日、楽しみ?」

 

 何気なく尋ねると、彼女は目を丸くした。

 

 それから、にっこり笑った。

 

「もちろん!」

 

 即答だった。

 

 あまりにも迷いのない返事。

 

 俺は、何となく違和感を覚えた。

 

「……そっか」

 

「うん!」

 

 アイはそのまま通り過ぎようとした。

 

 けれど、数歩進んだところで立ち止まる。

 

「ねえ、透くん」

 

「何?」

 

「もしさ……」

 

 彼女は振り返った。

 

 言いかけて、口を閉じる。

 

「……ううん。なんでもない!」

 

 また、笑顔。

 

「おやすみ!」

 

 彼女は手を振って、部屋へ戻っていった。

 

 俺は、その背中を見つめていた。

 

 もし、何だというのだろう。

 

 もし、失敗したら。

 

 もし、思っていたのと違ったら。

 

 もし、自分には向いていなかったら。

 

 彼女にも、不安があるのかもしれない。

 

 当然だ。

 

 夢を追いかけるというのは、そういうことなのだから。

 

 俺は彼女の不安を取り除いてやりたかった。

 

 でも、何を言えばいいのか分からなかった。

 

 大丈夫だよ、と言うだけなら簡単だ。

 

 きっと上手くいく、と励ますこともできる。

 

 けれど、未来を知っている俺がそれを言うのは、あまりにも無責任な気がした。

 

 彼女が進もうとしている道には、俺の知っている限り、悲しい結末が待っている。

 

 そのことを隠したまま、何も心配するなと言っていいのだろうか。

 

 ……いや。

 

 そもそも、俺の知識が正しい保証すらない。

 

 未来は変わるかもしれない。

 

 変えられるかもしれない。

 

 それなのに、俺は彼女の夢を応援することさえ、怖がっている。

 

 そんな自分が、少し嫌になった。

 

 *

 

 翌朝。

 

 アイはいつもより早く起きていた。

 

 食堂に入ると、すでに身支度を整えた彼女が、椅子に座っていた。

 

 髪をきれいにまとめ、服のしわを何度も伸ばしている。

 

「……おはよう」

 

 俺が声をかけると、彼女は勢いよく顔を上げた。

 

「おはよ!」

 

「早いな」

 

「そりゃあね!」

 

 アイは胸を張った。

 

「大事な日だから!」

 

 そう言って笑ったあと、彼女はテーブルの上のコップを持ち上げた。

 

 けれど、口をつける前に、また置いた。

 

 落ち着かないらしい。

 

 指先が、コップの縁を何度もなぞっている。

 

 俺は向かいの席に座った。

 

「緊張してる?」

 

「してない!」

 

 即答。

 

 それから、数秒。

 

「……ちょっとだけ」

 

 小さな声だった。

 

 俺は思わず笑ってしまった。

 

「何笑ってんの!」

 

「いや、別に」

 

「絶対笑った!」

 

「悪い悪い」

 

 アイはむっとした顔をした。

 

 でも、すぐに表情を緩める。

 

「……ねえ、透くん」

 

「ん?」

 

「私、ちゃんとできるかな」

 

 その声は、いつもの明るさとは違っていた。

 

 俺は、真剣に彼女を見た。

 

 彼女の瞳の中の星が、朝の光を受けて揺れている。

 

「できるかどうかは、俺には分からない」

 

「えー、そこはできるって言ってよ!」

 

「でも」

 

 俺は続けた。

 

「アイがやりたいと思ってるなら、挑戦してみればいいと思う」

 

 彼女は黙って聞いていた。

 

「上手くいくかどうかなんて、やってみないと分からないだろ。失敗したって、それで全部終わりじゃないし」

 

「……うん」

 

「それに、アイは……」

 

 そこで、言葉が止まった。

 

 何を言えばいい。

 

 君なら大丈夫。

 

 君は人を笑顔にできる。

 

 君は、誰よりも輝ける。

 

 いくらでも言葉は浮かぶ。

 

 でも、俺は彼女を励ますために、彼女の未来を勝手に決めたくなかった。

 

 だから。

 

「……自分がどうしたいか、ちゃんと考えて決めればいいと思う」

 

 そう言った。

 

 アイは、少し不思議そうな顔をした。

 

「自分が、どうしたいか?」

 

「ああ」

 

「……そっか」

 

 彼女はコップを両手で包んだ。

 

 しばらくして、ゆっくりと笑った。

 

「ありがと、透くん」

 

 今度の笑顔は、さっきまでのものとは少し違って見えた。

 

 俺は、ほっと息を吐いた。

 

 少しは役に立てただろうか。

 

 彼女が自分の夢を、自分の意思で選べるように。

 

 俺ができるのは、その手助けくらいなのかもしれない。

 

 *

 

 午前十時。

 

 施設の玄関に、一台の車が止まった。

 

 降りてきたのは、きちんとした服装の女性だった。

 

 年齢は三十代くらいだろうか。

 

 彼女は職員に挨拶をすると、アイの姿を見て微笑んだ。

 

「あなたがアイちゃんね?」

 

「はい!」

 

 アイは、いつもの笑顔で頭を下げた。

 

「星野アイです! よろしくお願いします!」

 

 その声は、明るく、はっきりとしていた。

 

 女性は少し感心したように目を細めた。

 

「元気がいいのね」

 

「はい! よく言われます!」

 

 会話は順調に進んでいるようだった。

 

 女性は、アイにいくつか質問をした。

 

 好きなこと。

 

 得意なこと。

 

 将来、どんなふうになりたいのか。

 

 アイは、ひとつひとつ丁寧に答えていた。

 

「世界中の人を笑顔にできるようなアイドルになりたいです!」

 

 その言葉を聞いたとき、女性の表情が少し変わった。

 

「アイドルになりたいの?」

 

「はい!」

 

「どうして?」

 

 アイは、ほんの少し考えた。

 

 それから、にっこり笑った。

 

「だって、楽しそうだから!」

 

 間違いではないのだろう。

 

 でも、俺は知っていた。

 

 彼女が、誰かを笑顔にしたいと言っていたことを。

 

 その夢が、彼女にとってどれだけ大切なものなのか。

 

 女性は満足そうにうなずいた。

 

「そう。いいわね」

 

 その後も話は続き、やがて女性は施設の職員と今後のことを相談するため、別室へ移動した。

 

 アイは玄関に残された。

 

 しばらくの間、彼女はじっと閉じた扉を見つめていた。

 

 俺は、そっと近づいた。

 

「……どうだった?」

 

「ん?」

 

「話」

 

「あー、うん!」

 

 彼女は振り返った。

 

「楽しかった!」

 

 笑顔。

 

 けれど、その手はぎゅっと握られていた。

 

 俺は、それを見た。

 

 何か言おうとした、そのとき。

 

「ねえ、透くん」

 

 アイが口を開いた。

 

「私、アイドルになれるかな?」

 

 今度は、冗談めかした笑顔ではなかった。

 

 まっすぐに、俺を見ていた。

 

 俺は、すぐには答えられなかった。

 

 なれるかどうか。

 

 そんなことは、俺には分からない。

 

 でも、彼女がアイドルになる未来は知っている。

 

 そして、その先にある悲劇も。

 

 もし、ここで「なれるよ」と言ったら。

 

 もし、彼女がその言葉を信じて進んだら。

 

 俺は、彼女の背中を押したことになる。

 

 その先にあるものを知っていながら。

 

 ……それでも。

 

 彼女が夢を諦める姿なんて、見たくなかった。

 

「……なれると思う」

 

 俺は答えた。

 

「アイなら」

 

 アイは、目を丸くした。

 

 それから、ゆっくりと笑った。

 

「……そっか」

 

 その笑顔を見て、俺は思った。

 

 彼女は、きっとこれからも笑うのだろう。

 

 夢を追いかけるときも。

 

 失敗したときも。

 

 誰かに傷つけられたときも。

 

 きっと、笑うのだろう。

 

 だからこそ。

 

 俺は、その笑顔だけで安心してはいけない。

 

 笑っているから大丈夫だと、決めつけてはいけない。

 

 彼女が何を感じているのか、ちゃんと見なければならない。

 

 そう思った。

 

 *

 

 女性が帰ったあと、アイは少し浮かれていた。

 

「ねえねえ、透くん!」

 

「ん?」

 

「私、もしかしたら本当にアイドルになれるかも!」

 

「そうだな」

 

「そしたらさ、テレビに出たりするのかな?」

 

「あるかもな」

 

「すごくない!?」

 

 彼女は目を輝かせた。

 

「そしたら、透くんも私のこと見つけてよね!」

 

「……ああ」

 

「絶対だよ?」

 

 アイは、小指を差し出した。

 

「約束!」

 

 俺はその小指を見つめた。

 

 少し前にも、同じことがあった。

 

 施設で初めて会った日。

 

 これから仲良くしようと、彼女が小さな約束を交わしてくれた。

 

 あのときと同じように、俺は小指を絡めた。

 

「約束する」

 

 アイは、満足そうに笑った。

 

「えへへ。やった!」

 

 それから、ふと思い出したように俺を見た。

 

「……ねえ」

 

「何?」

 

「透くんってさ、時々、変な顔するよね」

 

 心臓が跳ねた。

 

「変な顔?」

 

「うん」

 

 彼女は俺の顔を覗き込んだ。

 

「私が何か言うと、嬉しそうなのに、ちょっと悲しそうな顔するの」

 

 俺は、息を止めた。

 

 気づかれていた。

 

 自分では隠しているつもりだった。

 

 彼女を心配していることも、未来を恐れていることも。

 

 全部、知られないようにしているつもりだった。

 

 でも、アイは見ていた。

 

 俺の表情を。

 

 俺の言葉を。

 

 俺が何を言わずにいるのかを。

 

「……気のせいだろ」

 

 俺は、そう答えた。

 

 アイは、じっと俺を見つめていた。

 

 そして、少しだけ目を細めた。

 

「ふーん」

 

 それ以上、何も聞かなかった。

 

 ただ、いつものように笑った。

 

「ま、いっか!」

 

 彼女は、くるりと踵を返した。

 

「私、これから忙しくなるかもしれないからねー!」

 

「まだ決まったわけじゃないだろ」

 

「いいの! 夢は大きく!」

 

 そう言って、彼女は廊下を駆けていった。

 

 俺は、その背中を見送った。

 

 彼女は前に進んでいる。

 

 自分の夢に向かって。

 

 俺は、その隣にいたいと思った。

 

 けれど、俺の心はまだ、彼女の未来に縛られていた。

 

 彼女が夢を叶えた先に何があるのか。

 

 俺は、その答えを知っているつもりだった。

 

 だからこそ、彼女の幸せを願うことさえ、怖かった。

 

 応援したい。

 

 でも、失いたくない。

 

 夢を叶えてほしい。

 

 でも、悲劇には近づいてほしくない。

 

 矛盾している。

 

 そんなことは、分かっていた。

 

 それでも俺は、彼女の小さな背中を見つめながら、願わずにはいられなかった。

 

 どうか。

 

 どうか、この先に待っている未来が、俺の知っているものとは違いますように。

 

 星野アイが、心から笑える未来でありますように。

 

 そしていつか。

 

 彼女が俺の前で、笑顔を作らなくてもいい日が来ますように。

 

 ――その願いが、いつか彼女を傷つけることになるなんて。

 

 このときの俺は、まだ知らなかった。

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