星野アイが芸能事務所の人と会ってから、一週間が経った。
その間、施設には何度か電話がかかってきた。
職員が応対している声を聞くたび、アイは落ち着かない様子でそわそわしていた。
食事中も、遊んでいる最中も、ふとした瞬間に玄関のほうを見る。
誰かが電話を取りに行けば、さりげなく耳を澄ませる。
そして、何もなかったと分かると、何事もなかったように笑顔に戻る。
分かりやすい。
あまりにも分かりやすい。
本人は隠しているつもりなのだろうけれど、俺にはすぐに分かった。
それだけ、楽しみにしているのだ。
自分の夢が、本当に叶うかもしれないことを。
「透くん、今日って何曜日?」
朝食を食べていると、向かいに座ったアイが尋ねてきた。
「火曜日」
「そっかー」
彼女はスプーンを動かしながら、何かを考えている。
「……電話、来るかな」
「さあな」
「えー、そこは来るって言ってよ!」
「俺が決められることじゃないだろ」
「それはそうだけど!」
アイは頬を膨らませた。
それから、少し恥ずかしそうに笑う。
「……早く、返事が聞きたいな」
その声を聞いて、俺は胸の奥が痛くなった。
彼女は、本当に楽しみにしている。
当たり前だ。
ずっと夢見ていたことに、手が届くかもしれないのだから。
それなのに俺は、その夢の先にあるものを恐れている。
彼女が進もうとしている道を、心のどこかで止めたがっている。
応援すると決めたはずなのに。
自分で選んだ道を歩いてほしいと願ったはずなのに。
俺はまだ、彼女が選ぶ未来を信じ切れていなかった。
*
電話が来たのは、その日の午後だった。
「アイちゃん、ちょっといいかしら」
職員に呼ばれた瞬間、アイの顔がぱっと輝いた。
「はい!」
返事をしてから、彼女は一度だけ俺を見た。
何かを言いたそうな顔。
けれど、すぐに笑って職員の後を追いかけていった。
俺は廊下に残されたまま、その背中を見送った。
しばらくして、部屋の向こうから明るい声が聞こえてきた。
「……本当ですか!?」
続いて、何度も繰り返される「はい!」という返事。
壁越しでも分かるほど、嬉しそうな声だった。
俺は壁に背中を預け、目を閉じた。
ついに、動き始めた。
彼女の未来が。
俺の知っている物語が。
――いや。
違う。
これは、俺の知っている物語じゃない。
今、あの部屋の中で話しているのは、漫画の登場人物じゃない。
星野アイという、一人の少女だ。
彼女がどんな話をしているのか、俺には分からない。
何を約束したのかも、何を期待されているのかも。
それでも、俺は彼女が笑っていることを願った。
どうか、その夢が彼女を幸せにしますように。
どうか、俺の知らない未来が待っていますように。
そう願うことしかできなかった。
*
「透くん!」
電話が終わってしばらくすると、アイが廊下を駆けてきた。
顔が、いつも以上に明るい。
「決まった!」
「……何が?」
「芸能事務所の人がね、また会いたいって!」
彼女は両手を握りしめた。
「今度は、もっとちゃんとお話しするんだって! もしかしたら、お仕事の話もできるかもしれないって!」
「そっか」
「うん!」
アイは嬉しそうにうなずいた。
「すごくない? 私、ほんとにアイドルになれるかもしれない!」
その笑顔を見て、俺は言葉を失った。
喜んでいる。
心の底から。
それなのに、俺の頭には嫌な想像ばかりが浮かんでくる。
芸能界に入れば、たくさんの人に出会う。
たくさんの人に見られ、評価される。
期待されることもあれば、傷つけられることもあるだろう。
そして、彼女の人生は、俺の知っている未来へ近づいていく。
何かをしなければ。
今のうちに、危険なことを教えておかなければ。
そう思った。
「……アイ」
「ん?」
「芸能界ってさ、思ってるほど楽しいことばかりじゃないと思う」
言った瞬間、アイの笑顔が止まった。
「……え?」
「もちろん、いいこともあるんだろうけど。変な大人だっているだろうし、嫌な思いをすることもあるかもしれない」
俺は、自分でも何を言っているのか分からなくなりながら続けた。
「だから、もう少し慎重に考えたほうがいいんじゃないか」
沈黙。
アイは、俺の顔を見つめていた。
さっきまでの輝きが、少しずつ薄れていく。
「……どうして?」
小さな声だった。
「え?」
「どうして、そんなこと言うの?」
俺は答えられなかった。
彼女を守りたいから。
失いたくないから。
その先にある未来を知っているから。
でも、どれも言えない。
俺はただ、彼女を傷つけたくなかった。
そのはずなのに。
「……心配だから」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
アイはしばらく黙っていた。
やがて、いつものように笑った。
「そっか」
けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
「心配してくれて、ありがと」
そう言って、彼女は俺の横を通り過ぎた。
俺は、呼び止めることができなかった。
何かが間違っていた。
でも、何が間違っていたのか、分からなかった。
*
その日の夕方。
アイは、いつもより口数が少なかった。
年下の子どもたちに話しかけられれば笑顔で応じるし、職員に頼まれたこともきちんとこなしていた。
傍から見れば、いつもと変わらない。
けれど、俺には分かった。
彼女は、俺を避けている。
目が合えばすぐにそらす。
俺が近づくと、別の場所へ移動する。
話しかけても、「うん」「そうだね」と短く答えるだけだった。
初めてだった。
アイが、俺にこんな態度を取るのは。
胸の奥が、じわじわと重くなる。
俺は何か、取り返しのつかないことを言ってしまったのだろうか。
ただ、心配だっただけなのに。
彼女を守りたかっただけなのに。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
夕食のあと、俺は意を決してアイを探した。
彼女は施設の裏庭にいた。
ベンチに座り、膝を抱えるようにして、ぼんやりと空を見上げていた。
「……アイ」
声をかけると、彼女は少しだけ肩を揺らした。
「あ、透くん」
振り向いた顔には、いつもの笑顔が浮かんでいた。
でも、その笑顔を見た瞬間、俺は足を止めた。
無理に笑っている。
そう感じた。
根拠なんてない。
ただ、そう思った。
「隣、いいか?」
「……うん」
俺は彼女の隣に座った。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
風が吹いて、庭の木の葉が揺れる。
遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえていた。
いつもと同じ夜だった。
なのに、俺たちの間には、何かが挟まっているような気がした。
「……今日のことなんだけど」
俺が口を開くと、アイは顔を上げた。
「うん」
「悪かった」
「……え?」
「芸能界のこと。あんな言い方するつもりじゃなかったんだ」
アイは、黙って俺を見ていた。
「アイが夢を叶えたいって思ってるのは、知ってる。だから、応援したいと思ってる」
「……うん」
「ただ、俺は……」
言葉が詰まった。
何を言えばいいのか。
どうすれば、彼女に伝わるのか。
俺は、未来を知っている。
でも、そのことを話すわけにはいかない。
話したところで、信じてもらえるとは思えない。
それどころか、彼女を余計に不安にさせるかもしれない。
「……ただ?」
アイが続きを促した。
俺は、拳を握りしめた。
「……怖いんだ」
口にした瞬間、自分でも驚いた。
怖い。
そうだ。
俺は、怖かったのだ。
彼女が夢を叶えることが。
彼女が遠くへ行ってしまうことが。
俺の知らない場所で、俺の知らない誰かに傷つけられることが。
そして、いつか彼女を失ってしまうことが。
全部、怖かった。
でも、それをそのまま伝えることはできなかった。
「……アイが、嫌な思いをしたらどうしようって」
俺は、なんとか言葉を続けた。
「もし、夢を叶えるために無理をしなきゃいけなくなったら。もし、誰かに傷つけられたら。そう考えると、どうしても……」
そこまで言って、口を閉じた。
これでは、ただの言い訳だ。
自分の恐怖を、彼女に押しつけているだけだ。
アイは、しばらく俺を見つめていた。
それから、ぽつりと言った。
「……透くんは、私の夢を応援してくれてるんじゃないの?」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「……応援してるよ」
「じゃあ、どうして?」
彼女の声が、少しだけ震えた。
「私がやりたいって言ったことなのに。まだ何も始まってないのに、どうしてそんなに怖がるの?」
俺は答えられなかった。
「私、ちゃんと考えてるよ」
アイは膝の上で手を握った。
「もちろん、分からないことだってあるし、怖いこともあると思う。でも、やってみたいんだもん」
「……うん」
「私が自分で決めたことなのに……」
彼女は、そこで言葉を切った。
顔を伏せる。
しばらくして、いつもの明るい声を作った。
「……ごめんね。なんか、変なこと言っちゃった」
「アイ……」
「大丈夫! 透くんが心配してくれてるのは分かってるから!」
彼女は笑った。
その笑顔を見て、俺は何も言えなくなった。
違う。
そうじゃない。
謝るのは、俺のほうだ。
彼女は自分の夢を語っただけだった。
その夢をどうするか、決める権利は彼女にある。
俺が未来を知っているからといって、彼女の選択を怖がり、否定していいわけではない。
それなのに俺は、彼女の夢を応援すると言いながら、心のどこかでは止めようとしていた。
彼女のためだと、自分に言い聞かせながら。
結局、俺は自分が安心したかっただけなのかもしれない。
アイが危険な場所へ行かなければ、俺は彼女を失わずに済む。
そう考えていたのかもしれない。
……最低だ。
俺は、彼女を救いたいはずなのに。
いつの間にか、自分の恐怖を優先していた。
「……ごめん」
俺は、もう一度謝った。
アイは顔を上げた。
「え?」
「アイの夢を、俺の勝手な不安で否定するみたいなことを言った」
彼女は黙っていた。
「俺が怖いからって、アイに諦めてほしいわけじゃないんだ」
それは、本心だった。
彼女には夢を叶えてほしい。
たくさんの人を笑顔にしてほしい。
そして、彼女自身にも幸せになってほしい。
そのために、俺は何ができるのかを考えなければならない。
彼女の人生を止めるのではなく、彼女が進む道を守る方法を。
「……アイがやりたいなら、やってみてほしい」
俺は、彼女を見た。
「俺は、応援する。今度は、ちゃんと」
アイは、何も言わなかった。
ただ、俺の顔をじっと見つめていた。
その瞳の中にあるものを、俺は読み取れなかった。
しばらくして、彼女は小さく息を吐いた。
「……うん」
そして、少しだけ笑った。
「ありがと」
俺は、その言葉に安心しかけた。
けれど、アイは続けた。
「でも、透くん」
「……何?」
「私のこと、心配しすぎないでね」
その言葉は、優しかった。
責めるような響きはなかった。
だからこそ、胸に刺さった。
「私、自分で決めたいんだ」
アイは空を見上げた。
「失敗したら、きっと落ち込むし。嫌なことがあったら、泣いちゃうかもしれない」
彼女は、少しだけ笑った。
「でも、それも私が選んだことなら、ちゃんと受け止めたい」
俺は黙って聞いていた。
「だからさ。透くんには、私が失敗しないように見張るんじゃなくて……」
アイは、俺のほうを向いた。
「失敗したときに、話を聞いてほしいな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
彼女は、俺に何かを求めてくれている。
未来を変える方法でも、悲劇を防ぐための計画でもない。
ただ、自分が失敗したときに、話を聞いてほしい。
それだけだった。
俺は、今まで何を考えていたのだろう。
どうすれば悲劇を防げるか。
どうすれば彼女を危険から遠ざけられるか。
そんなことばかり考えていた。
でも、目の前にいる彼女が望んでいたのは、もっと簡単なことだったのかもしれない。
「……分かった」
俺は答えた。
「約束する」
アイは、少しだけ目を丸くした。
それから、いつものように小指を差し出した。
「じゃあ、約束ね!」
俺はその小指に、自分の指を絡めた。
「……ああ」
小さな約束。
何度目かの約束。
それでも今度は、少しだけ違う意味を持っている気がした。
俺は、彼女の未来を守ると誓った。
でも、それは彼女の選択を奪うことではない。
彼女が自分で選んだ道を歩けるように。
その道の途中で、もし彼女が立ち止まったなら。
もし、助けを求めてくれたなら。
そのときは、ちゃんと隣にいよう。
彼女の代わりに人生を決めるのではなく、彼女が自分の人生を選べるように。
そう思った。
*
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
アイの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
――私が失敗したときに、話を聞いてほしいな。
彼女は、未来を知らない。
自分がどんな運命をたどるのかも、どんな悲劇が待っているのかも。
それでも、彼女は前に進もうとしている。
自分の意思で。
自分の夢を叶えるために。
俺は、彼女を止めることができる。
少なくとも、今なら。
芸能界に入ることを思いとどまらせればいい。
夢を諦めるように説得すればいい。
そうすれば、俺の知っている未来は変わるかもしれない。
でも。
それは、本当に彼女を救うことなのだろうか。
彼女が望んでいるものを奪って、彼女が悲劇に遭わないようにする。
それは、彼女のためなのか。
それとも、彼女を失うのが怖い俺自身のためなのか。
答えは、まだ出なかった。
ただ、一つだけ分かったことがある。
俺は、星野アイの未来を知っている。
でも、星野アイの人生を知っているわけではない。
彼女がどんな選択をして、何を大切にして、どんな未来を望むのか。
それを決めるのは、俺じゃない。
俺は、彼女の隣にいる人間でありたい。
彼女の前を歩いて道を決める人間でも、後ろから無理やり押す人間でもなく。
彼女が選んだ道を、隣で一緒に歩ける人間に。
そう思った。
窓の外では、星が輝いていた。
その光は遠く、手を伸ばしても届かない。
けれど、届かないからといって、見上げることまで諦める必要はない。
俺は、目を閉じた。
明日からは、もう少しだけ彼女を信じよう。
彼女が自分の夢を選んだことを。
そして、俺自身が彼女を支えられる人間になれることを。
そう願った。
――けれど。
翌日、アイから聞かされた言葉は、俺の決意を簡単に揺さぶることになる。
彼女の夢が、思っていたよりもずっと早く、現実になろうとしていたからだ。