星野アイに嘘をつかなくていい日を   作:M1tarash1

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05.君の夢を、怖がってた

星野アイが芸能事務所の人と会ってから、一週間が経った。

 

 その間、施設には何度か電話がかかってきた。

 

 職員が応対している声を聞くたび、アイは落ち着かない様子でそわそわしていた。

 

 食事中も、遊んでいる最中も、ふとした瞬間に玄関のほうを見る。

 

 誰かが電話を取りに行けば、さりげなく耳を澄ませる。

 

 そして、何もなかったと分かると、何事もなかったように笑顔に戻る。

 

 分かりやすい。

 

 あまりにも分かりやすい。

 

 本人は隠しているつもりなのだろうけれど、俺にはすぐに分かった。

 

 それだけ、楽しみにしているのだ。

 

 自分の夢が、本当に叶うかもしれないことを。

 

「透くん、今日って何曜日?」

 

 朝食を食べていると、向かいに座ったアイが尋ねてきた。

 

「火曜日」

 

「そっかー」

 

 彼女はスプーンを動かしながら、何かを考えている。

 

「……電話、来るかな」

 

「さあな」

 

「えー、そこは来るって言ってよ!」

 

「俺が決められることじゃないだろ」

 

「それはそうだけど!」

 

 アイは頬を膨らませた。

 

 それから、少し恥ずかしそうに笑う。

 

「……早く、返事が聞きたいな」

 

 その声を聞いて、俺は胸の奥が痛くなった。

 

 彼女は、本当に楽しみにしている。

 

 当たり前だ。

 

 ずっと夢見ていたことに、手が届くかもしれないのだから。

 

 それなのに俺は、その夢の先にあるものを恐れている。

 

 彼女が進もうとしている道を、心のどこかで止めたがっている。

 

 応援すると決めたはずなのに。

 

 自分で選んだ道を歩いてほしいと願ったはずなのに。

 

 俺はまだ、彼女が選ぶ未来を信じ切れていなかった。

 

 *

 

 電話が来たのは、その日の午後だった。

 

「アイちゃん、ちょっといいかしら」

 

 職員に呼ばれた瞬間、アイの顔がぱっと輝いた。

 

「はい!」

 

 返事をしてから、彼女は一度だけ俺を見た。

 

 何かを言いたそうな顔。

 

 けれど、すぐに笑って職員の後を追いかけていった。

 

 俺は廊下に残されたまま、その背中を見送った。

 

 しばらくして、部屋の向こうから明るい声が聞こえてきた。

 

「……本当ですか!?」

 

 続いて、何度も繰り返される「はい!」という返事。

 

 壁越しでも分かるほど、嬉しそうな声だった。

 

 俺は壁に背中を預け、目を閉じた。

 

 ついに、動き始めた。

 

 彼女の未来が。

 

 俺の知っている物語が。

 

 ――いや。

 

 違う。

 

 これは、俺の知っている物語じゃない。

 

 今、あの部屋の中で話しているのは、漫画の登場人物じゃない。

 

 星野アイという、一人の少女だ。

 

 彼女がどんな話をしているのか、俺には分からない。

 

 何を約束したのかも、何を期待されているのかも。

 

 それでも、俺は彼女が笑っていることを願った。

 

 どうか、その夢が彼女を幸せにしますように。

 

 どうか、俺の知らない未来が待っていますように。

 

 そう願うことしかできなかった。

 

 *

 

「透くん!」

 

 電話が終わってしばらくすると、アイが廊下を駆けてきた。

 

 顔が、いつも以上に明るい。

 

「決まった!」

 

「……何が?」

 

「芸能事務所の人がね、また会いたいって!」

 

 彼女は両手を握りしめた。

 

「今度は、もっとちゃんとお話しするんだって! もしかしたら、お仕事の話もできるかもしれないって!」

 

「そっか」

 

「うん!」

 

 アイは嬉しそうにうなずいた。

 

「すごくない? 私、ほんとにアイドルになれるかもしれない!」

 

 その笑顔を見て、俺は言葉を失った。

 

 喜んでいる。

 

 心の底から。

 

 それなのに、俺の頭には嫌な想像ばかりが浮かんでくる。

 

 芸能界に入れば、たくさんの人に出会う。

 

 たくさんの人に見られ、評価される。

 

 期待されることもあれば、傷つけられることもあるだろう。

 

 そして、彼女の人生は、俺の知っている未来へ近づいていく。

 

 何かをしなければ。

 

 今のうちに、危険なことを教えておかなければ。

 

 そう思った。

 

「……アイ」

 

「ん?」

 

「芸能界ってさ、思ってるほど楽しいことばかりじゃないと思う」

 

 言った瞬間、アイの笑顔が止まった。

 

「……え?」

 

「もちろん、いいこともあるんだろうけど。変な大人だっているだろうし、嫌な思いをすることもあるかもしれない」

 

 俺は、自分でも何を言っているのか分からなくなりながら続けた。

 

「だから、もう少し慎重に考えたほうがいいんじゃないか」

 

 沈黙。

 

 アイは、俺の顔を見つめていた。

 

 さっきまでの輝きが、少しずつ薄れていく。

 

「……どうして?」

 

 小さな声だった。

 

「え?」

 

「どうして、そんなこと言うの?」

 

 俺は答えられなかった。

 

 彼女を守りたいから。

 

 失いたくないから。

 

 その先にある未来を知っているから。

 

 でも、どれも言えない。

 

 俺はただ、彼女を傷つけたくなかった。

 

 そのはずなのに。

 

「……心配だから」

 

 ようやく出てきた言葉は、それだけだった。

 

 アイはしばらく黙っていた。

 

 やがて、いつものように笑った。

 

「そっか」

 

 けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。

 

「心配してくれて、ありがと」

 

 そう言って、彼女は俺の横を通り過ぎた。

 

 俺は、呼び止めることができなかった。

 

 何かが間違っていた。

 

 でも、何が間違っていたのか、分からなかった。

 

 *

 

 その日の夕方。

 

 アイは、いつもより口数が少なかった。

 

 年下の子どもたちに話しかけられれば笑顔で応じるし、職員に頼まれたこともきちんとこなしていた。

 

 傍から見れば、いつもと変わらない。

 

 けれど、俺には分かった。

 

 彼女は、俺を避けている。

 

 目が合えばすぐにそらす。

 

 俺が近づくと、別の場所へ移動する。

 

 話しかけても、「うん」「そうだね」と短く答えるだけだった。

 

 初めてだった。

 

 アイが、俺にこんな態度を取るのは。

 

 胸の奥が、じわじわと重くなる。

 

 俺は何か、取り返しのつかないことを言ってしまったのだろうか。

 

 ただ、心配だっただけなのに。

 

 彼女を守りたかっただけなのに。

 

 どうして、こんなことになってしまったんだろう。

 

 夕食のあと、俺は意を決してアイを探した。

 

 彼女は施設の裏庭にいた。

 

 ベンチに座り、膝を抱えるようにして、ぼんやりと空を見上げていた。

 

「……アイ」

 

 声をかけると、彼女は少しだけ肩を揺らした。

 

「あ、透くん」

 

 振り向いた顔には、いつもの笑顔が浮かんでいた。

 

 でも、その笑顔を見た瞬間、俺は足を止めた。

 

 無理に笑っている。

 

 そう感じた。

 

 根拠なんてない。

 

 ただ、そう思った。

 

「隣、いいか?」

 

「……うん」

 

 俺は彼女の隣に座った。

 

 しばらく、二人とも何も話さなかった。

 

 風が吹いて、庭の木の葉が揺れる。

 

 遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえていた。

 

 いつもと同じ夜だった。

 

 なのに、俺たちの間には、何かが挟まっているような気がした。

 

「……今日のことなんだけど」

 

 俺が口を開くと、アイは顔を上げた。

 

「うん」

 

「悪かった」

 

「……え?」

 

「芸能界のこと。あんな言い方するつもりじゃなかったんだ」

 

 アイは、黙って俺を見ていた。

 

「アイが夢を叶えたいって思ってるのは、知ってる。だから、応援したいと思ってる」

 

「……うん」

 

「ただ、俺は……」

 

 言葉が詰まった。

 

 何を言えばいいのか。

 

 どうすれば、彼女に伝わるのか。

 

 俺は、未来を知っている。

 

 でも、そのことを話すわけにはいかない。

 

 話したところで、信じてもらえるとは思えない。

 

 それどころか、彼女を余計に不安にさせるかもしれない。

 

「……ただ?」

 

 アイが続きを促した。

 

 俺は、拳を握りしめた。

 

「……怖いんだ」

 

 口にした瞬間、自分でも驚いた。

 

 怖い。

 

 そうだ。

 

 俺は、怖かったのだ。

 

 彼女が夢を叶えることが。

 

 彼女が遠くへ行ってしまうことが。

 

 俺の知らない場所で、俺の知らない誰かに傷つけられることが。

 

 そして、いつか彼女を失ってしまうことが。

 

 全部、怖かった。

 

 でも、それをそのまま伝えることはできなかった。

 

「……アイが、嫌な思いをしたらどうしようって」

 

 俺は、なんとか言葉を続けた。

 

「もし、夢を叶えるために無理をしなきゃいけなくなったら。もし、誰かに傷つけられたら。そう考えると、どうしても……」

 

 そこまで言って、口を閉じた。

 

 これでは、ただの言い訳だ。

 

 自分の恐怖を、彼女に押しつけているだけだ。

 

 アイは、しばらく俺を見つめていた。

 

 それから、ぽつりと言った。

 

「……透くんは、私の夢を応援してくれてるんじゃないの?」

 

 胸が、ぎゅっと締めつけられた。

 

「……応援してるよ」

 

「じゃあ、どうして?」

 

 彼女の声が、少しだけ震えた。

 

「私がやりたいって言ったことなのに。まだ何も始まってないのに、どうしてそんなに怖がるの?」

 

 俺は答えられなかった。

 

「私、ちゃんと考えてるよ」

 

 アイは膝の上で手を握った。

 

「もちろん、分からないことだってあるし、怖いこともあると思う。でも、やってみたいんだもん」

 

「……うん」

 

「私が自分で決めたことなのに……」

 

 彼女は、そこで言葉を切った。

 

 顔を伏せる。

 

 しばらくして、いつもの明るい声を作った。

 

「……ごめんね。なんか、変なこと言っちゃった」

 

「アイ……」

 

「大丈夫! 透くんが心配してくれてるのは分かってるから!」

 

 彼女は笑った。

 

 その笑顔を見て、俺は何も言えなくなった。

 

 違う。

 

 そうじゃない。

 

 謝るのは、俺のほうだ。

 

 彼女は自分の夢を語っただけだった。

 

 その夢をどうするか、決める権利は彼女にある。

 

 俺が未来を知っているからといって、彼女の選択を怖がり、否定していいわけではない。

 

 それなのに俺は、彼女の夢を応援すると言いながら、心のどこかでは止めようとしていた。

 

 彼女のためだと、自分に言い聞かせながら。

 

 結局、俺は自分が安心したかっただけなのかもしれない。

 

 アイが危険な場所へ行かなければ、俺は彼女を失わずに済む。

 

 そう考えていたのかもしれない。

 

 ……最低だ。

 

 俺は、彼女を救いたいはずなのに。

 

 いつの間にか、自分の恐怖を優先していた。

 

「……ごめん」

 

 俺は、もう一度謝った。

 

 アイは顔を上げた。

 

「え?」

 

「アイの夢を、俺の勝手な不安で否定するみたいなことを言った」

 

 彼女は黙っていた。

 

「俺が怖いからって、アイに諦めてほしいわけじゃないんだ」

 

 それは、本心だった。

 

 彼女には夢を叶えてほしい。

 

 たくさんの人を笑顔にしてほしい。

 

 そして、彼女自身にも幸せになってほしい。

 

 そのために、俺は何ができるのかを考えなければならない。

 

 彼女の人生を止めるのではなく、彼女が進む道を守る方法を。

 

「……アイがやりたいなら、やってみてほしい」

 

 俺は、彼女を見た。

 

「俺は、応援する。今度は、ちゃんと」

 

 アイは、何も言わなかった。

 

 ただ、俺の顔をじっと見つめていた。

 

 その瞳の中にあるものを、俺は読み取れなかった。

 

 しばらくして、彼女は小さく息を吐いた。

 

「……うん」

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「ありがと」

 

 俺は、その言葉に安心しかけた。

 

 けれど、アイは続けた。

 

「でも、透くん」

 

「……何?」

 

「私のこと、心配しすぎないでね」

 

 その言葉は、優しかった。

 

 責めるような響きはなかった。

 

 だからこそ、胸に刺さった。

 

「私、自分で決めたいんだ」

 

 アイは空を見上げた。

 

「失敗したら、きっと落ち込むし。嫌なことがあったら、泣いちゃうかもしれない」

 

 彼女は、少しだけ笑った。

 

「でも、それも私が選んだことなら、ちゃんと受け止めたい」

 

 俺は黙って聞いていた。

 

「だからさ。透くんには、私が失敗しないように見張るんじゃなくて……」

 

 アイは、俺のほうを向いた。

 

「失敗したときに、話を聞いてほしいな」

 

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。

 

 彼女は、俺に何かを求めてくれている。

 

 未来を変える方法でも、悲劇を防ぐための計画でもない。

 

 ただ、自分が失敗したときに、話を聞いてほしい。

 

 それだけだった。

 

 俺は、今まで何を考えていたのだろう。

 

 どうすれば悲劇を防げるか。

 

 どうすれば彼女を危険から遠ざけられるか。

 

 そんなことばかり考えていた。

 

 でも、目の前にいる彼女が望んでいたのは、もっと簡単なことだったのかもしれない。

 

「……分かった」

 

 俺は答えた。

 

「約束する」

 

 アイは、少しだけ目を丸くした。

 

 それから、いつものように小指を差し出した。

 

「じゃあ、約束ね!」

 

 俺はその小指に、自分の指を絡めた。

 

「……ああ」

 

 小さな約束。

 

 何度目かの約束。

 

 それでも今度は、少しだけ違う意味を持っている気がした。

 

 俺は、彼女の未来を守ると誓った。

 

 でも、それは彼女の選択を奪うことではない。

 

 彼女が自分で選んだ道を歩けるように。

 

 その道の途中で、もし彼女が立ち止まったなら。

 

 もし、助けを求めてくれたなら。

 

 そのときは、ちゃんと隣にいよう。

 

 彼女の代わりに人生を決めるのではなく、彼女が自分の人生を選べるように。

 

 そう思った。

 

 *

 

 その夜、俺はなかなか眠れなかった。

 

 アイの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

 

 ――私が失敗したときに、話を聞いてほしいな。

 

 彼女は、未来を知らない。

 

 自分がどんな運命をたどるのかも、どんな悲劇が待っているのかも。

 

 それでも、彼女は前に進もうとしている。

 

 自分の意思で。

 

 自分の夢を叶えるために。

 

 俺は、彼女を止めることができる。

 

 少なくとも、今なら。

 

 芸能界に入ることを思いとどまらせればいい。

 

 夢を諦めるように説得すればいい。

 

 そうすれば、俺の知っている未来は変わるかもしれない。

 

 でも。

 

 それは、本当に彼女を救うことなのだろうか。

 

 彼女が望んでいるものを奪って、彼女が悲劇に遭わないようにする。

 

 それは、彼女のためなのか。

 

 それとも、彼女を失うのが怖い俺自身のためなのか。

 

 答えは、まだ出なかった。

 

 ただ、一つだけ分かったことがある。

 

 俺は、星野アイの未来を知っている。

 

 でも、星野アイの人生を知っているわけではない。

 

 彼女がどんな選択をして、何を大切にして、どんな未来を望むのか。

 

 それを決めるのは、俺じゃない。

 

 俺は、彼女の隣にいる人間でありたい。

 

 彼女の前を歩いて道を決める人間でも、後ろから無理やり押す人間でもなく。

 

 彼女が選んだ道を、隣で一緒に歩ける人間に。

 

 そう思った。

 

 窓の外では、星が輝いていた。

 

 その光は遠く、手を伸ばしても届かない。

 

 けれど、届かないからといって、見上げることまで諦める必要はない。

 

 俺は、目を閉じた。

 

 明日からは、もう少しだけ彼女を信じよう。

 

 彼女が自分の夢を選んだことを。

 

 そして、俺自身が彼女を支えられる人間になれることを。

 

 そう願った。

 

 ――けれど。

 

 翌日、アイから聞かされた言葉は、俺の決意を簡単に揺さぶることになる。

 

 彼女の夢が、思っていたよりもずっと早く、現実になろうとしていたからだ。

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