「透くん! 聞いて聞いて!」
翌朝、目が覚めて食堂へ向かう途中。
廊下の向こうから駆けてきたアイが、勢いよく俺の前で立ち止まった。
「決まったの!」
「……何が?」
「今度、事務所の人と会う日!」
アイは両手をぎゅっと握りしめた。
「今度はね、ちゃんとアイドルのお仕事について話すんだって。歌とかダンスとか、そういうのも!」
その笑顔を見た瞬間、俺の胸が跳ねた。
ついに来た。
アイが、アイドルになるための一歩を踏み出す。
原作の知識なんて曖昧だ。これから何が起きるのか、どこまで未来を変えられるのか、俺には分からない。
それでも、彼女が夢に近づいたことだけは分かった。
「……そっか。よかったな」
俺がそう言うと、アイは少しだけ目を丸くした。
「ん? 今日はちゃんと喜んでくれるんだ?」
「昨日も喜んでただろ」
「えー? なんか怖い顔してたよ」
「それは……」
言い返せない。
アイはくすくす笑ってから、俺の顔を覗き込んだ。
「じゃあさ、今度こそ応援してくれる?」
「……うん。応援する」
今度は、迷わず言えた。
アイは満足そうに頷くと、俺の手を取った。
「よし! じゃあ、約束ね!」
小指を差し出される。
「またそれかよ」
「大事なことは何回約束したっていいの!」
俺たちは指を絡めた。
「アイがアイドルになったら、絶対テレビで見る」
「うん! それで?」
「それで?」
「テレビの前で、ちゃんと私のこと褒めてね!」
思わず笑ってしまった。
「自分で言うなよ」
「だって、褒められたいもん!」
そんなやり取りができることが、嬉しかった。
俺が守りたいと思っているのは、未来の星野アイだけじゃない。
今、目の前で笑っている、この子だ。
だからこそ、彼女の夢を怖がるばかりじゃ駄目なんだ。
数日後。
アイは施設の職員に付き添われ、事務所の担当者と会うことになった。
俺は当然、ついていけない。
出発前、玄関で靴を履くアイに声をかけた。
「緊張してる?」
「全然!」
即答だった。
「……ほんとか?」
「ちょっとだけ!」
アイは舌を出して笑った。
いつも通りの明るい顔。
けれど、靴紐を結び直す指先が、ほんの少しだけ落ち着かなかった。
「アイ」
呼び止めると、彼女が振り返る。
「上手くいかなくても、別に終わりじゃないからな」
「……うん」
「だから、無理にいい子になろうとしなくていい。嫌なことがあったら嫌って言っていいし、分からないことは聞けばいい」
言いながら、俺は自分が少し前まで彼女の夢そのものを止めようとしていたことを思い出した。
だから、最後に付け足す。
「でも、アイがやりたいなら、俺は応援する」
アイはしばらく俺を見つめていた。
それから、ふっと笑った。
「透くんって、たまにお母さんみたいだよね」
「は?」
「心配性!」
「誰のせいだと思ってんだよ……」
アイは楽しそうに笑い、職員に呼ばれて玄関を出ていった。
その背中が見えなくなるまで、俺はそこに立っていた。
今度は、引き止めなかった。
夕方。
アイが帰ってきたのは、日が沈みかけた頃だった。
「ただいまー!」
玄関に響く声は、朝よりもずっと弾んでいた。
俺が廊下に出ると、アイは靴を脱ぐなり駆け寄ってきた。
「透くん! あのね、あのね!」
「落ち着け。順番に話せ」
「無理!」
全然落ち着いていない。
アイは俺の袖を掴んだまま、満面の笑みで言った。
「私、アイドルになれるかもしれない!」
一瞬、息が止まった。
「……ほんとに?」
「うん! まだ正式に決まったわけじゃないけど、ちゃんとお話が進んだの。これから歌とかダンスとか、いろいろ準備していくんだって!」
言葉が次々に飛び出してくる。
どんな話をしたのか。どんなことを聞かれたのか。担当者がどんな人だったのか。
アイは、今日あったことを全部俺に話そうとしていた。
その姿を見て、俺はようやく気づいた。
彼女は、俺に許可を求めているわけじゃない。
ただ、自分に起きた嬉しいことを、一緒に喜んでほしいだけなんだ。
「……そっか」
俺は笑った。
今度は、ちゃんと。
「おめでとう、アイ」
アイの表情が止まった。
「……え?」
「まだ決まったわけじゃないんだろ。でも、夢に近づいたんだろ。だったら、おめでとうでいいじゃん」
アイは何度か瞬きをして、それから、くしゃっと顔をほころばせた。
「……うん!」
その声が少しだけ震えていたことには、気づかないふりをした。
「ねえ、透くん」
「ん?」
「私、絶対アイドルになるね」
まっすぐな目だった。
未来を知らない目。
失うものの大きさも、傷つく痛みも、まだ知らない目。
俺は、その未来を知っているつもりだった。
けれど、今の俺にできることは、未来を理由に彼女の足を止めることじゃない。
「うん。なれよ」
そう答えると、アイは嬉しそうに笑った。
「そのときは、一番に見つけてね!」
「分かった」
「約束!」
また小指を差し出される。
俺は笑いながら、それに自分の小指を絡めた。
その夜。
消灯時間を過ぎても、俺はなかなか眠れなかった。
アイは、夢に向かって進み始めた。
これから彼女の世界は広がっていく。
新しい人と出会い、新しいことを覚えて、今まで知らなかった場所へ行くのだろう。
俺の知らないアイが、少しずつ増えていく。
それが寂しいと思った自分に、少し驚いた。
俺は彼女の人生を救いたい。
でも、俺が知らない時間を過ごすことまで、怖がってはいけない。
彼女の世界が広がることは、俺から遠ざかることと同じじゃない。
そう自分に言い聞かせた。
そのとき、廊下から小さな足音が聞こえた。
扉を開けると、そこにアイが立っていた。
「……アイ? どうした?」
「眠れなくて」
昼間の明るさとは違う、少し心細そうな顔。
「明日から、歌の練習とか始まるんだって。楽しみなんだけど……なんか、急に怖くなっちゃった」
俺は黙って彼女の話を聞いた。
「私、本当にできるのかな。ちゃんとアイドルになれるのかな」
初めて聞く弱音だった。
いや、違う。
きっと、今までにもあったのだろう。
俺が気づいていなかっただけで。
「……分かんない」
俺が正直に答えると、アイは少しだけ笑った。
「えー、そこは大丈夫って言ってよ」
「嘘ついても仕方ないだろ」
「ひどーい!」
アイは頬を膨らませた。
俺は続ける。
「でも、アイが頑張りたいなら、俺は味方でいるよ。上手くいったら一緒に喜ぶし、上手くいかなかったら話を聞く」
「……失敗しても?」
「失敗しても」
「かっこ悪くても?」
「それは知らん」
「そこは否定してよ!」
アイが笑う。
今度の笑顔は、無理に作ったものじゃなかった。
「……ありがと、透くん」
彼女は小さな声で言った。
「私、頑張ってみるね」
「うん」
「だから、ちゃんと見ててね」
「ああ。ちゃんと見てる」
アイは満足そうに頷くと、自分の部屋へ戻っていった。
扉が閉まる直前、彼女が振り返る。
「おやすみ、透くん!」
「おやすみ」
扉が閉じた。
静かになった廊下で、俺はしばらく立ち尽くしていた。
彼女は、夢を見つけた。
俺は、その夢を守りたい。
でも、守るという言葉を理由に、彼女の選択を奪いたくはない。
それだけは、忘れないでいよう。
――そう決めた。
けれど翌日。
アイの夢が動き出すのと同時に、俺はひとつの現実を知ることになる。
彼女が夢に近づくほど、俺が知っているはずの未来からも、少しずつ何かが変わっていくのだと。