アイがアイドルになるための準備を始めてから、一週間が経った。
その間に、いくつかのことが変わった。
朝、アイが起きる時間が少し早くなった。
食堂で食べる朝食の量が増えた。
暇さえあれば、窓ガラスを鏡代わりにして笑顔の練習をするようになった。
そして、俺に会うたびに聞いてくる質問がひとつ増えた。
「ねえ、透くん。私ってかわいい?」
「……は?」
「だから、かわいい?」
「急に何だよ」
「いいから、答えて!」
朝食を食べていた俺は、箸を止めた。
向かいに座るアイは、いつになく真剣な顔をしている。
いや、真剣というより、答えを待ち構えている顔だ。俺が何を言うのか、絶対に聞き逃さないぞ、という圧がある。
「……かわいいんじゃない?」
「んー、なんか微妙!」
「じゃあ聞くなよ!」
「あははっ!」
アイは楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺はようやく納得した。
こいつ、絶対に俺で遊んでいる。
「最近、ずっとそんなこと聞いてくるよな」
「だって、アイドルってかわいくなきゃ駄目なんでしょ?」
「そんなことはないと思うけど」
「でも、かわいいほうがいいじゃん!」
それは、まあ、そうなのかもしれない。
ただ、俺が知っているアイは、誰かにかわいいと言ってもらうためだけに笑うような子ではなかった。
泣いている子を見つければ、放っておけない。
誰かが困っていれば、自分のことを後回しにしてでも助けようとする。
そして、自分が困っているときには、平気な顔をする。
そんな子だった。
だからこそ、俺は少し心配だった。
アイドルという仕事は、きっと彼女のいいところをたくさん輝かせる。
けれど、同時に。
彼女が無理をしてしまう理由も、増やしてしまうんじゃないか。
「……アイ」
「ん?」
「疲れたら、ちゃんと休めよ」
すると、アイはきょとんとした。
「それ、昨日も言ってたよ?」
「今日も言う」
「おじいちゃんみたい!」
「誰がおじいちゃんだ」
アイはけらけら笑った。
俺も、つられて笑った。
今はこれでいい。
まだ、俺にできることは多くない。
だからせめて、彼女が笑っているときに、その笑顔が本物かどうかを見失わないでいたかった。
――その日の午後。
アイは、初めての本格的なレッスンを受けるため、事務所へ向かった。
そして帰ってきたとき。
「もう無理ぃぃぃ……!」
玄関に入るなり、そう叫んだ。
*
「……そんなに大変だったのか?」
「大変だった! めっちゃ大変だった!」
アイはソファに倒れ込んだ。
普段なら職員に注意されるような態度だが、今日はそれどころではないらしい。
髪は少し乱れ、頬も赤い。
それでも、目だけは妙にきらきらしていた。
「歌の練習もしたし、ダンスもしたし、自己紹介もしたし!」
「盛りだくさんだな」
「しかもね、笑顔の練習が一番難しかった!」
「笑顔?」
「うん!」
アイは勢いよく起き上がった。
「先生にね、『もっと楽しそうに!』って言われたの。だから、にこーって笑ったんだけど、『ちょっと違う』って」
彼女は頬に指を当てた。
「それで、今度はもっと元気に笑ってみたの。そしたら『作りすぎかな』って!」
「……難しいな」
「でしょ!?」
アイは俺のほうへ身を乗り出した。
「笑顔って、笑えばいいだけじゃないんだね!」
その言葉に、俺は少しだけ返事に詰まった。
笑顔。
彼女にとって、それはずっと自然なものだったはずだ。
誰かを安心させるために。
誰かを喜ばせるために。
ときには、自分の気持ちを隠すために。
アイは、笑うことが上手だった。
だからこそ、今さら「笑顔を作れ」と言われて戸惑っているのかもしれない。
「……先生は、何て言ってたんだ?」
「えっとね。『星野さんは人を惹きつける表情を持っているから、あとは見せ方を覚えましょう』って!」
アイは少し誇らしそうに胸を張った。
「すごくない? 私、人を惹きつけるんだって!」
「すごいじゃん」
「でしょー!」
けれど、次の瞬間には、アイは視線を落とした。
「……でもさ」
「ん?」
「私が今までやってきた笑顔って、間違ってたのかな」
小さな声だった。
俺は思わず眉を寄せた。
「何でそうなるんだよ」
「だって、先生に何回も直されたし」
「それは、アイが駄目だからじゃないだろ」
「……そうかな」
「そうだよ」
俺は即答した。
「今までの笑顔が間違ってたんじゃなくて、これから新しい笑い方を覚えるんじゃないの」
アイが顔を上げる。
「新しい笑い方?」
「ステージに立つときの笑顔とか、写真を撮るときの笑顔とか。そういうのを練習してるんだろ?」
「……うん」
「だったら、今までのアイまで否定する必要ないじゃん」
俺の言葉を聞いて、アイはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと表情を緩めた。
「……透くんって、たまにいいこと言うよね」
「たまに、は余計だろ」
「いつもは変なことばっかり言うから!」
「お前なあ……」
アイはまた笑った。
その笑顔を見て、俺は少しだけ安心した。
彼女がこれから覚えるものは、きっとたくさんある。
でも、覚えたものが増えるたびに、今までの彼女を失っていく必要はない。
俺は、それを忘れないようにしようと思った。
*
それから三日後。
アイが事務所から帰ってくるなり、俺を探し始めた。
「透くーん! どこー!?」
「うるさい、ここにいる!」
廊下の奥から返事をすると、アイが飛び込んできた。
「聞いて!」
「はいはい、今度は何だよ」
「私、写真を撮ってもらうことになった!」
「……写真?」
「うん! プロフィール用の写真! まだ正式なデビューが決まったわけじゃないけど、これからいろんな人に見てもらうために必要なんだって!」
彼女は、両手で顔を挟んだ。
「どうしよう! 写真だよ!? ずっと残るんだよ!?」
「そりゃ写真なんだからな」
「そういうことじゃないの!」
アイは俺の肩を掴んだ。
「ねえ、私、変な顔してない?」
「してない」
「本当に?」
「本当」
「今の私、かわいい?」
「またそれかよ!」
「あははっ!」
いつものやり取り。
いつもの笑顔。
でも、その奥にある期待と緊張は、今までよりずっと大きかった。
写真を撮る。
たったそれだけのことに見えるかもしれない。
けれど、アイにとっては、自分が夢へ進んでいることを形にする、初めての一歩なのだ。
「……楽しみだな」
俺がそう言うと、アイは少し驚いたように目を見開いた。
「透くんも?」
「当たり前だろ」
「そっか」
アイは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、いい写真が撮れたら見せてあげる!」
「おう」
「絶対だよ!」
「分かってるって」
彼女は満足そうに頷いた。
その姿を見ながら、俺はふと思った。
俺は今まで、アイの未来を変えることばかり考えていた。
彼女が傷つかないように。
悲しまないように。
あの結末にたどり着かないように。
けれど、未来を変えるというのは、何も悲劇を避けることだけではないのかもしれない。
こうして彼女が夢を叶える瞬間を、ひとつずつ増やしていくこと。
彼女が自分の人生を、自分のものだと思える時間を増やしていくこと。
それだって、未来を変えることなのだ。
そう思えるようになっただけでも、俺は少し変われたのかもしれない。
*
写真撮影の日。
俺は施設の窓から、出かけていくアイを見送った。
「行ってきまーす!」
玄関先で、アイが大きく手を振る。
「行ってらっしゃい!」
俺も手を振り返した。
アイは最後にもう一度こちらを見て、にっと笑った。
その笑顔が見えなくなるまで、俺は窓の前に立っていた。
そして、数時間後。
帰ってきたアイは、妙に静かだった。
「……おかえり」
「ただいま」
いつもなら、玄関を開けた瞬間から撮影の話を始めるはずなのに。
今日は違った。
アイは靴を揃え、鞄を持ち直してから、ゆっくりと廊下を歩いてきた。
「……どうした?」
「んーん。何でもないよ」
そう言って笑う。
俺は、その笑顔に違和感を覚えた。
いつものアイなら、何か嬉しいことがあったときは、隠そうとしても隠しきれない。
逆に、嫌なことがあったときは、いつも以上に明るく振る舞う。
俺は、後者を何度か見たことがあった。
「アイ」
「なあに?」
「何かあった?」
アイの笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
けれど、すぐに元に戻る。
「何にもないって!」
「……そっか」
俺は、それ以上聞かなかった。
無理に聞き出すことが、正しいとは限らない。
そう分かっている。
分かっているけれど。
彼女が何かを隠しているとき、何もできずにいるのは、やっぱり怖かった。
「……ねえ、透くん」
アイが、俺の袖を引いた。
「ちょっとだけ、付き合ってくれる?」
「どこに?」
「庭」
俺は頷いた。
*
夕暮れの庭は、少し肌寒かった。
俺たちは、いつものベンチに並んで座った。
アイはしばらく黙っていた。
膝の上に置いた手を見つめて、何かを考えているようだった。
「……今日ね」
やがて、ぽつりと口を開いた。
「写真を撮ってもらったの」
「うん」
「カメラマンさんも、事務所の人も、みんな優しかったよ。いっぱい褒めてくれたし、かわいいって言ってくれた」
「……そっか」
「でもね」
アイは、少しだけ笑った。
「途中で、何回も言われたんだ。『もっと笑って』って」
俺は黙って聞いた。
「私、笑ってたつもりだったんだけどな。ちゃんと口角を上げて、目も細めて、楽しそうにしてたつもりだったんだけど……」
アイは自分の頬に触れた。
「何回やっても、まだ足りないみたいだった」
風が吹いた。
庭の木々が、かすかに揺れる。
「……最後にね、カメラマンさんが言ったの」
アイは、遠くを見つめたまま続けた。
「『君は、笑っているときが一番かわいいね』って」
俺は、思わず顔を向けた。
「……それの何が嫌だったんだ?」
「嫌だったわけじゃないよ」
アイはすぐに答えた。
「嬉しかった。すっごく嬉しかったんだよ。かわいいって言ってもらえたし、写真も上手く撮れたって言ってもらえたし」
「うん」
「でも……」
そこで、アイの声が小さくなった。
「じゃあ、笑ってない私は?」
俺は、言葉を失った。
アイは自分の膝を見つめていた。
「笑ってないときの私って、かわいくないのかな。悲しいときとか、怒ってるときとか、何も考えてないときとか……そういう私じゃ、駄目なのかな」
その言葉は、俺が思っていたよりずっと重かった。
彼女は、ただ写真を撮られただけだ。
たった数時間の出来事。
それでも、誰かの言葉は、時に自分自身の見方を変えてしまう。
特に、アイのように、人の言葉を大切にする子なら。
「……アイ」
「ごめんね。変なこと言って」
「変じゃない」
俺はすぐに答えた。
「全然、変じゃないよ」
アイは、少しだけ顔を上げた。
「俺は、笑ってないアイもアイだと思う」
口に出してみると、当たり前のことだった。
「怒ることもあるだろうし、泣きたいときもあるだろ。何もしたくない日だってあると思う。そういうときまで、無理に笑う必要はないんじゃないか」
「……でも、アイドルは笑顔を届ける仕事なんでしょ?」
「そうかもしれない」
俺は頷いた。
「でも、ずっと笑顔でいなきゃいけないってこととは違うと思う」
アイは、じっと俺を見ていた。
「ステージで笑うことと、自分の気持ちを隠すことは、同じじゃないだろ」
自分で言いながら、胸が痛くなった。
俺は知っている。
星野アイという少女が、どれだけ人を笑顔にするのが上手なのか。
そして、その笑顔の裏に、どれだけ多くのものを隠してしまうのか。
けれど、今の彼女はまだ、その先にいるわけじゃない。
彼女は今、初めて、自分の笑顔について悩んでいる。
だったら。
この瞬間くらいは、誰かの期待に応えなくてもいいと思ってほしかった。
「……透くんはさ」
アイが、ゆっくりと口を開いた。
「私が笑ってなくても、そばにいてくれる?」
その質問に、俺は一瞬だけ息を止めた。
彼女は笑っていなかった。
いつものように口角を上げて、相手を安心させる顔をしていなかった。
ただ、少し不安そうに俺を見つめていた。
「……いるよ」
俺は答えた。
「笑ってても、笑ってなくても。元気でも、元気じゃなくても」
アイの瞳が揺れた。
「……そっか」
彼女は俯いた。
その肩が、ほんの少しだけ下がった。
張り詰めていた何かが、緩んだように見えた。
「……ありがと」
声は小さかった。
俺は、何も言わずに隣にいた。
励ます言葉を探す必要はない。
無理に笑わせる必要もない。
ただ、彼女が自分の気持ちを話せる場所でありたい。
今は、それでよかった。
*
「……ねえ、透くん」
しばらくして、アイが顔を上げた。
「私、アイドルになりたい」
「うん」
「みんなを笑顔にしたい。私の歌を聞いて、元気になってくれる人がいたら嬉しいし、私を見て、明日も頑張ろうって思ってくれる人がいたら、もっと嬉しい」
その声には、迷いがなかった。
「だから、笑顔の練習もするし、歌もダンスも頑張る。もっとかわいくなりたいし、もっと上手になりたい」
アイは、両手をぎゅっと握った。
「でも……私が本当に辛いときまで、笑わなきゃいけないのは嫌だな」
俺は頷いた。
「……うん」
「そんなの、わがままかな?」
「全然」
今度は、少しも迷わなかった。
「自分が辛いときに辛いって言うのは、わがままじゃないよ」
アイは俺を見つめた。
それから、ゆっくりと笑った。
今度の笑顔は、さっきまでのものとは違っていた。
誰かに見せるために作った笑顔でも、相手を安心させるための笑顔でもない。
ただ、安心したからこぼれたような笑顔だった。
「……透くんって、ほんと変だね」
「またそれかよ」
「だって、みんなが言ってくれることと、ちょっと違うんだもん」
「悪い意味?」
「ううん」
アイは首を振った。
「いい意味!」
そう言って、彼女は立ち上がった。
「よーし! 明日も頑張るぞー!」
「切り替え早いな……」
「悩んでても仕方ないもん!」
アイは振り返って、俺に手を差し出した。
「透くんも、一緒に帰ろ!」
俺はその手を取った。
彼女の手は、少し冷たかった。
けれど、その指先はしっかりと俺の手を握り返していた。
*
翌日。
アイは、いつもより少しだけ早く起きてきた。
「おはよー!」
「おはよう。今日は早いな」
「うん! 今日はレッスンだから!」
食堂の椅子に座りながら、アイは楽しそうに話し始めた。
「昨日ね、いっぱい考えたの。笑顔のこと」
「……何か分かった?」
「うん!」
アイは、にっと笑った。
「私、笑顔の練習をするのはやめない。でも、笑いたくないときにまで笑う練習はしない!」
「……そっか」
「だって、私がアイドルになりたいのは、みんなを笑顔にしたいからだもん。私まで笑えなくなっちゃったら、意味ないでしょ?」
その言葉に、俺は少しだけ目を見開いた。
彼女は、自分で答えを見つけたのだ。
誰かに教えられたわけでもなく。
俺が決めた答えを、そのまま受け入れたわけでもなく。
自分で考えて、自分で選んだ。
「……いいと思う」
「でしょ!」
アイは満足そうに笑った。
「じゃあ、今日も頑張ってくるね!」
「ああ。行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
玄関へ向かう彼女の背中を見送りながら、俺は思った。
これで、何かが劇的に変わるわけじゃない。
彼女が将来、傷つかなくなるわけでもない。
俺が知っている未来が、完全に消えたわけでもない。
それでも。
彼女が自分の気持ちを、ほんの少しでも大切にできたのなら。
それは、確かな一歩だ。
俺は、そう信じたかった。
*
それから、さらに数日が過ぎた。
アイはレッスンを重ね、プロフィール用の写真も完成した。
そして、ついに。
「透くん! 見て!」
ある日の夕方、アイが一枚の写真を持って、俺の前に現れた。
そこには、綺麗に整えられた髪と、明るい瞳。
そして、まっすぐにこちらを見つめる少女が写っていた。
「……おお」
思わず声が漏れた。
写真の中のアイは、確かにかわいかった。
けれど、それ以上に。
何かを始めようとしている人間の、強い目をしていた。
「どう? どう!?」
「……いいじゃん」
「それだけ!?」
「いや、かわいいよ。ちゃんと」
アイは一瞬、固まった。
そして、見る見るうちに頬を赤くした。
「……な、なにそれ。急に真面目に言わないでよ!」
「お前が聞いたんだろ!」
「そうだけど!」
アイは写真を胸に抱え、そっぽを向いた。
耳まで赤い。
そんな反応をするのが意外で、俺は思わず笑ってしまった。
「……笑わないで!」
「悪い悪い」
「もう!」
アイは頬を膨らませた。
それから、ちらりと俺を見た。
「……でも、ありがと」
小さな声だった。
俺は頷いた。
「うん」
そのとき、アイの鞄の中で携帯電話が鳴った。
「あ、電話だ」
アイは写真を机に置き、携帯電話を取り出した。
事務所からの電話だった。
「もしもし、星野です!」
弾んだ声で応対するアイ。
俺は少し離れた場所で、その様子を見守った。
「はい……はい! えっ、本当ですか!?」
アイの表情が明るくなる。
「ありがとうございます! はい、ぜひお願いします!」
電話を切ったアイは、しばらく携帯電話を握りしめていた。
そして。
「……透くん」
「ん?」
「私、次の段階に進めるかもしれない」
彼女の声は、震えるほど嬉しそうだった。
「今度、具体的なお仕事の話をするんだって。まだどうなるか分からないけど……私、もっと頑張りたい」
俺は、彼女を見つめた。
彼女の夢が、少しずつ形になっていく。
もう、遠い未来の話ではない。
俺の知らない出来事が、今、この瞬間にも始まっている。
それでも。
「……よかったな、アイ」
俺は笑った。
今度は、心から。
「うん!」
アイは満面の笑みを浮かべた。
「私、絶対にアイドルになるから!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
俺は知っている。
彼女がいつか、誰もが知る存在になることを。
そして、その輝きの先に、俺がどうしても避けたい未来があることを。
けれど、俺はもう、彼女の夢を怖がるだけの自分には戻りたくなかった。
だから、心の中で誓った。
彼女がどんな道を選んでも、彼女自身の気持ちを置き去りにしないこと。
彼女が笑っているときだけじゃなく、笑えないときにも、ちゃんと彼女を見ること。
そしていつか。
俺が知っている未来が、彼女の前に立ちはだかったとき。
今度こそ、何もできずに見送るだけの人間にはならないこと。
「……透くん?」
アイが不思議そうに顔を覗き込んできた。
「また難しい顔してる!」
「……してない」
「してるよ!」
彼女は笑って、俺の手を取った。
「ねえ、約束!」
「……何の?」
「私がアイドルになったら、絶対にライブに来ること!」
差し出された小指。
俺は、それに自分の小指を絡めた。
「……分かった。絶対に行く」
「よし!」
アイは嬉しそうに笑った。
その笑顔を、俺は忘れないように目に焼きつけた。
いつか、この瞬間を思い出す日が来るかもしれない。
彼女が夢を追い始めた日。
俺が、彼女の未来を変えると決め直した日。
そして、彼女がまだ何も知らずに、まっすぐ前を向いていた日。
――その夜。
俺は、久しぶりに前世の記憶を辿ろうとした。
星野アイ。
彼女がアイドルになって、人気を得て、双子を産んで。
そして、悲劇に見舞われる。
知っているのは、それだけだ。
誰が彼女を傷つけるのか。
いつ、どこで、何が起きるのか。
肝心なことは、何ひとつ思い出せない。
「……くそ」
思わず、声が漏れた。
もっと覚えていれば。
もっと詳しく知っていれば。
そう考えずにはいられない。
けれど、過去の自分を責めたところで、記憶が戻るわけではなかった。
俺は、天井を見つめた。
今、アイは夢に向かって進んでいる。
俺も、その隣にいる。
だったら、今できることをひとつずつ積み重ねるしかない。
そう思った、そのときだった。
ふと、頭の中にひとつの疑問が浮かんだ。
――俺は、本当にアイを救いたいのだろうか。
もちろん、救いたい。
彼女が死ぬ未来なんて、絶対に見たくない。
でも、それだけなのか。
彼女が傷つくのを見たくない。
彼女が悲しむのを見たくない。
彼女が苦しむのを見たくない。
そう願うあまり、俺は彼女が選ぶ道そのものを否定しようとしていなかったか。
彼女が夢を追わなければ、危険な目に遭わずに済むかもしれない。
そう考えたことは、一度や二度じゃない。
けれど、それでは駄目なのだ。
彼女が夢を諦めて、ずっと施設の中で暮らしていたとして。
それを、彼女自身が望んでいなかったとしたら。
俺は、本当に彼女を救ったと言えるのだろうか。
「……違うだろ」
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
アイが選ぶ人生を、俺が決めることはできない。
彼女の未来を変えたいのなら、彼女の気持ちを無視してはいけない。
たとえ、それが俺にとって怖い選択だったとしても。
俺は、彼女の隣に立つ。
彼女が進む道を、彼女自身が選べるように。
そして、もし彼女が助けを求めたなら。
今度こそ、手を伸ばせるように。
窓の外には、星がひとつ輝いていた。
俺はその光を見つめながら、静かに呟いた。
「……絶対に、救ってみせる」
それが、俺の願いだった。
けれど、願いを叶えるために必要なのは、覚悟だけではない。
このときの俺は、まだ知らなかった。
彼女を救うために、俺自身が何を失うことになるのか。
そして、彼女の夢が本当に動き出したとき。
俺たちの前に、最初の大きな選択が訪れることを。