星野アイに嘘をつかなくていい日を   作:M1tarash1

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08.初めての仕事

星野アイが、初めての仕事をすることになった。

 

 その報告を聞いたのは、朝食を食べている最中だった。

 

「透くん、私ね。今度、お仕事するんだって!」

 

 向かいの席で、アイが目を輝かせている。

 

 俺は口に運びかけたパンを止めた。

 

「……え、もう?」

 

「もうって何!? 私、ずっと頑張ってたんですけど!」

 

「いや、そういう意味じゃなくてさ。レッスン始めて、まだそんなに経ってないだろ?」

 

「うん。でも、昨日、事務所の人から電話があったの。私に合いそうなお仕事があるんだって!」

 

 アイは、テーブルに身を乗り出した。

 

「詳しいことは今日、説明してくれるんだって。もしかしたら、撮影のお仕事かもしれないし、広告とかかもしれないし……あーっ、どうしよう!」

 

「まだ何も決まってないんだろ」

 

「分かってるよ! でも、想像するくらいいいじゃん!」

 

 そう言って、アイは頬を膨らませた。

 

 俺は苦笑する。

 

 こういうところは、年相応だ。

 

 夢が少し近づいただけで、嬉しくて仕方がない。

 

 これからどんな仕事が待っているのか、どんな人と出会えるのか。そんなことを考えるだけで、胸がいっぱいになる。

 

 ……本来なら、それが当たり前なのだ。

 

 俺だって、アイが夢を叶えるところを見たい。

 

 ステージの上で輝く彼女を見たいし、たくさんの人に愛される彼女を見たい。

 

 だけど。

 

 その先にある未来を知っている俺は、どうしても素直に喜びきれなかった。

 

「……透くん?」

 

「ん?」

 

「また怖い顔してる」

 

「してない」

 

「してるってば!」

 

 アイは俺の顔を指さした。

 

「もしかして、私が仕事するの、嫌?」

 

「……そんなわけないだろ」

 

「ほんと?」

 

「ああ」

 

 俺は、できるだけ自然に笑った。

 

「頑張ってこいよ」

 

 その言葉を聞いて、アイの表情がぱっと明るくなった。

 

「うん!」

 

 彼女は嬉しそうに頷いた。

 

 そして、食べかけのパンを口に放り込むと、慌ただしく席を立った。

 

「じゃ、私、準備してくるね!」

 

「ちゃんと食べろよ」

 

「食べてるよー!」

 

 遠ざかっていく足音。

 

 俺は、空になった皿を見つめた。

 

 応援する。

 

 そう決めたはずなのに。

 

 いざ彼女が未来へ進もうとすると、胸の奥がざわつく。

 

 彼女の人生が、俺の知らない方向へ動き始めているからだろうか。

 

 それとも。

 

 彼女が俺の知らない世界に足を踏み入れることを、怖がっているだけなのだろうか。

 

「……情けねえな」

 

 小さく呟いて、俺は立ち上がった。

 

 アイはもう、玄関で靴を履いていた。

 

「透くん、行ってきます!」

 

「おう。気をつけてな」

 

「はーい!」

 

 彼女は笑って、施設を出ていった。

 

 俺は、その背中を見送った。

 

 今度こそ、彼女の夢を怖がらない。

 

 そう自分に言い聞かせながら。

 

     *

 

 その日の夕方。

 

 アイは、いつもより遅く帰ってきた。

 

 玄関の扉が開く音がして、俺は廊下へ出た。

 

「おかえり」

 

「ただいまー!」

 

 返ってきた声は、いつも通り明るかった。

 

 けれど、今日は少し違った。

 

 アイは鞄を持ったまま、その場で立ち止まっている。

 

「……どうだった?」

 

 俺が尋ねると、彼女は一度だけ瞬きをした。

 

 それから。

 

「決まった!」

 

 満面の笑みで、そう叫んだ。

 

「私、初めてのお仕事、決まったんだって!」

 

「……っ、マジで!?」

 

「マジで!」

 

 アイは、ぴょんと跳ねた。

 

「すごいでしょ!? 私もびっくりしたんだから!」

 

「おめでとう!」

 

 今度は、心からそう言えた。

 

 アイは嬉しそうに笑い、俺の腕を掴んだ。

 

「それでね、それでね! 今度、撮影に行くんだって! まだ詳しいことはこれからだけど、写真を撮ったり、商品の紹介をしたりするお仕事みたい!」

 

「へえ……」

 

「私、ちゃんとできるかな?」

 

「できるかどうかは、やってみないと分からないだろ」

 

「またそれー!」

 

 アイは不満そうに頬を膨らませた。

 

 俺は笑った。

 

「でも、アイなら大丈夫だと思うよ」

 

「……え?」

 

「今までだって、レッスン頑張ってただろ。だから、きっとできる」

 

 アイは、少しだけ目を丸くした。

 

 そして、ふにゃりと笑った。

 

「……うん!」

 

 その笑顔を見て、俺も嬉しくなった。

 

 彼女の夢が、少しずつ現実になっていく。

 

 それは、俺がずっと望んでいたことのはずだった。

 

 だからこそ、このときの俺は気づかなかった。

 

 彼女が今日、何を見て、何を聞いて、何を感じて帰ってきたのか。

 

 その笑顔の裏に、小さな違和感が隠れていることに。

 

     *

 

 翌週。

 

 アイの初仕事の日がやってきた。

 

「……どう?」

 

 朝、アイが俺の前でくるりと回った。

 

 いつもより少しだけ整えられた髪。

 

 選んだ服も、今日はいつもと雰囲気が違う。

 

 それでも、彼女らしさはちゃんと残っていた。

 

「いいんじゃない?」

 

「えー、もっと感想ないの?」

 

「かわいいよ」

 

「……っ」

 

 アイが固まった。

 

 俺も、自分で言ってから少し気まずくなった。

 

 いや、別に変な意味じゃない。

 

 普通に、そう思っただけだ。

 

「……そ、そう?」

 

「うん」

 

「ふーん……」

 

 アイは、ぷいっと顔を背けた。

 

 耳が赤い。

 

「……ありがと」

 

「おう」

 

 しばらく沈黙が流れた。

 

 そして、アイが小さく笑った。

 

「……よし! 今日も頑張るぞ!」

 

 いつもの調子に戻った彼女を見て、俺は安心した。

 

 けれど、出発する直前。

 

「……ねえ、透くん」

 

 アイが、ふと真面目な顔になった。

 

「もし私が、すっごく有名になったらさ」

 

「うん?」

 

「今みたいに、普通に話してくれる?」

 

 思いがけない質問だった。

 

 俺は、すぐには答えられなかった。

 

 有名になったら。

 

 たくさんの人に知られるようになったら。

 

 今のように、好き勝手に笑って、怒って、ふざけ合う時間は減ってしまうのかもしれない。

 

 彼女を取り巻く環境も、人間関係も、きっと変わる。

 

 でも。

 

「……当たり前だろ」

 

 俺は答えた。

 

「アイはアイだろ。どれだけ有名になったって、変わらないよ」

 

 アイは、俺の顔をじっと見た。

 

「……そっか」

 

 そして、少しだけ安心したように笑った。

 

「じゃあ、約束ね」

 

「また約束かよ」

 

「大事なことは何回でも約束するの!」

 

 アイは小指を差し出した。

 

 俺は、それに自分の小指を絡めた。

 

「……約束」

 

「うん!」

 

 彼女は満足そうに頷いた。

 

 そして、元気よく玄関を出ていった。

 

 俺は、その背中を見送った。

 

 彼女が有名になったら。

 

 きっと、今とは違う世界が待っている。

 

 それでも、俺は変わらずにいたいと思った。

 

 彼女を特別な存在として扱うのではなく。

 

 星野アイという、一人の人間として。

 

 笑っているときも。

 

 泣いているときも。

 

 何もかもが嫌になったときも。

 

 彼女のことを、ちゃんと見ていたい。

 

 それが、俺にできることだと思っていた。

 

     *

 

 アイが初仕事から帰ってきたのは、夕方を少し過ぎた頃だった。

 

「ただいまー!」

 

 玄関から、弾んだ声が聞こえた。

 

 俺はすぐに廊下へ出た。

 

「おかえり! どうだった?」

 

「……ふふっ」

 

 アイは、意味ありげに笑った。

 

「聞きたい?」

 

「そりゃ聞きたいだろ」

 

「じゃあ、教えてあげる!」

 

 彼女は鞄を置くと、今日あったことを話し始めた。

 

 撮影場所が思っていたより広かったこと。

 

 スタッフがたくさんいて、最初は緊張したこと。

 

 カメラを向けられると、どうしていいか分からなくなったこと。

 

 そして、何度も撮り直しをしたこと。

 

「でもね、最後には褒めてもらえたんだよ!」

 

 アイは胸を張った。

 

「『表情がいいね』って! 『初めてとは思えない』って言われちゃった!」

 

「すごいじゃん!」

 

「でしょー!?」

 

 彼女は嬉しそうに笑った。

 

 俺も笑った。

 

 話を聞いているだけで、彼女がどれだけ頑張ったのかが伝わってきた。

 

 初めての仕事。

 

 知らない人たちに囲まれて、慣れないことをして。

 

 きっと、緊張しただろう。

 

 それでも最後までやり遂げたのだ。

 

「……アイ、頑張ったな」

 

 そう言うと、彼女は少しだけ照れくさそうにした。

 

「……うん」

 

 そして、ふと視線を落とした。

 

「……でもね」

 

 小さな声だった。

 

「最後に、ちょっとだけ変なことがあったんだ」

 

 俺は顔を上げた。

 

「変なこと?」

 

「うん」

 

 アイは、鞄の持ち手を指先でいじりながら話し始めた。

 

「撮影が終わったあとにね、スタッフさんが言ってたの。『星野さんは笑顔がいいから、これからもその調子でお願いね』って」

 

「……それは、褒め言葉じゃないのか?」

 

「うん。そうだと思う」

 

 アイは頷いた。

 

「嬉しかったよ。私の笑顔がいいって言ってもらえたの、嬉しかった」

 

「じゃあ、何が変だったんだ?」

 

「……そのあと」

 

 アイは、少しだけ間を置いた。

 

「別の人が、『この子は笑ってるだけでいいから、扱いやすいね』って言ったの」

 

 俺は、黙った。

 

「……笑ってるだけで?」

 

「うん」

 

 アイは笑おうとした。

 

 けれど、その笑顔は、いつものようには見えなかった。

 

「たぶん、悪口じゃなかったんだと思う。仕事がやりやすいって意味だったのかもしれないし」

 

「……そうかもしれないな」

 

「でしょ?」

 

 アイは、ほっとしたように笑った。

 

「だから、私も気にしなくていいかなって思ったんだけど……」

 

 そこで、言葉が途切れた。

 

 彼女は、しばらく何も言わなかった。

 

 俺も、何も言えなかった。

 

 悪気があったかどうかなんて、分からない。

 

 その人にとっては、何気ない一言だったのかもしれない。

 

 けれど。

 

 アイは、その言葉を覚えていた。

 

 わざわざ俺に話すくらいには、引っかかっていたのだ。

 

「……アイ」

 

「ん?」

 

「それ、嫌だった?」

 

 アイは、少し驚いたように目を見開いた。

 

「……え?」

 

「その言葉を聞いて、嫌だった?」

 

 彼女は、すぐには答えなかった。

 

 しばらくして、ようやく口を開いた。

 

「……分かんない」

 

 それは、意外な答えだった。

 

「嬉しかったのも、本当なの。褒めてもらえたのも、本当だし」

 

「うん」

 

「でも……」

 

 アイは、自分の手を見つめた。

 

「笑ってるだけでいいって言われたら、じゃあ私が何か言いたいときはどうするんだろうって、思っちゃった」

 

 俺は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 

 笑っているだけでいい。

 

 扱いやすい。

 

 その言葉は、彼女の笑顔を褒めているようでいて、彼女自身の気持ちを置き去りにしている。

 

 けれど、今のアイは、まだそれを上手く言葉にできない。

 

 自分が嫌だと思っていいのかさえ、迷っている。

 

「……俺は」

 

 気づけば、口を開いていた。

 

「アイが何か言いたいなら、言っていいと思う」

 

 アイが顔を上げる。

 

「仕事だからって、何でも我慢しなきゃいけないわけじゃないだろ。分からないことは聞いていいし、嫌なことがあったら相談していい」

 

「……でも、仕事だよ?」

 

「うん。だから、何でも思い通りになるわけじゃないと思う。でも、だからって、アイの気持ちがなくなっていいわけじゃない」

 

 自分でも、少し偉そうなことを言っていると思った。

 

 俺だって、芸能界のことを詳しく知っているわけじゃない。

 

 実際の現場で何が起きるのかも、これからアイがどんな人と出会うのかも、分からない。

 

 ただ。

 

「……少なくとも、俺には話していいから」

 

 それだけは、伝えたかった。

 

「嬉しかったことも、嫌だったことも。自分でもよく分かんないことも。俺に話してくれればいい」

 

 アイは、じっと俺を見つめた。

 

「……何でも?」

 

「何でも」

 

「くだらないことでも?」

 

「くだらないことでも」

 

「同じ話を何回もしても?」

 

「……それは、内容による」

 

「ひどーい!」

 

 アイが笑った。

 

 今度は、少しだけ自然な笑顔だった。

 

 俺も笑った。

 

 彼女が抱えたものを、俺が全部取り除けるわけじゃない。

 

 これからも、傷つくことはあるだろう。

 

 納得できないことも、思い通りにならないことも。

 

 そのたびに、俺が正解を教えられるとも限らない。

 

 それでも。

 

 彼女が自分の気持ちを、自分で確かめられるように。

 

 せめて、俺の前では、無理に答えを出さなくてもいいように。

 

 そんな場所でありたいと思った。

 

     *

 

 その日の夜。

 

 俺は、アイと一緒に庭へ出た。

 

 夕食のあと、彼女が「ちょっと外の空気を吸いたい」と言ったからだ。

 

 空には、薄い雲がかかっていた。

 

 俺たちは、いつものベンチに並んで座った。

 

「……ねえ、透くん」

 

「ん?」

 

「私、今日のお仕事、楽しかったよ」

 

「うん」

 

「撮影も面白かったし、スタッフさんも優しかったし。褒めてもらえたのも、嬉しかった」

 

「うん」

 

「……また、やりたいな」

 

 その言葉を聞いて、俺は嬉しくなった。

 

「そっか」

 

「うん」

 

 アイは、膝を抱えた。

 

「だからね。さっきの話、そんなに心配しなくていいよ」

 

 俺は、少しだけ眉を寄せた。

 

「……心配するなって言われてもな」

 

「だって、透くん、すぐ心配するんだもん」

 

「誰のせいだと思ってんだよ」

 

「私?」

 

「分かってるなら、もう少し自覚しろ」

 

 アイは笑った。

 

 それから、少しだけ真面目な顔になった。

 

「……でもね、透くん」

 

「うん?」

 

「私、ちゃんと考えてみる」

 

 彼女は、自分の胸元に手を当てた。

 

「何が嬉しくて、何が嫌だったのか。どうして嫌だったのか。これから、どうしたいのか」

 

 俺は黙って頷いた。

 

「まだ、よく分からないことばっかりだけど……自分の気持ちを、ちゃんと分かるようになりたい」

 

 その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。

 

 俺が望んでいたのは、きっとこういうことだったのだ。

 

 彼女が傷つかないことだけじゃない。

 

 傷ついたときに、それを自分のせいだと思わないこと。

 

 嫌なことを嫌だと言えること。

 

 嬉しいことを、心から嬉しいと思えること。

 

 そして、自分の人生を、自分の言葉で語れること。

 

「……いいと思う」

 

 俺は笑った。

 

「アイなら、きっとできるよ」

 

 アイは、少しだけ照れたように頬を掻いた。

 

「……それ、褒めてる?」

 

「褒めてる」

 

「そっか」

 

 彼女は、嬉しそうに笑った。

 

 そして、空を見上げた。

 

「ねえ。私がすっごく有名になったらさ」

 

「またその話かよ」

 

「いいじゃん!」

 

 アイは、俺の肩を軽く叩いた。

 

「もし、私がテレビに出て、たくさんの人に知られるようになったら……」

 

 彼女は、少しだけ考えてから言った。

 

「今日みたいに、嫌なことがあっても、ちゃんと笑っていられるのかな」

 

 俺は、すぐには答えられなかった。

 

 きっと、難しいだろう。

 

 有名になればなるほど、彼女を見る人は増える。

 

 彼女の言葉や表情に、勝手な意味をつける人だって出てくるかもしれない。

 

 彼女が何を考えているかなんて知らないくせに、分かったような顔をする人もいるだろう。

 

 そのたびに、彼女が傷つかない保証なんてない。

 

 でも。

 

「……ずっと笑ってる必要はないと思う」

 

 俺は答えた。

 

「笑いたいときに笑えばいいし、笑いたくないときは無理しなくていい」

 

「……そんなの、できるかな」

 

「できるかどうかは、これから考えればいいだろ」

 

 アイは、俺を見た。

 

 そして、小さく笑った。

 

「……そっか」

 

 少しの沈黙。

 

 やがて、彼女が立ち上がった。

 

「よし! 明日も頑張る!」

 

「おう」

 

「今度は、もっと上手に笑えるようになるんだから!」

 

「……だから、無理して笑うなって」

 

「分かってるよ!」

 

 アイは振り返って、いたずらっぽく笑った。

 

「でも、笑いたいときには笑うんだもん!」

 

 そう言って、彼女は駆け出した。

 

「ちょ、走るなって!」

 

「透くんも早くー!」

 

 俺は苦笑しながら、その後を追いかけた。

 

 庭に、アイの笑い声が響く。

 

 俺はその声を聞きながら、思った。

 

 この時間が、ずっと続けばいい。

 

 彼女が夢を追いかけて、笑って、悩んで。

 

 そのたびに、自分の気持ちを確かめながら、前に進んでいく。

 

 そんな未来が、ずっと続けばいい。

 

 ……けれど。

 

 俺は、忘れてはいけない。

 

 俺が知っている未来では、彼女はいつか、笑顔のまま、取り返しのつかない場所へ向かってしまう。

 

 彼女がどれだけ輝いても。

 

 どれだけ多くの人を笑顔にしても。

 

 それだけでは、彼女自身が幸せになれるとは限らない。

 

 だからこそ、俺は彼女を見ていなければならない。

 

 ステージの上の星野アイだけではなく。

 

 誰も見ていない場所にいる、星野アイのことを。

 

     *

 

 それから数日後。

 

 アイは、事務所で次の仕事について説明を受けることになった。

 

 今回は、前回の撮影よりも少し規模が大きいらしい。

 

 正式な契約についても、具体的な話が出るかもしれないという。

 

 アイは朝から落ち着かなかった。

 

「……透くん」

 

「何だよ」

 

「私、ちゃんとできるかな」

 

「またそれか」

 

「だって、前より大事な話なんだよ!?」

 

「分かってるって」

 

 俺は笑った。

 

「でも、アイが自分で選んだ道だろ」

 

「……うん」

 

「だったら、ちゃんと話を聞いて、自分で考えてこいよ。分からないことがあったら聞けばいい」

 

 アイは頷いた。

 

「……そうだね」

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「行ってくる!」

 

「行ってらっしゃい」

 

 彼女は、玄関を出ていった。

 

 俺は、窓からその背中を見送った。

 

 不安はある。

 

 彼女がどんな人と出会い、どんな経験をするのか。

 

 俺には分からないことばかりだ。

 

 それでも、彼女が自分で考え、自分で選ぶことを信じたい。

 

 俺が未来を知っているからといって、彼女のすべてを決めることはできない。

 

 彼女の人生は、彼女のものだ。

 

 それだけは、絶対に忘れない。

 

 ……そう思っていた。

 

 夕方、アイが帰ってくるまでは。

 

     *

 

「ただいま」

 

 玄関から聞こえた声に、俺は廊下へ出た。

 

「おかえり。どうだった?」

 

 アイは、すぐには答えなかった。

 

 鞄を下ろして、靴を揃えて。

 

 それから、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……決まったよ」

 

「……何が?」

 

「私、事務所と正式に契約することになった」

 

 その言葉に、俺は息を呑んだ。

 

 アイは、少しだけ緊張したように笑った。

 

「これから、もっと本格的にお仕事をしていくんだって。レッスンも増えるし、撮影とか、いろんな仕事の話も来るかもしれないって」

 

「……そっか」

 

 胸の奥で、何かが大きく動いた。

 

 彼女の夢が、また一歩、現実に近づいた。

 

 もう、ただの憧れではない。

 

 これから彼女は、本当にアイドルとして生きていくことになるのだ。

 

「……おめでとう、アイ」

 

 俺は、笑った。

 

 アイは、嬉しそうに頷いた。

 

「うん!」

 

 けれど、次の瞬間。

 

「……でもね」

 

 彼女の表情が、少しだけ曇った。

 

「契約する前に、いろいろ説明を受けたんだ」

 

「うん」

 

「お仕事のこととか、活動のこととか。これから守らなきゃいけないことも、たくさんあるんだって」

 

 アイは、自分の手を見つめた。

 

「私、ちゃんとできるかな」

 

 その声は、いつもより小さかった。

 

 俺は、すぐに答えられなかった。

 

 彼女がこれから、どんな世界へ進むのか。

 

 俺は、そのすべてを知っているわけではない。

 

 ただ、ひとつだけ確かなことがある。

 

 これから彼女は、夢を叶えるために、たくさんのことを覚えていく。

 

 嬉しいことも。

 

 楽しいことも。

 

 そして、きっと、納得できないことも。

 

「……アイ」

 

 俺は、彼女の目を見た。

 

「全部、一人で何とかしようとしなくていいからな」

 

 アイは、少し驚いたように瞬きをした。

 

「困ったら、誰かに相談していい。分からないことは、分からないって言っていい。無理だと思ったら、無理だって言っていい」

 

「……うん」

 

「それで、俺にも話してくれればいい」

 

 アイは、しばらく黙っていた。

 

 やがて、ゆっくりと笑った。

 

「……ありがと」

 

 そして、いつものように小指を差し出した。

 

「約束ね」

 

 俺は、その小指に自分の小指を絡めた。

 

「約束」

 

 彼女は嬉しそうに笑った。

 

 その笑顔を見て、俺は思った。

 

 これから先、彼女がどれだけ有名になっても。

 

 どれだけ多くの人に愛されるようになっても。

 

 彼女が自分の気持ちを見失わないように。

 

 そして、もし見失ってしまったときには。

 

 もう一度、自分の気持ちを取り戻せるように。

 

 俺は、彼女のそばにいたい。

 

 彼女の人生を代わりに生きることはできない。

 

 彼女の選択を、すべて正しいものにすることもできない。

 

 それでも。

 

 彼女が自分の人生を選ぶ、その瞬間を。

 

 俺は、見届けたいと思った。

 

     *

 

 その夜。

 

 俺は、布団の中で天井を見つめていた。

 

 アイは、正式に事務所と契約することになった。

 

 彼女は、夢を叶えるために前へ進んでいる。

 

 それは、間違いなく喜ばしいことだった。

 

 けれど、俺の胸には、どうしても消えない不安があった。

 

 俺の知っている未来は、まだ残っている。

 

 彼女が双子を産むこと。

 

 アイドルとして、多くの人に愛されること。

 

 そして、悲劇が訪れること。

 

 そのすべてが、これからどこまで変わるのか。

 

 分からない。

 

 もしかしたら、俺が何もしなくても未来は変わるのかもしれない。

 

 逆に、俺が何をしても、変えられないことがあるのかもしれない。

 

 それでも、何もしないという選択肢はなかった。

 

「……絶対に、変えてやる」

 

 小さく呟いた。

 

 けれど、その言葉の直後。

 

 ふと、別の考えが浮かんだ。

 

 ――もし、俺が未来を変えたせいで、アイが別の形で傷つくことになったら?

 

 例えば、俺が彼女を危険から遠ざけた結果、彼女が夢を諦めることになったら。

 

 例えば、俺が誰かを疑い、彼女の大切な人間関係を壊してしまったら。

 

 例えば、彼女を守ろうとするあまり、彼女自身の選択を奪ってしまったら。

 

 それでも俺は、彼女を救ったと言えるのだろうか。

 

「……っ」

 

 思わず、目を閉じた。

 

 答えは出なかった。

 

 ただ、ひとつだけ。

 

 これから先、俺は何度も選択を迫られることになる。

 

 彼女を守るために、何をするのか。

 

 彼女の夢を尊重するために、何をしないのか。

 

 そのどちらも、きっと簡単ではない。

 

 それでも。

 

 俺は、彼女の人生を勝手に決めることだけは、したくなかった。

 

 星野アイ。

 

 彼女は、誰かの物語を彩るために生きているわけじゃない。

 

 俺が知っている未来を再現するために存在しているわけでもない。

 

 彼女自身の、人生を生きている。

 

 だから俺は、その人生を、彼女のものとして守りたい。

 

 たとえ、彼女が俺の知らない道を選んだとしても。

 

 たとえ、その選択が、俺にとって怖いものだったとしても。

 

 彼女が自分で選んだ道なら。

 

 俺は、隣を歩こう。

 

 そして、もし彼女が立ち止まったなら。

 

 そのときは、一緒に立ち止まろう。

 

 無理に前へ進ませることも。

 

 無理に引き返させることもせずに。

 

 ただ、彼女が自分で次の一歩を選べるまで。

 

「……おやすみ、アイ」

 

 誰もいない部屋で、そう呟いた。

 

 返事はない。

 

 けれど、隣の部屋から、かすかに物音が聞こえた。

 

 きっと、アイもまだ起きているのだろう。

 

 明日のことを考えているのかもしれない。

 

 これから始まる仕事のこと。

 

 新しい出会いのこと。

 

 そして、自分がどんなアイドルになりたいのか。

 

 俺には分からない。

 

 分からないけれど。

 

 彼女がどんな未来を選ぶのか、ちゃんと見ていたいと思った。

 

 その未来が、俺の知っている物語とは違うものになるとしても。

 

 いや。

 

 違うものになってほしい。

 

 彼女が笑っていられる未来に。

 

 彼女が、嘘をつかなくてもいい未来に。

 

 そして、彼女自身が幸せだと思える未来に。

 

 俺は、彼女を連れていきたい。

 

 ……いや、違う。

 

 連れていくんじゃない。

 

 彼女がそこへ行きたいと思ったとき、隣にいられる人間でありたい。

 

 そう思い直して、俺は目を閉じた。

 

 明日から、アイの生活は少しずつ変わっていく。

 

 レッスンが増えて、仕事が増えて、出会う人も増えて。

 

 いつか、俺が知らない時間のほうが多くなるかもしれない。

 

 それでも、今はまだ。

 

 同じ施設で暮らして、同じ食堂でご飯を食べて、くだらないことで笑い合える。

 

 その時間を、大切にしよう。

 

 俺は、そう決めた。

 

 ――そして、翌朝。

 

 星野アイは、いつものように笑っていた。

 

「透くん、おはよー!」

 

 廊下の向こうから、元気な声が響く。

 

「……おはよう」

 

「ねえ、今日の私、何か変わったと思わない?」

 

「……髪?」

 

「違う!」

 

「服?」

 

「違う!」

 

「じゃあ何だよ……」

 

 アイは、得意げに胸を張った。

 

「今日から私、正式にアイドル候補なんだって!」

 

「……昨日も聞いたぞ、それ」

 

「何回言ったっていいでしょ!」

 

 彼女は笑った。

 

 俺も笑った。

 

 その笑顔は、まだ少し不器用で。

 

 それでも、彼女自身のものだった。

 

 俺は、その笑顔を見ながら思った。

 

 この先、どんなことが起きるのかは分からない。

 

 どんな壁が待っているのかも。

 

 どんな出会いが、彼女の人生を変えるのかも。

 

 けれど、ひとつだけ決めている。

 

 俺はもう、未来を知っていることを理由に、彼女の可能性を狭めたりしない。

 

 彼女が夢を追うことを、怖がらない。

 

 彼女が自分で選んだ道を、信じる。

 

 そして、彼女が自分の気持ちを隠してしまいそうになったときには。

 

 何度でも、伝えよう。

 

 笑っていなくてもいい。

 

 強くなくてもいい。

 

 完璧じゃなくてもいい。

 

 星野アイは、星野アイのままでいいのだと。

 

 その言葉が、いつか彼女に届くことを願いながら。

 

 俺たちは、並んで食堂へ向かった。

 

 まだ何も知らない、いつもの朝。

 

 けれど、俺はもう知っている。

 

 この日から、アイの世界は大きく変わり始める。

 

 そして、俺の選択もまた。

 

 彼女の未来を左右するものになっていくのだと。

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10秒で泣ける天才子役は2周目の人生では泣かない(作者:M1tarash1)(原作:推しの子)

アクアの壮絶な復讐劇の結末を見届け、深い後悔のなかで大人になった有馬かな。▼色を失った世界で立ち尽くす彼女の前に、一人の風変わりな少女が姿を現す。▼「アンタ……『15年の嘘』の撮影現場にいた……あの時の不気味なガキ……。なんでこんなところにいるのよ」▼「へえ役者っていうのは、観察眼だけは一人前だね、有馬かな」▼冷ややかに見下ろす少女の瞳は、人間の子供のそれと…


総合評価:249/評価:6.92/連載:46話/更新日時:2026年10月26日(月) 11:00 小説情報

【推しの子】―晴れた夜に星を見つけて―(作者:horizontal line)(原作:推しの子)

高校生の人気俳優―月城晴星(つきしろはるせ)―。彼がアイと出会った時、物語は原作を離れて、別の分岐世界を生み出していく。果たしてこの世界ではどのような結末が待っているのか。アクアは? ルビーは? その他、原作キャラたちの未来は? ――そして何より、「アイ」はその生の中で『本当の愛』を大切な人たちに伝えることができるのか?▼これは、原作では辿りえない『IFの物…


総合評価:135/評価:7/連載:15話/更新日時:2026年09月16日(水) 12:00 小説情報

有馬かなのホラー怪奇譚(作者:ちいさな魔女)(原作:推しの子)

階段で転んで頭を打ち、前世の記憶を思い出した有馬かな。自らの未来を変える為に、ホラーユーチューバーへの道を歩み始める。


総合評価:298/評価:7/連載:4話/更新日時:2026年10月06日(火) 16:01 小説情報

ある看護師が辞めた話(作者:レイ膝)(原作:推しの子)

十六年前、同僚だった医師・雨宮吾郎が突然姿を消した。▼それ以来、彼女は休日になると病院近くの森へ足を運ぶようになった。▼なぜ探しているのか、自分でもよく分からない。▼看護師として働き続けた彼女のもとへ、ある日、警察から連絡が入る。▼――森で、白骨化した遺体が見つかった。▼十六年間、彼女が探し続けていたものが、そこにあるのかもしれない。▼そしてその日を境に、彼…


総合評価:156/評価:8.75/連載:2話/更新日時:2026年09月24日(木) 19:10 小説情報

アクアとして死んだ俺、今度は星野アイとして嘘をつく(作者:あかちゅきぼちゃん)(原作:推しの子)

アクアとして死んだ雨宮吾郎は、次に目を覚ました時、幼い星野アイになっていた。▼二度目の転生。▼しかも今度は、かつての推し本人。▼目立たず生きようとする吾郎だったが、星野アイの才能は本人の意思とは関係なく人を惹きつけ、彼はやがて旧B小町の中心へと進んでいく。▼そんな中、吾郎は前世で救えなかった少女・天童寺さりなと再会する。▼今度こそ、彼女を死なせない。▼医者と…


総合評価:227/評価:7.62/連載:5話/更新日時:2026年06月21日(日) 19:47 小説情報


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