星野アイが、初めての仕事をすることになった。
その報告を聞いたのは、朝食を食べている最中だった。
「透くん、私ね。今度、お仕事するんだって!」
向かいの席で、アイが目を輝かせている。
俺は口に運びかけたパンを止めた。
「……え、もう?」
「もうって何!? 私、ずっと頑張ってたんですけど!」
「いや、そういう意味じゃなくてさ。レッスン始めて、まだそんなに経ってないだろ?」
「うん。でも、昨日、事務所の人から電話があったの。私に合いそうなお仕事があるんだって!」
アイは、テーブルに身を乗り出した。
「詳しいことは今日、説明してくれるんだって。もしかしたら、撮影のお仕事かもしれないし、広告とかかもしれないし……あーっ、どうしよう!」
「まだ何も決まってないんだろ」
「分かってるよ! でも、想像するくらいいいじゃん!」
そう言って、アイは頬を膨らませた。
俺は苦笑する。
こういうところは、年相応だ。
夢が少し近づいただけで、嬉しくて仕方がない。
これからどんな仕事が待っているのか、どんな人と出会えるのか。そんなことを考えるだけで、胸がいっぱいになる。
……本来なら、それが当たり前なのだ。
俺だって、アイが夢を叶えるところを見たい。
ステージの上で輝く彼女を見たいし、たくさんの人に愛される彼女を見たい。
だけど。
その先にある未来を知っている俺は、どうしても素直に喜びきれなかった。
「……透くん?」
「ん?」
「また怖い顔してる」
「してない」
「してるってば!」
アイは俺の顔を指さした。
「もしかして、私が仕事するの、嫌?」
「……そんなわけないだろ」
「ほんと?」
「ああ」
俺は、できるだけ自然に笑った。
「頑張ってこいよ」
その言葉を聞いて、アイの表情がぱっと明るくなった。
「うん!」
彼女は嬉しそうに頷いた。
そして、食べかけのパンを口に放り込むと、慌ただしく席を立った。
「じゃ、私、準備してくるね!」
「ちゃんと食べろよ」
「食べてるよー!」
遠ざかっていく足音。
俺は、空になった皿を見つめた。
応援する。
そう決めたはずなのに。
いざ彼女が未来へ進もうとすると、胸の奥がざわつく。
彼女の人生が、俺の知らない方向へ動き始めているからだろうか。
それとも。
彼女が俺の知らない世界に足を踏み入れることを、怖がっているだけなのだろうか。
「……情けねえな」
小さく呟いて、俺は立ち上がった。
アイはもう、玄関で靴を履いていた。
「透くん、行ってきます!」
「おう。気をつけてな」
「はーい!」
彼女は笑って、施設を出ていった。
俺は、その背中を見送った。
今度こそ、彼女の夢を怖がらない。
そう自分に言い聞かせながら。
*
その日の夕方。
アイは、いつもより遅く帰ってきた。
玄関の扉が開く音がして、俺は廊下へ出た。
「おかえり」
「ただいまー!」
返ってきた声は、いつも通り明るかった。
けれど、今日は少し違った。
アイは鞄を持ったまま、その場で立ち止まっている。
「……どうだった?」
俺が尋ねると、彼女は一度だけ瞬きをした。
それから。
「決まった!」
満面の笑みで、そう叫んだ。
「私、初めてのお仕事、決まったんだって!」
「……っ、マジで!?」
「マジで!」
アイは、ぴょんと跳ねた。
「すごいでしょ!? 私もびっくりしたんだから!」
「おめでとう!」
今度は、心からそう言えた。
アイは嬉しそうに笑い、俺の腕を掴んだ。
「それでね、それでね! 今度、撮影に行くんだって! まだ詳しいことはこれからだけど、写真を撮ったり、商品の紹介をしたりするお仕事みたい!」
「へえ……」
「私、ちゃんとできるかな?」
「できるかどうかは、やってみないと分からないだろ」
「またそれー!」
アイは不満そうに頬を膨らませた。
俺は笑った。
「でも、アイなら大丈夫だと思うよ」
「……え?」
「今までだって、レッスン頑張ってただろ。だから、きっとできる」
アイは、少しだけ目を丸くした。
そして、ふにゃりと笑った。
「……うん!」
その笑顔を見て、俺も嬉しくなった。
彼女の夢が、少しずつ現実になっていく。
それは、俺がずっと望んでいたことのはずだった。
だからこそ、このときの俺は気づかなかった。
彼女が今日、何を見て、何を聞いて、何を感じて帰ってきたのか。
その笑顔の裏に、小さな違和感が隠れていることに。
*
翌週。
アイの初仕事の日がやってきた。
「……どう?」
朝、アイが俺の前でくるりと回った。
いつもより少しだけ整えられた髪。
選んだ服も、今日はいつもと雰囲気が違う。
それでも、彼女らしさはちゃんと残っていた。
「いいんじゃない?」
「えー、もっと感想ないの?」
「かわいいよ」
「……っ」
アイが固まった。
俺も、自分で言ってから少し気まずくなった。
いや、別に変な意味じゃない。
普通に、そう思っただけだ。
「……そ、そう?」
「うん」
「ふーん……」
アイは、ぷいっと顔を背けた。
耳が赤い。
「……ありがと」
「おう」
しばらく沈黙が流れた。
そして、アイが小さく笑った。
「……よし! 今日も頑張るぞ!」
いつもの調子に戻った彼女を見て、俺は安心した。
けれど、出発する直前。
「……ねえ、透くん」
アイが、ふと真面目な顔になった。
「もし私が、すっごく有名になったらさ」
「うん?」
「今みたいに、普通に話してくれる?」
思いがけない質問だった。
俺は、すぐには答えられなかった。
有名になったら。
たくさんの人に知られるようになったら。
今のように、好き勝手に笑って、怒って、ふざけ合う時間は減ってしまうのかもしれない。
彼女を取り巻く環境も、人間関係も、きっと変わる。
でも。
「……当たり前だろ」
俺は答えた。
「アイはアイだろ。どれだけ有名になったって、変わらないよ」
アイは、俺の顔をじっと見た。
「……そっか」
そして、少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ、約束ね」
「また約束かよ」
「大事なことは何回でも約束するの!」
アイは小指を差し出した。
俺は、それに自分の小指を絡めた。
「……約束」
「うん!」
彼女は満足そうに頷いた。
そして、元気よく玄関を出ていった。
俺は、その背中を見送った。
彼女が有名になったら。
きっと、今とは違う世界が待っている。
それでも、俺は変わらずにいたいと思った。
彼女を特別な存在として扱うのではなく。
星野アイという、一人の人間として。
笑っているときも。
泣いているときも。
何もかもが嫌になったときも。
彼女のことを、ちゃんと見ていたい。
それが、俺にできることだと思っていた。
*
アイが初仕事から帰ってきたのは、夕方を少し過ぎた頃だった。
「ただいまー!」
玄関から、弾んだ声が聞こえた。
俺はすぐに廊下へ出た。
「おかえり! どうだった?」
「……ふふっ」
アイは、意味ありげに笑った。
「聞きたい?」
「そりゃ聞きたいだろ」
「じゃあ、教えてあげる!」
彼女は鞄を置くと、今日あったことを話し始めた。
撮影場所が思っていたより広かったこと。
スタッフがたくさんいて、最初は緊張したこと。
カメラを向けられると、どうしていいか分からなくなったこと。
そして、何度も撮り直しをしたこと。
「でもね、最後には褒めてもらえたんだよ!」
アイは胸を張った。
「『表情がいいね』って! 『初めてとは思えない』って言われちゃった!」
「すごいじゃん!」
「でしょー!?」
彼女は嬉しそうに笑った。
俺も笑った。
話を聞いているだけで、彼女がどれだけ頑張ったのかが伝わってきた。
初めての仕事。
知らない人たちに囲まれて、慣れないことをして。
きっと、緊張しただろう。
それでも最後までやり遂げたのだ。
「……アイ、頑張ったな」
そう言うと、彼女は少しだけ照れくさそうにした。
「……うん」
そして、ふと視線を落とした。
「……でもね」
小さな声だった。
「最後に、ちょっとだけ変なことがあったんだ」
俺は顔を上げた。
「変なこと?」
「うん」
アイは、鞄の持ち手を指先でいじりながら話し始めた。
「撮影が終わったあとにね、スタッフさんが言ってたの。『星野さんは笑顔がいいから、これからもその調子でお願いね』って」
「……それは、褒め言葉じゃないのか?」
「うん。そうだと思う」
アイは頷いた。
「嬉しかったよ。私の笑顔がいいって言ってもらえたの、嬉しかった」
「じゃあ、何が変だったんだ?」
「……そのあと」
アイは、少しだけ間を置いた。
「別の人が、『この子は笑ってるだけでいいから、扱いやすいね』って言ったの」
俺は、黙った。
「……笑ってるだけで?」
「うん」
アイは笑おうとした。
けれど、その笑顔は、いつものようには見えなかった。
「たぶん、悪口じゃなかったんだと思う。仕事がやりやすいって意味だったのかもしれないし」
「……そうかもしれないな」
「でしょ?」
アイは、ほっとしたように笑った。
「だから、私も気にしなくていいかなって思ったんだけど……」
そこで、言葉が途切れた。
彼女は、しばらく何も言わなかった。
俺も、何も言えなかった。
悪気があったかどうかなんて、分からない。
その人にとっては、何気ない一言だったのかもしれない。
けれど。
アイは、その言葉を覚えていた。
わざわざ俺に話すくらいには、引っかかっていたのだ。
「……アイ」
「ん?」
「それ、嫌だった?」
アイは、少し驚いたように目を見開いた。
「……え?」
「その言葉を聞いて、嫌だった?」
彼女は、すぐには答えなかった。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「……分かんない」
それは、意外な答えだった。
「嬉しかったのも、本当なの。褒めてもらえたのも、本当だし」
「うん」
「でも……」
アイは、自分の手を見つめた。
「笑ってるだけでいいって言われたら、じゃあ私が何か言いたいときはどうするんだろうって、思っちゃった」
俺は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
笑っているだけでいい。
扱いやすい。
その言葉は、彼女の笑顔を褒めているようでいて、彼女自身の気持ちを置き去りにしている。
けれど、今のアイは、まだそれを上手く言葉にできない。
自分が嫌だと思っていいのかさえ、迷っている。
「……俺は」
気づけば、口を開いていた。
「アイが何か言いたいなら、言っていいと思う」
アイが顔を上げる。
「仕事だからって、何でも我慢しなきゃいけないわけじゃないだろ。分からないことは聞いていいし、嫌なことがあったら相談していい」
「……でも、仕事だよ?」
「うん。だから、何でも思い通りになるわけじゃないと思う。でも、だからって、アイの気持ちがなくなっていいわけじゃない」
自分でも、少し偉そうなことを言っていると思った。
俺だって、芸能界のことを詳しく知っているわけじゃない。
実際の現場で何が起きるのかも、これからアイがどんな人と出会うのかも、分からない。
ただ。
「……少なくとも、俺には話していいから」
それだけは、伝えたかった。
「嬉しかったことも、嫌だったことも。自分でもよく分かんないことも。俺に話してくれればいい」
アイは、じっと俺を見つめた。
「……何でも?」
「何でも」
「くだらないことでも?」
「くだらないことでも」
「同じ話を何回もしても?」
「……それは、内容による」
「ひどーい!」
アイが笑った。
今度は、少しだけ自然な笑顔だった。
俺も笑った。
彼女が抱えたものを、俺が全部取り除けるわけじゃない。
これからも、傷つくことはあるだろう。
納得できないことも、思い通りにならないことも。
そのたびに、俺が正解を教えられるとも限らない。
それでも。
彼女が自分の気持ちを、自分で確かめられるように。
せめて、俺の前では、無理に答えを出さなくてもいいように。
そんな場所でありたいと思った。
*
その日の夜。
俺は、アイと一緒に庭へ出た。
夕食のあと、彼女が「ちょっと外の空気を吸いたい」と言ったからだ。
空には、薄い雲がかかっていた。
俺たちは、いつものベンチに並んで座った。
「……ねえ、透くん」
「ん?」
「私、今日のお仕事、楽しかったよ」
「うん」
「撮影も面白かったし、スタッフさんも優しかったし。褒めてもらえたのも、嬉しかった」
「うん」
「……また、やりたいな」
その言葉を聞いて、俺は嬉しくなった。
「そっか」
「うん」
アイは、膝を抱えた。
「だからね。さっきの話、そんなに心配しなくていいよ」
俺は、少しだけ眉を寄せた。
「……心配するなって言われてもな」
「だって、透くん、すぐ心配するんだもん」
「誰のせいだと思ってんだよ」
「私?」
「分かってるなら、もう少し自覚しろ」
アイは笑った。
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「……でもね、透くん」
「うん?」
「私、ちゃんと考えてみる」
彼女は、自分の胸元に手を当てた。
「何が嬉しくて、何が嫌だったのか。どうして嫌だったのか。これから、どうしたいのか」
俺は黙って頷いた。
「まだ、よく分からないことばっかりだけど……自分の気持ちを、ちゃんと分かるようになりたい」
その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。
俺が望んでいたのは、きっとこういうことだったのだ。
彼女が傷つかないことだけじゃない。
傷ついたときに、それを自分のせいだと思わないこと。
嫌なことを嫌だと言えること。
嬉しいことを、心から嬉しいと思えること。
そして、自分の人生を、自分の言葉で語れること。
「……いいと思う」
俺は笑った。
「アイなら、きっとできるよ」
アイは、少しだけ照れたように頬を掻いた。
「……それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「そっか」
彼女は、嬉しそうに笑った。
そして、空を見上げた。
「ねえ。私がすっごく有名になったらさ」
「またその話かよ」
「いいじゃん!」
アイは、俺の肩を軽く叩いた。
「もし、私がテレビに出て、たくさんの人に知られるようになったら……」
彼女は、少しだけ考えてから言った。
「今日みたいに、嫌なことがあっても、ちゃんと笑っていられるのかな」
俺は、すぐには答えられなかった。
きっと、難しいだろう。
有名になればなるほど、彼女を見る人は増える。
彼女の言葉や表情に、勝手な意味をつける人だって出てくるかもしれない。
彼女が何を考えているかなんて知らないくせに、分かったような顔をする人もいるだろう。
そのたびに、彼女が傷つかない保証なんてない。
でも。
「……ずっと笑ってる必要はないと思う」
俺は答えた。
「笑いたいときに笑えばいいし、笑いたくないときは無理しなくていい」
「……そんなの、できるかな」
「できるかどうかは、これから考えればいいだろ」
アイは、俺を見た。
そして、小さく笑った。
「……そっか」
少しの沈黙。
やがて、彼女が立ち上がった。
「よし! 明日も頑張る!」
「おう」
「今度は、もっと上手に笑えるようになるんだから!」
「……だから、無理して笑うなって」
「分かってるよ!」
アイは振り返って、いたずらっぽく笑った。
「でも、笑いたいときには笑うんだもん!」
そう言って、彼女は駆け出した。
「ちょ、走るなって!」
「透くんも早くー!」
俺は苦笑しながら、その後を追いかけた。
庭に、アイの笑い声が響く。
俺はその声を聞きながら、思った。
この時間が、ずっと続けばいい。
彼女が夢を追いかけて、笑って、悩んで。
そのたびに、自分の気持ちを確かめながら、前に進んでいく。
そんな未来が、ずっと続けばいい。
……けれど。
俺は、忘れてはいけない。
俺が知っている未来では、彼女はいつか、笑顔のまま、取り返しのつかない場所へ向かってしまう。
彼女がどれだけ輝いても。
どれだけ多くの人を笑顔にしても。
それだけでは、彼女自身が幸せになれるとは限らない。
だからこそ、俺は彼女を見ていなければならない。
ステージの上の星野アイだけではなく。
誰も見ていない場所にいる、星野アイのことを。
*
それから数日後。
アイは、事務所で次の仕事について説明を受けることになった。
今回は、前回の撮影よりも少し規模が大きいらしい。
正式な契約についても、具体的な話が出るかもしれないという。
アイは朝から落ち着かなかった。
「……透くん」
「何だよ」
「私、ちゃんとできるかな」
「またそれか」
「だって、前より大事な話なんだよ!?」
「分かってるって」
俺は笑った。
「でも、アイが自分で選んだ道だろ」
「……うん」
「だったら、ちゃんと話を聞いて、自分で考えてこいよ。分からないことがあったら聞けばいい」
アイは頷いた。
「……そうだね」
そして、少しだけ笑った。
「行ってくる!」
「行ってらっしゃい」
彼女は、玄関を出ていった。
俺は、窓からその背中を見送った。
不安はある。
彼女がどんな人と出会い、どんな経験をするのか。
俺には分からないことばかりだ。
それでも、彼女が自分で考え、自分で選ぶことを信じたい。
俺が未来を知っているからといって、彼女のすべてを決めることはできない。
彼女の人生は、彼女のものだ。
それだけは、絶対に忘れない。
……そう思っていた。
夕方、アイが帰ってくるまでは。
*
「ただいま」
玄関から聞こえた声に、俺は廊下へ出た。
「おかえり。どうだった?」
アイは、すぐには答えなかった。
鞄を下ろして、靴を揃えて。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……決まったよ」
「……何が?」
「私、事務所と正式に契約することになった」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
アイは、少しだけ緊張したように笑った。
「これから、もっと本格的にお仕事をしていくんだって。レッスンも増えるし、撮影とか、いろんな仕事の話も来るかもしれないって」
「……そっか」
胸の奥で、何かが大きく動いた。
彼女の夢が、また一歩、現実に近づいた。
もう、ただの憧れではない。
これから彼女は、本当にアイドルとして生きていくことになるのだ。
「……おめでとう、アイ」
俺は、笑った。
アイは、嬉しそうに頷いた。
「うん!」
けれど、次の瞬間。
「……でもね」
彼女の表情が、少しだけ曇った。
「契約する前に、いろいろ説明を受けたんだ」
「うん」
「お仕事のこととか、活動のこととか。これから守らなきゃいけないことも、たくさんあるんだって」
アイは、自分の手を見つめた。
「私、ちゃんとできるかな」
その声は、いつもより小さかった。
俺は、すぐに答えられなかった。
彼女がこれから、どんな世界へ進むのか。
俺は、そのすべてを知っているわけではない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
これから彼女は、夢を叶えるために、たくさんのことを覚えていく。
嬉しいことも。
楽しいことも。
そして、きっと、納得できないことも。
「……アイ」
俺は、彼女の目を見た。
「全部、一人で何とかしようとしなくていいからな」
アイは、少し驚いたように瞬きをした。
「困ったら、誰かに相談していい。分からないことは、分からないって言っていい。無理だと思ったら、無理だって言っていい」
「……うん」
「それで、俺にも話してくれればいい」
アイは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと笑った。
「……ありがと」
そして、いつものように小指を差し出した。
「約束ね」
俺は、その小指に自分の小指を絡めた。
「約束」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
これから先、彼女がどれだけ有名になっても。
どれだけ多くの人に愛されるようになっても。
彼女が自分の気持ちを見失わないように。
そして、もし見失ってしまったときには。
もう一度、自分の気持ちを取り戻せるように。
俺は、彼女のそばにいたい。
彼女の人生を代わりに生きることはできない。
彼女の選択を、すべて正しいものにすることもできない。
それでも。
彼女が自分の人生を選ぶ、その瞬間を。
俺は、見届けたいと思った。
*
その夜。
俺は、布団の中で天井を見つめていた。
アイは、正式に事務所と契約することになった。
彼女は、夢を叶えるために前へ進んでいる。
それは、間違いなく喜ばしいことだった。
けれど、俺の胸には、どうしても消えない不安があった。
俺の知っている未来は、まだ残っている。
彼女が双子を産むこと。
アイドルとして、多くの人に愛されること。
そして、悲劇が訪れること。
そのすべてが、これからどこまで変わるのか。
分からない。
もしかしたら、俺が何もしなくても未来は変わるのかもしれない。
逆に、俺が何をしても、変えられないことがあるのかもしれない。
それでも、何もしないという選択肢はなかった。
「……絶対に、変えてやる」
小さく呟いた。
けれど、その言葉の直後。
ふと、別の考えが浮かんだ。
――もし、俺が未来を変えたせいで、アイが別の形で傷つくことになったら?
例えば、俺が彼女を危険から遠ざけた結果、彼女が夢を諦めることになったら。
例えば、俺が誰かを疑い、彼女の大切な人間関係を壊してしまったら。
例えば、彼女を守ろうとするあまり、彼女自身の選択を奪ってしまったら。
それでも俺は、彼女を救ったと言えるのだろうか。
「……っ」
思わず、目を閉じた。
答えは出なかった。
ただ、ひとつだけ。
これから先、俺は何度も選択を迫られることになる。
彼女を守るために、何をするのか。
彼女の夢を尊重するために、何をしないのか。
そのどちらも、きっと簡単ではない。
それでも。
俺は、彼女の人生を勝手に決めることだけは、したくなかった。
星野アイ。
彼女は、誰かの物語を彩るために生きているわけじゃない。
俺が知っている未来を再現するために存在しているわけでもない。
彼女自身の、人生を生きている。
だから俺は、その人生を、彼女のものとして守りたい。
たとえ、彼女が俺の知らない道を選んだとしても。
たとえ、その選択が、俺にとって怖いものだったとしても。
彼女が自分で選んだ道なら。
俺は、隣を歩こう。
そして、もし彼女が立ち止まったなら。
そのときは、一緒に立ち止まろう。
無理に前へ進ませることも。
無理に引き返させることもせずに。
ただ、彼女が自分で次の一歩を選べるまで。
「……おやすみ、アイ」
誰もいない部屋で、そう呟いた。
返事はない。
けれど、隣の部屋から、かすかに物音が聞こえた。
きっと、アイもまだ起きているのだろう。
明日のことを考えているのかもしれない。
これから始まる仕事のこと。
新しい出会いのこと。
そして、自分がどんなアイドルになりたいのか。
俺には分からない。
分からないけれど。
彼女がどんな未来を選ぶのか、ちゃんと見ていたいと思った。
その未来が、俺の知っている物語とは違うものになるとしても。
いや。
違うものになってほしい。
彼女が笑っていられる未来に。
彼女が、嘘をつかなくてもいい未来に。
そして、彼女自身が幸せだと思える未来に。
俺は、彼女を連れていきたい。
……いや、違う。
連れていくんじゃない。
彼女がそこへ行きたいと思ったとき、隣にいられる人間でありたい。
そう思い直して、俺は目を閉じた。
明日から、アイの生活は少しずつ変わっていく。
レッスンが増えて、仕事が増えて、出会う人も増えて。
いつか、俺が知らない時間のほうが多くなるかもしれない。
それでも、今はまだ。
同じ施設で暮らして、同じ食堂でご飯を食べて、くだらないことで笑い合える。
その時間を、大切にしよう。
俺は、そう決めた。
――そして、翌朝。
星野アイは、いつものように笑っていた。
「透くん、おはよー!」
廊下の向こうから、元気な声が響く。
「……おはよう」
「ねえ、今日の私、何か変わったと思わない?」
「……髪?」
「違う!」
「服?」
「違う!」
「じゃあ何だよ……」
アイは、得意げに胸を張った。
「今日から私、正式にアイドル候補なんだって!」
「……昨日も聞いたぞ、それ」
「何回言ったっていいでしょ!」
彼女は笑った。
俺も笑った。
その笑顔は、まだ少し不器用で。
それでも、彼女自身のものだった。
俺は、その笑顔を見ながら思った。
この先、どんなことが起きるのかは分からない。
どんな壁が待っているのかも。
どんな出会いが、彼女の人生を変えるのかも。
けれど、ひとつだけ決めている。
俺はもう、未来を知っていることを理由に、彼女の可能性を狭めたりしない。
彼女が夢を追うことを、怖がらない。
彼女が自分で選んだ道を、信じる。
そして、彼女が自分の気持ちを隠してしまいそうになったときには。
何度でも、伝えよう。
笑っていなくてもいい。
強くなくてもいい。
完璧じゃなくてもいい。
星野アイは、星野アイのままでいいのだと。
その言葉が、いつか彼女に届くことを願いながら。
俺たちは、並んで食堂へ向かった。
まだ何も知らない、いつもの朝。
けれど、俺はもう知っている。
この日から、アイの世界は大きく変わり始める。
そして、俺の選択もまた。
彼女の未来を左右するものになっていくのだと。