星野アイに嘘をつかなくていい日を   作:M1tarash1

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09.夢の裏側

星野アイが事務所と正式に契約してから、二週間が経った。

 

 たった二週間。

 

 それなのに、彼女の生活は目に見えて変わり始めていた。

 

 朝は以前より早く起きるようになったし、帰ってくる時間も遅くなった。レッスンのない日にも歌の練習をしているし、暇さえあればダンスの振り付けを確認している。

 

 食堂でご飯を食べているときでさえ、時折、何かを思い出したように手を動かしている。

 

「……アイ」

 

「ん?」

 

「それ、箸」

 

「え?」

 

 アイは、自分の手元を見た。

 

 右手には箸。

 

 左手は、テーブルの上で妙な動きをしている。

 

 どうやら、ダンスの振り付けを確認していたらしい。

 

「……あっ」

 

 アイは慌てて左手を引っ込めた。

 

「ち、違うよ? これは、その……!」

 

「いや、何も言ってないけど」

 

「絶対、変なこと考えてたでしょ!」

 

「考えてねえよ!」

 

 朝から騒がしい。

 

 けれど、こういうやり取りができるのは、少し嬉しかった。

 

 アイは確実に前へ進んでいる。

 

 それでも、俺たちの間にあるものが、すべて変わってしまったわけじゃない。

 

 相変わらず、くだらないことで言い合いをするし、アイは俺をからかうし、俺はそれに言い返す。

 

 夢を追い始めたからといって、彼女が別人になるわけではないのだ。

 

「……ねえ、透くん」

 

 アイが、ふいに箸を置いた。

 

「私、最近ちょっと忙しいでしょ?」

 

「まあな」

 

「だからさ、前みたいに遊べない日もあると思うんだ」

 

 その言葉に、俺は少しだけ顔を上げた。

 

「……うん」

 

「でも、透くんと話す時間がなくなるのは嫌だから」

 

 アイは、少し照れたように笑った。

 

「忙しくても、ちゃんと話しかけるね!」

 

「……別に、そんなの気にしなくていいのに」

 

「えー? 気にするよ!」

 

 アイは頬を膨らませた。

 

「だって、友達でしょ?」

 

 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 

 友達。

 

 俺たちは、友達だ。

 

 俺が彼女の未来を知っていることも、彼女がいつか悲劇に見舞われることも、この関係の中では関係ない。

 

 少なくとも、今の彼女にとっては。

 

「……そうだな」

 

 俺は笑った。

 

「友達だよ」

 

「よし!」

 

 アイは満足そうに頷き、再び箸を手に取った。

 

「じゃあ、今日も頑張ってくる!」

 

「おう。行ってらっしゃい」

 

 彼女は元気よく立ち上がった。

 

 そして、食堂を出る直前。

 

「あ、そうだ!」

 

 くるりと振り返る。

 

「今日、ちょっと遅くなるかもしれないから!」

 

「分かった。気をつけろよ」

 

「はーい!」

 

 アイは手を振り、廊下の向こうへ消えていった。

 

 俺は、その姿を見送った。

 

 いつも通りの朝。

 

 いつも通りの会話。

 

 けれど、俺はまだ知らなかった。

 

 その日の夕方、アイが帰ってきたとき。

 

 彼女が初めて、俺に話さないことを抱えているのだと気づくことになる。

 

     *

 

 その日、アイが帰ってきたのは、夜の七時を過ぎた頃だった。

 

 施設の夕食はとっくに終わっていた。

 

 俺は職員に頼んで、アイの分を取り分けてもらっていた。

 

 玄関の扉が開く音がして、俺は廊下へ向かった。

 

「おかえり」

 

「……ただいま」

 

 返ってきた声は、いつもより小さかった。

 

 俺は、思わず足を止めた。

 

「……どうした?」

 

「んーん。何でもないよ」

 

 アイは笑った。

 

 いつものように、口角を上げて。

 

 けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。

 

 疲れているだけかもしれない。

 

 仕事で嫌なことがあったのかもしれない。

 

 あるいは、ただ眠いだけなのかもしれない。

 

 それでも、俺には分かった。

 

 彼女は、何かを隠している。

 

「……ご飯、残してもらってるぞ」

 

「えっ、本当? やった!」

 

 アイは、ぱっと顔を明るくした。

 

「お腹すいてたんだよねー!」

 

 そのまま食堂へ向かう。

 

 俺も後を追った。

 

 彼女は、食事をしながら今日あったことを話し始めた。

 

 レッスンのこと。

 

 先生に褒められたこと。

 

 ダンスで一度失敗して、悔しかったこと。

 

 どれも、いつもと変わらない話だった。

 

 けれど。

 

「……それでね、今日、新しい人に会ったんだ」

 

 アイが、何気ない調子で言った。

 

「新しい人?」

 

「うん。事務所に来てた人。私のお仕事に関係する人なんだって」

 

「へえ」

 

「すっごく優しそうな人だったよ。私のこと、前から知ってたんだって!」

 

 アイは笑った。

 

「私の写真を見て、興味を持ってくれたらしいの!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが引っかかった。

 

「……前から知ってた?」

 

「うん。プロフィール用の写真を見たんだって」

 

「そっか」

 

 それなら、おかしくはない。

 

 アイの写真は、事務所の関係者に見せるためのものだ。

 

 興味を持った人がいても不思議ではない。

 

 俺はそう考えて、ひとまず納得した。

 

「それで、その人がどうしたんだ?」

 

「……え?」

 

「いや、何か話したんだろ?」

 

 アイは、少しだけ目を泳がせた。

 

「……うん。ちょっとだけ」

 

「どんな話?」

 

「えっと……お仕事のこととか?」

 

 曖昧な返事だった。

 

 俺は、それ以上聞かなかった。

 

 聞き出そうとすれば、彼女は答えてくれるかもしれない。

 

 けれど、今のアイは、話したいことと話したくないことを、自分の中で整理している最中なのだろう。

 

 無理に踏み込むのは違う。

 

 そう思った。

 

「……そっか」

 

 俺がそう返すと、アイはほっとしたように笑った。

 

「うん!」

 

 その笑顔を見て、俺は胸の奥に小さな違和感を残したまま、話題を変えた。

 

 そのときはまだ、それでよかったのだと思う。

 

 少なくとも、俺はそう信じていた。

 

     *

 

 翌日。

 

 俺は、アイの様子が気になって仕方がなかった。

 

 彼女はいつも通りだった。

 

 朝食を食べて、レッスンへ向かい、帰ってきてからは宿題を片づける。

 

 笑うし、ふざけるし、俺をからかう。

 

 何も変わっていないように見えた。

 

 けれど、ふとした瞬間。

 

 彼女の表情が、ほんの少しだけ曇ることがあった。

 

 携帯電話を確認したとき。

 

 事務所からの連絡を聞いたとき。

 

 そして、誰かに「アイドルになるんだって?」と話しかけられたとき。

 

 そのたびに、アイは一瞬だけ何かを考えるような顔をした。

 

 それから、すぐに笑う。

 

 まるで、何事もなかったかのように。

 

「……透くん?」

 

 気づけば、アイが俺の目の前に立っていた。

 

「何ぼーっとしてるの?」

 

「……いや、別に」

 

「ふーん?」

 

 アイは、疑わしそうに俺を見た。

 

「……もしかして、私のこと考えてた?」

 

「は!?」

 

「えー、違うの?」

 

「違うわ!」

 

「あははっ! 顔赤ーい!」

 

「赤くねえよ!」

 

 アイは楽しそうに笑った。

 

 俺は、ため息をついた。

 

 ……本当に、調子が狂う。

 

 こんなふうに笑っている彼女を見ると、さっきまでの違和感なんてどうでもよくなってしまいそうになる。

 

 けれど、それでは駄目なのだ。

 

 彼女が笑っているからといって、何も問題がないとは限らない。

 

 俺は、それを知っているはずだった。

 

「……アイ」

 

「ん?」

 

「最近、何か困ってることないか?」

 

 アイの笑顔が止まった。

 

 ほんの一瞬。

 

 けれど、確かに止まった。

 

「……どうして?」

 

「いや、何となく」

 

「何となく?」

 

「うん」

 

 アイは、しばらく俺を見つめていた。

 

 そして、にっこりと笑った。

 

「……ないよ!」

 

 明るい声だった。

 

 迷いのない返事。

 

 けれど、俺には分かった。

 

 それは、彼女が本当に何も困っていないときの答えではなかった。

 

 以前にも、同じことがあった。

 

 アイが「大丈夫」と言うとき。

 

 それは必ずしも、何も問題がないという意味ではない。

 

 むしろ、誰かに心配をかけたくないときほど、彼女はそう答える。

 

「……そっか」

 

 俺は、それ以上何も言わなかった。

 

 アイは、少しだけ安心したように笑った。

 

「うん!」

 

 そして、俺の横を通り過ぎていった。

 

 その背中を見送りながら、俺は拳を握った。

 

 無理に聞き出すことはできない。

 

 でも、何も聞かずにいるのも違う。

 

 彼女が自分から話してくれるまで待つべきなのか。

 

 それとも、何かが起きる前に、俺が動くべきなのか。

 

 分からなかった。

 

 ただひとつ、確かなことがあった。

 

 俺は、彼女のことを何も知らない。

 

 知っているつもりになっていただけだ。

 

     *

 

 その日の夕方。

 

 俺は、施設の近くにある小さな公園へ出かけた。

 

 特に理由があったわけではない。

 

 ただ、部屋にいても落ち着かなかったのだ。

 

 アイは、今日は事務所へ行っている。

 

 帰ってくるのは、いつもより遅くなるらしい。

 

 公園には、子どもたちの姿があった。

 

 遊具で遊ぶ子。

 

 ベンチでお菓子を食べる子。

 

 誰かを追いかけて走り回る子。

 

 どこにでもある、普通の夕方。

 

 俺はベンチに座り、空を見上げた。

 

 アイも、いつかこういう時間を当たり前に過ごせなくなるのだろうか。

 

 仕事が増えれば、自由な時間は減る。

 

 有名になれば、行ける場所も限られてくるかもしれない。

 

 それでも、彼女が望むなら。

 

 俺は、彼女がその道を選ぶことを応援したい。

 

 ……けれど。

 

 ふと、視界の端に、見覚えのある姿が映った。

 

 公園の入り口。

 

 道路の向こう側。

 

 そこに、一人の男が立っていた。

 

 年齢は、二十代後半か三十代くらいだろうか。

 

 特別目立つ格好をしているわけではない。

 

 ただ、男は公園の中を見ていた。

 

 正確には。

 

 公園で遊ぶ子どもたちではなく、道路を挟んだ先にある施設のほうを。

 

 俺は、何となく気になった。

 

 男はしばらくそこに立っていたが、やがて携帯電話を取り出した。

 

 誰かに連絡しているらしい。

 

 その口元が、わずかに動いた。

 

 距離があるため、何を話しているのかは分からない。

 

 やがて男は電話を切り、周囲を見回した。

 

 そして、何事もなかったかのように歩き去っていった。

 

「……何だ、今の」

 

 ただの通行人かもしれない。

 

 近くに用事があっただけかもしれない。

 

 俺が気にしすぎているだけだ。

 

 そう考えようとした。

 

 けれど、どうしても引っかかった。

 

 男が見ていたのは、施設だった。

 

 そして、アイは最近、事務所で新しい人物と会ったと言っていた。

 

 関係があると決まったわけではない。

 

 何の証拠もない。

 

 それなのに、胸の奥がざわついていた。

 

 俺は立ち上がった。

 

 男の姿は、もう見えなかった。

 

 追いかけるべきだったのかもしれない。

 

 けれど、俺には何もできなかった。

 

 何を聞けばいい?

 

 なぜ施設を見ていたのか。

 

 誰と電話していたのか。

 

 そもそも、俺が問い詰める理由はあるのか。

 

 何も分からない。

 

 俺は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……考えすぎだ」

 

 そう呟いた。

 

 けれど、その言葉は、自分でも驚くほど頼りなかった。

 

     *

 

 施設に戻ると、ちょうどアイが帰ってきたところだった。

 

「あ、透くん!」

 

 彼女は俺を見つけると、手を振った。

 

「どこ行ってたの?」

 

「ちょっと公園」

 

「ふーん。私も行けばよかった!」

 

 アイは、いつも通りに笑っていた。

 

 けれど、俺は気になってしまった。

 

 今日、事務所で何があったのか。

 

 誰と会ったのか。

 

 あの男と、何か関係があるのか。

 

 聞きたいことが、いくつも浮かんだ。

 

 けれど、俺はそのどれも口にできなかった。

 

「……アイ」

 

「ん?」

 

「今日、事務所で何かあった?」

 

 アイの表情が、ほんの少しだけ変わった。

 

「……どうして?」

 

「いや、最近ちょっと気になって」

 

「……何もないよ」

 

 また、その答えだった。

 

 俺は、黙った。

 

 アイは俺の顔を見て、少しだけ困ったように笑った。

 

「……透くん」

 

「うん?」

 

「心配してくれてるの?」

 

 その質問に、俺は頷いた。

 

「……うん」

 

「そっか」

 

 アイは、少しだけ視線を落とした。

 

「……ありがとう」

 

 それから、ゆっくりと顔を上げた。

 

「でも、本当に大丈夫だから」

 

 俺は、彼女を見つめた。

 

 大丈夫。

 

 その言葉を信じたい。

 

 彼女が自分で考えて、自分で選んで、今は話さないと決めているのなら。

 

 俺は、それを尊重したい。

 

 けれど、もし。

 

 彼女が誰かに傷つけられているのだとしたら。

 

 もし、彼女が助けを求められずにいるのだとしたら。

 

 俺は、どうすればいい?

 

「……分かった」

 

 結局、俺はそう答えた。

 

 アイは、ほっとしたように笑った。

 

「うん!」

 

 その笑顔を見て、俺は胸の奥に小さな痛みを感じた。

 

 彼女を信じることと、何も知らないままでいることは、同じではない。

 

 でも、今の俺には、その違いがまだ分からなかった。

 

     *

 

 その夜。

 

 俺は、なかなか眠れなかった。

 

 何度も寝返りを打ち、目を閉じては開く。

 

 頭の中では、今日見た男の姿が繰り返し浮かんでいた。

 

 施設を見ていた男。

 

 携帯電話で誰かと話していた男。

 

 そして、アイが最近会ったという、事務所の関係者。

 

 関係があると決まったわけではない。

 

 むしろ、何も関係ない可能性のほうが高いだろう。

 

 それでも、俺は気になって仕方がなかった。

 

 原作の記憶が、頭の片隅でちらついている。

 

 アイは、いつか悲劇に見舞われる。

 

 その事実だけが、俺の中に残っている。

 

 だからこそ、些細なことにも過敏になってしまう。

 

 誰かが彼女を見ていた。

 

 それだけで、未来の悲劇と結びつけてしまいそうになる。

 

「……落ち着け」

 

 俺は、自分に言い聞かせた。

 

 証拠もないのに、誰かを疑うわけにはいかない。

 

 アイの周りにいる人たちを、全員危険な存在だと思うのも違う。

 

 彼女が出会う人の中には、きっと彼女を支えてくれる人だっている。

 

 その可能性まで否定してしまったら、俺は何のために彼女を救おうとしているのか分からなくなる。

 

 俺は、布団の中で拳を握った。

 

 まずは、ちゃんと知ることだ。

 

 何が起きているのか。

 

 彼女がどんな環境にいるのか。

 

 何を望み、何を怖がっているのか。

 

 決めつけるのではなく、確かめる。

 

 それが、今の俺にできることだ。

 

 そう考えたとき。

 

 廊下から、小さな足音が聞こえた。

 

 俺は顔を上げた。

 

 足音は、俺の部屋の前で止まった。

 

 そして。

 

 コン、コン。

 

 控えめなノックが響いた。

 

「……透くん?」

 

 アイの声だった。

 

「……起きてる?」

 

「……起きてるよ」

 

 俺が答えると、扉の向こうで小さく息を吐く音がした。

 

「……ちょっとだけ、話してもいい?」

 

 俺は、すぐに起き上がった。

 

「もちろん」

 

 扉を開ける。

 

 そこには、アイが立っていた。

 

 パジャマ姿で、髪は少し乱れている。

 

 いつもの明るい笑顔は、なかった。

 

「……どうした?」

 

 アイは、しばらく俺を見つめていた。

 

 それから、ゆっくりと口を開いた。

 

「……私ね」

 

「うん」

 

「最近、ちょっとだけ怖いんだ」

 

 その言葉に、俺は息を呑んだ。

 

 アイは、視線を落とした。

 

「お仕事は楽しいよ。レッスンも、撮影も。これからもっと頑張りたいって思ってる」

 

「……うん」

 

「でも、最近、いろんな人に会うようになって……みんな、私に優しいんだ」

 

 アイは、自分の手を見つめた。

 

「かわいいって言ってくれるし、期待してるって言ってくれるし、もっと有名になれるって言ってくれる」

 

「……うん」

 

「嬉しいんだよ。本当に」

 

 そこで、言葉が途切れた。

 

 俺は、急かさなかった。

 

 アイが自分の気持ちを言葉にするのを、待った。

 

「……でも、みんなが私のことをどう思ってるのか、分からなくなるときがあるの」

 

 小さな声だった。

 

「私のことを応援してくれてるのか。それとも、私がアイドルになったら何か得するからなのか」

 

 アイは、少しだけ笑った。

 

「……変だよね。まだ何も始まってないのに」

 

「変じゃないよ」

 

 俺は答えた。

 

 アイは顔を上げた。

 

「……本当?」

 

「本当。知らない人とたくさん会うようになったら、そう思うことだってあるだろ」

 

「……そっか」

 

 アイは、少しだけ安心したように息を吐いた。

 

「……私、誰を信じたらいいのか、分からなくなるときがある」

 

 その言葉を聞いて、胸が締めつけられた。

 

 俺は、彼女に何を言えばいいのだろう。

 

 誰もが信じられる人間だとは言えない。

 

 かといって、誰も信じるなとも言いたくない。

 

 そんなことを言ってしまったら、彼女の世界を狭めてしまう。

 

 だから、俺は。

 

「……一気に決めなくてもいいんじゃないか」

 

 そう答えた。

 

「最初から、誰が信用できる人なのか全部分かるわけじゃないだろ。少しずつ話して、少しずつ知っていけばいい」

 

 アイは、黙って聞いていた。

 

「もし、何か変だなって思ったら、立ち止まっていい。分からないことがあったら、誰かに相談していい」

 

 俺は、彼女の目を見た。

 

「それに、信じるかどうかを決めるのは、アイ自身だよ」

 

「……私自身?」

 

「うん。誰かに言われたから信じるとか、誰かに言われたから疑うとかじゃなくて。アイが、その人とどう関わりたいか、自分で考えていいんだ」

 

 アイは、しばらく俺を見つめていた。

 

 やがて、小さく頷いた。

 

「……うん」

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「……ありがと、透くん」

 

「おう」

 

 アイは、ほっとしたように肩の力を抜いた。

 

 俺は、彼女の表情を見ながら思った。

 

 彼女は今、初めて自分の世界の広がりに戸惑っている。

 

 今までは、施設の中で出会う人たちが、彼女の世界の大部分を占めていた。

 

 けれど、これからは違う。

 

 事務所の人間。

 

 仕事で出会う人間。

 

 ファンになる人間。

 

 そして、彼女のことを何も知らないまま、勝手なイメージを抱く人間。

 

 そのすべてが、彼女の人生に関わってくる。

 

 俺が、そのすべてから彼女を守ることはできない。

 

 でも、彼女が誰かを信じることを怖がらなくて済むように。

 

 信じた相手に傷つけられたとき、自分が悪かったのだと思わずに済むように。

 

 そのためにできることは、あるはずだった。

 

「……アイ」

 

「ん?」

 

「何かあったら、また話しに来いよ」

 

 アイは、少しだけ目を丸くした。

 

「……いいの?」

 

「いいに決まってるだろ」

 

「何回でも?」

 

「何回でも」

 

 アイは、ゆっくりと笑った。

 

「……じゃあ、また来るね」

 

「ああ」

 

 彼女は、小さく手を振って、自分の部屋へ戻っていった。

 

 扉が閉まる。

 

 俺は、その場に立ち尽くしていた。

 

 今の話を聞いて、少しだけ安心した。

 

 アイは、自分の気持ちを話してくれた。

 

 怖いと思っていること。

 

 分からないと思っていること。

 

 それを、俺に伝えてくれた。

 

 それは、きっと大切なことだ。

 

 けれど同時に、俺は確信していた。

 

 彼女の周りで、何かが変わり始めている。

 

 それが何なのかは、まだ分からない。

 

 ただ、彼女が自分の言葉で「怖い」と言ったことを、俺は忘れないでいようと思った。

 

     *

 

 翌朝。

 

 俺は、いつもより少し早く目を覚ました。

 

 窓の外は、まだ薄暗い。

 

 昨日の出来事が、頭から離れなかった。

 

 アイの話。

 

 公園で見かけた男。

 

 そして、彼女が口にした「誰を信じたらいいのか分からない」という言葉。

 

 偶然かもしれない。

 

 何の関係もない出来事が、俺の中で勝手につながっているだけかもしれない。

 

 それでも。

 

 俺は、もう少しだけ周囲に目を向けようと思った。

 

 アイを監視するためではない。

 

 彼女の行動を制限するためでもない。

 

 彼女が安心して夢を追える環境なのか、ちゃんと知りたかった。

 

 そして、もし何か問題があるのなら。

 

 彼女が自分で判断できるように、必要な情報を一緒に考えたい。

 

 彼女の代わりに答えを決めるのではなく。

 

 彼女が選ぶための手助けをする。

 

 それが、俺の役目なのだと思う。

 

 食堂へ向かうと、アイはすでに席についていた。

 

「おはよー!」

 

「……おはよう。早いな」

 

「今日はレッスンがちょっと早いの!」

 

 アイは、パンを頬張りながら笑った。

 

 いつもの顔だった。

 

 昨夜、あんな話をしたことが嘘みたいに。

 

「……アイ」

 

「ん?」

 

「今日も頑張れよ」

 

 俺がそう言うと、アイは一瞬だけ驚いた。

 

 そして、笑った。

 

「うん!」

 

 その笑顔を見て、俺は思った。

 

 彼女が何を選ぶのか。

 

 これから、どんな未来へ進んでいくのか。

 

 俺には分からない。

 

 でも、分からないからこそ、決めつけてはいけない。

 

 彼女が誰かを信じたいと思うなら、その気持ちを大切にしてほしい。

 

 彼女が誰かを疑いたいと思うなら、その理由を一緒に考えたい。

 

 彼女が何かを怖いと思ったなら、その気持ちを否定したくない。

 

 俺は、そう思った。

 

 ――その日の昼過ぎ。

 

 事務所から、施設に一本の電話が入った。

 

 アイの仕事に関する連絡だったらしい。

 

 職員が電話を終え、アイを呼びに来た。

 

「アイちゃん、事務所の方からお電話よ」

 

「はーい!」

 

 アイは、ぱっと立ち上がった。

 

 いつもの明るい声。

 

 けれど、電話を受け取る直前。

 

 彼女は一瞬だけ、俺のほうを見た。

 

 何かを確かめるような目だった。

 

 俺は、小さく頷いた。

 

 大丈夫だ。

 

 何があっても、話を聞く。

 

 彼女の気持ちを、ちゃんと尊重する。

 

 そう伝えるつもりで。

 

 アイは、少しだけ笑ってから、受話器を耳に当てた。

 

「もしもし、星野です!」

 

 最初は、いつも通りだった。

 

「はい……はい!」

 

 やがて、彼女の表情が明るくなった。

 

「えっ、本当ですか!?」

 

 嬉しそうな声。

 

 きっと、新しい仕事の話だろう。

 

 俺も、ほっとした。

 

 けれど。

 

「……え?」

 

 突然、アイの声が止まった。

 

 笑顔が消える。

 

 彼女は、受話器を耳に当てたまま、じっと前を見つめていた。

 

「……それは……」

 

 声が小さくなった。

 

 俺は、思わず立ち上がった。

 

 アイは、しばらく黙っていた。

 

 そして、やがて。

 

「……分かりました」

 

 そう答えた。

 

「はい。ありがとうございます」

 

 電話が切れた。

 

 アイは、受話器を戻したあとも、しばらくその場から動かなかった。

 

「……アイ?」

 

 俺が声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。

 

 その顔には、笑顔がなかった。

 

「……透くん」

 

「どうした?」

 

 アイは、何かを言おうとして、口を閉じた。

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「……何でもないよ」

 

 また、その言葉だった。

 

 俺は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 

 何でもない。

 

 大丈夫。

 

 平気。

 

 彼女は、そう言って笑う。

 

 けれど、その言葉の裏に何があるのか。

 

 俺は、まだ知らない。

 

 彼女が何を聞いたのか。

 

 何を言われたのか。

 

 どうして、あんな顔をしたのか。

 

 何ひとつ、分からない。

 

 そして、アイは俺の横を通り過ぎていった。

 

 呼び止めようとして、できなかった。

 

 彼女が話したくないのなら、無理に聞き出すべきではない。

 

 そう思う自分がいる。

 

 でも、何もしないままでは、また同じことになるかもしれない。

 

 彼女が苦しんでいることに気づけず。

 

 彼女が助けを求めるまで待って。

 

 そして、気づいたときには、もう手遅れになっている。

 

 そんな未来だけは、絶対に嫌だった。

 

 俺は、拳を握りしめた。

 

 今度は、ただ待っているだけではいけないのかもしれない。

 

 彼女の人生を勝手に決めることと、彼女を守るために動くこと。

 

 その境界線を、俺は見極めなければならない。

 

 彼女の意思を尊重しながら、危険を見過ごさない方法を。

 

 俺は、考えなければならなかった。

 

     *

 

 その日の夜。

 

 俺は、施設の玄関近くで、ふと足を止めた。

 

 窓の外。

 

 道路の向こう側。

 

 街灯の下に、人影があった。

 

 昨日、公園で見かけた男と同じ人物かどうかは分からない。

 

 顔までは見えなかった。

 

 ただ、その人物は、しばらく施設の建物を見上げていた。

 

 そして、誰かを待っているように、動かずに立っていた。

 

 俺は、息を潜めた。

 

 やがて、その人物は携帯電話を取り出した。

 

 画面を見て、何かを確認する。

 

 それから、ゆっくりと顔を上げた。

 

 視線が、こちらへ向いた。

 

 目が合った。

 

 ――そう思った瞬間。

 

 その人物は、すっと歩き出した。

 

 街灯の光から外れ、暗い道へと消えていく。

 

「……っ」

 

 俺は、窓に近づいた。

 

 もう、姿は見えない。

 

 ただの偶然かもしれない。

 

 それでも、今度ははっきりと感じた。

 

 これは、俺の考えすぎだけではないのかもしれない。

 

 アイの周りで、何かが起きている。

 

 彼女が話してくれない何か。

 

 俺が知らない何か。

 

 そして、それは、彼女の夢と無関係ではないのかもしれない。

 

 俺は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 焦るな。

 

 決めつけるな。

 

 けれど、目を逸らすな。

 

 今度こそ、ちゃんと知るんだ。

 

 彼女の未来を変えたいのなら。

 

 彼女が何を望んでいるのかだけでなく、何を怖がっているのかも。

 

 その夜、俺はひとつの決意を固めた。

 

 明日、アイにもう一度、話を聞こう。

 

 無理に問い詰めるのではなく。

 

 彼女が自分の言葉で話せるように。

 

 そして、必要なら、信頼できる大人にも相談しよう。

 

 俺一人で、すべてを抱え込む必要はない。

 

 彼女を守るために、俺自身が何でもできる人間になる必要もない。

 

 できないことは、誰かの力を借りればいい。

 

 そうやって、彼女が安心して生きられる未来を作っていく。

 

 窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。

 

 俺は、暗い道の先を見つめた。

 

 まだ、何も分からない。

 

 けれど。

 

 星野アイの夢を見ているのは、俺だけではない。

 

 そのことだけは、もう、疑いようがなかった。

 

 ――そして、俺はまだ知らなかった。

 

 彼女の人生を変える最初の歯車が、すでに静かに回り始めていることを。

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