星野アイが事務所と正式に契約してから、二週間が経った。
たった二週間。
それなのに、彼女の生活は目に見えて変わり始めていた。
朝は以前より早く起きるようになったし、帰ってくる時間も遅くなった。レッスンのない日にも歌の練習をしているし、暇さえあればダンスの振り付けを確認している。
食堂でご飯を食べているときでさえ、時折、何かを思い出したように手を動かしている。
「……アイ」
「ん?」
「それ、箸」
「え?」
アイは、自分の手元を見た。
右手には箸。
左手は、テーブルの上で妙な動きをしている。
どうやら、ダンスの振り付けを確認していたらしい。
「……あっ」
アイは慌てて左手を引っ込めた。
「ち、違うよ? これは、その……!」
「いや、何も言ってないけど」
「絶対、変なこと考えてたでしょ!」
「考えてねえよ!」
朝から騒がしい。
けれど、こういうやり取りができるのは、少し嬉しかった。
アイは確実に前へ進んでいる。
それでも、俺たちの間にあるものが、すべて変わってしまったわけじゃない。
相変わらず、くだらないことで言い合いをするし、アイは俺をからかうし、俺はそれに言い返す。
夢を追い始めたからといって、彼女が別人になるわけではないのだ。
「……ねえ、透くん」
アイが、ふいに箸を置いた。
「私、最近ちょっと忙しいでしょ?」
「まあな」
「だからさ、前みたいに遊べない日もあると思うんだ」
その言葉に、俺は少しだけ顔を上げた。
「……うん」
「でも、透くんと話す時間がなくなるのは嫌だから」
アイは、少し照れたように笑った。
「忙しくても、ちゃんと話しかけるね!」
「……別に、そんなの気にしなくていいのに」
「えー? 気にするよ!」
アイは頬を膨らませた。
「だって、友達でしょ?」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
友達。
俺たちは、友達だ。
俺が彼女の未来を知っていることも、彼女がいつか悲劇に見舞われることも、この関係の中では関係ない。
少なくとも、今の彼女にとっては。
「……そうだな」
俺は笑った。
「友達だよ」
「よし!」
アイは満足そうに頷き、再び箸を手に取った。
「じゃあ、今日も頑張ってくる!」
「おう。行ってらっしゃい」
彼女は元気よく立ち上がった。
そして、食堂を出る直前。
「あ、そうだ!」
くるりと振り返る。
「今日、ちょっと遅くなるかもしれないから!」
「分かった。気をつけろよ」
「はーい!」
アイは手を振り、廊下の向こうへ消えていった。
俺は、その姿を見送った。
いつも通りの朝。
いつも通りの会話。
けれど、俺はまだ知らなかった。
その日の夕方、アイが帰ってきたとき。
彼女が初めて、俺に話さないことを抱えているのだと気づくことになる。
*
その日、アイが帰ってきたのは、夜の七時を過ぎた頃だった。
施設の夕食はとっくに終わっていた。
俺は職員に頼んで、アイの分を取り分けてもらっていた。
玄関の扉が開く音がして、俺は廊下へ向かった。
「おかえり」
「……ただいま」
返ってきた声は、いつもより小さかった。
俺は、思わず足を止めた。
「……どうした?」
「んーん。何でもないよ」
アイは笑った。
いつものように、口角を上げて。
けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
疲れているだけかもしれない。
仕事で嫌なことがあったのかもしれない。
あるいは、ただ眠いだけなのかもしれない。
それでも、俺には分かった。
彼女は、何かを隠している。
「……ご飯、残してもらってるぞ」
「えっ、本当? やった!」
アイは、ぱっと顔を明るくした。
「お腹すいてたんだよねー!」
そのまま食堂へ向かう。
俺も後を追った。
彼女は、食事をしながら今日あったことを話し始めた。
レッスンのこと。
先生に褒められたこと。
ダンスで一度失敗して、悔しかったこと。
どれも、いつもと変わらない話だった。
けれど。
「……それでね、今日、新しい人に会ったんだ」
アイが、何気ない調子で言った。
「新しい人?」
「うん。事務所に来てた人。私のお仕事に関係する人なんだって」
「へえ」
「すっごく優しそうな人だったよ。私のこと、前から知ってたんだって!」
アイは笑った。
「私の写真を見て、興味を持ってくれたらしいの!」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが引っかかった。
「……前から知ってた?」
「うん。プロフィール用の写真を見たんだって」
「そっか」
それなら、おかしくはない。
アイの写真は、事務所の関係者に見せるためのものだ。
興味を持った人がいても不思議ではない。
俺はそう考えて、ひとまず納得した。
「それで、その人がどうしたんだ?」
「……え?」
「いや、何か話したんだろ?」
アイは、少しだけ目を泳がせた。
「……うん。ちょっとだけ」
「どんな話?」
「えっと……お仕事のこととか?」
曖昧な返事だった。
俺は、それ以上聞かなかった。
聞き出そうとすれば、彼女は答えてくれるかもしれない。
けれど、今のアイは、話したいことと話したくないことを、自分の中で整理している最中なのだろう。
無理に踏み込むのは違う。
そう思った。
「……そっか」
俺がそう返すと、アイはほっとしたように笑った。
「うん!」
その笑顔を見て、俺は胸の奥に小さな違和感を残したまま、話題を変えた。
そのときはまだ、それでよかったのだと思う。
少なくとも、俺はそう信じていた。
*
翌日。
俺は、アイの様子が気になって仕方がなかった。
彼女はいつも通りだった。
朝食を食べて、レッスンへ向かい、帰ってきてからは宿題を片づける。
笑うし、ふざけるし、俺をからかう。
何も変わっていないように見えた。
けれど、ふとした瞬間。
彼女の表情が、ほんの少しだけ曇ることがあった。
携帯電話を確認したとき。
事務所からの連絡を聞いたとき。
そして、誰かに「アイドルになるんだって?」と話しかけられたとき。
そのたびに、アイは一瞬だけ何かを考えるような顔をした。
それから、すぐに笑う。
まるで、何事もなかったかのように。
「……透くん?」
気づけば、アイが俺の目の前に立っていた。
「何ぼーっとしてるの?」
「……いや、別に」
「ふーん?」
アイは、疑わしそうに俺を見た。
「……もしかして、私のこと考えてた?」
「は!?」
「えー、違うの?」
「違うわ!」
「あははっ! 顔赤ーい!」
「赤くねえよ!」
アイは楽しそうに笑った。
俺は、ため息をついた。
……本当に、調子が狂う。
こんなふうに笑っている彼女を見ると、さっきまでの違和感なんてどうでもよくなってしまいそうになる。
けれど、それでは駄目なのだ。
彼女が笑っているからといって、何も問題がないとは限らない。
俺は、それを知っているはずだった。
「……アイ」
「ん?」
「最近、何か困ってることないか?」
アイの笑顔が止まった。
ほんの一瞬。
けれど、確かに止まった。
「……どうして?」
「いや、何となく」
「何となく?」
「うん」
アイは、しばらく俺を見つめていた。
そして、にっこりと笑った。
「……ないよ!」
明るい声だった。
迷いのない返事。
けれど、俺には分かった。
それは、彼女が本当に何も困っていないときの答えではなかった。
以前にも、同じことがあった。
アイが「大丈夫」と言うとき。
それは必ずしも、何も問題がないという意味ではない。
むしろ、誰かに心配をかけたくないときほど、彼女はそう答える。
「……そっか」
俺は、それ以上何も言わなかった。
アイは、少しだけ安心したように笑った。
「うん!」
そして、俺の横を通り過ぎていった。
その背中を見送りながら、俺は拳を握った。
無理に聞き出すことはできない。
でも、何も聞かずにいるのも違う。
彼女が自分から話してくれるまで待つべきなのか。
それとも、何かが起きる前に、俺が動くべきなのか。
分からなかった。
ただひとつ、確かなことがあった。
俺は、彼女のことを何も知らない。
知っているつもりになっていただけだ。
*
その日の夕方。
俺は、施設の近くにある小さな公園へ出かけた。
特に理由があったわけではない。
ただ、部屋にいても落ち着かなかったのだ。
アイは、今日は事務所へ行っている。
帰ってくるのは、いつもより遅くなるらしい。
公園には、子どもたちの姿があった。
遊具で遊ぶ子。
ベンチでお菓子を食べる子。
誰かを追いかけて走り回る子。
どこにでもある、普通の夕方。
俺はベンチに座り、空を見上げた。
アイも、いつかこういう時間を当たり前に過ごせなくなるのだろうか。
仕事が増えれば、自由な時間は減る。
有名になれば、行ける場所も限られてくるかもしれない。
それでも、彼女が望むなら。
俺は、彼女がその道を選ぶことを応援したい。
……けれど。
ふと、視界の端に、見覚えのある姿が映った。
公園の入り口。
道路の向こう側。
そこに、一人の男が立っていた。
年齢は、二十代後半か三十代くらいだろうか。
特別目立つ格好をしているわけではない。
ただ、男は公園の中を見ていた。
正確には。
公園で遊ぶ子どもたちではなく、道路を挟んだ先にある施設のほうを。
俺は、何となく気になった。
男はしばらくそこに立っていたが、やがて携帯電話を取り出した。
誰かに連絡しているらしい。
その口元が、わずかに動いた。
距離があるため、何を話しているのかは分からない。
やがて男は電話を切り、周囲を見回した。
そして、何事もなかったかのように歩き去っていった。
「……何だ、今の」
ただの通行人かもしれない。
近くに用事があっただけかもしれない。
俺が気にしすぎているだけだ。
そう考えようとした。
けれど、どうしても引っかかった。
男が見ていたのは、施設だった。
そして、アイは最近、事務所で新しい人物と会ったと言っていた。
関係があると決まったわけではない。
何の証拠もない。
それなのに、胸の奥がざわついていた。
俺は立ち上がった。
男の姿は、もう見えなかった。
追いかけるべきだったのかもしれない。
けれど、俺には何もできなかった。
何を聞けばいい?
なぜ施設を見ていたのか。
誰と電話していたのか。
そもそも、俺が問い詰める理由はあるのか。
何も分からない。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……考えすぎだ」
そう呟いた。
けれど、その言葉は、自分でも驚くほど頼りなかった。
*
施設に戻ると、ちょうどアイが帰ってきたところだった。
「あ、透くん!」
彼女は俺を見つけると、手を振った。
「どこ行ってたの?」
「ちょっと公園」
「ふーん。私も行けばよかった!」
アイは、いつも通りに笑っていた。
けれど、俺は気になってしまった。
今日、事務所で何があったのか。
誰と会ったのか。
あの男と、何か関係があるのか。
聞きたいことが、いくつも浮かんだ。
けれど、俺はそのどれも口にできなかった。
「……アイ」
「ん?」
「今日、事務所で何かあった?」
アイの表情が、ほんの少しだけ変わった。
「……どうして?」
「いや、最近ちょっと気になって」
「……何もないよ」
また、その答えだった。
俺は、黙った。
アイは俺の顔を見て、少しだけ困ったように笑った。
「……透くん」
「うん?」
「心配してくれてるの?」
その質問に、俺は頷いた。
「……うん」
「そっか」
アイは、少しだけ視線を落とした。
「……ありがとう」
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「でも、本当に大丈夫だから」
俺は、彼女を見つめた。
大丈夫。
その言葉を信じたい。
彼女が自分で考えて、自分で選んで、今は話さないと決めているのなら。
俺は、それを尊重したい。
けれど、もし。
彼女が誰かに傷つけられているのだとしたら。
もし、彼女が助けを求められずにいるのだとしたら。
俺は、どうすればいい?
「……分かった」
結局、俺はそう答えた。
アイは、ほっとしたように笑った。
「うん!」
その笑顔を見て、俺は胸の奥に小さな痛みを感じた。
彼女を信じることと、何も知らないままでいることは、同じではない。
でも、今の俺には、その違いがまだ分からなかった。
*
その夜。
俺は、なかなか眠れなかった。
何度も寝返りを打ち、目を閉じては開く。
頭の中では、今日見た男の姿が繰り返し浮かんでいた。
施設を見ていた男。
携帯電話で誰かと話していた男。
そして、アイが最近会ったという、事務所の関係者。
関係があると決まったわけではない。
むしろ、何も関係ない可能性のほうが高いだろう。
それでも、俺は気になって仕方がなかった。
原作の記憶が、頭の片隅でちらついている。
アイは、いつか悲劇に見舞われる。
その事実だけが、俺の中に残っている。
だからこそ、些細なことにも過敏になってしまう。
誰かが彼女を見ていた。
それだけで、未来の悲劇と結びつけてしまいそうになる。
「……落ち着け」
俺は、自分に言い聞かせた。
証拠もないのに、誰かを疑うわけにはいかない。
アイの周りにいる人たちを、全員危険な存在だと思うのも違う。
彼女が出会う人の中には、きっと彼女を支えてくれる人だっている。
その可能性まで否定してしまったら、俺は何のために彼女を救おうとしているのか分からなくなる。
俺は、布団の中で拳を握った。
まずは、ちゃんと知ることだ。
何が起きているのか。
彼女がどんな環境にいるのか。
何を望み、何を怖がっているのか。
決めつけるのではなく、確かめる。
それが、今の俺にできることだ。
そう考えたとき。
廊下から、小さな足音が聞こえた。
俺は顔を上げた。
足音は、俺の部屋の前で止まった。
そして。
コン、コン。
控えめなノックが響いた。
「……透くん?」
アイの声だった。
「……起きてる?」
「……起きてるよ」
俺が答えると、扉の向こうで小さく息を吐く音がした。
「……ちょっとだけ、話してもいい?」
俺は、すぐに起き上がった。
「もちろん」
扉を開ける。
そこには、アイが立っていた。
パジャマ姿で、髪は少し乱れている。
いつもの明るい笑顔は、なかった。
「……どうした?」
アイは、しばらく俺を見つめていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……私ね」
「うん」
「最近、ちょっとだけ怖いんだ」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
アイは、視線を落とした。
「お仕事は楽しいよ。レッスンも、撮影も。これからもっと頑張りたいって思ってる」
「……うん」
「でも、最近、いろんな人に会うようになって……みんな、私に優しいんだ」
アイは、自分の手を見つめた。
「かわいいって言ってくれるし、期待してるって言ってくれるし、もっと有名になれるって言ってくれる」
「……うん」
「嬉しいんだよ。本当に」
そこで、言葉が途切れた。
俺は、急かさなかった。
アイが自分の気持ちを言葉にするのを、待った。
「……でも、みんなが私のことをどう思ってるのか、分からなくなるときがあるの」
小さな声だった。
「私のことを応援してくれてるのか。それとも、私がアイドルになったら何か得するからなのか」
アイは、少しだけ笑った。
「……変だよね。まだ何も始まってないのに」
「変じゃないよ」
俺は答えた。
アイは顔を上げた。
「……本当?」
「本当。知らない人とたくさん会うようになったら、そう思うことだってあるだろ」
「……そっか」
アイは、少しだけ安心したように息を吐いた。
「……私、誰を信じたらいいのか、分からなくなるときがある」
その言葉を聞いて、胸が締めつけられた。
俺は、彼女に何を言えばいいのだろう。
誰もが信じられる人間だとは言えない。
かといって、誰も信じるなとも言いたくない。
そんなことを言ってしまったら、彼女の世界を狭めてしまう。
だから、俺は。
「……一気に決めなくてもいいんじゃないか」
そう答えた。
「最初から、誰が信用できる人なのか全部分かるわけじゃないだろ。少しずつ話して、少しずつ知っていけばいい」
アイは、黙って聞いていた。
「もし、何か変だなって思ったら、立ち止まっていい。分からないことがあったら、誰かに相談していい」
俺は、彼女の目を見た。
「それに、信じるかどうかを決めるのは、アイ自身だよ」
「……私自身?」
「うん。誰かに言われたから信じるとか、誰かに言われたから疑うとかじゃなくて。アイが、その人とどう関わりたいか、自分で考えていいんだ」
アイは、しばらく俺を見つめていた。
やがて、小さく頷いた。
「……うん」
そして、少しだけ笑った。
「……ありがと、透くん」
「おう」
アイは、ほっとしたように肩の力を抜いた。
俺は、彼女の表情を見ながら思った。
彼女は今、初めて自分の世界の広がりに戸惑っている。
今までは、施設の中で出会う人たちが、彼女の世界の大部分を占めていた。
けれど、これからは違う。
事務所の人間。
仕事で出会う人間。
ファンになる人間。
そして、彼女のことを何も知らないまま、勝手なイメージを抱く人間。
そのすべてが、彼女の人生に関わってくる。
俺が、そのすべてから彼女を守ることはできない。
でも、彼女が誰かを信じることを怖がらなくて済むように。
信じた相手に傷つけられたとき、自分が悪かったのだと思わずに済むように。
そのためにできることは、あるはずだった。
「……アイ」
「ん?」
「何かあったら、また話しに来いよ」
アイは、少しだけ目を丸くした。
「……いいの?」
「いいに決まってるだろ」
「何回でも?」
「何回でも」
アイは、ゆっくりと笑った。
「……じゃあ、また来るね」
「ああ」
彼女は、小さく手を振って、自分の部屋へ戻っていった。
扉が閉まる。
俺は、その場に立ち尽くしていた。
今の話を聞いて、少しだけ安心した。
アイは、自分の気持ちを話してくれた。
怖いと思っていること。
分からないと思っていること。
それを、俺に伝えてくれた。
それは、きっと大切なことだ。
けれど同時に、俺は確信していた。
彼女の周りで、何かが変わり始めている。
それが何なのかは、まだ分からない。
ただ、彼女が自分の言葉で「怖い」と言ったことを、俺は忘れないでいようと思った。
*
翌朝。
俺は、いつもより少し早く目を覚ました。
窓の外は、まだ薄暗い。
昨日の出来事が、頭から離れなかった。
アイの話。
公園で見かけた男。
そして、彼女が口にした「誰を信じたらいいのか分からない」という言葉。
偶然かもしれない。
何の関係もない出来事が、俺の中で勝手につながっているだけかもしれない。
それでも。
俺は、もう少しだけ周囲に目を向けようと思った。
アイを監視するためではない。
彼女の行動を制限するためでもない。
彼女が安心して夢を追える環境なのか、ちゃんと知りたかった。
そして、もし何か問題があるのなら。
彼女が自分で判断できるように、必要な情報を一緒に考えたい。
彼女の代わりに答えを決めるのではなく。
彼女が選ぶための手助けをする。
それが、俺の役目なのだと思う。
食堂へ向かうと、アイはすでに席についていた。
「おはよー!」
「……おはよう。早いな」
「今日はレッスンがちょっと早いの!」
アイは、パンを頬張りながら笑った。
いつもの顔だった。
昨夜、あんな話をしたことが嘘みたいに。
「……アイ」
「ん?」
「今日も頑張れよ」
俺がそう言うと、アイは一瞬だけ驚いた。
そして、笑った。
「うん!」
その笑顔を見て、俺は思った。
彼女が何を選ぶのか。
これから、どんな未来へ進んでいくのか。
俺には分からない。
でも、分からないからこそ、決めつけてはいけない。
彼女が誰かを信じたいと思うなら、その気持ちを大切にしてほしい。
彼女が誰かを疑いたいと思うなら、その理由を一緒に考えたい。
彼女が何かを怖いと思ったなら、その気持ちを否定したくない。
俺は、そう思った。
――その日の昼過ぎ。
事務所から、施設に一本の電話が入った。
アイの仕事に関する連絡だったらしい。
職員が電話を終え、アイを呼びに来た。
「アイちゃん、事務所の方からお電話よ」
「はーい!」
アイは、ぱっと立ち上がった。
いつもの明るい声。
けれど、電話を受け取る直前。
彼女は一瞬だけ、俺のほうを見た。
何かを確かめるような目だった。
俺は、小さく頷いた。
大丈夫だ。
何があっても、話を聞く。
彼女の気持ちを、ちゃんと尊重する。
そう伝えるつもりで。
アイは、少しだけ笑ってから、受話器を耳に当てた。
「もしもし、星野です!」
最初は、いつも通りだった。
「はい……はい!」
やがて、彼女の表情が明るくなった。
「えっ、本当ですか!?」
嬉しそうな声。
きっと、新しい仕事の話だろう。
俺も、ほっとした。
けれど。
「……え?」
突然、アイの声が止まった。
笑顔が消える。
彼女は、受話器を耳に当てたまま、じっと前を見つめていた。
「……それは……」
声が小さくなった。
俺は、思わず立ち上がった。
アイは、しばらく黙っていた。
そして、やがて。
「……分かりました」
そう答えた。
「はい。ありがとうございます」
電話が切れた。
アイは、受話器を戻したあとも、しばらくその場から動かなかった。
「……アイ?」
俺が声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。
その顔には、笑顔がなかった。
「……透くん」
「どうした?」
アイは、何かを言おうとして、口を閉じた。
そして、少しだけ笑った。
「……何でもないよ」
また、その言葉だった。
俺は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
何でもない。
大丈夫。
平気。
彼女は、そう言って笑う。
けれど、その言葉の裏に何があるのか。
俺は、まだ知らない。
彼女が何を聞いたのか。
何を言われたのか。
どうして、あんな顔をしたのか。
何ひとつ、分からない。
そして、アイは俺の横を通り過ぎていった。
呼び止めようとして、できなかった。
彼女が話したくないのなら、無理に聞き出すべきではない。
そう思う自分がいる。
でも、何もしないままでは、また同じことになるかもしれない。
彼女が苦しんでいることに気づけず。
彼女が助けを求めるまで待って。
そして、気づいたときには、もう手遅れになっている。
そんな未来だけは、絶対に嫌だった。
俺は、拳を握りしめた。
今度は、ただ待っているだけではいけないのかもしれない。
彼女の人生を勝手に決めることと、彼女を守るために動くこと。
その境界線を、俺は見極めなければならない。
彼女の意思を尊重しながら、危険を見過ごさない方法を。
俺は、考えなければならなかった。
*
その日の夜。
俺は、施設の玄関近くで、ふと足を止めた。
窓の外。
道路の向こう側。
街灯の下に、人影があった。
昨日、公園で見かけた男と同じ人物かどうかは分からない。
顔までは見えなかった。
ただ、その人物は、しばらく施設の建物を見上げていた。
そして、誰かを待っているように、動かずに立っていた。
俺は、息を潜めた。
やがて、その人物は携帯電話を取り出した。
画面を見て、何かを確認する。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
視線が、こちらへ向いた。
目が合った。
――そう思った瞬間。
その人物は、すっと歩き出した。
街灯の光から外れ、暗い道へと消えていく。
「……っ」
俺は、窓に近づいた。
もう、姿は見えない。
ただの偶然かもしれない。
それでも、今度ははっきりと感じた。
これは、俺の考えすぎだけではないのかもしれない。
アイの周りで、何かが起きている。
彼女が話してくれない何か。
俺が知らない何か。
そして、それは、彼女の夢と無関係ではないのかもしれない。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
焦るな。
決めつけるな。
けれど、目を逸らすな。
今度こそ、ちゃんと知るんだ。
彼女の未来を変えたいのなら。
彼女が何を望んでいるのかだけでなく、何を怖がっているのかも。
その夜、俺はひとつの決意を固めた。
明日、アイにもう一度、話を聞こう。
無理に問い詰めるのではなく。
彼女が自分の言葉で話せるように。
そして、必要なら、信頼できる大人にも相談しよう。
俺一人で、すべてを抱え込む必要はない。
彼女を守るために、俺自身が何でもできる人間になる必要もない。
できないことは、誰かの力を借りればいい。
そうやって、彼女が安心して生きられる未来を作っていく。
窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。
俺は、暗い道の先を見つめた。
まだ、何も分からない。
けれど。
星野アイの夢を見ているのは、俺だけではない。
そのことだけは、もう、疑いようがなかった。
――そして、俺はまだ知らなかった。
彼女の人生を変える最初の歯車が、すでに静かに回り始めていることを。