*裁ち鋏…布の裁断専用のハサミ。落としたり硬いものを切ったりすると刃が欠け、布以外を切ったりすると切れ味が悪くなり、メンテナンスを怠るとすぐ錆びるため扱いには注意。
*トワルチェック…本番の布でいきなり作る前に、型紙が実際に合っているか、採寸があっているかなどを確認すること。
*シーチング…トワルチェックに使う安価な布。
*表布〔表地〕…名の通り表面に来るメインの布。
*裏布〔裏地〕…名の通り肌に触れる方の布。
チョキ…チョキ…チョキ……
1999年 8月中旬
大原璃華子の邸宅に、大机の上で深いブルーのベルベットに裁ち鋏を入れる東方仗助の姿があった。
仗助は数週間前、カフェで璃華子と出逢い、あの後少しの会話を通してそのまま璃華子の助手として雇われるようになった。実際に服作りに携わっているのは、表布と裏布の裁断だけである。
夏休み中の仗助は、璃華子に雇われてから、デザイン画を見せてもらったり制作の様子を見せてもらったりと、この場所にほぼ毎日通っていた。
雇われた日から早速裁断をさせられ、トワルチェックのシーチングも含めると、現在裁断中のものが4着目である。
今回の生地は本物のベルベットだ。高価かつ扱い難い布であり、仗助の顔は険しい。最後の1cmまで集中を切らさない。というか切らせられない。
そう、今制作中の服はブルーベルベットのセットアップ。依頼主はアメリカの大統領夫人らしい。ワオ!
デザイン性の高い洗練されたジャケットに、セットのストレートパンツ。更に同様の生地でジャケットにも合うタイトドレス。どれもシンプルなのに、今まで見たことも無い様なデザインだ。
仗助は数日前、初めて完成イメージのデザイン画を見せられた時、改めて大原璃華子の凄さを実感した。
ジャケットとドレスの裁断は既に完了しており、あとはパンツの裁断でベルベットの表地は終わりだ。実の所、何度か切り間違えている。クレイジーダイヤモンドの修復能力を持つ仗助でなければ、問答無用でクビである。
チョキンッ
裁断を始めてから2時間。やっとのことでメインの表地の裁断が終わった。
まだ裏地が残っているが、ひとまず大役が終わりホッと一息つく。
「…ふうッ…」
トンッ
「ありがとうお疲れ様」
「ッウワーーッ!?」
突然肩をそっと叩かれ、ずっと集中していた仗助は飛び上がった。
ふふふ、と笑う当人は仄かにカモミールの良い匂いがする。
東方仗助の雇い主、大原璃華子である。
彼らが出逢ったあの日、彼女は過去類を見ない依頼の数に少々困っていた。
暇そうな仗助を見つけると、自分の服のファンだと言われ、自分の作る服を対価に、労働力として雇う事にしたのだった。
「ふふふ、2時間もずっとやらせちゃってごめんね。今紅茶を淹れたから、一旦休憩にしよう」
「全然大丈夫っすよこんくらい!ありがとうございますッ!」
今日の璃華子は、ふわふわとした髪を高めの位置で束ねている。ポニーテールもかわいい。
2人並んでリビングへ向かう。
ドアを開けると、カモミールに仄かにピーチも混ざった香りが鼻腔を掠めた。
「カモミールティーすか?…アー…桃入り?」
「えっスゴイ!よく分かったね。そう桃の皮を香り付けに一緒に蒸したの」
リビングのローテーブルには、ガラスのティーポットとティーカップが2つ。
純白の大皿には、1つでいくらするのか見当も付かないほど輝く、食べやすく切られた桃とシャインマスカットが飾られていた。
きっと紅茶の香り付けに使われたのはこの桃の皮だろう。
「…これ一体全部でいくらですか…」
「アハハハッ!コレね、ついさっき前に受けた依頼主さんから貰ったんだ。だから値段はわからないな」
「えッ!人が来てたんすか?!」
「ん?嗚呼うん。でも渡すだけ渡してすぐ帰ったから、気付かなくても無理ないよ」
仗助くん集中してたから尚更、と言われても、仗助は何故か少しだけショックだった。
璃華子に紅茶が冷めるとソファーに促され、落ち込みながらもそそくさと座る。
璃華子は、仗助がしっかりと座ったのを確認すると、仗助のために紅茶を注ぎながら口を開いた。
「あ、そうそう。今の依頼が終わったら仗助くん学校が始まる頃でしょう?そうしたらわたし暫くイタリアに出かけるから、学業に専念してね」
そういえばもう夏休みも終わる頃だ。イタリア?イタリアってどこだ。ヨーロッパ?地中海だっけ?嗚呼そうだ、あの細長いブーツみたいな国。
外国?国外?
「…えっ!聞いてないっすよ!!!」
「今言ったからね」
「し、暫くってどのくらいですか」
「うーん、まだ未定だけど、早くても1ヶ月くらい?」
仗助は絶句した。
助手として雇われてから、毎日のように通っていたと言うのに。突然切り離されたようで、かなり頭が真っ白になっていた。
「…」
「ハハハッそんなマヌケ面しないでよ仗助くん。次の依頼主の採寸とブランド探りに行くだけだからさ」
そう、大原璃華子は依頼をこなす際、依頼主の暮らす場所まで足を運ぶようにしている。
なんでも、「実際に暮らしている場所の雰囲気や、本人のイメージをしっかり汲み取らないといけない。日本に来てもらうのはなんか違う。」らしい。
「…そんな…おれは一体何をして過ごしていれば良いって言うんですか……」
「だから学業に専念しなさいって」
「璃華子せんせーに会えないなんて…」
「あらわたし?嬉しい。でもねえ、口酸っぱいようだけど、学生の本業は勉強なんだから。ガクセーはガクセーらしく…よ仗助くん」
それだけ言うと璃華子は軽く笑いながら紅茶を口にした。
仗助は、はあ…とため息をついて璃華子に続いて紅茶を口にした。