まだ陽も昇りきらない早朝。
シンと静まり返った寮の食堂に、パチパチと油の跳ねる小気味よい音と、食欲をそそるニンニクの香りが満ちていた。
リオはエプロン姿でコンロの前に立ち、手際よく唐揚げを揚げている。
隣には分厚い卵焼きが並び、タッパーに詰められるのを待っていた。
それは朝食だけでなく、昼食用の弁当も兼ねている。
普段であれば学食か購買で済ませるが、昨日はトウカとアキラに余計な心配をかけてしまった。そのささやかな埋め合わせとしてリオが自分で調理していた。
そうして弁当に詰める品数を増やしていると、背後で食堂の扉が乱暴に開かれる。
「おうリオ。テメー、聞いたぞ!」
怒声がリオの背後から聞こえ振り返ると、腕を組んだダンが仁王立ちしていた。
その表情は不機嫌さを隠そうともしていない。
そんなダンの隣にはシズカが寄り添っている。
「あ、おはようございます。先輩、朝ごはん食べますか?」
「あ? 今はそんな話してるんじゃ……」
言いかけたダンの視線が、調理台に並べられた唐揚げや、ふっくらと焼き上がった卵焼きに吸い寄せられる。それをみて、ダンの眉間の皺がわずかに和らいだ。
「……これ、お前が一人で作ったのか?」
「ええ。この寮は学食サービスがないと聞きましたので。よろしければどうぞ」
リオが皿に唐揚げを数個盛りつけて差し出すと、ダンは「おう」と短く応じ、一つを口に放り込んだ。
「……うめえな、これ」
「ありがとうございます。特製のニンニクだれに漬け込みました。よければシズカ先輩も、どうぞ。こちらは醤油味です」
リオが同じように小皿を差し出すと、シズカはこくこくと小さく頷いた。
細い指で唐揚げを一つまみ、小さな口でゆっくりと頬張る。もぐもぐと咀嚼する間、わずかに頬が緩んだように見えたのは、気のせいだっただろうか。
「やるじゃねえか」
ダンが感心したように唸り、二つ目を食べ、更には三つ目の唐揚げに手を伸ばした、その時。
シズカが彼の服の裾をくいくい、と控えめに引っ張ってスケッチブックを見せた。
彼女が手にしたスケッチブックには、可愛らしい文字で『特訓の話、しなくて大丈夫?』と書かれていた。
「おっと、そうだった。危うく忘れるとこだったぜ」
ダンは気を取り直したように咳払いをする。
「リオ、おめー、昨日ダンジョンで気を失ったらしいな。噂になってるぞ」
「噂になるなんて、有名人みたいでなんだか照れますね……」
「俺も悪い意味で噂になって喜んでいる奴を見るのは初めてだ」
ダンは呆れた顔でそういった後、こめかみを抑えて難しい顔をする。
彼はこの独特な感性の後輩に、どう対応するべきか考えているようだ。
「まずは状況から聞こうか。なんでぶっ倒れた?」
「肉体を強化するつもりが、五感を鋭敏にしすぎてしまいまして。光がうるさく、風の匂いに黄色い味がするという、貴重な体験をしました」
「なんだそれは……。まあいい。お前、今日の午後から俺らと特訓な」
「特訓、ですか?」
予想外の申し出に、リオは思わず聞き返す。
ダンは「おう」と鷹揚に頷いた。
隣のシズカも同様に無言でコクコクと頷いている。
「異能に慣れてねえから、力を制御できねえんだ。だから慣れろ。
どうせ新入生は当分、第一層でしか活動が許可されねえ。その間に、俺がみっちりしごいてやる。ダンジョンのココに来い」
ダンはそう言い放つと、ポケットからくしゃくしゃの紙片――どうやら地図らしい――をリオに押し付けた。
「じゃあな。遅れんなよ」
言うだけ言って、ダンはシズカを伴い、嵐のように去っていく。
「……弁当の唐揚げ、少し減ってしまったな」
まあ、多めに作っておいたので二人分ならまだ足りるだろう。
リオは小さく肩をすくめると、二人の背中を見送り、弁当箱の蓋を静かに閉じた。
***
ダンが去ってからしばらくして、眠たげな顔のアキラと、どこかスッキリした表情のトウカが食堂に現れた。
リオは出来上がった朝食を振る舞いながら、先ほどのダンとのやり取りを二人に説明する。
「――というわけで、午後の実習はダン先輩と行くことになったから、よろしくな」
「えっ、そうなの……? じゃあ今日は、私たちと一緒じゃないんだ……」
その言葉に、トウカはあからさまにがっかりした表情で、ご飯を乗せた茶碗を持ったまま肩を落とす。
昨日は三人でダンジョンに潜ろうと意気込んでいただけに、その落胆も大きいのだろう。
「まあ、先生も言ってたろ? 午後の実習なんて、特別なことがなけりゃしばらく慣らし運転みたいなもんだ。今日くらい別行動でもいいんじゃねえか?」
隣でアキラが卵焼きを頬張りながら慰めるように言う。
その二人の様子を見て、リオはふと考える。自分が倒れたことで、二人に余計な負担や気遣いをさせているのではないか、と。
「もし良かったら、俺以外のやつとチームを組んでも――」
「ううんだいじょうぶ! ずっと待ってるから!」
リオの提案を、トウカは食い気味に遮った。
その瞳には、強い意志と有無を言わせぬ迫力がある。
(……そうか。特訓、頑張るしかないな)
そこまで言われてしまっては、仕方がない。
彼女たちを待たせるわけにもいかないだろう。
一刻も早く能力をモノにしなければ。
リオが内心で決意を固めていると、アキラが味噌汁をすすりながら、どこか呆れたように口を挟んだ。
「つーか、安心しろよ。あたしらまだ異能発現させてねーからな?」
「ん? そうなのか? 二人とも?」
「そうだよ。みんな魔素に慣れるので精一杯だったんだから。クラスで昨日、異能を出せたのはリオを除いて2、3名ってとこ」
トウカから予想外に少ないその人数が聞かされる。
その数字にリオが内心驚いていると、アキラがニヤリといたずらっぽく笑った。
「まっ、誰かさんが派手にぶっ倒れてそれどころじゃなかったせいかも知れねえけどな」
「……うるさい、悪かったな。次は気をつける」
「おいおい、冗談だって!」
思った以上に真面目なトーンで返され、アキラは慌てて謝る。
そんな二人を見て、トウカも呆れながらクスクスと笑っていた。
そんな二人の様子からも、自分だけ出遅れているわけではないことを知ったリオは少しだけ安堵していた。
成長値の高いトウカなら、すぐにでも発現できると思っていたのだが、どうやら事情が違ったらしい。
「とりあえず最低限、力を使えるように訓練するよ。二人も異能獲得がんばれよ」
「おう、分かった。あたしたちは頑張るけど、リオはあんま無茶すんなよ」
「リオに追いつけるように、私たちも頑張るからね!」
トウカが、真剣な眼差しでまっすぐに見つめてくる。
ほんの少し稽古をつけてもらうだけなのだが、随分と大げさな話になってしまった。
だが、期待されたからにはそれに答えねば。
リオは唐揚げを口に運びながら、静かに決意を固めていた。
***
そして午後。
リオはダンから渡された地図を頼りに、第一層の草原、その外れに位置する開けた一角へと足を運んでいた。地上へ戻るゲート付近の喧騒は嘘のように遠のき、人影もまばらだ。
視線の先に、大きな岩の上に腰掛ける二つの人影があった。ダンとシズカだ。
近づいていくと、ダンが岩から軽やかに飛び降り、手招きする。
「来たな、リオ」
「はい。よろしくお願いします」
「おう。早速だが、お前の異能を発動させてみろ」
「ここで、ですか?」
「ああ。まずは現状把握だ。どの程度で意識が飛ぶのか、こっちで確認させてもらう」
有無を言わせぬ口調にリオは覚悟を決め、深呼吸する。
意識を集中させ、昨日と同じように、身体の奥底から力を引き出すイメージを抱いた。
全身が淡い光を放ち始める。そして――。
「――ッ!!!」
その瞬間、世界が爆発した。
視界の解像度が一気に跳ね上がり、足元の草の一本一本、その葉脈、土くれの微細な凹凸、空気中を舞う埃までが、暴力的な情報量となって目に飛び込んでくる。
耳には、自分の心臓の鼓動と血流の音が、鼓膜を突き破らんばかりの轟音となって鳴り響く。
空気の流れ、ダンの筋肉がきしむ音、遠く離れた生徒たちの話し声、鳥のさえずり、風の音……ありとあらゆる情報が再び濁流のように脳へと流れ込み、混ざり合っていく。
強い光がうるさく、草木の匂いがかゆい。
まずい。意識の限界が、すぐそこまで来ている。
(ああ、ダメだ、また意識が――)
「おらよっ!」
ゴッッッ!!!
声と同時に、頬に雷が落ちたような衝撃。
ぐらついた視界の先で、世界がぐるりと反転した。気づけば、リオは地面に倒れ伏していた。
「よし、起きてるな。おら、立て。まだ始まったばかりだ」
目の前には、拳を構えたままのダンが仁王立ちしている。
どうやら、意識が飛びかける寸前で殴り飛ばされたらしい。
「おう、刺激が多すぎて頭がパンクして気絶するならよ、もっとデカい、一つの刺激に意識を無理やり向けりゃ、気絶しねえだろ?」
「え……? それはその、理屈としては分かるんですが、感度が跳ね上がってるところにそれやられたら最悪ショック死する可能性もあるんじゃ?」
「知るか。お前が意識飛ばさなきゃ、それで解決だろうが」
ダンは不敵に笑う。
意見を聞き入れるつもりは欠片もないらしい。
「……バ、バトルハラスメントですよ先輩!」
「あ? なに意味が分からない事を言ってやがる。じゃあ意識が飛ばなくなるまで、何度でもやるぞ。覚悟しとけよ、リオ」
地獄の釜の蓋が開くかのような不吉な宣言が、やけにクリアに、リオの耳へと響き渡った。
・
・
・
「おらっ! ちっ、もう意識取り戻したか」
「先輩? 殴るの楽しくなってませんか?」
「楽しいぜ? 殴れば殴るほど成長していくんだからよっ!」
能力を発動させ、殴られ、意識を現実に引き戻される。
その地獄のループを繰り返すこと数時間。
不思議なもので、人間は慣れる生き物らしい。
リオは暴走する感覚の洪水の中から必要な情報だけを取捨選択し、ショック死するレベルの痛みは意図的に遮断する、そういうコツのようなものが確かに掴めてきていた。
最初とは違い、意識もほとんど飛ばなくなっている。
……だから、もう殴るのはやめてほしい。
感覚がコントロールできるようになった今、普通に痛い。あちこち殴られ続けたせいで、口の中は鉄の味がして気持ちが悪いのだ。
「殴っても殴っても平気とはな! その上、もうコツを掴みかけてやがる! 流石は『連続異界攻略記録』保持者の息子だぜ!」
「やっぱり先輩も、俺の両親を知ってます?」
「はあ? 『桜蘭』の苗字を知らねえ探索者なんて、この学園にはいねえよ」
アキラも両親について知っていた。やはり探索者の間では有名なのだと、改めて実感する。
クラスメイトがあまり声をかけてこないのは、やはり成長値マイナスという表示が、親の七光りを打ち消しているのだろうか。
(いや有名人の息子だから、皆、遠慮して声をかけられないだけだ。きっとそうに違いない。そう信じよう、うん)
「さて、だいぶ日も傾いてきたな。そろそろ怪我の治療をして終いにすっか……。シズカ、頼む」
「……(コクリ)」
ダンの呼びかけに、岩陰で見守っていたシズカが頷き、アンティーク調の鞄から一体の人形を取り出して地面に置いた。
人形はゆっくりと立ち上がると、トコトコとリオの元へ歩み寄ってくる。シズカは『これは癒しの人形』と書かれたスケッチブックを掲げていた。
人形がリオの前に立ち、その小さな手をかざす。
温かな光が放たれ、リオの体を優しく包み込んだ。腫れ上がっていた頬の熱が引き、口内の傷がゆっくりと塞がっていくのを感じた。
「ありがとうございます、シズカ先輩」
「……(コクリ)」
「先輩は回復系の能力者なのですね」
「……(フルフル)」
問いかけると、シズカは静かに首を横に振った。代わりに答えたのはダンだった。
「こいつはシズカの操る人形の力だ。シズカの異能『人形遣い』はな、自分で作った人形に疑似的な異能を付与できるんだ」
その内容にリオは驚く。人形に異能を付与する。それはとてつもない能力ではないか。
そう思いながら人形を見ると、治療を終えた人形は力尽きたかのようにその場に崩れ落ちていた。
それをダンが壊れ物を扱うようにそっと拾い上げ、シズカに手渡す。
「力を使い切ると、こうなっちまう。人形を作るのも時間がかかるし、エネルギーの再注入も必要だ。……お前が思ってるほど、万能ってわけじゃねえ」
「そうなんですか」
「おう、今日はもう終わりだ。明日はあの二人も連れて、三人で来な」
二人、ということはアキラとトウカも一緒ということか。
「なんだ? 他にチームでも組んでるのか?」
「いえ、そういう訳じゃないです。ただ、先輩方のお手を煩わせてはと」
「んな事か。気にすんな。後輩の面倒を見るのは、先輩としての役目だからな」
この学園では上級生が新入生の面倒を見る文化が根付いており、その過程で学園特有の常識やマナーを学んでいくのだと、ダンはこともなげに言う。
なんとか特訓から逃れようとしていたリオだったが、残念ながら逃げることはできなかったようだ。
「……それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
「おうよ。じゃあ、また明日な」
ダンはそう言うと、シズカと共に、夕陽に染まる草原を去っていく。
強化されたリオの視力は、遠ざかる二人の姿を鮮明に捉えていた。
シズカがダンに何かを囁きかけると、ダンが少し照れたように、しかし優しく彼女の頭を撫でているのが見えた。
……もしかして、シズカ先輩は普通に喋れるのだろうか? 不思議な人だ。
リオの胸に、新たな疑問が浮かんだ。