結局、リオはシズカによる応急処置の後、保健室へと運び込まれていた。
白いベッドに横たえられ、先日も世話になった男性保健医が、やれやれといった顔で彼を覗き込んでいる。
「また君かい。連日で来る生徒はなかなか珍しいよ。しかし、ひどい有様だ。腕はほとんど取れかかってるし、肋骨も何本かイってそうだねえ」
軽い口調で告げられた診断結果に、そばに立っていたトウカが血相を変えた。
「先生……! リオは、リオは元に戻るんですか!?」
動揺し、まるでこの世の終わりのような形相で保健医に詰め寄るトウカ。
その様子を見た保健医は、さも面倒くさそうに耳を掻いた。
「死んでないなら大丈夫だよ。今は便利なもんだ。昔と違って異界の原料を使えば、魔法みたいに怪我が治せるからね」
その時、ガチャリと保健室のドアが開かれ、ダンとシズカが入室してきた。
ダンはベッドの上のリオを一瞥し、呆れたように鼻を鳴らす。
「情けねえ面してやがる。大体てめえ、なんでそんなにすぐ痛がってんだ。戦いで痛みなんざ感じてるんじゃねえ。鍛えろ」
「……え? 我慢しろ、ということですか?」
「違え。そもそも戦闘の前後で痛みなんか感じねーんだよ、鍛えてりゃな。痛みってのは、戦いが終わってしばらく経ってからやっと感じるもんだ」
何を言っているんだ、この人は。痛みは感じるものだろう。我慢はできても、感じないなんてことがあるわけがない。
そう思い、助けを求めるように隣のシズカに視線を送るが、彼女は無表情のまま、「こくり」と小さく頷くだけだった。
探索者の常識とは、ここまで常識が外れているのか。
リオがあまりの価値観の違いに呆然としている一方、ダンは気にせずに話を続ける。
「痛みを感じるのは、体が戦いに慣れてねえ証拠だ。てめえのその馬鹿げた攻撃力に、肉体が全く追いついてねえ」
「そうは言われましても……。異能を使ってまだ数日ですし」
「そう、そこだ。リオ、お前は破壊力だけなら学園でも上位クラスだが、コントロールはまさに初心者。かなり歪(いびつ)だ」
ダンがリオに話をしている傍らで、シズカは電子スケッチブックにアドレナリンの分泌などを踏まえた訓練による痛み抑制の理論を細かく一生懸命に書き出していたが、残念ながらリオの目には入らなかったようだ。
「リオ、お前は肉体の強度を上げることを目的に、しばらく異能を使え。そうすりゃ回復も早くなる。……まったく、ロクロク寮にふさわしい人材だぜ」
ダンは言いたいことだけ言った後、保健室から出て行った。シズカもリオたちに小さく手を振り、その後を追う。
嵐のように現れ、嵐のように去っていった先輩たち。
残されたのは、困惑するリオ、アキラ、トウカと、我関せずといった態度の保健医だけだった。その沈黙が、やけに気まずい。
「……さて、それじゃあ治療を続けてもいいかい?」
「あ、はい。すみません……」
我に返ったリオが答えると、保健医は戸棚から二つの箱を取り出し、それぞれからアンプルを取り出した。
片方は淀んだ緑色を、もう片方は油膜のような虹の色をしていた。
「治療法は二つ。一つは、異界の『再生ゴケ』を使う方法。一週間もあれば綺麗に治るよ」
「もう一つは?」
「こっち。『原初の魂』の模造品だ。飲めば一瞬で体が再生する。……ただ、こっちは副作用があってね。年頃の男の子には、あまりおすすめできないかな」
保健医は言葉を濁し、手元の箱に視線を落とした。その表情からは、詳しく語りたくないという意志が透けて見える。
だが、一週間もベッドの上で過ごすなど冗談ではない。
リオは迷わず、即時治療できるほうを選択した。
「構いません。そっちを貰います」
保健医が何かを言いかける前に、リオは机に置かれていた虹色のアンプルに手を伸ばし、中身を一気に呷った。
「あ、こら! ……まったく、まだ話の途中だというのに」
保健医の制止は間に合わない。
リオが液体を飲み干したのと同時に腕が再生していく。
その様子を確認すると、保健医は天を仰ぎ、重いため息をついた。
「まあ、もう済んでしまったしいいか。それで副作用なんだがね。その薬、使用者の生命活動を極限まで活性化させることで治癒を促すんだ。具体的に言うと……その、なんだ」
「なんです?」
「……性欲が一時的に、著しく増進する」
しん、と保健室が静まり返る。
アキラとトウカが顔を赤らめて固まる中、リオだけが「おお!」と声を上げた。
「素晴らしいじゃないですか! 体験してみたかったんですよ、性欲に悶えるという体験を! 俺はまだ性欲に目覚めていないので!」
リオにとって、未知の性的欲求を知ることは、ダンジョンに潜る目的の一つでもあったのだ。
(これでまた、俺の知らない体験ができるのか)
謎の期待に胸を膨らませるリオ。
その反応は保健医にとっても予想外だったらしく、困惑した様子でリオを観察している。
「欲求がない……それは変わっているね。体格は男らしいし、テストステロンは正常に分泌されていると思うが……魔素がプロラクチンを過剰分泌させているのかな? 興味深いね、もっと詳しく調べたいな」
どこかマッドな雰囲気を醸し出す保健医の横で、いつもと違う反応を示した人物がいた。トウカだ。
彼女は俯いたまま、ふるふると肩を震わせている。
そして、ゆっくりと顔を上げたその瞳は……ドロリと濁りながらも、怪しい光をたたえていた。
(チャンス……! これは神様がくれたチャンス……!)
トウカはそっと近づき、保健医の話に割り込む。
「リオ。副作用が出ても大丈夫なように、私がそばで見ててあげるから安心してね」
「え、いや、だから俺は最初から大丈夫なんだが……」
「だめだよ。万が一ってことがあるかもしれないから。万が一にも暴走したら大変だよ?」
「うわ……トウカの奴、目がマジだ……」
有無を言わさぬ迫力で、トウカはリオのベッドの隣に陣取った。
その相変わらずの異様な執着心に、アキラは若干引いている。
「とはいってもなあ……特に何も……。うん?」
アンプルを飲んで数分。リオの身体に変化が訪れたようだった。
体が汗ばみ、内側から体温が上がっていくのを感じる。
「リオ、汗かいてるね。拭いてあげよっか」
そう言って、トウカがハンカチでリオの額を拭う。
汗を拭う彼女の頬は紅潮しており、やけに顔が近い。
ふわりと、シャンプーの甘い香りがリオの鼻をかすめた。
その瞬間。
ドクン、と心臓が大きく高鳴る。
それは今まで感じたことのない、奇妙な感覚だった。
目の前で心配そうに自分を覗き込むトウカの顔が、なぜだか直視できない。
(な、なんだ……? この感覚は……?)
ドクドクと脈打つ心臓。顔にじわりと集まる熱。
プログラムされていないはずの反応に、リオの思考回路がショートする。
それが彼にとって、生まれて初めて抱く特別な感情だとは、まだ知る由もなかった。
「……リオ、大丈夫? 顔、赤いけど……」
「だ、大丈夫だ! なんでもにゃいぞ!」
思わず裏返った声で顔を背けるリオ。その顔は耳まで真っ赤に染まっている。
その初々しい反応を見て、アキラは全てを察した。
「……へっへっへ。こりゃ傑作だぜ」
トウカとリオの様子を、アキラがニヤニヤと眺めている。
どうやら彼女は、このまま高みの見物を決め込むらしい。
そんなアキラは保健医と目が合い、互いに頷きあう。
「さーて、あたしたちは若い者の邪魔をせずにお暇しますかね」
「出ていくのは君たちの方だよ。ここは僕の部屋だからね。もう僕にできることはないから、さっさと退室してね」
そう言われ、三人は保健医によって保健室から追い出されてしまった。
残念ながら、アキラと保健医の意思疎通はできていなかったようだ。
結局、三人は寮に戻ることになった。
寮へ向かう道中も、トウカがリオに近づこうとすると、リオは顔を赤らめて距離をとる。
かといって完全に離れるわけでもなく、一定の距離を保っている姿は、どこかぎこちない。
(しかし性欲ってよりは、まるで小学生の恋心って感じだな)
そんなリオの様子を、アキラはニヤニヤしながら観察する。
保健医が去り際にこっそり教えてくれたところによると、性欲と恋愛感情はそれぞれ別のホルモンが関わっているらしい。薬の副作用で、それら複数のホルモンが一気に活性化しているのではないか、というのが彼の見立てだった。
「しっかし、性欲に目覚めていないってのもマジっぽいな」
年頃の男子なら、もう少し感情に生々しい欲求が乗るものだろう。だが、リオからはその気配が感じられない。
一方で恋愛感情のようなものは制限されていないのか、そのまま表情に駄々洩れになっていた。
そんな二人を見守りつつ寮に到着すると、アキラは二人の邪魔をしないよう、そそくさと自分の部屋へと戻っていった。
とはいえ、壁が薄い以上、隣の様子は丸聞こえなのだが……。
「リオ、ベッドでちゃんと寝てなきゃダメだよ」
「だ、大丈夫だ! 自分でできるから!」
「顔、真っ赤だよ? 熱でもある? おでこ、貸して」
「ち、近づくな! いや、ごめん、大丈夫だから!」
ガタン、と何かが倒れる音が響く。
おそらく、ベッドから逃げようとしたリオと、それを追いかけるトウカだろう。
聞こえてくる会話は、まるで追いかけっこをしている子供のようだ。
(あいつら、何やってんだか……)
アキラは呆れつつも、その微笑ましいやり取りに思わず口元が緩む。
やがて、トウカの優しい声が聞こえてきた。
「はい、お水。ちゃんと飲んでね」
「……ああ。すまない、ありがとう」
少しだけ、リオは落ち着いたようだ。
どうやらトウカの粘り勝ちといったところか。
アキラは静かに耳を澄ませ、二人の様子をもう少しだけ見守ることにした。
「大丈夫? 辛くない? 添い寝しようか? 汗もかいてるし、風呂に入るのが辛いなら私が拭いて――」
「いいから! 自分でやるから! もう出ていけ!」
次の瞬間、激しい物音と共に、何かが廊下に押し出される鈍い音が響いた。
廊下からは「いたた……」と、トウカの小さな声が聞こえてくる。
どうやら調子に乗りすぎて、部屋から追い出されてしまったらしい。
それから半日が経過した。
最終的にトウカを無理やり追い出したリオは、そのままベッドで悶えているうちに眠ってしまったようだ。
夜も更けた頃、目を覚ましたリオがベッドから起き上がり、遠い目をして呟いた。
「あれが『性欲』か。なんて恐ろしい欲望なんだ……」
疲れ切った顔でそう言うリオに、隣室のアキラが壁越しに呆れたツッコミを入れる。
「いや、それ、どっちかっていうと小学生の恋心に近いと思うぞ。ていうか、本当にヤバかったのはリオじゃなくて、トウカの方だよな……」
「ん? 呼んだ?」
会話をしていると、急にリオの部屋のドアが開き、トウカがぴょこん、と顔を覗かせた。その手にはお粥と、リオの体を拭くための濡れタオルが乗ったお盆がある。
「げっ! い、いや! なんでもねえよ! なあ、リオ!」
「あ、ああ……」
リオの部屋から聞こえてきたトウカの声に焦ったアキラ。
彼女の必死の問いかけに合わせる形でリオは頷く。
そしてリオはコホン、と軽く咳払いをしてトウカに向き直った。
「心配をかけたな、トウカ。俺はもう大丈夫だ。風呂は後で入るから、とりあえずそこに置いといてくれ」
「……あれ? もう戻っちゃった?」
「あ、ああ。完全に戻ったぞ。うん、完全に俺だな」
「……残念」
あからさまに、トウカはわざとらしさを感じさせるほどのガッカリした表情で肩を落とす。
そして悪戯っぽく笑った。
「せっかく、もっとリオの可愛いところが見れると思ったのに」
「ん!? んんっ!」
ぽつりと呟かれた言葉に、リオは思わず顔を赤らめ、咳払いをしてごまかし続けるしかなかった。