夜、ベッドに身を投げ出したリオは、蛍光灯のすす汚れをぼんやりと眺めていた。
今日の出来事が、頭の中でぐるぐると回っている。
特にあの保健室での一件だ。
あの虹色のアンプル、そして、トウカを前にした時の、あの奇妙な感覚。
心臓が勝手に高鳴り、顔に熱が集まる。まともに彼女の顔を見れなかった、あの動揺。
(……あれが、保健医の言っていた『性欲』、あるいはアキラが茶化していた『恋心』というやつなんだろうか)
元ダンジョンコアだった影響か、その感情は彼が知らない未知のものだ。
だとしたら、これは。
「調べとくかな……」
リオは未知の感情を少しでも理解するため、枕元のスマートフォンを手に取り、ネットで検索を始めた。
『恋愛 症状』
『異性 動悸 原因』
『性欲とは』
当然ながら検索結果は、どれも抽象的で要領を得ないものばかりだった。
すでに知っている感情について書かれている内容ばかりなので当然だ。
リオのように全く無知な者に向けた解説ではない。
「ホルモンの働き、心理的な吊り橋効果、種の保存本能……。なんかどれもしっくり来ないな」
今の感情がどのようなモノか分からない。
心がフワフワと浮かれるような感覚。
彼自身はもっとこう、ダンジョン深層に挑むような命がけの刺激に近いものだと想像していただけに、戸惑いが隠せないでいた。
「要調査かな……」
リオは小さく首を傾げ、とりあえずここまでで調べることを終え、床についた。
彼は知らない。
初めて体験した、その感情だけではない。
そのスマホで開いたページの検索履歴が、同じ階層にいる幼馴染の端末に表示されていることなど。
暗い部屋の中、スマートフォンの画面だけがトウカの顔を青白く照らす。画面に並ぶリオの無防備な検索ワードを指でなぞりながら、彼女は歓喜に打ち震え、口元を抑えていた。
(――やっと、やっとリオがこっちに気づいてくれた!)
そう、彼女が『くのいち』の職業を選んだのは、諜報員としてリオの全てを把握し、女性として彼を自分色に染め上げるためなのだから。
「知りたいならたくさん、たーくさん教えてあげるね、リオ」
彼女の口元はその愛情と同様に歪んでいた。
休日の朝。
昨日、悶々としているうちにそのまま寝てしまったリオは風呂に入るため、寮に備え付けられた浴場へと移動した。
「あ、おはよー、リオ」
間の抜けた挨拶と共に、目の前に現れた人物。それはトウカだった。
風呂上がりなのだろう、タオルで濡れた髪を拭っている。
(……まずい。このタイミングで偶然出くわすなんて)
昨夜、あれほど悶え苦しんだ原因が、無防備な姿で立っている。
少し大きめの部屋着からは、まだ風呂で火照った白い肌が覗き、ふわりと漂う甘いシャンプーの香りが、昨日覚醒しかけたばかりの「何か」を的確に刺激してきた。
ドクン、と心臓が跳ねる。
昨日、保健室で薬を飲んで以来、なるべく平静を装うように心がけているが、どうもトウカをまともに見ることができない。
顔にじわりと熱が集まっていくのが、自分でもわかった。
「……お、おう。おはよう」
リオは咄嗟に顔を背け、壁のシミでも見つめるかのように視線を逸らす。
昨夜、あれだけ必死に看病しようとする彼女を部屋から追い出してしまった気まずさもあったが、それ以上に目の前の存在を「異性」として意識してしまい、まともに会話ができそうになかった。
「ん? リオ、どうしたの? そっぽ向いて」
トウカが不思議そうに小首を傾げ、その顔を覗き込んでくる。
近い。シャンプーの香りが、さらに濃くなった。
「な、なんでもない! ちょっと朝の準備運動だ!」
「ふーん? 廊下で?」
「別にいいだろ!」
トウカはくすくすと楽しそうに笑いながら、より一層顔を近づけてくる。
一方でリオは、顔をそらそうとしながらも、目線だけはどうしてもトウカに引き寄せられて彼女をチラチラ見てしまい、不審者のようになっていた。
このままではまずい、昨日の動揺がぶり返してしまう。
そう本能的に察知したリオは、話を無理やり中断すると慌てて彼女の横をすり抜けようとする。
「と、トイレに……じゃなかった、風呂に入ってくる!」
「はーい、いってらっしゃーい」
逃げるように脱衣所へと向かうリオの背中を、トウカは満足げな笑みで見送る。
「急がば回れ、だよね。少しずつこの感情を育てていかなかくちゃ」
トウカは満足そうな顔のまま一人、そう呟いた。
朝風呂を済ませたリオは寮の食堂で朝食を取る。
今日はトウカがご飯と味噌汁を作っていた。
トウカとリオ、そして休日ということで遅く目を覚ましたアキラの三人でテーブルを囲んで朝食をとる。
「……で、お前ら、なんか朝から変な感じだな?」
アキラは白米をかきこみながら、ニヤニヤと楽しそうに切り出した。
彼女が気になっているのは二人の様子だ。
リオとトウカの様子が昨日までと明らかに違う。
「変、ってのはどういうことだ?」
「いやー? なんかリオが、トウカのことチラチラ見てて挙動不審だなって思ってよ」「なっ!?」
図星を突かれ、リオは思わず白米を喉に詰まらせそうになる。
実際、朝の出来事があってから向かいに座るトウカをまともに見れず、食事の味も半分くらいしか分かっていなかった。
「もう、アキラったら。リオはいつも通りだよ」
「そーか? ならいいんだけどよ」
「もう、アキラったらしょうがないなあ」
トウカがニッコリと明るく笑い、一方でアキラがニヤニヤしながら「ふーん」と意味深に頷く。
アキラは、昨日の保健室での一件と、夜中に壁越しに聞こえてきたリオの奇妙な格闘を知っていた。
付き合いは浅いが、この鈍感な友人が幼馴染を「女の子」として意識し始めたことなど、すべてお見通しだ。
(こりゃ、一押ししてやるしかねえよな)
そう考えたアキラは、わざとらしく「あ!」と声を上げる。
「やっべ! 今日、兄貴に頼まれた用事があったんだ! トウカ、悪い! 今日のお前の買い物、付き合えなくなったわ!」
「え? あ、うん。別に急ぎじゃないから大丈夫だよ?」
「いや、そうはいっても何処かで埋め合わせしねえとなあ……。そうだ!」
アキラは突如、名案を思い付いたといわんばかりにリオの肩を大げさに叩いた。
「なあリオ! お前、今日どうせ暇だろ? あたしの代わりに、トウカの買い物付き合ってやってくれねえか?」
「え?」
「男だろ? 幼馴染のか弱い女の子ひとりを放って……、ん? か弱い……?
ま、まあいいや。女の子ひとりだけってのもつまらねえからよ、誰かいてくれれば安心だろ?」
「そうなのか? 俺も街並みをよく知らないから迷子になるかもしれないぞ」
「大丈夫だって! な?」
有無を言わさぬ笑顔でリオを見つめるアキラ。
アキラのその目が「これはお節介だ、察しろ」と雄弁に語っている。
そんな彼女の様子を見て、受けなければいけないと察したようだ。
「……まあ、特に予定はないから構わないけど」
「ほんと!? やった! じゃあリオ、お願いね!」
リオが頷くや否や、トウカが嬉しそうに笑う。
アキラがこっそりと親指を立てると、トウカは小さく頷いた。
こうしてアキラの策略により、リオとトウカが二人きりになる状況が、見事に作り出されたのだった。
***
「じゃあ、えっと……行こうか」
寮の玄関で、リオはぎこちなく声をかけた。
トウカは手早く着替えを済ませ、外出のために可愛らしくおしゃれをしている。
白を基調としたワンピース姿は、普段の制服とはまた違った魅力を放っていた。
一方でリオは、ラフな普段着そのものだ。
そもそもリオは内心それどころではなかった。
(前回の薬の副作用以降、少し変だ。普段通りに振る舞えているだろうか)
そんな思考が頭の大半を占めている。
隣を歩く幼馴染に対し、どうしようもなくぎこちない。
(なるべく不自然にならないようにしなければ)
一方、そんなリオの葛藤を知ってか知らずか、トウカは、まるでピクニックにでも行くかのように、満面の笑みで頷いた。
「うん行こっ! この街のお店って、普通の街にはない変わったものもあるみたい。楽しみだね」
「あ、ああ。そうだな……」
その屈託のない笑顔が、またしてもリオの心を揺さぶり、動揺させる。
(落ち着け、これはアキラに頼まれたお使いだ。平常心を取り戻せ、俺)
リオは必死に自分へと言い聞かせる。
そうだ、ただのお使いで、隣にいるのはただの幼馴染だ。昨日までの、昨日……。
強く意識すればするほど、昨日の出来事が脳裏をよぎる。
保健室で不意に感じた甘いシャンプーの香り。訳も分からず高鳴った心臓。そして今朝、風呂上がりの彼女と鉢合わせた時の、あのどうしようもない気まずさ。
(……ダメだ。意識してしまう。こんなにも副作用が長く続くなんてな)
リオは未だに、ときおり発生する胸の高鳴りの正体が、薬の副作用が続いているものだと思い込んでいる。
だが、薬の効果はとっくに抜けきっていた。
リオは自身に起こっているその変化が、思春期に訪れる厄介で複雑な感情であると自覚するに至っていない。
そんなリオの内心を知ってか知らずか、トウカは嬉しそうに一歩先を歩き、軽やかに振り返った。
「ほらリオ、早く行こ!」
「あ、ああ……」
その笑顔からなんとか目を逸らし、リオは曖昧に頷きながら、その後を追った。
***
「よし、行ったな……」
リオとトウカの二人がロクロク寮を出ていくのを、物陰からこっそりと見送る人物がいた。
アキラは、二人の姿が見えなくなると、素早く出かける準備を始める。
「えっと、サングラスにマスクに帽子に……後は何が必要だ?」
クローゼットを漁り、変装グッズを着用して寮から出ようとしたその時、小柄な少女と鉢合わせた。
「あれー? アキラちゃん、なんか面白そうなことやってるね。どしたの?」
「うおっ!?」
寮に入ってきたのは、機織ねおんだ。
「あ、ねおん先輩。いや大したことじゃないっす。リオ達がデートするんでこっそり様子を見ようかと」
「え!? なにそれ面白そう! ついていっていい?」
「え、いいっすけど……いつも忙しそうなのに大丈夫っすか?」
「もちろんだよ! 知り合いからリオ君がエッチな気分って話を聞いてたからね! 今、どんな反応をするか気になってたんだ!」
(あ、この人、純粋に面白がってるだけだ。つか情報早いなこの人)
アキラは若干引いたが、先輩の誘いを断るわけにもいかず、結局、好奇心旺盛な先輩と共に、二人の後を追うことになったのだった。
***
学園の近くにある『銀座通りゃんせ』と書かれたアーチをくぐり、二人は商店街へと足を踏み入れる。
リオたちが住んでいた地域と比べても、その商店街は意外なほどに活気を見せており、休日ということもあって多くの学生や買い物客で賑わっていた。
「わあ、結構いろんなお店があるんだね」
「……ああ、そうだな」
「アキラから聞いたんだけど、ここの商店街、ぐるっと回って駅前までつながってるんだって」
アキラに頼まれていた品物を探す傍ら、リオはトウカと共に商店街を散策していた。
彼女は雑貨屋のカラフルな陳列を覗き込んだり、カフェの新しいメニュー看板を見上げたりと、純粋に街歩きを楽しんでいる様子だ。
「みてみて! ダンジョン用服飾の専門店なんてあるよ! お客さんは……同じ学園の人かな?」
「……ああ、そうかもな」
リオは顔に集まる熱をごまかすように、そんな彼女からいつもより半歩ほど、多めに距離を取りながら、必死に平静を装って歩いていた。
彼女が立ち止まれば、一歩遅れて足を止め、そのぎこちない距離感を保つ。
そんなリオの状況に気づいているのかいないのか、トウカは終始楽しそうに隣で笑っていた。
しかし、不意にその危うい均衡は崩れる。
「ねえ、あの服かわいい! ちょっと入って――わっ!」
後ろから歩いてきた人がトウカの肩にぶつかり、彼女はバランスを崩してリオの背中にもたれかかった。
本来なら、それだけのことでは何も動揺しない。
だが、今のリオにとっては違った。
背中に伝わった、拒絶するには柔らかすぎる感触。
そして再び、鼻先をかすめた甘いシャンプーの香り。
ドクンッ!!
リオの心臓が、飛び出すかと思うほどに大きく跳ねる。
「ごめんねリオ、痛くなかった?」
「い、いや、大丈夫だ……! ふ、服だっけか? いいぞ! 見てみよう!」
リオは慌ててトウカから距離を取る。背中に火がついたかのように熱い。
顔が耳まで赤く染まっているのが、自分でもわかった。
「……ふふっ」
背後でトウカが小さく笑った気配がしたが、今のリオにそれを確かめる余裕は、もはや残っていなかった。