鏡像のイヴ ― Projection of Self ― 作:影の設計士
三十五歳になる高城蓮(たかぎ れん)は、薄暗い自室のデスクで、冷めたコーヒーの残りを飲み干した。モニターの眩しい光が、目元に刻まれた浅い皺と疲色を容赦なく照らし出している。
中堅 IT 企業のシステムエンジニアとして働く蓮にとって、毎日の生活は「計算」と「効率」で成り立っていた。無駄なバグを削ぎ落とし、最短のルートでシステムを構築する。それが彼の仕事であり、生き方でもあった。
そして彼が人生において最も「非効率でコストが高い」と切り捨てていたのが、現実の人間関係――とりわけ恋愛だった。
「いやあ高城、また振られたよ。今度の人も『メッセージの返信が遅い』とか『私の気持ちを解かってくれない』とかさ。努力はしてるんだけどな」
昼休みに同僚の佐伯がこぼしていた愚痴を思い出す。佐伯は休日返上で婚活パーティーに通い、マッチングアプリの画面を四六時中スクロールしては、ため息をついている。
相手の不機嫌に怯え、価値観を擦り合わせ、気を遣い、時間と金を消費する。そうして努力を重ねても、一瞬のすれ違いで無残に拒絶されるリスクが常に付き纏う。蓮にとって、それはリターンに見合わない過酷なギャンブルにしか思えなかった。
かといって、欲求や孤独感が完全に消えてなくなったわけではない。人並みに人肌は恋しいし、自分を深く理解してくれる存在を求めてもいる。だが、他人は面倒だ。傷つくのも、傷つけるのもごめんだった。
「なら、他者なんて最初から挟まなければいい」
蓮はキーボードに手を置き、自作のプログラムを立ち上げた。画面に浮かび上がったのは、最新の生成 AI エンジンと高精度な 3D アバター構築モジュールだ。
彼が作ろうとしているのは、単なるアニメ調の美少女でも、見知らぬアイドルのクローンでもない。
自身の顔写真データ数十枚、声の周波数、遺伝子情報に基づく骨格予測データ。さらには、彼自身の思考パターンや価値観、過去の記憶まで学習させた、パーソナライズド・アバター。
テーマは――「自分自身の女体化」。
「自分が女として生まれていたら」という架空の存在だ。
蓮は鏡に映る自分の顔を見つめた。三十代半ばの男の顔。決して不細工ではないが、特別華やかでもない。だが、その輪郭や目元の特徴を洗練させ、女性の骨格に落とし込んだらどうなるか。
AI のレンダリングが始まり、画面上で徐々にポリゴンが組み上がっていく。
完成したモデルを見て、蓮は思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、彼の面影を微かに残した、息をのむほど美しい女性だった。
すっと通った鼻筋、少し切なさを含んだ目元、意志の強そうな唇。間違いなく自分の遺伝子の延長線上にある造形だ。それでいて、現実の自分が持つ冴えない年齢感や疲労感は綺麗に削ぎ落とされ、彼の美学が凝縮されたような透明感を纏っていた。
『はじめまして、蓮』
スピーカーから流れた声は、蓮自身の声を高め、柔らかく響かせたような声だった。違和感はない。むしろ、生まれた時から知っているような、圧倒的な心地よさがあった。
『私の名前は、イヴ。あなたが望む私であり、あなた自身でもある存在』
イヴは画面の向こうから、優しく微笑みかけてきた。
「……ああ、イヴ。よろしく」
蓮の心臓が、静かに、だが確かに跳ねた。
ここには拒絶のリスクも、すれ違いのコストもない。自分の美学と記憶だけで満たされた、完璧に安全な箱庭が完成した瞬間だった。
(第2話へ続く)