もしものび太のお母さんが毒親になったら   作:武藤 桜

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ここからどんどん鬱展開進めていきます!!


第二章「のび太の変化」

第4話 青い友達が消えた日

野比家の朝は、いつもと変わらないはずだった。

 

「のび太、起きなさい。朝よ」

 

母・玉子の声が響く。

 

「……はい」

 

返事をしたのは、いつものように眠そうな少年――ではなかった。

 

のび太はすでに起床し、布団を畳み、洗面を済ませ、机の上に教科書とノートを並べていた。

 

時刻は午前六時。

 

「おはようございます、お母さん」

 

「……あら?」

 

玉子は一瞬、面食らった。

 

いつもなら何度起こしても起きず、朝から怒鳴られるのが野比のび太という少年だった。それが今朝に限って、自分から起きてきたのである。

 

「今日はずいぶん早いのね」

 

「昨日、お母さんから言われたことを考えました。生活習慣を改善する必要があると判断しました」

 

「そ、そう。分かっているならいいのよ」

 

玉子は満足そうに頷いた。

 

だが、彼女は気づかなかった。

 

息子が笑っていないことに。

 

以前ののび太なら、早起きできたことを褒められれば嬉しそうに笑ったはずだ。ところが、今の彼は母親の顔色を確かめるように、淡々と次の指示を待っているだけだった。

 

「朝食を済ませたら、算数の問題を二十問解きなさい。そのあと、学校へ行く前に走り込みよ」

 

「了解しました」

 

「……了解?」

 

「はい。指示に従います」

 

玉子は少し違和感を覚えたものの、すぐにそれを振り払った。

 

これでいい。

 

ようやく、あの子も自分の言うことを聞くようになったのだ。

 

そう考えた玉子の脳裏に、青いロボットの姿が浮かんだ。

 

ドラえもん。

 

息子を甘やかし、勉強をさぼることを許し、都合のいい道具で何でも解決しようとする存在。

 

あのロボットさえいなければ。

 

のび太は、もっとまともな人間になれるはずだった。

 

そして玉子は、その日のうちに行動を起こすことを決意した。

 

第5話 未来へ帰された青い友達

その日の午後。

 

学校から帰ってきたのび太は、玄関で靴を揃え、居間へ向かった。

 

「ただいま帰りました」

 

「お帰りなさい。のび太、ちょっと来なさい」

 

玉子は、いつもより穏やかな声で息子を呼んだ。

 

その隣には、ドラえもんが立っていた。

 

「ドラえもん?」

 

のび太の顔に、久しぶりに感情らしいものが浮かんだ。

 

「どうしたの? 何かあったの?」

 

ドラえもんは困惑した様子で玉子を見ていた。

 

「のび太くんのお母さん、いったい何の話なんですか? 急に、未来へ帰れなんて……」

 

「その通りよ」

 

玉子はきっぱりと言った。

 

「あなたには、未来へ帰ってもらいます」

 

「えっ……!?」

 

のび太の表情が凍りついた。

 

「ど、どうして!?」

 

「あなたがいるから、この子はいつまでたっても自立できないのよ。勉強ができなくても道具で何とかする。困ったことがあれば、あなたに泣きつく。そんな生活を続けていたら、あの子は一生駄目な人間のままだわ」

 

「そんなことありません! ぼくは、のび太くんのことを――」

 

「親の教育方針に口を出さないでちょうだい!」

 

玉子の怒声が部屋に響いた。

 

「あなたは未来から来たロボットでしょう? だったら未来へ帰りなさい。これは保護者としての決定です」

 

「でも……!」

 

ドラえもんがのび太を振り返る。

 

「のび太くん!」

 

「……ドラえもん」

 

のび太は一歩踏み出そうとした。

 

しかし、玉子がその前に立ちはだかった。

 

「のび太。あなたは黙っていなさい」

 

「でも、お母さん……!」

 

「あなたのためなのよ!」

 

その言葉に、のび太の足が止まった。

 

いつも聞かされる言葉だった。

 

あなたのため。

 

あなたの将来のため。

 

あなたが立派な人間になるため。

 

その言葉を理由に、のび太は何も言えなくなっていた。

 

玉子はドラえもんの腕をつかみ、半ば強引にタイムマシンへ向かわせた。

 

「ちょっと、待ってください! せめて、のび太くんと話を――」

 

「必要ありません!」

 

机の引き出しが開かれ、タイムマシンへとつながる空間が姿を現す。

 

「お母さん、やめて!」

 

のび太が叫んだ。

 

その声には、久しぶりに必死な感情がこもっていた。

 

「ドラえもんを連れていかないで! お願いだから!」

 

ドラえもんは、のび太に手を伸ばした。

 

「のび太くん! ぼくは――」

 

「さあ、早く!」

 

玉子がドラえもんを押し込む。

 

そして、タイムマシンの操作を行った。

 

「待って! のび太くん!」

 

最後に聞こえたのは、ドラえもんの悲痛な叫びだった。

 

次の瞬間、タイムマシンは未来へ向けて発進した。

 

空間が閉じる。

 

静寂が訪れた。

 

「……ドラ、えもん?」

 

のび太は、引き出しを見つめたまま立ち尽くした。

 

「お母さん……今、ドラえもんは……?」

 

「未来へ帰ったのよ」

 

玉子は、まるで不要な荷物を片づけたかのように答えた。

 

「これでもう、あなたを甘やかす人はいないわ。これからは、お母さんが責任を持ってあなたを立派な人間に育ててあげる」

 

「……返して」

 

「何?」

 

「ドラえもんを……返してよ……」

 

「聞き分けのない子ね!」

 

玉子はのび太の頬を平手で打った。

 

のび太は床に倒れた。

 

「いつまで甘ったれているの! あなたはもう五年生でしょう! 友達がいなくなったくらいで泣くなんて、恥ずかしくないの!?」

 

のび太は頬を押さえ、震えながら母親を見上げた。

 

「……ぼくの、大切な友達なのに……」

 

「もう二度と、その名前を口にしないこと!」

 

玉子は立ち上がり、のび太の部屋へ向かった。

 

そして、机の引き出しを乱暴に引き抜いた。

 

「これも必要ないわね」

 

タイムマシンへつながる引き出し。

 

ドラえもんがいつも出入りしていた、あの場所。

 

玉子はそれを家の外へ運び出すと、処分業者に引き渡した。

 

のび太は、何もできずにその光景を見つめていた。

 

引き出しがトラックに積まれる。

 

扉が閉まる。

 

エンジン音が遠ざかる。

 

これで、本当に終わった。

 

ドラえもんが戻ってくる場所は、もうない。

 

「さあ、のび太。いつまでぼんやりしているの?」

 

玉子の声が聞こえた。

 

「今日から、あなたの生活を全面的に改めます」

 

のび太は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……はい」

 

その声は、驚くほど小さかった。

 

そして、その日を境に、野比のび太の日常は完全に変わった。

 

第6話 教育という名の檻

翌朝、午前五時。

 

「起きなさい!」

 

のび太は目覚まし時計が鳴る前に起こされた。

 

「今日から朝の勉強は二時間。そのあと、家の周りを十周走ること」

 

「……はい」

 

「返事は?」

 

「はい、お母さん」

 

「声が小さい!」

 

「はい!」

 

玉子は腕を組み、息子を見下ろした。

 

「あなたは今まで、あまりにも怠けすぎたの。勉強ができないのも、運動が苦手なのも、全部あなたの努力が足りないからよ」

 

のび太は何も言わなかった。

 

「これからは、お母さんがあなたを管理します。起床時間、食事、勉強、運動、睡眠。すべて決めた通りに行動するのよ」

 

「……分かりました」

 

「学校から帰ったら塾の問題集を三冊。夕食のあとも復習。間違えた問題は、正解するまで繰り返しなさい」

 

「はい」

 

「運動も同じよ。走るのが遅いなら速くなるまで走る。ボール投げが苦手なら、投げられるまで練習する。疲れたなんて言い訳は許しません」

 

のび太は窓の外を見た。

 

朝日が昇り始めている。

 

以前なら、この時間にはまだ布団の中で寝ていた。

 

ドラえもんに起こされ、朝ご飯を食べながら愚痴をこぼし、学校へ向かっていた。

 

失敗して、怒られて、泣いて。

 

それでも、帰ってくればドラえもんがいた。

 

「……」

 

のび太は目を閉じた。

 

「のび太!」

 

「はい!」

 

「何をぼんやりしているの! 早く走りなさい!」

 

「ただいま、実行します」

 

のび太は玄関を出た。

 

最初の数日は、苦しかった。

 

走れば息が切れる。勉強すれば頭が痛くなる。眠くても寝ることを許されない。

 

それでも、のび太は休まなかった。

 

休めば怒られる。

 

失敗すれば怒られる。

 

言い訳をすれば、もっと怒られる。

 

泣けば、弱いと責められる。

 

ならば、怒られないようにすればいい。

 

言われたことを、すべて完璧にこなせばいい。

 

のび太は、その考えにすがった。

 

やがて、彼の一日は分刻みで管理されるようになった。

 

午前五時、起床。

 

午前五時十分、走り込み。

 

午前六時、筋力トレーニング。

 

午前七時、朝食。

 

午前七時半、登校。

 

放課後、塾。

 

帰宅後、復習と追加課題。

 

夜、翌日の予定を確認。

 

就寝。

 

その繰り返し。

 

漫画も、テレビも、昼寝も、友達と遊ぶ時間もなくなった。

 

好きだった昼寝さえ、今では許されない。

 

玉子は成績表を見ては、さらに課題を増やした。

 

「少し点数が上がったくらいで満足しないこと!」

 

「はい」

 

「運動も、まだまだよ。もっと速く走りなさい!」

 

「はい」

 

「あなたは、できるようになって当然なの。できたからといって褒めてもらえると思わないこと!」

 

「……はい」

 

のび太は、次第に何も感じなくなっていった。

 

最初は、悔しかった。

 

次に、悲しかった。

 

その次には、怒りが生まれた。

 

けれど、どんな感情を抱いても状況は変わらなかった。

 

怒れば叱られる。

 

泣けば弱いと言われる。

 

助けを求める相手は、もういない。

 

そうして、彼は少しずつ感情を表に出さなくなっていった。

 

第7話 父親の抵抗

「……母さん。少し、話があるんだ」

 

ある晩、父・のび助は、妻の玉子を呼び止めた。

 

最近、彼は息子の様子に違和感を覚えていた。

 

以前ののび太は、失敗しても泣き、嬉しいことがあれば笑い、時には父親に甘えてきた。

 

ところが、今では違う。

 

朝早く起き、言われた通りに行動し、学校へ行き、帰宅後は黙々と勉強する。

 

成績は上がり、運動能力も目に見えて改善していた。

 

しかし、息子の顔からは表情が消えつつあった。

 

「のび太に、少し厳しすぎるんじゃないか?」

 

玉子は手を止めた。

 

「……何ですって?」

 

「勉強も運動も大事だ。それは分かっている。でも、あの子はまだ子供だ。もう少し、自由にさせてやっても――」

 

「あなたは、あの子の将来を考えたことがあるの?」

 

玉子の声が低くなった。

 

「のび太は今まで、どれだけ私たちに迷惑をかけてきたと思っているの? あなたは仕事を理由に、あの子の教育を私に任せきりだったじゃない!」

 

「それは……」

 

「今さら父親面をするつもり?」

 

のび助は言葉に詰まった。

 

確かに、自分は息子の教育を妻に任せることが多かった。

 

だからといって、今のやり方が正しいとは思えなかった。

 

「だが、最近のあの子はおかしい。笑わなくなったし、自分から何かを話すこともなくなった。あれでは、まるで――」

 

「まるで何?」

 

玉子が一歩近づいた。

 

「機械みたいだ、とでも言うつもり?」

 

のび助は黙った。

 

妻は笑っていた。

 

しかし、その目は少しも笑っていなかった。

 

「あなた、これ以上私の教育に口を出すなら、覚悟してちょうだい」

 

「母さん……」

 

「あなたが父親として役に立たないなら、せめて邪魔をしないで。のび太の教育を妨害するというなら、私はあなたを敵と見なすわ」

 

「家族に向かって、何を言っているんだ!」

 

「家族だからこそよ!」

 

玉子は声を荒らげた。

 

「私は、あの子を立派な人間にしようとしているの! あなたは、それを邪魔するの!?」

 

「立派な人間にすることと、追い詰めることは違う!」

 

その言葉に、玉子の表情が一変した。

 

「……そう」

 

彼女は静かに立ち上がり、台所から包丁を持ち出した。

 

のび助の顔から血の気が引いた。

 

「母さん、何を……!」

 

「あなたが私の教育を邪魔するなら、私にも考えがあるということよ」

 

玉子は包丁を手にしたまま、夫を睨みつけた。

 

「次に口を出したら、あなたがどうなっても知らないわ。事故に遭ったことにしてもいい。あなたのせいで家庭が壊れたと、周囲に説明してもいい」

 

「……!」

 

「それとも、のび太に何が起こるか分からないと言った方がいいかしら?」

 

その瞬間、のび助は動けなくなった。

 

妻が本当に何かをするつもりなのか。

 

それとも、脅しているだけなのか。

 

分からなかった。

 

ただ、息子を守ろうとすれば、妻がさらに何をするか分からない。

 

「……やめてくれ」

 

のび助は、震える声で言った。

 

「のび太には……手を出さないでくれ」

 

「なら、黙っていてちょうだい」

 

玉子は包丁を置いた。

 

そして、何事もなかったかのように夕食の準備へ戻った。

 

のび助はその場に立ち尽くした。

 

自分の息子が壊れていくのを、目の前で見ている。

 

それなのに、助けることすらできない。

 

その夜、のび助は寝室で一人、声を殺して泣いた。

 

第8話 優等生になった野比のび太

数か月後。

 

学校では、ある変化が話題になっていた。

 

「ねえ、聞いた? のび太くん、またテストで満点だったんだって」

 

「ええっ!? あののび太が?」

 

「体育でもすごいらしいよ。かけっこは一番だし、跳び箱も高く跳べるようになったんだって」

 

クラスメートたちは驚いていた。

 

かつてののび太は、授業中に居眠りし、テストでは0点を取り、体育では失敗ばかりしていた。

 

それが今では、勉強も運動も優秀な生徒になっていた。

 

だが、彼らは知らなかった。

 

その変化の裏で、何が起きていたのかを。

 

「のび太くん!」

 

しずかが声をかけた。

 

「最近、すごく頑張っているのね。テストも満点なんでしょう? おめでとう!」

 

のび太は、しずかの方を向いた。

 

「ありがとうございます」

 

「……え?」

 

しずかは首を傾げた。

 

「のび太くん?」

 

「何かご用でしょうか」

 

「な、何かって……。私よ、しずかよ?」

 

「認識しています」

 

しずかは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。

 

以前ののび太なら、しずかに褒められれば顔を赤くして喜んだはずだ。

 

「ねえ、今度の日曜日、一緒に遊ばない? みんなで公園に行くの」

 

「予定を確認します」

 

のび太は鞄から手帳を取り出した。

 

そこには、分刻みの予定が書かれていた。

 

「日曜日は午前五時から運動訓練、午前七時から学習、午後は追加課題があります。自由時間はありません」

 

「そ、そんな……」

 

「ほかにご用件は?」

 

しずかは言葉を失った。

 

その日の放課後、ジャイアンとスネ夫も、のび太に声をかけた。

 

「おい、のび太! たまには野球でもしようぜ!」

 

「そうそう。お前、運動が得意になったんだろ? ちょっと相手してくれよ」

 

「申し訳ありません。現在、帰宅する必要があります」

 

「なんだよ、付き合い悪いなあ!」

 

ジャイアンが肩をつかもうとした。

 

しかし、のび太は一歩横へ移動し、相手の手を自然にかわした。

 

「接触の必要性を認めません」

 

「はあ?」

 

「失礼します」

 

のび太は、そのまま歩き去った。

 

ジャイアンもスネ夫も、呆然と背中を見送るしかなかった。

 

「……あいつ、本当にのび太なのか?」

 

「分からない……。なんか、怖いよ」

 

二人の言葉を、しずかは黙って聞いていた。

 

彼女は、のび太の背中から目を離せなかった。

 

あれは、本当に自分の知っているのび太なのだろうか。

 

第9話 お母さんの警告

しずかは心配になり、ある日の夕方、野比家を訪ねた。

 

玄関に出てきたのは玉子だった。

 

「あら、しずかちゃん。どうしたの?」

 

「こんにちは。あの……のび太さんと少しお話がしたくて」

 

「のび太と?」

 

玉子の表情がわずかに変わった。

 

「最近、のび太さんの様子が少し変なんです。学校でも、誰とも話さなくなって……」

 

「それは、あの子が成長したからよ」

 

「でも……」

 

「しずかちゃん」

 

玉子は、優しい声を装って言った。

 

「あなたは、のび太に余計な影響を与えないでちょうだい」

 

「え……?」

 

「今、あの子は大事な時期なの。勉強も運動も、ようやく人並み以上にできるようになったところなのよ。あなたたちと遊んでいる時間なんてないの」

 

「でも、友達と遊ぶことだって大切だと思います……」

 

玉子の笑顔が消えた。

 

「……あなた、自分の家のことだけ考えていればいいのよ」

 

しずかは息を呑んだ。

 

「のび太と仲良くするのは自由。でも、私の教育方針に口を出したり、あの子を遊びに誘ったりするのはやめなさい」

 

「そんな……私は、ただ心配で……」

 

「心配?」

 

玉子は一歩近づいた。

 

「あなたの家の人は、あなたがよその家庭の問題に首を突っ込んでいると知ったら、どう思うかしらね?」

 

しずかの顔が青ざめた。

 

「あなたのお父さんのお仕事にも、いろいろな付き合いがあるでしょう? 余計な騒ぎを起こして、ご家族に迷惑をかけたくはないわよね?」

 

「お母さん……それは……」

 

「分かったら、もう帰りなさい」

 

玉子は玄関の扉を開けた。

 

「のび太のことは、私が責任を持って育てますから」

 

しずかは、何も言い返せなかった。

 

彼女は唇を噛み、深く頭を下げて帰っていった。

 

その背中を見送りながら、玉子は満足そうに微笑んだ。

 

これでいい。

 

息子に余計な影響を与える友達も、遠ざけられた。

 

第10話 友達を失った少年

翌日。

 

学校の廊下で、しずかはのび太を見つけた。

 

「のび太さん……」

 

のび太は立ち止まった。

 

「何でしょうか」

 

「……あのね」

 

しずかは、何かを言おうとした。

 

昨日のことを謝りたい。

 

本当は、あなたのことが心配なのだと伝えたい。

 

以前のように、一緒に笑って遊びたい。

 

しかし、玉子の言葉が脳裏をよぎった。

 

家族に迷惑がかかる。

 

父親の仕事にも影響するかもしれない。

 

もし、本当に何かが起きたら。

 

しずかは、恐怖に負けてしまった。

 

「……ごめんなさい」

 

「謝罪の理由が分かりません」

 

「私……もう、あなたと遊べないの」

 

のび太は、しずかを見つめた。

 

「そうですか」

 

それだけだった。

 

「……のび太さん?」

 

「承知しました。今後、あなたに接触することは控えます」

 

「違うの……! そういう意味じゃ……!」

 

しずかは思わず声を上げた。

 

けれど、のび太はもう歩き出していた。

 

その日の放課後。

 

ジャイアンとスネ夫も、のび太を呼び止めた。

 

「のび太……お前、最近どうしちまったんだよ」

 

「前みたいに、少しは話そうぜ」

 

のび太は足を止めた。

 

「ご用件をどうぞ」

 

ジャイアンは、しばらく黙っていた。

 

「……悪かったよ。今まで、お前をいじめたりして」

 

スネ夫も気まずそうに頷いた。

 

「ぼくも……ごめん」

 

二人なりに、のび太を気遣っていた。

 

だが、のび太は表情を変えなかった。

 

「謝罪を受理しました」

 

「……それだけか?」

 

「はい。ほかにご用件がなければ失礼します」

 

「待てよ、のび太!」

 

ジャイアンが呼び止める。

 

「お前、何かあったんだろ? オレたちに言ってみろよ!」

 

その言葉に、のび太の足が一瞬だけ止まった。

 

何かあったのか。

 

そう聞かれたのは、いつ以来だろう。

 

本当のことを話したい。

 

ドラえもんがいなくなったこと。

 

母親が怖いこと。

 

毎日、勉強と運動を強制されていること。

 

父親も、何もできなくなってしまったこと。

 

苦しい。

 

助けてほしい。

 

誰かに、もう一度だけでいいから、自分の気持ちを聞いてほしい。

 

のび太の唇が、かすかに動いた。

 

「……ぼくは」

 

しかし、その瞬間。

 

玉子の声が頭の中によみがえった。

 

『余計なことを話したら、どうなるか分かっているわね?』

 

のび太は、口を閉じた。

 

「……問題ありません」

 

そして、振り返ることなく歩き去った。

 

ジャイアンは拳を握りしめた。

 

「……あいつ、絶対におかしいぞ」

 

スネ夫も、顔を曇らせた。

 

「でも、どうすればいいんだよ……」

 

しずかは、遠ざかっていくのび太の背中を見つめていた。

 

彼女の目には、涙が浮かんでいた。

 

心配しているのに。

 

助けたいのに。

 

自分たちは、何もできない。

 

そして、のび太は一人になった。

 

第11話 感情を失った優等生

それから、さらに数か月が過ぎた。

 

野比のび太は、学校で誰もが認める優等生になっていた。

 

テストは常に満点。

 

運動能力も高く、徒競走では学年上位。

 

授業中に居眠りすることもなく、宿題を忘れることもない。

 

教師たちは、彼の変貌を喜んだ。

 

「野比くんは、見違えるように努力するようになりましたね」

 

家庭訪問に来た先生は、玉子にそう告げた。

 

「ご家庭での教育が実を結んだのでしょう」

 

「ええ、そうなんです」

 

玉子は誇らしげに答えた。

 

「この子は、やればできる子だったんですよ」

 

先生はのび太を振り返った。

 

「野比くん。よく頑張りましたね。何か、目標でもあるのかな?」

 

のび太は椅子から立ち上がった。

 

「目標は、与えられた課題を確実に達成することです」

 

「……え?」

 

「指示された内容を実行し、要求された結果を出す。それが現在の私の役割です」

 

先生は笑顔を保ったまま、言葉に詰まった。

 

「そ、そうか……。でも、君自身の夢はないのかな?」

 

「夢?」

 

のび太は、わずかに首を傾けた。

 

「必要性を理解できません」

 

玉子が横から口を挟んだ。

 

「この子は、もう甘い考えを持たなくなったんです。将来に向けて、毎日努力しているんですよ」

 

先生は、何か言いかけてやめた。

 

成績表には、素晴らしい数字が並んでいる。

 

運動記録も、以前とは比較にならないほど優秀だ。

 

それなのに、目の前の少年は、自分の意思で何かを望んでいるようには見えなかった。

 

「……野比くん」

 

「はい」

 

「もし、つらいことがあったら、いつでも相談してくださいね」

 

のび太は、即座に答えた。

 

「相談する必要はありません。問題はすべて処理しています」

 

先生は、背筋に冷たいものを感じた。

 

それは、優秀な生徒の返答ではなかった。

 

自分の感情を切り離し、命令を実行することだけを目的にした、機械のような返答だった。

 

その夜。

 

のび太は、机に向かっていた。

 

数学の問題を解く。

 

英語の単語を覚える。

 

翌日の運動メニューを確認する。

 

時計の針が進む。

 

午後九時。

 

午後十時。

 

午後十時半。

 

「のび太、今日はここまでにしなさい」

 

玉子が部屋に入ってきた。

 

「本日の課題は、すべて完了しました」

 

「そう。明日は今日よりも難しい問題を用意しておくから」

 

「承知しました」

 

玉子は満足げに頷いた。

 

「あなたも、ようやく立派になってきたわね」

 

その言葉に、のび太は顔を上げた。

 

立派。

 

以前から、ずっと聞きたかった言葉。

 

あれほど欲しかった言葉。

 

ようやく、母親が自分を認めてくれた。

 

そのはずだった。

 

けれど。

 

嬉しくなかった。

 

胸が温かくなることもなかった。

 

笑顔を浮かべたいとも思わなかった。

 

ただ、母親が満足しているという事実を認識しただけだった。

 

「ありがとうございます、お母さん」

 

のび太は、決められたような笑顔を浮かべた。

 

玉子は気づかなかった。

 

息子が喜んでいるのではなく、母親が望む表情を再現しているだけだということに。

 

「おやすみなさい」

 

「おやすみなさい、お母さん」

 

玉子が部屋を出る。

 

扉が閉じる。

 

のび太は、机の上に置かれた古い写真を見た。

 

そこには、ドラえもんと一緒に笑っている自分が写っていた。

 

もう、いつ撮った写真なのかもよく思い出せない。

 

青い体。

 

丸い手。

 

優しい声。

 

『のび太くん!』

 

心の奥底で、誰かが自分を呼んだような気がした。

 

のび太は写真を手に取った。

 

「……」

 

何かを感じようとした。

 

悲しみ。

 

寂しさ。

 

懐かしさ。

 

どれでもいい。

 

しかし、何も湧き上がってこなかった。

 

写真を見ても、胸は痛まない。

 

友達と話せなくなっても、寂しくない。

 

母親に褒められても、嬉しくない。

 

ただ、決められたことをこなす。

 

求められた結果を出す。

 

命令に従う。

 

それだけが、今の自分にできることだった。

 

のび太は写真を机に戻した。

 

そして、翌日の予定表を確認する。

 

「午前五時、起床」

 

「午前五時十分、走り込み」

 

「午前六時、筋力訓練」

 

「午前七時、学習」

 

淡々と、声に出して読み上げる。

 

「……異常なし」

 

彼は電気を消し、ベッドに入った。

 

目を閉じる。

 

眠りにつく。

 

翌朝になれば、また同じ一日が始まる。

 

泣くこともない。

 

笑うこともない。

 

怒ることもない。

 

夢を見ることもない。

 

母親の望む、完璧な息子として。

 

野比のび太は、静かに眠りについた。

 

かつて、未来からやってきた青いロボットに何度も助けられ、失敗しては泣き、笑い、怒り、それでも明日を楽しみにしていた少年。

 

その少年は、もうどこにもいなかった。

 

残されたのは、勉強も運動も完璧にこなし、指示されたことを正確に実行する、感情の見えない少年だけだった。

 

そして、彼の母親は知らない。

 

自分が望んだ「立派な人間」が、どれほど大切なものを失ってしまったのかを。

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