もしものび太のお母さんが毒親になったら   作:武藤 桜

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第三章「壊れていた心」

第12話 完璧なエリート社員・野比のび太

時は流れた。

 

野比のび太は、もうかつての泣き虫な少年ではなかった。

 

中学校では学年首席。高校では全国模試で上位に入り、名門大学へ進学。大学でも首席で卒業し、日本を代表する大手企業への就職を果たした。

 

学業、運動、生活態度。

 

どれを取っても非の打ち所がない。

 

学生時代の教師たちは彼を優秀な人材として称賛し、大学の教授たちは将来を期待した。就職先の企業でも、入社直後からその能力を高く評価された。

 

仕事の処理速度は速く、資料の誤字脱字は皆無。難解な案件も冷静に分析し、どれだけ困難な業務を任されても、彼は決して弱音を吐かなかった。

 

上司から仕事を頼まれれば、即座に返事をする。

 

「承知しました」

 

残業を命じられれば、黙って残る。

 

休日出勤を求められれば、予定を変更する。

 

体調が悪くても、仕事を休むことはなかった。

 

そして、毎月の給料が振り込まれると、その大部分を実家へ送金した。

 

すべては、母親のためだった。

 

いや、正確には――母親の要求を満たすためだった。

 

「のび太、今月の給料は?」

 

電話の向こうから聞こえる玉子の声。

 

「先ほど振り込みました。確認をお願いします」

 

「そう。今月はボーナスもあるんでしょう? そちらも忘れないでちょうだい」

 

「承知しました」

 

「あなたは昔、どうしようもない子だったけれど、今では立派なエリートになったわね。やっぱり、私の教育は間違っていなかったのよ」

 

「ありがとうございます、お母さん」

 

のび太は、淡々と答えた。

 

「これからも期待しているわ。あなたは野比家の誇りなんだから」

 

「はい」

 

通話が終了する。

 

スマートフォンの画面が暗くなった。

 

のび太は、しばらくそれを見つめていた。

 

野比家の誇り。

 

その言葉に、喜びはなかった。

 

母親に褒められて嬉しいわけでもない。

 

給料を渡すことに満足しているわけでもない。

 

ただ、そうすることが自分の役割だから、そうしているだけだった。

 

彼には、趣味がなかった。

 

休日に遊びに出かけることもない。

 

友人と飲みに行くこともない。

 

恋愛にも興味を示さなかった。

 

中学に進学してから、かつての友人たちとは会わなくなった。高校、大学と進学するにつれ、彼らとの距離はさらに広がり、連絡を取ることもなくなった。

 

野比のび太という人間を説明するならば、仕事のできる優秀なエリート社員。

 

それが、周囲から見た彼の姿だった。

 

しかし、彼自身は、自分が何者なのかを考えたことすらなかった。

 

自分が何を好きだったのか。

 

何をしているときに楽しかったのか。

 

どんな夢を持っていたのか。

 

そうしたことは、すべて忘れていた。

 

青い体の友達と過ごした日々も。

 

空き地でジャイアンやスネ夫と騒いだ時間も。

 

しずかと一緒に遊んだ思い出も。

 

押し入れの中で、誰かに助けを求めて泣いた夜も。

 

それらは、彼の記憶の奥深くに埋もれていた。

 

いや、思い出そうとすること自体を、いつしかやめていたのかもしれない。

 

野比のび太は、今日も仕事を続ける。

 

自分が何を望んでいるのかも分からないまま。

 

ただ、母親の望む息子であり続けるために。

 

第13話 倒れるまで働く男

ある日の月曜日。

 

午前七時。

 

のび太は、いつものように出社した。

 

「おはようございます」

 

「おはよう、野比くん。悪いんだけど、先週の案件の修正をお願いできるかな?」

 

「承知しました」

 

「それから、午後の会議資料も頼むよ。できれば今日中にまとめてほしい」

 

「承知しました」

 

「いやあ、野比くんがいてくれると助かるよ。君は本当に頼りになるな」

 

「ありがとうございます」

 

のび太は一礼し、自分の席へ戻った。

 

パソコンを起動する。

 

メールを確認する。

 

資料を作成する。

 

電話に対応する。

 

会議に出席する。

 

昼休みになっても、席を立たなかった。

 

机の上に置かれた弁当には手をつけず、画面を見つめ続ける。

 

午後三時。

 

目の奥が痛む。

 

午後五時。

 

頭が重い。

 

午後七時。

 

指先がわずかに震え始めた。

 

午後九時。

 

同僚たちが帰り支度を始める中、のび太だけは仕事を続けていた。

 

「野比さん、まだ帰らないんですか?」

 

若い社員が心配そうに声をかけた。

 

「本日の業務が残っています」

 

「でも、もう九時ですよ。明日でもいいんじゃないですか?」

 

「明日に回す合理的な理由がありません」

 

「いや、そうじゃなくて……」

 

同僚は言葉を詰まらせた。

 

のび太の顔色はひどく悪かった。

 

目の下には濃い隈ができ、頬は痩せ、表情には疲労がにじんでいる。

 

それなのに、本人は自分の状態にまったく関心を示さなかった。

 

「野比さん、少し休んだ方が……」

 

「お気遣いありがとうございます。業務に戻ってください」

 

会話は、それで終わった。

 

深夜。

 

ようやく最後の資料を送信したのび太は、パソコンを閉じた。

 

帰宅したのは午前零時を過ぎてからだった。

 

自宅の玄関で靴を脱ぎ、部屋へ入る。

 

食事をする気力はない。

 

シャワーを浴びる気力もない。

 

スーツのままベッドに腰を下ろした。

 

スマートフォンが鳴る。

 

母親からのメッセージだった。

 

『今月は家の修繕費が必要になりました。いつもより多めに送金してちょうだい』

 

のび太は、画面を見つめた。

 

そして、銀行のアプリを開いた。

 

残高を確認する。

 

必要な金額を計算する。

 

生活費を削れば、送金できる。

 

そう判断すると、彼は迷うことなく手続きを済ませた。

 

『送金しました』

 

返信を送る。

 

すぐに母親から返事が届いた。

 

『ありがとう。やっぱり、あなたは頼りになるわね』

 

のび太は画面を見つめた。

 

「……」

 

嬉しくはなかった。

 

けれど、悲しくもなかった。

 

何も感じなかった。

 

ただ、スマートフォンを枕元に置き、横になった。

 

翌朝も、彼はいつも通りに出社した。

 

そして、その翌日も。

 

さらに、その翌日も。

 

身体が発していた小さな警告を、彼は無視し続けた。

 

眠れない夜。

 

食欲の消失。

 

何をしても楽しくない感覚。

 

突然襲ってくる動悸。

 

理由もなく重くなる身体。

 

集中力が落ちているのに、仕事の手を止められない。

 

それらを、彼はすべて「改善すべき問題」として処理しようとした。

 

睡眠時間を削って仕事を取り戻す。

 

食欲がなければ、栄養補助食品で済ませる。

 

疲労が強ければ、コーヒーを飲んで乗り切る。

 

それでも動けなくなれば、自分の努力が足りないのだと考える。

 

彼には、休むという選択肢がなかった。

 

休めば、母親の期待を裏切る。

 

失敗すれば、母親の教育が間違っていたことになる。

 

そして何より、何もできない自分に戻ることが怖かった。

 

かつての、のび太に。

 

何をしても駄目だと責められた、あの少年に。

 

だから彼は働き続けた。

 

自分の心が、すでに限界を迎えていることにも気づかないまま。

 

第14話 健康診断の結果

会社の健康診断は、毎年行われていた。

 

社員の健康を守るための制度であり、全社員が受診を義務づけられている。

 

のび太も、例年通りに検査を受けた。

 

身長、体重、血液検査、血圧、心電図。

 

そして、問診と心理状態の評価。

 

最初、のび太は何の問題もないと思っていた。

 

仕事はできている。

 

遅刻も欠勤もない。

 

重大なミスも起こしていない。

 

だから、自分は健康なのだと考えていた。

 

ところが、問診を担当した医師は、彼の回答を確認するにつれて、表情を曇らせていった。

 

「野比さん。最近、十分に眠れていますか?」

 

「必要な業務を遂行できる程度には睡眠を確保しています」

 

「それは何時間ですか?」

 

「平均三時間程度です」

 

医師は顔を上げた。

 

「三時間?」

 

「はい」

 

「食欲はありますか?」

 

「食事は業務に支障が出ない範囲で摂取しています」

 

「食事がおいしいと感じますか?」

 

のび太は、少し考えた。

 

「……味覚に問題はありません」

 

「質問を変えましょう。最近、何か楽しいと感じることはありましたか?」

 

「ありません」

 

答えは即座だった。

 

「嬉しいことは?」

 

「特にありません」

 

「悲しいことは?」

 

「ありません」

 

医師は、問診票を置いた。

 

「野比さん。仕事以外の時間に、何をしていますか?」

 

「仕事に関係する知識の習得と、翌日の業務準備です」

 

「休日は?」

 

「必要に応じて出勤しています」

 

「ご家族や友人と過ごす時間はありますか?」

 

「母への送金と連絡を行っています。友人との交流はありません」

 

「……そうですか」

 

医師は、しばらく沈黙した。

 

「野比さん。今、何か困っていることはありませんか?」

 

「ありません」

 

「本当に?」

 

「はい。業務は予定通りに進行しています」

 

医師は、のび太の顔を見つめた。

 

彼の声には抑揚がない。

 

表情の変化も乏しい。

 

自分の体調や生活について尋ねても、返ってくるのは業務報告のような言葉ばかりだった。

 

医師は、追加の心理検査を実施することにした。

 

結果が出るまで、のび太は待合室で静かに座っていた。

 

やがて、診察室へ呼び戻される。

 

医師は、慎重に言葉を選びながら話し始めた。

 

「野比さん。今回の検査では、非常に深刻な結果が出ています」

 

「……具体的には?」

 

「重度のうつ病が強く疑われます。極端な睡眠不足や食欲の低下、長期間にわたる意欲の喪失、感情の変化が乏しくなっていることなど、複数の危険な兆候が見られます」

 

のび太は、黙って聞いていた。

 

「この状態で、今まで通りに仕事を続けるのは危険です。まずは専門医による詳しい診察を受け、心身を休める必要があります」

 

「業務に支障が出るということでしょうか」

 

医師は、思わず目を伏せた。

 

「野比さん。あなたの仕事の話をしているのではありません」

 

「……?」

 

「あなた自身の話をしているんです」

 

のび太は、首を傾げた。

 

自分自身。

 

その言葉の意味が、よく分からなかった。

 

「会社には、健康上の理由で勤務を続けることが難しいと報告します。就業規則に基づき、産業医と人事部の判断で、専門医療機関での評価と入院による治療が必要だと判断される可能性があります」

 

「入院……ですか?」

 

「はい。あなたの現在の状態を考えると、仕事から離れて休養することが必要です」

 

のび太は、静かに答えた。

 

「仕事を休むわけにはいきません」

 

「なぜですか?」

 

「母に送金しなければなりません。それに、私が担当している案件が残っています」

 

「案件は、ほかの社員に引き継げます」

 

「私がやる方が効率的です」

 

「野比さん」

 

医師の声が少し強くなった。

 

「あなたが倒れてしまったら、仕事も続けられなくなります。今は、休むことも治療の一部なんです」

 

「……」

 

のび太は、何も答えなかった。

 

彼は理解できなかった。

 

仕事をしている。

 

成果も出している。

 

母親の期待にも応えている。

 

それなのに、なぜ休まなければならないのだろう。

 

自分は、まだ働けるはずなのに。

 

しかし、医師は彼の希望だけで判断を変えることはなかった。

 

会社の産業医と人事部が診断情報や就業規則を確認し、のび太には当面の就業停止と、専門医による入院を含めた治療のための手続きを進めるよう指示が出された。

 

本人の意向だけで、その判断を覆すことはできなかった。

 

こうして、野比のび太は初めて、仕事から強制的に引き離されることになった。

 

彼は、何も感じていなかった。

 

ただ、予定外の事態が発生したと認識していた。

 

そして、その日の夜。

 

久しぶりに母親へ電話をかけた。

 

「お母さん。報告があります」

 

『何?』

 

「健康診断で問題が見つかりました。医師から、入院を含む治療が必要だと言われています」

 

電話の向こうで、沈黙が流れた。

 

『……入院?』

 

「はい。しばらく仕事を休むことになります」

 

『何をやっているの、のび太!』

 

玉子の怒声が響いた。

 

『あなた、今まで何のために努力してきたと思っているの!? せっかく一流企業に入って、出世できるところまで来たのに!』

 

「……申し訳ありません」

 

『謝って済む問題じゃないでしょう! あなたが働かなかったら、どうするのよ!』

 

のび太は、電話を握りしめた。

 

『私がどれだけあなたに期待していたと思っているの!?』

 

「……」

 

『しっかりしなさい! あなたは野比家の誇りなんでしょう!』

 

のび太は、目を閉じた。

 

野比家の誇り。

 

その言葉が、何度も頭の中で繰り返された。

 

「……はい」

 

彼は、いつものように返事をした。

 

「申し訳ありません、お母さん」

 

電話が切れた。

 

のび太は、しばらくスマートフォンを見つめていた。

 

そして、誰もいない部屋で、ぽつりと呟いた。

 

「……ぼくは、何を間違えたんだろう」

 

それは、何十年ぶりかに口にした、自分自身への問いかけだった。

 

第15話 病院で再会した旧友たち

入院先は、心の病を専門に扱う医療機関だった。

 

病棟は静かで、医師や看護師が患者一人ひとりの状態を確認しながら、治療を進めていた。

 

のび太は、入院初日から戸惑っていた。

 

朝になれば起床し、食事をし、決められた時間に診察や面談を受ける。

 

しかし、仕事をすることは許されない。

 

会社のメールを確認しようとすると、医師から休養を優先するように言われる。

 

「野比さん。今は、仕事のことを考えなくてもいいんですよ」

 

「ですが、未処理の案件が……」

 

「それは会社が対応します。あなたは治療に専念してください」

 

のび太は、納得できなかった。

 

何もしない時間が、苦痛だった。

 

仕事をしていない自分には、価値がない。

 

母親の役に立てない自分には、意味がない。

 

そんな考えが、頭の中を埋め尽くしていた。

 

入院から数日後。

 

病院の面会室に、一組の男女が訪れた。

 

「……のび太さん?」

 

その声を聞いたとき、のび太は顔を上げた。

 

そこにいたのは、源静香だった。

 

そして、その隣には、剛田武と骨川スネ夫が立っていた。

 

三人とも、かつての面影を残しながら、大人になっていた。

 

「……?」

 

のび太は、彼らの顔を見つめた。

 

記憶の中に、何かが引っかかる。

 

名前。

 

声。

 

顔。

 

それらが、ゆっくりと結びついていった。

 

「……源さん」

 

しずかの顔が、悲しそうに歪んだ。

 

「のび太さん……私のこと、覚えているの?」

 

「源静香さん。剛田武さん。骨川スネ夫さん」

 

のび太は、順番に名前を挙げた。

 

「小学校時代の同級生です」

 

ジャイアンは唇を噛んだ。

 

「……ああ。そうだよ、のび太」

 

スネ夫も、無理に笑おうとした。

 

「久しぶりだね……」

 

のび太は、三人を見つめた。

 

「なぜ、ここに?」

 

しずかは、椅子に座った。

 

「会社の人から、連絡があったの。あなたが入院したって……。私たち、ずっと心配していたのよ」

 

「心配?」

 

のび太は、首を傾げた。

 

「私の健康状態について、懸念する理由があるのでしょうか」

 

その言葉を聞き、しずかは俯いた。

 

「……のび太さん。お願いだから、そんな話し方をしないで」

 

「不適切でしたか?」

 

「違うの……」

 

しずかの目に涙が浮かんだ。

 

「私たちが知っているのび太さんは、そんな人じゃなかったから……」

 

のび太は、黙っていた。

 

知っているのび太。

 

その言葉が、頭の中で反響した。

 

自分は、どんな人間だったのだろう。

 

思い出せない。

 

いや、思い出そうとすると、胸の奥に何か重いものが生まれる。

 

それが何なのか、分からなかった。

 

しばらくして、ジャイアンが口を開いた。

 

「なあ、のび太。俺たち、ずっとお前に聞きたかったことがあるんだ」

 

「何でしょうか」

 

「どうして、急に俺たちから離れたんだ?」

 

のび太の目が、わずかに揺れた。

 

「……」

 

「中学に入ってから、一度も遊ばなくなっただろ。電話しても出ないし、会いに行こうとしても断られた。高校に入ってからは、連絡すら取れなくなった」

 

スネ夫が続けた。

 

「僕たち、何か悪いことをしたのかと思っていたんだ。昔、お前をいじめていたこともあったし……。だから、謝ろうと思っていたんだけど」

 

「……」

 

「でも、お前はいつも、もう関わらないでくれって言うだけだった」

 

のび太は、目を伏せた。

 

長い沈黙が流れた。

 

やがて、彼は口を開いた。

 

「……母に、止められていました」

 

三人が顔を上げた。

 

「え……?」

 

「友人との交流は、学業と将来のために不要だと言われました。私が遊びに行こうとすると、母は怒りました」

 

のび太は、淡々と話した。

 

「源さんが家を訪ねてきたこともあります。そのとき、母はあなたに、私と関わらないように言いました」

 

しずかの表情が変わった。

 

「……やっぱり、あのときの……」

 

「母は、あなたの家族にも迷惑がかかる可能性があると話していました」

 

しずかは、両手で口元を押さえた。

 

「そんな……」

 

「私は、あなたたちと会うことを禁止されました。逆らえば、さらに厳しい処罰を受けることになりました」

 

ジャイアンが拳を握った。

 

「処罰って……お前、家で何をされていたんだ?」

 

のび太は、しばらく考えた。

 

何をされたのか。

 

それを説明するのは、難しかった。

 

「毎日の生活を、すべて管理されていました。勉強と運動を強制され、自由時間はありませんでした。成績が悪ければ、さらに課題を増やされました」

 

「……」

 

「父が母に抗議したこともあります。しかし、母は父を脅しました。それ以降、父は何も言わなくなりました」

 

スネ夫の顔から、血の気が引いた。

 

「そんなことが……」

 

「ドラえもんも、母によって未来へ帰されました」

 

その瞬間。

 

面会室の空気が凍りついた。

 

「……ドラえもん?」

 

しずかが、震える声で尋ねた。

 

「ドラえもんが、いなくなったの?」

 

「はい。母は、ドラえもんが私の成長を妨げていると判断しました。タイムマシンへつながる机の引き出しも、処分されました」

 

ジャイアンは、何も言えなかった。

 

スネ夫も、ただ呆然としていた。

 

しずかは、目から涙をこぼした。

 

「……だから、のび太さんは……」

 

彼女は、ようやく理解した。

 

あの日。

 

野比家を訪れた自分に、玉子が何をしたのか。

 

どうして、のび太が自分たちを遠ざけたのか。

 

それは、のび太が自分たちを嫌いになったからではなかった。

 

彼は、助けを求めることさえ許されていなかったのだ。

 

「ごめんなさい……」

 

しずかは、泣きながら頭を下げた。

 

「私、あのとき……あなたを助けられなかった……」

 

「謝罪する必要はありません」

 

のび太は、即座に答えた。

 

「あなたは、母の脅迫を受けていたのでしょう。合理的な判断だったと思います」

 

「違う……!」

 

しずかは、顔を上げた。

 

「私、本当はあなたを助けたかったの! でも、怖くて……。家族に迷惑がかかるのが怖くて、逃げてしまったの……!」

 

彼女の涙が止まらなかった。

 

「ずっと、後悔していたのよ……」

 

のび太は、彼女を見つめた。

 

その目には、怒りも悲しみも浮かんでいなかった。

 

「……そうですか」

 

それだけだった。

 

ジャイアンは、とうとう耐えられなくなった。

 

「ふざけんなよ……」

 

低い声が漏れた。

 

「ふざけんなよ、玉子さん……!」

 

彼は拳を握りしめた。

 

「俺たちが知らないところで、のび太がそんな目に遭っていたなんて……!」

 

「ジャイアン……」

 

「俺は昔、のび太をいじめていた。だから、偉そうなことは言えない。でも、だからこそ、あいつが変わったときに気づくべきだったんだ!」

 

スネ夫も、俯いていた。

 

「僕も……。あのとき、もっとしつこく話を聞いていれば……」

 

「……」

 

三人は、後悔していた。

 

しかし、彼らがどれだけ悔やんでも、のび太が過ごしてきた時間は戻らない。

 

しずかは、涙を拭った。

 

「のび太さん。これからは、私たちがそばにいるわ」

 

「……必要ありません」

 

「え……?」

 

「現在、私は医師の指示に従い、治療を受けています。あなたたちが気にかける必要はありません」

 

「でも……」

 

「私のことは、もう心配しないでください」

 

その言葉は、あまりにも静かだった。

 

しずかは、唇を震わせた。

 

「……のび太さん」

 

のび太は、窓の外へ視線を向けた。

 

「私は、あなたたちとの関係を維持する方法が分かりません」

 

それは、彼が初めて口にした本音だった。

 

「どう接すればいいのかも。何を話せばいいのかも。どうすれば、楽しいと思えるのかも……分からないんです」

 

彼は、自分の手を見つめた。

 

「仕事なら、分かります。求められた成果を出せばいい。失敗したら修正すればいい。期待された役割を果たせばいい」

 

一拍置いて、続けた。

 

「でも、人間関係には、正解がありません」

 

誰も、何も言えなかった。

 

「私は、母の望む人間になるために生きてきました。それ以外の生き方を、知りません」

 

その言葉を聞いた瞬間、しずかは再び涙をこぼした。

 

のび太は、助けを求めていた。

 

しかし、その助けを受け取る方法さえ分からなくなっていた。

 

三人は、ようやく理解した。

 

のび太の身体を蝕んでいたのは、単なる疲労ではない。

 

何年にもわたって、自分の気持ちを押し殺し続けた結果、彼は自分自身を見失ってしまったのだ。

 

しずかは、のび太の手にそっと触れようとした。

 

しかし、彼は反射的に手を引いた。

 

「……申し訳ありません」

 

のび太は、すぐに謝った。

 

「接触に慣れていないので」

 

しずかは、胸が張り裂けそうになった。

 

かつてののび太なら、しずかに手を握られただけで、顔を真っ赤にして慌てていたはずだ。

 

今では、触れられることさえ、どう受け止めればいいのか分からない。

 

「……大丈夫よ」

 

しずかは、震える声で言った。

 

「無理に触れたりしないから……。あなたが嫌じゃないときに、少しずつでいいから……」

 

のび太は、返事をしなかった。

 

けれど、今度は席を立たなかった。

 

それだけでも、彼にとっては大きな変化だった。

 

第16話 未来から消えかけた子孫

その頃。

 

二十二世紀。

 

未来の世界では、ある異常事態が発生していた。

 

「……そんな、馬鹿な!」

 

タイムパトロールの研究施設。

 

歴史記録を管理する大型モニターの前で、職員たちが騒然としていた。

 

画面には、野比家の系譜が表示されていた。

 

本来なら、野比のび太を起点として、その子孫へと続くはずの歴史。

 

ところが、その系譜に異常が発生していた。

 

のび太の子孫たちの記録が、次々と不安定になっているのだ。

 

一部の人物の存在記録が消失し、別の人物の出生記録にも矛盾が生じていた。

 

「原因は何だ?」

 

「現時点では不明です。ただ、過去の野比のび太に関する記録に、重大な異常が見つかりました」

 

「過去ののび太に?」

 

「はい。彼の幼少期から青年期にかけて、通常の歴史記録とは異なる生活が確認されています。交友関係の断絶、異常な教育環境、そして……ドラえもんとの長期的な接触の消失です」

 

その報告を聞いた、一人の青いロボットが立ち上がった。

 

丸い体。

 

大きな鈴。

 

白い手。

 

ドラえもんだった。

 

「……のび太くん」

 

彼は、モニターを見つめた。

 

ずっと昔。

 

自分は、のび太の母親によって、無理やり未来へ帰された。

 

タイムマシンへつながる引き出しも処分され、現代へ戻る手段を失った。

 

何度も戻ろうとした。

 

しかし、歴史の整合性や時間移動に関する規則、そして当時の記録の不備が障害となり、簡単には手を出せなかった。

 

それでも、ドラえもんは諦めていなかった。

 

いつか、のび太に会える。

 

いつか、あの頃のように笑い合える。

 

そう信じていた。

 

だが、今。

 

彼の子孫たちの存在そのものが、危機に瀕している。

 

「野比のび太の現在の状態は?」

 

職員が端末を操作した。

 

「……確認できました。彼は現在、成人しています。名門大学を首席で卒業し、大企業に勤務していましたが、重度のうつ病と診断され、医療機関へ入院しています」

 

「うつ病……?」

 

ドラえもんの声が震えた。

 

「どうして……」

 

職員は、慎重に説明した。

 

「幼少期から過度な教育と運動を強制され、友人関係も断たれていたようです。母親による心理的な圧迫も、長期間続いていた可能性があります」

 

ドラえもんは、両手を握りしめた。

 

「そんな……」

 

脳裏に浮かぶのは、昔ののび太だった。

 

宿題を忘れて泣きついてくる。

 

ジャイアンにいじめられて逃げてくる。

 

しずかちゃんと遊びたいのに、恥ずかしくて素直になれない。

 

失敗しても、何度でも立ち上がろうとする。

 

そんな、どうしようもなく不器用で、優しい少年。

 

「……ぼくが、そばにいてあげられなかったから……」

 

ドラえもんは、俯いた。

 

「ぼくが、あのとき……もっと強く抵抗していれば……」

 

職員が口を開いた。

 

「ドラえもんさん。あなたに責任のすべてがあるわけではありません。現在の状況を正確に把握し、必要な対応を考えるべきです」

 

「……分かってるよ」

 

ドラえもんは顔を上げた。

 

「でも、のび太くんは……ずっと一人だったんだ」

 

声が震えていた。

 

「ぼくがいなくなったあと、誰も助けてあげられなかったんだ……」

 

ドラえもんは、モニターに表示された野比家の系譜を見つめた。

 

のび太の子孫たちは、存在そのものが不安定になっている。

 

このままでは、未来の歴史に重大な影響が及ぶ可能性がある。

 

しかし、それ以上に彼の心を動かしたのは、たった一つの事実だった。

 

のび太が、今も生きている。

 

そして、苦しんでいる。

 

「……ぼく、行くよ」

 

ドラえもんは立ち上がった。

 

「ドラえもんさん、待ってください! 過去への干渉には、正式な手続きが――」

 

「分かってる。でも、今度こそ、のび太くんを一人にしたくないんだ!」

 

彼は、未来の技術部門へ向かった。

 

必要な許可を得るために。

 

過去へ向かう手段を確保するために。

 

そして、何より。

 

かつて置き去りにしてしまった友達に、もう一度会うために。

 

第17話 再会のとき

数日後。

 

病院の個室。

 

のび太は、窓辺の椅子に座っていた。

 

医師からは、休養を続けるよう指示されていた。

 

仕事の連絡は遮断され、母親との連絡も、治療に支障が出ないよう医療スタッフと相談しながら調整されていた。

 

それでも、のび太の心は休まらなかった。

 

何もしていない時間が怖い。

 

何も生み出していない自分が怖い。

 

母親の期待に応えられない自分が怖い。

 

彼は、膝の上で両手を握りしめた。

 

「……何か、しなければ」

 

そう呟いたときだった。

 

部屋の外が、にわかに騒がしくなった。

 

「えっ? 患者さんの面会ですか?」

 

看護師の声が聞こえる。

 

「はい! どうしても、会わなければならないんです!」

 

聞き覚えのある声。

 

しかし、のび太には、それが誰の声なのか分からなかった。

 

扉が開く。

 

看護師の後ろから、青い影が姿を現した。

 

丸い体。

 

大きな鈴。

 

白い手。

 

そして、優しい目。

 

「……のび太くん」

 

その声を聞いた瞬間、のび太の身体が硬直した。

 

「……え?」

 

ドラえもんは、一歩ずつ近づいた。

 

「久しぶりだね……のび太くん」

 

のび太は、彼を見つめた。

 

記憶の奥底で、何かが揺れた。

 

青いロボット。

 

いつも自分のそばにいた存在。

 

泣いたときに慰めてくれた。

 

失敗したときに助けてくれた。

 

どんなに駄目な自分でも、見捨てなかった。

 

「……ドラ、えもん?」

 

声が掠れた。

 

ドラえもんは、涙を浮かべながら頷いた。

 

「うん……。ぼくだよ」

 

のび太は、椅子から立ち上がろうとした。

 

しかし、足に力が入らなかった。

 

「どうして……?」

 

彼の声が震えた。

 

「どうして、ここに……?」

 

「会いに来たんだよ」

 

ドラえもんは、のび太の前で立ち止まった。

 

「ずっと、会いたかったんだ。ずっと……君に会いたかった」

 

のび太は、何かを言おうとした。

 

謝りたかったのかもしれない。

 

どうして今まで来なかったのかと、責めたかったのかもしれない。

 

それとも、ただ、そばにいてほしいと伝えたかったのかもしれない。

 

けれど、言葉が出てこなかった。

 

「……ぼくは」

 

声が震える。

 

「ぼくは……」

 

ドラえもんは、何も急かさなかった。

 

ただ、そこにいた。

 

かつてと同じように。

 

のび太が言葉を見つけるまで、待っていた。

 

そして。

 

「……ごめん、なさい」

 

のび太の目から、一粒の涙がこぼれた。

 

「ぼく……ちゃんと、できなかった……」

 

ドラえもんは、目を見開いた。

 

「お母さんの言う通りにしたのに……。勉強も、運動も……全部、頑張ったのに……」

 

声が震え、呼吸が乱れていく。

 

「立派な人間になったはずなのに……。仕事だって、ちゃんとできるのに……」

 

のび太は、自分の胸を押さえた。

 

「どうして……ぼく、何も感じないんだろう……」

 

涙が止まらなかった。

 

「嬉しいことがあっても、嬉しくない……。悲しいことがあっても、悲しくない……。友達にも会えなくなって……。ドラえもんがいなくなって……」

 

彼は、顔を覆った。

 

「ぼく……どうしたらよかったの……?」

 

ドラえもんは、のび太を抱きしめた。

 

「……もういいんだよ」

 

「……っ」

 

「もう、頑張らなくていいんだよ。今は、何もできなくてもいい。立派じゃなくてもいい。仕事ができなくてもいい」

 

ドラえもんの声も、涙で震えていた。

 

「君は、のび太くんなんだから」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

のび太の中で、何かが崩れた。

 

ずっと押し殺してきたもの。

 

何年も、何十年も、見ないふりをしてきたもの。

 

誰にも言えなかった寂しさ。

 

誰にも見せられなかった恐怖。

 

誰にも気づいてもらえなかった苦しみ。

 

それらが、一気に溢れ出した。

 

「……うわあああああああっ!」

 

のび太は、ドラえもんにしがみついて泣いた。

 

子供のように。

 

何もできなかった、あの頃のように。

 

「ドラえもん……! ドラえもん……!」

 

「うん……! ここにいるよ……!」

 

「ずっと……ずっと、会いたかった……!」

 

「うん……!」

 

「ぼく……一人だったんだ……! ずっと……一人だったんだよ……!」

 

ドラえもんは、のび太を強く抱きしめた。

 

「ごめんね……。遅くなって、ごめんね……」

 

「ぼく……もう、どうしたらいいか分からない……!」

 

「大丈夫だよ……。今は、何も考えなくていいんだ」

 

のび太は、泣き続けた。

 

何も感じなくなったと思っていた心が、激しく痛んでいた。

 

それは、苦しい痛みだった。

 

けれど同時に、何年も凍りついていたものが、少しずつ溶け始めた証でもあった。

 

部屋の外では、しずか、ジャイアン、スネ夫が、静かに立っていた。

 

三人とも、涙を流していた。

 

しずかは、扉の向こうから聞こえる泣き声に、そっと目を閉じた。

 

「……よかった」

 

彼女は、震える声で呟いた。

 

「のび太さん……やっと、泣けたんだね……」

 

ジャイアンは、顔を背けた。

 

スネ夫は、何度も涙を拭った。

 

彼らは知っていた。

 

のび太が、これまでどれほど苦しんできたのか。

 

そして、今ようやく、誰かの前で本当の気持ちを表せたことの意味を。

 

ドラえもんは、のび太を抱きしめながら、静かに決意していた。

 

もう二度と、この友達を一人にしない。

 

もう二度と、彼が自分の気持ちを押し殺して生きることを、当たり前にさせない。

 

そして、未来の子孫たちに起きている異常についても、必ず解決する。

 

だが、今はまだ、その話をする必要はなかった。

 

今、一番大切なのは。

 

のび太が、泣いてもいいこと。

 

弱音を吐いてもいいこと。

 

何もできない自分であっても、見捨てられないこと。

 

それを、彼自身が少しずつ知っていくことだった。

 

窓の外では、夕日が沈み始めていた。

 

長い長い夜を過ごしてきた少年に、ようやく誰かの手が差し伸べられた。

 

それが、すぐにすべてを解決するわけではない。

 

失われた時間も、消えた記憶も、簡単には取り戻せない。

 

それでも。

 

のび太は、もう一人ではなかった。

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