第18話 「もう、のび太くんを傷つけさせない」
1.病院に乗り込んできた母親
「野比のび太はどこにいるの!?」
病院の静かな廊下に、女性の怒声が響き渡った。
野比玉子。
のび太の母親だった。
息子が重度のうつ病と診断され、入院したと聞いた玉子は、会社からの連絡を受けるなり病院へ駆けつけたのだった。
しかし、彼女の表情に心配の色はなかった。
あるのは、怒りと苛立ちだけだった。
「仕事を放り出して入院なんて、いったい何を考えているの! せっかく一流企業に就職して、将来は幹部にだってなれるところだったのに!」
受付の看護師が、困惑した様子で説明する。
「患者様は現在、治療中です。ご面会については、担当医とご相談いただかないと……」
「私はあの子の母親よ! 親が子供に会いに来て、何が悪いの!」
玉子は受付を押し切ろうとした。
そのときだった。
「そこまでだよ!」
廊下の奥から、青い体のロボットが現れた。
ドラえもんだった。
その隣には、源静香、剛田武、骨川スネ夫、そして野比のび助が立っていた。
玉子は一瞬、目を見開いた。
「……ドラえもん?」
「久しぶりだね、玉子さん」
ドラえもんの声は、いつもの穏やかなものではなかった。
「あなた……どうして現代にいるのよ!? 未来へ帰したはずでしょう!」
「未来から戻ってきたんだ」
「何ですって?」
「のび太くんに会うためにね」
玉子の顔が歪んだ。
「余計なことを……! あなたが戻ってきたせいで、あの子がまた甘えるようになったらどうするのよ!」
ドラえもんは、拳を握りしめた。
「……まだ、そんなことを言うの?」
「当然でしょう! あの子は今まで、私の言う通りに努力して立派になったのよ! それなのに、どうして入院なんか――」
「やめてください!」
しずかが声を上げた。
玉子が振り向く。
「……何よ、しずかちゃん」
「のび太さんは、ずっと苦しんでいたんです! 勉強も運動も、あなたの望む通りにできるようになるために、どれだけ自分を犠牲にしてきたか……あなたは知っているんですか!?」
「子供を立派に育てるのは親の責任でしょう!」
「立派に育てることと、心を壊すことは違います!」
しずかの叫びが廊下に響いた。
ジャイアンも、怒りを抑えきれない様子で前に出た。
「のび太がどんな思いをしてきたのか、あんたは分かってんのかよ!」
「部外者は黙っていなさい!」
「部外者だと!?」
ジャイアンが言い返そうとしたが、ドラえもんが手を伸ばして制した。
「みんな、落ち着いて」
そして、玉子を真っすぐに見つめた。
「玉子さん。あなたを、のび太くんの病室には入れられない」
「何ですって!?」
「今ののび太くんに必要なのは、安心して治療を受けられる環境なんだ。あなたが来て、また責め立てたらどうなるか分かっているでしょう?」
「私は母親よ! あの子の将来を考えているの!」
「だったら、どうしてあの子の今を見ようとしないんだ!」
ドラえもんの怒声に、玉子は一瞬、言葉を失った。
その隙に、のび助が前へ出た。
「……もう、やめてくれないか」
「あなたまで何なのよ!」
「私は、今まで何もできなかった」
のび助は、妻を見つめた。
「君がのび太を厳しく教育すると言ったとき、私は反対した。でも、君に脅されて、何も言えなくなった。父親なのに、息子を守れなかった」
拳が震えていた。
「私は、それをずっと後悔していたんだ」
「……」
「だから、もう黙っているつもりはない」
のび助は、妻の前に立ちふさがった。
「のび太には、会わせない。今は、あの子を休ませてやってくれ」
玉子は、夫を睨みつけた。
「……あなた。後悔するわよ」
「それでもいい」
のび助は、初めて妻の脅しに屈しなかった。
2.未来から告げられた、残酷な真実
「……玉子さん。ひとつ、聞いてほしいことがあるんだ」
ドラえもんが口を開いた。
「何よ」
「ぼくは未来で、のび太くんの子孫について調べてきた」
玉子の眉が動いた。
「子孫?」
「そう。未来の歴史記録には、本来ならのび太くんの子孫が存在しているはずだった。でも、ぼくが確認した記録では……その系譜が途絶えていたんだ」
「……どういうこと?」
ドラえもんは、静かに答えた。
「のび太くんが、過労で亡くなっていたんだよ」
廊下の空気が凍りついた。
しずかが息を呑み、スネ夫は口元を押さえた。
のび助は、顔を青ざめさせた。
「……亡くなった?」
玉子だけが、信じられないという顔でドラえもんを見つめていた。
「そんなはずないわ。あの子は健康診断で問題が見つかっただけでしょう? 治療して、仕事に復帰すればいいじゃない!」
「違うんだ!」
ドラえもんは声を荒らげた。
「未来で確認した記録では、のび太くんは限界まで働き続けて、倒れてしまったんだ! 休むことも、誰かに助けを求めることもできないまま、自分を追い詰め続けて……!」
ドラえもんの目から涙がこぼれた。
「その結果、命を落としたんだよ!」
玉子は口を閉ざした。
「そして、のび太くんの子孫も存在しなくなった。彼が築くはずだった家庭も、その先に続く未来も……全部、失われていたんだ」
「……」
「ぼくは、その歴史を変えるために戻ってきたんだ」
ドラえもんは、玉子に向かって言った。
「のび太くんを助けるために!」
しかし、玉子はしばらく沈黙したあと、信じられない言葉を口にした。
「……だから何だというの?」
「え……?」
「あなたの話が本当だとしても、あの子が自分の体調管理もできずに倒れるような人間だったということでしょう?」
「玉子さん……!」
「私は、あの子を立派な人間に育てたのよ! 勉強も運動もできるようになったし、一流企業にだって入った! それなのに、仕事がつらいからといって逃げ出すなんて……!」
「逃げ出す?」
ドラえもんの声が低くなった。
「のび太くんは、何年も休まず働いていたんだよ。眠れなくても、食べられなくても、心が苦しくても……あなたの期待に応えるために!」
「それが何だというの!」
玉子は、顔を真っ赤にして叫んだ。
「社会人なら当たり前でしょう! つらいことがあっても耐えるのが大人なのよ! あの子はまだまだ努力が足りないの!」
その瞬間。
ドラえもんの中で、何かが切れた。
3.ドラえもんの怒り
「……いい加減にしろ」
それは、今まで誰も聞いたことのないような声だった。
玉子が目を見開く。
ドラえもんは、ゆっくりと一歩前へ進んだ。
「あなたは……本当に、何も分かっていないんだね」
「な、何ですって?」
「のび太くんは、あなたに褒めてほしかっただけなんだよ」
ドラえもんの目には、涙と怒りが入り混じっていた。
「勉強ができなくても、運動が苦手でも、失敗しても……ただ、お母さんに『頑張ったね』って言ってほしかっただけなんだ!」
玉子は黙っていた。
「でも、あなたはあの子を責め続けた! 友達を奪った! ぼくまで未来へ追い返した! あの子が自分の気持ちを話すことさえ、許さなかった!」
ドラえもんの声が震える。
「それでも、のび太くんはあなたの言う通りに努力したんだ! あなたに認めてもらうために、ずっと、ずっと……!」
彼は涙を拭うこともなく、続けた。
「そして、ようやく立派になった頃には、自分が何を好きだったのかも、何をしたかったのかも、分からなくなってしまったんだ!」
しずかは泣いていた。
ジャイアンは唇を噛み、スネ夫は拳を握りしめていた。
のび助は、俯いたまま震えていた。
「……それなのに、あなたは今も、あの子を責めるのか?」
ドラえもんは、玉子の目を見据えた。
「あなたは、のび太くんを育てたんじゃない。自分の望む人間になるように、あの子の人生を支配してきただけだ!」
「黙りなさい!」
玉子が叫ぶ。
「私は母親よ! あの子のためにやってきたの! あなたなんかに、何が分かるの!」
「分かるよ!」
ドラえもんは、強く言い返した。
「ぼくは、のび太くんと一緒に暮らしてきたんだ! あの子がどんな子なのか、誰よりも知っているつもりだ!」
ドラえもんの声が、少しだけ優しくなった。
「のび太くんは、失敗ばかりする子だった。泣き虫で、怠け者で、時々ずるいこともする。でもね……誰かが困っていたら、放っておけない子だったんだ」
涙が頬を伝う。
「自分が怖くても、友達のために立ち上がろうとする。自分が苦しくても、誰かを助けようとする。そんな優しい子だったんだよ……」
ドラえもんは、拳を握りしめた。
「あなたは、その子から何もかも奪ってしまった!」
玉子は、反論しようとした。
しかし、ドラえもんはそれ以上、彼女に話を続けさせなかった。
「……もう、ぼくはあなたを説得しようとは思わない」
ドラえもんは、ポケットから一つの小型端末を取り出した。
「未来で、あなたに関する記録を集めてきたんだ」
「……記録?」
「あなたがのび太くんに何をしてきたのか。ぼくを無理やり未来へ帰したこと。タイムマシンにつながる引き出しを処分したこと。のび太くんへの脅迫や、のび助さんへの脅し。関係者の証言も、記録も、できる限り集めてきた」
玉子の顔が強張った。
「な、何をするつもり……?」
「警察に提出する」
ドラえもんは、はっきりと言った。
「あなたの行為が法律に照らしてどう判断されるか、きちんと調べてもらうんだ」
4.隠されていた証拠
その後、ドラえもんは、のび助としずかたちの協力を得て、関係機関への通報と証拠の提出を進めた。
もちろん、未来の記録だけで現代の犯罪を立証できるわけではない。
ドラえもんは、未来で集めた情報を手がかりとして、現代に残されていた資料や証言を探し出した。
のび助が長年、密かに残していた日記。
玉子から脅迫を受けた際の記録。
当時の教育記録や、過度な訓練の実態を知る関係者の証言。
のび太の健康状態の変化を示す医療記録。
そして、のび太が友人たちと疎遠になった経緯についての証言。
それらは一つひとつ確認され、捜査機関へ提出された。
警察は、玉子の行為について捜査を開始した。
当初、玉子はすべてを否定した。
「私は、息子を立派に育てようとしただけです!」
「教育のためだったんです!」
「家族の問題に、警察が口を出すことではありません!」
しかし、捜査が進むにつれて、彼女の説明には矛盾が見つかった。
のび助への脅迫についても、本人の証言や記録をもとに、具体的な事実関係が調べられた。
さらに、のび太への行為が長期間にわたって続いていたことも、複数の証言から明らかになっていった。
やがて、捜査機関は、玉子の行為について刑事責任を問うべき疑いがあると判断した。
そして、彼女は逮捕された。
連行される直前、玉子は病院の廊下でドラえもんを睨みつけた。
「あなたのせいよ……!」
ドラえもんは、黙って彼女を見つめていた。
「あなたが余計なことをしたから、こんなことになったのよ! 私は母親なのに! 私は、あの子のために……!」
「……玉子さん」
ドラえもんは、静かに答えた。
「あなたが本当にのび太くんのために行動していたのなら、あの子が苦しんでいることに気づけたはずだよ」
「……!」
「でも、あなたは気づこうとしなかった。あの子が何を感じているのか、何を望んでいるのか、知ろうともしなかった」
ドラえもんは、目を伏せた。
「ぼくは、あなたを許せない」
その言葉には、怒鳴り声よりも深い悲しみが込められていた。
「でも……ぼくが一番心配なのは、あなたがこれからどうなるかじゃない。のび太くんが、これからどう生きていけるかなんだ」
玉子は、何も言えなかった。
警察官に促され、彼女は連行されていった。
病院の廊下には、静けさが戻った。
のび助は、壁に手をつき、深く息を吐いた。
「……終わったのか」
ドラえもんは、首を横に振った。
「いいや。まだだよ」
「……え?」
「玉子さんがいなくなったからって、のび太くんの心がすぐに元に戻るわけじゃない」
ドラえもんは、病室の扉を見つめた。
「これからなんだ。ぼくたちが、本当にのび太くんを助けられるかどうかは」
5.裁判、そして判決
それから、長い時間が流れた。
捜査と裁判を通じて、玉子が行ってきたことの全容が明らかになっていった。
彼女は、息子の教育を理由に、長期間にわたって自由を奪い、心理的な圧迫を加えていた。
のび太が自分の意思を示すことを許さず、友人との交流を断ち、家庭内で逆らうことが困難な状況を作り出していた。
夫に対する脅迫についても、裁判で厳しく追及された。
玉子は最後まで、自分の行為を正当化しようとした。
「私は、息子を立派に育てようとしただけです」
法廷で、彼女は何度もそう主張した。
「教育が厳しすぎたというなら、反省します。でも、私が息子を愛していたことまで否定されるのはおかしいでしょう!」
しかし、裁判では、彼女の主張だけでなく、実際に何が行われたのか、被害がどのように生じたのかが慎重に検討された。
愛情を自称することと、相手を傷つける行為の責任を負うことは、別の問題だった。
最終的に、玉子には複数の重大な犯罪について有罪判決が下された。
その刑罰は、長期にわたる自由の剥奪を伴う、極めて重いものとなった。
物語上のこの世界では、玉子は終身刑を言い渡される。
判決が読み上げられたとき、彼女は呆然としていた。
「……終身刑?」
自分が、もう自由に暮らせなくなる。
息子に会うことも、以前のように生活を支配することもできない。
彼女は初めて、自分の行動によって取り返しのつかない結果が生じたことを突きつけられた。
「そんな……私は……」
しかし、法廷で彼女の言葉を聞いてくれる人は、もういなかった。
玉子は刑務所へ移送されることになった。
その知らせを聞いても、のび太は大きな反応を示さなかった。
病室のベッドに座り、ただ静かに聞いていた。
「……そうですか」
それだけだった。
怒りも、喜びも、安堵も。
すぐには感じられなかった。
母親がいなくなった。
自分を責め続けてきた人が、もう目の前にはいない。
それなのに、のび太の心は軽くならなかった。
長い間、恐怖の中で生きてきた心は、相手がいなくなったからといって、すぐに自由になれるわけではない。
のび太は、窓の外を見つめた。
「……ぼくは、これからどうすればいいんでしょう」
その問いに、すぐ答えられる者はいなかった。
6.遅すぎた救出
その夜。
病院の面会室には、ドラえもん、しずか、ジャイアン、スネ夫、のび助が集まっていた。
のび太は、少し離れた椅子に座っていた。
ドラえもんは、彼の隣に腰を下ろした。
「のび太くん」
「……何?」
「これから、少しずつ治療を続けていこう。仕事のことも、家のことも、今は考えなくていいんだ」
「でも……」
「大丈夫。お父さんも、しずかちゃんたちもいる。ぼくも、ここにいるよ」
のび太は、ドラえもんを見つめた。
「……ドラえもん」
「なあに?」
「ぼく……もう、昔みたいには戻れないのかな」
ドラえもんは、答えに詰まった。
のび太が過ごしてきた年月は、あまりにも長かった。
何十年にもわたる過度な圧迫。
自分の気持ちを押し殺す生活。
人間関係の断絶。
心身の限界を超えて働き続けた日々。
それらによって失われたものは、決して少なくない。
昔のように笑えるようになるまで、どれほどの時間が必要なのか。
再び誰かを信頼できるようになるのか。
自分の好きなものや望みを取り戻せるのか。
誰にも、確かなことは言えなかった。
それでも、ドラえもんは答えた。
「……昔とまったく同じにはならないかもしれない」
のび太は俯いた。
「でもね、のび太くん」
ドラえもんは、そっと彼の手に触れた。
今度は、のび太も手を引かなかった。
「これからの君が、幸せになれないと決まったわけじゃないんだ」
「……」
「君は、今までずっと、誰かの望む人間になろうとしてきた。でも、これからは違う」
ドラえもんは、微笑んだ。
「君が何を好きなのか。何をしたいのか。どんな生活を送りたいのか。それを、ゆっくり探していこう」
しずかが、そっと口を開いた。
「私たちも、一緒に考えるわ」
ジャイアンも頷いた。
「そうだ。今度は俺たちが、お前を一人にしない」
スネ夫は、涙を拭った。
「……無理に元気にならなくていいからね。話したくないときは、話さなくてもいいんだ」
のび助は、息子の前に座った。
「のび太……」
彼の声は震えていた。
「本当に、すまなかった。私は父親なのに、お前を守れなかった」
のび太は、父親を見つめた。
「……お父さん」
「これからは、私も一緒にいる。お前が何もできなくても、働けなくても、私はお前の父親だ」
のび助は、涙を流した。
「もう、誰かの期待に応えるためだけに生きなくていいんだ」
のび太は、何も言わなかった。
けれど、その目から、一筋の涙がこぼれた。
「……ぼく」
声が震えた。
「ぼく、何がしたいのか……分からないんだ」
「うん」
ドラえもんは頷いた。
「今は、分からなくてもいいよ」
「何をしても、怒られないの……?」
しずかは、涙をこらえながら答えた。
「ええ。少しずつでいいのよ」
「……失敗しても?」
ジャイアンが、強く頷いた。
「当たり前だろ!」
「……何もできなくても?」
スネ夫は、微笑んだ。
「それでも、僕たちは友達だよ」
のび太は、俯いた。
そして、ゆっくりと泣き始めた。
それは、母親に叱られたときの涙ではなかった。
誰かに責められるのが怖くて流した涙でもなかった。
自分が何を感じているのか、まだ分からない。
それでも、自分を責めない人たちが、ここにいる。
その事実に触れて、ようやく流れ出した涙だった。
ドラえもんは、のび太を抱きしめた。
「大丈夫だよ、のび太くん」
「……うん」
「これからは、ぼくたちと一緒に生きていこう」
のび太は、ドラえもんの胸に顔を埋めた。
「……うん」
その返事は、とても小さかった。
けれど、そこには、ほんのわずかに彼自身の意思が宿っていた。
7.未来を変えるために
数日後。
ドラえもんは、未来のタイムパトロールと連絡を取っていた。
「……やっぱり、歴史記録は変わり始めている」
端末には、野比家の系譜が表示されていた。
のび太の子孫たちの記録は、以前よりも安定しつつあった。
しかし、すべてが解決したわけではない。
のび太はまだ治療の途中だった。
長年にわたって失われてきた感情や、人との関係を取り戻すには、時間が必要だった。
彼が自分の人生を選べるようになるのか。
仕事から離れ、自分の望む暮らしを築けるのか。
誰かを信頼し、愛し、家庭を持ちたいと思えるようになるのか。
それは、まだ分からない。
未来の歴史も、完全には確定していなかった。
「……ドラえもん」
背後から、のび太の声が聞こえた。
振り返ると、彼が車椅子ではなく、自分の足でゆっくりと歩いてきていた。
まだ体力は戻っていない。
顔色も良いとは言えない。
それでも、彼は少しずつ、病棟の中を歩く練習を始めていた。
「どうしたんだい、のび太くん?」
「……ぼくも、未来を見てみたい」
ドラえもんは、目を見開いた。
「未来を?」
「うん。ぼくの子孫が、本当にいるのか……知りたいんだ」
のび太は、窓の外を見つめた。
「もし、ぼくがこのまま何もできなかったら……未来は、また変わってしまうのかな」
ドラえもんは、首を横に振った。
「のび太くん。君は、未来を守るためだけに生きなくてもいいんだよ」
「……え?」
「君の子孫がどうなるかは、確かに大切なことかもしれない。でも、それよりも大切なのは、君自身が生きていることなんだ」
ドラえもんは、微笑んだ。
「君が幸せになるために、未来を変えよう。未来を守るために、君が無理をする必要はないんだ」
のび太は、しばらく考えていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
その顔に、ほんのわずかな変化が浮かんだ。
それは、昔のような満面の笑顔ではなかった。
まだ、ぎこちなく、頼りない表情だった。
それでも。
ドラえもんには、それが何よりも嬉しかった。
「……のび太くん」
「なに?」
「おかえり」
のび太は、少しだけ目を見開いた。
そして、小さな声で答えた。
「……ただいま、ドラえもん」
その言葉を聞いた瞬間、ドラえもんの目から涙がこぼれた。
遅すぎた救出だった。
失われた年月は戻らない。
かつての少年が抱いていた夢も、友情も、笑顔も、すべてを元通りにすることはできないかもしれない。
それでも。
これからの人生まで、奪わせるわけにはいかなかった。
ドラえもんは、決意を新たにした。
のび太が、自分の人生を取り戻せるように。
もう一度、何かを好きになれるように。
誰かを信頼できるように。
そして、いつの日か。
自分の意思で笑えるように。
「……今度こそ、君を守るからね」
ドラえもんの言葉に、のび太は静かに頷いた。
窓の外には、青い空が広がっていた。
長く暗い日々を過ごしてきた少年にとって、それは、久しぶりに見る穏やかな景色だった。
まだ、未来は分からない。
けれど、少なくとも今は。
のび太の隣に、ドラえもんがいた。
そして、彼を支えようとする仲間たちがいた。
――物語は、ここから新しい未来へと進み始める。