もしものび太のお母さんが毒親になったら   作:武藤 桜

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第五章「色あせた世界、変わらない過去」

第19話 モノクロの人生と、消えかけた心

 病院での生活が始まってから、しばらくの時間が過ぎた。

 

 のび太は少しずつ、治療を受け入れるようになっていた。

 

 もちろん、劇的な変化があったわけではない。

 

朝、目を覚ます。

 医師の診察を受ける。

 食事を摂る。

 カウンセリングを受ける。

 疲れたら休む。

 

 それだけのことさえ、今ののび太には難しかった。

 

 何かを尋ねられても、すぐに答えられない。

 

何が食べたいのか。

 何をしたいのか。

 今日はどんな気分なのか。

 

 そんな、ごく当たり前の質問にすら、のび太は長い時間を必要とした。

 

「……わからない」

 

 それが、彼の口癖だった。

 

 医師は急かさなかった。

 

 ドラえもんも、パパも、しずかちゃん達も、答えを無理に引き出そうとはしなかった。

 

 ただ、そばにいた。

 

のび太が黙っていても。

 何も話さなくても。

 笑顔を見せなくても。

 

 そこにいることを、認め続けた。

 

 それが、長い間「何かを成し遂げなければ価値がない」と教え込まれてきたのび太にとって、初めて経験する時間だった。

 

 そしてある日、医師から短時間の外出を勧められた。

 

 気分転換を兼ねて、信頼できる人と一緒に外を歩いてみる。

 

 その提案に、のび太は少し考えたあと、静かに答えた。

 

「……行ってみたいところがあるんだ」

 

「どこだい?」

 

 ドラえもんが尋ねる。

 

「昔、みんなと遊んだところ」

 

 その言葉に、ドラえもんは目を見開いた。

 

 のび太自身も、驚いているようだった。

 

「……まだ、覚えているのかな。僕」

 

「覚えているさ」

 

 ドラえもんは、泣きそうになるのをこらえながら微笑んだ。

 

「ゆっくり探しに行こう。のび太くんのペースでね」

 

     ◇

 

 最初に訪れたのは、町の空き地だった。

 

 かつて、のび太、ドラえもん、ジャイアン、スネ夫、しずかちゃんが集まって遊んでいた場所。

 

 今では周囲の建物も変わり、昔の面影は少なくなっていた。

 

 それでも、空き地の隅に残る古い土管を見た瞬間、のび太は足を止めた。

 

「……あ」

 

「どうしたの、のび太さん?」

 

 隣にいたしずかが、心配そうに顔を覗き込む。

 

「ここ……」

 

 のび太は土管に近づき、そっと表面に触れた。

 

「ここで、よく昼寝してたんだ。ジャイアンに追いかけられて、スネ夫にからかわれて……ドラえもんに泣きついて」

 

「おいおい。最後のは余計だろ、のび太」

 

 ジャイアンが苦笑する。

 

「そうそう。君は本当にすぐドラえもんに頼っていたよね」

 

 スネ夫も、昔を思い出すように笑った。

 

「でも、結局はみんなで遊んでたんだよな」

 

 ジャイアンの言葉に、スネ夫は少しだけ目を伏せた。

 

「……ああ」

 

 彼らの間に、短い沈黙が流れた。

 

 昔は当たり前だった時間。

 

 くだらないことで笑い、時には喧嘩をし、夕方になれば家へ帰った。

 

 そんな日々が、のび太にはあった。

 

 だが、ある日を境に、すべてが変わった。

 

「……変だな」

 

 のび太が呟いた。

 

「何が?」

 

 ドラえもんが尋ねる。

 

「ここに来れば、何か思い出せると思ったんだ。でも……」

 

 のび太は土管から手を離した。

 

「楽しかったはずなのに、楽しかったっていう感じがしないんだ」

 

 しずか達の表情が曇る。

 

「覚えてはいるんだ。みんなと遊んだことも、ドラえもんが道具を出してくれたことも。だけど、それを思い出しても、頭の中に写真が浮かぶだけみたいで……」

 

 のび太は自分の胸に手を当てた。

 

「ここが、何にも動かないんだ」

 

 その言葉に、誰もすぐには返事ができなかった。

 

「……まるで、他人の思い出みたいなんだよ」

 

 のび太は寂しそうに笑った。

 

「僕の記憶なのにね」

 

 ドラえもんは、のび太の手を握った。

 

「今はそれでもいいんだよ」

 

「え……?」

 

「思い出したことを、すぐに楽しいって感じられなくてもいい。何も感じなくてもいい。無理に笑おうとしなくていいんだ」

 

 ドラえもんは、のび太の目を見つめた。

 

「これから、もう一度みんなと時間を過ごせばいいんだよ。昔と同じにならなくたっていい。今ののび太くんとして、少しずつね」

 

 のび太は黙っていた。

 

 それから、ほんのわずかに頷いた。

 

     ◇

 

 次に訪れたのは、学校へ向かう通学路だった。

 

角を曲がった先にある坂道。

 遅刻しそうになって何度も駆け下りた道。

 転んでランドセルの中身をぶちまけた場所。

 

 その一つ一つを見ながら、のび太はぽつぽつと昔のことを話した。

 

「ここで転んだとき、ドラえもんに道具を出してもらったんだ」

 

「そうそう。あのときは大変だったねえ」

 

「あと、あそこの家の犬に追いかけられたこともあった」

 

「のび太さん、昔から動物には好かれていたのにね」

 

「……あの犬は、僕のことを嫌いだったと思うよ」

 

 そんなやり取りの中で、しずかはふと気づいた。

 

 のび太が、ほんの少しだけ、自分から話をするようになっていた。

 

 以前のように、無表情のまま質問に答えるだけではない。

 

 自分の記憶を探り、言葉にしようとしている。

 

 それがどれほど小さな変化であっても、しずか達には嬉しかった。

 

 けれど、彼らはまだ知らなかった。

 

 のび太が思い出しているのは、楽しかった日々だけではないことを。

 

     ◇

 

 夕方。

 

 外出を終え、病院へ戻る途中だった。

 

 近くの公園のベンチに腰掛けたのび太は、しばらく夕焼けを眺めていた。

 

「……ねえ、ドラえもん」

 

「何だい?」

 

「僕さ。ドラえもんがいなくなってからのこと、少しずつ思い出してきたんだ」

 

 ドラえもんの表情から笑みが消えた。

 

「……うん」

 

「最初は、よく覚えていないんだ。いつから勉強ばかりするようになったのか。いつから運動までさせられるようになったのか。何を言われて、何を考えていたのか……」

 

 のび太は自分の膝を見つめた。

 

「ただ、気づいたら毎日、勉強してた」

 

 淡々とした声だった。

 

「朝、起きて勉強。学校から帰って勉強。食事をして、勉強。運動をして、また勉強。寝る時間になっても、終わってなかったら続ける」

 

 しずかが唇を噛んだ。

 

「お母さんに怒られないように、言われたことをやった。できなかったら、できるまでやった。できても、もっとやらされた」

 

 のび太は少しだけ首を傾げた。

 

「……あれ? 僕、何を考えてたんだろう」

 

 誰に尋ねるでもなく、呟く。

 

「嫌だったのかな。怖かったのかな。それとも、いつか終わるって思ってたのかな」

 

 答えは出なかった。

 

「何も思い出せないんだ。毎日何を考えて、何を楽しみにしていたのか」

 

 のび太は夕焼けに目を向けた。

 

「ただ、明日も怒られないようにしようって。それだけだった気がする」

 

 ドラえもんの拳が震えた。

 

 自分がいなくなったあと、のび太がどんな日々を送っていたのか。

 

 記録で知っていた。

 

 未来の資料で、ある程度は把握していた。

 

 だが、本人の口から聞く言葉は、記録とはまるで違った。

 

 そこには、数字にも文章にもできない、奪われた時間があった。

 

「……食事も、そうだった」

 

 のび太は続けた。

 

「何を食べても、味がしなかったんだ」

 

「味が……?」

 

 スネ夫が聞き返す。

 

「うん。おいしいとか、まずいとか、そういうのがなかった。お腹が空いたから食べる。食べなかったら怒られるから食べる。それだけ」

 

 のび太は、まるで誰かの人生を説明するように語った。

 

「夏休みも、クリスマスも、お正月も……いつもと同じだった。特別な日だって言われても、何が特別なのかわからなかった」

 

「のび太……」

 

 ジャイアンの声が掠れた。

 

「仕事をするようになってからも同じだったよ。朝起きて、会社に行って、仕事をして、帰って、眠る。休みの日も仕事のことを考えてた」

 

 のび太は、ゆっくりと言葉を選んだ。

 

「何かを達成しても、嬉しくなかった。褒められても、何も感じなかった。失敗したら、次は失敗しないようにする。それだけだった」

 

 そして、ぽつりと口にした。

 

「……世界が、白黒だったんだ」

 

 全員が息を呑んだ。

 

「目で見える景色は、ちゃんと色がついてるんだよ。でも、僕の中では何もかも灰色だった。花が咲いても、空が晴れても、きれいだと思わなかった。誰かが笑っていても、どうして笑っているのかわからなかった」

 

 のび太は、微かに笑った。

 

 しかし、その笑顔はあまりにも寂しかった。

 

「僕、いつからこんなふうになったんだろうね」

 

 誰も答えられなかった。

 

 しずかは俯き、両手をぎゅっと握り締めた。

 

 ジャイアンは顔を背けた。

 

 スネ夫は眼鏡を外し、目元を押さえた。

 

 ドラえもんは、のび太の隣に座ったまま、ただその手を握っていた。

 

「……ごめんね」

 

 やがて、ドラえもんが呟いた。

 

「ドラえもん?」

 

「僕が、もっと早く戻ってこられたら……」

 

「違うよ」

 

 のび太は、静かに首を横に振った。

 

「ドラえもんのせいじゃない」

 

 その声には、怒りも恨みもなかった。

 

 ただ、長い間押し殺してきた感情が、少しずつ形を取り戻そうとしていた。

 

「……でもさ」

 

 のび太は、ドラえもんの手を握り返した。

 

「もう一度、みんなと話せるようになったのは……よかったと思う」

 

 その一言に、ドラえもんは顔を伏せた。

 

 涙が零れそうだった。

 

     ◇

 

 それから、のび太としずか達は、少しずつ交流を深めていった。

 

 病院の面会時間に訪れ、他愛のない話をする。

 

学校で起きた昔の騒動。

 ジャイアンの歌。

 スネ夫の自慢話。

 しずかが大切にしていた人形。

 

 最初、のび太はほとんど反応しなかった。

 

 けれど、何度も話を聞くうちに、ほんの少しずつ表情が変わっていった。

 

「……ジャイアンの歌は、昔からひどかったよね」

 

「なっ……おい、のび太! そりゃどういう意味だ!」

 

「そのままの意味だよ」

 

「言ったな、この野郎!」

 

 ジャイアンがわざと怒ったふりをすると、のび太は小さく笑った。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 だが、しずか達は見逃さなかった。

 

「……今、笑ったわね」

 

 しずかが嬉しそうに言うと、のび太は戸惑った。

 

「え? そうかな」

 

「うん。笑ったよ」

 

「……そっか」

 

 のび太は、自分の頬に触れた。

 

 笑うということを、長い間忘れていた。

 

 笑ったあと、どうすればいいのかさえわからなかった。

 

 それでも、彼らは急かさなかった。

 

 やがて、しずかが昔と同じように呼びかけた。

 

「ねえ、のび太さん」

 

「……うん?」

 

「昔みたいに、私たちのことを呼んでくれない?」

 

 のび太は目を瞬かせた。

 

「昔みたいに?」

 

「うん。私たち、ずっとあなたのことを『のび太さん』って呼んでいたでしょう? でも、あなたは……」

 

 しずかは、少しだけ恥ずかしそうに笑った。

 

「昔は、私のことを『しずかちゃん』って呼んでくれたわ」

 

 のび太は、彼女の顔をじっと見つめた。

 

 そして、ゆっくりと口を開いた。

 

「……しずかちゃん」

 

 その呼び方を聞いた瞬間、しずかの目から涙が溢れた。

 

「うん……!」

 

 ジャイアンも、鼻をすすりながら胸を張った。

 

「俺だって、昔みたいに呼んでくれていいんだぞ。ジャイアンってな!」

 

「……たけし君、じゃなくて?」

 

「そこはジャイアンだろうが!」

 

「ふふっ……」

 

 のび太が、また笑った。

 

「ジャイアン」

 

「おう!」

 

「スネ夫」

 

「うん……!」

 

 スネ夫は、笑おうとしたのに、涙が出てしまった。

 

「ドラえもん」

 

「……なあに、のび太くん」

 

「みんな、来てくれてありがとう」

 

 その言葉は、まだぎこちなかった。

 

 けれど、そこには確かに、のび太自身の気持ちがあった。

 

 彼らは、少しずつ昔の呼び名を取り戻していった。

 

 それは、かつての関係を完全に取り戻したという意味ではない。

 

 過ぎ去った時間は戻らない。

 

 傷も、簡単には消えない。

 

 それでも、もう一度、友達として向き合うことはできる。

 

 誰かに命じられたからではなく。

 

 誰かに認められるためでもなく。

 

 ただ、一緒にいたいから。

 

 その小さな変化を、彼らは大切にしていた。

 

     ◇

 

 だが、心の傷は、楽しい思い出だけを連れてくるわけではなかった。

 

 ある日の午後。

 

 のび太は、病院の面談室でカウンセリングを受けていた。

 

 医師は、のび太が過去について話せる範囲を少しずつ確認していた。

 

 その日は、母親による教育が始まった頃の記憶について話題が及んだ。

 

「無理に思い出そうとしなくて大丈夫です。話したくないことは、話さなくてもいいんですよ」

 

 医師は穏やかな声で言った。

 

「……はい」

 

 のび太は頷いた。

 

「お母さんが、勉強を厳しくするようになった頃のことは、何か覚えていますか?」

 

 その問いに、のび太の指が止まった。

 

 何かが、頭の奥で引っかかった。

 

 机。

 

 教科書。

 

 鉛筆。

 

 そして――母親の声。

 

『何をぼんやりしているの!』

 

 のび太の呼吸が、一瞬止まった。

 

『こんな問題もできないの?』

 

 耳の奥で、声が蘇る。

 

『あなたのためにやっているのよ!』

 

 目の前の面談室が、ぐらりと歪んだ。

 

「……あ」

 

 のび太は顔を上げた。

 

「どうしました?」

 

 医師が尋ねる。

 

「……やめて」

 

「のび太さん?」

 

「やめて……」

 

 視線が泳ぐ。

 

 目の前にいるのは医師なのに、のび太には別の人物が見えていた。

 

 机の向こうに立つ母親。

 

 冷たい目。

 

 叱責する声。

 

 逃げ道のない部屋。

 

『できるまでやりなさい!』

 

「やめて……ください……」

 

 のび太の手が震え始めた。

 

「もう、ちゃんとやります……! ちゃんと勉強しますから……!」

 

「のび太さん、ここは病院です。今、お母さんはいません」

 

 医師が落ち着いた声で伝える。

 

 しかし、のび太には届かなかった。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 

 呼吸が乱れ、椅子から立ち上がる。

 

「僕が悪かったです! もう失敗しません! だから……!」

 

 のび太は頭を抱えた。

 

「お願いだから、怒らないで……!」

 

 医師はすぐにスタッフを呼び、のび太が安全を保てるように距離を取りながら対応した。

 

 けれど、のび太の混乱は急激に深まっていった。

 

 彼は自分の腕を強く掴み、傷つけようとした。

 

「のび太さん、手を離しましょう。あなたを傷つける必要はありません」

 

「違う……違うんだ……!」

 

 のび太は首を振り続けた。

 

「僕が悪いんだ……! 僕がちゃんとできなかったから……!」

 

 声が裏返る。

 

「僕が、もっと頑張れば……!」

 

 何年も、何十年も、心の奥に押し込めてきた恐怖が、堰を切ったように溢れ出していた。

 

 医師とスタッフが安全を確保しようとする中、のび太は必死に逃れようとした。

 

 そして、部屋の外へ飛び出した。

 

「のび太さん!」

 

 医師が追いかける。

 

 廊下の先には、面会に来ていたドラえもん達がいた。

 

 のび太の異変に気づいたドラえもんが、真っ先に駆け寄る。

 

「のび太くん!」

 

「来ないで!」

 

 のび太は叫んだ。

 

 ドラえもんの足が止まる。

 

「来ないで……お願いだから……!」

 

 その顔には、かつて見たこともないほどの恐怖が浮かんでいた。

 

「もう頑張るから……! 何でもするから……! だから、もう怒らないで……!」

 

「のび太くん……」

 

「僕なんか、いなくなればいいんだ……!」

 

 その言葉に、しずかが息を呑んだ。

 

「のび太さん、そんなこと言わないで!」

 

 のび太は彼女の声にも反応できなかった。

 

 そのまま、逃げるように廊下の奥へ走り出した。

 

「のび太くん!」

 

 ドラえもん達は追いかけた。

 

 のび太は、自分がどこへ向かっているのかさえわかっていなかった。

 

 ただ、頭の中で母親の声が響いていた。

 

 怒られる。

 

 また怒られる。

 

 何をしても足りない。

 

 何をしても許されない。

 

 そんな恐怖から逃れたい一心で、彼は自分の命を絶とうとする危険な行動に走った。

 

「のび太くん、待って!」

 

 ドラえもんが必死に手を伸ばす。

 

 間一髪だった。

 

 ドラえもんとジャイアン、スネ夫が協力してのび太を止め、しずかがスタッフを呼んだ。

 

「離して! 離してよ!」

 

 のび太は激しく抵抗した。

 

「もう嫌だ! もう頑張れない! もう……もう、何もしたくないんだ!」

 

 その声は、子供のように悲痛だった。

 

「のび太くん、お願いだから……!」

 

 ドラえもんは、のび太を無理に責めることなく、スタッフとともに彼の安全を確保しようとした。

 

 やがて医師達が駆けつけ、のび太は安全な場所へと移された。

 

 それでも、彼の混乱はすぐには収まらなかった。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 何度も繰り返す。

 

「僕が悪かった……僕が、ちゃんとできなかったから……」

 

「違うよ、のび太くん……」

 

 ドラえもんは涙を堪えながら呼びかけた。

 

「君は悪くない。君は、もう十分すぎるほど頑張ったんだよ……!」

 

 しかし、のび太には、その言葉を受け止める余裕がなかった。

 

 医師達は、のび太の心身の状態を確認し、より手厚い治療と見守りが必要だと判断した。

 

 その日のうちに、のび太は再び入院することになった。

 

     ◇

 

 病室の前。

 

 医師から説明を受けたドラえもん達は、誰も言葉を発することができなかった。

 

「今回の出来事は、過去の強い恐怖が蘇ったことによる急激な混乱と考えられます」

 

 医師は慎重に言葉を選んだ。

 

「回復の途中で、つらい記憶が急に表面化することはあります。ですが、今回のように自分の安全を保つことが難しくなる場合には、環境を整え、専門的な治療と見守りを強化する必要があります」

 

「……のび太くんは、また苦しむんですか?」

 

 ドラえもんの声が震えた。

 

「必ず同じことが起きるとは限りません。ただ、回復には時間が必要です。今は無理に記憶を掘り起こさず、安心して過ごせる環境を作ることが大切です」

 

 ドラえもんは、深く頭を下げた。

 

「……お願いします。のび太くんを、助けてください」

 

「もちろんです。私たちも全力で支えます」

 

 医師が去ったあと、廊下には静寂が残った。

 

 しずかは、壁に手をついた。

 

「……どうして」

 

 小さな声だった。

 

「どうして、のび太さんが……こんなに苦しまなくちゃいけないの……?」

 

 涙が、頬を伝った。

 

「やっと……やっと、少しずつ笑ってくれるようになったのに……」

 

 彼女は口元を押さえた。

 

「昔みたいに名前を呼んでくれて……私達と話してくれて……これから、少しずつ取り戻せるって思ったのに……!」

 

 ジャイアンは、拳を握り締めていた。

 

 壁を殴りたい衝動を、必死にこらえていた。

 

「……くそっ」

 

 絞り出すような声だった。

 

「俺達、何にもできなかったんだな……」

 

「たけし君……」

 

「のび太があんなふうに苦しんでるのに、俺は……!」

 

 ジャイアンは顔を伏せた。

 

「昔は、あいつが泣いてたら、俺がいじめたせいだって思ってたこともあった。でも……あんなの、俺が知ってたのび太の泣き方じゃなかった……」

 

 スネ夫も、震える声で呟いた。

 

「僕達が離れたあと、ずっと一人で耐えていたんだね……」

 

 のび太が彼らを避けるようになったとき。

 

 何かおかしいと気づいていたのに、母親の言葉を信じて引き下がってしまった。

 

 大人達に相談しても、まともに取り合ってもらえなかった。

 

 それでも、もっと何かできたのではないか。

 

 その後悔が、三人の胸を締めつけていた。

 

「……でも」

 

 しずかは涙を拭った。

 

「今度こそ、そばにいたい」

 

 ジャイアンとスネ夫が顔を上げる。

 

「のび太さんが笑えなくても、話せなくても……私達のことを忘れてしまっても……」

 

 しずかは、病室の扉を見つめた。

 

「もう、あの子を一人にはしたくないの」

 

「……ああ」

 

 ジャイアンが頷く。

 

「俺もだ。あいつがどれだけ時間をかけたって、俺達は待つ」

 

「うん。今度は、勝手に離れたりしない」

 

 三人は、扉の向こうにいる友達を思った。

 

     ◇

 

 病室では、のび太がベッドに横たわっていた。

 

 医師達の判断のもと、静かで安全な環境が整えられていた。

 

 混乱の激しさは少しずつ落ち着いてきたものの、のび太の表情は青ざめ、目は虚ろだった。

 

 ベッドの脇には、ドラえもんが座っていた。

 

「……ドラえもん」

 

 かすかな声がした。

 

「ここにいるよ」

 

「……僕、また失敗したのかな」

 

 ドラえもんの胸が締めつけられた。

 

「違うよ」

 

「でも……みんなに迷惑をかけた」

 

「迷惑なんかじゃない」

 

「僕、また……」

 

 のび太の声が震えた。

 

「また、みんなを困らせた……」

 

 ドラえもんは、そっとのび太の手を握った。

 

「のび太くん。よく聞いて」

 

 その声は、いつになく真剣だった。

 

「君は、何も失敗していないよ。苦しくなったことも、怖くなったことも、君が悪いからじゃない」

 

「……でも」

 

「君はずっと、助けを求めることすら許されない場所で生きてきたんだ。だから、今すぐ何もかも上手にできなくて当たり前なんだよ」

 

 ドラえもんは、涙を零しながら続けた。

 

「僕達は、君が元気なときだけそばにいたいんじゃない。笑っているときだけ、友達でいたいんじゃないんだ」

 

 のび太の目が、わずかに揺れた。

 

「苦しいときも、何もできないときも……君は、僕達の大切なのび太くんなんだよ」

 

「……僕は」

 

 のび太は唇を震わせた。

 

「僕は、ここにいてもいいの……?」

 

「もちろんだよ」

 

 ドラえもんは即座に答えた。

 

「君は、生きていていいんだ。何かができなくても、誰かの役に立てなくても、頑張れなくても……君がここにいることに、理由なんていらないんだよ」

 

 のび太の目から、涙が一筋流れた。

 

 それは、母親の前で謝るための涙ではなかった。

 

 誰かに許してもらうための涙でもなかった。

 

 ただ、苦しかった。

 

 ずっと苦しかった。

 

 誰にも言えなかった。

 

 誰にも助けを求められなかった。

 

 そんな感情が、少しだけ溢れ出したのかもしれない。

 

「……怖かった」

 

 のび太が、呟いた。

 

「うん」

 

「ずっと……怖かったんだ」

 

 ドラえもんは、何も言わずに頷いた。

 

「何をしても、怒られる気がして……何もしてなくても、怒られる気がして……」

 

 のび太の声が震える。

 

「眠るのも怖かった。朝になるのも怖かった。失敗するのが怖くて……でも、頑張るのも、もう嫌で……」

 

「うん……うん……」

 

「僕、どうしたらいいのか、わからないんだ……」

 

 のび太は顔を覆った。

 

「もう、わからないよ……ドラえもん……」

 

 ドラえもんは、のび太の手を握り続けた。

 

「今は、わからなくていいんだよ」

 

 そして、静かに告げた。

 

「一緒に探そう。のび太くんが、これからどう生きたいのか。何を好きだと思うのか。何をしたいのか。何もしたくない日には、どう休めばいいのか」

 

 ドラえもんは微笑んだ。

 

「全部、これから考えればいいんだ」

 

 のび太は泣き続けた。

 

 ドラえもんは、その涙を止めようとはしなかった。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 病室の外では、しずか達が静かに座っていた。

 

 面会は医師の判断に従い、のび太に負担をかけないよう短時間ずつ行うことになった。

 

 今日は、もう会わないほうがいい。

 

 そう告げられていた。

 

 しずかは、閉じた扉を見つめた。

 

「……のび太さん」

 

 声にならない声で、彼女は呼んだ。

 

 昔、何度も呼んだ名前。

 

学校で。

 空き地で。

 公園で。

 何気ない日常の中で。

 

 その名前を呼べば、のび太は振り返ってくれた。

 

 けれど今、彼は扉の向こうにいる。

 

 苦しみながら。

 

 自分でもわからない恐怖に怯えながら。

 

 それでも、必死に生きようとしている。

 

「……お願いだから、生きていて」

 

 しずかの頬を、また涙が伝った。

 

「元気にならなくてもいい。昔みたいに笑えなくてもいい。勉強も、仕事も、何もできなくてもいいから……」

 

 彼女は両手を握り締めた。

 

「ただ、生きていてほしいの……」

 

 ジャイアンも、スネ夫も、何も言えなかった。

 

 二人も同じことを願っていた。

 

 かつて、当たり前のようにそばにいた友達。

 

 何度も喧嘩をして、何度も笑い合って、何度も一緒に過ごした少年。

 

 彼は、ずっと彼らの知らない場所で、心を削られ続けていた。

 

 その傷は、思い出を語っただけで消えるものではない。

 

 友達の顔を見ただけで治るものでもない。

 

 これからも、何度も苦しむかもしれない。

 

 何度も立ち止まるかもしれない。

 

 それでも――。

 

「……俺達、待とうぜ」

 

 ジャイアンが言った。

 

「のび太が、また自分の足で歩けるようになるまで」

 

 スネ夫は涙を拭い、頷いた。

 

「うん。今度は、絶対に見失わない」

 

 しずかも、静かに頷いた。

 

 扉の向こうには、まだモノクロの世界に囚われた友達がいる。

 

 その世界に、今すぐ色を取り戻すことはできない。

 

 彼らの言葉が、彼の心に届かない日もあるだろう。

 

 けれど、何度でも伝えよう。

 

 のび太が何も感じられなくても。

 

 笑えなくても。

 

 自分を責めてしまっても。

 

 何度でも、同じ言葉を届けよう。

 

 ――君は、一人じゃない。

 

 ――君は、頑張らなくても、ここにいていい。

 

 ――僕達は、君が生きていてくれるだけで嬉しいんだ。

 

 ドラえもんは、病室の中で、眠りについたのび太の手をそっと握っていた。

 

「……大丈夫だよ、のび太くん」

 

 涙を拭い、静かに囁く。

 

「今度こそ、君の人生を取り戻そう」

 

 それは、すぐに叶う約束ではない。

 

 何年かかるかもわからない。

 

 それでも、ドラえもんは決して手を離さなかった。

 

 のび太が、自分の人生をもう一度歩き始められる日まで。

 

 今度こそ、誰かのためだけではなく。

 

 自分自身のために生きられる日まで。

 

 彼らは、そばにいることを選んだのだった。

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