第20話 もう一人の母さんがくれた言葉
あれから、数年の月日が流れた。
のび太は、今も治療を続けていた。
以前に比べれば、穏やかに過ごせる時間は増えていた。ドラえもんやしずか達と笑い合える日もあった。自分の食べたいものを選んだり、気になった本を手に取ったり、散歩の途中で足を止めて空を眺めたりすることも、少しずつできるようになっていた。
しかし、心の傷は、そう簡単に癒えるものではなかった。
何の前触れもなく、幼い頃の記憶が蘇る。
母親の怒鳴り声。
机に向かっていた自分。
何度やっても認めてもらえなかった日々。
眠ることさえ怖かった夜。
そうした記憶が突然押し寄せると、のび太は自分が今どこにいるのかさえわからなくなってしまうことがあった。
「ごめんなさい! ごめんなさい! もうちゃんとやりますから!」
何年経っても、彼の口からそんな言葉が飛び出す。
目の前にいるのがドラえもんだとわからなくなり、助けようと差し出された手を振り払ってしまうことさえあった。
錯乱が収まったあと、のび太は必ずと言っていいほど、自分を責めた。
「……また、みんなに迷惑をかけちゃったね」
そのたびに、ドラえもんは首を横に振った。
「迷惑なんかじゃないよ」
しずかも、ジャイアンも、スネ夫も、何度でも同じ言葉を伝えた。
それでも、のび太の心から恐怖が消えることはなかった。
治療を受け、支えてくれる人達がいて、安心できる場所で暮らしていても、過去の記憶は容赦なく彼を襲う。
そして、ある夜。
ドラえもんは、眠っているのび太の顔を見つめながら、ひとつの決断を下した。
「……もう、これ以上、あの子を過去だけに縛りつけておくわけにはいかない」
それは、治療を諦めるという意味ではなかった。
のび太を支えることをやめるつもりもない。
ただ、ドラえもんには、どうしても見せてやりたいものがあった。
のび太が本来、歩むはずだったかもしれない人生。
失われた日々の向こう側にある、もうひとつの未来を。
◇
「……ドラえもん。話って、何?」
翌日。
のび太は、ドラえもんに呼ばれて、いつもの部屋にやって来た。
しずか、ジャイアン、スネ夫も一緒だった。
「のび太くん。ちょっと、みんなで出かけないかい?」
「出かける?」
「うん。君に、見てほしいものがあるんだ」
ドラえもんは、いつになく真剣な顔をしていた。
のび太は少し不安そうにしたが、やがて頷いた。
「……わかった」
「僕達も一緒に行くわ」
しずかがそっと微笑む。
「もちろん、僕達もだよ」
スネ夫が続け、ジャイアンも力強く頷いた。
「何があったって、俺達は一緒だ!」
のび太は三人を見回した。
その言葉が嬉しくないわけではなかった。
ただ、嬉しいと感じる自分の心を、まだ完全には信じられなかった。
それでも、のび太は一歩、ドラえもんの隣に歩み寄った。
「……行こう、ドラえもん」
「うん!」
ドラえもんは、四次元ポケットから特別な道具を取り出した。
未来の技術によって作られた、並行世界間の移動装置。
ドラえもんは以前から、ひそかに調査を進めていた。
時間を巻き戻して、のび太の人生をやり直すことはできない。
過去の出来事をなかったことにすれば、今ここにいるのび太自身の存在や記憶まで危険にさらしてしまう。
だが、世界はひとつではない。
ほんの小さな違いから、まったく異なる人生へと分岐した世界が存在する。
その中には――。
「……お母さんが、あんなふうにならなかった世界もあるんだ」
ドラえもんの言葉に、のび太は目を見開いた。
「え……?」
「君のお母さんが、君を追い詰めることなく、普通のお母さんとして君を育ててくれた世界だよ」
のび太の顔から、血の気が引いた。
「そ、そんな世界が……あるの?」
「うん」
ドラえもんは、優しく頷いた。
「もちろん、そこにいるのは君とは別の人生を歩んできたのび太くんだ。でも、君と同じ名前で、君と同じように生まれて……君が失ってしまったものを、ちゃんと持っているんだ」
「……僕が、失ったもの?」
「そうだよ」
ドラえもんは、のび太の手を握った。
「君がどんな人生を歩むはずだったのか。それを、君自身の目で確かめてほしいんだ」
のび太は俯いた。
怖かった。
もし、その世界の自分が幸せだったら。
もし、自分が望んでいたものを、当たり前のように手に入れていたら。
自分は、その光景を見て耐えられるのだろうか。
そんな思いが胸をよぎった。
けれど、のび太は逃げなかった。
「……見てみたい」
かすかな声だった。
「僕も……見てみたいんだ。僕が、どんなふうに生きられたのか」
ドラえもんは、静かに頷いた。
「わかった。じゃあ、行こう」
装置が起動する。
淡い光が、五人を包み込んだ。
そして――彼らは、別の世界へと旅立った。
◇
そこは、見慣れた町だった。
見慣れた道路。
見慣れた家並み。
どこにでもある、ごく普通の日常。
しかし、のび太が足を踏み出した瞬間、彼は違和感を覚えた。
「……なんだろう」
「どうしたの?」
しずかが尋ねる。
「……ここ、なんだか……」
うまく言葉にできなかった。
景色には色があった。
それだけではない。
町を歩く人々の声。
風に揺れる木の葉の音。
どこかの家から聞こえてくる笑い声。
すべてが、ごく自然にそこにあった。
のび太は、しばらく黙って町を眺めていた。
やがてドラえもんが、ある家を指差した。
「あそこだよ」
それは、野比家だった。
のび太が育った家と、そっくりな家。
玄関の前には、見慣れた植木鉢が並んでいた。
窓からは、楽しそうな声が聞こえてくる。
「……誰か、いるの?」
のび太が尋ねた。
「うん。ちょうど、帰ってきたみたいだね」
ドラえもんが答えた、そのときだった。
玄関の扉が開いた。
「ただいまー!」
元気な声が響いた。
そこにいたのは、のび太だった。
自分と同じ顔。
同じ声。
同じ眼鏡。
けれど、目の前の少年は、まるで別人のように生き生きとしていた。
「……え」
のび太は、思わず立ち尽くした。
もうひとりののび太は、ランドセルを背負い、靴を脱ぎながら大きな声で話していた。
「今日ね、学校で先生に褒められたんだ! 算数はちょっと間違えちゃったけど、最後まで頑張ったんだよ!」
「まあ、よかったじゃない」
家の中から、母親の声が返ってきた。
「頑張ったのね、のびちゃん。お疲れさま」
その言葉を聞いた瞬間。
のび太の体が、ぴくりと震えた。
のびちゃん。
お疲れさま。
頑張ったのね。
そんな言葉を、自分は母親からかけてもらったことがあっただろうか。
記憶を探っても、見つからなかった。
もうひとりののび太は、嬉しそうに笑っていた。
「えへへ! でもね、途中で間違えちゃったんだ。もっと勉強しないとね!」
「間違えたっていいじゃない。次にわかるようになれば、それでいいのよ」
「……え?」
思わず、声が漏れた。
のび太の母親が、息子の頭を優しく撫でていた。
「のびちゃんは、のびちゃんのペースで頑張ればいいの。お母さんは、あなたが元気でいてくれるのが一番嬉しいんだから」
もうひとりののび太は、照れくさそうに笑った。
「……うん!」
その笑顔を見た瞬間、のび太の視界が滲んだ。
ああ。
こんな言葉を。
こんな当たり前の言葉を。
自分だって、聞きたかった。
間違えてもいい。
失敗してもいい。
頑張ったことを認めてもらいたかった。
何もできない日があっても、ただそこにいることを喜んでほしかった。
それだけだったのに。
「……のび太くん」
ドラえもんが、そっと声をかけた。
のび太は、返事をしなかった。
ただ、もうひとりの自分を見つめ続けていた。
◇
それから、ドラえもん達は、もうひとりののび太の人生を少しずつ見守った。
彼は、決して何もかも完璧な少年ではなかった。
宿題を忘れて怒られることもあった。
テストで悪い点を取って、落ち込むこともあった。
ジャイアンに追いかけられ、スネ夫にからかわれ、しずかに呆れられることだってあった。
転んで泣いた。
失敗して悔しがった。
思い通りにならず、拗ねることもあった。
しかし、そのたびに、彼の周囲には誰かがいた。
「のび太、また失敗したのかよ!」
「うるさいなあ、ジャイアン!」
「まあまあ。次は頑張ればいいじゃない」
スネ夫が笑い、しずかが励ます。
ドラえもんは、ときどき道具に頼りすぎるのび太を叱りながらも、最後には一緒に考えてくれた。
そして、母親は――。
「のびちゃん、今日はもう休みなさい」
「でも、まだ宿題が……」
「明日、できるところからやればいいわ。疲れているときは、休むのも大切なのよ」
「……いいの?」
「もちろん。のびちゃんは、機械じゃないんだから」
その言葉に、のび太は息を呑んだ。
機械じゃない。
自分は、機械のように扱われていた。
決められた時間に起きて、決められた勉強をして、決められた運動をして、決められた成果を出す。
できなければ、もっとやらされた。
できても、次はさらに高い要求をされた。
自分の気持ちを尋ねられることはなかった。
休みたいと言えば、怠けていると言われた。
苦しいと言えば、甘えていると言われた。
だから、いつからか、自分の気持ちを考えることさえやめてしまった。
けれど、もうひとりの自分は違った。
泣いてもいい。
怒ってもいい。
失敗してもいい。
疲れたら、休んでいい。
それを誰かが、当たり前のこととして教えてくれていた。
のび太は、頬を伝う涙を拭えなかった。
「……ずるいよ」
小さな声が漏れた。
「……ずるいよ、僕」
しずかが、はっと顔を上げた。
「のび太さん……?」
「僕だって……僕だって、こんなふうに……」
声が震えた。
「こんなふうに、普通に暮らしたかった……」
その場にいた誰も、何も言えなかった。
ジャイアンは唇を噛み、スネ夫は眼鏡を外して目元を押さえた。
しずかは、のび太の背中にそっと手を添えた。
「……うん」
彼女自身も、涙を流していた。
「そうだよね……。のび太さんだって、こんなふうに生きたかったよね……」
「……うん」
のび太は、何度も頷いた。
「僕だって……」
その言葉の先は、嗚咽に消えた。
ドラえもんは、何も言わずに彼を支えた。
今は、無理に慰める必要はなかった。
のび太は初めて、自分が何を奪われたのかを、はっきりと目にしていたのだから。
◇
そして、時は流れた。
少年だったもうひとりののび太は、大人になった。
勉強が得意になったわけではない。
運動が得意になったわけでもない。
仕事で大きな成功を収めたわけでもない。
それでも、彼は自分の人生を歩んでいた。
そして、ある日。
彼は、しずかと結婚した。
結婚式の日。
もうひとりののび太は、緊張のあまり何度も言葉を噛み、指輪を渡す手まで震わせていた。
「の、のび太さん。落ち着いて」
「ご、ごめん、しずかちゃん! だって、こんな大事な日なんだよ!」
「ふふっ。知ってるわ」
「僕、ちゃんとしずかちゃんを幸せにできるかな……」
その言葉に、しずかは優しく微笑んだ。
「一緒に幸せになりましょう。あなた一人が頑張るんじゃなくて、二人でね」
のび太は、目を丸くした。
そして、ゆっくりと笑った。
「……うん!」
その光景を、別の世界から来たのび太は、涙で滲んだ目で見つめていた。
隣にいるしずかも、声を押し殺して泣いていた。
目の前にいる二人は、かつて自分達が知っていた二人と同じだった。
けれど、そこには自分達の世界では失われてしまった時間があった。
手を取り合い、支え合い、喧嘩をしながらも一緒に生きていく未来。
失敗したら、二人で笑い合う。
苦しいときは、二人で泣く。
どちらか一方だけが我慢するのではなく、お互いに支え合う。
そして、結婚式の最後。
もうひとりののび太は、両親に向かって深く頭を下げた。
「パパ、ママ。今まで育ててくれて、ありがとう」
母親は、涙ぐみながら息子を抱きしめた。
「こちらこそ、ありがとう。のびちゃんが生まれてきてくれて、本当に嬉しかったわ」
のび太の目から、涙が溢れた。
止めようとしても、止まらなかった。
「……僕も」
声が震える。
「僕も……お母さんに、そう言ってほしかった……」
しずかは、もう耐えられなかった。
のび太の手を握りしめ、声を上げて泣いた。
「のび太さん……!」
ジャイアンも、スネ夫も、顔を背けて涙を拭った。
ドラえもんは、のび太の肩を抱き寄せた。
「……ごめんね、のび太くん」
「……ドラえもん?」
「君が本当は、こんなふうに生きたかったんだって……。僕、わかっていたつもりだった。でも、君の目で見たら……こんなに、つらいんだね」
のび太は、何度も頷いた。
「……僕、あの世界の僕が羨ましい」
初めて、彼はその気持ちを隠さなかった。
「すごく羨ましい。僕だって、あんなふうに生きたかった。しずかちゃんと結婚して、失敗して、笑って、パパやママにありがとうって言って……」
涙が止まらない。
「……僕だって、普通に幸せになりたかったんだ」
「うん……」
ドラえもんは、彼を抱きしめた。
「うん。そうだよね……」
その言葉を聞いて、のび太は子供のように泣き続けた。
ずっと我慢していた。
ずっと諦めていた。
自分が欲しかったものを、欲しいと言うことさえ許されないと思っていた。
けれど、今は違った。
羨ましいと思っていい。
悲しいと思っていい。
奪われたものを、奪われたと認めていい。
のび太は、初めて自分の悲しみを、そのまま受け止めることができた。
◇
その後、ドラえもん達は、もうひとつの未来の野比家を訪れた。
もちろん、のび太達の事情を何も知らない人々に、突然すべてを説明するわけにはいかなかった。
ドラえもんは、並行世界から来たこと、そして目の前ののび太が、別の世界で深い心の傷を負っていることを、慎重に説明した。
話を聞いた父親の野比のび助は、驚きと悲しみの入り混じった顔をした。
「……そんなことが、本当に……」
そして、母親の玉子は。
目の前で、俯いているのび太をじっと見つめていた。
彼女は、目の前の少年が、自分の息子と同じ顔をしていることに気づいていた。
けれど、その表情は、あまりにも違っていた。
自信がない。
人の顔色を窺う。
何かを言う前に、相手が怒らないか確かめる。
そして、何かを褒められると、まるでそれが許されないことのように戸惑う。
玉子は、静かに尋ねた。
「……あなたは、ずっと苦しかったのね」
のび太は、顔を上げた。
その言葉を聞いた瞬間、彼の表情が凍りついた。
苦しかったのね。
その一言。
それだけだった。
責められなかった。
怠け者だと言われなかった。
努力が足りないと叱られなかった。
ただ、自分が苦しんでいたことを、認めてもらえた。
「……っ」
のび太の唇が震えた。
「……僕……」
言葉が出てこない。
玉子は、彼の前に膝をついた。
そして、彼の顔を見上げた。
「お母さんに、何か言われたの?」
のび太は、首を横に振ろうとした。
いつもの癖だった。
誰かを責めるようなことを言ってはいけない。
自分が我慢すればいい。
そう考えてしまった。
けれど、目の前の玉子は、急かさなかった。
「話せるところだけでいいのよ。今は、話したくないなら話さなくてもいい」
彼女は、穏やかに微笑んだ。
「あなたが安心できることが、一番大切だから」
のび太は、俯いた。
そして、かすれた声で言った。
「……僕のお母さんは……」
そこで言葉が途切れた。
呼吸が乱れ始める。
ドラえもんが、すぐに隣に寄り添った。
「のび太くん。ゆっくりでいいんだよ」
のび太は、ドラえもんの手を握った。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「……僕のお母さんは、僕が何をしても……認めてくれなかったんだ」
玉子は、黙って聞いていた。
「勉強しても、もっとやれって言われた。運動しても、もっと頑張れって言われた。できなかったら怒られて……できても、次はもっと難しいことをやらされた」
のび太の声が震えた。
「僕……いつから、自分が何をしたいのか、わからなくなったんだろう」
涙が頬を伝った。
「何を食べても味がしなくて、何を見ても楽しくなくて……。仕事をしているときだけ、何も考えなくて済んだんだ」
玉子は、両手で口元を覆った。
「……そんな……」
「僕、ずっと……お母さんに褒めてもらいたかったんだ」
その言葉に、玉子の目から涙が溢れた。
「……一度でいいから、頑張ったねって言ってほしかった。失敗しても、大丈夫だよって言ってほしかった。何もできなくても、僕のことを好きでいてほしかった」
のび太は、嗚咽を堪えながら続けた。
「……ただ、それだけだったんだ」
玉子は、もう何も言えなかった。
彼女は、別の世界の自分が、我が子に何をしてしまったのかを想像した。
子供の未来を思うことと、子供を追い詰めることは違う。
心配することと、支配することは違う。
そして、何より。
子供が生きていることの喜びを、成果や成績と引き換えにしてはいけない。
玉子は、涙を拭いながら、そっと両手を広げた。
「……抱きしめても、いいかしら?」
のび太は、戸惑った。
誰かに抱きしめてもらう。
そんなことを、自分から望んでいいのだろうか。
そう思った。
けれど、目の前の玉子は、返事を急かさなかった。
のび太は、長い沈黙のあと、小さく頷いた。
「……うん」
玉子は、彼をそっと抱きしめた。
強く押さえつけるのではなく、逃げたければ逃げられるように。
のび太の体が、最初は硬直した。
それでも、玉子は何も言わず、ただ優しく背中を撫でた。
「……つらかったわね」
その声は、温かかった。
「よく、ここまで頑張ってきたわね」
のび太の肩が震えた。
「……もう、頑張らなくてもいいのよ」
玉子は、彼の頭を優しく撫でた。
「あなたは、誰かの期待に応えるためだけに生きているんじゃないの。誰かに褒められるためだけに、生きているんでもないのよ」
のび太は、目を見開いた。
玉子は、涙を浮かべたまま微笑んだ。
「あなたは、あなたのままでいいの。失敗しても、泣いても、立ち止まってもいい。何もできない日があっても、あなたがあなたであることは変わらないわ」
そして、彼女は最後に、のび太がずっと聞きたかった言葉を告げた。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
のび太の顔が、くしゃりと歪んだ。
「……っ、あ……」
「あなたがここにいてくれるだけで、嬉しいのよ」
玉子は、彼の頭を撫で続けた。
「何かができるから、あなたが大切なんじゃない。あなたが、のび太だから大切なの」
のび太は、堪えきれなくなった。
「……うわあああああっ……!」
声を上げて泣いた。
幼い頃から、ずっと心の奥に閉じ込めていた涙だった。
泣いてはいけない。
泣けば怒られる。
泣くのは弱いからだ。
そんな思い込みに縛られていた彼が、初めて、誰かの腕の中で泣いていた。
「……お母さん……!」
その呼び方に、玉子は涙を流しながら、彼を抱きしめた。
「うん……。うん。ここにいるわ」
「……僕、ずっと……ずっと……!」
「わかっているわ。もう、無理に言葉にしなくてもいいのよ」
玉子は、何度も彼の背中を撫でた。
「大丈夫。あなたは、ここにいていいの」
その様子を見ていたしずかは、顔を覆って泣いていた。
ジャイアンは、声を押し殺して嗚咽を漏らした。
スネ夫は、涙を拭うことも忘れていた。
そして、ドラえもんは。
ただ、静かに泣いていた。
ずっと、のび太に伝えたかった。
彼が悪いわけではないこと。
彼が頑張れなかったから、こんなことになったわけではないこと。
彼には、愛される価値があること。
けれど、どんなに言葉を重ねても、ドラえもんは母親そのものにはなれなかった。
のび太が幼い頃に欲しかった、母親の温もり。
その代わりを、完全に与えることはできなかった。
今、目の前で、もうひとりの玉子がそれを伝えてくれていた。
それは過去を取り戻すことではない。
傷をなかったことにすることでもない。
ただ、のび太がずっと欲しかったものが、どれほど当たり前で、どれほど大切なものだったのかを、彼自身が知る時間だった。
◇
しばらくして、のび太は玉子の腕の中で、少しずつ泣き止んだ。
目元は赤く腫れ、声も掠れていた。
それでも、彼の表情には、今までとは違う何かがあった。
玉子は、そっと彼の顔を覗き込んだ。
「少し、落ち着いた?」
「……うん」
「よかった」
彼女は微笑み、もう一度、彼の頭を撫でた。
のび太は、その手を見つめた。
自分の母親の手と、同じ形をしている。
同じ声で、同じように名前を呼ぶ。
けれど、こちらの手は、彼を傷つけなかった。
こちらの声は、彼を怯えさせなかった。
のび太は、静かに呟いた。
「……お母さん」
「なあに?」
「……ありがとう」
玉子は、嬉しそうに頷いた。
「どういたしまして、のびちゃん」
その呼び方に、のび太はまた少しだけ泣きそうになった。
だが、今度は、涙の奥にほんのわずかな温かさがあった。
◇
その日の夜。
のび太達は、もうひとつの野比家の庭にいた。
空には星が瞬いていた。
のび太は、静かに空を見上げていた。
しずかが隣に座る。
「……少し、落ち着いた?」
「うん」
のび太は頷いた。
「……僕、ずっと思っていたんだ」
「何を?」
「お母さんに、もう一度会ったら……今度こそ認めてもらえるんじゃないかって」
しずかは、何も言わずに聞いていた。
「もっと頑張れば、もっといい成績を取れば、もっと仕事で成功すれば……いつか、僕のことを褒めてくれるんじゃないかって」
のび太は、ゆっくりと息を吐いた。
「でも、違ったんだね」
「……うん」
「僕は、ずっとお母さんに認めてもらおうとしていた。でも……僕がどれだけ頑張っても、あのお母さんは、僕のことを認めてくれなかった」
その言葉は、悲しかった。
けれど、今までのように、自分を責める響きはなかった。
「……今日、もうひとりのお母さんに抱きしめてもらって、わかったんだ」
のび太は、自分の胸に手を当てた。
「僕が欲しかったのは、もっといい成績でも、もっと立派な仕事でもなかった」
しずかが、そっと彼の手を握った。
「……うん」
「ただ、僕のことを好きだって言ってほしかった。失敗しても、僕のままでいいって言ってほしかった」
のび太は、涙を浮かべながら微笑んだ。
「……それを、やっと聞けたんだ」
しずかは、彼の手を強く握り返した。
「よかったね、のび太さん……」
「……うん」
のび太は、空を見上げた。
星は、どの世界でも同じように輝いていた。
けれど、自分が歩む人生は、同じではない。
失われた時間は戻らない。
あの世界の自分のように、何もかもをやり直すことはできない。
それでも。
今から、自分の人生を生きることはできる。
そのことを、のび太は初めて、心の底から考え始めていた。
◇
帰還の時間が近づいた頃。
ドラえもんは、のび太に尋ねた。
「……戻れるかい?」
のび太は、しばらく黙っていた。
元の世界に戻れば、そこには、毒親になってしまった母親がいる。
もう二度と会いたくない。
そう思う自分もいた。
それでも、彼は小さく頷いた。
「……うん。戻るよ」
「本当にいいの?」
「……うん」
のび太は、もうひとりの世界の野比家を振り返った。
玄関先では、玉子とのび助が見送ってくれていた。
「のびちゃん。無理しちゃだめよ」
玉子が優しく声をかけた。
「あなたの人生は、あなたのものだからね」
のび太は、深く頭を下げた。
「……ありがとう、お母さん」
玉子は、涙ぐみながら手を振った。
「元気でね」
のび太は、もう一度だけ、その姿を目に焼きつけた。
そして、ドラえもん達とともに、光の中へと歩き出した。
◇
元の世界に戻ったあと。
のび太は、しばらく自室で過ごしていた。
机も、かつて母親に勉強を強制されていた部屋も、今は別の場所に移されていた。
それでも、家の中には、彼を怯えさせる記憶が残っている。
母親の声を思い出すこともあった。
足音に身構えることもあった。
それでも、のび太の心には、もうひとつの記憶が生まれていた。
優しく頭を撫でてくれた手。
自分を責めずに、苦しかったねと認めてくれた声。
生まれてきてくれてありがとう、と伝えてくれた言葉。
それらは、過去を消してはくれない。
けれど、過去だけがすべてではないと、教えてくれた。
夜。
ドラえもんが、のび太の部屋を訪れた。
「……のび太くん」
「ドラえもん」
「……これから、どうしたい?」
のび太は、窓の外を見つめていた。
しばらくして、彼は口を開いた。
「……僕、もう一度、お母さんに会おうと思う」
ドラえもんの表情が変わった。
「……本当に?」
「うん」
のび太は、ゆっくりと頷いた。
「許すためじゃないよ」
その声には、確かな意思があった。
「もう一度、褒めてもらうためでもない。わかってもらうためでもない」
のび太は、両手を握り締めた。
「僕は、ずっとお母さんに認めてもらいたかった。だから、何をされても、もっと頑張ればいいんだって思っていた」
目を閉じる。
「でも……あのお母さんが、僕のことをどう思っているか。それは、もう僕には変えられないんだ」
ドラえもんは、黙って聞いていた。
「僕は、お母さんに愛してほしかった。今でも、そう思うことがあるよ」
のび太は、苦しそうに笑った。
「でも、もう、そのために自分を壊したくない」
彼は、ドラえもんを見つめた。
「……僕、自分の人生を生きたいんだ」
ドラえもんの目から、涙が溢れた。
「……うん」
「だから、もう一度会って……ちゃんと伝えたい」
のび太は、震える息を吐いた。
「僕は、お母さんのためだけに生きるのを、もうやめるって」
それは、簡単な決意ではなかった。
母親を恐れる気持ちは、今も残っている。
再び責められるかもしれない。
また、心をかき乱されるかもしれない。
その恐怖は、消えていない。
それでも、のび太は初めて、自分の人生を守るために、一歩を踏み出そうとしていた。
ドラえもんは、彼の肩に手を置いた。
「……わかった。でも、ひとつだけ約束してほしい」
「何?」
「一人で背負わないこと。会うなら、医師とも相談して、安全な場所で、僕達も一緒に行こう」
のび太は、少しだけ笑った。
「……うん。約束する」
ドラえもんは、彼を抱きしめた。
「よく言えたね、のび太くん」
その言葉に、のび太は目を閉じた。
昔なら、褒められると、次はもっと頑張らなければいけないと思っていた。
けれど、今は違う。
これは、何かを達成したからもらえるご褒美ではない。
自分の気持ちを、自分の言葉で伝えた。
それを、ドラえもんが認めてくれた。
ただ、それだけだった。
そして、のび太は胸の中で、もうひとつの世界の母親の言葉を繰り返した。
――あなたは、あなたのままでいい。
その言葉を、今度は自分自身に向けてみようと思った。
まだ、うまくはできない。
自分を責める癖も、恐怖も、消えてはいない。
それでも。
のび太は、ゆっくりと顔を上げた。
もう、母親に認めてもらうためだけに生きるのではない。
もう、誰かの期待に応えるために、自分を犠牲にするのではない。
自分の人生を、自分のものとして取り戻すために。
のび太は、初めて、母親と決別する勇気を手に入れたのだった。