もしものび太のお母さんが毒親になったら   作:武藤 桜

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第七章「僕の未来」

第21話 さようなら、お母さん

 面会の日は、静かな午後だった。

 

 病院の面談室には、のび太とドラえもん、そして担当医がいた。母親の玉子との面会は、のび太本人の希望を確認したうえで、医師の立ち会いのもと行われることになっていた。

 

 何かあれば、いつでも中断できる。

 

 のび太が自分の身を守れるように、準備は整えられていた。

 

「……本当に、会うんだね」

 

 ドラえもんが尋ねた。

 

「うん」

 

 のび太は静かに頷いた。

 

 手は少し震えていた。

 

 母親に会うことが怖くないわけではない。声を聞くだけで、昔の恐怖が蘇ることもある。あの目で睨まれたら、また何も言えなくなってしまうのではないか。

 

 そんな不安は、今でも胸の奥に残っていた。

 

 それでも、のび太は逃げなかった。

 

「……僕、ずっとお母さんに言いたかったことがあるんだ」

 

「うん」

 

「でも、今までは言えなかった。怒られるのが怖かったから。嫌われるのが怖かったから。いつか褒めてもらえるかもしれないって、ずっと思っていたから」

 

 のび太は、膝の上で握っていた手をゆっくりと開いた。

 

「でも、もう……自分の気持ちを隠したまま生きるのは、やめたいんだ」

 

 ドラえもんは、彼の目を見つめた。

 

「……わかった。僕はここにいるよ」

 

「ありがとう、ドラえもん」

 

 のび太は微笑んだ。

 

 それは、まだ少しぎこちない笑顔だった。

 

 けれど、そこには確かな意思があった。

 

     ◇

 

 やがて、面会室の扉が開いた。

 

「……のび太」

 

 入ってきた玉子は、息子の姿を見るなり、眉をひそめた。

 

 久しぶりに顔を合わせたというのに、心配する言葉はなかった。

 

「あなた、いつまでこんなところにいるつもりなの?」

 

 最初の言葉が、それだった。

 

「いつまでも治療だなんだと言って、時間を無駄にして。あなたも、もういい年なんだから、自分が何をすべきかわかっているでしょう?」

 

 のび太は黙って聞いていた。

 

「勉強だって仕事だって、やればできる子なのよ。昔はあんなに頑張っていたじゃない。それなのに、どうして今になって、こんなふうになってしまったの?」

 

 玉子は、ため息をついた。

 

「あなたには、まだ努力が足りないの。いつまでも周りに甘えていないで、もっと自分を鍛えなさい。そうすれば、こんな弱い人間にはならないはずよ」

 

 のび太は、母親の顔を見つめた。

 

 昔なら、この時点でもう俯いていた。

 

 謝っていただろう。

 

 自分が悪いのだと思い込んでいただろう。

 

 もっと頑張らなければ。

 

 もっと期待に応えなければ。

 

 そうやって、母親の言葉を自分の心に刻みつけていた。

 

 しかし、今ののび太は違った。

 

「……お母さん」

 

「何よ」

 

「僕の話を、聞いてくれる?」

 

 玉子は露骨に不快そうな顔をした。

 

「何? また言い訳?」

 

「違うよ。言い訳じゃない」

 

 のび太は、穏やかな声で答えた。

 

「今日は、僕の気持ちを話しに来たんだ」

 

「そんなことより、あなたはこれからどうするの? 仕事に復帰するの? 勉強は続けているの? まさか、このまま一生、誰かに面倒を見てもらうつもりじゃないでしょうね?」

 

 矢継ぎ早に質問が飛んでくる。

 

 のび太は、そのすべてを聞いた。

 

 遮らなかった。

 

 反論もしなかった。

 

 ただ、母親が話し終わるのを待っていた。

 

 そして、静かに口を開いた。

 

「……お母さんは、僕が何を考えているか、知ろうとしたことがある?」

 

「は?」

 

「僕が何をしたいのか。何が好きなのか。何が怖いのか。何をされると悲しいのか」

 

 のび太は、ひとつずつ言葉を紡いだ。

 

「お母さんは、僕に勉強しなさいって言った。運動しなさいって言った。もっと頑張りなさいって言った。できなかったら怒って、できても、もっと上を目指せって言った」

 

「それが親の務めでしょう! あなたの将来のために――」

 

「最後まで聞いて」

 

 のび太の声は大きくなかった。

 

 しかし、はっきりとしていた。

 

 玉子は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。

 

 息子に遮られることなど、想像もしていなかったのだろう。

 

 のび太は、母親から目を逸らさなかった。

 

「僕は、ずっと怖かったんだ」

 

 その一言に、ドラえもんが目を伏せた。

 

「朝、起きるのが怖かった。お母さんの声を聞くのが怖かった。勉強が終わらないのが怖かった。失敗するのが怖かった」

 

 のび太の指先が、少し震えた。

 

 それでも、彼は言葉を止めなかった。

 

「何をしても、怒られる気がした。何もしていなくても、怒られる気がした。頑張っても頑張っても、これでいいんだって思えなかった」

 

「あなたがもっと努力すれば――」

 

「僕は、もう十分すぎるほど頑張ったよ!」

 

 思わず、声が強くなった。

 

 面談室に沈黙が落ちた。

 

 のび太自身も、自分がこれほど強く声を出したことに驚いたようだった。

 

 しかし、彼はすぐに呼吸を整え、続けた。

 

「……ごめん。怒鳴りたいわけじゃないんだ」

 

 その言葉に、玉子は勝ち誇ったように口を開きかけた。

 

 けれど、のび太はその前に言った。

 

「僕は、もう自分の気持ちをなかったことにしたくないんだ」

 

     ◇

 

「……お母さん。僕、別の世界に行ってきたんだ」

 

 突然の言葉に、玉子は眉をひそめた。

 

「何を言っているの?」

 

「ドラえもんに連れて行ってもらったんだ。お母さんが、僕を追い詰めなかった世界に」

 

「……はあ?」

 

 玉子の顔に、嘲るような表情が浮かんだ。

 

「そんな馬鹿げた話をして、私を騙すつもり?」

 

「信じられないのは、わかっているよ。でも、僕はそこで見てきたんだ」

 

 のび太は、ゆっくりと目を閉じた。

 

 思い浮かぶのは、もうひとつの世界。

 

 自分と同じ顔をした少年。

 

 失敗しても、母親に頭を撫でてもらえる少年。

 

 泣いてもいいと言われ、疲れたら休んでいいと言われ、ありのままの自分を愛してもらえる少年。

 

 そして、結婚式の日。

 

 母親に「生まれてきてくれて、ありがとう」と言われ、幸せそうに泣いていた自分。

 

「……あの世界の僕は、失敗しても怒鳴られていなかった」

 

 のび太は、静かに話し始めた。

 

「テストで悪い点を取っても、次に頑張ればいいって言われていた。疲れたら休んでいいって言われていた。何もできない日があっても、僕は僕のままでいいって……」

 

 そこで、のび太の声が少し震えた。

 

「お母さんに、優しく頭を撫でてもらっていたんだ」

 

 玉子は鼻で笑った。

 

「そんなの、ただの甘やかしでしょう。だからあなたは、いつまで経っても――」

 

「違うよ」

 

 のび太は、母親を見つめた。

 

「僕は、そこで初めてわかったんだ」

 

 そして、はっきりと言った。

 

「お母さんが、間違っていたんだよ。」

 

 玉子の顔から、表情が消えた。

 

「……何ですって?」

 

「子供を心配することと、子供を追い詰めることは違う。将来のために勉強を教えることと、勉強ができない子供には価値がないって思わせることは違うんだ」

 

 のび太は、震える手を膝の上に置いた。

 

「僕は、お母さんのために生きていた。お母さんに褒めてもらいたくて、怒られたくなくて……自分が何をしたいのかも、何が好きなのかも、わからなくなった」

 

 目の奥が熱くなった。

 

 けれど、彼は涙を拭かなかった。

 

「何を食べても味がしなかった。何を見ても楽しくなかった。仕事で成功しても嬉しくなかった。毎日、ただ仕事をして、眠って、また仕事をする。それだけだった」

 

 玉子は口を開こうとした。

 

 だが、のび太は続けた。

 

「お母さんは、僕が立派な人間になったと思っていたのかもしれない。でも、僕は違った」

 

 彼は自分の胸に手を当てた。

 

「僕は、自分の心をなくしてしまったんだ」

 

 ドラえもんは、唇を噛みしめた。

 

 何度聞いても、胸が痛む言葉だった。

 

「僕があのとき、何を考えていたか、わからないんだ。何を思っていたのかも、思い出せない。ただ、お母さんに怒られないようにする。それだけだった」

 

 のび太は母親を見つめた。

 

「それが、お母さんの望んだ人生だったの?」

 

「私は、あなたのために――!」

 

「僕のためって、何?」

 

 今度は、のび太が尋ねた。

 

「僕のためって言えば、僕がどれだけ苦しくても、我慢しなきゃいけなかったの? 僕が泣いても、怖がっても、心が壊れても、お母さんが正しいことになるの?」

 

「あなたが弱いからでしょう! そんなことくらいで心が壊れるなんて、情けないと思わないの!」

 

 玉子が声を荒らげた。

 

 昔と同じ声だった。

 

 昔と同じ、息子を追い詰める言葉だった。

 

 しかし、のび太はもう俯かなかった。

 

「……そうだね。お母さんは、そう思うんだね」

 

 あまりにも穏やかな返事だった。

 

 玉子は、一瞬戸惑った。

 

「でも、僕はもう、その考え方を自分の中に入れないよ」

 

「何を……」

 

「お母さんが僕をどう評価しても、それはお母さんの考えだから。僕自身が、僕に価値がないって思う理由にはならないんだ」

 

 のび太は、深く息を吸った。

 

 胸が苦しい。

 

 足が震えている。

 

 今すぐ逃げ出したくなるほど怖い。

 

 それでも、もうひとりの玉子の声が、心の中に響いていた。

 

 ――あなたは、あなたのままでいい。

 

 のび太は、もう一度、目の前の母親を見つめた。

 

「……お母さん。僕は、お母さんに愛してほしかったんだ」

 

 玉子の表情が固まった。

 

「ただ、褒めてほしかった。頑張ったねって言ってほしかった。失敗しても大丈夫だよって言ってほしかった。何もできなくても、僕のことを大切に思っていてほしかった」

 

 のび太の目から、涙が零れた。

 

「僕は、お母さんの息子だから。お母さんに愛してもらいたかったんだ」

 

 彼は、初めてその願いを、恥じることなく口にした。

 

「でも、お母さんは、僕の話を聞いてくれなかった。僕が苦しいって言っても、もっと頑張れって言った。僕が限界だって言っても、まだ足りないって言った」

 

 涙を流しながら、のび太は微笑んだ。

 

 悲しい笑顔だった。

 

「……だから、もういいんだ」

 

「……何?」

 

「もう、お母さんに認めてもらうために生きるのはやめる」

 

     ◇

 

「ふざけないで!」

 

 玉子が机を叩いた。

 

「親に向かって何なの、その態度は! 誰のおかげでここまで大きくなれたと思っているの!」

 

 のび太の肩が、一瞬だけ震えた。

 

 その言葉は、何度も聞かされてきたものだった。

 

 感謝しなさい。

 

 恩を返しなさい。

 

 親の言うことを聞きなさい。

 

 そのたびに、のび太は自分の気持ちを押し殺してきた。

 

 だが、今は違う。

 

「……育ててくれたことには、感謝しているよ」

 

 のび太は答えた。

 

「でも、感謝していることと、何をされても我慢しなきゃいけないことは違うんだ」

 

「親に逆らう気!?」

 

「逆らいたいわけじゃないよ」

 

 のび太は、静かに首を横に振った。

 

「ただ、僕はもう、お母さんの言うことを全部正しいと思うのをやめたんだ」

 

「あなたは間違っている! 私が正しいの! あなたの将来を考えて、どれだけ――!」

 

「お母さん」

 

 のび太は、優しく呼びかけた。

 

「僕の将来は、僕のものなんだよ」

 

 玉子は、顔を真っ赤にした。

 

「何を偉そうに! あなたは昔からそうやって、私の言うことを聞かないから――!」

 

「……うん」

 

 のび太は、静かに頷いた。

 

「お母さんは、そう思っているんだね」

 

「そうよ! あなたはまだ何もわかっていない! 今からでも勉強しなさい! 仕事に戻りなさい! こんなところで治療なんかしている暇があったら――!」

 

「もう、いいよ」

 

 その一言は、驚くほど静かだった。

 

 玉子の怒鳴り声が止まった。

 

 のび太は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 

「……僕は、もう十分に聞いたよ」

 

「座りなさい!」

 

「お母さんが何を考えているのかも、何を望んでいるのかも、よくわかった」

 

「まだ話は終わっていないでしょう!」

 

「うん。でも、僕の話は終わったんだ」

 

 のび太は、母親を見つめた。

 

 もう、彼女に理解してもらおうとは思わなかった。

 

 自分の苦しみを認めてほしい。

 

 間違っていたと謝ってほしい。

 

 母親の口から、愛していると言ってほしい。

 

 その願いが、完全になくなったわけではない。

 

 今でも、胸のどこかに残っている。

 

 けれど、それを叶えるために、自分の人生を差し出すことは、もうしない。

 

「……お母さん。僕は、これから自分の人生を生きるよ」

 

「勝手なことを言わないで! あなたは私の――!」

 

「僕は、お母さんの所有物じゃない」

 

 のび太は、初めてその言葉を口にした。

 

 声は震えていた。

 

 それでも、最後まで言い切った。

 

「僕は、僕なんだ」

 

     ◇

 

「……ドラえもん、行こう」

 

 のび太は、振り返ってドラえもんに声をかけた。

 

「……うん」

 

 ドラえもんは、目元を拭いながら立ち上がった。

 

 玉子は、信じられないものを見るように二人を睨みつけた。

 

「待ちなさい! まだ話は終わっていないでしょう!」

 

 のび太は、扉へ向かって歩き出した。

 

「のび太! 戻ってきなさい!」

 

 その声が、背中に突き刺さる。

 

 足が止まりそうになった。

 

 胸が締めつけられる。

 

 昔の自分が、心の中で叫んでいた。

 

 謝れ。

 

 戻れ。

 

 お母さんを怒らせるな。

 

 言うことを聞け。

 

 そうしなければ、もっとひどいことになる。

 

 のび太は、ぎゅっと目を閉じた。

 

 そして、もうひとつの声を思い出した。

 

 ――あなたがここにいてくれるだけで、嬉しいのよ。

 

 ――あなたは、あなたのままでいい。

 

 のび太は、ゆっくりと目を開いた。

 

 そして、一歩、前に進んだ。

 

「のび太! 聞いているの!?」

 

 玉子の怒鳴り声が響く。

 

「あなたは、まだ何も成し遂げていないのよ! もっと努力しなさい! 勉強しなさい! 私の言うことを聞きなさい!」

 

 のび太は、もう振り返らなかった。

 

 ドラえもんが扉を開ける。

 

 廊下には、しずか、ジャイアン、スネ夫が待っていた。

 

 三人は、のび太の顔を見た。

 

 涙の跡が残っている。

 

 手も、まだ少し震えている。

 

 それでも――。

 

 のび太は、穏やかな顔をしていた。

 

「……終わったよ」

 

 彼は、小さく微笑んだ。

 

「のび太さん……」

 

 しずかが、そっと近づいた。

 

「大丈夫?」

 

「うん」

 

 のび太は頷いた。

 

「……怖かったよ。すごく怖かった。今だって、まだ怖い」

 

 正直な言葉だった。

 

「でも、もう大丈夫。僕は、あの人に認めてもらえなくても、自分の人生を生きていいんだって……わかったから」

 

 ジャイアンは、唇を噛みしめたあと、力強く頷いた。

 

「……よく言ったな、のび太」

 

「うん。君は、ちゃんと自分の言葉で話せたんだね」

 

 スネ夫も、涙を浮かべながら笑った。

 

 しずかは、のび太の手を握った。

 

「……帰りましょう、のび太さん」

 

「うん。帰ろう、しずかちゃん」

 

 その呼び方に、しずかは涙ぐみながら微笑んだ。

 

 四人と一体は、並んで廊下を歩き始めた。

 

 背後では、まだ玉子の怒鳴り声が聞こえていた。

 

 自分の言うことを聞かない息子を罵り、呼び戻そうとする声。

 

 けれど、のび太は歩みを止めなかった。

 

 もう、あの声に人生を支配させない。

 

 母親が自分をどう評価するか。

 

 母親が自分をどう呼ぶか。

 

 母親が自分に何を望むか。

 

 それらは、もう、のび太の価値を決めるものではなかった。

 

 扉の向こうへ出た瞬間、窓から差し込む午後の日差しが、彼の顔を照らした。

 

 のび太は、ゆっくりと空を見上げた。

 

「……いい天気だね」

 

 何気ない一言だった。

 

 けれど、ドラえもんは、その言葉を聞いて目を見開いた。

 

 のび太が、自分から景色について話した。

 

 誰かの指示でもなく、何かを報告するためでもなく。

 

 ただ、自分がそう感じたから。

 

「……うん。いい天気だね」

 

 ドラえもんは、涙を浮かべて微笑んだ。

 

     ◇

 

 病院を出ると、しずか達がのび太を待っていた。

 

 ジャイアンは、照れくさそうに頭を掻いた。

 

「なあ、のび太。腹、減ってないか?」

 

「……ちょっとね」

 

「よし! じゃあ、何か食いに行こうぜ!」

 

 そう言いかけて、ジャイアンは慌てて口をつぐんだ。

 

「……いや、無理にとは言わねえぞ。食いたくなかったら、別にいいからな」

 

 のび太は、そんなジャイアンを見て、小さく笑った。

 

「ありがとう、ジャイアン。でも……今日は、何か食べたいな」

 

「お、おう!」

 

 ジャイアンは、嬉しそうに顔を輝かせた。

 

「じゃあ、みんなで行こうぜ!」

 

「どこにする?」

 

 スネ夫が尋ねる。

 

 のび太は少し考えた。

 

 何が食べたいのか。

 

 どこへ行きたいのか。

 

 自分の気持ちを探る。

 

 まだ、はっきりとはわからない。

 

 それでも、今日は。

 

「……カツ丼、食べたいな」

 

 ぽつりと答えた。

 

「カツ丼?」

 

 しずかが目を丸くする。

 

「うん。なんだか、食べてみたいんだ」

 

「いいじゃないか! よし、カツ丼だ!」

 

 ジャイアンが笑う。

 

 スネ夫も、しずかも、笑った。

 

 ドラえもんは、少し離れたところで、その光景を見つめていた。

 

 のび太は、まだ完全に回復したわけではない。

 

 これからも、突然苦しくなる日があるかもしれない。

 

 自分を責めてしまうこともあるだろう。

 

 心の傷が、すべて消えるわけではない。

 

 けれど、今日。

 

 のび太は、自分の人生を縛っていたものから、一歩離れた。

 

 母親を憎み続けるためではない。

 

 母親に勝ったと証明するためでもない。

 

 ただ、自分が自分として生きるために。

 

     ◇

 

 帰り道。

 

 のび太は、ふと立ち止まった。

 

「……ドラえもん」

 

「なあに?」

 

「僕、今日……ちゃんと話せたかな」

 

 ドラえもんは、少し驚いたあと、優しく笑った。

 

「うん。ちゃんと話せたよ」

 

「……そっか」

 

 のび太は、空を見上げた。

 

 それから、照れくさそうに笑った。

 

「……なんだか、少しだけ、すっきりした気がする」

 

 ドラえもんの目から、涙が零れた。

 

「……よかったね、のび太くん」

 

 のび太は、ドラえもんの顔を見て、慌てた。

 

「えっ、ドラえもん? どうして泣いてるの?」

 

「な、泣いてなんかないよ!」

 

「いや、絶対泣いてるよ!」

 

「うるさいなあ、もう!」

 

 ドラえもんが慌てて顔を背ける。

 

 その様子を見て、しずか達が笑った。

 

 そして、のび太も笑った。

 

 ほんの少し、照れくさそうに。

 

 けれど、今度の笑顔は、誰かに認めてもらうためのものではなかった。

 

 自分の気持ちから生まれた笑顔だった。

 

 ドラえもんは、その顔を見つめた。

 

 かつて、空き地を走り回っていた少年。

 

 失敗しては泣き、助けを求め、友達と笑い合っていた少年。

 

 母親の期待に応えようとして、心を失いかけた少年。

 

 その少年が、今、ほんの少しだけ、戻ってきたように見えた。

 

 もちろん、あの頃とまったく同じではない。

 

 失われた時間は戻らない。

 

 受けた傷も、消えた記憶も、なかったことにはならない。

 

 それでも。

 

 のび太は、もう一度、自分の足で歩き始めていた。

 

「……ねえ、ドラえもん」

 

「何?」

 

「これから、少しずつでいいから……僕、自分の好きなことを探してみたいんだ」

 

 ドラえもんは、満面の笑みを浮かべた。

 

「うん! 一緒に探そう!」

 

「しずかちゃんも、付き合ってくれる?」

 

「もちろんよ、のび太さん」

 

「俺も付き合うぞ!」

 

「僕もね!」

 

 四人の声が、夕暮れの町に響いた。

 

 のび太は、仲間達を見回した。

 

 その表情は、柔らかかった。

 

 怯えも、義務感も、誰かの顔色を窺うような緊張も、今は少しだけ薄れていた。

 

 あの頃の、優しいのび太の顔だった。

 

 そして、彼は心の中で、静かに告げた。

 

 ――さようなら、お母さん。

 

 ――僕は、もう、あなたのためだけに生きることはしない。

 

 ――これからは、僕自身のために生きていく。

 

 それは、母親を憎むための決別ではなかった。

 

 いつか母親が変わってくれることを期待して、待ち続けるための決別でもなかった。

 

 自分の心を守るための、決別だった。

 

 のび太は、ドラえもん達と一緒に歩き続けた。

 

 その顔には、久しく見られなかった穏やかな笑みが浮かんでいた。

 

 彼の人生は、まだこれからだった。

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