もしものび太のお母さんが毒親になったら   作:武藤 桜

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最終章「動き始めた今」

第22話 もう一度、人生を始めよう

 あれから、数年の月日が流れた。

 

 春の陽射しが、街路樹の若葉を優しく照らしていた。

 

 かつて、何を見ても色を感じられず、何を食べても味が分からず、自分が何を望んでいるのかさえ分からなくなっていた少年は、今、一着の白いタキシードに身を包んでいた。

 

 鏡の前に立つ青年――野比のび太は、少し緊張した面持ちで自分の姿を見つめていた。

 

 今日は、彼の人生にとって特別な日だった。

 

 源静香との結婚式。

 

 幼い頃から一緒に過ごし、時には喧嘩をし、時には笑い合い、そして何度も彼の心が壊れそうになる瞬間を支えてくれた、大切な人との新しい門出の日だった。

 

「……なんだか、まだ夢みたいだな」

 

 のび太は小さく呟いた。

 

 その言葉を聞いて、隣にいたドラえもんが目を細める。

 

「夢じゃないよ、のび太くん。今日は君の結婚式だ」

 

「うん……分かってる。でもさ、昔の僕だったら、こんな日が来るなんて想像もできなかったと思うんだ」

 

 のび太は自分の手を見つめた。

 

 かつて、その手は母親の期待に応えるためだけに動かされていた。

 

 勉強をするため。仕事をするため。怒られないため。失望されないため。

 

 休むことすら許されないと思い込み、自分の感情を押し殺して、ただ機械のように動き続けた。

 

 何かを成し遂げても、褒められるどころか、もっと上を求められた。

 

 失敗すれば責められ、疲れたと言えば甘えるなと叱られた。

 

 その繰り返しの中で、のび太は自分の人生を生きることを忘れてしまった。

 

 生きているのに、生きている気がしなかった。

 

 そんな彼が今、自分の意志で選んだ人と結婚しようとしている。

 

 誰かに命令されたからではない。

 

 誰かの期待に応えるためでもない。

 

 自分が静香を愛していて、静香と一緒に生きていきたいと願ったからだ。

 

「……僕、ここまで来られたんだね」

 

「うん。ここまで来たんだよ」

 

 ドラえもんは、のび太の肩にそっと手を置いた。

 

「もちろん、つらかったことが全部なくなったわけじゃない。今だって、苦しくなる日がある。怖い夢を見ることだってある。でも、君はそのたびに助けを求めて、少しずつ前に進んできたんだ」

 

「うん……」

 

「だから今日は、無理に立派な新郎になろうとしなくていい。緊張してもいいし、泣いちゃってもいい。君は君のままで、静香ちゃんのところへ行けばいいんだよ」

 

 のび太は目を伏せた。

 

 それから、ゆっくりと顔を上げた。

 

「ありがとう、ドラえもん」

 

 その笑顔には、まだわずかな緊張が残っていた。

 

 けれど、かつてのような、何も感じていない人形の笑顔ではなかった。

 

 嬉しさも、不安も、期待も、全部がそこにあった。

 

 彼は今、自分の人生を生きていた。

 

 そのことが、何よりも大切だった。

 

     *

 

 結婚式場には、懐かしい顔ぶれが集まっていた。

 

「おい、のび太! いつまで待たせるんだよ!」

 

 ジャイアンが、いつもの大きな声を響かせる。

 

「ジャイアン、そんなに急かさないでよ。のび太さん、緊張しているんだから」

 

 隣のしずかが、困ったように笑った。

 

「へっ、こいつが緊張するなんて、いつものことじゃねえか!」

 

「まあまあ。今日くらいは大目に見てあげようよ」

 

 スネ夫がそう言いながら、目元を拭った。

 

「……スネ夫、もう泣いてるの?」

 

「泣いてないよ! これは、その……感動の準備だよ!」

 

「なんだよ、感動の準備って!」

 

 ジャイアンが笑い、スネ夫が言い返す。

 

 そのやり取りを聞いて、のび太も思わず吹き出した。

 

 昔と変わらない光景だった。

 

 ただ一つ違うのは、のび太がもう、みんなの笑い声を恐れていないことだった。

 

 かつては、誰かが笑っているだけで、自分が失敗したのではないかと身構えていた。

 

 誰かの声が大きくなるだけで、母親に怒鳴られた記憶が蘇ることもあった。

 

 それでも今は、少しずつ分かるようになっていた。

 

 笑い声が、必ずしも自分を責めるものではないこと。

 

 誰かが怒っているからといって、自分が悪いとは限らないこと。

 

 そして、自分が失敗したとしても、大切な人たちは必ずしも自分を見捨てるわけではないこと。

 

「のび太さん」

 

 しずかが彼の前に立った。

 

 純白のウェディングドレスに身を包んだ彼女は、昔と同じ優しい瞳でのび太を見つめていた。

 

「今日は、いっぱい笑おうね」

 

「……うん」

 

「泣いてもいいのよ。嬉しいときも、悲しいときも。あなたがどんな気持ちになっても、私はそばにいるから」

 

 のび太は、しずかの手を取った。

 

「静香ちゃん……僕、これからも迷惑をかけちゃうかもしれない」

 

「うん」

 

「急に怖くなったり、自分が何をしたいのか分からなくなったり……昔のことを思い出して、動けなくなる日もあるかもしれない」

 

「うん」

 

「それでも……一緒にいてくれる?」

 

 しずかは、少しだけ目を潤ませた。

 

「もちろんよ。でもね、のび太さん」

 

 彼女は、握った手に優しく力を込めた。

 

「私もあなたに頼るわ。私だって、いつも強くいられるわけじゃないもの。二人で相談して、二人で考えて、二人で歩いていきましょう?」

 

「……二人で」

 

「ええ。あなたが私を支えてくれる日もあれば、私があなたを支える日もある。どちらか一人が、ずっと頑張り続けなくてもいいのよ」

 

 のび太の胸が、じんわりと温かくなった。

 

 誰かと一緒に生きるということは、相手のために自分を犠牲にし続けることではない。

 

 弱さを隠し、何でも一人で背負い、完璧であり続けることでもない。

 

 互いに頼り、互いに支え合いながら、時には立ち止まっても、一緒に歩いていくこと。

 

 それが、のび太の望んでいた家族の形だった。

 

「……静香ちゃん。僕、君と結婚できて、本当に嬉しいよ」

 

「私もよ、のび太さん」

 

 二人は、そっと額を寄せ合った。

 

     *

 

 そして、式が始まった。

 

 参列者たちが見守る中、のび太は静香の手を取り、祭壇の前へと歩いていく。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 その足取りは、決して速くはなかった。

 

 けれど、確かなものだった。

 

 かつてののび太なら、周囲の視線を気にしていただろう。

 

 失敗してはいけない。間違えてはいけない。みんなの期待を裏切ってはいけない。

 

 そんな考えに追い詰められ、何度も自分を責めていたかもしれない。

 

 しかし、今の彼は違った。

 

 少し足がもつれそうになっても、静香が手を握ってくれる。

 

 緊張で喉が詰まっても、急かす人はいない。

 

 もし言葉を間違えたとしても、きっと二人で笑い合える。

 

 そう思えた。

 

 祭壇の前に立った二人を、参列者たちが温かい拍手で迎える。

 

 ドラえもんは、青い顔を両手で覆っていた。

 

「うう……のび太くん……本当に、よかった……!」

 

「おい、ドラえもん。まだ式は始まったばっかりだぞ」

 

 ジャイアンも、目を赤くしながら言った。

 

「うるさいなあ……! 分かってるよ……!」

 

 スネ夫はハンカチを握り締め、しずかの両親も、嬉しそうに二人を見つめていた。

 

 そして、その中に――もう一人、大切な人がいた。

 

 のび太が、どうしてもこの日に招待したかった人。

 

 彼の人生を取り戻すきっかけとなった、もう一つの世界の母親。

 

 優しい野比玉子だった。

 

     *

 

 式の前日。

 

 のび太は、ドラえもんとともに、再び平行世界を訪れていた。

 

 あの世界で、初めて自分を抱き締めてくれた母親に、直接お願いをするためだった。

 

「……お母さん」

 

 優しい玉子は、息子の声に振り返った。

 

「まあ、のび太くん。どうしたの?」

 

 彼女は、いつものように柔らかな笑顔を浮かべた。

 

 その笑顔を見るたびに、のび太の胸には、嬉しさと痛みが同時に込み上げた。

 

 自分の世界では、決して向けられることのなかった笑顔。

 

 欲しくて、欲しくて、何年も求め続けたのに、とうとう手に入らなかったもの。

 

 それを今、目の前の人は、何のためらいもなく与えてくれる。

 

 それでも、のび太はもう、彼女に自分の母親になってほしいと願っているわけではなかった。

 

 彼女は彼女の世界で生きる、もう一人の玉子なのだ。

 

 自分の母親とは違う人だと、分かっている。

 

 それでも――。

 

「……僕、結婚するんだ」

 

「ええ、聞いたわ! 静香さんとでしょう?」

 

「うん。明日なんだ」

 

「まあ……!」

 

 玉子は、両手を胸の前で合わせた。

 

「おめでとう、のび太くん! 本当に、おめでとう!」

 

 その声が、あまりにも温かかった。

 

 のび太は一瞬、何も言えなくなった。

 

 喉の奥が熱くなり、目の前が滲む。

 

 それでも、彼は言葉を絞り出した。

 

「……それでね。お願いがあるんだ」

 

「なあに?」

 

「……明日の結婚式に、来てくれないかな」

 

 玉子は目を丸くした。

 

「私が……?」

 

「うん」

 

 のび太は、ゆっくりと頷いた。

 

「本当のお母さんじゃないってことは、分かってる。僕のお母さんは……僕が生まれた世界にいる、あの人だから」

 

 そこで、のび太は一度言葉を切った。

 

 まだ、実の母親のことを考えると胸が苦しくなる。

 

 あの日、決別を告げたときの怒鳴り声も、責めるような視線も、完全に消えたわけではない。

 

 けれど、もう、その人の許しを得なければ幸せになれないとは思っていなかった。

 

「でも……僕は、あなたに会えてよかった」

 

 のび太は、涙を浮かべながら微笑んだ。

 

「あのとき、僕がずっと欲しかった言葉をくれたから。僕が生まれてきたことを、喜んでくれたから……」

 

 玉子は、静かに彼の言葉を聞いていた。

 

「僕、あの言葉を忘れたくないんだ。これから先、またつらいことがあったときも、思い出せるようにしたいんだ」

 

 彼は、自分の胸に手を当てた。

 

「だから……僕の結婚を、あなたにも祝福してほしいんだ」

 

 玉子の目から、一筋の涙がこぼれた。

 

「……のび太くん」

 

「もちろん、無理ならいいんだ。あなたにも、あなたの生活があるし……」

 

「行くわ」

 

 玉子は、迷わず答えた。

 

「え……?」

 

「行かせてちょうだい。あなたの大切な日を、私にもお祝いさせて」

 

 彼女は、のび太の前まで歩み寄った。

 

「あなたが幸せになろうとしている姿を、ちゃんと見届けたいの」

 

 のび太は、唇を震わせた。

 

「……ありがとう」

 

 玉子は、そっと両手を広げた。

 

「抱き締めてもいい?」

 

 それは、初めて会ったときと同じ問いかけだった。

 

 あのとき、のび太は泣きながら、その腕の中に飛び込んだ。

 

 今も、胸の奥には、あのときと同じ痛みがある。

 

 けれど、今の彼には、自分の意志で選ぶことができた。

 

「……うん」

 

 のび太は、自分から一歩近づいた。

 

 そして、優しい玉子の胸に、そっと身を預けた。

 

「……僕、幸せになってもいいんだよね」

 

「ええ」

 

 玉子は、彼の背中を優しく撫でた。

 

「もちろんよ」

 

「……もう、頑張り続けなくてもいいんだよね」

 

「ええ。疲れたら休んでいいの。困ったら誰かに頼っていいのよ」

 

「……失敗しても?」

 

「失敗しても」

 

「……何もできない日があっても?」

 

「何もできない日があっても」

 

 玉子は、のび太の頭をそっと撫でた。

 

「のび太くんが、のび太くんであることは変わらないもの」

 

 のび太は、彼女の胸元で目を閉じた。

 

「……ありがとう、お母さん」

 

 その言葉を口にした瞬間、玉子の腕が、ほんの少しだけ強くなった。

 

 のび太にとって、彼女は実の母親ではない。

 

 自分の世界で起きた出来事を、なかったことにしてくれる存在でもない。

 

 けれど、彼女がくれた愛情は、本物だった。

 

 だからこそ、のび太はその愛情を胸に抱いて、明日へ向かうことができる。

 

 玉子は、彼の耳元で、あの日と同じ言葉を囁いた。

 

「のび太くん。生まれてきてくれて、ありがとう」

 

 のび太は泣いた。

 

 今度の涙は、悲しみだけではなかった。

 

 ずっと欲しかった言葉を、もう一度受け取れたこと。

 

 それを抱き締めながら、自分の未来を歩いていけること。

 

 その喜びが、涙になって溢れていた。

 

     *

 

 結婚式の最中。

 

 のび太は、参列者席に座る玉子を見つけた。

 

 彼女は、目が合うと優しく微笑み、静かに頷いた。

 

 それだけで、のび太の胸はいっぱいになった。

 

 やがて、誓いの言葉を交わす時間が訪れる。

 

 のび太は、静香の手を握り締めた。

 

 指先が、少し震えている。

 

 静香は、その震えに気づいて、彼の手を握り返した。

 

「大丈夫よ」

 

 小さな声だった。

 

「ゆっくりでいいからね」

 

 のび太は頷き、静香の目を見た。

 

 そして、自分の言葉で誓った。

 

「僕は……君と一緒に、これからの人生を歩いていきたい」

 

 声は、少しだけ掠れていた。

 

「嬉しいことがあったら、一緒に喜びたい。つらいことがあったら、ちゃんと話し合いたい。僕が間違えたら、きちんと謝りたいし……君がつらいときは、僕にも頼ってほしい」

 

 のび太は、涙をこらえながら続けた。

 

「僕は、完璧な人間じゃない。これからも失敗すると思うし、うまくできないことも、たくさんあると思う」

 

 彼は、少し照れくさそうに笑った。

 

「でも……君と一緒なら、そんな自分のことも、少しずつ受け入れていける気がするんだ」

 

 静香の瞳から、涙がこぼれた。

 

「だから……僕と、これからも一緒にいてください」

 

 静香は、満面の笑みを浮かべた。

 

「はい。喜んで」

 

 拍手が沸き起こった。

 

 ドラえもんはとうとう声を上げて泣き出し、ジャイアンは何度も鼻をすすり、スネ夫はハンカチをぐしゃぐしゃにしていた。

 

 玉子もまた、涙を拭いながら、二人に拍手を送っていた。

 

 そして、のび太は彼女の姿を見つめながら、心の中で呟いた。

 

 ――お母さん。

 

 ――僕、今、幸せだよ。

 

 ――昔は、幸せになることさえ、許されないような気がしていたんだ。

 

 ――何かを成し遂げなければ、誰かの役に立たなければ、僕には生きている価値なんてないと思っていた。

 

 ――でも、違ったんだね。

 

 ――僕は、僕のままでよかったんだ。

 

 ――何もできない日があっても、失敗しても、泣いてしまっても。

 

 ――僕は、僕として生きていてよかったんだ。

 

 彼は、静香の手を握り直した。

 

 もう一度、前を向く。

 

 今度は、誰かに命じられた道ではない。

 

 誰かの機嫌を損ねないために選んだ道でもない。

 

 自分が望み、自分が選んだ道だった。

 

     *

 

 式の後。

 

 新郎新婦が参列者たちに祝福される中、のび太は玉子のもとへ歩いていった。

 

「お母さん」

 

「のび太くん!」

 

 玉子は、嬉しそうに両手を広げた。

 

「とっても素敵な結婚式だったわ。静香さん、本当に綺麗だったわね」

 

「うん。僕にはもったいないくらいだよ」

 

「あら、そんなことを言ったら静香さんに失礼よ?」

 

「そ、そうだね。ごめん、静香ちゃん」

 

 のび太が慌てると、静香はくすくすと笑った。

 

「もう、のび太さんったら」

 

 その何気ないやり取りを見て、玉子は目を細めた。

 

 かつて、この青年は、自分を卑下することしかできなかった。

 

 自分の価値を、他人の評価だけで決めようとしていた。

 

 それが今では、照れながらも、自分の幸せを口にできるようになっている。

 

 完璧になったわけではない。

 

 心の傷が消えたわけでもない。

 

 それでも、確かに変わっていた。

 

 自分の気持ちを言葉にし、自分の望みを伝え、大切な人の手を取って歩いていけるようになった。

 

 玉子は、のび太の頬にそっと手を添えた。

 

「のび太くん」

 

「うん?」

 

「これから、いろんなことがあると思うわ」

 

 彼女は優しく語りかけた。

 

「楽しいことも、悲しいことも。思いどおりにいかないことも、きっとあるでしょうね」

 

「……うん」

 

「そんなときは、どうか自分を責めすぎないでね。何かができなくなったからって、あなたの価値がなくなるわけじゃないの」

 

 のび太は、真剣に彼女の言葉を聞いていた。

 

「あなたの人生は、あなたのものよ。誰かを幸せにすることも大切だけれど、あなた自身が幸せでいることも、同じくらい大切なの」

 

 玉子は、彼の額にそっと自分の額を寄せた。

 

「どうか、あなた自身のことも大切にしてあげてね」

 

 のび太は、何度も頷いた。

 

「……うん。約束する」

 

 それから、少しだけ恥ずかしそうに笑った。

 

「僕、これから静香ちゃんと、いろんなことをしてみたいんだ」

 

「まあ、どんなこと?」

 

「うーん……まだ、よく分からない」

 

 のび太は、困ったように頭を掻いた。

 

「行ってみたい場所も、食べてみたいものも、まだまだ知らないことばっかりだし。僕、自分が何を好きなのか、これから見つけていきたいんだ」

 

 玉子は、嬉しそうに笑った。

 

「素敵じゃない」

 

「そうかな?」

 

「ええ。これから見つけていけばいいのよ」

 

 のび太は、ふと、昔の自分を思い出した。

 

 何を好きだと言っても、そんなことをしている暇があるなら勉強しろと叱られた。

 

 何をしたいと言っても、そんなことは無駄だと否定された。

 

 いつしか、好きなものを見つけることさえ、怖くなっていた。

 

 けれど、今は違う。

 

 まだ知らないものがたくさんある。

 

 これから、初めて経験することもたくさんある。

 

 そのすべてを、誰かの許可を待たずに、自分で選んでいいのだ。

 

「……僕、これからの人生が楽しみだよ」

 

 のび太は、はっきりとそう言った。

 

 玉子の目に、また涙が浮かんだ。

 

「ええ。いっぱい楽しんでね、のび太くん」

 

 そして、彼女は最後にもう一度、のび太を抱き締めた。

 

「結婚、おめでとう」

 

「……ありがとう、お母さん」

 

 のび太は、その腕の中で微笑んだ。

 

     *

 

 帰り際。

 

 平行世界へ戻るため、ドラえもんがどこでもドアを開いた。

 

 玉子は扉の向こうへ進む前に、もう一度、のび太を振り返った。

 

「のび太くん!」

 

「なあに?」

 

「幸せにね!」

 

 のび太は、大きく頷いた。

 

「うん!」

 

 そして、少し考えてから、笑顔で付け加えた。

 

「僕、自分のペースで幸せになるよ!」

 

 玉子は、心から嬉しそうに笑った。

 

「ええ。それが一番よ!」

 

 扉が閉じる。

 

 彼女の姿が見えなくなっても、のび太の胸には、あの温かな言葉が残っていた。

 

 生まれてきてくれて、ありがとう。

 

 幸せになっていい。

 

 あなたは、あなたのままでいい。

 

 その言葉は、過去を消してはくれない。

 

 幼い頃に受けた傷を、なかったことにしてくれるわけでもない。

 

 これから先、突然つらい記憶が蘇る日もあるだろう。

 

 何気ない声に怯えたり、自分を責める気持ちに囚われたりすることもあるかもしれない。

 

 それでも、のび太にはもう、知っていることがあった。

 

 苦しいときは、助けを求めていい。

 

 つらいときは、立ち止まっていい。

 

 自分の気持ちが分からないときは、ゆっくり探せばいい。

 

 そして、自分を傷つける人から離れたっていい。

 

 彼の人生は、誰かの所有物ではないのだから。

 

「のび太くん、行こう!」

 

 ドラえもんが呼びかける。

 

「うん!」

 

 のび太は、静香の手を取った。

 

 少し離れたところでは、ジャイアンとスネ夫が、二次会の店をどちらにするかで言い争っている。

 

「おい、のび太! お前も来いよ!」

 

「そうそう! 今日は主役なんだから、好きなものを選んでいいんだぞ!」

 

「えっ、好きなもの?」

 

 のび太は、思わず聞き返した。

 

「ああ。何でもいいぞ!」

 

「予算の範囲内ならね!」

 

 スネ夫が慌てて付け加える。

 

 みんなが笑った。

 

 のび太も笑った。

 

 そして、少し考えた後、顔を上げた。

 

「……じゃあ、カツ丼が食べたいな」

 

「またカツ丼かよ!」

 

 ジャイアンが大声で笑う。

 

「いいじゃない。のび太さんが食べたいものなんだから」

 

 静香が微笑んだ。

 

「そうだね。じゃあ、カツ丼を食べに行こう!」

 

 ドラえもんも、嬉しそうに頷いた。

 

 何でもない、ありふれた会話だった。

 

 けれど、のび太にとっては、それが何よりも大切なことだった。

 

 自分が食べたいものを、自分で選ぶ。

 

 行きたい場所を、自分で決める。

 

 疲れたら休み、楽しいときは笑う。

 

 誰かに認められるためではなく、自分がそうしたいから、そうする。

 

 そんな当たり前のことを、彼はこれから一つずつ覚えていく。

 

 かつて、母親の言葉によって止められてしまった人生。

 

 あの日から、長い長い時間が過ぎた。

 

 失われた子供時代は、もう戻らない。

 

 叶わなかった願いも、受けられなかった愛情も、過去に遡って取り戻すことはできない。

 

 それでも。

 

 これからの人生まで、失われたわけではなかった。

 

 のび太は、隣を歩く静香を見た。

 

 静香は彼の視線に気づき、優しく微笑んだ。

 

「どうしたの、のび太さん?」

 

「ううん。何でもない」

 

 そう答えてから、のび太は少し考えた。

 

「……いや、やっぱり、何でもなくないかな」

 

「え?」

 

「僕ね……今、すごく幸せなんだ」

 

 静香は、目を丸くした。

 

 そして、すぐに微笑んだ。

 

「私もよ」

 

 二人は、手を繋いだまま歩いていく。

 

 その後ろを、ドラえもんと友人たちが追いかける。

 

 空は青く、風は穏やかだった。

 

 世界は、かつてのように灰色ではなかった。

 

 目に映る景色には、色があった。

 

 道端に咲く花の色。

 

 青空の色。

 

 静香のドレスの白。

 

 友人たちの笑顔。

 

 そして、これから自分が選んでいく、まだ見ぬ未来の色。

 

 のび太は、その景色をゆっくりと見渡した。

 

 もう、誰かの期待を満たすためだけに生きる必要はない。

 

 もう、誰かの許しがなければ幸せになれないわけでもない。

 

 自分の人生を、自分の足で歩いていく。

 

 時には転ぶかもしれない。

 

 立ち止まるかもしれない。

 

 それでも、また歩き出せばいい。

 

 隣には、共に歩いてくれる人がいる。

 

 困ったときには手を差し伸べてくれる友人たちがいる。

 

 そして、あの日に受け取った温かな祝福が、これからも彼の心を支えてくれる。

 

 のび太は、空を見上げた。

 

「……お母さん」

 

 小さく、呟く。

 

 もう、返事を求めることはなかった。

 

 許してほしいわけでもない。

 

 認めてほしいわけでもない。

 

 ただ、自分の心に伝えたかった。

 

 ――僕は、もう大丈夫だよ。

 

 ――これからは、僕の人生を生きていく。

 

 ――僕が僕であることを、大切にしながら。

 

 彼は、静香の手を握り直した。

 

「さあ、行こうか」

 

「ええ!」

 

 二人は、歩き出した。

 

 その足取りは、ゆっくりだった。

 

 けれど、もう止まってはいなかった。

 

 長い間、傷ついたまま立ち止まっていた野比のび太の人生は、この日、ようやく新しい一歩を踏み出したのだった。

 

 誰かに命じられた未来ではなく。

 

 誰かに認められるためだけの未来でもなく。

 

 自分自身が幸せになるための、彼だけの未来へ。

 

 そして、彼はこれから何度でも、自分の人生を始めていくのだ。

 

 ――生まれてきてくれて、ありがとう。

 

 その言葉を胸に抱きながら。

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