第22話 もう一度、人生を始めよう
あれから、数年の月日が流れた。
春の陽射しが、街路樹の若葉を優しく照らしていた。
かつて、何を見ても色を感じられず、何を食べても味が分からず、自分が何を望んでいるのかさえ分からなくなっていた少年は、今、一着の白いタキシードに身を包んでいた。
鏡の前に立つ青年――野比のび太は、少し緊張した面持ちで自分の姿を見つめていた。
今日は、彼の人生にとって特別な日だった。
源静香との結婚式。
幼い頃から一緒に過ごし、時には喧嘩をし、時には笑い合い、そして何度も彼の心が壊れそうになる瞬間を支えてくれた、大切な人との新しい門出の日だった。
「……なんだか、まだ夢みたいだな」
のび太は小さく呟いた。
その言葉を聞いて、隣にいたドラえもんが目を細める。
「夢じゃないよ、のび太くん。今日は君の結婚式だ」
「うん……分かってる。でもさ、昔の僕だったら、こんな日が来るなんて想像もできなかったと思うんだ」
のび太は自分の手を見つめた。
かつて、その手は母親の期待に応えるためだけに動かされていた。
勉強をするため。仕事をするため。怒られないため。失望されないため。
休むことすら許されないと思い込み、自分の感情を押し殺して、ただ機械のように動き続けた。
何かを成し遂げても、褒められるどころか、もっと上を求められた。
失敗すれば責められ、疲れたと言えば甘えるなと叱られた。
その繰り返しの中で、のび太は自分の人生を生きることを忘れてしまった。
生きているのに、生きている気がしなかった。
そんな彼が今、自分の意志で選んだ人と結婚しようとしている。
誰かに命令されたからではない。
誰かの期待に応えるためでもない。
自分が静香を愛していて、静香と一緒に生きていきたいと願ったからだ。
「……僕、ここまで来られたんだね」
「うん。ここまで来たんだよ」
ドラえもんは、のび太の肩にそっと手を置いた。
「もちろん、つらかったことが全部なくなったわけじゃない。今だって、苦しくなる日がある。怖い夢を見ることだってある。でも、君はそのたびに助けを求めて、少しずつ前に進んできたんだ」
「うん……」
「だから今日は、無理に立派な新郎になろうとしなくていい。緊張してもいいし、泣いちゃってもいい。君は君のままで、静香ちゃんのところへ行けばいいんだよ」
のび太は目を伏せた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「ありがとう、ドラえもん」
その笑顔には、まだわずかな緊張が残っていた。
けれど、かつてのような、何も感じていない人形の笑顔ではなかった。
嬉しさも、不安も、期待も、全部がそこにあった。
彼は今、自分の人生を生きていた。
そのことが、何よりも大切だった。
*
結婚式場には、懐かしい顔ぶれが集まっていた。
「おい、のび太! いつまで待たせるんだよ!」
ジャイアンが、いつもの大きな声を響かせる。
「ジャイアン、そんなに急かさないでよ。のび太さん、緊張しているんだから」
隣のしずかが、困ったように笑った。
「へっ、こいつが緊張するなんて、いつものことじゃねえか!」
「まあまあ。今日くらいは大目に見てあげようよ」
スネ夫がそう言いながら、目元を拭った。
「……スネ夫、もう泣いてるの?」
「泣いてないよ! これは、その……感動の準備だよ!」
「なんだよ、感動の準備って!」
ジャイアンが笑い、スネ夫が言い返す。
そのやり取りを聞いて、のび太も思わず吹き出した。
昔と変わらない光景だった。
ただ一つ違うのは、のび太がもう、みんなの笑い声を恐れていないことだった。
かつては、誰かが笑っているだけで、自分が失敗したのではないかと身構えていた。
誰かの声が大きくなるだけで、母親に怒鳴られた記憶が蘇ることもあった。
それでも今は、少しずつ分かるようになっていた。
笑い声が、必ずしも自分を責めるものではないこと。
誰かが怒っているからといって、自分が悪いとは限らないこと。
そして、自分が失敗したとしても、大切な人たちは必ずしも自分を見捨てるわけではないこと。
「のび太さん」
しずかが彼の前に立った。
純白のウェディングドレスに身を包んだ彼女は、昔と同じ優しい瞳でのび太を見つめていた。
「今日は、いっぱい笑おうね」
「……うん」
「泣いてもいいのよ。嬉しいときも、悲しいときも。あなたがどんな気持ちになっても、私はそばにいるから」
のび太は、しずかの手を取った。
「静香ちゃん……僕、これからも迷惑をかけちゃうかもしれない」
「うん」
「急に怖くなったり、自分が何をしたいのか分からなくなったり……昔のことを思い出して、動けなくなる日もあるかもしれない」
「うん」
「それでも……一緒にいてくれる?」
しずかは、少しだけ目を潤ませた。
「もちろんよ。でもね、のび太さん」
彼女は、握った手に優しく力を込めた。
「私もあなたに頼るわ。私だって、いつも強くいられるわけじゃないもの。二人で相談して、二人で考えて、二人で歩いていきましょう?」
「……二人で」
「ええ。あなたが私を支えてくれる日もあれば、私があなたを支える日もある。どちらか一人が、ずっと頑張り続けなくてもいいのよ」
のび太の胸が、じんわりと温かくなった。
誰かと一緒に生きるということは、相手のために自分を犠牲にし続けることではない。
弱さを隠し、何でも一人で背負い、完璧であり続けることでもない。
互いに頼り、互いに支え合いながら、時には立ち止まっても、一緒に歩いていくこと。
それが、のび太の望んでいた家族の形だった。
「……静香ちゃん。僕、君と結婚できて、本当に嬉しいよ」
「私もよ、のび太さん」
二人は、そっと額を寄せ合った。
*
そして、式が始まった。
参列者たちが見守る中、のび太は静香の手を取り、祭壇の前へと歩いていく。
一歩。
また一歩。
その足取りは、決して速くはなかった。
けれど、確かなものだった。
かつてののび太なら、周囲の視線を気にしていただろう。
失敗してはいけない。間違えてはいけない。みんなの期待を裏切ってはいけない。
そんな考えに追い詰められ、何度も自分を責めていたかもしれない。
しかし、今の彼は違った。
少し足がもつれそうになっても、静香が手を握ってくれる。
緊張で喉が詰まっても、急かす人はいない。
もし言葉を間違えたとしても、きっと二人で笑い合える。
そう思えた。
祭壇の前に立った二人を、参列者たちが温かい拍手で迎える。
ドラえもんは、青い顔を両手で覆っていた。
「うう……のび太くん……本当に、よかった……!」
「おい、ドラえもん。まだ式は始まったばっかりだぞ」
ジャイアンも、目を赤くしながら言った。
「うるさいなあ……! 分かってるよ……!」
スネ夫はハンカチを握り締め、しずかの両親も、嬉しそうに二人を見つめていた。
そして、その中に――もう一人、大切な人がいた。
のび太が、どうしてもこの日に招待したかった人。
彼の人生を取り戻すきっかけとなった、もう一つの世界の母親。
優しい野比玉子だった。
*
式の前日。
のび太は、ドラえもんとともに、再び平行世界を訪れていた。
あの世界で、初めて自分を抱き締めてくれた母親に、直接お願いをするためだった。
「……お母さん」
優しい玉子は、息子の声に振り返った。
「まあ、のび太くん。どうしたの?」
彼女は、いつものように柔らかな笑顔を浮かべた。
その笑顔を見るたびに、のび太の胸には、嬉しさと痛みが同時に込み上げた。
自分の世界では、決して向けられることのなかった笑顔。
欲しくて、欲しくて、何年も求め続けたのに、とうとう手に入らなかったもの。
それを今、目の前の人は、何のためらいもなく与えてくれる。
それでも、のび太はもう、彼女に自分の母親になってほしいと願っているわけではなかった。
彼女は彼女の世界で生きる、もう一人の玉子なのだ。
自分の母親とは違う人だと、分かっている。
それでも――。
「……僕、結婚するんだ」
「ええ、聞いたわ! 静香さんとでしょう?」
「うん。明日なんだ」
「まあ……!」
玉子は、両手を胸の前で合わせた。
「おめでとう、のび太くん! 本当に、おめでとう!」
その声が、あまりにも温かかった。
のび太は一瞬、何も言えなくなった。
喉の奥が熱くなり、目の前が滲む。
それでも、彼は言葉を絞り出した。
「……それでね。お願いがあるんだ」
「なあに?」
「……明日の結婚式に、来てくれないかな」
玉子は目を丸くした。
「私が……?」
「うん」
のび太は、ゆっくりと頷いた。
「本当のお母さんじゃないってことは、分かってる。僕のお母さんは……僕が生まれた世界にいる、あの人だから」
そこで、のび太は一度言葉を切った。
まだ、実の母親のことを考えると胸が苦しくなる。
あの日、決別を告げたときの怒鳴り声も、責めるような視線も、完全に消えたわけではない。
けれど、もう、その人の許しを得なければ幸せになれないとは思っていなかった。
「でも……僕は、あなたに会えてよかった」
のび太は、涙を浮かべながら微笑んだ。
「あのとき、僕がずっと欲しかった言葉をくれたから。僕が生まれてきたことを、喜んでくれたから……」
玉子は、静かに彼の言葉を聞いていた。
「僕、あの言葉を忘れたくないんだ。これから先、またつらいことがあったときも、思い出せるようにしたいんだ」
彼は、自分の胸に手を当てた。
「だから……僕の結婚を、あなたにも祝福してほしいんだ」
玉子の目から、一筋の涙がこぼれた。
「……のび太くん」
「もちろん、無理ならいいんだ。あなたにも、あなたの生活があるし……」
「行くわ」
玉子は、迷わず答えた。
「え……?」
「行かせてちょうだい。あなたの大切な日を、私にもお祝いさせて」
彼女は、のび太の前まで歩み寄った。
「あなたが幸せになろうとしている姿を、ちゃんと見届けたいの」
のび太は、唇を震わせた。
「……ありがとう」
玉子は、そっと両手を広げた。
「抱き締めてもいい?」
それは、初めて会ったときと同じ問いかけだった。
あのとき、のび太は泣きながら、その腕の中に飛び込んだ。
今も、胸の奥には、あのときと同じ痛みがある。
けれど、今の彼には、自分の意志で選ぶことができた。
「……うん」
のび太は、自分から一歩近づいた。
そして、優しい玉子の胸に、そっと身を預けた。
「……僕、幸せになってもいいんだよね」
「ええ」
玉子は、彼の背中を優しく撫でた。
「もちろんよ」
「……もう、頑張り続けなくてもいいんだよね」
「ええ。疲れたら休んでいいの。困ったら誰かに頼っていいのよ」
「……失敗しても?」
「失敗しても」
「……何もできない日があっても?」
「何もできない日があっても」
玉子は、のび太の頭をそっと撫でた。
「のび太くんが、のび太くんであることは変わらないもの」
のび太は、彼女の胸元で目を閉じた。
「……ありがとう、お母さん」
その言葉を口にした瞬間、玉子の腕が、ほんの少しだけ強くなった。
のび太にとって、彼女は実の母親ではない。
自分の世界で起きた出来事を、なかったことにしてくれる存在でもない。
けれど、彼女がくれた愛情は、本物だった。
だからこそ、のび太はその愛情を胸に抱いて、明日へ向かうことができる。
玉子は、彼の耳元で、あの日と同じ言葉を囁いた。
「のび太くん。生まれてきてくれて、ありがとう」
のび太は泣いた。
今度の涙は、悲しみだけではなかった。
ずっと欲しかった言葉を、もう一度受け取れたこと。
それを抱き締めながら、自分の未来を歩いていけること。
その喜びが、涙になって溢れていた。
*
結婚式の最中。
のび太は、参列者席に座る玉子を見つけた。
彼女は、目が合うと優しく微笑み、静かに頷いた。
それだけで、のび太の胸はいっぱいになった。
やがて、誓いの言葉を交わす時間が訪れる。
のび太は、静香の手を握り締めた。
指先が、少し震えている。
静香は、その震えに気づいて、彼の手を握り返した。
「大丈夫よ」
小さな声だった。
「ゆっくりでいいからね」
のび太は頷き、静香の目を見た。
そして、自分の言葉で誓った。
「僕は……君と一緒に、これからの人生を歩いていきたい」
声は、少しだけ掠れていた。
「嬉しいことがあったら、一緒に喜びたい。つらいことがあったら、ちゃんと話し合いたい。僕が間違えたら、きちんと謝りたいし……君がつらいときは、僕にも頼ってほしい」
のび太は、涙をこらえながら続けた。
「僕は、完璧な人間じゃない。これからも失敗すると思うし、うまくできないことも、たくさんあると思う」
彼は、少し照れくさそうに笑った。
「でも……君と一緒なら、そんな自分のことも、少しずつ受け入れていける気がするんだ」
静香の瞳から、涙がこぼれた。
「だから……僕と、これからも一緒にいてください」
静香は、満面の笑みを浮かべた。
「はい。喜んで」
拍手が沸き起こった。
ドラえもんはとうとう声を上げて泣き出し、ジャイアンは何度も鼻をすすり、スネ夫はハンカチをぐしゃぐしゃにしていた。
玉子もまた、涙を拭いながら、二人に拍手を送っていた。
そして、のび太は彼女の姿を見つめながら、心の中で呟いた。
――お母さん。
――僕、今、幸せだよ。
――昔は、幸せになることさえ、許されないような気がしていたんだ。
――何かを成し遂げなければ、誰かの役に立たなければ、僕には生きている価値なんてないと思っていた。
――でも、違ったんだね。
――僕は、僕のままでよかったんだ。
――何もできない日があっても、失敗しても、泣いてしまっても。
――僕は、僕として生きていてよかったんだ。
彼は、静香の手を握り直した。
もう一度、前を向く。
今度は、誰かに命じられた道ではない。
誰かの機嫌を損ねないために選んだ道でもない。
自分が望み、自分が選んだ道だった。
*
式の後。
新郎新婦が参列者たちに祝福される中、のび太は玉子のもとへ歩いていった。
「お母さん」
「のび太くん!」
玉子は、嬉しそうに両手を広げた。
「とっても素敵な結婚式だったわ。静香さん、本当に綺麗だったわね」
「うん。僕にはもったいないくらいだよ」
「あら、そんなことを言ったら静香さんに失礼よ?」
「そ、そうだね。ごめん、静香ちゃん」
のび太が慌てると、静香はくすくすと笑った。
「もう、のび太さんったら」
その何気ないやり取りを見て、玉子は目を細めた。
かつて、この青年は、自分を卑下することしかできなかった。
自分の価値を、他人の評価だけで決めようとしていた。
それが今では、照れながらも、自分の幸せを口にできるようになっている。
完璧になったわけではない。
心の傷が消えたわけでもない。
それでも、確かに変わっていた。
自分の気持ちを言葉にし、自分の望みを伝え、大切な人の手を取って歩いていけるようになった。
玉子は、のび太の頬にそっと手を添えた。
「のび太くん」
「うん?」
「これから、いろんなことがあると思うわ」
彼女は優しく語りかけた。
「楽しいことも、悲しいことも。思いどおりにいかないことも、きっとあるでしょうね」
「……うん」
「そんなときは、どうか自分を責めすぎないでね。何かができなくなったからって、あなたの価値がなくなるわけじゃないの」
のび太は、真剣に彼女の言葉を聞いていた。
「あなたの人生は、あなたのものよ。誰かを幸せにすることも大切だけれど、あなた自身が幸せでいることも、同じくらい大切なの」
玉子は、彼の額にそっと自分の額を寄せた。
「どうか、あなた自身のことも大切にしてあげてね」
のび太は、何度も頷いた。
「……うん。約束する」
それから、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「僕、これから静香ちゃんと、いろんなことをしてみたいんだ」
「まあ、どんなこと?」
「うーん……まだ、よく分からない」
のび太は、困ったように頭を掻いた。
「行ってみたい場所も、食べてみたいものも、まだまだ知らないことばっかりだし。僕、自分が何を好きなのか、これから見つけていきたいんだ」
玉子は、嬉しそうに笑った。
「素敵じゃない」
「そうかな?」
「ええ。これから見つけていけばいいのよ」
のび太は、ふと、昔の自分を思い出した。
何を好きだと言っても、そんなことをしている暇があるなら勉強しろと叱られた。
何をしたいと言っても、そんなことは無駄だと否定された。
いつしか、好きなものを見つけることさえ、怖くなっていた。
けれど、今は違う。
まだ知らないものがたくさんある。
これから、初めて経験することもたくさんある。
そのすべてを、誰かの許可を待たずに、自分で選んでいいのだ。
「……僕、これからの人生が楽しみだよ」
のび太は、はっきりとそう言った。
玉子の目に、また涙が浮かんだ。
「ええ。いっぱい楽しんでね、のび太くん」
そして、彼女は最後にもう一度、のび太を抱き締めた。
「結婚、おめでとう」
「……ありがとう、お母さん」
のび太は、その腕の中で微笑んだ。
*
帰り際。
平行世界へ戻るため、ドラえもんがどこでもドアを開いた。
玉子は扉の向こうへ進む前に、もう一度、のび太を振り返った。
「のび太くん!」
「なあに?」
「幸せにね!」
のび太は、大きく頷いた。
「うん!」
そして、少し考えてから、笑顔で付け加えた。
「僕、自分のペースで幸せになるよ!」
玉子は、心から嬉しそうに笑った。
「ええ。それが一番よ!」
扉が閉じる。
彼女の姿が見えなくなっても、のび太の胸には、あの温かな言葉が残っていた。
生まれてきてくれて、ありがとう。
幸せになっていい。
あなたは、あなたのままでいい。
その言葉は、過去を消してはくれない。
幼い頃に受けた傷を、なかったことにしてくれるわけでもない。
これから先、突然つらい記憶が蘇る日もあるだろう。
何気ない声に怯えたり、自分を責める気持ちに囚われたりすることもあるかもしれない。
それでも、のび太にはもう、知っていることがあった。
苦しいときは、助けを求めていい。
つらいときは、立ち止まっていい。
自分の気持ちが分からないときは、ゆっくり探せばいい。
そして、自分を傷つける人から離れたっていい。
彼の人生は、誰かの所有物ではないのだから。
「のび太くん、行こう!」
ドラえもんが呼びかける。
「うん!」
のび太は、静香の手を取った。
少し離れたところでは、ジャイアンとスネ夫が、二次会の店をどちらにするかで言い争っている。
「おい、のび太! お前も来いよ!」
「そうそう! 今日は主役なんだから、好きなものを選んでいいんだぞ!」
「えっ、好きなもの?」
のび太は、思わず聞き返した。
「ああ。何でもいいぞ!」
「予算の範囲内ならね!」
スネ夫が慌てて付け加える。
みんなが笑った。
のび太も笑った。
そして、少し考えた後、顔を上げた。
「……じゃあ、カツ丼が食べたいな」
「またカツ丼かよ!」
ジャイアンが大声で笑う。
「いいじゃない。のび太さんが食べたいものなんだから」
静香が微笑んだ。
「そうだね。じゃあ、カツ丼を食べに行こう!」
ドラえもんも、嬉しそうに頷いた。
何でもない、ありふれた会話だった。
けれど、のび太にとっては、それが何よりも大切なことだった。
自分が食べたいものを、自分で選ぶ。
行きたい場所を、自分で決める。
疲れたら休み、楽しいときは笑う。
誰かに認められるためではなく、自分がそうしたいから、そうする。
そんな当たり前のことを、彼はこれから一つずつ覚えていく。
かつて、母親の言葉によって止められてしまった人生。
あの日から、長い長い時間が過ぎた。
失われた子供時代は、もう戻らない。
叶わなかった願いも、受けられなかった愛情も、過去に遡って取り戻すことはできない。
それでも。
これからの人生まで、失われたわけではなかった。
のび太は、隣を歩く静香を見た。
静香は彼の視線に気づき、優しく微笑んだ。
「どうしたの、のび太さん?」
「ううん。何でもない」
そう答えてから、のび太は少し考えた。
「……いや、やっぱり、何でもなくないかな」
「え?」
「僕ね……今、すごく幸せなんだ」
静香は、目を丸くした。
そして、すぐに微笑んだ。
「私もよ」
二人は、手を繋いだまま歩いていく。
その後ろを、ドラえもんと友人たちが追いかける。
空は青く、風は穏やかだった。
世界は、かつてのように灰色ではなかった。
目に映る景色には、色があった。
道端に咲く花の色。
青空の色。
静香のドレスの白。
友人たちの笑顔。
そして、これから自分が選んでいく、まだ見ぬ未来の色。
のび太は、その景色をゆっくりと見渡した。
もう、誰かの期待を満たすためだけに生きる必要はない。
もう、誰かの許しがなければ幸せになれないわけでもない。
自分の人生を、自分の足で歩いていく。
時には転ぶかもしれない。
立ち止まるかもしれない。
それでも、また歩き出せばいい。
隣には、共に歩いてくれる人がいる。
困ったときには手を差し伸べてくれる友人たちがいる。
そして、あの日に受け取った温かな祝福が、これからも彼の心を支えてくれる。
のび太は、空を見上げた。
「……お母さん」
小さく、呟く。
もう、返事を求めることはなかった。
許してほしいわけでもない。
認めてほしいわけでもない。
ただ、自分の心に伝えたかった。
――僕は、もう大丈夫だよ。
――これからは、僕の人生を生きていく。
――僕が僕であることを、大切にしながら。
彼は、静香の手を握り直した。
「さあ、行こうか」
「ええ!」
二人は、歩き出した。
その足取りは、ゆっくりだった。
けれど、もう止まってはいなかった。
長い間、傷ついたまま立ち止まっていた野比のび太の人生は、この日、ようやく新しい一歩を踏み出したのだった。
誰かに命じられた未来ではなく。
誰かに認められるためだけの未来でもなく。
自分自身が幸せになるための、彼だけの未来へ。
そして、彼はこれから何度でも、自分の人生を始めていくのだ。
――生まれてきてくれて、ありがとう。
その言葉を胸に抱きながら。