神々の剣士、異世界に立つ
邪神が、嗤った。
それが、俺があの世界で最後に見た光景だった。
◇
空は赤黒く染まり、大地には無数の亀裂が走っていた。
かつて神々を祀っていた巨大な神殿は、見る影もない。
柱は砕け、祭壇は崩れ、神聖な装飾が施されていた壁面には、邪神の力によって生み出された黒い結晶がびっしりと張りついている。
その中央に、俺たちが倒した存在が横たわっていた。
邪神。
人類の滅亡を企み、数え切れないほどの魔物を生み出し、いくつもの国を滅ぼしてきた災厄の根源。
その身体はすでに原形を留めていない。
神々から授かった奇跡と、仲間たちの力を合わせた一撃によって、存在の核を打ち砕いたのだ。
「……終わった、のか」
口から漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
右手には一本の長剣。
正義と力の神から授かった、鍛冶と炎の神が鍛え上げた剣だ。
邪神との戦いでも最後まで折れることなく、俺の命を支えてくれた相棒だった。
刀身には、まだかすかに雷光が残っている。
俺はそれを振り払い、ゆっくりと息を吐いた。
全身が痛む。
討伐した魔獣の皮と特殊金属を組み合わせた鎧は、あちこちが損傷していた。
左肩の金属板には深い傷が走り、脇腹を覆う魔獣皮は焼け焦げている。
それでも、俺は立っていた。
足の裏から伝わってくる大地の感触。
それに呼応するように、身体の奥から温かな力が湧き上がる。
豊穣の女神から授かった加護。
大地に触れている限り、俺の自然治癒力を極限まで高める力だ。
裂けた皮膚が塞がり、傷ついた筋肉が少しずつ修復されていく。
さすがに消耗しきった身体が一瞬で元通りになるわけではないが、致命傷に近かった傷も着実に癒えつつあった。
「カイ!」
聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
銀色の髪をなびかせながら、一人の少女がこちらへ駆け寄ってきていた。
セレーネ。
夜と月の女神に仕える使徒。
そして、俺たちの旅を支えてくれた魔法使いだ。
年の頃は十五ほど。
月光を溶かし込んだような銀髪と、深い群青色の瞳。
白い肌に整った顔立ちは、初めて会った人間なら思わず見惚れてしまうほど美しい。
普段は静かで落ち着いている彼女だが、今はそんな余裕もないらしい。
「動かないで。傷を見せて」
「大丈夫だ。加護が働いてる」
「そういう問題じゃないわ」
ぴしゃりと言われた。
俺は苦笑する。
「相変わらず厳しいな」
「誰のせいだと思っているの?」
「……俺かな」
「分かっているなら、少しは反省して」
そう言いながらも、セレーネの手つきは優しかった。
彼女は俺の鎧の損傷を確認し、脇腹の傷を覗き込む。
指先に淡い光が灯った。
魔術による検査だ。
「……本当に、傷が塞がっているのね」
「だから言っただろ」
「それでも無茶をしすぎよ」
セレーネは小さく息を吐いた。
その表情が、ほんの少しだけ緩む。
俺もようやく肩の力を抜いた。
周囲を見渡す。
少し離れた場所では、勇者が砕けた大剣を地面に突き立てていた。
正義と力の神に仕える使徒であり、俺たちの仲間だ。
彼の鎧もひどい有様だったが、どうやら命に別状はないらしい。
さらに向こうでは、盗賊が崩れた柱にもたれかかり、何かをぼやいている。
「……ったく。二度と神様相手の喧嘩なんざ御免だぜ」
「邪神だ。普通の神と一緒にするな」
勇者が答える。
「似たようなもんだろ。どっちも俺らより強いんだからよ」
「お前は本当に……」
二人のやり取りを聞いて、思わず笑みがこぼれた。
いつもの光景だ。
あれほど絶望的な戦いの後だというのに、こいつらは変わらない。
それが、ひどく嬉しかった。
「ねえ、カイ」
隣から声がした。
「ん?」
「これから、どうするつもり?」
「これから?」
「ええ。邪神は倒したわ。もう、戦い続ける必要はないのでしょう?」
言われて、俺は考え込んだ。
戦いが終わった後。
そんなことを、真剣に考えたことがあっただろうか。
この世界に生まれ直してから、俺はずっと何かと戦ってきた。
魔物。
盗賊。
邪神の使徒。
人々を苦しめる災厄。
神々から与えられた試練。
いつの間にか、剣を握っていることが当たり前になっていた。
「……とりあえず、休みたいな」
「休む?」
「ああ。美味いものを食って、柔らかい寝台で寝て……しばらく何も考えずに過ごしたい」
「ふふっ」
セレーネが笑った。
小さな、けれど心からの笑みだった。
「ずいぶん普通の願いなのね」
「普通でいいんだよ。もう世界を救うのは十分だ」
「そうね」
彼女は頷いた。
そして、少しだけ視線を逸らす。
「……そのときは、私も一緒に――」
言葉が途切れた。
俺は首を傾げる。
「セレーネ?」
その瞬間だった。
背筋に、氷を押し当てられたような悪寒が走った。
「――ッ!」
反射的に振り返る。
邪神の残骸。
完全に動きを止めたはずのそれが、黒い光を放っていた。
いや。
光ではない。
空間そのものが黒く染まっている。
まるで、世界に穴が開いたようだった。
「全員、離れろ!」
俺は叫んだ。
勇者が剣を構える。
盗賊が飛び退く。
セレーネが杖を掲げ、幾重もの防御魔術を展開した。
しかし。
遅かった。
邪神の残骸から伸びた黒い亀裂が、一直線に俺へと迫る。
「カイ!」
セレーネの声。
俺は彼女を突き飛ばした。
その直後、黒い亀裂が足元で弾けた。
世界が歪む。
上下が消える。
大地の感触が失われる。
「なっ……!」
身体が宙に浮いた。
いや、浮いているのではない。
落ちている。
どこへ?
分からない。
視界の向こうで、セレーネが手を伸ばしていた。
群青色の瞳が大きく見開かれている。
「カイ! 手を!」
俺も手を伸ばす。
あと少し。
ほんの少しで届く。
「セレーネ!」
指先が触れかけた。
だが。
その距離は、永遠に埋まらなかった。
視界が黒く染まる。
最後に見えたのは、泣きそうな顔で俺の名前を呼ぶセレーネだった。
◇
――冷たい。
最初に感じたのは、それだった。
背中に硬い感触がある。
鼻を突く、奇妙な臭い。
油。
腐敗した食べ物。
焦げた金属。
それから、何かの薬品のような刺激臭。
「……う」
意識が浮上する。
俺はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、黒ずんだ壁だった。
石ではない。
表面が妙に平らで、ところどころに金属製の管が走っている。
頭上では、赤と青の光が明滅していた。
「……どこだ、ここ」
声が掠れる。
俺は身体を起こした。
まず右手を動かす。
剣。
すぐそばに転がっていた長剣を掴み、鞘ごと引き寄せる。
無事だ。
刀身をわずかに抜いて確認する。
刃こぼれ一つない。
神々から授かった剣は、あの異常な現象にも耐えたらしい。
続いて、身体を確認する。
魔獣皮の鎧。
特殊金属の防具。
腰の小物入れ。
指輪。
首元のネックレス。
どれも残っていた。
「……よかった」
俺は小さく息を吐いた。
特に、首元の護符が無事だったことには安堵した。
セレーネから贈られた、大切なものだ。
強力な魔法防御を備えた護符。
彼女はこれを渡してくれたとき、いつもの落ち着いた顔でこう言った。
『あなたはすぐ無茶をするから。せめて、これくらいは身につけていて』
その言葉を思い出す。
「……セレーネ」
胸の奥が、わずかに痛んだ。
最後に見た彼女の顔。
伸ばされた手。
届かなかった指先。
俺は首を振った。
今は考えても仕方がない。
まず、状況を把握しなければ。
俺は立ち上がった。
足元は黒く、硬い。
石畳とも違う。
しゃがみ込み、指先で触れる。
「……アスファルト?」
思わず呟いた。
懐かしい感触だった。
前世――現代日本で生きていた頃、毎日のように踏んでいた舗装路。
まさか、もう一度これを見ることになるとは思わなかった。
俺はゆっくりと周囲を見渡した。
狭い路地裏。
積み上げられた金属製の箱。
破れた袋。
見慣れない容器。
そして、壁に映し出された巨大な広告。
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
広告の中では、派手な服装の女性が笑顔で何かを宣伝している。
だが、その映像には魔力が感じられない。
幻術ではない。
魔道具でもない。
それなのに、人間の姿が壁面に浮かんでいる。
「……まさか」
嫌な予感がした。
俺は慎重に路地の出口へ向かった。
そして。
そこに広がっていた光景を見て、完全に足を止めた。
「…………嘘だろ」
巨大な都市だった。
空を突き刺すような高層建築。
壁面を覆う無数の広告。
赤、青、紫、緑。
色とりどりの光が街を照らしている。
道路には、見慣れない形の自動車が何台も走っていた。
頭上では、空を飛ぶ乗り物が巨大な建物の間を横切っていく。
さらに、通行人の姿も異様だった。
腕が金属になっている男。
目の周囲に機械を埋め込んだ女。
皮膚の下で光る線が走っている青年。
まるで、前世で見たSF映画の世界だ。
「……サイバーパンク?」
口から、その言葉がこぼれた。
知っている。
こういう世界を、俺は知っている。
現代日本で暮らしていた頃、漫画やアニメ、ゲームで何度も見た。
科学技術が極限まで発展し、人間の身体すら機械に置き換えられる世界。
巨大企業が力を持ち、銃と金と情報がものを言う都市。
そんな世界だ。
だが。
「……何で、俺がここにいるんだよ」
頭を抱えたくなった。
邪神を倒した。
ようやく戦いが終わった。
これからは少し休めると思っていた。
それなのに。
どうして、また別の世界に放り出されている?
「……勘弁してくれ」
俺は額を押さえた。
現代日本から剣と魔法の世界に転生しただけでも十分に異常だった。
そのうえ、今度は科学技術の発展した世界だと?
神様というのは、俺に何か恨みでもあるのだろうか。
いや、少なくとも俺が知っている神々は、そんなことをする連中ではない。
豊穣の女神。
夜と月の女神。
正義と力の神。
昼と太陽の神。
彼らはそれぞれに異なる考え方を持っていたが、俺に対しては誠実だった。
だからこそ、余計に分からない。
「……とりあえず、落ち着こう」
俺は深呼吸した。
状況を整理する。
まず、俺は生きている。
身体も動く。
装備も残っている。
神々から授かった加護や奇跡が使えるかどうかは、まだ分からない。
そして、ここがどこなのかも不明。
帰る方法も分からない。
「……問題だらけだな」
思わず苦笑した。
だが、絶望するには早い。
俺はこれまで、何度も絶望的な状況を乗り越えてきた。
今回も、やれることから始めるしかない。
◇
まず確認したのは、身体の状態だった。
邪神との戦いで負った傷は、かなり回復している。
だが、完全ではない。
左腕には浅い裂傷が残り、脇腹には鈍い痛みがあった。
俺は鎧の留め具を少し緩め、傷を確認した。
「……治ってるな」
傷口は、ゆっくりと塞がり始めていた。
俺は足元を見下ろす。
黒い舗装路。
アスファルトだ。
豊穣の女神から授かった加護は、大地に接している間、自然治癒力を極限まで高めるものだった。
土の上なら、多少の傷は驚くほど早く治る。
深い傷であっても、時間さえあれば回復できる。
だが、ここは自然の大地ではない。
人工的に舗装された道路だ。
それでも、加護は確かに働いている。
「……なるほど」
俺は小さく頷いた。
傷の塞がり方は、土の上に立っているときより少し遅い。
だが、効果が失われているわけではない。
アスファルト越しでも、大地とのつながりは保たれているらしい。
少なくとも、この程度の傷なら問題なく治る。
「助かった……」
俺は安堵の息を吐いた。
この世界でも加護が使える。
それは、非常に大きな意味を持っていた。
続いて、奇跡を確認する。
俺は右手を軽く開き、意識を集中させた。
正義と力の神から授かった雷の奇跡。
一日に五度しか使用できない、強力な力だ。
もちろん、こんな場所で実際に雷を放つわけにはいかない。
周囲に何があるか分からないし、無関係な人間を巻き込む危険もある。
だから、発動の直前まで力を呼び起こす。
指先に、かすかな熱が宿った。
皮膚の下を、細い電流が走るような感覚。
「……ある」
確かに感じる。
神の力は、失われていない。
俺はすぐに意識を解いた。
まだ完全に発動できると確認したわけではないが、少なくとも力を呼び起こすことはできる。
それだけでも十分な収穫だった。
「……帰る方法を探す間は、これで何とかなるか」
俺は呟いた。
だが、そこでふと思い出す。
この世界には、魔物ではなく銃がある。
しかも、前世の知識から考えるに、相当高度な兵器が存在するはずだ。
俺の加護や奇跡が、どこまで通用するのか。
それはまだ分からない。
油断は禁物だ。
◇
路地の出口へ戻ろうとしたときだった。
「おい、そこのガキ」
背後から声がした。
振り返る。
三人の男が立っていた。
全員、妙な服装をしている。
派手な上着。
金属製の装飾。
腕や顔に埋め込まれた機械。
そのうち一人は、右腕が完全に金属だった。
「……何だ?」
俺が尋ねると、男たちは顔を見合わせた。
「おいおい、見ろよ。何だあの格好」
「コスプレか?」
「剣まで持ってやがるぜ」
どうやら、俺の服装が珍しいらしい。
まあ、当然だろう。
この街の人間たちと比べれば、俺の鎧は明らかに異質だ。
それに、長剣を腰に下げて歩いている人間も見当たらない。
俺は小さく息を吐いた。
「何か用か?」
先頭の男が笑う。
「なあ、ガキ。その剣、ちょっと見せてくれよ」
「断る」
即答した。
男の笑顔が消える。
「あ?」
「大切なものなんだ。他を当たってくれ」
俺はそう言って、横を通り抜けようとした。
だが、金属の腕を持つ男が進路を塞いだ。
「待てよ。兄貴が見せろって言ってんだろ」
「……」
面倒だ。
心底そう思った。
邪神との戦いで疲れている。
知らない世界に放り出された。
腹も減っている。
仲間の安否も分からない。
そんな状態で、初対面の人間と揉める気にはなれなかった。
「悪いが、急いでる」
「聞こえなかったのか?」
男の金属腕が伸びてきた。
俺の肩を掴もうとする。
反射的に、身体が動いた。
半歩、横へ。
伸びてきた腕をかわす。
同時に、男の手首を軽く押さえた。
「……触るな」
低い声が出た。
男の表情が歪む。
「てめえ……!」
金属の腕が唸った。
何かの駆動音がする。
男は強引に腕を振り抜こうとした。
だが。
「……遅い」
俺は男の力の流れに合わせ、手首を捻った。
体勢が崩れる。
足を払う。
次の瞬間、男の巨体が地面に転がった。
鈍い音が響く。
「ぐあっ!?」
残る二人が目を見開いた。
俺自身も、少し驚いていた。
金属の腕。
見た目ほど扱い慣れていないのか、それとも身体全体との釣り合いが悪いのか。
少なくとも、動きは読みやすかった。
「て、てめえ!」
先頭の男が懐に手を入れた。
取り出したものを見て、俺は目を細める。
黒い金属製の道具。
短い筒。
握り。
引き金。
「……銃か」
懐かしい。
前世の知識が、頭の奥から浮かび上がった。
銃。
火薬の力で弾丸を撃ち出す武器。
現代日本にいた頃、ゲームや映像の中で何度も見たものだ。
だが、実物を向けられたのは初めてだった。
「動くな!」
男が叫ぶ。
銃口が俺の胸に向けられた。
俺は静かに息を吐いた。
なるほど。
これが、この世界の武器か。
魔法でも、弓でもない。
科学の力で人を殺す道具。
興味はある。
だが、今はそれどころではない。
「撃つつもりか?」
「ああ!? 当たり前だろうが!」
「そうか」
俺は剣を握り直した。
抜く必要はない。
そう判断した瞬間。
男の指が動いた。
乾いた破裂音。
銃声。
視界の中で、男の腕が跳ねる。
銃口から炎が噴き出した。
次の瞬間、俺はすでに動いていた。
身体を半身にずらす。
頬のすぐ横を、何かが通り過ぎた。
背後の壁が弾ける。
破片が散った。
「……っ!」
速い。
弓矢とは比較にならない。
だが、撃たれる前の動きは見えた。
男の肩。
手首。
指先。
銃口の向き。
それらから射線を予測し、先に身体を動かすことはできる。
弾丸そのものを見てから避けたわけではない。
そこを勘違いすれば、次は死ぬ。
俺は一気に間合いを詰めた。
「なっ――」
男が二発目を撃つ前に、銃を持つ手首を掴む。
銃口を逸らす。
そのまま肘を打ち、武器を落とさせた。
最後に腹へ掌底を叩き込む。
「ごほっ!?」
男は身体を折り曲げ、その場に崩れ落ちた。
残る一人が後ずさる。
「ば、化け物……!」
俺は顔をしかめた。
化け物。
久しぶりに言われた気がする。
「別に殺すつもりはない。もう行っていいか?」
男は返事をしなかった。
ただ、必死に頷いていた。
俺はそれ以上相手にせず、路地の奥へ戻った。
大通りに出るのは、少し後にした方がよさそうだ。
◇
路地の壁にもたれ、深く息を吐く。
「……銃、か」
頬に指を当てる。
ほんのわずかに、血が滲んでいた。
弾丸が掠めたのか、壁の破片で切ったのか。
どちらでもいい。
傷は浅い。
それよりも、確認すべきことがある。
俺は手のひらを見つめた。
神の力。
奇跡。
加護。
この世界でも使えるのか。
俺は静かに祈りの言葉を唱えた。
かつて、正義と力の神から授かった雷の奇跡。
その力を呼び起こす。
ただし、発動まではしない。
こんな場所で雷を落とせば、周囲にどんな被害が出るか分からないからだ。
指先に、かすかな熱が集まった。
肌の下を、電流に似た感覚が走る。
「……ある」
思わず呟く。
神の力は、消えていない。
少なくとも、呼び起こすことはできる。
それだけで、胸の奥に少しだけ安堵が広がった。
次に、首元の護符を握る。
「セレーネ……」
今、どこにいるんだ。
勇者は。
盗賊は。
みんな、無事なのか。
目を閉じる。
思い浮かぶのは、最後に見た彼女の顔だった。
必死に伸ばされた手。
俺の名前を呼ぶ声。
あと少しで、届いたはずなのに。
「……必ず、帰る」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
帰る方法があるのかは分からない。
ここが本当に別世界なのかさえ、まだ確証はない。
だが、諦めるつもりはなかった。
俺は一度、何も知らない世界に生まれ直している。
そこから剣を覚え、魔術を学び、神々と出会い、邪神を討つところまで辿り着いた。
ならば、今回だって。
やれることはあるはずだ。
そのとき、腹が鳴った。
「…………」
静かな路地に、情けない音が響く。
俺はしばらく自分の腹を見つめた。
そして、ため息をつく。
「……まずは飯だな」
帰還方法の探索。
この世界の調査。
仲間の安否確認。
やるべきことは山ほどある。
だが、腹が減っていては何も始まらない。
問題は、この世界の金を持っていないことだ。
腰の小物入れには、前の世界の硬貨がいくらか残っている。
しかし、どう見てもこの街で使えるとは思えない。
食料もほとんどない。
宿もない。
知り合いもいない。
……これは、思った以上に厄介だ。
俺は剣を持ち直した。
この剣は目立ちすぎる。
鎧も同じだ。
さっきの男たちの反応を見る限り、この格好は相当に浮いているらしい。
早いうちに、どうにかしなければ。
そのとき。
遠くから、耳障りな音が聞こえてきた。
甲高い警告音。
続いて、複数の車両が近づいてくる気配。
さっきの銃声を聞きつけたのかもしれない。
「……まずいな」
俺は壁際の影に身を寄せた。
目立つのは避けたい。
この世界の法律も分からないうちに、武装した人間たちと揉めるのは得策ではない。
俺は周囲を確認し、狭い通路の奥へ歩き始めた。
頭上では、巨大な広告が光っていた。
知らない企業の名前。
知らない商品。
知らない言葉。
その向こうには、夜空を覆うほどの高層建築群。
俺は一度だけ振り返り、その光景を見上げた。
剣と魔法の世界で、邪神を倒した。
そして今、俺は鋼鉄と光の世界に立っている。
何が起こるのかは分からない。
どんな人間がいるのかも知らない。
だが。
「……生きていくしかない、か」
俺は小さく笑った。
この世界がどれほど理不尽でも。
どれほど危険でも。
俺は俺だ。
カイという名の、一人の剣士だ。
そして、まだ死ぬわけにはいかない。
あいつらに、もう一度会うまでは。
俺は剣を抱え直し、薄暗い路地の奥へ足を踏み出した。
ネオンの光が、背中を照らしていた。
◇
その頃。
遥か遠く、剣と魔法の世界では。
一人の少女が、月明かりの下に立っていた。
銀色の髪が夜風に揺れる。
群青色の瞳は、遠い空を見つめていた。
セレーネは、胸元で両手を組んだ。
その手には、小さな魔法陣が浮かんでいる。
彼女がかつてカイに贈った護符。
その存在を確かめるための術式だった。
普通なら、護符の位置は明確に分かる。
どの方角にいるのか。
どれほど離れているのか。
少なくとも、同じ世界にいる限り、見失うことはないはずだった。
だが、今は違う。
位置を示す感覚が、どこまでも遠い。
まるで、世界そのものが間に横たわっているようだった。
それでも。
「……生きている」
少女は呟いた。
護符の反応は消えていない。
カイは生きている。
その事実だけは、間違いなかった。
「……どこにいるの、カイ」
返事はない。
夜風だけが、静かに吹き抜ける。
セレーネは目を閉じた。
あのとき、言えなかった言葉がある。
邪神との戦いが終わったら。
すべてが片づいたら。
彼に伝えようと思っていたことがある。
けれど、もう少しだけ後でいいと思ってしまった。
明日でも。
明後日でも。
旅が終わってからでも。
時間はいくらでもあると、そう思っていた。
その結果が、これだ。
「……待っていて」
彼女は静かに言った。
その声に、迷いはなかった。
「必ず、見つけるから」
夜空には、大きな月が浮かんでいた。
女神の使徒である少女は、その光を見上げる。
そして、まだ見ぬ遠い世界へと思いを馳せた。
――二人が再び出会うまで、あと一年。