神々の剣士、ナイトシティの裏側を知る
ナイトシティには、安全な場所など存在しない。
そんな言葉を、以前どこかで聞いた気がする。
前世で遊んだゲームだったか。
それとも、この街へ来てから耳にした言葉だったか。
今となっては、はっきり覚えていない。
だが、少なくとも一つだけ分かったことがある。
この街で誰かを守ろうとするなら、剣の腕だけでは足りない。
敵を倒す力。
危険を見抜く知恵。
逃げ道を確保する準備。
そして、信頼できる人間との繋がり。
そのすべてが必要なのだ。
俺は通信端末に表示されたメッセージを見つめながら、静かに息を吐いた。
『ガレスの拠点周辺で、複数の武装集団が動いているらしい』
エリオットからの連絡。
昨日、俺を監視していた男を捕まえたばかりだというのに、事態はさらに複雑になっているらしい。
「……さて、どうしたものかな」
窓の外では、朝のナイトシティが動き始めていた。
巨大な広告が光り、道路には車両が溢れている。
その喧騒の中で、俺は通信端末の通話機能を起動した。
◇
『おはよう、カイ』
数回の呼び出し音の後、エリオットの声が聞こえた。
「ああ、おはよう」
『連絡が早いね』
「気になることが多すぎてな」
『……それはそうだろうね』
エリオットは苦笑したようだった。
俺は窓際から離れ、声を少し落とした。
「まず確認したい。昨夜、行方不明になった男っていうのは、俺が捕まえた監視役のことか?」
『その可能性が高い』
「……可能性?」
『身元を完全には確認できていないんだ。ただ、ガレスの部下の一人が昨夜から連絡を絶っている』
俺は眉をひそめた。
「俺が最後に見たときは、自分の足で逃げていったぞ」
『分かっている。君を疑っているわけじゃないよ』
「そうか」
『むしろ、こちらが気にしているのは別のことだ』
エリオットの声が少し低くなる。
『その男が、君について何を報告したのか。そして、誰に報告したのか』
……なるほど。
俺は少し考えた。
昨夜の監視役は、ガレスの仲間だと名乗った。
だが、それが事実かどうかは確認できていない。
本人がそう言っただけだ。
俺は相手の敵意を感知できても、心の中を読めるわけではない。
「……ガレス以外にも、俺を調べている奴がいるのか?」
『その可能性が出てきた』
「理由は?」
『昨日の襲撃現場から回収された通信記録に、不自然な点が見つかったんだ』
俺は黙って耳を傾けた。
『ガレスの部隊が使っていた通信回線に、別の指示系統から接続した痕跡があった』
「……つまり?」
『誰かがガレスたちに指示を出していた可能性がある』
俺は小さく息を吐いた。
あの襲撃には、狙撃手も爆発物も用意されていた。
単なる強盗にしては、準備が周到すぎる。
もちろん、医療物資を奪うために大掛かりな計画を立てた可能性もある。
だが、別の目的があったとしたら?
「……医療物資だけが狙いじゃなかった?」
『まだ断定はできない』
エリオットは慎重に答えた。
『ただ、ヴィクターはその可能性も調べている』
「……分かった」
俺は頷いた。
「それで、リクとミナの避難先は?」
『そちらは手配できたよ』
エリオットの声が少し明るくなる。
『ワトソンの外れに、小さな部屋を確保した。短期間の滞在用だけど、今の集合住宅よりは管理がしっかりしている』
「……安全なのか?」
『絶対とは言えない』
その答えは、むしろ信用できた。
『建物には警備員がいるし、出入口の監視もある。部屋の契約者名も、君たちとは直接結びつかないようにしてある』
「……なるほど」
『ただし、移動するときに尾行されれば意味がない。そこは慎重に進めたい』
「分かった。何時に動けばいい?」
『午前十時。迎えの車を出す』
「……誰が来る?」
『レナだよ』
俺は少し驚いた。
「……レナ?」
『昨日、一緒に護衛任務をした彼女だ』
「それは分かるけど……」
俺は苦笑した。
「また巻き込んでしまうな」
『本人が引き受けたんだ』
エリオットは言った。
『君には借りがある、とね』
俺は少し黙った。
昨日の護衛任務。
レナとは、銃弾が飛び交う中で一緒に戦った。
まだ付き合いは短いが、少なくとも信頼できる人間だと思っている。
「……ありがたいな」
『そう伝えておくよ』
エリオットは一呼吸置いた。
『それと、カイ』
「ん?」
『今回の避難先は、ヴィクターが手配したものだ。費用の話は後で相談しよう』
「……ああ。分かった」
ただで何でもしてもらえるとは思っていない。
それに、俺はフィクサーと仕事をする立場になった。
借りを作ることの意味も、少しずつ理解し始めている。
「……エリオット」
『何かな?』
「二人を安全な場所へ移したら、ヴィクターと話がしたい」
『……ガレスの件かい?』
「ああ」
俺は静かに答えた。
「いつまでも逃げ続けるわけにはいかないからな」
◇
通話を終えた俺は、居間へ戻った。
そこでは、リクが朝食の準備をしていた。
ミナは椅子に座り、シルヴァの頭を撫でている。
銀色の霊狼は床に伏せ、気持ちよさそうに目を細めていた。
……すっかり馴染んでいるな。
「おはよう、二人とも」
「おはよう、カイ」
「カイお兄ちゃん、おはよう!」
ミナが元気よく手を振った。
俺も笑って手を振り返す。
シルヴァは顔を上げ、こちらへ視線を向けた。
「おはよう、シルヴァ」
狼は静かに尾を揺らした。
その背中には、小さな毛布がかけられている。
昨夜、ミナが持ってきたものだ。
……霊狼に毛布が必要なのかは、少し疑問だけどな。
もっとも、シルヴァ本人は嫌がっていない。
なら、問題ないだろう。
「……カイ」
リクが声をかけてきた。
「エリオットから連絡?」
「ああ」
俺は頷いた。
「避難先が決まった」
リクの手が止まった。
「……本当に?」
「ああ。午前十時に迎えが来る」
ミナが首を傾げた。
「……お引っ越し?」
俺は少女へ視線を向けた。
「そうだな。しばらく別の場所で暮らすことになる」
「……ここ、もう帰ってこないの?」
ミナの声が少し小さくなった。
俺は椅子を引き、少女と目線を合わせた。
「まだ分からない。でも、荷物は全部持っていかなくても大丈夫だよ」
「……そうなの?」
「ああ」
俺は笑った。
「ちょっとした旅行みたいなものだ」
ミナは少し考えた。
そして、シルヴァを見た。
「……シルヴァも一緒?」
「もちろん」
俺が答えると、少女の顔が明るくなった。
「やった!」
シルヴァも小さく鼻を鳴らした。
俺はその様子を見て、少し安心した。
だが、リクの表情は硬いままだった。
「……カイ」
「ん?」
「本当に大丈夫なのか?」
俺は少し考えた。
そして、正直に答えた。
「……絶対に大丈夫とは言えない」
リクは黙った。
「でも、今のままここにいるよりは安全になるはずだ」
俺は続けた。
「それに、俺もシルヴァもいる」
リクはシルヴァへ視線を向けた。
狼は静かにこちらを見つめている。
しばらくして、少年は頷いた。
「……分かった」
俺は笑った。
「ありがとう」
◇
午前九時半。
荷物の準備は、ほとんど終わっていた。
リクとミナの持ち物は、驚くほど少なかった。
衣服。
古い端末。
少しの食料。
そして、ミナが大切にしている小さな人形。
それだけだった。
俺は部屋を見回した。
古びた壁。
狭い台所。
壊れかけた家具。
決して快適な住居ではない。
だが、ここには確かに生活があった。
リクが必死に守ってきた、二人だけの居場所。
俺は静かに息を吐いた。
「……よし」
そして、長剣のケースを肩へ担いだ。
シルヴァへ視線を向ける。
「……頼むぞ」
霊狼は静かに頷くように頭を下げた。
次の瞬間、その身体が薄れていく。
銀色の毛並み。
青白い瞳。
そして、四本の脚。
それらが霧のように消えた。
リクは、その様子を見て小さく息を吐いた。
「……何回見ても慣れねえな」
「俺も最初は驚いたよ」
俺は笑った。
「……カイでも?」
「ああ」
神々の力というものは、時々こちらの常識を軽々と超えてくる。
もっとも、今の俺がそんなことを言っても説得力はないだろうが。
「……じゃあ、行こうか」
俺は扉へ向かった。
そのとき。
ミナが小さな声で言った。
「……カイお兄ちゃん」
「ん?」
「……ここ、好きだったな」
俺は足を止めた。
ミナは部屋を見回している。
少し寂しそうだった。
俺は少女の頭へ手を置いた。
「……また帰ってこられるようにしよう」
ミナが顔を上げる。
「……ほんと?」
「ああ」
俺は頷いた。
「そのためにも、今は安全な場所へ行こう」
少女は少し考えた。
そして、小さく頷いた。
「……うん」
◇
午前十時。
集合住宅から少し離れた通りに、一台の車が停まった。
灰色の車体。
目立たない外装。
窓には、薄いスモークがかかっている。
運転席の窓が下がった。
「よう、カイ!」
聞き覚えのある声。
俺は思わず笑った。
「……レナ」
短い赤茶色の髪。
左腕のサイバーウェア。
そして、相変わらず快活な笑顔。
昨日、一緒に護衛任務をした女性だった。
「元気そうじゃないか!」
「ああ。おかげさまで」
俺は頷いた。
「昨日はありがとう」
「何言ってんだい」
レナは笑った。
「礼を言うのはこっちの方さ」
そして、俺の後ろにいる二人へ視線を向けた。
「……この子たちが?」
「ああ」
俺は頷いた。
「リクとミナだ」
リクが少し警戒した様子で頭を下げる。
「……どうも」
ミナも続いた。
「こんにちは!」
レナは笑顔になった。
「こんにちは!」
そして、俺を見た。
「……なるほどね」
「……何が?」
「いや、あんたが必死になる理由が分かった気がしてさ」
俺は少し苦笑した。
「……そうか?」
「ああ」
レナは頷いた。
「さて、乗りな。話は移動しながらにしよう」
俺たちは車へ乗り込んだ。
シルヴァも、姿を消したまま後部座席へ入る。
もっとも、レナには見えていない。
ミナが小さく笑った。
「……シルヴァも乗ったよ」
レナが首を傾げる。
「……シルヴァ?」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
……しまった。
まだ説明していなかった。
「……あとで話すよ」
俺が答えると、レナは怪訝そうな顔をした。
だが、すぐに笑った。
「……あんた、本当に秘密が多いね」
俺は苦笑するしかなかった。
◇
車は、ワトソンの通りを走り始めた。
窓の外には、見慣れつつある街並みが流れていく。
巨大な広告。
路上の屋台。
古びた集合住宅。
そして、至るところにいる武装した人間たち。
ミナは窓の外を興味深そうに眺めていた。
リクは、少し緊張した様子で座っている。
俺は周囲の車両を確認していた。
……尾行は?
前方。
後方。
隣の車線。
今のところ、不自然な動きは見えない。
だが、油断はできない。
「……カイ」
レナがバックミラー越しに声をかけてきた。
「ん?」
「そんなに睨んでたら、周りの車が逃げちまうよ」
俺は少し苦笑した。
「……そんな顔してたか?」
「ああ」
レナは笑った。
「まるで、今から戦場に突っ込むみたいな顔だ」
「……昨日のことがあるからな」
俺が答えると、レナの笑みが少し薄れた。
「……まあね」
彼女は前方へ視線を戻した。
「あたしも、あの襲撃は気になってる」
「……そうなのか?」
「ああ」
レナは頷いた。
「ただの強盗にしては、準備がよすぎた」
俺も同じことを考えていた。
「……ヴィクターも調べてるらしい」
「知ってる」
レナは答えた。
「マーカスも協力してるよ」
俺は少し驚いた。
「……マーカスが?」
「ああ」
レナは笑った。
「あの人、見た目は怖いけど、仕事には真面目だからね」
……確かに。
昨日のマーカスは、常に輸送車両と仲間の安全を優先していた。
あの状況で冷静に指示を出し続けたのは、簡単なことではない。
「……また会ったら、礼を言いたいな」
俺が呟くと、レナは笑った。
「言ってやりな。喜ぶよ」
◇
それから十分ほど走った頃だった。
俺は、ふと違和感を覚えた。
後方。
黒い小型車両。
先ほどから、同じ距離を保って走っている。
……偶然か?
俺は少し考えた。
この街では、交通量が多い。
同じ方向へ向かう車がいても、不思議ではない。
だが。
レナが交差点を曲がる。
黒い車両も曲がる。
さらに、別の通りへ入る。
黒い車両も、同じ方向へ進む。
……怪しいな。
俺は声を落とした。
「……レナ」
「ん?」
「後ろの黒い車、気づいてるか?」
レナの表情が変わった。
バックミラーへ視線を向ける。
「……ああ」
声が低くなった。
「三つ前の交差点から、ずっとついてきてる」
……やっぱりか。
「……尾行か?」
「まだ断定できない」
レナは答えた。
「でも、確認してみよう」
彼女はハンドルを切った。
車が、細い通りへ入る。
黒い車両も続いた。
さらに、次の角を曲がる。
黒い車両は、少し遅れて曲がってきた。
レナが舌打ちした。
「……ビンゴ」
俺は静かに息を吐いた。
……面倒だな。
だが、今はリクとミナがいる。
無理に戦うわけにはいかない。
「……どうする?」
俺が尋ねると、レナは笑った。
「決まってる」
そして、アクセルを踏み込んだ。
「……振り切るよ!」
◇
車が加速した。
エンジン音が高くなる。
ミナが驚いたように声を上げた。
「……わっ!」
「大丈夫だよ」
俺は少女へ声をかけた。
「しっかり座っててくれ」
リクはミナの手を握った。
俺は後方を確認する。
黒い車両も速度を上げていた。
……追ってくるか。
レナは巧みに車を操っている。
狭い路地。
複雑な交差点。
交通量の多い通り。
その間を、滑らかに走り抜けていく。
……上手いな。
昨日の護衛任務では、彼女は主に銃を使っていた。
だが、運転技術もかなりのものらしい。
「……レナ!」
俺は声をかけた。
「後ろ、距離が縮まってる!」
「分かってる!」
レナは答えた。
「でも、ここで撃ち合うわけにはいかないだろ!」
「……ああ!」
俺は頷いた。
そのとき。
黒い車両の窓が開いた。
中から、何かが突き出される。
……銃か!
「――伏せろ!」
俺が叫んだ瞬間。
銃声が響いた。
乾いた連続音。
弾丸が車体を叩く。
金属音。
ガラスに細かな亀裂が走った。
「きゃっ!」
ミナが悲鳴を上げる。
俺は少女を抱き寄せ、身体を低くした。
リクも頭を伏せている。
レナが歯を食いしばった。
「……くそっ!」
車が急旋回する。
弾丸が後方の壁を叩いた。
俺は静かに息を吐いた。
……まずいな。
このままでは、いずれ車体が持たない。
だが、剣を抜いて飛び出すわけにもいかない。
リクとミナを置いていくことになる。
それに、走行中の車から飛び降りれば、二人がさらに危険になる可能性もある。
……どうする?
そのとき。
俺の足元で、微かな気配が動いた。
シルヴァだ。
姿を消した霊狼が、こちらを見上げているような感覚があった。
俺は一瞬、考えた。
そして、小さく首を横に振った。
「……まだだ」
シルヴァは動きを止めた。
俺は静かに続ける。
「二人のそばにいてくれ」
霊狼は、俺の指示に従った。
……そうだ。
シルヴァの役目は、敵を倒すことじゃない。
二人を守ることだ。
俺は再び後方を確認した。
◇
「……レナ!」
俺は声を上げた。
「この先に、人通りの多い場所はあるか!?」
「ある!」
レナは答えた。
「二つ先の交差点を抜ければ、大通りに出る!」
「……そこまで行けるか?」
「やってみせる!」
レナはアクセルを踏み込んだ。
車がさらに加速する。
黒い車両も追ってくる。
だが、こちらの方が小回りが利く。
レナは狭い路地へ飛び込んだ。
左右には、古い建物。
道幅はぎりぎりだ。
黒い車両が後を追う。
しかし、少し大きい車体が壁に擦れた。
火花が散る。
速度が落ちた。
「……今だ!」
レナが叫ぶ。
車は路地を抜け、大通りへ飛び出した。
そこには、多数の車両が走っていた。
レナは流れに合わせて車線を変える。
黒い車両も追いつこうとした。
だが、間に別の車が入り込む。
距離が開いた。
俺は後方を見つめた。
……まだ諦めていないな。
黒い車両は、車線を変えながらこちらを追っている。
だが、銃撃は止まった。
人目が多すぎるからだろうか。
それとも、別の理由か。
レナが低く言った。
「……このまま避難先には行けないね」
「……ああ」
俺も頷いた。
尾行されたまま向かえば、場所を知られてしまう。
それでは、移動する意味がない。
「……どうする?」
俺が尋ねると、レナは端末を操作した。
「エリオットに連絡する」
俺は頷いた。
今は、情報を共有するべきだ。
数秒後。
『……レナ?』
通信越しに、エリオットの声が聞こえた。
「尾行されてる!」
レナは即座に答えた。
『……何だって?』
「黒い車両一台! 武装してる! もう撃たれた!」
エリオットの声が変わった。
『……現在位置は?』
レナは道路名を伝えた。
『分かった。避難先には向かわないでくれ』
「もちろん!」
『近くに、こちらが使える車両整備場がある。そこへ誘導する』
レナが眉をひそめた。
「……整備場?」
『ああ。入口が二つある。車両を入れ替えられる』
俺は少し驚いた。
……なるほど。
車を変えて、尾行を振り切るのか。
この世界ならではの方法だ。
『ただし、追跡車両がついてきているなら、先に距離を取る必要がある』
「分かってる!」
レナは答えた。
そして、ハンドルを握り直した。
「……カイ」
「ん?」
「もう少し揺れるよ」
俺は頷いた。
「……任せる」
レナは笑った。
「いい返事だ!」
◇
それから数分間。
レナは複雑な経路を走り続けた。
大通り。
高架下。
細い側道。
そして、再び別の大通り。
黒い車両は、しつこく追ってきた。
だが、次第に距離が開いていく。
俺は後方を確認した。
……もう少しか。
そのとき。
リクが小さな声で言った。
「……カイ」
「ん?」
「……ミナが」
俺は少女へ視線を向けた。
ミナは、リクの腕にしがみついていた。
顔が青ざめている。
当然だ。
突然銃撃され、車が激しく揺れている。
怖くないはずがない。
俺は少女の肩へ手を置いた。
「……ミナ」
少女が顔を上げる。
「……こわい」
小さな声だった。
俺は静かに頷いた。
「……そうだな」
そして、できるだけ穏やかな声で続ける。
「でも、大丈夫。俺たちがついてる」
ミナは唇を噛んだ。
「……ほんと?」
「ああ」
俺は頷いた。
「それに、シルヴァもいる」
その言葉に、少女の目が少し動いた。
俺は足元へ視線を向けた。
「……シルヴァ」
霊狼が、静かに反応する。
「少しだけ、姿を見せてくれ」
次の瞬間。
後部座席の足元に、淡い銀色の霧が現れた。
その中から、シルヴァの顔が浮かび上がる。
ミナが目を丸くした。
「……シルヴァ」
狼は静かに鼻先を寄せた。
ミナは、その毛並みに触れた。
「……あったかい」
俺は微笑んだ。
「……そうだろ?」
少女は小さく頷いた。
そして、シルヴァの首へ腕を回した。
霊狼は、静かにそれを受け入れた。
リクも少しだけ表情を緩めた。
……よかった。
少しは落ち着いたらしい。
そのとき。
運転席から、レナの声が聞こえた。
「……カイ」
「ん?」
「……後ろ、何か光ってない?」
俺は顔を上げた。
バックミラー越しに、レナがこちらを見ている。
正確には、俺の足元を。
……しまった。
俺は少し苦笑した。
「……あとで説明する」
レナは呆れたように笑った。
「……絶対だからね!」
◇
やがて、俺たちはエリオットが指定した車両整備場へ到着した。
古びた建物。
大きなシャッター。
周囲には、修理待ちの車両が並んでいる。
レナは車を中へ入れた。
シャッターが閉まる。
俺は後方を確認した。
……追跡車両は?
見えない。
少なくとも、ここまでついてきた様子はなかった。
レナが大きく息を吐いた。
「……ふう」
俺も肩の力を抜いた。
「……助かった」
「まだ終わってないよ」
レナは答えた。
「ここから車を変える」
俺は頷いた。
整備場の奥から、一人の男が現れた。
作業着姿。
油で汚れた手。
そして、片腕のサイバーウェア。
「……レナか?」
男が尋ねた。
「ああ!」
レナは答えた。
「エリオットから話は?」
「聞いてる」
男は頷いた。
「奥に車を用意してある」
俺は少し驚いた。
……本当に手際がいいな。
フィクサーというのは、単に仕事を紹介するだけではないらしい。
こうした人脈や設備も、仕事の一部なのだろう。
男は俺たちを奥へ案内した。
そこには、別の車両が停まっていた。
濃い青色の小型車。
先ほどの灰色の車よりも、少し古い。
だが、整備状態は悪くなさそうだった。
「……こいつを使え」
男が言った。
レナは頷いた。
「助かる!」
俺は男へ頭を下げた。
「……ありがとう」
男は少し驚いたようだった。
「……礼なんていい。仕事だ」
俺は笑った。
「それでも、助かったからな」
男は一瞬、黙った。
そして、肩をすくめた。
「……変わったガキだな」
……また言われた。
◇
車を乗り換えた後、俺たちは再び移動を始めた。
今度は、整備場の裏口から出る。
周囲には、先ほどの黒い車両の姿はない。
レナは慎重に車を走らせた。
俺も後方を確認する。
だが、今度は尾行らしい車両は見当たらなかった。
……ひとまず、振り切れたか。
俺は小さく息を吐いた。
ミナは、シルヴァの毛並みに顔を埋めている。
リクは窓の外を見つめていた。
その横顔には、まだ緊張が残っている。
俺は少年へ声をかけた。
「……リク」
「ん?」
「大丈夫か?」
リクは少し考えた。
そして、頷いた。
「……ああ」
だが、その声は少し硬かった。
俺は静かに続ける。
「……怖かったよな」
リクは黙った。
しばらくして。
「……怖かった」
小さく呟いた。
俺は頷いた。
「……そうだな」
「……でも」
リクは拳を握った。
「……俺、何もできなかった」
俺は少し驚いた。
少年は続けた。
「ミナを守るって決めたのに、ただ座ってることしかできなかった」
俺は静かに息を吐いた。
そして、リクの肩へ手を置いた。
「……それでいいんだ」
リクが顔を上げる。
「……え?」
「お前は、ミナのそばにいてくれた」
俺は答えた。
「怖がってるミナの手を握って、離さなかっただろ?」
リクは黙った。
「それは、立派に守ってたってことだよ」
俺は微笑んだ。
「戦うことだけが、誰かを守る方法じゃない」
リクはしばらく俺を見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……分かった」
俺は笑った。
……本当に、いい兄貴だな。
◇
昼前。
俺たちは、ようやく避難先へ到着した。
ワトソンの外れにある、小さな集合住宅。
外観は古いが、管理は行き届いているようだった。
入口には監視カメラ。
受付には警備員。
そして、建物の周囲には簡単なフェンスが設置されている。
……確かに、前の住居よりは安全そうだ。
レナは車を停めた。
「……到着!」
俺は小さく息を吐いた。
「……ありがとう、レナ」
「いいってことよ」
彼女は笑った。
「それより、早く中へ入ろう」
俺たちは荷物を持って建物へ入った。
受付では、すでに話が通っていた。
警備員が簡単な確認を済ませ、鍵を渡してくれる。
俺は少し驚いた。
……身分証がなくても入れるのか。
もちろん、ヴィクターが手配したからだろう。
だが、改めてフィクサーの影響力を感じた。
案内された部屋は、三階にあった。
小さな居間。
簡単な台所。
寝室が二つ。
そして、清潔な浴室。
以前の部屋よりも、かなり快適そうだった。
「……わあ!」
ミナが目を輝かせた。
「……きれい!」
リクも驚いたように部屋を見回している。
「……すげえ」
俺は思わず笑った。
「気に入ったか?」
ミナは元気よく頷いた。
「うん!」
そして、寝室へ走っていこうとした。
「……ミナ」
俺は声をかけた。
「まだ病み上がりだから、あまり走るなよ」
「はーい!」
少女は笑いながら、歩く速度を落とした。
……元気になってきたな。
俺は少し安心した。
◇
荷物を置いた後、俺はシルヴァを呼んだ。
姿を消していた霊狼が、部屋の隅に現れる。
レナが、その光景を目撃した。
「……は?」
彼女の口が開いたままになる。
銀色の霧。
そこから現れる巨大な狼。
青白く輝く瞳。
そして、実体を持つ毛並み。
レナは数秒間、完全に固まっていた。
「……カイ」
「……はい」
「……何、これ?」
俺は少し考えた。
「……狼だよ」
「見れば分かる!」
レナが叫んだ。
「そうじゃなくて!」
俺は苦笑した。
「……昔、貰った道具で呼び出せるんだ」
レナは額を押さえた。
「……あんた、本当に何者なの?」
……最近、こればかり聞かれるな。
俺は小さく笑った。
「……ただの剣士だよ」
「絶対違う!」
レナは即答した。
リクが横で吹き出した。
ミナも楽しそうに笑っている。
シルヴァは、そんな俺たちを静かに眺めていた。
……まあ、こうなるよな。
◇
しばらくして、レナも落ち着いた。
もっとも、シルヴァを見るたびに驚いた顔をしていたが。
「……で、この子が二人の護衛?」
「ああ」
俺は頷いた。
「俺がいない間、リクとミナを守ってもらう」
レナはシルヴァを見つめた。
「……強いの?」
「かなり」
俺は答えた。
「ただし、無敵じゃない」
レナは頷いた。
「……まあ、そうだろうね」
俺は続けた。
「姿を消せるから、普段は目立たずに行動できる」
「……なるほど」
レナは少し考えた。
「……それ、監視カメラにも映らないの?」
俺は首を傾げた。
「……どうだろうな」
正直、分からない。
霊狼は姿を消せる。
だが、この世界の監視技術がどこまで対応できるかは未知数だ。
俺はレナへ視線を向けた。
「……試してみた方がいいか?」
レナは笑った。
「……それは、後でね」
そして、少し真剣な顔になる。
「でも、カイ」
「ん?」
「この子のことは、あまり人に見せない方がいい」
俺は頷いた。
「……そうだな」
レナは続けた。
「昨日の治療能力だけでも十分目立つのに、今度は透明になる狼だろ?」
俺は苦笑した。
「……確かに」
「企業の研究者が聞いたら、目の色変えるよ」
……それは困る。
俺はシルヴァへ視線を向けた。
「……普段は姿を消していてくれ」
霊狼は静かに頭を下げた。
次の瞬間、その姿が薄れていく。
そして、完全に消えた。
レナは目を丸くした。
「……何回見ても信じられないね」
俺は笑った。
「……俺も最初はそうだったよ」
◇
昼過ぎ。
レナは仕事へ戻ることになった。
俺たちは建物の入口まで見送りに出た。
「……本当にありがとう」
俺が頭を下げると、レナは笑った。
「いいって」
そして、俺の肩を軽く叩いた。
「昨日、あんたがいなかったら、あたしたちだって危なかったんだから」
俺は少し笑った。
「……それでも、助かった」
レナは頷いた。
「……じゃあ、また仕事でね」
「ああ」
俺は頷いた。
「またな」
レナは車へ乗り込み、走り去っていった。
俺はその背中を見送った。
……頼れる人だな。
この世界に来てから、まだ数日。
だが、少しずつ知り合いが増えている。
リク。
ミナ。
マーカス。
レナ。
エリオット。
そして、ヴィクター。
誰もが、完全に信用できるわけではない。
それでも、こうして助けてくれる人間がいる。
そのことが、少し嬉しかった。
◇
部屋へ戻ると、リクとミナが荷物を整理していた。
俺は二人へ声をかけた。
「……少し出かけてくる」
リクが顔を上げた。
「……どこに?」
「ヴィクターのところだ」
俺は答えた。
「今回の件について、詳しく話を聞きたい」
リクの表情が少し曇った。
「……また危ないことするのか?」
俺は首を横に振った。
「今は、話をするだけだ」
リクは黙った。
俺は続けた。
「それに、シルヴァがいる」
その言葉に、リクは少しだけ安心したようだった。
俺は部屋の隅へ視線を向けた。
「……シルヴァ」
姿は見えない。
だが、確かにそこにいる。
「二人を頼む」
微かな気配が動いた。
俺は頷いた。
「……ありがとう」
そして、リクへ向き直った。
「何かあったら、すぐに連絡してくれ」
「……分かった」
リクは頷いた。
ミナも手を振った。
「いってらっしゃい!」
俺は笑った。
「行ってきます」
そして、部屋を出た。
◇
建物の外へ出た俺は、通信端末を取り出した。
エリオットへ連絡する。
数秒後。
『……カイ?』
「ああ」
『避難は無事に終わった?』
「おかげさまで」
俺は答えた。
「レナにも、ありがとうって伝えてくれ」
『もちろん』
エリオットは少し笑った。
『それで、どうしたんだい?』
「ヴィクターと話がしたい」
俺は静かに言った。
「……ガレスの件で」
通信の向こうで、少し沈黙があった。
そして。
『……ちょうどよかった』
エリオットが呟いた。
俺は眉をひそめた。
「……何が?」
『ヴィクターも、君に会いたがっていたんだ』
……なるほど。
どうやら、向こうにも話があるらしい。
「……何か分かったのか?」
俺が尋ねると、エリオットは少し考えた。
『……詳しくは、直接話した方がいい』
俺は黙った。
そして、頷いた。
「……分かった」
『一時間後、昨日のバーへ来てくれ』
「ああ」
俺は答えた。
「すぐに向かう」
通信が切れた。
俺は端末をしまった。
そして、静かに息を吐いた。
……さて。
ガレス・ブレイク。
昨日の襲撃。
俺を監視していた男。
そして、リクとミナを狙う可能性のある何者か。
少しずつ、点が繋がり始めている。
だが、まだ全体像は見えない。
俺は長剣のケースを背負い直した。
「……行くか」
そして、歩き出した。
◇
一時間後。
俺は、昨日ヴィクターと会ったバーに到着した。
昼間の店内は、夜とは少し雰囲気が違っていた。
客は少ない。
音楽も控えめだ。
奥の席には、すでにヴィクターが座っていた。
その隣には、エリオット。
そして、もう一人。
見知らぬ女性がいた。
年齢は、二十代後半くらいだろうか。
黒い髪を短く切り揃え、細いフレームの眼鏡をかけている。
服装は地味だが、どこか知的な雰囲気があった。
彼女は端末を操作していた。
俺が近づくと、ヴィクターが顔を上げた。
「……来たか、カイ」
「ああ」
俺は頷いた。
「待たせたか?」
「いや」
ヴィクターは笑った。
「ちょうどいい」
俺は椅子に腰を下ろした。
そして、見知らぬ女性へ視線を向ける。
ヴィクターが紹介した。
「こいつはノア」
女性が顔を上げた。
「……よろしく」
落ち着いた声だった。
「情報解析を担当してる」
俺は頭を下げた。
「……カイです」
ノアは小さく頷いた。
ヴィクターは端末を操作した。
「さて」
男の表情が変わった。
「……本題に入ろう」
俺は姿勢を正した。
ヴィクターは画面をこちらへ向けた。
そこには、昨日の襲撃現場の映像が表示されていた。
黒煙。
破壊された車両。
そして、銃を持った男たち。
「……ガレスの件で、新しい情報が入った」
俺は黙って聞いた。
ヴィクターは続けた。
「どうやら、あの襲撃は単なる医療物資の強奪じゃなかったらしい」
俺は目を細めた。
「……どういうことだ?」
ヴィクターはノアへ視線を向けた。
彼女が端末を操作する。
画面が切り替わった。
そこには、一つの企業ロゴが表示されていた。
黒い背景。
白い文字。
そして、見覚えのある名前。
俺は息を呑んだ。
「……ミリテク?」
前世の記憶が蘇る。
サイバーパンク2077。
ナイトシティ。
そして、世界を支配する巨大企業の一つ。
ミリテク。
ヴィクターが静かに頷いた。
「……知ってるのか?」
俺は少し考えた。
そして、答えた。
「……名前くらいは」
ヴィクターは俺を見つめた。
そして、低く言った。
「なら、話が早い」
男は端末の画面を指差した。
「ガレスの通信記録に、ミリテク関連の識別コードが残っていた」
俺は黙った。
ヴィクターは続ける。
「ただし、正式な部隊のものじゃない。古い契約用の識別コードだ」
ノアが補足した。
「……偽装の可能性もある」
俺は頷いた。
つまり、ミリテクが直接関与しているとは限らない。
だが。
もし、本当に関わっているとしたら。
俺は静かに息を吐いた。
「……面倒なことになったな」
ヴィクターが笑った。
「……ようやく分かってきたか?」
俺は苦笑した。
「……少しな」
だが、内心では別のことを考えていた。
巨大企業。
軍事技術。
そして、裏社会。
この世界の権力構造は、俺が想像していた以上に複雑だ。
正面から剣を振るうだけでは、どうにもならない相手がいる。
それを、改めて思い知らされた。
ヴィクターはグラスを置いた。
そして、静かに言った。
「……カイ」
「ん?」
「お前に、一つ提案がある」
俺は顔を上げた。
男の目は、真剣だった。
「……この件、俺たちと一緒に調べてみないか?」
俺は黙った。
ヴィクターは続ける。
「もちろん、報酬は出す」
そして、少しだけ笑った。
「ただし、今回の相手は、そこらのチンピラとは違うかもしれねえ」
俺は静かに息を吐いた。
……なるほど。
どうやら、次の仕事は簡単には終わらなさそうだ。
俺は胸元の護符に触れた。
セレーネ。
……また、無茶をするなって怒られそうだな。
だが、今回は違う。
俺一人で突っ込むつもりはない。
情報を集める。
仲間と相談する。
そして、必要なときだけ剣を抜く。
それが、この街で生き残るための方法なのだろう。
俺はヴィクターを見つめた。
「……詳しい話を聞かせてくれ」
男は口元を歪めた。
「……いい返事だ」
ノアが端末を操作する。
画面には、ナイトシティの地図が表示された。
そして、その一角に赤い印が灯る。
ヴィクターが静かに言った。
「……まずは、ここからだ」
俺は画面を見つめた。
ナイトシティの巨大な影。
その奥に隠された何かが、少しずつ姿を現そうとしていた。