神々の剣士、ナイトシティの常識を学ぶ
朝、目が覚めたとき、俺の顔のすぐ横に巨大な狼の鼻先があった。
「うおっ!?」
思わず身体を起こす。
銀灰色の毛並み。澄んだ青い瞳。立派な耳と、ふさふさした尻尾。
シルヴァだ。
霊狼は俺の反応が面白かったのか、尻尾を一度だけ床に打ちつけた。
「……お前、絶対わざとやっただろ」
そう言って額を指で押すと、シルヴァは何食わぬ顔で鼻を鳴らした。
狩猟の神から授かった霊狼。
魔獣を追跡し、夜営地を守り、時には俺と肩を並べて戦ってくれた頼もしい仲間。
そのはずなのだが、最近は妙に悪戯好きな一面を見せている。
特にミナと仲良くなってからは、すっかり家庭犬のような振る舞いを覚えてしまった。
もっとも、本人にそんなことを言ったら不満そうな顔をされそうだが。
「おはよう。二人は?」
シルヴァが廊下の方へ顔を向ける。
耳を澄ませると、台所から小さな物音が聞こえた。
「……ああ、もう起きてるのか」
俺は寝台から降り、軽く身体を伸ばした。
昨日は軍用義体の兵士たちと戦ったが、幸い大きな怪我はなかった。細かな打撲や擦り傷は、休息と豊穣の女神の祝福によってほとんど回復している。
窓の外には、灰色の空が広がっていた。
遠くの高層建築に巨大な広告が浮かび、道路を走る車両の音が絶え間なく響いている。
ナイトシティ、2072年。
この街へ来てから、まだ一週間ほど。
だというのに、すでに銃撃戦を何度経験したことか。
……そろそろ普通の生活を送りたいものだ。
そう考えながら居間へ向かうと、台所に立っていたリクが振り返った。
「おはよう、カイ」
「おはよう。早いな」
「ミナが腹減ったって起こしてきたんだよ」
「なるほど」
食卓では、そのミナがパンを両手で持っていた。
「カイお兄ちゃん、おはよう!」
「おはよう、ミナ。よく眠れたか?」
「うん! ここのベッド、ふかふか!」
少女は満面の笑みで答えた。
以前の部屋では、二人が使っていた寝具は薄く、かなり傷んでいた。新しい避難先にはまともな寝台があり、室温も安定している。
それだけでも、ミナの身体には随分といいはずだ。
「それはよかった」
俺が椅子へ座ると、ミナは不思議そうに首を傾げた。
「カイお兄ちゃん、今日はお仕事?」
「今のところ予定はないな」
「じゃあ、一緒にいられる?」
期待に満ちた視線。
俺は思わず笑った。
「そうだな。何か急な用事が入らなければ」
「やった!」
ミナが両手を上げる。
その瞬間、パンが落ちそうになった。
「あっ」
俺は咄嗟に手を伸ばし、床に落ちる寸前で受け止めた。
「危ない危ない」
「すごい!」
「パンを落とさなかっただけだぞ?」
リクが呆れたように笑った。
「カイがやると、何でもすごく見えるんだよ」
……そういうものなのか?
俺にはよく分からない。
ともあれ、こうして平和に朝食を食べられるのはありがたかった。
◇
朝食を終えた後、俺は通信端末を取り出した。
昨日の仕事で受け取った二千五百エディー。
その前の護衛任務で得た千五百エディー。
そして、最初に金貨を換金したときの残金。
手元の資金を確認しながら、今後必要になるものを考える。
住居費。
食費。
衣服。
医療費。
通信費。
それに、身分証明の問題も残っている。
何より、俺にはこの世界で使える正式な身分がない。
……やっぱり、そこを何とかしないとな。
そのとき、端末が振動した。
エリオットからの着信だ。
「もしもし」
『おはよう、カイ。昨日はよく眠れたかい?』
「ああ。おかげさまで」
『それはよかった。少し話せるかな?』
「大丈夫だよ」
『実は、ヴィクターから伝言があるんだ』
俺は姿勢を正した。
「……昨日の件か?」
『それもあるけど、今日は別の話だ』
「別の?」
『君の身分登録について、相談できそうな人物が見つかった』
俺は思わず顔を上げた。
「本当か?」
『ああ。ただし、簡単な話ではないよ』
「……だろうな」
この街で、何の記録も持たない十六歳の少年が突然現れたのだ。
そう簡単に正式な身分を手に入れられるとは思っていない。
『それと、昨日の戦闘で使った剣について、ノアが少し調べたいそうだ』
「……剣?」
『そう。もちろん、君が許可する範囲で構わない』
俺は少し考えた。
神剣は、正義と力の神から授かった大切な武器だ。
手放すつもりはない。
だが、この世界の兵器とどれほど違うのかを知ることには意味がある。
特に、昨日の軍用義体の装甲。
あれは今まで戦ったサイバーウェア使用者とは、明らかに強度が違った。
「……壊したり、持ち帰ったりしないなら、少しは協力できるよ」
『ありがとう。ノアも喜ぶと思う』
「それで、どこへ行けばいい?」
『今日はヴィクターの知り合いが使っている工房だ。場所を送るよ』
「分かった」
通話を終えると、端末に地図が表示された。
ワトソンの一角。
今いる避難先から、それほど遠くない。
俺はリクへ顔を向けた。
「悪い。ちょっと用事ができた」
「仕事?」
「いや、今日は相談事かな」
リクは頷いた。
「分かった。ミナは俺が見てる」
「頼む」
俺はシルヴァへ視線を向けた。
霊狼は、ミナの隣で気持ちよさそうに伏せている。
「シルヴァも頼むぞ。何か危険があったら、戦うより先に二人を逃がしてくれ」
青い瞳がこちらを向いた。
小さく尾が動く。
意思は伝わったらしい。
俺はミナの頭を撫でた。
「昼には帰れると思う」
「おみやげは?」
「……昨日は肉を買ってきただろ?」
「今日は甘いの!」
なかなか欲張りな少女である。
「分かった。何か探してくるよ」
「約束!」
俺は差し出された小さな指に、自分の小指を絡めた。
「約束だ」
◇
指定された工房は、古い自動車整備場の一角にあった。
外観はかなり年季が入っている。
壁には色褪せた企業広告が貼られ、入口のシャッターには無数の傷が残っていた。
だが、内部へ入ると印象が変わった。
工具が整然と並び、作業台には分解されたサイバーウェアが置かれている。
奥では、小型の機械が金属部品を削っていた。
「……へえ」
俺は思わず声を漏らした。
元の世界にも鍛冶場や魔導具工房はあった。
だが、ここはまったく違う。
魔力を込めた炉もなければ、刻印された魔法陣もない。
代わりに、精密な機械と電子機器が並んでいる。
「来たね」
奥から声が聞こえた。
ノアだった。
今日は眼鏡をかけておらず、作業用の薄いジャケットを着ている。
「おはよう、ノア」
「……おはよう」
彼女は俺の背中にある長いケースを見た。
「……持ってきた?」
「ああ」
俺はケースを軽く叩いた。
「ただし、約束は守ってくれよ」
「……分かってる」
ノアは頷いた。
「分解しない。傷つけない。持ち帰らない」
「よし」
俺は笑った。
そのとき、工房の奥から大柄な男が現れた。
四十代後半くらいだろうか。
短く刈り込んだ髪に、無精髭。
右腕は肩から先が機械化されている。
油の染みた作業着を着た男は、俺を見て眉を上げた。
「……こいつが例のガキか?」
ノアが頷く。
「……そう」
男は俺を上から下まで眺めた。
「軍用義体をぶった斬ったっていう?」
「……まあ、そうですね」
俺が答えると、男は鼻を鳴らした。
「冗談みてえな話だ」
そして、機械化された右手を差し出してきた。
「俺はダリオ。ここで機械をいじってる」
「カイです。よろしくお願いします」
俺は握手を返した。
ダリオは俺の手を握ると、少しだけ目を細めた。
「……なるほど」
「何か?」
「いや。随分と鍛えてる手だと思ってな」
俺は苦笑した。
「剣を使いますから」
「それだけじゃ説明がつかねえ気もするが……まあいい」
男は肩をすくめた。
「とりあえず、見せてくれ」
◇
俺は長剣のケースを開いた。
中から神剣を取り出す。
銀色の刃。
精緻な装飾が施された鍔。
そして、長年使い込んできた革巻きの柄。
工房の照明を受けて、刃が淡く輝いた。
「……ほう」
ダリオが身を乗り出した。
「こりゃ、また……」
ノアも目を輝かせている。
「……きれい」
俺は少し嬉しくなった。
神々から授かった剣を褒められるのは、やはり悪い気がしない。
「鍛冶と炎の神が鍛えた剣なんだ」
そう言いかけて、俺は口を閉じた。
……危ない。
うっかり本当のことを言うところだった。
「……古い知り合いが作ったんだよ」
言い直す。
ノアがこちらを見た。
「……知り合い?」
「ああ。腕のいい鍛冶師だった」
嘘ではない。
神だという部分を省いただけだ。
ダリオは剣をじっと見つめていた。
「触ってもいいか?」
「刃には気をつけてください」
「分かってる」
男は慎重に剣の平へ指を近づけた。
そして、表面を観察する。
「……継ぎ目が見えねえ」
ダリオが呟いた。
「表面処理も妙だ。金属の反射にしては、少しおかしい」
ノアが測定器を取り出した。
小さな装置を剣へ向ける。
画面に数字が表示された。
彼女の眉が動いた。
「……変」
「何が?」
俺が尋ねると、ノアは首を傾げた。
「……測定値が安定しない」
ダリオが覗き込む。
「センサーの故障じゃねえのか?」
「……昨日、校正した」
「なら、別の装置で測れ」
ノアは頷き、別の測定器を取り出した。
しばらくして、彼女はさらに首を傾げた。
「……一致しない」
俺は苦笑した。
……神剣だからな。
普通の金属として測定できるのかどうか、俺にも分からない。
もっとも、剣の材質については、俺自身も詳しく知らないのだが。
「……こいつ、どこで手に入れた?」
ダリオが尋ねた。
「貰い物です」
「誰から?」
「……昔の恩人から」
男は俺を見つめた。
そして、笑った。
「随分と太っ腹な恩人だな」
「本当にそう思います」
俺は心から頷いた。
あの神には、感謝してもしきれない。
◇
次に行ったのは、切断性能の簡単な確認だった。
ダリオが用意したのは、工業用の金属板。
厚さは数センチほど。
一般的な刃物では、簡単に切断できないらしい。
「これを斬れるか?」
「……多分」
俺は答えた。
ダリオが眉を上げる。
「多分?」
「やってみないと分からないので」
俺は剣を構えた。
金属板は、専用の台に固定されている。
周囲に人がいないことを確認する。
そして、軽く息を吐いた。
「……いきます」
剣を振り下ろす。
――シュンッ。
乾いた音。
次の瞬間、金属板が二つに分かれた。
切断面は滑らかだった。
ダリオが固まった。
ノアも動かない。
俺は剣を下ろした。
「……こんな感じです」
数秒の沈黙。
そして。
「……おい」
ダリオが低く呟いた。
「……はい?」
「今、何をした?」
「……斬りました」
「それは見りゃ分かる!」
男は切断された金属板へ駆け寄った。
断面を確認する。
指で触れ、測定器を当て、さらに別の角度から観察する。
「……熱変形がほとんどねえ」
ノアが小さく呟いた。
「……切断面も、異常に均一」
ダリオが俺を振り返った。
「お前、これで軍用義体を斬ったのか?」
「はい」
「……そりゃ斬れるわけだ」
男は頭を掻いた。
「いや、待て。そもそも何でこんな剣が存在してるんだ?」
……それは俺も説明に困る。
俺は苦笑した。
「……特別な剣なんです」
ダリオはしばらく俺を見つめていた。
そして、大きく溜息をついた。
「……世の中、まだまだ分からねえことがあるもんだな」
◇
その後、俺は剣をケースへ戻した。
ノアは名残惜しそうに見ていたが、約束通り、それ以上の検査を求めてこなかった。
代わりに、ダリオが別のものを持ってきた。
黒い金属製の腕。
肘から先だけのサイバーウェアだ。
「……これは?」
俺が尋ねると、ダリオが答えた。
「古い戦闘用義腕だ。修理不能になった廃品だが、構造を説明するにはちょうどいい」
男は作業台へ義腕を置いた。
「昨日、お前が戦った連中の装備は、これよりずっと上等だったはずだ」
俺は頷いた。
「……かなり頑丈でした」
「だろうな」
ダリオは義腕の外装を開いた。
内部には、複雑な機械構造が詰まっていた。
人工筋肉のような繊維。
金属製の関節。
小型の駆動装置。
そして、電子回路。
「戦闘用サイバーウェアってのは、単に硬いだけじゃねえ」
ダリオが説明する。
「筋力を増幅する。反応速度を上げる。衝撃を吸収する。武器を内蔵する。そういう機能を、身体のあちこちに組み込んでる」
俺は興味深く眺めた。
……なるほど。
元の世界で言えば、身体強化魔法と魔導鎧を組み合わせたようなものか。
ただし、こちらは魔力ではなく、機械で実現している。
「でも、弱点もあるんですよね?」
俺が尋ねると、ダリオは笑った。
「もちろんだ」
男は関節部分を指差した。
「どれだけ装甲を厚くしても、動く部分には構造上の制約がある」
俺は頷いた。
昨日の戦闘でも、それは感じていた。
肩。
膝。
首。
装甲の継ぎ目。
そこを狙えば、頑丈な相手でも動きを止められる。
「ただし、勘違いするなよ」
ダリオが続けた。
「軍用義体の弱点は、メーカーや機種によって違う。古い型の知識が、そのまま新型に通用するとは限らねえ」
「……なるほど」
「それに、装甲の継ぎ目を狙うってのは、言うほど簡単じゃない」
ダリオは俺を見た。
「相手だって動く。しかも、普通の人間よりずっと速い」
俺は頷いた。
その通りだ。
昨日の兵士たちも、こちらの攻撃に反応していた。
剣が届く前に腕を動かし、装甲で受け止めようとしていた。
それでも倒せたのは、俺の方が戦闘経験と技量で上回っていたからだ。
「……参考になります」
俺が答えると、ダリオは少し意外そうな顔をした。
「お前、素直だな」
「知らないことばかりですから」
俺は笑った。
「教えてもらえるなら、ありがたいです」
ダリオはしばらく黙った。
そして、豪快に笑った。
「ははっ! 気に入った!」
……何だか、気に入られたらしい。
◇
昼前。
検査が一段落したところで、ノアが端末を取り出した。
「……カイ」
「ん?」
「昨日の兵士について、新しい情報がある」
俺は顔を上げた。
「……何か分かったのか?」
ノアは頷いた。
「……戦闘映像と、既知の軍用義体の外観データを比較した」
画面には、複数の兵士の画像が表示されている。
どれも重厚な装甲を身につけていた。
だが、細部は少しずつ違う。
「……完全一致する機種はなかった」
ノアは説明した。
「ただし、複数のメーカーの部品を組み合わせた可能性がある」
「……寄せ集め?」
「……そう」
彼女は頷いた。
「しかも、一部の部品は民間市場に出回っていない」
俺は眉をひそめた。
「……つまり?」
「……軍の払い下げ品か、盗難品。あるいは、非公式な経路で流出したもの」
ダリオが腕を組んだ。
「裏市場じゃ珍しくねえ話だが、あの規模の装備を三人分も揃えるとなると、相当な金が必要だ」
俺は静かに息を吐いた。
……やっぱり、金か。
この街では、何をするにも金が必要らしい。
強力な武器。
高度なサイバーウェア。
そして、兵士。
すべてが金で動く。
「……ミリテクが関わっている可能性は?」
俺が尋ねると、ノアは少し考えた。
「……ある。でも、証拠は足りない」
俺は頷いた。
無理に結論を出すべきではない。
それに、仮にミリテク製の部品が使われていたとしても、企業そのものが関与しているとは限らない。
……慎重に調べる必要があるな。
◇
そのとき、工房の入口から声が聞こえた。
「……ダリオ!」
振り返ると、エリオットが入ってきた。
灰色のジャケット。
青く光る人工眼。
いつもの落ち着いた表情だが、今日は少し急いでいるように見えた。
「……エリオット?」
俺が声をかけると、彼は頷いた。
「カイ。ちょうどよかった」
「……何かあったのか?」
「ヴィクターから連絡だ」
エリオットは端末を操作した。
「ガレス・ブレイクの部下が、一人見つかった」
俺は眉をひそめた。
「……行方不明になってた男か?」
「その可能性が高い」
エリオットは頷いた。
「ただし、かなり酷い状態らしい」
俺は顔を上げた。
「……怪我をしてるのか?」
「ああ」
エリオットの表情が引き締まった。
「現在、ワトソンの小さな診療所に運び込まれている」
俺は少し考えた。
昨夜ではなく、その前の夜。
俺が集合住宅の近くで捕まえた監視役。
あの男は、ガレスの部下だと名乗っていた。
武器を取り上げた後、俺は逃がした。
その後、行方不明になったと聞いている。
……まさか。
「……そいつ、俺が捕まえた男なのか?」
エリオットは首を横に振った。
「まだ確認できていない」
「……そうか」
俺は静かに息を吐いた。
「それで、ヴィクターは何て?」
「可能なら、君にも会ってほしいそうだ」
俺は少し驚いた。
「……俺に?」
「ああ」
エリオットは頷いた。
「その男が、妙なことを言っているらしい」
「……妙なこと?」
エリオットは少し間を置いた。
そして、低い声で答えた。
「『ガレスは、もう自分の部下を信用していない』」
俺は眉をひそめた。
……どういうことだ?
エリオットは続けた。
「それと、もう一つ」
「……何だ?」
「『黒い装甲の連中が、仲間を連れていった』」
俺は思わず顔を上げた。
黒い装甲。
その言葉に、昨日の兵士たちの姿が重なった。
全身を機械化した戦闘員。
赤く光る目。
そして、軍用装備。
……まさか。
「……同じ連中かもしれないな」
俺が呟くと、エリオットは頷いた。
「ヴィクターもそう考えている」
ノアが端末を閉じた。
「……確認する価値はある」
俺は少し考えた。
そして、頷いた。
「……分かった。行こう」
◇
診療所は、ワトソンの古い商業地区にあった。
大通りから一本入った路地。
その一角に、小さな看板が掲げられている。
内部は狭いが、清潔だった。
消毒液の匂い。
医療機器の電子音。
そして、待合室に座る数人の患者。
俺はエリオットと共に奥へ進んだ。
ノアは工房に残り、引き続き装備の解析を進めることになった。
案内された部屋には、一人の男が寝かされていた。
痩せた身体。
傷だらけの顔。
そして、包帯で覆われた右腕。
俺はその顔を見た。
……あ。
見覚えがある。
「……お前」
男がこちらを向いた。
その瞬間、目を見開いた。
「……お、お前は!」
俺は静かに頷いた。
「……やっぱり、あのときの男か」
集合住宅の向かいにある駐車場。
そこで俺を監視していた男だった。
あの夜、俺は彼を捕まえ、武器を取り上げた。
そして、ガレスへ伝言を届けるように言って逃がした。
……こんなところで再会するとはな。
男は怯えたように身体を縮めた。
「……殺すな!」
俺は眉をひそめた。
「……殺さないよ」
「嘘だ!」
男は叫んだ。
「お前が来たってことは、あいつらも……!」
俺は静かに息を吐いた。
「……落ち着け」
男は荒い呼吸を繰り返している。
俺はベッドの横へ近づいた。
すると、男が必死に後ずさろうとした。
だが、怪我のせいで動けない。
「……頼む! 俺は何も知らない!」
俺は足を止めた。
……かなり怯えているな。
単に俺を怖がっているだけではなさそうだ。
エリオットが声をかけた。
「落ち着いてくれ。彼は君を殺しに来たわけじゃない」
男は震えていた。
俺は少し考えた。
そして、静かに言った。
「……俺が本当にお前を殺すつもりなら、あの夜に逃がしたりしなかったよ」
男は黙った。
俺は続けた。
「今日は、何があったのか聞きに来ただけだ」
しばらくして。
男は、ようやく呼吸を落ち着かせた。
◇
「……名前は?」
俺が尋ねると、男は小さく答えた。
「……ディーン」
「ディーンか」
俺は頷いた。
「俺はカイだ」
「……知ってる」
男は苦々しそうに呟いた。
……まあ、そうだろうな。
俺は椅子へ座った。
「……何があった?」
ディーンはしばらく黙っていた。
そして、震える声で話し始めた。
「あの夜……お前に逃がされた後、俺はガレスのところへ戻ろうとした」
俺は頷いた。
「……ああ」
「でも、途中で車が来た」
「……車?」
「黒い車だ。窓も真っ黒で、中が見えなかった」
俺は眉をひそめた。
……黒い車。
リクとミナを移動させたとき、俺たちを襲った車も黒かった。
だが、それだけで同じ連中とは限らない。
この街には黒い車などいくらでもある。
「……それで?」
俺が促すと、ディーンは続けた。
「中から、黒い装甲の男たちが降りてきた」
俺は静かに息を吐いた。
「……何人?」
「二人……いや、三人だったかもしれない」
ディーンは額を押さえた。
「顔は見えなかった。全員、マスクをしてた」
「……赤い目だったか?」
俺が尋ねると、ディーンの身体が強張った。
「……そうだ」
男は俺を見た。
「……知ってるのか?」
俺は頷いた。
「……似た連中と戦った」
ディーンの顔色が変わった。
「……戦った?」
「ああ」
俺は答えた。
「昨日な」
ディーンはしばらく口を開けたまま固まっていた。
そして、小さく呟いた。
「……化け物だ」
……俺のことか?
それとも、あの兵士たちのことか?
どちらとも取れる言い方だった。
◇
「……そいつらは何をした?」
俺が尋ねると、ディーンは視線を落とした。
「……俺を車に押し込んだ」
男の声が震える。
「それから、仲間のことを聞いてきた」
「……ガレスの?」
「ああ」
ディーンは頷いた。
「ガレスが誰と会っているのか。どこに武器を隠しているのか。誰から仕事を受けているのか」
俺は腕を組んだ。
……なるほど。
あの兵士たちは、ガレスの部下を調べているのか。
「……答えたのか?」
ディーンは首を横に振った。
「最初はな」
男は包帯で覆われた右腕を見た。
「でも、あいつらは……」
言葉が途切れる。
俺は静かに待った。
しばらくして、ディーンが続けた。
「……俺の腕を壊した」
俺は眉をひそめた。
「……サイバーウェアか?」
「いや……生身だ」
ディーンは震える声で答えた。
俺は静かに息を吐いた。
……酷いな。
この街では、暴力による尋問も珍しくないのだろう。
だが、だからといって許せる話ではない。
「……それで、何を話した?」
俺が尋ねると、ディーンは俯いた。
「……ガレスが、医療物資の輸送を襲ったこと」
俺は頷いた。
「……ほかには?」
「……倉庫のこと」
俺の目が細くなった。
「……どこの?」
ディーンは少し躊躇した。
そして、答えた。
「……ノースサイドの古い物流倉庫だ」
……やっぱりか。
俺はエリオットへ視線を向けた。
彼も表情を引き締めている。
俺は再びディーンを見た。
「……ガレスは、その倉庫とどう関わっていた?」
ディーンは首を横に振った。
「詳しくは知らねえ」
そして、続けた。
「ただ、あそこへ何度か荷物を運んだことがある」
「……何の荷物?」
「分からねえ。開けるなって言われてた」
俺は少し考えた。
……なるほど。
ガレスは、何かを運ぶ仕事もしていたらしい。
だが、荷物の中身までは知らされていなかった可能性がある。
「……誰から依頼された?」
俺が尋ねると、ディーンは顔を歪めた。
「……知らねえ」
俺は眉をひそめた。
ディーンは慌てて続けた。
「本当だ! 俺たちみたいな下っ端には、依頼主の名前なんて教えられねえんだ!」
俺は頷いた。
「……分かった」
嘘をついているかどうかは、まだ判断できない。
だが、少なくとも今の彼は、かなり追い詰められているようだった。
◇
「……それで」
俺は静かに尋ねた。
「どうやって逃げた?」
ディーンは少し黙った。
そして、答えた。
「……途中で、銃声がした」
「……銃声?」
「ああ」
男は頷いた。
「車が止まって、外で誰かが撃ち合ってた」
俺は眉をひそめた。
……別の連中が襲ったのか?
「……誰が?」
「分からねえ」
ディーンは首を横に振った。
「ただ、黒い装甲の連中が慌ててた」
俺は少し考えた。
軍用義体の兵士たちが慌てるほどの相手。
……一体、何者だ?
「……その隙に逃げたのか?」
「ああ」
ディーンは頷いた。
「車のドアが開いてた。俺は転がるように外へ出た」
そして、苦しそうに笑った。
「……あとは、よく覚えてねえ」
俺は静かに息を吐いた。
……なるほど。
つまり、ディーンを連れ去った連中と、別の武装集団が衝突した可能性がある。
以前エリオットが言っていた、ガレスの拠点周辺で動いている複数の武装集団。
あれとも関係しているのだろうか。
「……エリオット」
俺は隣の男へ声をかけた。
「ん?」
「この話、ヴィクターに伝えた方がいいな」
エリオットは頷いた。
「もちろん」
そして、端末を取り出した。
「すぐに連絡するよ」
◇
俺は再びディーンを見た。
男は疲れ切った顔をしていた。
右腕には包帯。
頬には傷。
そして、身体のあちこちに打撲の跡がある。
……このままじゃ、しばらく動けないだろうな。
俺は少し考えた。
昼間。
今は、太陽の神の祝福を使うには適した時間帯だ。
もちろん、精神力の消耗がなくなるわけではない。
だが、夜よりはずっと負担が軽い。
「……ディーン」
俺は声をかけた。
男が顔を上げる。
「……何だ?」
「怪我を治したいか?」
ディーンは目を丸くした。
「……は?」
俺は続けた。
「腕の怪我だ。治療できるかもしれない」
男はしばらく俺を見つめていた。
そして、苦笑した。
「……何言ってんだ、お前」
俺は肩をすくめた。
「まあ、信じられないよな」
エリオットがこちらを見た。
俺は小さく頷いた。
彼は少し考えた後、診療所の医師へ声をかけに行った。
俺はディーンへ視線を戻す。
「……無理にとは言わない」
男は黙った。
「でも、痛みがなくなるなら、その方がいいだろ?」
しばらくして。
ディーンは、小さく頷いた。
「……できるなら、頼む」
俺は頷いた。
「分かった」
医師が戻り、本人の同意と治療内容を確認した後、俺はベッドの横へ立った。
そして、静かに祈る。
「……昼と太陽の神よ」
胸元の護符が、淡く輝いた。
次の瞬間。
柔らかな金色の光が、室内を満たした。
ディーンが目を見開く。
「……な、何だ!?」
「動かないでくれ」
俺は穏やかに言った。
「すぐに終わる」
光が、男の身体を包み込む。
包帯の下。
傷ついた筋肉。
損傷した骨。
そして、炎症を起こしていた組織。
それらが、少しずつ回復していく。
俺は意識を集中させた。
……よし。
腕の損傷は、思ったより深い。
だが、再生できないほどではない。
数十秒後。
俺は光を収めた。
ディーンは、ゆっくりと右腕を動かした。
「……え?」
指が動く。
手首が曲がる。
肘が伸びる。
男は、自分の腕を見つめた。
「……嘘だろ」
俺は小さく笑った。
「……どうだ?」
ディーンは何度も腕を動かした。
そして、震える声で呟いた。
「……痛くねえ」
俺は頷いた。
「よかった」
男は俺を見た。
その表情には、驚きと困惑が入り混じっていた。
「……何でだ?」
「ん?」
「……何で、俺を治す?」
俺は少し考えた。
そして、答えた。
「……怪我してたからだよ」
ディーンは黙った。
「……俺は、お前を監視してたんだぞ」
「ああ」
俺は頷いた。
「知ってる」
「……殺そうとしたかもしれねえんだぞ」
「……そうだな」
俺は静かに答えた。
「でも、今のお前は怪我人だ」
ディーンは、しばらく何も言わなかった。
そして、俯いた。
「……変な奴だな」
俺は苦笑した。
「……よく言われる」
◇
診療所を出た頃には、午後になっていた。
エリオットはヴィクターへ連絡を済ませ、今後の対応について話している。
俺は建物の外で、少しだけ空を見上げた。
灰色の雲。
巨大な広告。
そして、遠くに見える高層ビル群。
……さて。
少しずつ、情報が集まってきた。
ガレス。
ノースサイドの倉庫。
軍用義体の兵士たち。
そして、彼らと敵対しているらしい別の武装集団。
どうやら、俺が思っていた以上に複雑な争いが起きているようだ。
そのとき、エリオットが近づいてきた。
「カイ」
「ん?」
「ヴィクターから、もう一つ連絡があった」
俺は顔を上げた。
「……何だ?」
エリオットは少し表情を引き締めた。
「ガレス・ブレイクが、直接会いたいと言っているらしい」
俺は眉をひそめた。
「……ガレスが?」
「ああ」
エリオットは頷いた。
「君に話があるそうだ」
俺は少し考えた。
昨日の襲撃で戦った大男。
機械化された右腕を斬り、戦闘不能にした相手。
そして、リクとミナを監視させていた男。
……なるほど。
どうやら、向こうも何か事情が変わったらしい。
「……罠の可能性は?」
俺が尋ねると、エリオットは頷いた。
「もちろんある」
俺は静かに息を吐いた。
……だよな。
だが、ガレス本人から話を聞けるなら、かなりの情報が得られるかもしれない。
それに。
俺には、一つ確認したいことがあった。
リクとミナを狙うつもりが、まだあるのか。
もしそうなら、放置するわけにはいかない。
「……分かった」
俺は頷いた。
「ヴィクターに伝えてくれ」
エリオットが顔を上げる。
「……何て?」
俺は静かに答えた。
「会うつもりはある。ただし、場所と条件はこちらで決めたい」
エリオットは少し驚いた。
そして、笑った。
「……分かった。そう伝えるよ」
俺は頷いた。
……さて。
ガレス・ブレイク。
今度は、剣ではなく言葉で話ができるだろうか。
できれば、そう願いたい。
だが。
もし、また俺の大切な人たちへ手を出そうとするなら。
そのときは、相応の覚悟をしてもらうことになる。
◇
夕方。
俺は避難先の集合住宅へ戻った。
途中で買った、小さな菓子の袋を手に持っている。
部屋の扉を開けると、ミナが駆け寄ってきた。
「カイお兄ちゃん!」
「ただいま」
「おみやげ!」
……挨拶より先にそれか。
俺は思わず笑った。
「ちゃんと買ってきたぞ」
袋を見せると、ミナの顔が輝いた。
「やった!」
リクが奥から顔を出した。
「おかえり、カイ」
「ああ。ただいま」
俺は部屋へ入った。
シルヴァが姿を現し、こちらへ近づいてくる。
俺はその頭を撫でた。
「今日もありがとう」
霊狼は静かに尾を揺らした。
……よし。
今日も二人は無事だった。
それだけで、少し肩の力が抜ける。
俺は菓子を皿へ移し、三人で分けた。
ミナは嬉しそうに食べ、リクも珍しそうに眺めている。
シルヴァは床に伏せ、こちらを見守っていた。
……平和だな。
少なくとも、この部屋の中は。
俺は胸元の護符へ触れた。
セレーネ。
……君がいたら、きっとこの二人とも仲良くなれるだろうな。
銀色の髪。
深い青の瞳。
そして、少し冷たく見えるけれど、本当は優しい少女。
彼女の姿を思い浮かべる。
……会いたい。
その気持ちは、今日も変わらない。
だが、今はまだ、この世界でやるべきことがある。
俺は静かに息を吐いた。
そして、目の前の二人へ視線を向けた。
リクがミナの口元についた菓子の欠片を拭っている。
ミナは笑いながら、兄へ何かを話していた。
シルヴァが、その様子をじっと見つめている。
俺は小さく笑った。
……この時間を守るためなら。
多少の面倒事くらい、引き受けてやるさ。