神々の剣士、命の天秤を砕く
――六十秒。
端末に表示された数字を見た瞬間、俺は状況を理解した。
ヴォスは、俺に選ばせるつもりなのだ。
目の前にいる一人の女性を助けるか。
階下にいる十二人の被験者を助けるか。
どちらかを選べ、と。
ふざけた話だった。
人間の命を天秤に載せ、その結果を観察しようというのだから。
だが、腹を立てている暇はない。
六十秒後には、階下の被験者たちが再び操られる。
その中には、ミナと同じくらいの少女もいる。
そして目の前には、完全制御された女剣士がいる。
俺は長剣を構え直した。
……さて。
どうしたものか。
こういうとき、セレーネならきっと、まず俺を叱る。
『一人で全部背負おうとしないで』
あいつは、よくそう言っていた。
俺が無茶をすると、決まって眉を吊り上げるのだ。
そして結局、俺の隣で一緒に無茶をする。
……そうだったな。
今の俺は、一人じゃない。
だったら、答えは最初から決まっている。
どちらかを選べというなら、その選択肢そのものを壊してやる。
◇
午後九時二十四分。
旧ヘリックス研究施設、地下第三階層。
中央制御室。
――キィンッ!
銀色の長剣と赤い刀身が衝突した。
火花が散る。
目の前の女――CHM-013は、先ほどまでと変わらぬ無表情で剣を振るっていた。
だが、俺は知っている。
その奥に、本人の意識が残っていることを。
彼女は一瞬だけ、俺に逃げろと言った。
なら、まだ助けられる。
「ノア!」
俺は斬撃を受け流しながら叫んだ。
「再同期まで、あと何秒だ!」
『五十二秒!』
「階下の十二人を優先してくれ!」
『でも、十三号は!?』
「こっちは俺が引き受ける!」
女が踏み込んだ。
赤い刃が俺の左肩へ迫る。
俺は剣を斜めに構え、その一撃を受け流した。
――ギィンッ!
重い衝撃。
負傷した右肩に痛みが走る。
……くそっ。
さすがに、そろそろ身体が限界だな。
だが、今は止まれない。
『カイ、聞いて!』
ノアの声が響く。
『階下の制御解除は第二段階まで進んでる! でも、ヴォスが再同期を始めたら、解除処理が上書きされる!』
「止める方法は?」
『中央制御サーバーへの書き込みを遮断できれば、少なくとも再同期は遅らせられる!』
「そのサーバーはどこだ?」
『今いる制御室の奥! ただし、生命維持系と同じ設備ラックに入ってる!』
俺は視線を走らせた。
室内の奥。
ガラス張りの仕切りの向こうに、複数の黒い機器が並んでいる。
冷却ファンの音。
点滅するランプ。
そして、無数の配線。
……あれか。
「壊したら?」
『駄目! 生命維持装置まで止まるかもしれない!』
「分かった」
俺は女の剣を受け止めた。
――ガキンッ!
……なら、壊さずに止める方法を探す。
「ノア、オスカーはそっちにいるか?」
『いる!』
「設備の構造を調べてもらってくれ!」
『了解!』
俺は通信を切らず、目の前の女へ向き直った。
「悪いけど、少しだけ付き合ってくれ」
彼女は答えなかった。
代わりに、剣を構え直した。
赤い瞳が、俺を正確に捉える。
……さあ。
あと五十秒。
ここからが勝負だ。
◇
――四十五秒。
俺は剣を振り上げた。
女がそれを受ける。
――ギィンッ!
そのまま鍔迫り合いになる。
俺は一歩踏み込み、相手の重心を崩そうとした。
だが、女は滑るように後退した。
そして、左手を俺へ向ける。
……またワイヤーか!
俺は即座に横へ跳んだ。
――バシュッ!
細い金属線が、さっきまで俺のいた場所を通過する。
壁へ突き刺さった。
女はワイヤーを引き戻し、再び剣を構える。
俺は息を整えた。
……厄介だな。
純粋な剣術だけなら、何とか対応できる。
だが、義体の補助機能が加わると、予測しにくい。
しかも、相手は疲労を無視して動く。
……いや。
違うな。
疲労を無視させられている、か。
俺は女の顔を見た。
その額には、僅かに汗が浮かんでいる。
呼吸も浅い。
機械化されていても、完全な機械ではない。
身体は限界に近づいているのかもしれない。
「……もう少しだ」
俺は声をかけた。
「君を助ける方法を探してる」
女の瞳が僅かに揺れた。
だが、すぐに赤い光が強くなる。
『捕獲命令、継続』
俺は剣を構え直した。
「……そうか」
そして、踏み込んだ。
――キィンッ!
剣と剣がぶつかる。
俺は相手の刃を滑らせ、右手首へ剣の柄頭を叩き込んだ。
――ガンッ!
女の剣が僅かに逸れる。
その隙に、俺は身体を回転させた。
相手の背後へ回り込む。
そして、左腕を肩へ回し、関節を固定する。
……よし。
今度こそ、動きを止める。
だが、女の義体は強かった。
肩の駆動部が唸り、俺の腕を押し返してくる。
……くそっ!
俺は歯を食いしばった。
そのとき。
通信機からノアの声が響いた。
『カイ! オスカーが構造を確認した!』
「……どうだ!?」
『制御系と生命維持系は、同じラックにあるけど、電源は別!』
俺は目を見開いた。
「……つまり?」
『制御系だけを切り離せる! ただし、物理的な安全遮断器を操作する必要がある!』
「どこだ!?」
『ラックの右側! 黄色い保護カバーの下!』
俺は顔を上げた。
確かに、奥の機器に黄色いカバーが見える。
……あれか!
「分かった!」
俺は女の身体を押し、距離を取った。
そして、ラックへ向かって走り出した。
女が追ってくる。
……当然だよな!
俺は剣を構え直した。
だが、そのとき。
――パンッ!
銃声が響いた。
◇
俺は反射的に身を伏せた。
弾丸が頭上を通過し、壁へ突き刺さる。
……何だ!?
振り返ると、制御室の入口に二人の武装警備員が立っていた。
先ほどまで廊下にいた連中とは違う。
黒い防弾装備。
顔を覆うヘルメット。
そして、短機関銃。
「侵入者を確認!」
「射撃許可!」
……まずい!
俺は近くの端末の陰へ飛び込んだ。
――ダダダダッ!
銃弾が機器を削る。
火花が散った。
俺は歯を食いしばった。
……これ以上、設備を壊されたら困る!
「おい! 撃つな!」
俺は叫んだ。
「ここには生命維持装置があるんだぞ!」
警備員たちは答えなかった。
銃口が再びこちらへ向く。
……くそ。
命令に従ってるだけか。
俺は剣を握り直した。
そのとき。
――ドンッ!
重い銃声。
入口にいた警備員の一人が、横へ吹き飛んだ。
俺は顔を上げた。
「……ガレス!?」
そこには、負傷した左肩を押さえながら銃を構えるガレスがいた。
「……お前、何やってんだ!」
男が怒鳴った。
「さっさと装置を止めろ!」
もう一人の警備員がガレスへ銃を向ける。
だが、その瞬間。
――パンッ、パンッ!
別の銃声。
警備員の武器が弾かれた。
マーカスが入口へ飛び込んでくる。
「カイ! こっちは任せろ!」
俺は息を呑んだ。
「……二人とも!」
「いいから行け!」
マーカスが叫んだ。
「お前にしかできねえことをやれ!」
俺は頷いた。
……ありがとう。
俺は奥の設備ラックへ走った。
◇
――三十秒。
黄色い保護カバー。
その下には、二つのレバーが並んでいた。
片方は赤。
もう片方は青。
俺は通信機へ叫んだ。
「ノア! どっちだ!」
『待って! 確認する!』
俺は振り返った。
十三号が迫ってくる。
赤い剣。
鋭い踏み込み。
……くそっ!
俺はラックの前から飛び退いた。
――ギィンッ!
赤い刃が金属の床を削る。
俺は剣を振り上げた。
女が受け止める。
――ガキンッ!
鍔迫り合い。
俺は女の顔を見た。
「……頼む」
低い声で言った。
「少しだけ、止まってくれ」
女の瞳が揺れた。
だが、身体は動き続ける。
……駄目か。
俺は剣を押し返し、相手の腕を絡め取った。
そして、足を払う。
――ドンッ!
女が床へ倒れた。
俺はそのまま相手の剣を持つ手首を押さえ込む。
……よし。
数秒だけでも、動きを封じられれば。
『カイ!』
ノアの声。
『青いレバー! 右側の青い方!』
「了解!」
俺は女の腕を押さえたまま、左手を伸ばした。
……届かない!
レバーまで、あと一メートルほど。
俺は歯を食いしばった。
女の義体が、俺の拘束を押し返してくる。
……まずい。
このままでは、間に合わない。
そのとき。
マーカスが叫んだ。
「カイ! 伏せろ!」
俺は反射的に身体を低くした。
――パンッ!
銃声。
弾丸が、女の剣を持つ手首の近くへ命中した。
火花が散る。
女の右腕が一瞬だけ止まった。
俺はその隙に身体を起こし、ラックへ手を伸ばした。
……今だ!
青いレバーを掴む。
そして。
――ガコンッ!
思い切り引き下げた。
◇
――二十一秒。
室内の照明が、一瞬だけ明滅した。
設備ラックから、低い駆動音が消える。
そして、端末に新しい表示が現れた。
中央神経制御系――物理遮断。
俺は息を呑んだ。
「……止まった?」
通信機からノアの声が響いた。
『……待って!』
数秒。
長い沈黙。
そして。
『……止まった!』
俺は顔を上げた。
『再同期命令が遮断された! 生命維持系は稼働してる!』
……よし!
俺は大きく息を吐いた。
だが、安心するには早い。
目の前の十三号は、まだ動いている。
彼女の赤い瞳が、俺を捉えた。
『捕獲命令、継続』
俺は剣を構え直した。
……やっぱり。
十三号は別系統。
中央制御系を止めても、彼女の命令は消えない。
だが、階下の十二人は助かった。
それだけでも、大きな前進だ。
「……ノア!」
『聞こえる!』
「階下の被験者たちは!?」
『制御出力が低下してる! 再同期も止まった!』
俺は頷いた。
「……よかった」
その瞬間。
十三号が踏み込んだ。
――ギィンッ!
赤い刃が迫る。
俺は剣を受け止めた。
……さて。
残るは、この人だ。
◇
中央試験室。
マーカスが通信機で状況を確認している間、ガレスは負傷した肩を押さえていた。
十二人の被験者たちは、徐々に動きを止め始めていた。
中には、その場へ崩れ落ちる者もいる。
だが、意識は残っているようだった。
少女は壁際に座り、震える手で自分の膝を抱えていた。
マーカスが近づく。
「……大丈夫か?」
少女は小さく頷いた。
「……うん……」
「もう少しで助けが来る」
少女は顔を上げた。
「……おにいちゃんは?」
「……カイか?」
少女は頷いた。
マーカスは制御室の方向を見た。
「……まだ戦ってる」
少女の表情が曇った。
「……だいじょうぶ……?」
マーカスは少しだけ笑った。
「……あいつなら、きっと大丈夫だ」
そのとき、ガレスが低く呟いた。
「……なあ、マーカス」
「何だ?」
「……俺の部下たちも、ここにいると思うか?」
マーカスは黙った。
ガレスは床へ視線を落とした。
「……エリックだけじゃねえ。ほかにも、行方不明になった奴らがいる」
男は拳を握った。
「……あいつらも、こんな目に遭ってるのかもしれねえ」
マーカスは少し考えた。
そして、答えた。
「……なら、探すしかねえな」
ガレスが顔を上げた。
「……ああ」
男は頷いた。
「……そうだな」
◇
中央制御室。
俺と十三号の戦いは、まだ続いていた。
――キィンッ!
――ギィンッ!
銀色と赤色の刃が交差する。
俺は相手の動きを観察した。
……変化がある。
さっきまでより、僅かに動きが鈍い。
いや。
違う。
動きが鈍いのではない。
剣の軌道が、ほんの少しだけ乱れている。
……本人が抵抗しているのか?
俺は声をかけた。
「……聞こえるか?」
女は答えない。
だが、赤い瞳が僅かに揺れた。
「……もう、ほかの被験者たちは助かった」
俺は続けた。
「……だから、次は君の番だ」
女の剣が一瞬だけ止まった。
……今だ。
俺は剣を下げた。
そして、ゆっくりと一歩近づいた。
「……名前を教えてくれ」
女の唇が震えた。
赤い瞳が明滅する。
『……命令、継続』
俺は首を横に振った。
「……命令じゃなくて、君の名前が知りたい」
女の身体が震えた。
そして。
「……わた……し……」
かすかな声。
俺は息を呑んだ。
……戻ってきてる。
少しずつだが、本人の意思が表に出ている。
「……ゆっくりでいい」
俺は声をかけた。
「……君の名前は?」
女の唇が動いた。
「……リ……」
俺は耳を澄ませた。
「……リ?」
女の瞳から、一筋の涙が流れた。
「……リナ……」
俺は頷いた。
「……リナ」
名前を呼ぶ。
「……いい名前だ」
女の表情が僅かに変わった。
だが、その瞬間。
――ピッ。
首筋の制御装置が、強く赤く光った。
女の身体が痙攣する。
俺は慌てて支えた。
「……リナ!」
彼女は苦しそうに呻いた。
そして。
再び、赤い瞳が俺を捉えた。
『……戦闘制御、再起動』
俺は歯を食いしばった。
……くそっ!
だが、今度は違う。
俺は彼女の名前を知った。
そして、彼女自身が抵抗していることも分かった。
なら、諦める理由なんてない。
「……リナ」
俺は剣を構え直した。
「……もう少しだけ、頑張ってくれ」
◇
地下第三階層、中央制御室のさらに奥。
ドクター・エイドリアン・ヴォスは、監視映像を見つめていた。
画面には、黒髪の少年と、赤い瞳の女が映っている。
その表情には、僅かな苛立ちが浮かんでいた。
「……中央制御系を物理遮断したか」
隣の研究員が頷いた。
「はい。生命維持系は維持されていますが、被験者の再同期命令は失敗しました」
ヴォスは画面を見た。
「……なるほど」
研究員が恐る恐る尋ねた。
「……博士、どうしますか?」
ヴォスは少し考えた。
そして、静かに笑った。
「……まだ終わりではない」
男は端末を操作した。
画面に、新しい指示が表示される。
PROJECT CHIMERA
CHM-013:独立制御系、最大出力
捕獲命令:継続
制御強化プロトコル:実行準備
研究員が顔を青ざめさせた。
「……博士。それを使えば、十三号の神経系が耐えられません!」
ヴォスは平然と答えた。
「構わない」
研究員が息を呑んだ。
「……しかし!」
「彼女の役割は、あの少年を捕獲することだ」
ヴォスは画面を見つめた。
「……そのためなら、多少の損耗は許容範囲だよ」
研究員は何も言えなかった。
ヴォスは静かに微笑んだ。
「……さあ、カイ」
その声には、冷たい期待が宿っていた。
「……今度こそ、君の限界を見せてもらおう」
そして。
中央制御室の端末に、新しい警告が表示された。
CHM-013
独立制御系、最大出力まで――十秒。