メラ計画編・終章
ナイトシティには、朝が来ない。
いや、もちろん太陽は昇る。
夜通し輝いていたネオンは朝日によって色褪せ、巨大なビルの谷間にも薄い光が差し込む。夜の間に積もったゴミが風に転がり、道路を清掃する機械が血痕の残った歩道を洗い流す。
それでも、この街が眠りから覚めたようには見えなかった。
夜勤を終えた労働者と、これから仕事へ向かう労働者がすれ違う。
昨夜誰かが死んだ場所で、今朝は屋台が営業している。
人が消えても、街は何事もなかったように動き続ける。
俺がこの世界へ来てから、何度も目にしてきた光景だった。
けれど、あの夜だけは違った。
地下施設から救い出された人々が、一人、また一人と朝日を浴びていた。
名前を奪われた人間が、自分の名前を取り戻す。
それは、巨大な都市にとっては取るに足らない出来事なのかもしれない。
だが、俺にとっては違う。
あの朝を、俺は一生忘れないと思う。
◇
――2072年、キメラ計画摘発の翌朝。
午前六時四十分。
ワトソン地区の外れにある、ヴィクターが手配した医療施設。
俺は診察室の椅子に座り、エリオットから説教を受けていた。
「右肩の筋肉損傷。肋骨にひびが二本。左前腕の裂傷。脇腹には銃創。全身に打撲と擦過傷」
エリオットは診断結果を読み上げ、顔を上げた。
「それで、どうして自分の足で歩いてる?」
「歩けるから」
「質問に答えたつもりか?」
「一応」
エリオットは深々とため息をついた。
俺は少しだけ目を逸らした。
神々の祝福のおかげで、俺の身体は普通の人間よりずっと頑丈だ。地面に触れていれば、豊穣の女神の加護によって傷も少しずつ癒えていく。
とはいえ、地下施設の人工床では回復が遅かった。
何より、太陽の祝福を何度も使った反動が重い。
傷ついた仲間を癒す力はあっても、その力は俺自身の傷を治してくれない。
今の俺は、身体よりも頭の奥が疲れ切っていた。
「三日は安静だ」
エリオットが言った。
「無理」
「なぜだ」
「帰って、子供たちの顔を見たい」
彼は一瞬だけ黙った。
それから、診断端末を閉じた。
「……今日一日は寝ろ。それが最低条件だ」
「分かった」
「本当に分かってるんだろうな?」
「努力する」
「その返事が一番信用できない」
もっともな話だった。
俺は苦笑しながら、包帯を巻き直してもらった。
診察室を出ると、廊下の向こうからガレスの声が聞こえてきた。
「だから、そいつを置いていくわけにはいかねえって言ってんだ!」
また何か揉めているらしい。
俺は声のする方へ向かった。
◇
処置室の前で、ガレスが医療スタッフと向き合っていた。
左肩は分厚い包帯で固定されている。
その向こうには、大型の医療用架台が置かれていた。
架台の上に横たわっているのは、CHM-000。
エリックだ。
全高三メートル近い戦闘義体は、両腕の武装を破壊され、脚部の駆動系も停止している。
胸部の生命維持装置だけが、規則正しく青い光を点滅させていた。
「どうしたんだ?」
俺が尋ねると、ガレスが振り返った。
「カイ。こいつら、エリックを別の施設へ移すって言いやがる」
医療スタッフが困った顔をした。
「通常の設備では対応できないんです。生体脳の維持装置と義体の制御系が特殊すぎます」
俺はエリックを見た。
巨大な胸部装甲の奥から、かすかな電子音が聞こえる。
『……ボス』
低い合成音声だった。
ガレスが振り返る。
「エリック!」
『……怒鳴るなよ……頭に響く……』
俺は思わず笑ってしまった。
ガレスも一瞬だけ目を見開き、それから顔を歪めた。
「馬鹿野郎。心配させやがって」
『……すまねえ……』
「謝るのは俺の方だ」
ガレスは架台へ近づいた。
金属製の巨体を見上げる。
「俺がお前らをあんな仕事に連れていかなきゃ、こんなことにはならなかった」
エリックはしばらく黙っていた。
そして、小さく答えた。
『……帰れるなら……それでいい……』
ガレスは顔を伏せた。
俺は医療スタッフに尋ねた。
「移送先は安全なんですか?」
「ヴィクターさんが手配した専門施設です。義体の生命維持装置を扱える技師もいます」
「なら、ガレス。そこへ運んでもらおう」
「だが……」
「エリックが生きるために必要なことだろ?」
ガレスは俺を見た。
しばらくして、深く息を吐いた。
「……分かった」
そして、エリックへ顔を向けた。
「俺もついていく」
『……ボス……』
「文句あるか?」
『……ねえよ……』
俺は二人を見送った。
後で聞いた話だが、ガレスの行方不明になっていた部下のうち、エリック以外の二人も別の収容区画から発見された。
一人は生きていた。
もう一人は、間に合わなかった。
その報告を聞いたとき、ガレスは長い間、何も話さなかったという。
この街では、助けられなかった命の重さも、救えた命の重さも同じだった。
◇
午前九時過ぎ。
施設の一室で、俺はヴィクターと向かい合っていた。
机の上には、ノアが回収した研究データが並んでいる。
「被験者は、確認できただけで二十人以上」
ヴィクターが言った。
「全員の生存を確認できたわけじゃない。過去の実験記録には、死亡した被験者の名前もある」
俺は黙って聞いた。
「生存者の保護先は分散させた。ヘリックスに一括して奪い返される危険を避けるためだ」
「ヴォスは?」
「拘束したままだ。ノアが記録を保全し、エマにも照合してもらっている」
ヴィクターは端末を操作した。
画面に、ヴォスの姿が映った。
拘束椅子に座らされた男は、相変わらず不機嫌そうな顔をしている。
「自分は何も悪くないと言い張っている」
「だろうな」
「それどころか、被験者たちには自分の研究が必要だったと言っているらしい」
俺は画面を見つめた。
昨夜、ヴォスを捕らえたときのことを思い出す。
リナが自分の名前を告げた瞬間。
彼女が命令を拒否した瞬間。
ヴォスは、銃を突きつけられたとき以上に動揺していた。
「ヴィクター」
「何だ?」
「ヴォスを処分する前に、やってほしいことがある」
ヴィクターが眉を上げた。
「聞こう」
「被験者たちが望むなら、あいつの前で自分の名前を名乗れる機会を作ってほしい」
「名前?」
「ああ。それと、今後どう生きるかも」
俺は続けた。
「ヴォスは、あの人たちを番号でしか見ていない。自分の命令がなければ何もできないと思ってる」
ヴィクターは黙っていた。
「だから、本人たちが自分の意思で生きていくところを、あいつに見せたい」
少しの沈黙。
やがて、ヴィクターが笑った。
「お前らしいな」
「そうかな」
「ああ。殺すより手間がかかる」
俺は肩をすくめた。
「生かしておいた方が、聞き出せることも多いだろ?」
「それもそうだ」
ヴィクターは端末を閉じた。
「分かった。ただし、被験者たちに無理強いはしない」
「もちろん」
俺は頷いた。
それが一番大切だった。
ヴォスへの仕返しのために、救い出した人々へ新しい命令を与えてしまっては意味がない。
彼らが何をするかは、彼ら自身が決めるべきなのだから。
◇
その日の夕方。
俺はようやく隠れ家へ帰った。
三階の廊下を歩いていると、扉の向こうから足音が聞こえた。
鍵を開けるより早く、扉が内側へ開いた。
「カイお兄ちゃん!」
ミナだった。
小さな身体が、勢いよく飛びついてくる。
「うわっ!」
俺は慌てて抱きとめた。
右肩に鋭い痛みが走る。
……痛い。
だが、そんなことを口にする気にはなれなかった。
「ただいま、ミナ」
「おかえり!」
ミナは俺の胸に顔を埋めた。
その向こうで、リクが立っていた。
腕を組み、少し怒ったような顔をしている。
「……遅い」
「ごめん」
「昨日、帰ってくるって言っただろ」
「ああ」
「夕飯も一緒に食べるって」
「……うん」
俺は頭を下げた。
「約束、破っちゃったな」
リクは唇を噛んだ。
そして、小さく言った。
「……無事ならいいよ」
俺は顔を上げた。
リクは目を逸らしていた。
だが、その目元が赤いことには気づいていた。
「心配かけたな」
「当たり前だろ」
俺は空いている手を伸ばし、リクの頭を撫でた。
普段なら嫌がるところだ。
だが、その日は何も言わなかった。
部屋の奥では、シルヴァが伏せていた。
銀灰色の毛並み。
青い瞳。
俺を見ると、ゆっくりと尻尾を振る。
「シルヴァもありがとう。二人を守ってくれて」
霊狼は静かに目を細めた。
ミナが顔を上げる。
「ねえ、カイお兄ちゃん」
「ん?」
「ごはん、いっしょに食べよう?」
俺は笑った。
「ああ。そうしよう」
その夜、俺たちは遅い夕食を囲んだ。
リクが温めたスープ。
ミナが並べた皿。
少し焦げたパン。
高級な料理なんかじゃない。
けれど、地下施設で何時間も戦った後の俺には、どんなご馳走よりも美味しく感じられた。
「いただきます!」
ミナが元気よく言った。
「いただきます」
俺も続ける。
リクは少し照れくさそうに、同じ言葉を口にした。
食事の途中、ミナが尋ねた。
「カイお兄ちゃん、あしたもいる?」
「ああ。明日は休むよ」
「ほんと?」
「本当」
「じゃあ、あさごはんも?」
「もちろん」
ミナは嬉しそうに笑った。
俺はその顔を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
……そうだ。
俺は、こういう時間を守りたかったんだ。
神々の祝福も、剣の技術も。
誰かを倒すためだけにあるんじゃない。
この小さな食卓を、明日も囲めるようにするためにある。
そう思った。
◇
――それから、一か月。
キメラ計画の後始末は、予想以上に長引いた。
まず問題になったのは、救出した被験者たちの身元だった。
企業によって記録を消された者。
死亡扱いにされていた者。
家族にさえ、行方不明の理由を知らされていなかった者。
ヴィクターとノアは、彼らの過去を調べ直す作業に追われた。
俺にもできることはあった。
怪我をした人がいれば治療を手伝った。
身寄りのない人がいれば、ヴィクターに相談して住む場所を探した。
時には、彼らの話をただ聞いた。
それだけで一日が終わることもあった。
リナは専門の医療施設で義体の修復を受けた。
最初の頃は、眠ることさえ怖かったらしい。
目を閉じると、また誰かに身体を操られる気がするのだという。
俺が見舞いに行くと、彼女は窓際に座っていた。
「調子はどう?」
「少しずつね」
リナはそう言って、右手を開いたり閉じたりした。
「自分の指を動かせるって、こんなに嬉しいことだったのね」
俺は隣の椅子へ座った。
「これから何をするつもり?」
「まだ決めてない」
彼女は笑った。
「でも、それが嬉しいの」
「どうして?」
「何をするか、自分で考えられるから」
俺は頷いた。
「そっか」
しばらくして、彼女は護身術の指導を始めた。
今度の生徒は、企業の警備員ではない。
自分の身を守る術を知りたい、普通の人たちだった。
リナは最初、剣を握ることを怖がっていた。
それでも、少しずつ。
自分の技術を、自分の意思で使えるようになっていった。
ミオも回復していた。
彼女はしばらく、夜になると泣いていたという。
首筋の制御端末は安全に取り外され、義体化された脚も調整を受けた。
俺が会いに行くと、彼女は小さな紙を差し出してきた。
そこには、少し歪んだ文字で名前が書かれていた。
――ミオ。
「自分で書いたの?」
「うん!」
彼女は胸を張った。
「おぼえたの!」
俺は紙を受け取った。
「上手だな」
ミオは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺はあらためて思った。
彼女が名前を取り戻せて、本当によかった。
◇
――二か月後。
ヴォスの処遇について、ヴィクターから報告があった。
彼は、研究記録と共に厳重に拘束されていた。
キメラ計画の資金源についても、少しずつ情報が集まっている。
ただし、ナイトシティでは証拠があれば必ず正義が実現する、というわけではない。
大企業が関わる事件なら、なおさらだ。
ヴィクターは慎重だった。
研究記録を複数の場所へ分散保存し、関係者が一人消えても証拠が失われないようにした。
エマとノアは、被験者たちの記録を照合した。
その過程で、ヴォスが意図的に死亡記録を偽装していた事実も判明した。
ある日、ヴィクターは俺に短い映像を見せた。
拘束室。
透明な仕切りの向こうに、ヴォスが座っている。
その前には、リナが立っていた。
隣には、かつてCHM-011と呼ばれていた男。
さらに、何人かの元被験者たちがいた。
全員が参加を希望した人たちだ。
リナは、ヴォスへ告げた。
『私たちは、あなたの所有物ではありません』
ヴォスは何か言い返した。
だが、リナは動じなかった。
『これから、私たちは自分の意思で生きます』
続いて、ほかの被験者たちも自分の名前を名乗った。
ある者は家族のもとへ帰ると言った。
ある者は新しい仕事を探すと言った。
ある者は、まだ何も決められないと答えた。
誰もが、違う答えを持っていた。
それを聞くうちに、ヴォスの表情が変わっていった。
最初は嘲笑。
次に苛立ち。
そして、困惑。
最後には、声を荒らげて命令し始めた。
『黙れ! 私は君たちの設計者だぞ!』
だが、誰も従わなかった。
リナは静かに答えた。
『あなたには、もう私たちを命令で動かすことはできません』
その一言で、ヴォスは言葉を失った。
俺は映像を見ながら、遠い昔の出来事を思い出していた。
人を操る魔術師。
解放された人々。
そして、セレーネの言葉。
『あの人が一番怖いのは、誰も自分の言うことを聞かなくなることなのよ』
……本当に、その通りだったな。
ヴォスのその後について、すべてを知っているわけではない。
ただ、ヴィクターからは、二度と被験者たちへ手を出せないよう厳重な措置を取ったと聞いている。
彼が最も誇っていた支配の力は、もう通用しなかった。
それが、彼にとって何より大きな敗北だったのだと思う。
◇
――三か月後。
俺は、ようやくナイトシティでの暮らしに慣れ始めていた。
最初は何も分からなかった。
通貨の使い方。
街の区画。
企業の名前。
銃の種類。
車両の仕組み。
ネットワークというものの存在。
前世の日本にも似た技術はあったが、この世界の発展は俺の想像を大きく超えていた。
それでも、少しずつ学んだ。
ヴィクターからは、この街で生きるための知恵を。
ノアからは、ネットワークや監視装置の仕組みを。
マーカスからは、銃器を持つ相手との戦い方を。
そして、リナからは義体化した格闘家特有の動きを教わった。
「あなた、剣の腕は本当に凄いのね」
ある日、訓練場でリナが言った。
彼女は修復された義体で木製の模擬剣を構えていた。
「でも、銃口を見る癖がある」
「駄目なの?」
「銃口を見るのは大切。でも、それだけじゃ遅いことがあるわ」
彼女は銃を構える動作をした。
「肩、腰、視線。撃つ前には必ず何かが動く。義体化した相手なら、駆動音や重心の変化もある」
俺は頷いた。
「なるほど」
「あなたなら覚えられると思う」
「厳しく教えてくれ」
リナは少し笑った。
「後悔しても知らないわよ」
その日、俺は何度も床へ転がされた。
神々の祝福があっても、知らない技術には対応しきれない。
それを痛感した。
ただ、収穫もあった。
義体の関節が動き始める直前の音。
銃を撃つ前の指の動き。
重火器を持つ相手の死角。
それらを少しずつ理解できるようになった。
剣だけで戦うことをやめたわけではない。
むしろ、剣を使うために必要な知識が増えたのだ。
この街には、この街の戦い方がある。
俺はそれを学び続けた。
◇
――四か月後。
リクとミナの生活にも、変化があった。
ヴィクターの紹介で、二人は基礎教育を受けられるようになった。
身元の問題があったため、正式な学校へ通うのは簡単ではなかったが、信頼できる教師を見つけることができた。
ミナは文字を覚えるのが好きだった。
覚えた単語を、毎日のように俺へ見せてくる。
「カイお兄ちゃん! これ読める?」
ある日、彼女が紙を差し出してきた。
そこには、少し歪んだ文字で書かれていた。
――FAMILY。
「家族、だね」
「せいかい!」
ミナは嬉しそうに笑った。
「先生がね、いちばん大切なものを書いてみようって!」
俺は紙を見つめた。
「……そっか」
「カイお兄ちゃんも、リクも、シルヴァも、みんな家族!」
俺は何も言えなかった。
胸の奥が、少し熱くなった。
リクは相変わらず素直ではなかった。
だが、以前より笑うようになった。
夜中に物音がしても、すぐに飛び起きることが減った。
ミナが熱を出したときも、慌てながら俺を呼びに来るようになった。
以前なら、誰にも頼ろうとしなかっただろう。
そんな小さな変化が、俺には嬉しかった。
そして、俺自身も変わっていた。
仕事から帰ると、誰かが待っている。
食卓には、自分の席がある。
夜中に帰れば、リクに怒られる。
朝寝坊すれば、ミナに起こされる。
それは、異世界で勇者一行の一員として戦っていた頃には、なかなか得られなかった時間だった。
俺は少しずつ、この街にも帰る場所があるのだと思えるようになっていた。
◇
――六か月後。
季節が変わっても、ナイトシティの景色は大きく変わらなかった。
相変わらずネオンは眩しく、道路には車が溢れ、遠くから銃声が聞こえる。
だが、俺の周囲では確かに時間が流れていた。
エリックの生命維持装置は安定した。
巨大義体を完全に元へ戻すことはできなかったが、専門の技師たちが段階的な修復を進めていた。
ガレスはその費用を稼ぐため、危険な仕事を引き受けることもあった。
ただし、以前のような無差別な襲撃はしなくなった。
ある日、彼は俺に言った。
「……俺は、善人にはなれねえ」
俺は答えた。
「別に、今すぐなる必要はないだろ」
「何だそりゃ」
「昨日より少しまともなことをすればいいんじゃないか?」
ガレスはしばらく俺を見ていた。
そして、声を上げて笑った。
「お前、本当に変な奴だな」
「よく言われる」
「だろうな」
俺たちは、それ以上何も言わなかった。
過去のことを忘れたわけではない。
彼を完全に信用したわけでもない。
だが、互いに背中を預けた夜があったことも事実だった。
それで十分な気がした。
同じ頃、ノアはキメラ計画の外部スポンサーを追い続けていた。
何重にも偽装された送金経路。
実在しない会社。
消された研究記録。
調べれば調べるほど、事件の背後には大きな組織があるように思えた。
ただし、決定的な証拠は見つからなかった。
「焦っても仕方ない」
ヴィクターはそう言った。
「相手が大物なら、なおさらだ。こちらが動いていることを知られれば、次はもっと大きな手で潰しに来る」
俺は頷いた。
この世界では、力だけで解決できない問題が多い。
剣で斬れない敵。
姿の見えない敵。
そもそも、誰が敵なのか分からないことさえある。
だからこそ、仲間が必要だった。
俺は一人で戦うことを、少しずつやめていった。
◇
――八か月後。
俺は、元の世界へ帰る方法を探し続けていた。
ナイトシティには、奇妙な技術がいくつもある。
人間の意識をデータとして扱う研究。
仮想空間に存在する人格。
人体と機械をつなぐ技術。
だが、世界そのものを越える方法となると、話は別だった。
ノアにも相談した。
ヴィクターにも話した。
時には、俺の持つ力を知る者から情報を集めた。
しかし、手掛かりは見つからない。
俺がこの世界へ来たときに起きた現象は、科学的に説明できるものではなかった。
邪神との戦い。
空間の裂け目。
神々の祝福。
それらは、この街の技術とは根本から異なる。
ある夜。
俺は建物の屋上で、夜空を見上げていた。
ナイトシティの空は明るい。
街の光が強すぎて、星はほとんど見えない。
それでも、月だけは見えた。
俺は胸元の護符を取り出した。
銀色の小さな飾り。
セレーネが俺に渡してくれたものだ。
表面には、月を象った紋様が刻まれている。
あいつは、これを渡したとき、少し照れくさそうに笑っていた。
『離れていても、これがあれば見つけられるから』
あのときは、何気ない約束だと思っていた。
まさか、本当に別の世界へ離れ離れになるなんて。
俺は護符を握った。
「……セレーネ」
名前を呼んでも、返事はない。
護符が俺に彼女の居場所を教えてくれることもない。
この護符は、彼女が俺を探すためのものだ。
俺からセレーネを見つけることはできない。
それでも、手放す気にはなれなかった。
俺は月を見上げた。
「元気にしてるかな」
あいつは強い。
魔術の才能もあるし、判断力もある。
俺がいなくても、きっと立派に戦っているだろう。
けれど。
寂しくないはずがなかった。
俺だって、寂しいのだから。
「……会いたいな」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
夜風が頬を撫でた。
月は、何も答えなかった。
◇
――十か月後。
俺は十七歳になっていた。
正確な誕生日を、この世界の暦へどう当てはめればいいのかは分からなかった。
それでも、リクとミナは誕生日を祝ってくれた。
小さなケーキ。
少し不揃いな飾り付け。
そして、ミナが描いた絵。
そこには、俺とリクとミナとシルヴァが並んでいた。
俺の手には剣が描かれている。
リクは少し不機嫌そうな顔。
ミナは大きな笑顔。
シルヴァは、なぜか実物よりずっと大きかった。
「どう?」
ミナが尋ねた。
「すごくいい」
「ほんと?」
「ああ。大事にするよ」
リクが横から言った。
「それ、ミナが三日かけて描いたんだぜ」
「リク!」
ミナが慌てた。
「ないしょって言ったのに!」
「別にいいだろ」
「もう!」
二人のやり取りを見て、俺は笑った。
その夜、ケーキを食べ終えた後。
俺は部屋の窓から、外を眺めていた。
十七歳。
前の世界なら、まだ子供と呼ばれる年齢だ。
だが、俺は勇者一行の仲間たちと共に戦争を経験し、多くの人を見送ってきた。
その一方で、こうして誕生日を祝ってもらうことには、まだ慣れていなかった。
不思議なものだ。
俺は胸元の護符に触れた。
……セレーネ。
もし再会できたら、君にもこの絵を見せたい。
リクとミナを紹介したい。
ヴィクターやノアたちにも会わせたい。
この街で経験したことを、全部話したい。
そして、君がどう過ごしていたのかも聞きたい。
俺は小さく笑った。
「……話したいことが、山ほどあるな」
◇
――十一か月後。
ナイトシティでの生活は、少しずつ落ち着いていた。
もちろん、完全に平和になったわけではない。
仕事の依頼は絶えない。
助けを求める人もいる。
時には、企業やギャングと揉めることもあった。
だが、俺は以前より慎重になっていた。
無茶をする前に、仲間へ相談する。
危険な仕事なら、逃げ道を確保する。
救出対象がいるなら、まず搬送方法を考える。
それらは、キメラ計画で学んだことだった。
力があるだけでは、人を助けきれない。
助けた後に、その人が生きていける場所まで考えなければならない。
俺はそのことを、身をもって知った。
ある日、ヴィクターが言った。
「カイ。お前、この街に来た頃とは随分変わったな」
「そう?」
「ああ。最初は、剣一本で何でも解決しようとしていた」
「……否定できない」
「今は少し、周りを見るようになった」
俺は笑った。
「仲間のおかげだよ」
ヴィクターは煙草を取り出しかけ、俺を見てやめた。
「そういうところは、変わらないな」
「何が?」
「自分の手柄を、全部他人へ渡すところだ」
俺は首を傾げた。
ヴィクターは笑った。
「まあ、そのままでいろ」
俺は肩をすくめた。
「努力するよ」
◇
――そして、一年後。
2073年。
ナイトシティ。
俺がこの世界へ転移してから、ちょうど一年が経った。
その日は、朝から妙に落ち着かなかった。
理由は分からない。
ただ、いつもより胸の奥がざわついていた。
リクとミナを送り出した後、俺はヴィクターの店へ向かった。
仕事の報告を済ませ、ノアから新しい情報を受け取る。
特に大きな事件はなかった。
いつも通りの一日。
そうなるはずだった。
夕方。
俺はワトソン地区の通りを歩いていた。
空は薄暗くなり始めている。
ビルの壁面には巨大な広告が流れ、道路では車が絶え間なく行き交っていた。
屋台からは油の匂いが漂い、通行人たちはそれぞれの目的地へ急いでいる。
俺は買い物袋を片手に、信号が変わるのを待っていた。
中身は、ミナに頼まれた菓子と、夕食用の食材。
リクが今日は料理を作ると言っていたので、その材料を買ってきたのだ。
……さて。
そろそろ帰らないとな。
そう思ったときだった。
遠くで、何かが光った。
――キィン。
澄んだ音。
まるで、薄い硝子を指で弾いたような音だった。
俺は足を止めた。
……何だ?
通りの向こう。
人通りの少ない路地。
そこに、一瞬だけ淡い銀色の光が見えた。
俺は眉をひそめた。
ネオンではない。
ホログラムでもない。
あの光には、覚えがあった。
……まさか。
胸の奥が、大きく跳ねた。
俺は買い物袋を握り直し、路地へ向かった。
◇
路地の奥は、静かだった。
表通りの喧騒が遠くに聞こえる。
壁には古い配管が走り、足元には雨水が溜まっていた。
そして。
路地の中央に、一人の少女が立っていた。
銀色の髪。
深い青色の瞳。
白と紺を基調とした、見覚えのある旅装。
その肩には、小さな鞄が掛けられていた。
少女は周囲を見渡していた。
巨大な建物。
見たこともない車。
空を飛ぶ広告。
聞き慣れない言葉。
すべてが、彼女にとって未知のものなのだろう。
だが、その手には、銀色の護符が握られていた。
俺の胸元にあるものと、対になる護符。
彼女はそれを見つめ、何かを確かめるように顔を上げた。
そして。
俺と目が合った。
時間が止まったように感じた。
耳に入っていた車の音も。
遠くの人々の声も。
すべてが、急に遠ざかっていく。
俺は、その場から動けなかった。
何度も夢に見た顔だった。
もう一度会いたいと、何度も願った相手だった。
銀色の髪が、夕方の風に揺れる。
青い瞳が、大きく見開かれる。
少女の唇が震えた。
「……カイ?」
その声。
聞き間違えるはずがなかった。
俺は喉の奥が詰まるのを感じた。
言いたいことは、山ほどあった。
無事だったのか。
どうやってここへ来たんだ。
向こうの世界はどうなった。
みんなは元気か。
ずっと会いたかった。
でも。
実際に口から出たのは、たった一つの名前だった。
「……セレーネ?」
少女の瞳に、涙が浮かんだ。
次の瞬間。
彼女は走り出した。
「カイ!」
俺も駆け出した。
買い物袋が手から落ちる。
菓子の箱が転がり、果物が地面へ散らばった。
そんなこと、どうでもよかった。
セレーネが目の前にいる。
それだけで、十分だった。
彼女は俺の胸へ飛び込んできた。
俺は両腕で抱きとめた。
――ぎゅっ。
懐かしい温もり。
懐かしい髪の香り。
そして、震える小さな身体。
「……カイ……!」
セレーネが俺の服を掴んだ。
「本当に……本当に、カイなの……?」
「ああ」
俺は彼女を抱きしめた。
「俺だよ」
「……生きてた……」
「ああ」
「……よかった……!」
彼女の声が、涙で途切れた。
俺は何も言えなかった。
ただ、強く抱きしめた。
一年。
長い一年だった。
この街へ来た日。
リクとミナに出会った日。
初めてヴィクターと仕事をした日。
ガレスと戦った日。
キメラ計画の被験者たちを救い出した日。
数え切れないほどの出来事があった。
嬉しいことも。
苦しいことも。
怖かったことも。
全部、思い出せる。
けれど。
そのすべての時間の中で。
俺はずっと、彼女に会いたかった。
「……セレーネ」
名前を呼ぶ。
彼女が顔を上げた。
涙に濡れた青い瞳。
その目を見た瞬間、俺の胸の奥に溜まっていたものが溢れた。
「……会いたかった」
セレーネは泣きながら笑った。
「……私も」
そして、もう一度俺へ抱きついた。
「ずっと、会いたかった……!」
俺は彼女の背中へ手を回した。
もう離したくなかった。
今度こそ。
絶対に。
◇
どれくらい、そうしていただろう。
やがて、セレーネが少しだけ身体を離した。
彼女は俺の顔を見つめた。
まるで、本当にそこにいるのか確かめるように。
「……少し、大きくなった?」
俺は笑った。
「そうかな」
「うん。前より、少しだけ」
セレーネは俺の頬へ手を伸ばした。
その指先が、そっと触れる。
「……本当に、カイなんだね」
「ああ」
俺は頷いた。
「君も、変わらないな」
「そう?」
「うん」
俺は少し考えた。
「……いや、前より綺麗になったかも」
セレーネの顔が、一瞬で赤くなった。
「なっ……!」
彼女は慌てて手を引いた。
「い、いきなり何を言うのよ!」
「思ったことを言っただけだけど」
「そういうところ!」
セレーネは俺の胸を軽く叩いた。
懐かしいやり取りだった。
俺は笑った。
彼女も、少し遅れて笑った。
その笑顔を見て、ようやく実感が湧いてきた。
……帰ってきたんだ。
いや。
違うな。
俺が帰ったわけじゃない。
セレーネが、俺を見つけてくれたんだ。
「ねえ、カイ」
「ん?」
「ここは、どこなの?」
俺は周囲を見渡した。
高層ビル。
ネオン。
空を飛ぶ広告。
道路を走る車。
そして、遠くから聞こえる銃声。
俺は少し苦笑した。
「説明すると長くなる」
「……でしょうね」
セレーネは困ったように笑った。
「でも、聞かせて」
「ああ」
俺は頷いた。
「全部話すよ」
そして、手を差し出した。
「まずは、帰ろう」
セレーネが首を傾げた。
「帰る?」
「今、住んでる家があるんだ」
「……家?」
「ああ。それに、紹介したい人たちもいる」
セレーネは驚いた顔をした。
「カイ、この世界で友達ができたの?」
「友達もいるし、家族みたいな子たちもいる」
彼女は目を丸くした。
そして、嬉しそうに笑った。
「……そっか」
俺は頷いた。
「きっと、君のことも気に入ると思う」
「そうだといいな」
セレーネは俺の手を取った。
その温もりが、確かに伝わってくる。
俺は彼女の手を握り返した。
「行こう、セレーネ」
「うん」
俺たちは、路地を出た。
夕暮れのナイトシティ。
巨大なビルの隙間から、最後の陽光が差し込んでいる。
俺の隣には、銀髪の少女が歩いていた。
何度も夢に見た光景。
もう二度と見られないかもしれないと思っていた光景。
それが今、現実になっている。
俺は胸元の護符に触れた。
一年前、別れ際に交わした約束。
離れていても、いつか必ず見つける。
その約束は、果たされた。
けれど、俺たちの物語は終わらない。
むしろ。
ここからが、新しい始まりなのだ。
俺は隣を歩くセレーネを見た。
彼女も俺を見上げ、微笑んだ。
俺はその手を、もう一度しっかりと握った。
ナイトシティの夜が始まろうとしていた。
けれど、今夜は。
この街へ来て初めて、夜が来ることを嬉しく思えた。
なぜなら。
俺の隣には、月の祝福を受けた少女がいるのだから。