セレーネが隣を歩いている。
たったそれだけのことが、信じられないほど嬉しかった。
ナイトシティの夕暮れ。
巨大なビルの壁面では色鮮やかな広告が次々と切り替わり、道路には無数の車が行き交っている。頭上を飛行ドローンが横切り、遠くからは警察のサイレンが聞こえてきた。
一年前、俺が初めてこの街へ来たときには、何もかもが異様に見えた。
けれど、今ではすっかり見慣れた景色だ。
その一方で、隣を歩くセレーネは、先ほどから何度も足を止めていた。
「……カイ」
「ん?」
「あれは、何?」
彼女が指差したのは、道路を走る大型の貨物車だった。
六つの車輪を持つ無骨な車体が、低い駆動音を響かせながら交差点を曲がっていく。
「トラックだよ。荷物を運ぶための乗り物」
「馬は?」
「いない」
「……魔導機関で動いているの?」
「いや、電気とか燃料を使って動いてるんだ」
「電気……雷の力?」
「まあ、大雑把に言えばそうかな」
セレーネは目を丸くした。
「雷を、あんなふうに使うの?」
「この世界では珍しくないんだ」
「……すごいわね」
彼女は感心したように呟いた。
そのとき、頭上の巨大広告が切り替わった。
ビルの壁面に映し出された女性が、突然こちらへ向かって微笑む。
『あなたの人生に、最高のアップグレードを!』
「きゃっ!」
セレーネが俺の腕へしがみついた。
俺は思わず笑ってしまった。
「大丈夫。あれは映像だよ」
「え、映像?」
「幻影魔術に似たものかな。実際に人がいるわけじゃない」
セレーネは恐る恐る広告を見上げた。
「……魔力を感じないわ」
「そう。この世界の技術なんだ」
「魔力も使わずに、あんなに精巧な幻影を……」
しばらく見上げていた彼女は、ふと俺を見た。
「カイは、もう驚かないの?」
「最初は驚きっぱなしだったよ」
「本当に?」
「ああ。初めて車を見たときなんて、魔物かと思ったくらいだ」
セレーネが吹き出した。
「ふふっ! それ、見てみたかったわ」
「勘弁してくれ」
「きっと、剣を抜こうとしたんでしょう?」
「……よく分かったな」
「カイのことだもの」
彼女は楽しそうに笑った。
俺もつられて笑う。
懐かしいやり取りだった。
勇者一行の仲間として旅をしていた頃、俺たちはよくこんなふうに話していた。
野営地で食事を作りながら。
馬車に揺られながら。
危険な迷宮を抜けた帰り道で。
あの頃は、いつまでも続くと思っていた時間だ。
それが突然失われ、一年もの間、二度と戻らないかもしれないと考えていた。
けれど今、セレーネが俺の隣で笑っている。
その事実を確かめたくて、俺は繋いだ手に少しだけ力を込めた。
彼女も、そっと握り返してくれた。
◇
「そういえば、カイ」
「何?」
「さっきから気になっていたんだけど……」
セレーネは俺の服装を見下ろした。
黒いフード付きの上着。
その下には薄い防護素材を組み込んだ服。
腰には神聖な長剣。
足元は、この街で買った丈夫なブーツだ。
「ずいぶん服装が変わったのね」
「ああ。こっちの方が目立たないから」
「剣は目立つと思うけど」
「それは言わない約束で」
「ふふっ」
セレーネは俺の腰にある剣へ目を向けた。
「でも、その剣は変わらないのね」
「うん。ずっと使ってる」
彼女は安心したように微笑んだ。
それから、少しだけ表情を曇らせる。
「……カイ」
「ん?」
「怪我は、してない?」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
セレーネは昔から、こういうことに敏感だった。
俺が傷を隠していても、歩き方や表情で気づいてしまう。
「今は大丈夫だよ」
「今は?」
「……いろいろあったから」
セレーネは足を止めた。
俺も立ち止まる。
「無茶、したのね」
「少しは」
「少し?」
深い青色の瞳が、まっすぐ俺を見つめている。
……ごまかせそうにない。
「……かなり」
「でしょうね」
彼女は呆れたようにため息をついた。
そして、俺の胸元へ手を伸ばした。
服の上から、護符に触れる。
「生きていてくれて、よかった」
その声は小さかった。
俺は彼女の手に、自分の手を重ねた。
「セレーネも」
彼女が顔を上げる。
「よく、ここまで来てくれたな」
セレーネは何かを言いかけた。
だが、すぐに口を閉じた。
それから、少し困ったように笑う。
「……その話は、落ち着いてからでもいい?」
「ああ。もちろん」
無理に聞き出すつもりはなかった。
彼女がどんな思いでこの世界へ来たのか。
何を犠牲にしたのか。
向こうの世界で何があったのか。
知りたいことは山ほどある。
だが、今は彼女を安心できる場所へ連れていくことが先だった。
「じゃあ、帰ろう」
「うん」
俺たちは再び歩き始めた。
◇
途中、俺はふと重大なことを思い出した。
……買い物袋。
そうだ。
セレーネと再会したとき、驚きのあまり手放してしまったんだった。
振り返っても、もう路地は見えない。
あのとき、果物が地面へ転がったことまでは覚えている。
だが、それ以降はまったく記憶にない。
……やってしまった。
「どうしたの?」
セレーネが尋ねる。
「いや、ちょっと買い物をやり直さないといけなくて」
「買い物?」
「ああ。夕食の材料を買ってたんだけど、君と会ったときに全部落としちゃったんだ」
セレーネは目を丸くした。
それから、口元を押さえる。
「……ふふっ」
「笑うなよ」
「だって、カイがそんなことするなんて」
「俺だって驚いたんだよ」
「……私もよ」
彼女は嬉しそうに笑った。
「でも、ちょっと嬉しいかも」
「どうして?」
「私に会って、そんなに驚いてくれたんでしょう?」
俺は少し照れくさくなった。
「……まあ、そうだな」
セレーネの頬が赤くなる。
「……もう」
結局、俺たちは近くの市場で食材を買い直すことになった。
肉、野菜、パン。
それから、ミナが好きな菓子。
セレーネは電子決済の仕組みに驚き、人工肉の説明を聞いて顔をしかめ、無人販売機が喋り始めると本気で警戒した。
「カイ。この箱、意思があるの?」
「いや、決められた言葉を喋ってるだけだよ」
「……本当に?」
「たぶん」
「たぶんって何?」
「この街だと、絶対とは言い切れないこともあるから」
俺の説明を聞いたセレーネは、ますます販売機から距離を取った。
その姿が少し可笑しかった。
もっとも、俺も最初は似たようなものだった。
彼女を笑える立場ではない。
買い物を終えた頃には、空はすっかり暗くなっていた。
街灯とネオンが道路を照らしている。
俺は無意識に周囲へ意識を向けた。
夜と月の女神の祝福。
夜間、こちらへ敵意を向ける人間の位置を感じ取る力だ。
近くの路地に、酔った男が二人。
少し離れた交差点には、何かの揉め事を起こしている集団。
だが、今の俺たちへ明確な敵意を向けている人間はいない。
少なくとも、すぐに戦う必要はなさそうだった。
「カイ?」
セレーネが俺を見上げた。
「どうしたの?」
「いや。周囲を確認してただけ」
「……変わらないのね」
「何が?」
「そうやって、いつも私の前を歩こうとするところ」
俺は自分の足元を見た。
確かに、いつの間にか彼女より半歩前に出ていた。
「癖かな」
「知ってる」
セレーネは微笑んだ。
「でも、今は隣を歩かせて」
俺は足を緩めた。
「分かった」
彼女が並ぶ。
そして、再び手を繋いだ。
◇
ワトソン地区の外れ。
三階建ての古い集合住宅。
俺たちが暮らしている建物へ着いた頃には、午後七時を少し過ぎていた。
「ここ?」
セレーネが建物を見上げる。
「ああ。今の俺の家」
「……思っていたより、普通なのね」
「どんな家を想像してたんだ?」
「もっと、こう……砦みたいな場所とか」
「どうして?」
「カイだから」
「それ、理由になってる?」
セレーネは笑った。
「なってるわ」
俺は苦笑した。
確かに、勇者一行で旅をしていた頃は、危険な場所に寝泊まりすることも多かった。
魔物の巣窟になった廃城。
古代遺跡の地下室。
雨風を防ぐだけの洞窟。
そう考えれば、鍵のかかる部屋で暮らせるだけでも随分と贅沢だ。
階段を上がりながら、俺は通信端末を取り出した。
リクへ短い連絡を入れる。
『もうすぐ帰る。今日はお客さんが一人いる』
数秒後、返事が来た。
『誰?』
『大切な友達』
『女の人?』
……鋭いな。
『そう』
今度は少し間が空いた。
『ミナにはまだ言ってない。早く帰ってこい』
俺は思わず笑った。
「どうしたの?」
セレーネが尋ねる。
「家にいる子から連絡が来た」
「さっき言ってた、家族みたいな子たち?」
「ああ。兄妹なんだ」
「何歳なの?」
「兄のリクが十四歳くらい。妹のミナが十一歳くらいかな」
この世界へ来た頃から、二人も一年分成長した。
背も伸びたし、以前より表情が柔らかくなった。
「二人とも、いい子だよ」
俺がそう言うと、セレーネは嬉しそうに笑った。
「会うのが楽しみ」
そして、少しだけ不安そうに尋ねた。
「……私、邪魔にならないかな」
俺は思わず足を止めた。
「邪魔?」
「だって、カイはもう、ここで暮らしているんでしょう? 突然私が来たら、困るんじゃないかって」
俺はセレーネを見つめた。
彼女は本気で心配しているようだった。
「セレーネ」
「何?」
「俺がどれだけ君に会いたかったか、分かってる?」
彼女の顔が赤くなる。
「そ、それは……」
「困るわけないだろ」
俺は笑った。
「むしろ、どうやって紹介しようか迷ってるくらいだ」
「……紹介?」
「ああ。大切な人だから」
セレーネは目を見開いた。
それから、顔を伏せた。
「……もう」
「ん?」
「カイって、昔からそういうところがあるわよね」
「どういうところ?」
「自覚がないところ」
よく分からなかった。
ただ、セレーネが少し嬉しそうだったので、それ以上は聞かなかった。
◇
三階の部屋の前へ着いた。
扉の向こうから、何やら騒がしい声が聞こえる。
「だから、ミナ! まだ開けるなって!」
「でも、カイお兄ちゃん帰ってきたんでしょ!」
「客がいるって言ってただろ!」
「お客さん?」
「そうだよ!」
……いつも通りだな。
俺は苦笑しながら鍵を開けた。
「ただいま」
扉を開けた瞬間、小さな影が飛び出してきた。
「カイお兄ちゃん!」
ミナだ。
いつものように飛びつこうとして、俺の隣にいるセレーネを見つけた。
ぴたりと止まる。
セレーネも驚いたように目を丸くした。
二人が見つめ合う。
数秒の沈黙。
「……わあ」
ミナが呟いた。
「お姫様みたい……」
セレーネは一瞬きょとんとした。
それから、柔らかく微笑んだ。
「初めまして」
少し膝を曲げ、ミナと目線を合わせる。
「私はセレーネ。カイの……昔からの友達よ」
ミナは目を輝かせた。
「セレーネお姉ちゃん?」
「ええ」
「髪、すっごくきれい!」
「ありがとう」
セレーネは嬉しそうに笑った。
ミナはすぐに俺を見上げた。
「カイお兄ちゃん!」
「何?」
「この人、お嫁さん?」
「ぶっ!」
俺は思わずむせた。
セレーネも固まった。
「み、ミナ!?」
「ちがうの?」
純粋な瞳で尋ねられる。
俺は返答に困った。
そのとき、部屋の奥からリクが現れた。
「おい、ミナ。初対面で変なこと聞くなよ」
「だって!」
「だってじゃない」
リクは俺たちへ目を向けた。
そして、セレーネを見た。
「……こんばんは」
少し緊張した声だった。
セレーネは立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「こんばんは。セレーネです。突然お邪魔して、ごめんなさい」
「いや、別に……」
リクは少し戸惑いながら俺を見た。
「カイ。この人って……」
「ああ」
俺は頷いた。
「前に話したことがあるだろ。元の世界で、一緒に旅をしていた仲間」
リクの目が大きく開かれた。
「……え?」
「そのセレーネだよ」
リクはセレーネを見た。
そして、もう一度俺を見た。
「……見つかったのか?」
俺は笑った。
「ああ」
その瞬間、リクの表情が変わった。
驚きの後に、安堵が浮かぶ。
「……そっか」
彼は小さく息を吐いた。
「よかったな、カイ」
俺は頷いた。
「ありがとう」
リクは少し照れくさそうに目を逸らした。
セレーネはそんなやり取りを見て、不思議そうにしていた。
だが、何も聞かなかった。
代わりに、もう一度リクへ頭を下げた。
「これから、よろしくね」
「……うん。よろしく」
ミナが二人の間へ割り込んだ。
「ねえねえ! セレーネお姉ちゃん!」
「何かしら?」
「魔法、使えるの?」
俺は目を丸くした。
「ミナ、どうして?」
「だって、カイお兄ちゃんが前に話してたもん! 元の世界には魔法使いがいるって!」
セレーネが俺を見た。
「話してたの?」
「まあ、少し」
彼女は嬉しそうに笑った。
「ええ。使えるわよ」
「ほんと!?」
「本当」
ミナは歓声を上げた。
「見たい!」
俺は慌てて口を挟んだ。
「ミナ、いきなりは駄目だよ。セレーネも疲れてるんだから」
「あっ……そっか」
ミナは少ししょんぼりした。
だが、セレーネは優しく首を振った。
「大丈夫。小さな魔術なら」
彼女は右手を差し出した。
指先に、淡い銀色の光が灯る。
それは小さな光の粒となり、ゆっくりと宙へ浮かんだ。
光は三つに分かれ、部屋の中を静かに漂う。
まるで、小さな星のようだった。
「……わあ!」
ミナが息を呑む。
リクも目を見開いた。
俺は懐かしい魔力の気配を感じ、思わず微笑んだ。
セレーネの魔術。
一年ぶりに見る光景だった。
彼女は指を軽く動かした。
三つの光が円を描き、やがて小さな月の形になる。
ミナは両手を叩いた。
「すごい! すごい!」
セレーネは笑った。
「気に入ってくれた?」
「うん!」
ミナは彼女の手を握った。
「セレーネお姉ちゃん、また見せて!」
「ええ。約束するわ」
そのときだった。
部屋の奥から、聞き覚えのある低い鳴き声が聞こえた。
セレーネが振り返る。
「……え?」
銀灰色の霊狼が、ゆっくりと立ち上がっていた。
青い瞳。
立派な体格。
そして、見慣れた銀灰色の毛並み。
セレーネの瞳が大きく開かれた。
「……シルヴァ?」
その名前を聞いた瞬間、シルヴァの耳がぴんと立った。
次の瞬間。
シルヴァは嬉しそうに尻尾を振りながら駆け寄ってきた。
「シルヴァ!」
セレーネは膝をつき、駆け寄ってきた霊狼の首に抱きついた。
シルヴァは彼女の頬へ鼻先を押しつけ、甘えるように喉を鳴らす。
「ふふっ! くすぐったいわ!」
セレーネは笑いながら、シルヴァの頭を撫でた。
「あなたも無事だったのね……!」
その声には、心からの安堵が滲んでいた。
俺はその光景を見ながら、自然と笑みがこぼれた。
……そうだよな。
シルヴァだって、セレーネに会いたかったはずだ。
勇者一行として旅をしていた頃、シルヴァは何度も俺たちと行動を共にしていた。
セレーネが野営地でシルヴァの毛並みを整えてやったこともある。
寒い夜には、彼女がシルヴァの隣で眠っていたこともあった。
シルヴァにとっても、セレーネは大切な仲間なのだ。
「シルヴァも嬉しいみたいだな」
俺が言うと、セレーネは顔を上げた。
「当然よ。一緒に旅をした仲間だもの」
シルヴァが同意するように短く鳴いた。
セレーネは笑った。
そして、シルヴァの頭を撫でながら、ふと俺を見た。
「そういえば、カイ」
「ん?」
「もう一体の子は?」
俺は頷いた。
「ああ。今は呼び出してないよ」
「そうなの?」
「うん。シルヴァには普段、リクとミナの護衛を頼んでるんだ。もう一体は必要なときに呼び出してる」
セレーネは納得したように頷いた。
「なるほどね」
そして、シルヴァの首へ腕を回した。
「じゃあ、シルヴァはこの子たちを守っているのね」
「そういうこと」
ミナが得意げに胸を張った。
「シルヴァはね、すっごく強いんだよ!」
「そうでしょうね」
セレーネは微笑んだ。
「私も何度も助けてもらったもの」
「ほんと!?」
「ええ。魔物に囲まれたときなんて、シルヴァが真っ先に飛び出してくれたのよ」
ミナは目を輝かせた。
「すごーい!」
シルヴァは得意げに胸を張ったように見えた。
俺は思わず笑った。
「おいおい、あんまり褒めると調子に乗るぞ」
セレーネが笑う。
「いいじゃない。実際に強いんだから」
シルヴァが短く鳴いた。
……本当に、調子に乗ってるな。
その様子を見て、リクも小さく笑った。
俺はその光景を眺めながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
セレーネとシルヴァ。
一年前まで当たり前だった二人のやり取り。
それが今、リクとミナのいるこの部屋で繰り広げられている。
異世界で築いた絆と、ナイトシティで築いた絆。
その二つが、初めて一つになった瞬間だった。
◇
その日の夕食は、いつもより賑やかだった。
リクが作った肉と野菜の煮込み。
温めたパン。
ミナが並べた皿。
そして、セレーネのために用意した温かい飲み物。
彼女は食卓を見渡し、少し驚いたようにしていた。
「……カイが、こういう生活をしているなんて」
「意外?」
「少し」
「どうして?」
「だって、前は野営の準備ばかりしていたでしょう?」
俺は笑った。
「確かに」
勇者一行で旅をしていた頃は、街に滞在するより野外で過ごす時間の方が長かった。
まともな寝床がない日も珍しくなかった。
それに比べれば、今の生活はずっと落ち着いている。
ミナが元気よく手を合わせた。
「いただきます!」
セレーネが首を傾げる。
「……いただきます?」
「ああ。俺が教えたんだ」
俺は説明した。
「前世の故郷では、食事の前にそう言う習慣があったんだよ」
「そうなのね」
セレーネは少し考えた。
そして、ミナを真似して両手を合わせた。
「……いただきます」
俺は思わず笑った。
「うん」
リクも手を合わせる。
「いただきます」
俺も続けた。
「いただきます」
四人で食事を始めた。
最初は少し緊張していたセレーネだったが、ミナが次々と質問するうちに、自然と会話が弾むようになった。
「セレーネお姉ちゃんって、カイお兄ちゃんとどこで会ったの?」
「最初は、旅の途中だったわ」
「カイお兄ちゃん、昔から強かった?」
「ええ。でも、昔から無茶ばかりしていたの」
「やっぱり!」
「おい、二人とも」
俺が口を挟むと、ミナとセレーネは顔を見合わせて笑った。
リクまで口元を緩めている。
……何だか、あっという間に仲良くなったな。
セレーネは続けた。
「危険な魔物がいると、いつも真っ先に飛び出していくのよ」
「カイお兄ちゃん、こっちでもそうだよ!」
「そうでしょうね」
「ちょっと待て。俺だってちゃんと考えてるぞ」
リクがぼそりと言った。
「考えた結果、突っ込んでるんだろ」
「……否定しづらい」
食卓に笑い声が広がった。
セレーネも、声を上げて笑っていた。
俺はその顔を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
一年前には、想像もできなかった光景だ。
セレーネがいて。
リクとミナがいて。
シルヴァが足元で眠っている。
同じ食卓を囲み、くだらない話をして笑っている。
それだけのことが、こんなにも嬉しい。
◇
食事が終わると、ミナはセレーネに部屋を案内し始めた。
「こっちが私の部屋!」
「わあ。可愛いお部屋ね」
「でしょ!」
リクは食器を片づけながら、俺へ近づいてきた。
「……カイ」
「ん?」
「よかったな」
俺はリクを見た。
彼は少し照れくさそうにしている。
「ずっと探してたんだろ。その人のこと」
「ああ」
「……なら、よかった」
俺は笑った。
「ありがとう、リク」
彼は肩をすくめた。
「別に」
それから、少し声を落とした。
「……あの人、ここに住むの?」
「まだ決めてないけど、しばらくはそうなると思う」
「そっか」
リクは頷いた。
「部屋、どうする?」
俺は少し考えた。
この家は二つの寝室と居間がある。
リクとミナがそれぞれ寝室を使い、俺は普段、居間のソファで寝ていた。
セレーネのために新しい寝床を用意するなら、何か考えなければならない。
「とりあえず、俺は床でもいいかな」
リクが呆れた顔をした。
「……またそういうこと言う」
「何が?」
「カイが床で寝る必要ないだろ」
「でも――」
「ヴィクターに相談すれば? もっと広い部屋」
俺は目を瞬かせた。
確かに、今なら以前より収入もある。
引っ越しを考えてもいい頃かもしれない。
「……そうだな」
俺は頷いた。
「相談してみるよ」
リクは満足そうに頷いた。
「そうしろ」
そのとき、ミナの部屋から声が聞こえた。
「カイお兄ちゃん!」
「何?」
「セレーネお姉ちゃんと一緒に寝てもいい!?」
俺は思わず笑った。
リクが額を押さえる。
「……早いな」
確かに。
まだ会って数時間しか経っていないのに。
セレーネが部屋から顔を出した。
「私は構わないけど……」
俺は頷いた。
「ミナがいいなら、お願いしてもいい?」
「ええ」
セレーネは微笑んだ。
「久しぶりに、誰かと一緒に眠るのもいいかもしれないわ」
その言葉に、俺は少しだけ胸が痛んだ。
……一年間。
彼女は、どんな夜を過ごしていたのだろう。
◇
午後十時半。
ミナはすっかり眠っていた。
リクも自分の部屋へ戻っている。
シルヴァは廊下の隅で伏せていた。
俺は居間の窓を開け、夜風を入れた。
ナイトシティの夜景が広がっている。
遠くには巨大なビル群。
空を横切る航空機。
絶え間なく流れる車のライト。
そして、その上に浮かぶ月。
俺は窓際に立ち、しばらく夜空を眺めていた。
「……カイ」
背後から声がした。
振り返る。
セレーネが立っていた。
ミナを起こさないよう、静かに部屋を出てきたらしい。
「眠れない?」
「少しだけ」
彼女は俺の隣へ来た。
そして、窓の外を見上げた。
「……本当に、不思議な世界ね」
「ああ」
「空が明るいのに、星がほとんど見えない」
「街の光が強すぎるんだ」
「そう……」
セレーネは月を見つめた。
しばらくして、小さく言った。
「でも、月は同じなのね」
俺は彼女を見た。
「そうだな」
厳密には、元の世界の月と同じ天体なのかどうかは分からない。
だが、少なくとも。
こうして見上げる月は、あの世界のものによく似ていた。
セレーネは窓枠へ手を置いた。
「……カイ」
「ん?」
「ずっと、聞きたかったことがあるの」
俺は彼女へ身体を向けた。
「何?」
セレーネは少し迷った。
それから、俺を見上げた。
「……あのとき、何があったの?」
俺は息を呑んだ。
邪神との決戦。
崩壊する空間。
眩しい光。
そして、突然訪れた別れ。
あの瞬間のことは、今でも鮮明に覚えている。
「……俺にも、全部は分からない」
俺は答えた。
「邪神を追い詰めたとき、空間が裂けた。そこへ引き込まれて……気づいたら、この街にいた」
セレーネは黙って聞いていた。
「最初は、すぐに帰れると思ってた」
俺は続けた。
「でも、帰る方法が分からなかった。魔力の流れも違うし、転移魔術の手掛かりもない」
夜風が吹いた。
セレーネの銀髪が揺れる。
「……何度も探したよ」
俺は苦笑した。
「でも、駄目だった」
彼女は俯いた。
しばらくして、小さく言った。
「……私も、探した」
俺は顔を上げた。
「セレーネ?」
「カイが消えた後、ずっと」
彼女の声が震えていた。
「最初は、どこかに転移しただけだと思ったの。だから、魔力の痕跡を追った」
俺は黙って聞いた。
「でも、どこにもいなかった」
セレーネは護符を取り出した。
銀色の月の紋様。
俺が持っているものと対になる護符だ。
「これだけが、カイが生きているって教えてくれた」
俺は胸元の護符に触れた。
「……そうだったのか」
「ええ」
彼女は小さく頷いた。
「でも、遠すぎた。方向も分からなかった」
セレーネは窓の外を見た。
「それでも、諦めたくなかった」
俺は何も言えなかった。
彼女は続けた。
「勇者様たちも、協力してくれたの」
その言葉に、俺は胸が熱くなった。
「……みんなは、無事なのか?」
セレーネは頷いた。
「ええ。少なくとも、私がこちらへ来るまでは」
俺は大きく息を吐いた。
……よかった。
あの決戦で、全員を失ったのではないかと何度も考えた。
勇者。
共に戦った仲間たち。
何度も命を預け合った人たち。
みんな、生きていた。
それだけで、胸の奥にあった重いものが少し軽くなった。
「……本当に、よかった」
俺は呟いた。
セレーネは微笑んだ。
「みんな、カイのことを心配していたわ」
「……そっか」
「勇者様なんて、何度も『あいつは絶対に生きている』って言ってた」
俺は思わず笑った。
「あの人らしいな」
「でしょう?」
セレーネも笑った。
少しの間、俺たちは昔の仲間たちの話をした。
懐かしい名前。
懐かしい出来事。
くだらない失敗談。
命懸けの戦い。
笑い合いながら話しているうちに、俺はようやく実感した。
あの世界は、夢ではなかった。
俺が過ごした時間も。
共に戦った仲間たちも。
すべて、本当に存在していた。
◇
しばらくして、俺はセレーネへ尋ねた。
「……それで、どうやってこの世界へ来たんだ?」
彼女は少しだけ表情を引き締めた。
「その話をするには、まず説明しなきゃいけないことがあるの」
「何?」
「カイが消えた後、私たちは邪神の残した痕跡を調べたの」
俺は頷いた。
「空間の裂け目か」
「ええ。でも、普通の転移魔術とは全然違った」
セレーネは護符を握った。
「世界と世界の境界そのものが、傷ついていたの」
俺は眉を寄せた。
「……境界?」
「そう。魔術師たちの間では、世界の外側にある領域について、古い伝承が残っていたの」
俺は黙って聞いた。
「その伝承では、世界は一つだけじゃない。無数の世界が存在していて、それぞれが見えない境界で隔てられているって」
……なるほど。
俺が現代日本からファンタジー世界へ転生したことも、ある意味では世界を越えた現象だった。
ただ、あのときは神々の導きがあった。
今回のような事故とは違う。
「邪神は、その境界に干渉していたのか?」
「たぶん」
セレーネは頷いた。
「そして、カイが消えた場所には、ほんの僅かだけど、その痕跡が残っていた」
「……それを使ったのか?」
「ええ」
彼女は少しだけ笑った。
「簡単じゃなかったけどね」
俺は彼女を見つめた。
その表情には、疲労の影があった。
一年という時間。
彼女はただ待っていたわけではない。
調べ、学び、試し、失敗し。
それでも諦めず、俺を探し続けていたのだ。
「……セレーネ」
「何?」
「ありがとう」
彼女は目を瞬かせた。
「……どうして?」
「俺を探してくれて」
セレーネは一瞬黙った。
それから、顔を伏せた。
「……当たり前でしょう」
小さな声だった。
「カイは、私の大切な人なんだから」
俺は息を呑んだ。
セレーネも、自分の言葉に気づいたらしい。
頬が赤くなる。
「……あっ」
彼女は慌てて顔を上げた。
「い、今のは、その……!」
俺は笑った。
「うん」
「うん、じゃなくて!」
「俺も、セレーネのこと大切に思ってるよ」
彼女は固まった。
そして、ますます顔を赤くした。
「……もう!」
セレーネは俺の胸を軽く叩いた。
俺は笑った。
彼女も、少し遅れて笑った。
◇
やがて、セレーネは再び月を見上げた。
「……でも、カイ」
「ん?」
「一つだけ、気になることがあるの」
俺は彼女を見た。
「何?」
セレーネは護符を握りしめた。
「私がこの世界へ来たとき、最後に見えたものがあるの」
「最後に?」
「ええ。世界の境界を越える直前」
彼女の表情が真剣になる。
「……誰かが、こちらを見ていた」
俺は眉を寄せた。
「誰か?」
「姿ははっきりしなかった。でも、確かに視線を感じたの」
夜風が吹いた。
遠くでサイレンが鳴る。
「それに……」
セレーネは言葉を探すように少し黙った。
「その存在は、私がカイを探していることを知っていた気がする」
俺は胸元の護符に触れた。
……誰かが、見ていた?
邪神の残した力なのか。
それとも、別の何かなのか。
分からない。
だが、気になることがあった。
俺がこの街へ来てから、何度か感じた奇妙な視線。
そして、ヴィクターたちが調べても正体を掴めなかった、謎の黒服の男。
……関係があるのか?
今は、判断できない。
俺はセレーネへ向き直った。
「その話、明日ヴィクターにも聞いてもらおう」
「ヴィクター?」
「ああ。こっちで世話になってる人だよ。情報を集めるのが得意なんだ」
セレーネは頷いた。
「分かった」
俺は窓を閉めた。
「今日はもう休もう。長旅だったんだろ?」
「……ええ」
セレーネは少しだけ微笑んだ。
「でも、不思議ね」
「何が?」
「ずっと知らない世界にいるのに、今は怖くないの」
俺は彼女を見た。
「どうして?」
セレーネは俺の手を取った。
「カイがいるから」
その言葉に、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……そっか」
俺は握り返した。
「俺もだよ」
彼女が目を瞬かせる。
「セレーネが来てくれて、ようやく安心した」
セレーネは嬉しそうに微笑んだ。
「……うん」
◇
その夜。
セレーネがミナの部屋へ戻った後、俺は一人、居間のソファへ腰を下ろした。
部屋は静かだった。
遠くから車の音が聞こえる。
シルヴァは廊下で眠っている。
リクとミナも、セレーネも、もう眠っただろう。
俺は胸元の護符を取り出した。
銀色の月の紋様。
一年前、別れ際に交わした約束。
離れていても、必ず見つける。
その約束は、果たされた。
俺は護符を握り、静かに息を吐いた。
……セレーネ。
また会えて、本当によかった。
俺はソファへ横になった。
目を閉じる。
明日から、また忙しくなるだろう。
セレーネにこの世界のことを教えなければならない。
ヴィクターたちにも紹介したい。
元の世界のことも、もっと詳しく聞きたい。
そして、これからどうするか。
二人で考えなければならない。
だが、今夜は。
何も考えずに眠りたかった。
俺は小さく笑った。
「……今度こそ、一緒にいられるといいな」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
そして、ゆっくりと眠りに落ちた。
ナイトシティの夜は、相変わらず騒がしい。
だが、俺の心は不思議なほど静かだった。
長い一年が終わり、新しい日々が始まる。
今度は、セレーネと一緒に。
勇者一行の仲間として戦ったあの頃とは違う。
ここには魔王城も、魔物の大軍もない。
代わりに、企業とギャング、銃と義体が支配する巨大都市がある。
それでも。
守りたいものは、変わらない。
大切な人たちが、明日も笑っていられること。
そのためなら、俺は何度でも剣を取る。
そして今度こそ。
彼女と共に、未来を歩いていこう。