神々の剣士、ナイトシティで初めての朝を迎える
ナイトシティの夜は、静かにならない。
それを俺が知ったのは、この世界に来てから最初の夜だった。
窓の外では、何時間も前から車の走行音が響いている。
時折、酔っ払いらしき男の怒鳴り声が聞こえ、どこか遠くでは銃声まで鳴っていた。
さらに、向かいの建物に取りつけられた巨大な広告が、数分おきに派手な音楽を流している。
『――あなたの人生をアップグレード! 最新のサイバーウェアで、限界のその先へ!』
「……うるさい」
俺は小さく呟いた。
現在、俺がいるのはリクとミナが暮らす集合住宅の一室だ。
結局、昨夜は二人の家に泊めてもらうことになった。
最初は断ったのだが、リクが頑として譲らなかったのだ。
『妹を助けてもらったのに、恩人を外で寝かせられるかよ!』
そう言われてしまえば、俺も強くは断れない。
しかも、ミナまで加勢してきた。
『カイお兄ちゃん、泊まっていって』
あの子にそんな顔をされて、断れる人間がいるだろうか。
少なくとも、俺には無理だった。
結局、部屋の隅に毛布を敷いて眠ることになった。
元の世界では、野宿など珍しくもなかった。
岩場で眠ったこともあれば、雪の積もる森で夜を明かしたこともある。
それに比べれば、屋根があって雨風をしのげるだけでも十分ありがたい。
ただし。
「……あの広告だけは、どうにかならないのか」
俺は天井を見上げた。
魔物の咆哮なら、危険を察知して対処できる。
盗賊の足音なら、警戒すればいい。
だが、延々と流れ続ける広告に対しては、どうすればいいのか分からなかった。
壊すわけにもいかない。
いや、壊せば静かになるのだろうが、さすがにそれは問題がある。
「……文明って、便利なんだか不便なんだか」
俺は苦笑した。
そして、静かに目を閉じた。
眠る前に、もう一度だけ考える。
この世界。
ナイトシティ。
前世で知っていた『サイバーパンク2077』の世界。
まだ完全に同一だと断定できるわけではないが、これまで見聞きした情報は、記憶の中にある設定とよく一致していた。
巨大企業。
サイバーウェア。
フィクサー。
ユーロドル。
そして、夜になっても銃声が止まない街。
……間違いないだろう。
問題は、ここからどうするかだ。
元の世界へ帰る方法は分からない。
神々と連絡を取る方法も、今のところ見つかっていない。
セレーネたちが無事なのかどうかさえ、確認できない。
胸元に手を伸ばす。
指先に触れたのは、小さな護符だった。
セレーネから贈られたものだ。
銀色の装飾が施された、魔術的な防護の力を持つ護符。
彼女はこれを渡してくれたとき、少し照れたような顔をしていた。
『……ちゃんと身につけていて』
あの声を思い出す。
『カイは、すぐ無茶をするから』
「……悪かったな」
俺は小さく笑った。
だが、すぐに笑みが消える。
セレーネ。
勇者。
盗賊の仲間。
みんな、どうしているだろう。
俺が消えた後、無事に神殿から脱出できただろうか。
邪神は確かに倒した。
その手応えはあった。
だが、最後の攻撃がどのような影響を及ぼしたのかは分からない。
「……必ず、帰る方法を探す」
俺は護符を握りしめた。
そして、静かに目を閉じた。
◇
翌朝。
目を覚ました俺は、最初に自分の身体を確認した。
「……よし」
腕を動かす。
肩を回す。
指を握り、開く。
脚にも異常はない。
昨夜の戦闘で受けた打撲は、ほとんど消えていた。
豊穣の女神から授かった加護のおかげだ。
地面に接している間、俺の身体は自然に回復していく。
自然の土の上が最も効果的だが、アスファルトの上でも加護は働く。
軽い傷なら、それほど時間をかけずに癒やせる。
ただし、今夜は建物の上階で眠っていた。
地面から離れているため、加護の効果をどの程度受けられるのかは分からない。
少なくとも、睡眠による自然な回復は十分に得られたらしい。
「……さて」
俺はゆっくりと立ち上がった。
部屋の奥を見る。
ミナは、まだ眠っていた。
その隣で、リクが椅子に座ったまま眠っている。
どうやら、夜中も妹の様子を見ていたらしい。
「……兄貴ってのも大変だな」
俺は小さく呟いた。
元の世界でも、家族を守ろうとする人間を何人も見てきた。
リクも、その一人なのだろう。
十三歳という年齢を考えれば、背負っているものは重すぎる。
だが、それでも彼は妹を守ろうとしている。
……強い子だ。
少なくとも、俺はそう思った。
俺は音を立てないように身支度を整えた。
魔獣皮の鎧。
神造の長剣。
奇跡の力を高める指輪。
セレーネの護符。
すべて揃っている。
そして、腰の小物入れ。
中には、昨日換金したユーロドルの残りが入っていた。
まだ多少の余裕はある。
だが、いつまでも金貨を売って生活するわけにはいかない。
そもそも、元の世界の通貨を大量に持ち込んでいるわけではないのだ。
貴金属を売り続ければ、いずれ底をつく。
「……仕事を探すか」
俺は静かに呟いた。
そのとき。
「……カイ?」
背後から声がした。
振り返る。
リクが目を擦りながらこちらを見ていた。
「……もう起きたのか?」
「ああ」
「早えな……」
リクは欠伸をした。
俺は笑う。
「習慣みたいなものだ」
元の世界では、日の出前に起きることも珍しくなかった。
旅の途中なら、朝のうちに移動を始めた方が都合がいい。
それに、剣の鍛錬もある。
長い間続けてきた習慣は、そう簡単には変わらない。
「……どっか行くのか?」
リクが尋ねた。
「ああ。服を買ってこようと思ってな」
「服?」
「この格好、目立つだろ」
俺は自分の鎧を指差した。
リクは一瞬、真顔になった。
そして。
「……今さら気づいたのかよ」
呆れた声を上げた。
「昨日からずっと思ってたぜ。そんな格好で歩いてる奴、初めて見た」
「……やっぱりか」
「やっぱりじゃねえよ!」
リクが笑った。
俺もつられて笑う。
どうやら、服装の問題は早急に解決した方がよさそうだった。
◇
朝食を済ませた後、俺はリクに案内されて近くの商店街へ向かった。
ミナはまだ本調子ではないため、家で休んでもらっている。
食事と水は十分に用意した。
リクも最初は心配そうだったが、妹自身に『大丈夫だから行ってきて』と言われ、ようやく納得したらしい。
「……それで、カイ」
歩きながら、リクが尋ねた。
「どんな服が欲しいんだ?」
「動きやすいものがいいな」
「動きやすい?」
「ああ。走ったり、跳んだり、戦ったりできるやつ」
リクが俺を見る。
「……最後の一つ、普通は必要ねえだろ」
「この街じゃ、必要そうだけどな」
「……まあ、それはそうか」
リクは妙に納得した。
俺は苦笑した。
ナイトシティに来てから、まだ一日ほどしか経っていない。
それなのに、すでに何度も戦闘に巻き込まれている。
この調子では、今後も似たようなことが起こるだろう。
ならば、服も戦闘を想定して選んだ方がいい。
とはいえ、鎧を常に着て歩くわけにもいかない。
目立ちすぎる。
それに、街の人間から不審者扱いされるのも面倒だった。
「……あそこだ」
リクが指差した。
通りの一角に、小さな衣料品店があった。
店先には、さまざまな上着やズボンが並んでいる。
俺は興味深く眺めた。
黒。
灰色。
茶色。
派手な蛍光色の服も多いが、落ち着いた色合いのものもある。
「……これなら、何とかなりそうだな」
俺は店内へ入った。
◇
結局、俺が選んだのは、暗い色のフード付きジャケットだった。
丈夫そうな生地。
身体の動きを妨げない作り。
内側には、いくつかのポケットがついている。
それに、機能的なズボンとブーツ。
どれも派手さはないが、実用性は十分だった。
「……どうだ?」
試着を終えた俺は、リクに尋ねた。
リクはしばらく俺を眺めていた。
そして、頷く。
「……普通になった」
「……それだけか?」
「いや、かなりマシだぜ。少なくとも、いきなり職質されるような格好じゃなくなった」
「……それは助かるな」
俺は苦笑した。
鏡を見る。
黒髪。
鳶色の瞳。
十六歳の少年。
身長は百八十センチほど。
引き締まった身体つきは、長年の鍛錬によるものだ。
元の世界では、鎧を着ていることが多かった。
こうして現代的な服を身につけるのは、随分と久しぶりな気がする。
……前世以来かもしれない。
「……懐かしいな」
俺は小さく呟いた。
リクが首を傾げる。
「何が?」
「いや、何でもない」
俺は首を振った。
鏡の中の自分を、もう一度見る。
悪くない。
少なくとも、この街に少しは馴染めそうだった。
問題は、剣だ。
長剣を腰に下げたままでは、結局目立ってしまう。
「……リク」
「ん?」
「長い物を入れられる袋か何か、売ってないか?」
「長い物?」
「ああ。この剣を隠したい」
リクは俺の剣を見た。
そして、少し考えた。
「……スポーツ用品の店なら、あるかもな」
「スポーツ用品?」
「バットケースとか、そういうやつ」
俺は頷いた。
なるほど。
確かに、前世でも野球のバットを入れるケースがあった。
それなら、剣を隠すのにも使えるかもしれない。
「……案内してくれ」
「おう」
こうして、俺は服に加えて長剣を持ち運ぶためのケースも購入した。
少し長さが足りなかったため、店員に頼んで別の大型ケースを探してもらったが、最終的には何とか収まった。
もちろん、剣そのものは鞘に収めている。
ケースの中で刃が暴れる心配はない。
「……これで、少しは目立たなくなったかな」
俺が呟くと、リクが頷いた。
「ああ。少なくとも、昨日よりはずっと普通だ」
「……昨日は、そんなに酷かったのか」
「酷かった」
即答された。
俺は苦笑するしかなかった。
◇
買い物を終えた後、俺たちは小さな食堂に入った。
朝から歩き回っていたため、少し腹が減っていたのだ。
店内には、数人の客がいた。
壁には古い映像端末が取りつけられ、ニュースらしきものが流れている。
巨大企業の広告。
株価。
交通情報。
そして、どこかの地区で起きた銃撃事件。
……本当に物騒な街だ。
俺は席に座り、メニューを眺めた。
「……種類が多いな」
「普通だろ?」
リクが不思議そうに言う。
「……そうか?」
「ああ」
俺は肩をすくめた。
元の世界では、旅の途中に食事を選べること自体が贅沢だった。
保存食。
干し肉。
硬いパン。
野営で作る簡単な煮込み。
そういうものばかり食べていた時期もある。
それに比べれば、金を払うだけで温かい食事が出てくるというのは、ありがたいことだった。
「……これにするか」
俺は肉料理らしきものを注文した。
リクも同じものを選ぶ。
しばらくして、料理が運ばれてきた。
皿の上には、焼いた肉のようなものと、付け合わせの野菜らしきものが盛られている。
俺は一口食べた。
「……ん?」
妙な食感だった。
肉に似ている。
だが、何かが違う。
「……これ、本当に肉か?」
俺が尋ねると、リクが目を丸くした。
「……何言ってんだ?」
「いや、味が少し違う気がして」
「合成肉だろ、普通に」
「……合成肉?」
俺は箸を止めた。
いや、正確にはこの店で出されたのは、前世のフォークに近い食器だったが。
「……人工的に作った肉ってことか?」
「そうだけど?」
リクが首を傾げる。
俺はしばらく皿を見つめた。
なるほど。
この世界では、肉すら人工的に作るのか。
前世でも培養肉の研究は進められていた。
だが、俺が生きていた頃には、ここまで一般的ではなかったはずだ。
「……すごいな」
思わず呟いた。
リクは呆れた顔をした。
「……あんた、ほんとどこの田舎から来たんだよ」
「……遠いところだ」
「またそれか!」
俺たちは笑った。
そして、食事を続けた。
味は、決して悪くない。
むしろ、十分に美味しい。
ただし。
……本物の肉も食べたいな。
そんなことを、少しだけ思った。
◇
食事を終えた頃。
リクが突然、真剣な顔になった。
「……なあ、カイ」
「ん?」
「昨日のことなんだけどさ」
「昨日?」
「……あの連中」
俺は頷いた。
昨夜、リクを追ってきた武装集団。
結局、データチップを返すことで一応の決着をつけた。
だが、完全に安心できるわけではない。
「……何かあったのか?」
「いや、まだ何も」
リクは首を振った。
「でも、あいつらが本当に諦めたとは思えねえんだ」
「……そうだな」
俺も同じことを考えていた。
あの男は、最後に約束した。
リクとミナには手を出さない、と。
だが、その言葉をどこまで信用できるかは分からない。
この街では、約束よりも利益を優先する人間が多そうだった。
「……だからさ」
リクが言い淀む。
「……俺たち、しばらく引っ越した方がいいかなって」
俺は少し考えた。
確かに、それも一つの方法だ。
だが、簡単ではないだろう。
住居を変えるには金がいる。
新しい生活環境も必要だ。
それに、相手が本気で探せば、どこへ移動しても見つかる可能性がある。
「……焦って決める必要はないと思う」
俺は静かに答えた。
「まずは、相手がどう動くか確認しよう」
「……でも」
「大丈夫だ。少なくとも、しばらくは俺も近くにいる」
リクが顔を上げた。
「……本当か?」
「ああ」
俺は頷いた。
「この街での生活も、まだ始まったばかりだしな」
それに、俺自身も情報が必要だった。
リクはこの街で生まれ育っている。
彼から学べることは多い。
互いに助け合う関係なら、悪くない。
「……ありがとな」
リクが小さく言った。
「気にするな」
俺は笑った。
そのときだった。
「――失礼」
背後から、落ち着いた声がした。
振り返る。
そこには、一人の男が立っていた。
年齢は三十代半ばほどだろうか。
灰色のジャケット。
整えられた短い髪。
左目には、薄い青色の光を宿した人工眼球。
見た目は普通の会社員に近い。
だが。
……違うな。
俺は静かに目を細めた。
立ち方。
重心。
周囲への視線の配り方。
明らかに、戦闘に慣れている人間のそれだった。
男は俺たちの席を見下ろした。
「少し、話をしてもいいかな?」
俺は男を見つめた。
「……誰だ?」
男は微笑んだ。
「そう警戒しないでほしい。別に、揉め事を起こしに来たわけじゃない」
「……そうか」
俺は頷いた。
だが、警戒は解かない。
男はその様子を見て、少しだけ笑った。
「なるほど。噂どおり、用心深い」
「……噂?」
「ああ」
男は懐から、小さな端末を取り出した。
そして、画面をこちらへ向ける。
そこには、映像が映し出されていた。
昨日の夜。
路地裏。
武装した男たち。
そして、彼らを無力化する俺の姿。
「……!」
俺は目を細めた。
なるほど。
監視カメラか。
前世にも存在した技術だ。
だが、この街ではさらに普及しているらしい。
「……これ、どこで手に入れた?」
俺が尋ねると、男は肩をすくめた。
「仕事柄、情報を集めるのが得意でね」
「……仕事柄?」
「ああ」
男は端末をしまった。
そして、俺を見つめる。
「君に興味を持っている人間がいる」
俺は黙っていた。
男は続ける。
「昨日、君が倒した連中のことは知っている。彼らは、この辺りで違法な取引をしている小さなグループだ」
「……そうなのか」
「ああ。大した組織じゃない。だが、後ろ盾がまったくないわけでもない」
俺は眉をひそめた。
やはり、そうか。
リクが言っていた話と一致する。
「……それで?」
俺が尋ねると、男は微笑んだ。
「君の戦闘能力を評価している人間がいるんだ」
「……評価?」
「ああ。銃を持った大人を相手に、素手で勝つ。しかも、相手を殺さずに制圧している」
男は少し身を乗り出した。
「なかなかできることじゃない」
俺は肩をすくめた。
「……それで、何が言いたい?」
男は一瞬だけ黙った。
そして。
「……仕事をしてみる気はないか?」
そう言った。
俺は目を細めた。
「……仕事?」
「ああ」
男は頷いた。
「報酬は悪くない。君の腕なら、十分にこなせるはずだ」
俺は少し考えた。
仕事。
まさに、探していたものだ。
だが。
突然現れた見知らぬ男からの誘い。
しかも、こちらの戦闘映像まで持っている。
怪しい。
非常に怪しい。
「……まず、詳しい話を聞かせてくれ」
俺は静かに言った。
男は微笑んだ。
「もちろん」
そして、椅子を引いた。
「では、少しだけ時間をもらおうか」
俺は男の動きを観察しながら、ゆっくりと頷いた。
リクが不安そうにこちらを見ている。
俺は小さく笑った。
「……大丈夫だ」
そう言って、再び男に向き直った。
ナイトシティ。
巨大企業と裏社会が支配する都市。
この街で生きていくには、金が必要だ。
そして、金を得るには仕事が必要になる。
どうやら。
その最初の機会が、向こうからやってきたらしい。
◇
同じ頃。
ナイトシティの別の場所。
薄暗い事務所の中で、一人の男が通信端末を眺めていた。
画面には、短いメッセージが表示されている。
『対象と接触成功』
男は小さく笑った。
「……ようやくか」
机の上には、昨日の戦闘映像が並んでいる。
黒髪の少年。
異様な身体能力。
未知の電撃。
そして、サイバーウェアの装着記録なし。
「……さて」
男は椅子にもたれかかった。
「お前は、どれくらい使える?」
その声には、明らかな興味が込められていた。
ナイトシティでは、力のある人間には必ず値段がつく。
銃を扱える者。
情報を盗める者。
企業の秘密を持ち出せる者。
そして、誰にも真似できない戦闘能力を持つ者。
すべてが、商品になり得る。
男は画面に映る少年を見つめた。
「……神様にでも愛されてるのかねえ」
冗談めかした呟きだった。
だが。
その言葉が、驚くほど真実に近いことを。
男は、まだ知らなかった。