泥と塩   作:San_ti_ra_b

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かつて世界には無数の国々が存在していたという。

 

だが今、人類の生存領域はノロイと呼ばれる不気味な黒い怪物の蔓延によって極限まで削り取られ、世界にはたった三つの国しか残されていない。

 

 

 

一つは、広大な海洋に面した海港城塞国家オリエント。

 

一つは、極寒の山脈に閉ざされた極北の要塞国クライブ。

 

そしてもう一つは、広大な砂漠のオアシスに築かれた砂丘城塞ガルテア。

 

ノロイによって他国との航路や陸路は完全に断絶され、互いの消息すら定かではない。

本来であれば、絶滅の危機に瀕した人類は互いに手を携え、助け合って生きるべきなのだろう。実際、風の噂で聞く他国では、持つ者も持たざる者も一丸となってノロイの脅威に立ち向かっているという。

 

だが――この海港国家オリエントは違っていた。

 

孤立したこの国を支配していたのは、愚かしくも根深い差別と階層意識だった。

 

ノロイという怪物には、ひとつ絶対的なルールが存在する。

 

どれほど研ぎ澄まされた鋼の剣であっても、大砲による砲撃であっても、物理的な兵器ではノロイに擦り傷一つ負わせることはできない。ノロイにダメージを与え、打ち倒すことができるのは、人間が生まれながらにしてその身に宿す超常の力――異能だけなのだ。

 

 

 

異能とは、特別なエネルギーを消費して放つようなものではない。呼吸をするように、手を伸ばすように、己の意志ひとつで自然界の現象や物質を発現させる「存在そのものの才能」だ。

 

そのため、この国ではノロイを退治できる強力な異能――天を貫く光の柱、天災が如き雷、あらゆる金属を切断する真空の刃、巨大な岩壁を一瞬で構築する土石操作などを持つ者たちが英雄として崇められ、社会の最頂点に君臨していた。

 

彼らが住まうのは、頑強な高壁と強い異能者たちの庇護によって守られた豪華絢爛な城郭都市、第一区。

 

 

 

そしてその防壁の外側に広がるのが、泥と排泄物、富と権利を奪われた貧困が渦巻くスラムだ。

 

 

 

ここにはノロイとまともに戦えない無能力者や、戦闘に役立たないとされる異能しか持たない落ちこぼれが集められていた。第一区の防衛隊にとって、スラムの人間はノロイを防ぎ止めるための肉の盾であり、捨て駒に過ぎない。

 

 

 

そんな絶望のスラム街の最果て、波音が風に乗って届く危険な外縁部に、一軒の古びた木造の建物が佇んでいる。

 

やすらぎの家――身寄りのない子供たちが集まる、小さな孤児院だ。

 

 

 

「ねえねえ、ジルお兄ちゃん! 今日のスープ、ちょっと味がうすいよー!」

 

 

 

木彫りの小さなスプーンを握りしめ、頬を膨らませているのは六歳になる女の子、ミナだ。

 

つぎはぎだらけの服を着た子供たちが十数人、ガタつく長テーブルを囲んで一斉に期待の眼差しを向けてくる。

 

「はいはい、わかってるって。ちょっと待ちな」

 

俺――ジルは苦笑いしながら、ミナの持っている安物の木皿の上で、パチンと指を鳴らした。

 

指先からハラハラと、まるで繊細な粉雪のように真っ白な結晶が舞い落ちる。

 

 

 

「わぁー! お兄ちゃんの調味料異能だ!」

 

 

 

「ずるい! ミナばっかり! 僕のスープにも入れてよ!」

 

 

 

「僕も! 僕のもっと濃くして!」

 

 

 

歓声が湧き起こり、子供たちが競うように自分の皿を押し出してくる。俺は苦笑しながら、一人ひとりのスープの表面に少しずつ塩を振りかけてやった。

 

俺が宿した異能は、塩の生成と操作。

 

俺は無から塩を生み出すことができる。そして、その生み出した塩の結晶同士を強力にくっつけ、非常に細い糸のように伸ばしたり引き絞ったりして動かすことができる。ただそれだけの能力だ。

 

この国は海に面している。潮風が吹き抜け、海岸へ行けば海水からいくらでも塩が採れる環境だ。だからこそ、この国において塩という物質そのものには何の稀少性もない。

 

炎のようにノロイを焼き尽くすこともできず、雷のように敵を打ち倒すこともできない。海に行けばいくらでもある塩を少々出し、糸みたいに伸ばして遊ぶだけの最も役に立たないゴミ能力。

 

それが、周囲からの評価だった。

 

だが、俺にとってはこの能力こそが頼りだった。

 

俺の異能には特別な代償も限界も存在しない。体力が削られることもなく、身体への負担は一切なかった。

 

そしてもう一つ、俺の生成する塩の糸には妙な特徴があった。細く絞り込んだ糸は、見た目の儚さに反して信じられないほど頑丈なのだ。

 

 

 

俺は毎日こうして塩を出し、スープに混ぜたり保存食を作ったりして、孤児院の暮らしを支えていた。

 

 

 

「もう、ジル。また子供たちを甘やかして……塩の入れすぎは身体によくないんだからね?」

 

 

 

厨房の奥から、湯気の立つ大きな土鍋を両手で抱えて現れたのは、この孤児院の院長を務めるエレナさんだ。

 

透き通るような銀髪を後ろで一つに束ね、薄汚れたスラムには似合わないほど穏やかで整った容姿をした女性。二十代半ばの彼女は、亡くなった先代院長である父親の跡を継ぎ、血の繋がらない十数人の孤児たちの母親代わりとして、施設を切り盛りしている。

 

 

 

「いいじゃないですか、エレナさん。スープの具材が雑草の葉っぱと乾燥肉の切れ端だけなんですから、塩気くらい効いてないと美味しくないですよ」

 

 

 

「う……それはそうだけど。でも、ジルの塩に頼りっきりなのは、院長として申し訳ないなって思うのよ」

 

 

 

エレナさんは鍋をテーブルの中央に置くと、少し困ったように眉を下げて苦笑した。

 

エレナさんは俺より四つ年上だ。

 

俺が親に捨てられ、スラムの路地裏で野良犬のように怯えていた十年前、倒れていた俺を拾い上げて温かいスープを与えてくれたのが彼女だった。

 

俺にとってエレナさんは、優しく頼れる姉であり、尊敬する保護者であり、何があってもこの手で守り抜かなければならない大切な家族の象徴だった。

 

 

 

「ほら、みんな。冷めないうちに召し上がりなさい。ご飯を食べられることに感謝してね」

 

 

 

エレナさんの声に、子供たちが一斉にいただきますと元気な声を揃えた。

 

木のスプーンが器を叩くカンカンという賑やかな音が食堂に響き渡る。

 

雑草とクズ肉、それに俺の塩を入れただけの薄いスープ。それでも子供たちは美味しい、しょっぱくて最高と、満面の笑みで口いっぱいにスープを運んでいた。

 

スラムの苛烈な現実を忘れられる、一日で唯一の温かい時間。

 

だが、その食卓を囲む空気の裏には、重苦しい絶望がのしかかっていた。

 

 

「はい、ジルの分ね」

 

 

エレナさんが木皿に盛られたスープと、固く焼かれた黒パンの切れ端を俺の前に置いてくれた。彼女自身の器を見ると、スープの量は俺たちの半分ほどで、具材に至ってはほとんど入っていない。

 

 

 

「エレナさん、また自分の分を減らしたでしょう。ダメですよ、院長が栄養不足で倒れたら誰がこの子たちの面倒を見るんですか」

 

 

 

「大丈夫よ、私は大人なんだから。育ち盛りの子供たちと、一番働くジルがしっかり食べなきゃダメでしょう?」

 

 

 

エレナさんは優しく微笑み、自分の短いパンを小さくちぎって口に運んだ。

 

このやすらぎの家は、詰みかけていた。

 

第一区の行政からの支援など一銅貨も届かないスラム街。

 

エレナさんが昼間、街の洗濯屋や裁縫の内職で稼いでくるわずかな賃金と、俺が塩を出して買い出しの費用を浮かせていることで、どうにか今日という日を繋ぎ止めている状態だ。

 

だが、限界はすぐそこまで来ていた。

 

長年の風雨に晒された木造の建物は各所が腐りかけており、屋根には大きな隙間が開いている。これからやってくる厳しい冬を越すためには、建物の補修と大量の薪が必要不可欠だった。

 

さらに悪いことに、スラムの外縁部に位置するこの孤児院のすぐ近くまで、近年ノロイの生息域が拡大してきていた。危険すぎるという理由で第一区の防衛隊すら巡回に来なくなり、実質的な見捨てられた危険地帯と化していたのだ。

 

お金もない。建物の寿命も限界。すぐ側まで迫る怪異の脅威。

 

まさに、八方ふさがりの詰み状況だった。

 

 

 

「……ねえ、ジル」

 

 

 

子供たちが夢中でスープを啜っている隙に、エレナさんが隣の椅子に腰掛け、声をひそめて話しかけてきた。

 

 

 

「来月からの薪代と建物の補修費……内職を増やしても、どうしても銅貨が足りそうにないの。私の内職のシフトをもっと増やそうと思うんだけど……」

 

 

 

「ダメですよ。これ以上内職を増やしたら、エレナさんが倒れちゃいます」

 

 

 

俺は即座に首を振った。

 

エレナさんの手は、毎日の冷たい水仕事と内職の針仕事で小さな傷や手荒れが絶えない。これ以上彼女に負担をかけさせるわけにはいかなかった。

 

 

 

「でも、子供たちが冬を越すための薪がないと……屋根の補修もしないと、雨漏りで子供たちが風邪を引いてしまうわ……」

 

 

 

エレナさんの声が切実に揺れていた。

 

彼女にはノロイと戦う異能もなければ、大金を稼ぐ術もない。ただの心優しい一人の女性だ。その華奢な背中に、十数人の子供たちの命という重すぎる荷物がのしかかっている。

 

 

 

「安心してください、エレナさん。俺が……俺がお金を工面してきますから」

 

 

 

「ジル……? でも、どうやって……?」

 

 

 

「明日、第一区の防衛隊がスラム境界で行うノロイ討伐戦の公募があるんです。それの雑用兼・討伐部隊に参加してきます」

 

 

 

「ダメよ、ジル……!」

 

 

 

エレナさんは青ざめた顔で俺の腕を強く掴んできた。

 

 

 

「討伐戦だなんて……そんな危険なこと! 異能を持たない人や、戦闘用じゃない異能の人が囮として使われて、たくさん命を落としているって聞くわ! あなたを行かせるわけにはいかないわ!」

 

 

 

防衛隊が行うノロイ討伐戦。

 

それは、強力な異能を持つ英雄たちが安全な後方から攻撃を打ち込むため、スラムの貧乏人たちを日雇いの討伐員として安価で雇い、前線でノロイの気を引かせる使い捨ての囮として利用する血生臭い現場だった。

 

だが、危険だからこそ、生き残ればそれなりの日雇い報奨金が手に入る。今の孤児院にとって、まとまった現金を手に入れる唯一の手段だった。

 

 

 

「大丈夫です、エレナさん」

 

 

 

俺はエレナさんの手を優しく握り返し、まっすぐに彼女の目を見つめた。

 

 

 

「俺の異能は塩を出して操るだけです。前線で派手に戦うわけじゃありません。物陰に隠れて、危なくなったらすぐ逃げます。絶対に無茶はしませんから」

 

 

 

「ジル……でも……」

 

 

 

「俺に居場所をくれたのはエレナさんです。この家とみんなを守るためなら、俺はなんだってします。……信じてください」

 

 

 

真摯な言葉に、エレナさんは唇を噛み締めながら、ぽろぽろと涙を零した。

 

 

 

「……約束して。絶対に、生きて帰ってくると約束して……あなたが死んじゃったら、私……私、どうしていいか分からないわ……」

 

 

 

「ええ、約束します。朝ご飯の準備までには、必ず日銭を稼いで戻ってきますよ」

 

 

 

俺は笑ってみせ、エレナさんの手を固く握りしめた。

 

 

 

 

 

夜が訪れる。

 

 

 

 

子供たちが全員温かいベッドに入り、規則正しい寝息を立て始めた深夜。

 

俺は静かに自室のベッドから起き上がり、着古した黒い作業着に身を包んだ。

 

脚絆を固く結び直し、静かに息を整える。

 

 

 

「よし……行くか」

 

 

 

明日の討伐戦に参加する前に、俺にはやらなければならないことがあった。

 

孤児院の裏口から、足音を殺して外へ抜け出す。

 

潮風が肌を刺す夜の冷気の中、俺は丘の上から暗闇に包まれたスラム街を見下ろした。

 

街灯など存在しないスラムの夜。

 

月光だけが照らす暗闇の路地裏で、黒い不浄の泥が不気味に蠢き、無数の赤い眼球がうっすらと発光し始めているのが見えた。

 

 

 

ノロイだ。

 

 

 

物理攻撃が一切効かない怪物。明日の討伐戦では、派手な戦闘に適した異能を持つ第一区の兵隊どもが、俺たちスラムの人間を囮にしてノロイを倒し、名声を独占するのだろう。

 

だが、俺が作る塩の糸はノロイに対しても有効だった。

 

 

 

俺は右手を静かに前に突き出し、指先を向ける。

 

目に見えないほど細く、かなりの強度を持った真っ白な塩の糸が伸びていく。

 

今の俺が出せるのは、せいぜい数本から十数本程度。

 

俺はその糸を、孤児院の周囲にある狭い路地裏へ、足止め用の仕掛け罠として慎重に張り巡らせていった。

 

明日、討伐戦で稼いでくるまでの間、うろつくノロイがこの孤児院に近づかないようにするための防犯の糸。

 

 

 

――ガシャリ、ガシャリ。

 

 

 

闇の奥から、骨が擦れ合うような気味の悪い音が響いてきた。

 

黒い泥で構成された小犬ほどの小さなノロイが一頭、迷い込んできたのだ。

 

 

 

「……一頭だけか。良かった」

 

 

 

俺は壁の影に身を潜め、冷や汗を流しながら指先の糸に集中した。

 

俺の肉体自体は普通の人間と変わらない。組みつかれれば一発で終わりだ。息を殺し、引きつけて、ノロイがトラップへ踏み込む瞬間を待つ。

 

ノロイの足が、目に見えない塩の糸に触れた。

 

 

 

「引っかかった……!」

 

 

 

俺は必死の思いで指先を叩きつけるように引き絞った。

 

仕掛けられた塩の糸が猛烈な勢いで収縮し、ノロイの脚と胴体を捉える。

 

ギチギチという嫌な音とともに、硬質な塩糸が怪物の黒い泥を容赦なく締め上げ、切断していく。

 

さらに、俺の塩が触れた部分からジュウウウッと不気味な焼却音が響いた。

 

理由は分からない。俺の塩が触れると、怪物の体内から黒い水分が猛烈に吸い出され、肉そのものが一瞬でカラカラに干からびて崩れるのだ。

 

 

 

『ガ……ア……ッ』

 

 

 

切断と乾燥に苛まれた小さなノロイは、もがく間もなく乾いた黒い塵となって路地の上へ崩れ落ちた。

 

 

 

「ハぁ……ハぁ……っ」

 

 

 

俺は膝をつき、荒い息を吐いた。たった一頭の小型ノロイを処理するだけで、心臓が破裂しそうなほどの緊張感だった。

 

糸の強度は凄まじいが、俺自身の動きが追いつかなければ意味がない。大群に襲われればひとたまりもないという現実を、改めて痛感する。

 

 

 

「海に行けばいくらでもあるゴミ能力、ね……」

 

 

 

自嘲気味に過去に言われた言葉を呟きながら、俺は呼吸を整えた。

 

他国との交信が絶たれ、異能の強さで人が差別される、詰みかけた理不尽な世界。

 

 

 

「エレナさん……みんな……」

 

 

 

夜の潮風を浴びながら、俺は冷たく研ぎ澄まされた声で呟いた。

 

 

 

「明日の討伐戦で、必ず金を稼いでくる。……俺たちの家を、守るために」

 

 

 

 

 

 

 

夜が明け、どんよりとした鉛色の雲が海港城塞国家オリエントの空を低く覆っていた。

 

下スラムの最東端、第一区を包み込む巨大な防壁の真下に、数十人の人間がすし詰め状態で集められていた。

 

つぎはぎだらけの服を着た男たち、痩せこけた若者、果ては生気を失った目をした老人に至るまで――全員が、日雇いの臨時防衛員という名の囮たちだ。

 

 

 

「おい、番号札を受け取ったら奥へ進め! もたつく奴は防衛隊への不敬とみなし、その場で罰を与えるぞ!」

 

 

 

甲冑に身を包んだ第一区の防衛隊員が、横柄な声で叫びながら、木製の無骨な番号札を乱雑に投げつけてくる。

 

差し出された十三番の札を黙って受け取り、作業着のポケットに押し込んだ。

 

今回のノロイ討伐戦において、俺たち囮部隊に課された任務は極めて単純、かつ残酷なものだった。

 

 

 

廃墟エリアの奥深くに潜むノロイの大群を刺激し、防衛隊があらかじめ設定した目標誘導地点まで、己の身体を餌にして誘い出すこと。

 

それが終わって初めて、後方に控える第一区の英雄や正規部隊が打って出る手はずになっている。

 

 

 

「……死なずに帰る。それだけだ」

 

 

 

俺は作業着の胸元をぎゅっと握りしめた。

 

今朝、不安そうな顔で見送ってくれたエレナさんの姿と、お腹を空かせた孤児院の子供たちの顔が浮かぶ。

 

一日の報酬は銅貨二十枚。無事に生き残れば、特別手当として銀貨一枚が手に入る。

 

それだけの金があれば、屋根の補修材と、冬を越すための薪を買い込めるのだ。無茶な戦闘など絶対しない。自分の命を守ることだけを考えて生き残る。

 

 

 

「鉄格子を上げろ! 囮ども、出撃だ!」

 

 

 

重い鉄音が響き、防壁の外側――崩落した建物とぬかるんだ泥が広がる旧市街区への扉が開かれた。

 

 

 

「ひ、ひぃっ……!」

 

「押すな! 先に行ったら死んじまう!」

 

 

 

パニックを起こしながら押し出される貧民たち。

 

俺は集団の先頭にも最後尾にもつかず、集団の中ほどで静かに息を潜めながら歩みを進めた。

 

廃墟の影から、ぬめるような不快な音が響く。

 

黒い泥で構成された怪異、ノロイの群れだ。

 

人型を歪めたようなものから、無数の足を生やした巨大な蜘蛛のような形、口だけが異常に巨大化した獣のような影。それが十、二十と、暗闇から這い出してくる。

 

ノロイには鋼の剣も大砲も効かない。ダメージを与えられるのは異能だけだ。

 

異能を持たない者たちが槍を突き出すが、黒い泥の表面を滑るだけ。逆にノロイの触手が伸び、悲鳴を上げる男たちを泥の中へと引きずり込んでいく。

 

 

 

「ぎゃあああああっ!」

 

 

 

絶叫が響く中、俺は周囲の安全な死角を探して泥を蹴った。

 

自分の右手を見つめる。

 

俺の異能は、塩の生成と操作。

 

息を吸うのと同じ自然さで、ただ自分の意志ひとつで無から塩を生み出し、糸のように伸ばして操る力。

 

今の俺が一度に扱える塩の量には限界がある。どれだけ糸の強度が高くても、大量のノロイに正面から囲まれれば、ひとたまりもなく押し潰されて終わる。

 

だからこそ、戦ってはいけない。

 

俺は崩れたレンガ壁の影に身を潜め、追ってくる小型ノロイの足元にだけ、そっと頑丈な塩糸を一本張り巡らせた。

 

 

 

――ピン。

 

 

 

足をとられたノロイが派手に転倒する。

 

その隙に俺は背を向け、誘導目標地点へと向かって全力で走った。自分を狙う敵の足止めと回避。それだけに集中して、死地を駆け抜け続けた。

 

 

 

そうして囮部隊が命を削ってノロイの群れを目標地点まで引きずり込んだその時。

 

 

 

「雑魚ども、よくやった! あとは俺たち第一区・第三遊撃隊に任せな!」

 

 

 

後方の防壁から、豪快な喊声とともに十数人の異能者たちが躍り出てきた。

 

先頭に立つのは、拳に猛烈な炎を纏った大柄な男。

 

彼らの参戦により、目標地点は炎が舞う激しい戦場へと変貌した。

 

 

 

「喰らいやがれ!」

 

 

 

炎の男が放つ火球がノロイを吹き飛ばす。

 

第一区の異能者たちは最初は優勢に戦いを進め、囮の生存者たちからも歓声が上がった。

 

だが――ノロイの脅威はそんな生易しいものではなかった。

 

 

 

 

 

倒されたはずのノロイの黒い泥が地表を這い、互いに融合を始めたのだ。

 

泥はみるみる膨れ上がり、体長五メートルを超える多頭の巨大怪異へと姿を変える。さらに周辺の廃墟の影から、想定を遥かに超える数のノロイが怒涛の勢いで溢れ出してきた。

 

 

 

「な……数が多すぎる!? 報告と違うぞ!」

 

「押し返される! 下がれ、一度引くんだ!」

 

 

 

戦闘系異能者たちの悲鳴が上がる。

 

華やかな甲冑は泥に汚れ、パニックに陥った彼らは連携を乱して後退し始めた。

 

 

 

「待って! 後方のノロイを抑えないと逃げ道が――」

 

 

 

風使いの少女――まだ十五、六歳ほどに見える若い女性異能者が、隊員たちに向かって叫んだ。

 

しかし、恐怖に呑まれた男たちは少女の声に耳を貸さず、自分たちだけが助かろうと少女を置き去りにして脱出を図る。

 

 

 

「きゃっ!?」

 

 

 

乱戦の混乱の中、味方の鎧に弾かれた少女は泥の中に派手に転倒した。

 

起き上がろうとした瞬間、崩れたビルの影から三頭のノロイが躍り出た。赤く光る眼球が、逃げ遅れた少女に一斉に集まる。

 

 

 

「嫌……来ないでっ!」

 

 

 

少女は必死に手を掲げ、風の刃を放った。

 

だが、焦りから放たれた風は浅く、ノロイの表面を削っただけに終わる。

 

巨大な泥の触手が、少女の華奢な身体を押し潰そうと上空から振り下ろされた。

 

 

 

「あ……」

 

 

 

死を悟った少女の瞳から、ポロポロと涙が零れ落ちる。

 

 

 

(……クソッ!)

 

 

 

遠くの瓦礫の影で息を潜めていた俺は、激しく歯噛みした。

 

助ける義理なんてない。

 

俺は生き残るためにここへ来たんだ。無茶をして目立ったり、自分の身を危険に晒すなんて愚の骨頂だ。少女を見捨てて、このまま防壁の影へ逃げ延びるのが一番賢い選択だった。

 

囮部隊の他人だって見捨ててきた…

 

 

 

だけど――

 

 

 

倒れた少女の姿に、孤児院で俺の帰りを待っているミナたちの顔が重なった。

 

 

 

「……ちくしょうが!」

 

 

 

俺は泥を蹴った。

 

自分の命を守るための沈黙を捨て、瓦礫の影から飛び出す。

 

俺は全神経を指先に集中させた。

 

出せる本数は少ないが、その強度は自信がある。

 

超極細の塩の糸三本を、振り下ろされる触手に向けて射出した。

 

 

 

――ピンッ!

 

 

 

空中を切り裂いた塩糸が、触手の根元にガッチリと絡みつく。

 

 

 

 

 

「くらえ!!」

 

 

 

俺は全身の体重をかけ、泥に靴底を叩きつけて塩糸を全力で引き絞った。

 

直撃の寸前でノロイの巨大な触手は黒い砂となって弾け飛んだ。

 

 

 

「え……?」

 

 

 

頭を抱えて目を瞑っていた少女が、驚愕して目を開ける。

 

 

 

「ボーッとしてんじゃねぇ! 立てっ!!」

 

 

 

俺は泥まみれになりながら少女の元へ滑り込み、彼女の華奢な腕を強引に掴んで引きずり起こした。

 

 

 

「あ……あなた……スラムの……!?」

 

「喋るな、走れ!」

 

 

 

残りの二頭のノロイが、急乱入してきた俺たちに向かって咆哮を上げる。

 

俺にノロイを正面からなぎ倒すほどの広範囲の火力はない。この二頭を完全に解体するなんて、今の俺の手数じゃ不可能なのだ。

 

だから――足止めだけに絞る!

 

俺は指先から放った二本の糸を、地面すれすれの低空にピンと張り詰めた。

 

ノロイの足元に、目に見えない仕掛け罠を張る。

 

案の定、巨体を躍らせて飛びかかってきたノロイの脚が、硬質な糸に激しく引っかかった。

 

 

 

 

 

鋼よりも硬い糸に脚を削がれ、体勢を崩したノロイたちが派手に泥の上へもつれ込んで転倒する。

 

 

 

「今だ、走れっ!」

 

 

 

俺は少女の腕を引いたまま、必死の思いで廃墟の狭い路地裏へと飛び込んだ。

 

後ろでノロイが咆哮を上げているが、気にせず逃げる。

 

 

 

ハァ、ハァ、と激しい息を吐きながら、俺たちは倒壊した建物の隙間で膝をついた。

 

 

 

「ハぁ……ハぁ……ここまで来れば……大丈夫だ……」

 

俺は胸を押さえ、荒い息を整えた。

 

 

 

心臓がバクバクと暴れている。死に一歩手前の冷や汗が全身から吹き出していた。強靭な糸があっても、自分の身体能力がギリギリすぎて生きた心地がしない。

 

 

 

「あ……あの……」

 

 

 

少女が座り込んだまま、震える声で俺を見上げていた。

 

整った顔立ちは泥で汚れ、膝をすりむいて血が滲んでいる。

 

 

 

「助けて……くれたの……? スラムの、囮の人が……?」

 

「……たまたまだ」

 

 

 

「それでも…あ……ありがとう」

 

少女は俺の作業着の袖――塩を押し固めて糸を出したせいで真っ白な粉が付着している袖口を、不思議そうな目で見つめていた。

 

 

 

(あの時……ノロイの触手が急に乾いて崩れた……。この人の、袖についてる白い粉は……?)

 

少女が何かを言いかけた、その時だった。

 

空が、圧倒的な光とともに輝いた。

 

――ズシャアアアアアンッ!!

 

天地を揺るがす破裂音が響き渡った。

 

雲を突き破り、一筋の巨大な光線が戦場の中央へ垂直に突き刺さったのだ。

 

「な……なに!?」

 

少女が空を見上げる。

 

俺も壁の隙間から、その光景を注視した。

 

第一区の巨大な防壁の最頂部。

 

そこに、一人の男が静かに佇んでいた。

 

純白の礼装に、金をあしらった煌びやかな甲冑。腰には細身の飾剣。

 

背後には、太陽のように眩く発光する巨大な光の輪が浮かんでいる。

 

-最強の英雄ルアン-

 

名乗りすらあげない。

 

ルシアンはただ冷淡な目で眼下の泥の群れを見下ろし、静かに右手をかざした。

 

 

 

次の瞬間――

 

 

 

彼の背後の空間から、数千、数万という密度の光の斬撃が無音で溢れ出し、戦場全体へと降り注いだ。

 

 

 

光の爆流。

 

視界の全てが真っ白な光で塗り潰され、直後に凄まじい衝撃波が路地裏まで吹き抜けてくる。俺は咄嗟に少女の頭を抱え込み、瓦礫の影に身を伏せた。

 

言葉通りの殲滅だった。

 

先ほどまで第一区の部隊を絶望させていた数百のノロイの大群も、融合した超大型個体も――神のごとき光の暴力の前に、悲鳴を上げることすら許されず、一瞬で蒸発して消し去られた。

 

光によって廃墟の石材がドロドロに溶け落ち、戦場全体が白い煙を上げて静まり返る。

 

圧倒的すぎる力の差。

 

ノロイの欠片すら残っていない。

 

防壁の上に立つルシアンは、手袋をはめた手で優雅に服の塵を払うと、眼下の人間たちに一度も目を向けることなく、光の粒子となってその場から消失した。

 

 

 

「お……おおお……! 最強の英雄様万歳っ!」

 

「助かった……! 俺たちは助かったんだ!」

 

 

 

静寂の後、生き残った者たちから、爆発的な歓声が沸き起こった。

 

俺は抱え込んでいた少女を放し、ゆっくりと立ち上がった。

 

 

 

(……これが、最強か)

 

溶けた地表を見つめる。

 

俺じゃ、あんな大火力を出すことは到底できない。今の俺の力なんて、あの英雄の光の一筋にも及ばない。

 

「英雄にあこがれてる場合じゃないだろ…帰ろう孤児院へ」

 

 

 

立ち去ろうとする俺の背中に、風使いの少女が声をかけてきた。

 

 

 

「私……第三遊撃隊の、シエルって言います! あなたの名前は……?」

 

 

 

「……ジル。」

 

俺は作業着のフードを深くかぶり、群衆の中へと姿を消した。

 

シエルは、ポツンと路地裏に取り残されながら、手首に残る感触を、不思議そうに確かめていた。

 

 

 

 

 

第一区の西門前で、日雇いの報酬――銀貨一枚と銅貨二十枚を受け取った。

 

手の中で握りしめる、冷たくて重い金属の感触。

 

死線をくぐり抜け、泥にまみれて手に入れた命の金だ。

 

 

 

俺は作業着についた泥を粗く払い、スラムの最果てにある孤児院やすらぎの家へと急いだ。

 

夕暮れ時。

 

西の空が美しい茜色に染まる頃、懐かしい木造の建物が見えてきた。

 

裏口のドアをトントンと叩くと、鍵が外され、勢いよくドアが開いた。

 

 

 

「ジル……! 」

 

 

 

飛び出してきたのは、エプロン姿のエレナさんだった。

 

彼女は俺の無事な姿を見るやいなや、目から溢れんばかりの涙を零し、俺の胸に飛び込んで抱きしめてきた。

 

 

 

「良かった……! 本当に良かった……! 怪我はないの!? どこも痛くない!?」

 

 

 

「エレナさん、苦しいですって……。大丈夫です、傷一つありませんよ」

 

 

 

俺は苦笑しながら、エレナさんの背中を優しく叩いた。

 

彼女の身体は、俺が戻るまでの間、不安でずっと震えていたのだろう。伝わってくる温もりに、生き残った実感が湧いてくる。

 

 

 

「お兄ちゃんお帰りー!」

 

「無事だった!?」

 

 

 

ミナたちがワラワラと飛び出してきて、俺の脚や作業着に抱きついてきた。

 

 

 

「ほら、みんな。お兄ちゃんを困らせないの」

 

 

 

エレナさんが涙を拭い、安心したように息をついた。

 

俺はポケットから、今日稼いできた銀貨一枚と銅貨二十枚を取り出し、エレナさんの手のひらに乗せた。

 

 

 

「これ……! 銀貨……!?」

 

「これで、屋根の補修用の木材も、冬越しの薪も買えます。みんなで温かく冬を過ごせますよ」

 

「ジル……あなた、本当に無茶はしなかったのね……?」

 

「ええ、無茶なんてしてませんよ。俺は後ろの方で逃げ回って、英雄様の派手な攻撃を眺めていただけです」

 

 

 

俺はいつもの穏やかな笑顔を作ってみせた。

 

 

 

泥まみれの、必死のサバイバルだった。

 

だけど、そんなことなんて知らせる必要はない。

 

 

 

「さあ、お腹が空きました。エレナさんの温かいスープが食べたいです」

 

「ええ……! ええ、すぐに準備するわね!」

 

 

 

エレナさんは涙の痕を拭い、満面の笑みを咲かせながら銀貨を大切に抱えて厨房へと走していった。

 

 

 

「お兄ちゃん! 今日のスープにも塩入れてね!」

 

「僕のにも!」

 

 

 

子供たちが俺の手を引いて食堂へと誘う。

 

 

 

「はいはい、わかってるって」

 

 

 

俺は苦笑いしながら指先をパチンと鳴らし、真っ白な塩の結晶をハラハラと舞わせた。

 

窓から差し込む夕暮れの光の中、子供たちの歓声とエレナさんの優しい笑い声が響き渡る。

 

 

 

英雄のような圧倒的な力はない。今の俺は、数本の塩の糸を操って逃げ回るのが精一杯の、弱くて小さな存在だ。

 

だけど、生き抜いてみせる。

 

大切な家族と、この陽だまりの家を守るために――。

 

 

 

 

 

 

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