泥と塩   作:San_ti_ra_b

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討伐戦から一週間が過ぎた。

やすらぎの家の屋根は綺麗に塞がり、薪ストーブからはパチパチと温かな薪のはぜる音が響いていた。外では冷たい秋雨がしとしとと降り続いているが、小さな食堂の中は以前と見違えるほど暖かかった。

 

「お兄ちゃん! 今日のスープ、昨日より大きいお野菜が入ってる!」

 

ミナが木彫りのスプーンを手に、目を輝かせて報告してくる。

ジルは苦笑しながら、一人ひとりの木皿の上で指先を弾いた。

粉雪のような真っ白な塩の結晶が舞い落ち、スープの表面へ優しく溶け込んでいく。

 

「わーい! しょっぱくて美味しい!」

 

子供たちが一斉に木スプーンを動かし、賑やかな夕食が始まった。

雨漏りに怯えることもなく、寒さに震えることもない。スラムの片隅にある孤児院にとって、それはささやかだが奇跡のような日常だった。

 

「はい、ジルの分よ」

 

エレナが大きなスープ皿をジルの前に運んできてくれた。

そして、自分の分として小さな木皿をテーブルに置く。

ジルはすかさず、エレナの皿に視線を向けた。

スープの量は子供たちの半分ほどで、具材に至っては薄切りにされたカブの端切れが二、三片浮いているだけだった。

 

「……エレナさん」

 

ジルは自分の深皿から、大きめに切られたカブと乾燥肉のクズをスプーンですくい、エレナの皿へと移した。

 

「あっ、ダメよジル! それはあなたが食べる分でしょう?」

「いいから食べてください。俺は今日、大工仕事の手伝いで薪割りを手伝ったから、もう十分お腹いっぱいなんです」

 

「もう……そういう嘘はすぐ分かるんだから!」

 

エレナは困ったように眉を下げ、ハーブティーの素焼きカップを両手で包み込んだ。

 

「…私はこれくらいで本当に十分なのよ。ジルやみんなが嬉しそうにご飯を食べている姿を見られるなら、それだけで胸がいっぱいになるんだから」

 

そう言って優しく微笑むエレナの頬は、以前よりほんの少し痩せて見えた。

手元を見れば、長年の冷たい水仕事と内職の針仕事で、指先はあかぎれになり、小さな傷が絶えない。

彼女はいつだってそうだ。

十年前、親に捨てられて死にかけていた自分を拾ってくれた時からずっと、自分のご飯を削り、自分を後回しにして子供たちを守り続けてきた。

(……この人は、自分が倒れるまで自分を削り続ける)

ジルはスプーンを握りしめ、静かに胸の奥を痛めた。

屋根が直り、薪が買えても、食料の絶対的な不足が解決したわけではない。エレナが満足に肉や野菜を食べられる日は、スラムにいる限り一度だって訪れないのだ。

 

深夜。

 

子供たちが温かい布団に入り、規則正しい呼吸を整えた頃。

ジルは食堂の丸椅子に座り、ランプの小さな明かりの下で右手を静かに眺めていた。

指先を擦り合わせると、肉眼では見えないほど細い塩の糸がすっと伸びる。

(今の俺の手数じゃ、ノロイの大群と戦うなんて無茶だ。前回の討伐戦でも、足止めして逃げ回るのが関の山だった……)

自分の未熟さを冷静に見つめ直す。

第一区の英雄のような派手な火力も、街を吹き飛ばすような威力もない。

だけど、今のままではきっといつか終わりが来る。

 

「ジル? まだ起きていたの」

 

静かな足音とともに、羽織を肩にかけたエレナが厨房から現れた。

 

「エレナさん。すみません、明かりが眩しかったですか?」

 

「ううん、違うの。なんだか目が冴えちゃって……」

 

エレナはジルの向かいの椅子に腰掛け、小さく息を吐いた。

 

「雨の音を聞いているとね、十年前の日のことを思い出すの。あなたが泥だらけで孤児院の前に倒れていた、あの雨の日のこと」

 

「……俺は、あの日のことを一日だって忘れたことはありませんよ」

 

「ふふ、あの頃のジルは全然喋らなくて、私の顔を見るたびに警戒して威嚇してきたのよね。それが今じゃ、こんなに頼もしくなって……」

 

エレナは愛おしそうに目を細め、テーブルの上でジルの手に自分の手を重ねた。

温かく、少しカサついた、かけがえのない手。

 

「最近ね、私……自分が情けなくなる時があるの。お父様からこの家を任されたのに、ジルに危険な場所へ行かせて手に入れたお金でご飯を食べて……私、ちゃんとお姉さんできてるのかなって」

 

「何言ってるんですか」

 

ジルは思わず強い声を出していた。

 

「エレナさんが居場所をくれたから、俺は今生きてるんです。エレナさんが温かいスープをくれたから、俺は大きくなれたんです。」

 

「ジル……」

 

エレナは驚いたように目を見開き、それから困ったように微笑んだ。

 

「ありがとう。……でもね、無茶だけは本当にしないで。お金や食べ物はどうにかなるわ。だから、私のために自分を傷つけるようなことだけは……絶対にしないでね」

 

「……分かってますよ」

 

ジルは苦笑いを浮かべ、握り返したエレナの手の温もりを噛み締めた。

(分かってるさ。……だけど、それじゃダメなんだ)

自分の食べものを減らし、傷だらけの手で微笑むエレナ。

彼女に、もっとちゃんとした肉を食べさせたい。体をつけるような温かい野菜や、パンを、お腹いっぱい食べさせてあげたい。

そのためなら、もう一度泥にまみれることなんて、どうということはなかった。

(第一区の防衛隊は、次もも討伐戦の囮を募集するはずだ……)

二回目の討伐戦。

次も生き残ることだけを最優先にする。

前線で派手に戦う必要はない。影に潜み、頑丈な塩糸で足をすくって逃げ回り、泥臭くお金を持ち帰る。

すべては、あたたかなスープの底で微笑む、大切な家族のために。

 

「さあ、ジル。もう寝ましょう? 明日も早いんだから」

「はい。おやすみなさい、エレナさん」

 

ランプの火が吹き消され、暗闇が食堂を満たす。

ジルは暗がりの中で、右手の手のひらを強く、力深く握りしめた。

(必ず……もっと稼いで帰ってくる)

 

 

 

 

 

 

冷たい冬の足音がスラムの路地裏にも届き始めた頃。

第一区を隔てる巨大な防壁の真下には、再び見慣れた薄汚い男たちがすし詰め状態で集められていた。

日雇いの臨時防衛員――ノロイ討伐戦の囮部隊だ。

 

「おい! ぐずぐずするな! 番号札を受け取ったら奥の整列区画へ移動しろ!」

 

甲冑に身を包んだ第一区の防衛隊員が、相変わらず荒々しい声で怒鳴り散らしている。

つぎはぎだらけの作業着を着た男たちに混ざり、ジルはポケットに手をつっこみながら、木製の番号札を静かに握りしめていた。

二度目の討伐戦。

(今度も……絶対に無茶はしない。指定された目標地点までノロイを引きずり込んだら、あとは影に潜んで生き残る。それだけだ……)

ジルは心の中で、自分自身に強く言い聞かせた。

やすらぎの家が脳裏に浮かぶ。

屋根の雨漏りは直り、ストーブには暖かな薪が燃えていた。けれど、院長のエレナは自分のスープの具材を削り、痩せた頬で子供たちに微笑んでいたのだ。

もっと金を稼ぎたい。エレナに腹いっぱい肉や野菜を食べさせ、子供たちに暖かい服を買ってやりたい。そのためなら、もう一度こんな泥臭い死地に足を踏み入れることなんて、どうということはなかった。

配置につくための木造の通路を一人で歩いていた、その時だった。

 

「あ……あのっ……! ジルさん……っ!」

 

防衛隊の物資や積み上げられた木箱の影から、消え入りそうな声が響いた。

ジルが脚を止めると、第一区第三遊撃隊の綺麗な制服に身を包んだ少女が、小さな体をさらに縮こまらせるようにして立っていた。

一週間前の討伐戦で、ジルが助けた風使いの少女――シエルだった。

彼女は周囲にいるいかつい大人の異能者や、威張った兵士たちの視線を極度に恐れているらしく、制服のフードを深めにかぶり、両手の指先をもじもじと弄んでいる。

 

「シエル……だったか? 何やってんだ、こんなところで。第一区の異能者が、囮のガキなんかに話しかけてたら目立つぞ」

 

ジルはハッとして周囲を警戒しながら、声を潜めて声をかけた。

 

「ご、ごめんなさい……! でも……っ、前回の討伐戦の後、私……パニックになっちゃって、ちゃんとお礼が言えないまま離れちゃったから……!」

 

シエルはおどおどとした様子で、ジルから少し距離を置きながら、怯えた小動物のようにチラチラとジルの顔を窺ってきた。

 

「私……あの時、みんなに置いていかれちゃって……ジルさんが助けに来てくれなかったら、本当に死んでました……。あの時は、本当に……本当にありがとうございました……!」

 

シエルは涙目になりながら、何度もペコペコと頭を下げた。

 

「……気にすんなって。」

 

ジルは気恥ずかしさを隠すように頭を掻いた。

 

「ううん……気にします……! ジルさんのおかげで、私、助かったんですから……」

 

シエルは気弱そうに眉を下げる。

 

「私……第一区の部隊に入れたのに、全然ダメで……。私なんかが前に出ても、みんなの足を引っぱるだけだって怒られてばかりなんです……。あの日も、怖くて足が震えちゃって……。でも、ジルさんみたいに……目立たなくても、静かに人を助けられるような……そんな強い人になりたくて……!」

 

シエルは胸元をぎゅっと握りしめ、一生懸命に自分の想いを伝えようとしていた。

周囲の強力な異能者たちの中で、自分に自信が持てず、怯えている少女。

スラムで身を寄せ合って生きる孤児院の子供たちの姿が、一瞬だけシエルと重なった。

ジルはため息をつき、作業着のポケットから一粒の小さく硬い塩の結晶を取り出すと、シエルの目の前に差し出した。

「……ほら」

「え……? これ……塩……ですか?」

「俺の異能で作ったただの塩だけどな。塩を出して操作するだけの能力さ」

 

シエルは目を丸くし、おずおずと両手でその小さな結晶を受け取った。

 

「俺は強い人間なんかじゃない。生き残るために必死で逃げ回ってるだけの臆病者だ。だから……お前も無理してかっこつけるな。危なくなったら、プライドなんか捨てて逃げろ。死んだら元も子もないんだからな」

 

「ジルさん……」

 

シエルは掌の中の塩を大切そうに包み込み、パッと顔を明るくさせた。

「はいっ……! 私、頑張ります……! 」

「ほら、出撃の合図だ。さっさと自分の部隊に戻れ。転ぶなよ」

「は、はいっ! ごめんなさい、引き止めちゃって……! ジルさんも、気をつけてくださいね……!」

 

シエルは慌てて小さく頭を下げると、何度何度も振り返りながら、自信なさそうに背中を丸めて第一区の整列区画へと走っていった。

ジルは彼女の小さくなる後ろ姿を見送りながら、作業着のフードを深めにかぶり直した。

(……やれやれ。おどおどしすぎだろ、あいつ。まあ……無事でいてくれればいいけどな)

そうして古びた石造りの廃墟エリアへと歩みを進めた。

 

巨大な鉄格子が軋んだ音を立てて引き上げられ、数十人の囮部隊が崩落した旧市街区へと押し出される。

足を踏み入れた瞬間、湿った泥と古い石材、そして鼻を突く異臭が鼻腔を穿つ。

かつて人々が生活していた石造りの街並みは見る影もなく崩壊し、暗い影を落とす路地裏のあちこちから、ずるりと不気味な黒い泥が地表を打つ音が響き始めた。

 

「出た……ノロイだぁぁぁっ!」

「押すな! 押すんじゃねぇっ! 俺を前に押し出すなっ!」

 

最前線にいた男たちの叫び声が悲鳴へと変わり、一瞬にして乱狂の渦が巻き起こる。

ぬめるような不浄の肉体から、生々しい無数の赤い眼球が浮かび上がる。

長大な百足のように無数の泥脚を生やした個体、口だけが異常に肥大化した四足の怪異――それが十、二十と、古い石壁の隙間から這い出してくる。

(……集団の真ん中に呑まれるな。端を走るんだ)

ジルは冷静に呼吸を整え、押し合いへし合いする群衆の喧噪からすっと身をひいた。

囮部隊の役目は、廃墟の奥深くに潜むノロイを暴れさせ、第一区の防衛隊が設定した目標誘導地点である中央大広場まで誘導すること。

 

「ひ、ひぃっ! 助けてくれっ!」

 

すぐ目と鼻の先で、転倒した男の足首を太い泥触手が絡め取った。

男は必死に地面の石畳を掻きむしるが、容赦なく黒い泥の中へと引きずり込まれ、一瞬で絶叫が途絶える。

物理攻撃の効かない怪物。異能を持たない者や、戦えない者たちにとって、ここはただの屠殺場だ。

(関わるな。助けようとすれば俺も巻き込まれる……!)

ジルは歯を食いしばり、泥を蹴った。

死角となる倒壊した石柱や、狭い裏路地を選んで進む。

だが、今回のノロイは前回の比ではないほど数が多かった。

 

「グガアアアッ!!」

 

背後から、低く濁った咆哮。

見開かれた眼球を怪しく光らせ、犬型のノロイが二頭、路地の天井や壁を蹴りながら爆速でジルへ追いすがってくる。

(速い……っ! このままだと広場に着く前に追いつかれる……!)

ジルは走りながら、作業着のポケットの中で指先を力強く弾いた。

一度に操れるのは十数本が限界。出せる量も限られている。

だが――用途を『足止め』だけに絞れば、十分すぎるほど機能する。

ジルは走りながら後ろを振り返ることもなく、路地の狭い両壁に向けて、一端を固着させた二本の強靭な糸を低空にピンと張り巡らせた。

――ピンッ。

繊細な高音が闇に響く。

猛スピードで追いすがってきた一頭目のノロイが、不可視の塩糸に脚を引っ掛けた。

硬質な糸はノロイの泥の脚を刃物のように深く削ぎ取り、巨体は勢いを殺しきれずに激しく石畳へもつれ込んで転倒する。

さらに、二頭目のノロイも前方の巨体に巻き込まれ、派手に交差点で大転倒を起こした。

 

「ハぁ……ハぁ……っ!」

 

ジルは足を止めず、ひたすら前だけを見て走り続けた。

心臓が警鐘を鳴らすようにドクドクと暴れている。

自分が扱える糸の本数は少ない。一度に複数方向から襲われれば一発で詰む。冷や汗が背中を滑り落ちる中、ジルはただ無心で足を動かした。

あちこちから上がる死の悲鳴。石畳を染める赤い泥。

地獄絵図のような死地を、ジルは自分の命を繋ぎ止めるためだけに、駆け抜けていった。

 

「囮ども、よくやった! そのまま広場の中央まで群れを引き込めぇっ!」

 

防壁の上から、防衛隊員の身勝手な怒声が響く。

視界が開けた。

古びた石造りの大建物群に囲まれた、広大な中央大広場――目標誘導地点だ。

生き残った数少ない囮の男たちが、ゼーゼーと血の混じった息を吐きながら広場になだれ込む。その背後からは、引き寄せられたノロイの大群が、黒い濁流となって押し寄せてきていた。

 

「目標地点へ到達! 全隊、戦闘開始っ!!」

 

後方に控えていた第一区の異能者部隊が、一斉に高らかな喊声を上げて広場へと躍り出てきた。

 

「喰らいやがれ、バケモノども!」

 

遊撃隊の隊長が放つ激しい火球が広場の中央で炸裂し、ノロイの群れを吹き飛ばす。

ここからが本当の討伐戦だ。風の刃、土石の槍、水の斬撃が縦横無尽に飛び交い、広場は一瞬にして炎と血と泥が交錯する激戦場へと変貌した。

ジルは広場の隅にある崩れかけた石柱の影へ滑り込み、荒い息を吐きながら物陰に身を潜めた。

(ここまで来れば……あとは戦いが終わるまで隠れていれば……!)

肩を上下させ、呼吸を整えようとした。

しかし――広場を包む戦況は、恐ろしいほどのペースで悪化していた。

 

「な……数が多すぎるぞ!? 報告と違う!」

「押し返される! 泥が集まって融合し始めたぞ!」

 

異能者たちの悲鳴が上がる。

討伐隊の放つ炎や風によって切り刻まれたノロイの黒い泥が、地表を這って互いに結合し始めていたのだ。

ドロドロと膨れ上がっていく黒い肉体。

体長五メートルを超える、無数の泥腕を生やした多頭の巨大怪異へと姿を変えていく。さらに周囲の崩れた建物から、途切れることなく新たなノロイが雪崩のように溢れ出していた。

 

「ひっ……退避ーっ! 下がれ、引き直すんだ!」

 

隊長をはじめとする第一区の戦闘系異能者たちは、予想を超える怪異の巨体と数に怯み、後方の部隊を置き去りにして我先にと後退を始めた。

その乱戦と後退の混乱の真っ只中で――必死に手をかざしているシエルの姿が見えた。

「はぁ……はぁ……っ!」

シエルが泣きそいになりながら手を振り下ろすと、風の刃が放たれ、迫り来るノロイの泥を削り落とす。

彼女の風の刃は、的確にノロイの肉体を捉えていた。

だが――彼女の攻撃には、ノロイを完全に殺しきる決定的な大火力が欠けていた。

シエルの風は敵の体勢を崩し、足止めするには十分だったが、一撃で消し去るほどの威力がなかったのだ。

 

「チッ、使えねぇガキだな! おい、前線を抑えて時間を稼げ!」

 

逃げ惑う隊長が、前線に取り残されたシエルに向かって酷い言葉を吐き捨てる。

 

「は、はいっ…――きゃっ!?」

 

味方の後退のあおりを受け、鎧の側面に弾かれたシエルは、石畳の上に派手に転倒した。

 

「あ……う……っ」

 

膝を強く打ち、制服を泥に汚しながら、シエルは必死に起き上がろうとする。

だが――その頭上に、巨大な影が差した。

――グラグラグラッ!!

融合を果たした体長五メートルを超える変異型のノロイが、地鳴りのような咆哮を上げ、崩れた石柱の影からシエルの真上へと躍り出たのだ。

 

「あ……」

 

見上げるシエルの瞳から、大きな涙が零れ落ちる。

 

(――っまたかよ!?)

広場の隅、壊れた石柱の陰からその光景を目撃した。

関わるな。

助けても一銅貨の得にもならない。

自分はただ、孤児院のみんなに温かいご飯を食べさせるために、お金を稼ぎにここへ来たんだ。こんなところで危険な行動をして死んでは元も子もない。

頭の中の冷酷な自分が、そう激しく警鐘を鳴らしていた。

だけど――

(死ぬ……! あいつが、死んじまう……っ!!)

出撃前に、物資の陰でおどおどと小さくなりながら涙目で小さく笑っていたシエルの顔が、駆け巡った。

自分に自信が持てずとも、泥まみれの服で一生懸命に人を助けようとしているあの姿。

スラムで身を寄せ合って生きる孤児院の弟や妹たちの姿が、エレナさんが重なって離れなかった。

 

「――っ、くそったれがぁぁぁぁぁっ!!」

 

ジルは自分の理性を力任せに叩き潰し、泥を蹴り飛ばした。

心臓が破裂しそうなほど早打ちし、視界の端が赤く染まる。全身からぶわっと冷や汗が吹き出した。

速く、もっと速く! 訓練された異能者でもなんでもない、身体能力の限界を超えて、ジルは死の転がる石造りの広場を一直線に走った。

 

「逃げろ、シエルっ!!」

声を限りに叫びながら、ジルは全神経を右手の指先――その一点へと集中させた。

出せる極限の密度。目に見えない超極細の糸十二本。

それを周囲に張り巡らしてシエルの真上から振り下ろされる、ノロイの巨大なの腕をクモの巣のように絡めとる。

 

 

ギリギリの、本当に首皮一枚の寸前のタイミングで、糸がノロイの巨大な腕にガッチリと食い込んだ。

 

肉が焦げるような、不気味で激しい焼却音が戦場に爆響する。

振り下ろされる直前だったノロイの巨大な鎌腕が、空中であっけなく半ばから切断された。

呆気なさ過ぎる手応えや、音の違和感は抱いたが今はどうでもいい。

 

「え……っ!?」

 

頭を抱えて目を瞑り、死の衝撃を待っていたシエルが、驚愕して目を開ける。

切断された巨大な泥の腕が、シエルのすぐ脇の石畳へドシンと音を立てて落ち、黒い飛沫を散らした。

 

「ボーッとしてんじゃねぇ! 立つんだ、シエルっ!!」

 

ジルは勢い余って泥まみれになりながらシエルの元へ滑り込み、彼女の華奢な腕を強引に掴んで力任せに引きずり起こした。

 

「ジ……ジルさん……っ!? どうして……っ!?」

「喋るな、走るぞ!」

 

腕を半ばから切り落とされたノロイが蠢かせながら、咆哮を上げた。周囲の小型ノロイたちも、割り込んできたジルに向かって一斉に赤い眼球を向け始める。

この巨大な怪物と正面から殴り合って倒せるような大火力も広範囲の手数もない。

だから――足止めだけに全てを懸ける!

ジルはポケットに突っ込んでいた手から一握りの塩を掴み出すと、指先で超極細の糸状に一瞬で引き伸ばし、地面すれすれの低空に交差させて張り巡らせた。

追ってきたノロイの巨体が、目に見えない罠へ勢いよく突っ込む。

 

――ガツンッ!

 

「グガアッ!?」

糸に巨脚を根元からすくわれ、ノロイは体勢を激しく崩して石畳の上に派手にもつれ込んで転倒した。後続の小型ノロイたちも、倒れ伏した巨体に巻き込まれて将棋倒しになる。

 

「今だ! 走れっ!」

 

ジルはシエルの冷たい手をしっかりと握りしめたまま、必死の思いで近くの崩れた石造りの建物の中へと飛び込んだ。

 

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