倒壊した大建物の隙間、崩れた石柱と瓦礫が組み合わさってできた狭い空間に滑り込み、二人はもつれ合うようにして膝をついた。
激しい荒い息が狭い隙間に満ちる。
ジルの全身からは滝のような冷や汗が流れ落ち、心臓が耳元でうるさいほどドクドクと警鐘を鳴らしていた。
あと一秒遅れていたら、助けられなかったという凄まじい焦燥感。手足が不自然に震え、生きている実感が遅れて押し寄せてくる。
「はぁぁ……隠れられたよね?見つけられてない……よね」
ジルは胸を激しく上下させ、荒い呼吸を必死に整えた。
狭い瓦礫の隙間には外の戦闘音が少し遠く聞こえるが、いつ天井が崩れ落ちてくるかも分からない緊張感が漂っている。
ふと隣を見ると、シエルが座り込んだまま、泥と涙で汚れた顔でじっと自分の手元を見つめていた。
彼女の小さな手には、出撃前にジルが手渡した小さな塩の結晶が、汗と泥に塗れながらも今もしっかりと握りしめられていた。
「……また、助けられちゃいました……っ」
シエルの声は、ぽつりと小さく途切れた。
「……シエル?」
「私……第一区の家でも、ずっと使えないって言われてたんです……」
シエルは膝を抱え込み、ポロポロと大きな涙を溢ぼしながら、今まで誰にも言えなかった胸の奥の傷を吐き出すように語り始めた。
「戦える異能者に生まれたのに……私の風は、刃にしても浅くて、ノロイを一撃で吹き飛ばすような威力がなくて……。お前の風はただのおままごとだって……第一区の恥さらしだって言われて……」
シエルの肩が、小さく激しく震える。
「遊撃隊に入れてもらえたのも、ただの人数合わせ……。隊長にもお前みたいな使えない奴は、後ろで風でも吹かせて時間稼ぎだけしてろって……囮の奴らよりはつかえるだろって。私、必死に頑張ったんです。でも……っ」
シエルはきゅっと唇を噛み締め、両手で顔を覆った。
「今日だって……みんな、私を置いて逃げていきました……。第一区の誰も、私のことなんて見てくれてない……。私、何のために異能を持って生まれたのか、全然分からなくて……っ! 私なんて!…すみませんこんなときに…最低ですね私…ジルさんに失礼だ…」
華やかな第一区という世界の中で、誰からも認められず、自分の存在価値を見失い、死の恐怖と孤独に怯え続けていた少女の本音だった。
ジルは荒い息を吐き出しながら、シエルの言葉を静かに受け止めていた。
(シエルは…スラムの俺たちと変わらないんだな。せめて生産系の異能力だったらとか無い物ねだりか…)
異能の強さだけが全てを決定づけるこの理不尽な世界。
強い異能を持たない者はゴミ扱いされ、使えない弱い異能を持つ者は使い捨てにされる。第一区という壁の内側にいようと、彼女もまた理不尽な差別に苦しむ持たざる者の一人だったのだ。
ジルは自分の手についた泥を粗く拭うと、膝を折ってシエルの目線までしゃがみ込んだ。
そして、泥で汚れたシエルの頭に、ぽんと不器用かつ優しく手を置いた。
「……なぁ俺はさこれからも討伐戦に参加する。」
「え……っ?」
涙で視界を濡らしたシエルが、呆然と顔を上げた。
「シエルもだろ?理由は違うけど自分にとって必要なことだから。」
「ジル……さん……?」
「ちょっと分かるんだ俺も弱い異能力者だからさ…。見返したいんだろ?死にかけたのに今回も参加出来たのはそういうことじゃないか?」
「っ……私は……私だって…」
「…私だって…戦えるって見せつけてやりたい!悔しいよ!言われたままの使えない私をかえたいの!」
シエルは顔を上げ、袖で涙を拭った。
その表情からは、先ほどまでの怯えや自暴自棄な気配は消え、どこか心が軽くなったような澄んだ瞳を取り戻していた。
「俺は今回も次も生き残る。死んだら悲しむ人達がいるから絶対に生き残る。…シエル俺と協力しないか?」
「お前の風は敵の姿勢を崩せるし、遠くの敵を追い払うのにも打ってつけだ。俺の糸は頑丈だけど、数も出せない。でも……お前の風で隙を作ってくれれば、出来ることも増えるはずさ」
「……私の風と……ジルさんの塩で……?」
「ああ。第一区の威張ってる連中みたいに派手な火力はねぇよ。でも、二人で工夫して生き残って、ノロイを削り倒していったら……誰も俺たちのことを使えない奴なんて言えなくなるさ」
シエルは胸の奥が熱くなるのを感じていた。
誰も自分を必要としてくれなかった第一区で、このスラムの少年だけが自分の風の可能性を見てくれ、生き残るための相棒として手を差し伸べてくれたのだ。
涙の痕を拭い、手のひらの中にある小さな塩の結晶をもう一度ぎゅっと握りしめた。
「……私、やります! ジルさんと一緒に……絶対に生き残って、見返してやりたいです!」
「……よし、決まりだな」
ジルは小さく口元を緩めると、崩れ壁の隙間から外の広場の様子を静かにうかがった。
先ほど自分が糸で切断した、ノロイの腕が、石畳の上に転がっている。
(……ん?)
ジルは細めた目で、その残骸をじっと見つめた。
(……気のせいか……?)
一瞬、本当にほんの一瞬だけ、胸の奥に引っかかるような違和感を覚えた。
自分が糸で切り落とした、ノロイの巨大な泥の腕。
切り落とされた直後、黒い飛沫を散らしていた不浄な切り口の周辺が――まるでカラカラに乾いた黒い砂のように、サラサラと音を立てて崩れ落ちて消えていったように見えたのだ。
普通なら、切り落とされた腕も周囲の泥と合体してすぐに再生を始めるはずだった。第一区の異能者が風や剣で切断しても、泥は生々しく蠢いて再結合していたのだ。
それなのに、自分の塩糸が触れた部分だけ、まるで水分を根こそぎ奪い取られたかのように干からび、再生の兆候すら見せずに砂となって消滅していた。
他の異能力者に飛ばされた部分は変化してないように見える。
(……俺の糸が触れた場所だけ、泥が乾いて……砂になってる……小型を倒した時はノロイが死ぬとこうなると、思ってがまさか…?)
異能で生成するこの塩には、何か奇妙な性質が混ざっているのではないか――。
(………試すだけ試してみるか)
「シエル、試したいことがある。早速協力してくれないか?俺が生成する塩の粉を、お前の風に乗せてノロイに吹き付けてほしい」
「塩の粉を……私の風で……?」
「俺が生成した塩がノロイの泥に触れると、何故かあいつら嫌がるんだ。風で広範囲に塩を浴びせれば、動きをもっと鈍らせられるかもしれない。」
「やります……! ジルさん、私……私にやらせてください! ジルさんの相棒として戦いたいです!」
「よし。じゃあ、作戦開始だ。……死ぬなよ、シエル」
「はいっ! ジルさんも!」
崩壊した石造りの建物に、重々しい地鳴りのような足音が近づいてくる。
壁の隙間から覗く、赤く光る不気味な眼球の群れ。三頭のノロイが二人を囲い込むように路地を塞いでいた。
ジルとシエルは同時に立ち上がり、狭い瓦礫の陰から広大な石畳の通りへと躍り出た。
「グガアアアッ!!」
先頭の犬型ノロイが、黒い泥の爪を剥き出しにして二人へ躍りかかる。
「シエル、右だ! 吹き飛ばせ!」
「任せてくださいっ……!」
シエルが両手を前に突き出し、全身の力を込めて腕を振り払う。
彼女の手元から、目に見えない風の塊が放たれた。重い音を立てて風が放たれ、躍りかかってきたノロイの巨体を空中で真正面から押し弾く。
ノロイは着地を狂わされ、湿った石畳の上を激しく滑って体勢を崩した。
「よしっ、ドンピシャだ!」
ジルは風が作った一瞬の隙を見逃さず、地面を滑るように踏み込んだ。
ノロイの泥の肉体、その首元と前脚に糸がガッチリと食い込む。
「くらえッ」
ジルが体全体を押し引くようにして指先を引き絞った。
物理攻撃の通らないはずのノロイの肉体を、バターを切るようにズブズブと深く切り刻んでいく。
ジュウウウウウッ!!
異様な焼却音が響き渡り、切り裂かれたノロイの不浄な泥が悲鳴を上げるように煙を上げる。
その時――ジルは一瞬だけ、目を細めた。
切り口の黒い泥が、変質していくのが見えた。
切断された断面の泥が、水分を失ったかのように急速に干からび――まるでカラカラに乾いた黒い砂のように、サラサラと音を立てて崩れ落ちて消えていっている。
(……やっぱり、切ったところが砂みたいになって崩れてるな……? 俺の塩糸が触れると、あいつらの肉体が保てなくなるのか……?)
不思議な違和感が頭をよぎる。だが、深追いして分析している余裕はなかった。
「ジルさん、左からもう一頭来ます!」
シエルの叫び声で我に返る。
路地の壁を蹴り、無数の触手を生やした二頭目のノロイが迫っていた。
「塩の粉を頼む! 吹き飛ばせ!」
ジルはポケットから掴み出した塩を、一気に前方の空間へバラバラと撒き散らした。
「はいっ!ぶっ 飛べっ!」
ジルが撒いた真っ白な塩の粒子が、シエルの放った風の旋風に巻き込まれ、真っ白な吹雪の竜巻となって二頭目のノロイの全身へ襲いかかった。
――ジュワアアアアアアッ!!
「グガアアアッ!?」
全身に塩の微粒子を浴びたノロイが、狂ったように身を悶えさせた。
塩が付着した箇所から、表面がカサカサの砂のように脆くなって崩れ始めていく。動きが明らかに鈍り、不快な悲鳴を上げながら石畳でのたうつ。
「効いてる! 塩の風が、あいつらの動きを止めてる!」
「今だ、シエル! 風で足をすくえ!」
「はいっ!」
シエルが地面すれすれに鋭い風の衝撃を打ち込み、動きの鈍ったノロイの巨足を払う。
転倒し、完全に無防備になったノロイの首もとへ糸を巻き付ける。
「これで……お終いだっ!!」
首を切り落とされたノロイは、切断口から黒い砂をボロボロと撒き散らしながら、一度も立ち上がることなく砂の山となって崩れ去った。
「やった……! やれました、ジルさんっ!!」
シエルが顔を輝かせ、歓喜の声を上げる。
「ああ……! だけど喜ぶのはまだ早い! 奥から大群が流れてくるぞ!」
。
「シエル、呼吸を合わせろ! お前が敵の先頭を崩せ!」
「はいっ! 」
「俺がお前の横を抜けてきた奴らを全部止めてみせる!」
風が吹き荒れ、真っ白な塩の粒子が舞う。
シエルの風がノロイの群れを押し弾き、体勢を崩した絶妙な隙間に、ジルの糸が目にも留まらぬ速さで滑り込んでいく。
十数頭におよぶノロイの波を、二人の連携で捌ききり休む間もなく中央大広場から押し寄せるノロイの地鳴りが、狭い路地裏の石壁を凄まじい振動で揺さぶっていた。
しかし第一区の最高戦力である英雄たちが現れる気配は、どこにもなかった。
第一区の防衛隊員も、遊撃隊の隊長も、自分たちの保身だけを考えてとっくに後方の巨大な防壁の内側へ逃げ延びているだろう。
誰の救いもない。
この暗い廃墟の路地裏に取り残されているのはジルと、シエルの二人だけだった。
「ジルさん……っ! 後方、崩れた石壁の向こうから……さらに五頭来ます!」
シエルが肩で激しく息を吐きながら、冷や汗に濡れた顔で叫んだ。
彼女の制服はすでに泥と自分の血で汚れ、華奢な手足は疲労で小さく震えている。それでも、彼女の瞳からは出撃前のような怯えや弱気な色は消え失せ、ジルと背中を合わせながら必死に風を練り上げていた。
「わかってる! シエル、絶対に足を止めるな! 立ち止まった瞬間に囲まれて終わりだ!」
ジルは口の中に広がる血の味を噛み締めながら、指先か糸を四本射出した。
広場の主力が逃げ出し、ターゲットを失った数百のノロイの群れが、生き物の匂いを嗅ぎつけてこの狭い路地裏へとなだれ込んできていた。
二人が倒したノロイの死骸は、すでに数十頭に達している。だが、次から次へと崩れた建物から湧き出してくる黒い泥の前に、二人のスタミナも限界に近づきつつあった。
(クソっ……体力の限界が近い……! このままここで足を止めて迎撃し続けてたら、いつか糸の展開が遅れて押し潰される……!)
ジルは歯を食いしばり、必死に頭を回転させた。
自分には、英雄のような街一つを吹き飛ばす派手な大火力はない。
シエルにも、群れを一瞬で消し去るような絶対的な威力はない。
だけど――二人には、生き残るための執念があった。
「シエル! 迎撃をやめるぞ! 今からこの路地を突破して、旧生産区へ移動する!」
「え……!? でも、前方の路地はノロイの群れで完全に塞がれてます……!」
シエルが驚愕の声を上げる。
前方へ続く一本道の路地には、三頭の大型ノロイが壁のように立ちふさがり、不浄な泥の触手をうねらせていた。正面突破など不可能だ。
「正面から突っ込むんじゃない! 道をこじ開けるんだ!」
ジルは作業着のポケットに手を突っ込み、手元に残っていた全ての塩――掌いっぱいの真っ白な塩の結晶を掴み出した。
「シエル、お前の風を俺の手元に集中させろ! 俺が塩の矢を作るから、 俺が合図したらやつらに向かって一気に全開で吹き飛ばせ!」
「 はいっ……! 分かりました!」
シエルは躊躇うことなくジルの指示に従い、両手のひらをジルの頭上へと掲げた。
彼女の周囲に、これまでで最も高密度で風の渦が巻き起こる。ジルの言葉を100%信頼しているからこその、迷いのない異能の練り上げだった。
「よし……行くぞっ!!」
ジルは掴み出した塩を尖らせて固め、前方にぶちまける。
シエルが暴風とともに、両手を前上方へと振り抜いた。
爆発的な音を立てて解放された凄まじい風の爆流は、ジルが撒いた真っ白な塩の矢を飲み込み、一瞬にして広範囲の白き塩の嵐となって狭い路地裏を駆け抜ける。
前方塞いでいた大型ノロイたちが、全身に猛烈な勢いで叩きつけられた塩の微粒子に悲鳴を上げた。
塩が付着した黒い泥の表面が一瞬で黒い砂になり、脆く変質して崩れ始める。塩の風によってノロイたちの動きが完全に麻痺し、巨体が大きくよろめいた。
「今だっ! 瓦礫の隙間を駆け抜けるぞっ!!」
「はいっ!!」
土煙が舞う中、ジルはシエルの冷たい手を強く握りしめ、崩れ落ちた石の山の間を全力で駆け抜けた。
二人は一度も振り返らず、泥と血にまみれながら、ひたすら脚を動かし続けた。
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……っ!
廃墟エリアを完全に抜け出し、第一区の西門が見える崩れた石壁の影まで辿り着いた時、二人は同時に崩れ込むように膝をついた。
冷たい冬の潮風が、汗で濡れた髪と肌を優しく撫でていく。
「はぁ……はぁ……つ……着いた……っ」
ジルは荒い息を吐きながら、ペタリと石畳の上に座り込んだ。
全身の筋肉が疲労で悲鳴を上げ、指先は塩を使いすぎたせいで感覚が麻痺していた。だけど――胸の奥を満たしているのは、恐ろしいほどの達成感だった。
誰も助けに来なかった。
英雄の派手な光も、防衛隊の援護もなかった。
自分たちの知恵と、二人の異能の連携だけで、あの死地を完璧に突破し、生き残ってみせたのだ。
「ジル……さん……っ」
隣で倒れ込むように座っていたシエルが、見上げてくる。
彼女の制服は破れ、顔は泥と涙と土煙でぐしゃぐしゃだった。けれど――その紫色の瞳は、澄み切った朝日よりも眩しく輝いていた。
「私たち……やれました……! ……二人で……生き残れましたっ……!」
「ああ……。ヒヤヒヤしたけどな。お前の最後の風……最高だったぞ」
ジルが不器用な笑みを浮かべて言うと、シエルは一瞬目を見開き、それからポロポロと大きな涙をこぼした。
今度の涙は、悲しさや恐怖の涙ではなかった。
「私……私、嬉しかったです……! 誰の足手まといでもなく……ジルさんの役に立てて……一緒に戦えて……本当に、嬉しかった……っ!」
シエルは胸元に握りしめていた一粒の塩の結晶を、愛おしそうに両手で包み込んだ。
「私……もう第一区の誰に使えないって言われても、平気です。私には……ジルさんが認めてくれた、この風があるから……!」
「……お前は最初からダメなんかじゃなかったんだよ」
ジルは苦笑いしながら、自分の泥だらけの手を伸ばし、シエルの頭をポンポンと優しく叩いた。
「これからは……お前は立派な俺の相棒だ」
「はいっ……! ジルさん……っ!」
シエルは満面の笑みを咲かせ、涙を袖でゴシゴシと拭った。
しばらくして
「……よし」
ジルは息を吐き、隣に立つ少女へと視線を向けた。
どこか落ち着かない様子でジルの横顔をチラチラと見つめていた。
戦闘中の勇ましさは鳴りを潜め、元の不器用でおどおどとした少女に戻っている。だが、その制服を泥と土煙で汚した姿の中にも、出撃前のような怯えや自分を責めるような暗い影は、もうどこにも存在しなかった。
「シエル。門が開いたぞ。第一区の領域へ戻るんだろ?」
ジルが優しく声をかけると、シエルはハッとして小さく肩を跳ねさせ、それから気恥ずかしそうに眉を下げた。
「あ……はい。戻らなきゃいけない……です。でも……」
彼女は言葉を詰まらせ、両手の指先をもじもじと絡め合わせた。
西門の巨大な鉄扉の向こう側には、第一区の華やかな街並みが広がっている。
「……ジルさんは、これから孤児院へ帰るんですか?」
「ああ。お腹を空かせた弟や妹たちが待ってるからな。今日手に入る金で、またまともな夕飯を作ってやるんだ」
ジルが微笑みながら答えると、シエルは「そう……なんですね」と呟き、胸元に手を当てた。
制服のポケットの中には、出撃前にジルから受け取った一粒の硬い塩の結晶が大切にしまわれている。彼女はそれを上から慈しむようにそっと撫でた。
「ジルさん……私、もっと頑張ります」
シエルはゆっくりと顔を上げ、紫色の瞳でまっすぐにジルを見つめた。
「第一区の誰も私の風を見てくれませんでした。……ずっと笑われて、捨てられて……。でも、ジルさんだけは違った。私の風を認めてくれて、必要だって言ってくれて……一緒に戦ってくれました」
「……言い過ぎだって。俺はただ、お前の風を利用させてもらっただけだ」
ジルは恥ずかしさをごまかすようにフードを深くかぶり直したが、シエルは首を小さく横に振った。
「ううん。私にとっては、救いだったんです。……私、強くなります。第一区の見返すためだけじゃなくて、ジルさんの背中をちゃんと守れるような……頼もしい相棒になるために、もっともっと風の練習をします!」
「ああ。楽しみにしてるよ。……でも、無茶だけは絶対するな。生き残ることが一番なんだからな」
「はいっ! 」
シエルはパッと顔を輝かせ、涙の跡が残る頬を真っ赤にして嬉しそうに頷いた。
「それじゃあ……またな、シエル」
ジルがひらひらと手を振り、スラムへと続く暗い路地へ歩き出そうとした、その時だった。
「あ……あのっ! ジルさん……っ!」
シエルが思わず半歩踏み出し、ジルを引き止めるように声を張った。
ジルが振り返ると、シエルは一瞬戸惑ったように視線を泳がせ、それから意を決したように胸の前で小さな拳を握りしめた。
「また……絶対に、次の討伐戦でも会いましょうね! 私……約束ですからっ!」
「……ああ。約束だ」
ジルが口元を緩めて頷くと、シエルはようやく安心したように、今日一番の輝くような笑顔を咲かせた。
彼女は西門の鉄扉をくぐる間際まで、何度も何度も振り返り、小さくなったジルの背中に手を振り続けていた。
夕暮れから、夜の静寂へと世界が移り変わっていく。
第一区の境界を離れ、スラムの路地裏を、ジルは足早に歩いていた。
ポケットの中で鳴る銀貨の重みが、身体の疲労を吹き飛ばしてくれるようだった。
スラムの最果て。潮風が強く吹きつける丘の上に、見慣れた古びた木造の建物――やすらぎの家の影が浮かんできた。
窓からは、新しく買った薪ストーブの暖かな橙色の光が漏れている。雨漏りに怯え、寒さに凍えていた以前の孤児院の姿はそこにはなかった。
ジルは裏口へ回ると、扉をトントン、トトトンと決まったリズムで叩いた。
直後、バタバタと激しい足音が廊下に響き、重い鍵が外されるガチャリという音が鳴った。
「おかえりなさい!」
勢いよく開かれたドアの向こうから飛び出してきたのは、エプロン姿のエレナだった。
彼女の透き通るような銀髪は少し乱れており、その美しい顔立ちは不安と心配で青ざめていた。だが、ジルの無事な姿を目にした瞬間、彼女の瞳から大きな涙が溢れ出した。
「ジル……っ! ああ、良かった……! 良かったぁ……っ!」
エレナは感情を抑えきれず、ジルの胸元へと飛び込み、その華奢な腕で強く抱きしめてきた。
「エレナさん……苦しいですって……。大丈夫です、ほら!」
ジルは苦笑しながら、エレナの背中をトントンと優しく叩いた。
彼女の身体は冷たく、ジルが帰ってくるまでの数時間、不安でずっと裏口の近くで待ち続けていたことが窺えた。自分を心配し、無事を祈ってくれている温もりが胸いっぱいに広がり、死地から生きて戻ってきた実感がじんわりと込み上げてくる。
「本当に……本当に無事なのね? 痛いところはない? 酷い目に遭わなかった……?」
「大丈夫ですよ。俺は後ろの方で逃げ回ってただけです。強い異能者たちが戦ってる影で、転がってる手当金を拾ってきただけなんですから」
いつものように嘘をつく。
シエルと一緒に極限の死線を駆け抜け脱出してきたことなんて、絶対に言えなかった。
「お兄ちゃん! おえりなさーい!」
「お兄ちゃん! 無事だった!?」
奥から、六歳のミナをはじめとする十数人の子供たちがワラワラと群がってきた。
子供たちはジルの作業着の裾や脚にしがみつき、安堵と喜びの声を上げる。
「ほら、みんな。お兄ちゃんは疲れてるんだから、あんまり引っ張っちゃダメよ」
エレナが目元の涙を拭いながら、愛おしそうに子供たちを制した。
ジルは胸のポケットから、手に入れたばかりの銀貨一枚と二十枚の銅貨を取り出し、エレナの掌の上に乗せた。
「これで、冬越しの食材を買い込めます。干し肉も、大根も、……エレナさんが食べたいものを買ってください。今日からは、エレナさんも自分のスープの具材を減らさなくていいんです」
「ジル……あなた、私のために……」
エレナの唇が震え、再び目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。
自分のことを後回しにし、子供たちのために自分を削り続けてきた彼女にとって、ジルの言葉と手渡された金は、何よりも温かい救いだった。
「私は……私は、ジルやみんながご飯を食べてくれれば、それで十分だったのに……。あなたにこんな苦労をさせて……情けないわ、私……」
「情けなくなんかないです」
ジルはエレナの手を両手で優しく包み込んだ。
「俺に名前をくれて、家をくれて、温かいスープをくれたのはエレナさんです。俺が今生きていられるのは、エレナさんのおかげなんです。……だから、今度は俺がエレナさんを守る番なんです」
まっすぐなジルの言葉に、エレナは声を上げて泣き出し、ジルの頭を強く胸に抱き寄せた。
「ありがとう……ジル。ありがとう……っ!」
子供たちも「お兄ちゃんすごい!」「今日のご飯、お肉入るの!?」と大はしゃぎで歓声を上げ、小さな食堂は今までにない温かな幸福感に包まれた。
その夜。
子供たちが腹いっぱいスープを飲んで温かい布団に入り、規則正しい寝息を立て始めた深夜。
ジルは静まり返った食堂の丸椅子に座り、ランプの小さな明かりの下で自分の右手を見つめていた。
指先をパチンと鳴らすと、肉眼では捉えきれないほど超極細な、真っ白な塩の糸がスルスルと伸びていく。
(……今日の戦いで分かった)
ジルは指先の塩糸を静かに繰り寄せながら、心の中で思考を整理していた。
俺の生み出す塩は、ただの塩じゃない。
(俺には、この塩がある。そして……あいつがいる)
昼間の戦い。
「見返すためだけじゃなくて、ジルさんの背中をちゃんと守れるような……頼もしい相棒になります!」
シエルの凛とした声と、まっすぐな瞳が脳裏に蘇る。
ただ逃げ回るだけだった自分が、初めて手に入れた対等な相棒。
二人で力を合わせれば、どんな危険な死地だって駆け抜けることができる。
「ふっ……」
ジルは小さく口元を緩め、右手を力強く握りしめた。塩の糸がすっと消え、手のひらに確かな手応えだけが残る。
「次も絶対に生き残ってやる……」
窓の外では、冷たい潮風がスラムの街を吹き抜けていた。
けれど、孤児院やすらぎの家の薪ストーブは、小さな陽だまりのように、静かに、力強く燃え続けていた。