「……生きているのか、これ」
オースの探窟組合(ギルド)本部、処置室の重々しい扉の奥。
硬いベッドの上に横たわる男を見下ろし、ハボルーグは腕を組んで深く息を吐き出した。
全身を覆う重厚な探窟衣は、酷く摩耗し、各所に焦げ跡や得体の知れない原生生物の体液が付着している。そして胸元で鈍く黒光りしているのは、紛れもない――白笛。
「第三層『大断層』の最下層付近で、命からがら登ってきた上位探窟家たちが発見したんだ。信じられるか? 六層の『還らずの都』から、単身で生還したってことになる」
「……生きて帰るだけでも奇跡だというのに、登りきってきたというのか。五層の呪い(感覚喪失・自傷行為)も、四層の全身出血も越えて……」
白笛――不動卿オーゼン、白笛――殲滅卿ライザ。
幾多の伝説を持つ探窟家たちと肩を並べ、かつて「無窮卿」と呼ばれた男。オーゼンと同時期に白笛へと昇り詰め、その圧倒的な単体戦闘能力で数々の凶悪な原生生物を無造作に屠ってきた存在。
だが、男は固く目を閉じたまま、微動だにしない。
「意識は戻りそうなのかい?」
「あぁ……だが、医師の診断によれば……『限界深度からの生還に伴う、重度の記憶障害』の可能性が高いそうだ。言葉を投げかけても、まともな反応が返ってこない」
ハボルーグは悲痛な面持ちで首を振った。
アビスの深淵は、探窟家から魂も肉体も奪う。奇跡的に肉体が戻ったとしても、心が壊れてしまう者は珍しくない。
その時――ベッドの上の男が、ゆっくりと瞼を開いた。
深緑の瞳が、天井のランプの光をぼんやりと映し出す。
「……気づいたか」
ハボルーグが覗き込む。
しかし、男は一言も発しない。ただ、自分の両手をじっと見つめ、それから部屋の隅に置かれた自らの『白笛』へと視線を送った。
無言。圧倒的なまでの沈黙。
(……やはり、記憶が飛んでいるのか。自分の名前すら、白笛の打ち鳴らし方すら忘れてしまったのかもしれない……)
ハボルーグは落胆と哀切の混ざった溜息をついた。
だが――ハボルーグたちの勘違いであった。
男の脳裏を支配していたのは、絶望でも、アビスの呪いによる精神崩壊でもなかった。
(……なんだ、これは)
男は己の手のひらを握り、ひらいた。
(鉄の匂い、病室の匂い……いや、病院? 違う。ここは……アビスか。……いや、待て)
男の頭の中に、「前世の記憶」が激流となって流れ込んでいたのだ。
アスファルトの道、高層ビル、電車の走る音、スマートフォン、平穏な日本の日常。そして、志半ばで病によって倒れた、前世の自分。
それらの記憶が、六層の極限状態を生き延びた衝撃によって一気に蓋を弾き飛ばし、目覚めてしまったのである。
(おれは……前世の記憶を思い出したのか? いや、それにしては情報量が多すぎる。ええと、いまの俺は……白笛? オーゼンと同期の……? というか、さっきからこのデカいおじさん(ハボルーグ)が凄く悲しそうな顔で俺を見てるけど……)
男は口を開こうとした。
しかし、もともと「無言」「無口」「言葉より先に拳が出る」タイプとして長年アビスを生きてきた肉体だ。喉の使い方がとっさに分からない。
「……っ」
「無理に喋らなくていい! すべてを失って戻ってきたんだ、ゆっくり休みねぇ……」
ハボルーグが優しく肩を叩いてくる。
(いや、失ってない。むしろ記憶増えた。前世の日本の記憶と、この世界でオーゼンと殴り合いの喧嘩した記憶がちゃんとお腹いっぱいに詰まってる)
しかし、元来の無口さと前世の「日本人らしい事なかれ主義」が災いし、男は「あ、違います記憶あります」と言うタイミングを完全に逃してしまったのだった。
数日後。
男の生還と「記憶喪失」の噂は、オースの街を駆け巡った。
「あの無窮卿が、記憶を無くして戻ってきた……」
「六層の呪いは、白笛の心すら破壊したのか……」
街の人々は男を哀悼と畏怖の目で見つめた。
当の男はといえば、ギルドの酒場の隅の席で、静かにスープを啜っていた。
(うん、干し肉と芋のスープ。前世のラーメンとかカレーに比べると大分大雑把な味だけど、アビスの深層で喰ってた正体不明の肉より100倍うまい)
男が黙々とスープを飲んでいると、酒場の扉が静かに開いた。
長身、黒と白の独特な髪型。大きな笠を深々とかぶった巨躯の女性――不動卿オーゼンである。
酒場が一瞬で静まり返る。
オーゼンは長い足を投げ出すように歩き、男のテーブルの真向かいにドカリと座った。
「……ハボから聞いたよ。六層から這い上がってきたと思ったら、頭がおめでたくなっちまったんだって?」
オーゼンの鋭い眼光が男を射抜く。
かつて同じ時代を駆け抜け、時に背中を預け、時に殺し合いに近い手合わせをした同期の男。
「あたしの顔も、分からなくなったかい?」
オーゼンの問いに、男は無言で彼女を見つめ返した。
(オーゼンだ……。うわ、近くで見るとマジでデカいな。前世の知識で言うと2メートル台半ばはあるぞ。……あ、そういえば昔、酒の席でオーゼンの千人楔を数えようとして殴られた記憶があるな。懐かしい)
男は昔を懐かしみ、しみじみとオーゼンを見つめていた。
しかし、その「一切の感情を読ませない無言の凝視」は、オーゼンと周囲の探窟家たちにはまったく違う意味に捉えられていた。
「……チッ。本当に何も覚えてなさそうな顔をしやがって」
オーゼンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「あのイカれた殺気も、あたしへの嫌味も消え失せている。……つまらないねぇ。アビスってのは、どこまでも根こそぎ奪っていく」
(いや奪われてないって。オーゼン、君が昔『千人楔打ち込みすぎて夜寝返り打つとギシギシ言う』って零してた愚痴も覚えてるって)
男は否定しようと口を微かに開いたが、オーゼンは立ち上がってしまった。
「まぁいいさ。動けるならリザード(原生生物)の1匹でも狩って、勘を取り戻しな。白笛の肩書きが泣いているよ」
オーゼンは背を向け、酒場を去っていった。
(言いそびれた……。まあいいか、追々伝われば……)
男は再び無言でスープを啜り始めた。
それから数日後。
男はリハビリを兼ねて、第一層の「樹住いの層」へと足を運んでいた。
前世の記憶を取り戻したとはいえ、体に染みついた探窟家としての本能は衰えていない。遺物の扱いも、アビスの「力場」を読む感覚も、体に刻み込まれている。
(しかし、前世の記憶があると景色が変わって見えるな。この巨大な縦穴……冷静に考えて正気の沙汰じゃない構造だ。前世の世界なら即座に立ち入り禁止区域だな)
男が樹上の足場を歩いていると、突然、下層から激しい怒号と悲鳴が響き渡った。
「うわああああっ! 助けてくれ!!」
「『タマウガチ』だ!! なぜ第一層にこんなものが!!」
(タマウガチ? 第四層の猛毒持ちの化け物が、なんで一番上に……!?)
男は瞬時に「力場」の乱れを察知した。
第一層の開けた空間に、四層から何らかの弾みで迷い込んだのか、巨体を持つ危険生物・タマウガチが暴れ回っていた。周囲には、まだ若い赤笛や青笛の子供たちが逃げ惑い、角に追い詰められている。
探窟組合の駐屯部隊が駆けつけるが、タマウガチの毒針と圧倒的なパワーの前に太刀打ちできない。
「だめだ! 歯が立たない!」
「白笛の支援を――!」
絶望が支配する現場。
その時、頭上からド残響音を残して、黒い影が舞い降りた。
ドガァァァンッ!!
猛烈な衝撃波とともに、男がタマウガチの目の前に着地した。
「あ……あの人は……!」
「無窮卿!? でも、記憶を失っているんじゃ……!?」
男は無言で立ち上がった。
(うわ、デカいなタマウガチ。四層で会った時も面倒だったけど、逃げ場のない第一層で暴れられたら子供たちが危ない)
タマウガチが怒りに満ちた咆哮を上げ、頭部の毒針を高速で射出する。
男は――動かなかった。
前世の知識に基づく論理的思考と、アビスで鍛え上げられた超人的な感覚が合一する。
視界に流れる「力場」の動きから、針の軌道を完全に予測。
一歩。ほんのわずかに体を捻るだけで、音速を超える毒針をミリ単位でかわした。
「な……避けた!?」
次の瞬間、男は踏み込んだ。
地面の岩盤が足裏の圧力で爆発するように砕ける。
男の手には、自らの特級遺物である一振りの大型楔形兵器。
(前世の力学的に言えば……一番威力が伝わる打点は、首の第二関節の隙間!)
無駄な動きは一切ない。
静寂の中、放たれた一撃。
ズドォォォンッ!!!
タマウガチの巨体が、一撃で岩壁へと叩きつけられ、首の骨を砕かれて即死した。
静まり返る現場。
男は武器を収め、ふぅと息を吐いた。
(よし、一発で倒せた。身体能力は落ちてないな。……あれ、みんななんで固まってるんだ?)
周りを見渡すと、救われた探窟家たちが、口をぐうの音も出ないほど開けて男を見つめていた。
「い、一撃……」
「記憶を……己の戦い方すら失っているはずなのに……!」
「体だけで……体に刻まれた『闘争の記憶』だけで、あの化け物を葬ったというのか……!?」
悲壮感に満ちた眼差しで、子供たちが男を見上げる。
「無窮卿……! 記憶を無くしても、貴方は僕たちの英雄だ……!」
「ううっ……自分の名前すら思い出せないのに、体を張って僕たちを助けてくれるなんて……!」
(いや、名前覚えてる!! 助けたのは普通に危なかったからで、記憶はあるんだってば!!)
男は必死に否定しようと、首を横に振った。
「(ちがう)」
しかし、声が小さすぎた。そして首を振るその姿は、周囲には「いや、礼には及ばない。当然のことをしたまでだ」という無言の美徳として変換されてしまった。
「なんて高潔な……!」
「自分の手柄すら誇ろうとしないなんて……!」
(ちがう!!!)
その夜。
オースの街は、記憶を失った白笛が一撃でタマウガチを倒したというニュースで持ちきりだった。
「体だけで戦う本能の鬼……」
「言葉を失ってもなお、探窟家の頂点……」
酒場ではハボルーグが涙ぐんでいた。
「あいつは……全てを忘れても、探窟家としての誇りだけは魂に焼き付いていたんだな……」
その様子を遠くから見ていた男は、自分の部屋で頭を抱えていた。
(どうしてこうなった……)
机の上には、前世の文字(日本語)でこっそり書いた『俺の記憶は戻っているし前世の記憶もある』という手紙。しかし、この世界で日本語が読める人間などいるはずもない。見られたら「謎の古代文字を呟く重症者」としてさらに哀れまれるだけだ。
そこへ、部屋の扉がノックもなしに開いた。
オーゼンだった。
「……見たよ。第一層での大立ち回り」
オーゼンは部屋に入ってくると、男の前に立ち、珍しく口元を少し緩めた。
「体に染みついた殺気だけは本物らしいね。……記憶なんてものは、ただの飾りかい。お前はお前だってことだ」
そう言って、オーゼンは男の肩をぽんと叩いた。
「安心しな。お前が何も思い出せなくても、あたしが昔の貸し借りを叩き込んでやるよ。また一から、アビスを教えてやる」
(オーゼン……いい奴だな……いや、でも違うんだ。俺、君に貸した1,000オースのことも覚えてるんだ……)
男はオーゼンを見つめ、意を決して口を開いた。
「……オ」
「ん?」
「……オーゼン」
男が搾り出すように名前を呼ぶと、オーゼンは目を見開いた。
「……なんだ。あたしの名前、思い出せたのかい?」
(思い出したんじゃない、最初から知ってるんだ!)
だが、男の不器用な表情と、たどたどしい口調を見て、オーゼンは優しく笑った。
「ふん……まぁ、上出来さ。焦らず戻して行きな」
(届かない……! この俺の真実が全然届かない……!)
結局、男の「記憶喪失(実は前世覚醒)」の勘違いが解ける日は、当分来そうにない。
だが、前世の知識と、白笛としての圧倒的な力。
両方を併せ持った男の新たな探窟は、ここからまた始まろうとしていた。
「……まあ、いいか」
男は小さく呟き、自分の白笛を胸元で弄んだ。
言葉数は少なくても、勘違いされていても。
この底知れぬ大穴・アビスの魅惑が、再び自分を呼んでいることだけは、紛れもない事実なのだから。