何故か喧嘩回になりました。
スースーと、せんぱいの呑気な寝息が頭の上から聞こえてきます。
どうやら僕を抱き枕に本格的にぐっすり眠ってるみたいです。
僕の視界はせんぱいの小さな身体で埋まってるのでその寝顔は見えませんけど。
代わりに鼻をくすぐる、微かに甘い嗅いだ事のない匂い。
言うまでもなく、僕を抱き枕にしてる女の子になっちゃったせんぱいの匂いです。
(…………せんぱいが女の子になっちゃったから仕方ないとはいえ、やっぱこの匂いは落ち着かないですね)
せんぱいを起こさない様にじっとしながら、脳内で独りごちます。
どっちがいい匂いかと言われたら間違いなくこの甘い匂いなんですけど、僕にとってのせんぱいの匂いといえばやっぱりあの男くさい匂いなので(あ、別にせんぱいが臭かったって言ってる訳じゃないですよ。せんぱいの名誉のために言っておくと、標準的な匂いです) 僕の居場所が無くなったようで落ち着かない感じがします。
何というか、お気に入りの毛布を取られた感じというか。
あるいは、枕が変わった感じと言えばいいんですかね?
とにかくそんな感じです。
(…………でも、これに慣れないといけないですよねー)
せんぱいが男に戻る可能性は低そうですし。
これからもせんぱいとこうして寝る、って事を考えると早く慣れないと睡眠不足になりそうです。
とはいえ、未知の匂いに対して身体はどうしても身構えてしまうんですけど。
なのでとりあえず今は慣れるまで嗅ぐしかないですよね。
せんぱいも慣れるまで存分に嗅いでいいって言ってくれましたし。
という訳で、せんぱいの胸に更に顔を埋めて匂いを嗅いでると。
「…………亦、紅…………」
(せんぱい?)
「だい、じょうぶ…………だから…………ここは、お前がいて、いい場所だから…………」
狙い澄ましたかの様に、せんぱいの寝言が耳に届いてきました。
(…………あーあー、ほんっとうに僕を甘やかす天才ですよね、せんぱいは)
その言葉で、本能的に固まってた身体の力が嘘の様に抜けていきます。
というか寝言で僕の欲しい言葉クリティカルに出すって僕の事好きすぎじゃありません?
…………せんぱいと出会った初めての夜も、そうでした。
眠ろうとしても眠れなかった僕を見かねて、こんな風に僕の欲しい言葉を語りかけて、辛抱強く、僕が眠るまで近くにいてくれたんですよね。
今みたいに抱きしめたりはしてませんでしたけど、まあそれは僕とせんぱいがそれだけ仲良くなったって事で。
(…………ほんと、桜せんぱいは何処まで行っても桜せんぱいですねー)
初めての夜を思い出すと、桜せんぱいの匂いの違いとかどうでもよくなってきちゃいました。
だって…………今のせんぱいも、出会った時のせんぱいも、本質的には変わりませんからね。
つまり、前の男くさい匂いも、今の甘い匂いも、どちらも僕の居場所の匂いって事です。
(…………眠くなってきましたねー)
一度それを受け入れると、僕の中に浸透するのに時間はかかりませんでした。
せんぱいの安心する匂いに包まれて、瞼がどんどん重くなっていきます。
その心地いい眠りへの誘いに、今日もよく眠れそうだな、とぼんやり考えます。
(…………いつもありがとうございます、桜せんぱい)
同時に、桜せんぱいへの感謝も。
いくら桜せんぱいが気にしてないとはいえ、これだけの環境の変化はせんぱいにとって負担になってる筈です。
なのに、せんぱいはいつも通り僕の世話を焼いてくれます。
その姿に、感謝しない理由があるでしょうか。
僕にはありません。
だから。
(…………ちょっとは、恩返し、したい、ですね…………)
眠気でぼやけていく思考の中、せんぱいに何か返したいという思いが募っていきます。
その時。
「ん、んん…………っ」
眠ってるせんぱいが身を捩り、その髪の毛が僕に触れました。
瞬間。
(…………ああ、これなら…………)
せんぱいの助けになる。
そんなアイデアが、脳内に浮かびました。
そしてそこで、僕の思考を保っていた最後の糸が切れて、睡魔が僕の手を引っ張り始めます。
僕はそれに抗う事なく、僕を包むせんぱいの温もりに安心しながら、瞼を閉じました。
「…………せーんぱい」
「ん…………」
「せーんぱい、起きてください」
「んー…………?」
いつもの不快な電子音じゃない声と、ゆさゆさ揺らされてる身体の動きで眠りから意識が浮上し、瞼が開く。
「亦紅…………?」
「はい、僕ですよー。おはようございまーす」
開いた視界に映るのは、いつもの天井とこちらを見下ろす亦紅。
どうやら亦紅に起こされたらしい。
「おはよう…………ふぁ、珍しいな、お前が先に起きてるなんて」
身体を起こし、まだあまり動いてない頭で亦紅に挨拶を返す。
しかし次の瞬間、背筋に冷たいものが走る。
「って、今何時だ⁉︎」
「はい、せんぱい」
アラームではなく亦紅に起こされた事に、もしかして今は普段よりヤバい時間なんじゃないかと猛烈に不安になり、亦紅が差し出した私のスマホをひったくる様に奪って時間を確認する。
果たして、時間は…………
「…………よかったぁ〜…………」
アラームの鳴る、5分前だった。
その事実に安心してドッと力が抜け、勢い余って亦紅の方に倒れ込む。
「わっと、危ないですよ、せんぱい」
「お前が心臓に悪い起こし方するからだろ…………」
普段アラーム鳴ってもガン無視で寝こけてるお前に起こされたら勘違いもするわ。
「えー、ちょっとせんぱいに恩返ししようと思って早めに起きたのに、酷くないですかー?」
「恩返し?」
「はい♪ というわけで…………僕は一旦部屋に戻って準備してくるので、せんぱいは朝食お願いしまーす♪」
「あ、おい。…………聞いてないし」
珍しく私よりも先に起きてると思ったら会話もそこそこに出て行ったんだけどあいつ。
しかもこれまた珍しくドアから。
というか恩返しって何?
首を捻りつつも、まあとりあえず顔洗って飯の用意でもするか、とスマホのアラームを解除して洗面所に向かう。
洗面所の鏡を見ると、くりくりと可愛らしく、大きな紫色の瞳をしたピンク髪の少女が映っていた。
当たり前だが、私の顔だ。
「…………まあ、戻ってはないよな」
起きた時からわかっていた事だが。
とは言え、昨日と比べたら精神的な余裕がある分、鏡に事実を突きつけられ、改めて変わってしまった事実を実感する。
「…………」
面影も何もないその顔に、何とも言えないざわざわした気持ちを感じ、ついじろじろと鏡に映る私を見つめてしまう。
すると。
「げ…………」
昨日は運良くついてなかった寝癖が、今朝はちょっとだけついてる事に気づいた。
その事実に、面倒だなという気持ちが湧いてきた。
「どうするかなこれ…………」
指で触ってみた感じ、そこまで強く癖はついてなさそうだから整えるのは楽そうだが…………そのためのケアが地味に面倒くさい。
「面倒だな…………」
このまま大学に行けば、間違いなく蓬にドヤされる。
なので整えてなければいけない、のだが…………急に加わったタスクにちょっとげんなりする。
「ま、一旦飯作ってから考えるか…………」
なので…………後回しにした。
まあ普段の習慣のおかげで時間は結構あるし、多分大丈夫だろ。
問題を未来に丸投げして思考を切り替え、冷蔵庫の中身を見る。
「えーと、材料は…………まあハムエッグ…………ちょっと変えるか」
その中で手早く作れそうだったものにハムエッグが何となく頭に思い浮かんだが、亦紅に連続しすぎと最近文句を言われた事もあり、少し趣向を変える事にした。
卵、チーズ、ハムを取り出して、ハムとチーズは適当に刻み、溶き卵と一緒にかき混ぜる。
それを卵焼き器で炒めて丸めてぽん。
ハムチーズの卵焼きだ。
それを一口サイズに切って野菜乗っけて調理は終了。
「まあこんなもんでいいだろ」
「ただいま帰りましたー!」
「おかえり」
満足したのでお盆に乗せてリビングに運ぶと、亦紅が帰ってきた。
いいタイミングだな。
配膳も終わったので亦紅と一緒に机を囲んで朝食とする。
「珍しいですね。せんぱいが朝食の料理を連続して変えるなんて」
「…………まあ、どこかの誰かに言われたからな。材料一緒だし手間もそこまで変わらないから変えただけだ」
「それはそれは。ありがとうございます?」
「別に好きでやってる事だから気にしなくていい」
「はいはい、ツンデレツンデレ」
「違う。さっさと食え」
「はーい」
「「いただきます」」
モグモグ卵焼きを食いながら、味のチェック。
特に卵には混ぜてないがハムの塩気でいい感じだな。
これならまた出してもいいか。
自己評価終了。
というわけで、気になってたことを亦紅に聞いてみる。
「で、亦紅。恩返しって何だ?」
「ふふん、よく聞いてくれましたせんぱい! といっても、ささやかなものですけど…………せんぱい今、髪セットするの面倒くさいって思ってますよね?」
「まあそうだが」
寝癖放置してるしな。
「でも、そのまま行ったらまずいって事も理解してますよね? というわけでその面倒、僕が引き受けましょう!」
「つまり、これから亦紅が毎朝セットしてくれるって事か?」
「はい!」
おお。
こりゃありがたい助け船だ。
マジでどうしようか悩んでたから助かる。
「じゃあお願いするか」
というわけで、即決で亦紅に頼む。
すると。
「珍しいですね。せんぱいが素直です」
何かきょとんとした顔された。
失礼だなおい。
…………まあ確かに普段の流れならここで軽くじゃれ合いって感じになるからわからんでもないが。
ため息を吐いて、軽く理由を説明する。
「…………そりゃ、お前の言う通り困ってるしな。それに、お前は義理堅いから恩返しなんて言葉使ってまで変な事しないって信じてるし」
なんだかんだ言って、私はお前のことはかなり買ってるぞ。
お前はいい奴だと思ってる。
じゃなきゃ廊下で限界になって倒れてない。
「…………」
「おい何故黙る」
「いやー…………僕好みの幼女なせんぱいにそうやってストレートに褒められると、ちょっと照れるといいますか」
「…………ロリコンさんこわーい、とでも言っておけばいいのかこれは」
「あ、もっと蔑んで煽る感じで」
「ええい欲望を表に出すな」
「せんぱいが引きずり出したんじゃないんですか」
「はぁ…………」
私の評価を返してくれないか?
いやこれくらいじゃ揺らがないけどさ。
とりあえず、こいつにこのまま付き合ってもじゃれ合いで時間を食うだけになりそうなのでさっさと本題に戻る事にする。
「まあいい、飯も食い終わったしセット頼んでもいいか?」
「勿論! そのためにさっき色々取って来たんですから! というわけでせんぱい、僕のお膝にどうぞ!」
なるほど、部屋に戻ってたのはそういう訳か。
亦紅の行動に納得すると同時、時間も無いので誘われるままに亦紅の膝に収まる。
「じゃ、始めますよー」
「頼んだ」
「はーい。…………昨日も思いましたけど、ほんとサラサラですねせんぱいの髪」
昨日の様にオイルを私の髪に馴染ませながら、亦紅が感心した様な声を上げる。
「そんなにか?」
正直言ってその辺の事はよくわからないんだが。
清潔面とか考えると面倒だから基本短くしてたし。
「ですね。全然絡まる感じしなくて面白いです」
私の疑問に答えながら、オイルを塗り終わったのか、手ぐしの要領で私の髪を亦紅が弄ぶ。
「楽しそうだな」
「楽しいですよー。触ってるだけで気持ちいいですからね。ちょっとだけ寝癖もついてましたけど、もう直っちゃいましたし」
どうやら遊びながらもやる事はやってるらしい、と感心しながらブラシで髪を梳かれていく。
基本的にブラシが入る程長く伸ばした事がないから、結構新鮮な感じだ。
その感覚に浸っていると、また何かを塗り込まれる気配。
「これは?」
「先にスタイリング剤を塗っとこうと思いまして」
「あー、熱から保護、だっけ?」
「ですね」
という事は次はドライヤーか。
と考えている間にドライヤーで髪を乾かされる。
「せんぱいはカールされたいとかそんな要望あります?」
「動きやすい髪型にしてくれ。それ以外はお前の好きにしていいぞ」
「僕の好きにしていいんですか?」
「してもらってるし、それくらいはな」
その次にヘアアイロンでどうするか聞かれたが、正直言って動きやすければ何でもいい。
そこさえ満たすのなら、自分にとって面倒な事をさせている事もあるし、亦紅の好きな様にしてもらう方がいいだろう。
「そういう事なら喜んで。…………うーん、量的にはいけそうですし今日はストレートにした後ポニテにでもしますか」
方針が纏まったらしい亦紅が、手慣れた手つきでサクサクと私の髪を纏めていく。
「せんぱいにはこのリボンですかねー」
そしてその仕上げに、黒いリボンで纏めた髪を結ばれる。
亦紅に渡された手鏡で見ると、ピンクの髪に黒いリボンが映えている。
私の幼女じみた顔も相まって、元気溌剌に見えて中々良い感じだ。
中身が講義に忙殺されて元気溌剌とはとても言えない大学生なのはどうかと思うが。
後もう一つ。
「…………少し地雷系っぽいか?」
「それはせんぱいの髪が髪なんでしょうがないですよ。服で印象変えていきましょう」
ちょっと色的に地雷系なのが気になるな。
まあ亦紅の言う通り髪色的にしょうがないとこもあるし、地味そうな服でバランスを取る事にする。
「お、黒色の上下セットあるじゃん。これにするか」
幸い、クローゼットを探したら良さげな黒セットを見つけたので取り出す。
それでそのまま着替えようとして…………そういや亦紅がいたと気づく。
どうするか一瞬悩むが。
「まあいいか」
正直言って見られたところで私は気にしないし、頼みたい事もあるのでそのまま着替える事にする。
「まあいいかじゃないですよせんぱい。僕が男って事忘れてませんか?」
「忘れてないよ。別にお前ならいいってだけだ。そもそも今日だって一緒に寝た時点で今更だろ」
ただ私が着替えてるだけだしな。
流石に風呂となると互いに全裸だからちょっとまずいと思うが。
一緒のベッドで寝てる間柄なんだし、着替えくらいいいだろう。
後他の男ならまあ追い出すというか男の時でも部屋に泊まらせるかどうかからしてまず怪しいな。
「…………それは、確かにそうですけども」
「後、着替えた後に変な感じじゃないか見て欲しい。お前の目なら信頼できるから」
女子の服に詳しいしな。
亦紅に任せておけば色々と安心って事だ。
「…………はあ、わかりましたよ。せんぱいがちゃんと着れてるかチェックするので、どうぞ着替えてください! …………もう、なんでせんぱいは時々すごくずるいんですかね…………じゃあ僕目閉じてるんで」
「見たいなら別に止めはせんが…………」
見られても何か減るもんじゃないしな。
何で見られてもいいのに亦紅に愛でられるのは嫌かって?
主に私の正気が減るからだ。
欲望を込めた視線で見られるのと、欲望をぶつけられるのは私の中だと正気度の減少値が違うのでね。
「見ませんよ! 早く着替えてください!」
おっと、亦紅的にはダメだったか。
こっちに背中向けるくらい顔逸らしてるし。
多分何かの地雷踏んだな。
別に怒らせたい訳でもないので、話を続けずにさっさと着替える事にする。
幸い、昨日と似た様なパンツスタイルの服なので着るのにそこまで時間はかからない。
「終わったぞー」
「はーい…………はい、ちゃんと着れてますね。可愛いですよ。でもその服選ぶなら僕いる意味ありました? 昨日も似た服選んでましたし、ちゃんと着れてましたよね?」
まあ確かにこの服は結構男の時に近い感覚で着れたから詰まるとこはそこまでなかったが。
それでも、亦紅にいて欲しかった理由はある。
「…………まあ、建前じみたとこはあるな」
「建前ですか?」
「…………ちょっと寂しかったんだよ。改めて気づいたけど、私はこの世界にとっての異物だ。この世界に私を覚えている人間はもう僅かにしかいないからな。あ、別に昨日言った事に変わりはないぞ? 怖いとは思ってない。ただ、私は異物だって認識して…………ちょっと寂しくなっただけだ。だから…………私を覚えている亦紅に見て、いや一緒にいて欲しかったんだよ。だから、我儘言った。…………嫌だったら、すまん。もう言わない」
亦紅から目を逸らす様に顔を背けながら、自分の中の願いを言語化する。
…………別に今も、この状況について、『変わらず生活できるからどうでもいい』と思っているのは変わらない。
嘆いたってどうにもならないだろうからお膳立てされてる以上、受け入れた方が楽だしな。
それに、結局どれだけガワが変わっても中身の私は私のままだ。
だから、亦紅の言うような怖さを感じるって訳じゃない。
…………ただ、さっき一人で鏡を見て、気づいた。
怖くは無くても、寂しさは感じるのだと。
あの、鏡を見た時のざわざわした気持ち…………それはきっと、孤独感だ。
…………改変されたこの世界にとって、改変前の意識を保ち続ける私は異物だからな。
ただ覚えているってだけなら亦紅や蓬も同じだが…………私と亦紅達で、違う点が一つある。
亦紅達は言ってしまえば、覚えているだけだ。
私の関係ない部分じゃ、そこまで変わりはしないだろう。
だけど私は、何もかもが変わってしまっている。
この世界に私という男はいない。この世界の記録として残っているのは私という女だ。
私を…………秋海桜という男を示すものは、最早どこにも無い。
にも関わらず、私は改変前の意識を保っている。
それは…………世界にとっての異物であると言っても、差し支えはないだろう。
その事実に私は自分が異物であると一層強く感じ、同時にどうしようもない寂しさを感じてしまう。
私を軸に改変されたというのに、私本人が一番疎外感を覚えているのは皮肉な話だが。
それでも、昨日はまだ色々あったからそれを考える余裕は無かったが…………こうやって普段通りの、でも違う朝を迎えると、嫌でもそれを感じてしまった。
だから、亦紅に側にいて欲しかった。
亦紅の近くなら、私が異物じゃないと、思えるから。
…………それで亦紅に迷惑をかけたなら、世話ないが。
「…………」
「亦紅?」
言い終わって亦紅の方を見ると、亦紅が黙ったまま、何か凄い顔を顰めているのに気づいた。
「…………あーもう、ほんとにこの人は…………」
そのまま何かを呟いたと思うと、ズカズカとこっちに向かってくる。
「も、亦紅?」
流石に私よりもかなりデカい亦紅に見下ろされる様に近づかれると、威圧感で身が竦む。
それで固まった隙を突くように亦紅がひょい、と私を抱き抱えた。
体重差もあって、私は抵抗出来ないまま亦紅の腕の中に閉じ込められる。
「お、おい亦紅⁉︎何してんだ⁉︎」
「黙ってください馬鹿せんぱい」
いきなりの蛮行に思わず抗議すると、亦紅にじろりと睨まれて口が閉じる。
そのまま私のベッドに運ばれて、亦紅に押し倒される形で組み伏せられた。
そして。
「…………せんぱいは、馬鹿です。大馬鹿です」
さっきとは打って変わって、泣きそうな顔をした亦紅に罵倒された。
「…………だから、我儘言った。…………嫌だったら、すまん。もう言わない」
せんぱいのその言葉を聞いて、僕の中で何かが切れる音がしました。
何を馬鹿な事を言ってるんでしょうこのせんぱいは。
胸の中が、せんぱいへの怒りで満たされていきます。
いいじゃないですか、我儘言ったって。
せんぱいの方が今の僕より大変なんですから。
謝らなくていいじゃないですか。
言ってくれたら、僕は全然構いませんよ。
なのに…………なのに!
なんでこのせんぱいは徹頭徹尾僕を甘やかす癖に、僕から逃げるんですか!
僕を甘くて優しい鎖で縛った癖に、どうしてその手を離そうとするんですか!
ああもう何かめちゃくちゃ腹立ってきました。
せんぱいの僕を優先する悪癖も、ここまで来たらもう害悪です。
「…………あーもう、ほんとにこの人は…………」
気づけば、立ち竦んでいたせんぱいを抱き上げてました。
「お、おい亦紅⁉︎何してんだ⁉︎」
「黙ってください馬鹿せんぱい」
馬鹿せんぱいが何か言ってきますが、知りません。
せんぱいが馬鹿なのが悪いんです。
そのままベッドに運んで放り投げて、逃げられない様に組み敷きます。
見下ろすと、何が何だかわかってない混乱したせんぱいの顔が見えました。
その目には、どこか閉じこもる様な、逃げる様な色がありました。
それに気づいて僕は、悲しくなりました。
泣きそうなくらいに。
「…………せんぱいは、馬鹿です。大馬鹿です」
だって、この人は未だに強がろうとしてるんです。
寂しい癖に。
僕に側にいて欲しい癖に。
いっそ自罰的なまでに、僕を自分から求めようとしないんです。
昨日も今日も、僕が提案したから受け入れただけで、せんぱいは自分から提案しませんでした。
まるでその資格がない、と言わんばかりに。
僕には無制限に無償の愛を与える癖に、自分は逃げる。
そんな今のせんぱいのあり方は…………昔の僕を思い出す様で、胸が痛くなります。
だから…………殴ります。
この大馬鹿せんぱいがまた馬鹿な事言わない様に、その心の壁を、ブッ壊れるまで殴ります。
「馬鹿? 私が?」
「ええ馬鹿です。寂しいなら、甘えればいいじゃないですか。何で簡単に引き下がっちゃうんですか」
「迷惑だろ」
「僕がいつ迷惑だって言いました? いいですよ甘えても。せんぱいが困ってるのなんて丸わかりなんですから、甘えられても全然迷惑じゃないんですけど」
「…………だけど、お前は」
「僕が、何ですか?」
「…………そうやって頼られるの、苦手だっただろ」
「はい?」
「…………昔のお前は大勢の期待に自分を殺して、押し潰されていた」
「…………それが、どうしました?」
訳の分からない事を言い出したと思ったら、昔話を始めたせんぱいに、心が苛立ちでざわめきます。
そして。
「だから…………お前を拾った時、思ったんだ。お前にいつか、私以外の止まり木が出来た時、後腐れなく私から離れられる様に、お前に頼っちゃいけないって」
「…………」
続く言葉は、そんな僕から言葉を奪うのに十分過ぎるほどの怒りを抱く…………ふざけた言葉でした。
何ですか、それは。
意地でもせんぱいが僕に頼らないのは、僕のため?
僕がせんぱいから離れられる様に、自分を殺していた?
何ですか、その…………ふざけた、余りにもふざけた、自分勝手な理由は!
「ふざけないでください!」
「亦紅?」
「僕が…………僕が、今更せんぱいから離れられる訳ないでしょう⁉︎」
せんぱいが、初めてだった。
せんぱいだけが、僕を見ていた。
せんぱいだけが、僕を僕として愛してくれた。
なのに。
「なのに…………僕が離れられる様にって、どういう事ですか!」
劇場が、心を支配していく。
この大馬鹿せんぱいにどう僕の気持ちを叩き込んでやろうかと、身体が熱くなる。
「…………この際言います。僕はもう、せんぱいから離れる気はありません」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「…………は?」
馬鹿せんぱいが呆けた様な顔をしてるけど、知った事か。
「当たり前でしょう。せんぱいだけが僕を見てくれたんです。せんぱいだけが僕を僕として愛してくれたんです。なのに、何でせんぱいから離れないといけないんですか」
「…………それは、お前が私以外を知らないだけだろう」
「知りませんよ。僕にとって周りの人なんて、大半が変な期待を押し付けてくるだけの有象無象です。知る気なんてカケラもありません」
「…………私だって、その有象無象だよ」
「違います。逃げないでください、桜せんぱい」
せんぱいがどんな思惑であれ、僕が欲しいものを、僕が欲しい時に与えてくれたのはせんぱいです。
他の人は、誰も与えてくれませんでした。
その時点で、僕にとってせんぱいが有象無象になる訳がありません。
「僕に愛をくれたのは桜せんぱいだけです。誰もくれなかったものを、桜せんぱいだけがくれたんです。その時点で、桜せんぱいは有象無象じゃありません。それを認めてください」
「…………だから、離れる気はない、と?」
「はい。あの日、桜せんぱいが僕を拾って、愛を与えた時に…………僕はもう、桜せんぱいに捕まっていたんです。桜せんぱいがいないと、生きられない様になったんです」
「…………」
「だから、頼ってくださいよ。甘えてくださいよ。痩せ我慢なんてしないで、今まで与えてくれた桜せんぱいの愛の分、僕に返させてくださいよ」
「…………これは、私が悪いのか?」
「そうですね。桜せんぱいが悪いです。飢えていた僕に、欲しいものを欲しいだけ与えて、ポイ捨てしようとするなんて…………最低です。最悪です。責任取って、一生面倒見てもらわないと釣り合いが取れません」
「…………そうか、一生か」
「はい。何も知らない僕に、愛の味を無理矢理教えたんですから、桜せんぱいの一生を貰って漸く釣り合うレベルです」
「…………寝覚めが悪いから拾っただけなのに、随分高くついたな」
「それだけの事をしでかした、と早く認めてください。そして甘えてください。僕は離れる気がないんですから、せんぱいが僕に甘えちゃいけない理由はもうないですよね?」
「…………はあ、わかった、わかったよ。私がお前の人生を歪めた大罪人って事は。そして拾った責任に加えて、その責任を取る必要があるって事は」
桜せんぱいが呆れた様に笑いながら、僕の顔に手を伸ばします。
どうやら、桜せんぱいを殴り続けた僕の言葉は、ついに桜せんぱいの心の壁を壊した様です。
「わかってくれた様で何よりです、桜せんぱい。という訳で、素直になってくれますか?」
「素直にならないと離さないんだろ?」
「勿論」
「…………なら仕方ない。甘えさせてくれ。寂しかったんだ」
「喜んで、桜せんぱい」
僕の顔に添えられた桜せんぱいの手が、僕の背中に届きます。
その動きで桜せんぱいの意図を掴んだ僕は、身体をそのまま、桜せんぱいに預けます。
「…………しばらくこのまま、何も言わずに抱かれてくれ」
「いいですよ」
ぎゅ、と桜せんぱいの小さな腕が、僕を抱きしめます。
「…………ありがとう」
と微かな、でもはっきりした声が、僕の耳に響きます。
僕は言葉の代わりに、桜せんぱいの身体をぎゅっと、離さない様に抱きしめました。
せんぱいが、甘えられる様に。
登場人物紹介
桜 実は寂しかった。けど亦紅に迷惑かけたくなかったから我慢しようとしてた。
亦紅 桜の悪癖にキレた。言葉でぶん殴った。仲直りした。