タルタロスの通路は、どこまで歩いても同じ灰色をしていた。
八木俊典は看守の背を追いながら、ひとつ、乾いた咳をした。口元を押さえたハンカチに、うっすらと赤が滲む。もう慣れたことだ。ワン・フォー・オールの残り火を燃やし尽くしたあの夜から、この痩せた体は以前にも増して言うことを聞かなくなっている。
「こちらです」
重い隔壁が三度開き、最後に面会室の扉が開いた。
本来ならば、と八木は思う。
本来ならば、この監獄の最下層に繋がれているのは、あの男のはずだった。オール・フォー・ワン。師を奪い、自分の腹に穴を穿ち、それでもなお追い続けた宿敵。神野の夜、ようやく地に沈めたあの男を、ここへ送り込むはずだったのだ。
だが、あの男はここにはいない。
代わりにガラスの向こうの拘束椅子に座っているのは、まだ高校一年生の少年だった。
「……やあ、青山少年」
声をかけると、俯いていた金色の頭がゆっくりと持ち上がった。
八木は息を呑んだ。
照明が白すぎるせいだけではない。頬はこけ、目の下には濃い隈が沈み、あれほど手入れを欠かさなかった金髪は伸び放題で艶を失っている。囚人服の袖からのぞく手首は、骨の形が分かるほど細かった。
「オールマイト」
掠れた声だった。それから少年は、ぎこちなく口角を持ち上げた。
「来てくれるなんて、思ってなかったよ☆」
語尾が跳ねる。教室で何度も聞いた、あの調子だ。――けれど、少しも笑えていない。その笑顔は、ひび割れたガラス細工のように痛々しかった。
「無理を言って、ねじ込んでもらった。面会は三十分だそうだ」
少年は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「……やめよう。こういうのは」
跳ねていた語尾が、すとんと落ちた。
「わざわざありがとう、オールマイト。無理をさせたね」
八木は思わず、少年の顔を見直した。
声そのものは、確かに教え子のものだ。けれど、その響きは十五、六の子どものものではなかった。凪いだ水面のように静かで、底のほうに途方もない疲れが沈んでいる。ずっと年上の、たくさんのものを見送ってきた男が話しているような――そんな声だった。
「……私が、来たかったんだ」
短い沈黙が落ちた。壁に埋め込まれた個性抑制装置の低い唸りが、やけに耳につく。天井の四隅では、銃口が微動だにせず少年へ向けられていた。
八木は膝の上で指を組み、ほどき、また組んだ。
聞くべきことは決まっている。ここへ来るまでの間、何百回と頭の中で繰り返してきた。それでも、いざこの少年を前にすると、言葉が喉の奥でつかえた。
目を閉じれば、あの夜の光景が瞼の裏に蘇る。
崩れ落ちたビル群。立ちこめる粉塵と炎。全てを出し切り、骨と皮だけになった腕を天に突き上げて、自分はカメラの向こうにいるたった一人の少年に向けて告げたのだ。
『次は――君だ』
その、直後だった。
瓦礫の陰から、一筋の光が走った。
まばゆい、星のきらめきのような光線が、地に伏したオール・フォー・ワンの頭部を正確に撃ち抜いた。一度ではない。二度、三度。あの男が再び立ち上がる可能性を、一片たりとも残さないように。
振り返った自分が見たのは、煤に汚れた雄英の制服と、震える腹を押さえて立ち尽くす金髪の少年の姿だった。
全国に中継されていた。誰もが見ていた。平和の象徴が最後の力で魔王を倒した、その歓喜の瞬間に――ヒーローを志す一年生が、倒れた男にとどめを刺すところを。
「青山少年」
八木は顔を上げた。
「今日は、君に聞きたいことがあって来た」
「……うん」
「あの夜、オール・フォー・ワンを殺したのは、本当に君の意思だったのかい」
少年は、瞬きひとつしなかった。
「本当だよ。僕があの男を殺した。映像も残っているはずだ」
「ああ、残っている。だからこそ分からないんだ」
取り調べの記録は、全て読んだ。
青山優雅は無個性として生まれ、両親がオール・フォー・ワンに縋って個性を与えられたこと。その見返りとして、雄英の内通者を務めていたこと。そこまでは、調べれば分かる事実だった。
分からないのは、その先だ。
「君はあの夜、あの場所に、あの瞬間にいた。プロヒーローの中でさえ限られた者しか知らなかった作戦の、最後の一瞬にだ。そして、あの男が倒れたその直後に、迷いなく撃った。まるで――」
八木は一度、言葉を切った。
「まるで、あの瞬間が来ることを、最初から知っていたかのように」
少年は黙っていた。
あの夜、撃ち終えた少年はその場に膝をついた。駆け寄った八木の腕の中で、彼は泣いていた。安堵とも絶望ともつかない顔で、何度も何度も、同じ言葉を繰り返しながら。
『やっと……やっと、終わった……』
あれは、人を殺めたばかりの子どもが口にする言葉ではなかった。長い、長い旅をようやく終えた者の言葉だった。
「君は、いったい何を見てきたんだ」
ガラス越しに、八木は少年の目を真っ直ぐに見つめた。
少年の瞳が、わずかに揺れた。
「……あなたは、ずるい人だ」
ぽつりと、少年が呟いた。
「そんな目をされたら、嘘はつけない」
少年はゆっくりと息を吐き、自分の腹に視線を落とした。抑制装置のせいで今は沈黙している、借り物の光。
「オールマイト。僕が無個性だったことは、知っているね」
「ああ」
「医者にもそう診断されたし、両親も、僕自身も、ずっとそう信じていた。……でも、違ったんだ」
「違った?」
「僕には、最初から個性があった。誰にも見つけられなかっただけでね。僕自身、一度死ぬまで気づかなかった」
八木の眉が、ぴくりと動いた。
「一度、死ぬまで……?」
「ああ」
少年は顔を上げた。そして、笑った。今度の笑顔にはひびが入っていなかった。ただ、ひどく疲れていた。
「僕の本当の個性は、『死に戻り』という。死ぬと時間が巻き戻って、少し前の自分に戻る。そこから、もう一度やり直せる」
面会室の空気が、凍りついた。
抑制装置の唸りも、天井の銃口も、全てが遠のいた気がした。
死に戻り。
その言葉の意味を、八木の頭はすぐには飲み込めなかった。飲み込めたとき、背筋を冷たいものが這い上がった。
死ぬと、戻る。
ならば、あの完璧すぎる一瞬にたどり着くまでに、この少年は――いったい、何度。
「……信じられないだろうね」
少年は、どこか諦めたように微笑んだ。
「無理もない。今まで誰にも話さなかったし、話して信じてもらえるとも思っていなかった。……それでも、あなたにだけは聞いてほしかったのかもしれない」
八木は、何も言えなかった。
代わりに痩せた手を持ち上げ、ガラスの表面にそっと触れた。冷たかった。この向こうにいる少年の手は、きっともっと冷たいのだろう。
「聞かせてくれ、青山少年」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど静かだった。
「君が見てきたもの、全部だ。時間なら、私がいくらでも作る。何度でも、ここへ来る」
少年の目が、大きく見開かれた。それから、くしゃりと歪んだ。
「……長くなるよ」
「構わないさ」
「それに、ひどくみっともない話だ」
「HAHAHA、それも構わない」
かつての雷鳴のような笑いには程遠い、掠れた笑い声だった。それでも少年は、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
少年は目を閉じた。
その瞼の裏に映っているのは、この白い面会室ではないのだろう。八木の知らない、いくつもの夜と、いくつもの死なのだろう。
抑制装置の唸りだけが、時を刻むように響いていた。
◇ ◇ ◇
物語というものには、たいてい英雄がいる。
悪を討ち、誰かを救い、最後には眩しい光の中で笑ってみせる――そういう誰かが。
だから、はじめに断っておこう。この物語に、そんな英雄は登場しない。
登場するのは、何度も死んで、何度も戻って、そのたびに大切なものを少しずつ取りこぼしてきた、ひとりの臆病な男だけだ。キラメキなんてものは、とうの昔に、どこかの死に際へ置き忘れてきた。
幕を上げるには、いささか地味な舞台だけれど。
これは僕がヒーローになれなかった話だ。