三日間は、ほとんど記憶のとおりに過ぎた。
学校へ行き、塾へ行き、夜はテニスコートで光を撃った。母は相変わらず何か言いたげに僕を見ていたし、父は相変わらず書斎にこもりがちだった。何もかもが、一度見た映画をもう一度なぞるように進んでいった。
違ったのは、僕の机の上だけだ。
演習場Dの地図は、三日目の夜には、ノート四ページ分にまで膨れ上がっていた。仮想敵が現れる路地。群れが溜まる広場。お邪魔虫が現れる時刻と、その一歩目が踏み出される方角。逃げ惑う受験生たちが、どの通りを塞ぐのか。
そして、ノートの最後のページには、別のものが書かれていた。
筆記試験の問題だ。
全部を覚えていたわけではない。けれど、大問の形式や、手が止まった設問くらいは思い出せた。数学の大問三。あの時、一瞬だけ迷った証明問題。僕は参考書をめくり、正しい解き方を確かめた。
ペンを置いて、しばらく考えた。
これは、不正だろうか。
――不正だ。どう言い繕っても。
けれど、それを裁ける者はどこにもいない。試験問題を盗み見たわけではない。僕はただ、一度受けた試験を、もう一度受けるだけだ。誰にも証明できない。誰にも、気づかれない。
僕はノートを閉じ、明かりを消した。
罪悪感は、思っていたよりもずっと小さかった。須藤さんを見殺しにした夜に比べれば、こんなものは何でもなかった。
◇ ◇ ◇
二度目の入試当日も、空は同じ色をしていた。
母は玄関で「いってらっしゃい」とだけ言った。父は書斎から出てこなかった。校門の先で、緑色の髪の少年がつまずき、丸顔の女の子がそれを浮かせた。
「転んじゃったら縁起悪いもんね」
一字一句、同じだった。
少なくとも、その時までは。
筆記試験の問題用紙を開いて、僕は、ペンを持つ手を止めた。
数学の大問三が、違っていた。
証明問題ではなかった。図形の面積を求める問題だった。形式も、数字も、一度目の記憶とはまるで違う。
見間違いかと思って、何度も読み返した。けれど、何度読んでも、そこにあるのは知らない問題だった。他の大問も、よく見れば、ところどころ記憶と違っていた。似ている。けれど、同じではない。
背中を、冷たい汗が伝った。
それでも、解けない問題ではなかった。あの塾で倒れるまで詰め込んだ知識が、ここでも僕を救った。ノートの最後のページは、ほとんど役に立たなかったけれど。
講堂では、眼鏡の受験生が同じように手を挙げ、同じように縮れ毛の少年を叱りつけた。プレゼント・マイクは同じ冗談を言い、誰も同じように返事をしなかった。
真の英雄とは、人生の不幸を乗り越えていく者。
同じ言葉を、二度聞いた。
そして、説明会の最後に配られた会場の割り当てを見て、僕は、もう一度凍りついた。
演習場B。
Dでは、なかった。
◇ ◇ ◇
演習場Bへ向かうバスの中で、僕はノートを膝の上に広げたまま、動けずにいた。
四ページ分の地図。仮想敵の出現位置。お邪魔虫の時刻。
全部、演習場Dのものだった。
今になって、ようやく分かった。死んで戻ってくる世界は、前と全く同じ世界ではないのだ。
大筋は同じだ。人も、言葉も、出来事も、ほとんど同じように繰り返される。けれど、細かいところが、少しずつずれている。試験の問題。会場の割り当て。きっと他にも、僕が気づいていないずれがいくつもあるのだろう。
時間を巻き戻しているのではない。よく似た、別の時間へ移っているのだ。
そう思った方が、しっくりきた。
僕は、ノートを閉じた。
前の席に、眼鏡の受験生が座っていた。講堂で手を挙げていた、あの真っ直ぐな人だ。その斜め後ろに、緑色の髪の少年と、丸顔の女の子の姿も見えた。
同じ会場らしい。
◇ ◇ ◇
「ハイスタート!」
唐突な合図に、門の前の受験生たちがきょとんと立ち尽くした。
「どうしたあ!? 実戦じゃカウントなんざねえんだよ!! 走れ走れぇ!!」
その声と同時に、眼鏡の受験生が、ふくらはぎのエンジンを唸らせて飛び出していった。僕も、その後に続いた。
地図は、もうない。
残っているのは、一度目の十分間で体に叩き込んだものだけだった。仮想敵の動き方。装甲の継ぎ目の位置。どの角度で撃てば一撃で止まるか。そして、八分を過ぎた頃に、お邪魔虫が現れるということ。
それだけあれば、十分だった。
最初の路地で、一ポイントの仮想敵を二体撃ち抜いた。三ポイントの巨体の懐に飛び込み、至近距離から太い光を叩き込んだ。ビルの二階の窓から飛び降りながら、通りに群れた敵をまとめて薙ぎ払った。
お腹は、とうに壊れていた。けれど、空っぽの腹が壊れたところで、何も困らなかった。
ふと、路地の向こうに、緑色の髪が見えた。
あの少年だった。
彼は、通りの真ん中で立ち尽くしていた。周りの受験生たちが次々と仮想敵を倒していく中で、ただ一人、何もできずに。握りしめた拳が震えていた。
まだ、一体も倒していないのだろう。
僕は、彼の目の前にいた一ポイントの仮想敵を、横から撃ち抜いた。
助けたのではない。ただ、そこにいたから倒しただけだ。ポイントのために。
少年が、驚いた顔で僕を見た。僕は振り返らずに、次の敵へ走った。
◇ ◇ ◇
八分が過ぎた。
地面が、揺れた。
ビルの陰から、見上げるほど巨大な影が立ち上がる。〇ポイントの、お邪魔虫。
受験生たちが、悲鳴を上げて一斉に逃げ出した。
僕も、逃げた。
一度目の僕は、あの足元にいた三ポイントを狙って、逆に走って死んだ。今度は、そんな真似はしない。死ねば、また三日前に戻る。そして、また少しずれた世界で、何が変わっているのかを一から確かめ直さなければならない。それは、ひどく面倒なことに思えた。
ビルの屋上に駆け上がって、振り返った。
お邪魔虫の足元に、誰かが倒れていた。
丸顔の、あの女の子だった。崩れた瓦礫に足を挟まれて、動けずにいる。
逃げる受験生たちは、誰も足を止めなかった。
僕も、止めなかった。
屋上の手すりを握ったまま、ただ見ていた。
その時、逃げる人波の中から、一人だけ、逆方向へ飛び出した者がいた。
緑色の髪の少年だった。
まだ一ポイントも取っていないはずの彼が、真っ直ぐに、お邪魔虫へ向かって走っていく。そして、地面を蹴った。
跳んだ。
信じられない高さだった。ビルの屋上にいる僕の目線よりも、さらに高く。巨大なお邪魔虫の顔の前まで、一息に。
「SMASH!!!」
拳が、お邪魔虫の顔面に叩き込まれた。
轟音とともに、見上げるほどの巨体が、仰向けに倒れていった。
少年の体が、空中で力を失った。殴った腕も、跳んだ両脚も、見るからに壊れていた。落ちていく。地面に向かって、真っ逆さまに。
その頬を、丸顔の女の子の平手が、ぺちんと叩いた。
少年の体が、地面に叩きつけられる寸前で、ふわりと宙に浮いた。
「終了〜〜〜!!!」
マイクの声が、演習場に響き渡った。
僕は、屋上の手すりを握りしめたまま、動けなかった。
ゼロポイントの敵だ。倒しても、点にはならない。まだ一ポイントも取っていない受験生が、試験の残り時間を全部使って、体を壊してまで、点にならない敵を殴り倒した。
ただ、そこに倒れている誰かを救けるために。
僕は、その誰かを見ていた。見ていて、手すりから一歩も動かなかった。
――あれが、本物だ。
◇ ◇ ◇
一週間後、合格通知が届いた。
封筒の中の小さな装置を机に置くと、宙に光の映像が浮かび上がった。
『私が投影された!』
オールマイト。あなたが、そこにいた。
画面の中のあなたは、テレビの中で見ていたのと同じ笑顔で、僕の点数を読み上げた。仮想敵の撃破ポイントは、受験者の中でも上位だったそうだ。
『そして、もうひとつ! 救助活動ポイント! 審査制の、隠れた基準さ! ヒーローとは、敵を倒すだけの者ではない。誰かを救うために動ける者のことだからね!』
僕の救助活動ポイントの欄は、ゼロだった。
当然だ。あの十分間で、僕は一度も、誰かのために動かなかった。屋上の手すりを握りしめて、ただ見ていただけだった。
あの緑色の髪の少年は、きっと、この基準で合格するのだろう。
僕は、ぼんやりとそう思った。
『おめでとう、青山少年! ここが君の、ヒーローアカデミアだ!』
映像が消えたあとも、僕はしばらく、空っぽの机を見つめていた。
あなたの笑顔が、眩しかった。
眩しすぎて、直視できなかった。