第一種目、五十メートル走。
二人ずつスタートラインに並び、合図とともに駆けだしていく。飯田くんはふくらはぎのエンジンを唸らせ、三秒台でゴールを駆け抜けた。蛙のような個性の女の子は、跳ねるように地面を蹴っていった。
僕の番が来た。
隣のレーンに立ったのは、尻尾の生えた男子だった。合図の瞬間、彼は尻尾で地面を叩いて加速した。
僕は、走らなかった。
くるりと後ろを向き、お腹をスタートラインの後方へ向ける。
「ネビルレーザー☆」
光が、ほとばしった。
反動で、体が前へと弾き出される。光の推進力だけで、僕の体はゴールへ向かって滑空した。周りから「えっ」「後ろ向き!?」と驚く声が聞こえた。
理屈は単純だ。光を撃てば、その分だけ体は反対側へ押し戻される。入試の時、飛び降りながら撃って気がついた。細い光では大した推進力にならないけれど、太く撃てば話は別だ。
問題は、撃ち続けなければならないことだった。
一秒。お腹の奥がきしむ。
二秒。腸がねじれる。
三秒。お腹が、完全に壊れる感覚。
普通なら、一秒で止める。撃ち続ければお腹を壊すことくらい、僕自身が一番よく知っている。
止めなかった。
壊れたところで、もう困らないからだ。今朝もパンを半分かじっただけの腹の中には、壊れて出ていくものなどほとんど入っていない。痛みはある。けれど、痛みだけなら、我慢すればいい。
ゴールラインを越えたところで、ようやく光を切った。着地の勢いを殺しきれず、地面を二回転がった。起き上がりながら、僕はクラスメイトたちに向かって片目をつぶってみせた。
「メルシー☆ 華麗なるゴールインさ」
何人かが笑った。後ろ向きに飛んでくる同級生など、笑うしかなかったのだろう。
僕も笑った。お腹の奥では、まだ光の残り火がぐるぐると渦を巻いていた。
笑いながら、思った。
嫌な光だ、と。
この光を撃つたびに、あの冷たい指を思い出す。額に這い込んできた、あの感触。四歳の僕の体を内側から押し広げた、借り物の力。そして、須藤さんが血を吐いた時、頬に飛んできたものの温度。
キラキラが好きだった。光るものが好きだった。
今は、自分のお腹から出る光が、この世で一番嫌いだった。
◇ ◇ ◇
列に戻る途中、相澤先生と一瞬だけ目が合った。
先生は何も言わなかった。ただ、気だるげな目の奥で、何かを測るように僕を見ていた。僕はいつもの笑顔で会釈して、列に戻った。
握力。立ち幅跳び。反復横跳び。
種目が進むにつれて、クラスメイトたちの個性が次々と明らかになっていった。腕から複数の腕を生やす者。体中から何でも作り出す者。右半身から氷を、左半身から炎を操る者。誰もが、自分の個性を当たり前のように使いこなしていた。
自分の体から生まれた、自分だけの力を。
そして、ソフトボール投げで、僕はもう一度「本物」を見た。
緑谷くんの番だった。
彼は、ここまでの種目で目立った記録を何ひとつ出していなかった。個性を使った様子もない。周りからは、ひそひそと囁く声が聞こえていた。このままでは、最下位は彼だろう、と。
緑谷くんは、真っ青な顔でボールを握っていた。
一投目。彼が腕を振りかぶった瞬間、その体の奥から、何か途方もないものが膨れ上がる気配がした。
けれど、投げられたボールは、ごく普通の放物線を描いて、四十六メートル先に落ちた。
「な……今、確かに使おうって……」
「個性を消した」
相澤先生の髪が、逆立っていた。首元に巻いた布が、ゆらゆらと宙に浮いている。
「抹消ヒーロー、イレイザーヘッド……!」
緑谷くんが、呆然と呟いた。
先生は布で緑谷くんを引き寄せ、何かを低く告げていた。全部は聞こえなかった。ただ、「行動不能になって誰かに救けてもらうつもりか」という言葉だけが、風に乗って届いた。
二投目。
緑谷くんは、しばらくボールを見つめていた。それから、何かを決めたように顔を上げた。
腕を振る。
ボールが指先を離れる、その瞬間――人差し指の一点に、全ての力が集まった。
「SMASH!!」
轟音とともに、ボールが空を裂いた。
七百五・三メートル。
グラウンドが、静まり返った。
緑谷くんの人差し指は、紫色に腫れ上がっていた。骨が折れているのは、遠目にも分かった。彼は痛みに顔を歪めながら、それでも拳を握りしめ、相澤先生に向かって言った。
「先生……! まだ……動けます」
その瞬間、僕の中で、何かがきしんだ。
やはり、あれは本物だ。入試の日、ビルの屋上から見上げた、あの拳と同じだ。
体を壊すほどの力。体に合っていない力。そこまでは、僕と同じだった。
けれど、彼の痛みは、何かを掴み取るための痛みだった。指一本を代償に、七百メートル先へ届く力。誰かを救うための、ヒーローの力。
僕の痛みは、ただの腹痛だ。撃てば撃つほど、空っぽの腹がきしむだけの。
「どーいうことだこら、ワケを言えデクてめぇ!!」
爆豪くんが叫びながら飛びかかり、相澤先生の布に絡め取られていた。誰も彼もが、緑谷くんを見ていた。
僕も、見ていた。目が離せなかった。
羨ましかった。
あの指の痛みが、心の底から羨ましかった。
あれは、彼自身の力だ。
生まれ持った力を、まだうまく扱えずに持て余しているだけなのだろう。だから、使うたびに体が壊れる。けれど、それは彼の体から生まれた、彼だけのものだ。いつか使いこなせるようになれば、指一本どころか、もっと遠くまで届くようになる。
僕の光は、違う。どれだけ練習しても、この光が僕の体に馴染む日は来ない。もともと、僕のものではないのだから。
同じ「体に合わない力」でも、彼のそれは成長痛で、僕のそれは拒絶反応だった。
◇ ◇ ◇
全種目が終わり、相澤先生が端末に結果を映し出した。
最下位は、緑谷くんだった。
グラウンドに、重い沈黙が落ちた。緑谷くんは、折れた指を押さえたまま、唇を噛んでうつむいていた。
「ちなみに除籍はウソな」
相澤先生が、しれっと言った。
「君らの最大限を引き出す、合理的虚偽」
「はーーーー!!!!」
クラス中の絶叫が、グラウンドに響き渡った。
「あんなのウソに決まってるじゃない……ちょっと考えれば分かりますわ」
黒髪の女の子が、呆れたようにため息をついていた。
みんなが胸を撫で下ろす中で、僕だけは笑えなかった。
ウソではない、と思ったからだ。
あの人は、見込みがないと判断すれば、本当に除籍していた。最下位の緑谷くんを残したのは、温情でも気まぐれでもない。あの指一本に、見込みを見たからだ。「合理的虚偽」という言葉そのものが、きっと、もうひとつの嘘だった。
考えてみれば、雄英の入試は、ずいぶん偏った試験だ。ロボットを壊した数で合否が決まる。相澤先生自身の個性――他人の個性を消す力は、プロとして強力でも、あの試験ではほとんど役に立たないだろう。
逆に、あの試験でしか輝けない個性もある。
たとえば、ひと月に一度だけ、とてつもない力を振るえる個性。その一度を入試の十分間に合わせれば、ロボットなど何十体でも薙ぎ倒せるだろう。けれど、ヒーローの現場は、ひと月に一度しか起きないわけではない。今日も明日も、助けを求める声は待ってはくれない。残りの二十九日を、その人はどう戦うのか。
あるいは、ロボットを壊すことだけは得意でも、それ以外では何の役にも立たない力。入試の十分間だけを上手に切り抜けて、ここに紛れ込んだ者。
相澤先生は、それを見分けようとしているのだ。入試の点数ではなく、その先に何があるのかを。
――僕は、どちらに見えただろう。
一度目の十分間で死んで覚えたことを使い、二度目の十分間を、誰も救けずに切り抜けて、ここに座っている僕は。
僕の順位は、真ん中より少し下だった。最下位ではない。それでも、あの気だるげな目に測られた時の感覚が、背中にいつまでも貼りついていた。
教室へ戻る途中、保健室へ向かう緑谷くんの背中が見えた。小さな背中だった。折れた指を庇いながら、それでも、まっすぐに前を向いて歩いていた。
僕は、自分のお腹に手を当てた。
ここには、あの男がくれた光がある。
あの背中には、彼自身の光がある。
同じように体を壊す力でも、こんなに違うのだと、僕はその日、思い知った。