ビルは五階建てだった。
核兵器――ハリボテの巨大なミサイル――は、最上階の奥の部屋に置かれていた。
「さて、作戦会議だね!」
芦戸さんが、核兵器の前で腕まくりをした。
「相手は常闇と梅雨ちゃんでしょ? 常闇のあの黒いの、めっちゃ強そうだったよね。梅雨ちゃんは壁とか天井とか、どこでも張りつけるし」
「黒影、と呼んでいたね」
個性把握テストの時に見た。常闇くんの体から伸びる、意志を持った黒い影。腕のように伸び、爪のように裂く。中距離では、ほとんど隙がない。
「あたしの酸、床に撒いたらツルッツルになるんだよね。階段とか廊下とかに撒いといて、滑ったところを捕まえるってのはどう?」
「トレビアン。いいアイデアだ」
実際、悪くない作戦だった。蛙吹さんは壁を這えるから効果は薄いかもしれないけれど、常闇くんの足は止められる。
「じゃあ、それでいこう! あたしが階段に撒くから、青山はここで――」
「いや」
僕は、首を横に振った。
「僕は、下で迎え撃つよ。芦戸さんは、核の前で最後の砦を頼む☆」
「え、一人で行くの? 二人で守ったほうが良くない?」
「心配ご無用さ。僕のキラメキは、狭い廊下でこそ真価を発揮するのだからね」
芦戸さんは、少しだけ眉をひそめた。それから、「まあ、青山がそう言うなら」と頷いた。
本当は、作戦などなかった。
ただ、下に降りて、来た相手を撃つ。撃って、撃って、倒れるまで撃つ。それだけだ。倒されたところで、死ぬわけではない。訓練なのだから。
そして、もし死ぬようなことがあっても、三日前に戻るだけだ。
何も、困らない。
◇ ◇ ◇
「ヒーローチームH、
あなたの声が、無線から響いた。
僕は、階段を駆け下りた。
三階まで降りたところで、足を止める。廊下の先は、薄暗かった。窓は少なく、照明もほとんど点いていない。ビルの内部は、思っていたよりもずっと暗かった。
耳を澄ます。
足音は、聞こえなかった。代わりに、どこかでぺた、ぺた、と、湿った何かが壁を這う音がした。
蛙吹さんだ。
音は、頭上から近づいてきていた。天井だ。
僕は、廊下の天井に向けて、お腹から光を放った。細く絞った光線が、天井の暗がりを切り裂く。照らし出された一瞬、緑色の髪をした女の子が、天井にぴたりと張りついているのが見えた。大きな丸い目が、驚いたように瞬いた。
「あら」
蛙吹さんは、のんびりとした声を上げて、光をひょいと避けた。天井から壁へ、壁から床へ、まるで重力などないかのように跳ね回る。
速い。けれど、目で追えない速さではなかった。
二発目。三発目。光線が、廊下の壁に焦げ跡を刻んでいく。お腹の奥が、きしみ始めた。構わない。四発目。
その時、背後で、空気が揺れた。
「黒影!」
振り返った瞬間、黒い爪が、目の前に迫っていた。
常闇くんは、いつの間にか反対側の階段から回り込んでいたのだ。蛙吹さんの音で僕の注意を引きつけ、その隙に背後を取る。初めての訓練とは思えない、見事な連携だった。
避けられない。
避けるつもりも、なかった。
僕は、迫ってくる黒影に向けて、真正面からお腹を突き出した。
至近距離。腕ほどの太さの、光の束。
お腹の中身が、ごっそり持っていかれるような感覚がした。光が、黒影の胴体を正面から呑み込む。
『ギャアッ!!』
黒影が、甲高い悲鳴を上げた。
光を浴びた影の輪郭が、目に見えて縮んでいく。鋭かった爪が、子猫の爪のように小さくなる。黒影は、怯えたように常闇くんの背中へ逃げ込んだ。
「なっ……」
常闇くんが、目を見開いていた。
――光に、弱いのか。
僕は、それを見逃さなかった。
もう一度。もっと太く。もっと長く。
お腹は、もうとっくに壊れていた。腸がねじれるように痛む。けれど、空っぽの腹が壊れたところで、何も困らない。痛みだけなら、我慢すればいい。
僕は、二発目を撃とうと、一歩踏み込んだ。
その瞬間、横合いから、長い舌が伸びてきた。
壁に張りついていた蛙吹さんの舌が、僕の手首と腰に巻きついた。体が宙に浮き、そのまま床に叩きつけられる。肺の空気が、一気に押し出された。
光は、天井に向かって虚しく放たれた。
その隙を、黒影は逃さなかった。光が途切れた瞬間、縮んでいた影が一気に膨れ上がり、僕の胴を床に押さえつける。
「確保テープ、巻かせてもらうわね」
蛙吹さんが、僕の手首にくるくるとテープを巻きつけた。
あっけなかった。開始から、二分も経っていなかった。
◇ ◇ ◇
最上階では、芦戸さんが粘っていた。
階段に撒いた酸で常闇くんの足を止め、壁を這ってきた蛙吹さんを溶解液で牽制し、たった一人で五分以上も核兵器を守り続けた。
けれど、最後は、闇に乗じて回り込んだ黒影の爪が、核兵器に触れた。
「ヒーローチーム、WIN!!」
ビルの出口で、芦戸さんは、悔しそうに地団駄を踏んでいた。
「あーもう、惜しかったぁ!! 青山、大丈夫? あっという間に捕まってたじゃん!」
「メルシー、心配には及ばないさ☆ 僕は、華麗に散っただけだからね」
「散ってどうすんの!」
芦戸さんが、呆れたように僕の背中を叩いた。
その横で、蛙吹さんが、じっと僕の顔を見ていた。大きな丸い目。何を考えているのか分かりにくい、けれど不思議と真っ直ぐな目。
「私、思ったことは何でも言っちゃうの」
蛙吹さんは、首を傾げながら言った。
「青山ちゃん。さっきの青山ちゃん、捕まりに来てるみたいだったわ」
一瞬、言葉が詰まった。
「……ノンノン、そんなことはないよ。ちょっと、キラメキが溢れすぎてしまっただけさ」
「そう? ならいいけど」
蛙吹さんは、それ以上は何も言わなかった。
少し離れたところで、常闇くんが、自分の影を見下ろしていた。黒影は、まだ少し縮んだまま、主の肩の上で小さく震えていた。
「……光か」
常闇くんは、誰に言うでもなく呟いた。それから、ちらりと僕を見た。何かを言いかけて、結局、何も言わずに目を逸らした。
◇ ◇ ◇
講評の時間、あなたは僕たちの戦いをこう評した。
「芦戸少女! 一人になっても最後まで核を守り抜こうとした粘り強さ、実に見事だった! 酸の使い方も工夫されていたね!」
芦戸さんが、照れくさそうに頭を掻いた。
「そして青山少年! 攻めの姿勢は素晴らしい! 至近距離での一撃も、なかなかの威力だった! だが――」
あなたは、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「単独で突出しすぎだ。
「はい☆ 肝に銘じます」
僕は笑って頭を下げた。
あなたの言うことは、正しかった。蛙吹さんの位置は、分かっていた。分かっていて、気にしなかった。自分が倒れても、どうせ何も困らないと思っていたから。
それをあなたに説明することは、できなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、父の黒い携帯電話が、僕の部屋に回されてきた。
『入学おめでとう、優雅くん。学校はどうだい』
柔らかい声だった。
『授業の予定は、分かったかな』
僕は、受話器を握りしめた。
「……ヒーロー基礎学は、週に何度か。オールマイトの受け持ちです。ほかの先生がつく日もあるみたいですけど、オールマイトは、ほとんど毎回来るそうです」
『ほう。それで?』
「学外の施設を使う授業も、あるらしいです。でも、どこで、何をするのかは……まだ、分かりません」
『そうか。それで十分だ。あとは、こちらで調べよう』
電話は、それだけで切れた。
僕は、受話器を耳から離せないまま、しばらく暗い部屋に座っていた。
学外の施設。教師の目が少なくなる時。守りの外に置かれる時。そこに、オールマイトがいる時。
ふたつの答えを並べれば、あの男の言った形に、少しだけ近づく。
けれど、どこで何をするのかは、まだ分からない。肝心なことは、何も伝えていない。そう自分に言い聞かせてみても、胸の奥の冷たいものは、少しも消えてくれなかった。