昼休みの大食堂は、いつものように混み合っていた。
ヒーロー科、普通科、サポート科、経営科。全校の生徒が一斉に押し寄せ、ランチラッシュの料理を求めて長い列を作っている。
僕は、いつものように母のパンの包みを抱えて、窓際の隅の席に座った。
少し離れたテーブルに、緑谷くんと麗日さん、飯田くんの三人が座っていた。委員長に選ばれたばかりの緑谷くんは、まだ緊張が抜けないらしく、何度も「僕なんかが」と繰り返していた。
「大丈夫さ。緑谷くんのここぞという時の胆力や判断力は、"多"をけん引するに値する。だから君に投票したのだ」
飯田くんの声が、こちらまで聞こえてきた。
やはり、と思った。飯田くんも、緑谷くんに入れていたのだ。
「でも飯田くんも委員長やりたかったんじゃないの? メガネだし!」
「やりたいと相応しいか否かは別の話……僕は僕の正しいと思う判断をしたまでだ」
「……僕?」
「ちょっと思ってたけど、飯田くんて坊ちゃん!?」
麗日さんの言葉に、飯田くんが慌てたように眼鏡を押し上げた。家がヒーローの一家で、兄が有名なプロヒーローなのだと、照れくさそうに話し始める。
僕は、窓の外を眺めながら、母のパンを齧った。
相変わらず、味はしなかった。
◇ ◇ ◇
その時だった。
けたたましい警報音が、食堂中に鳴り響いた。
『セキュリティ3が突破されました。生徒の皆さんは、すみやかに屋外へ避難してください』
一瞬の静寂。
それから、食堂は、爆発したような騒ぎになった。
「セキュリティ3って何ですか!?」
「校舎内に誰か侵入してきたってことだよ!! 三年間でこんなの初めてだ!!」
近くの席の上級生が叫ぶのが聞こえた。
侵入。
その言葉を聞いた瞬間、頭に浮かんだのは、ひとりの男の姿だった。顔と呼べるものがあればの話だけれど。黒いマスク。何本もの管。そして、柔らかい声。
あの男だ、と思った。
生徒たちが、一斉に出口へ殺到した。何百人もの生徒が、狭い廊下へ同時に押し寄せる。押し合い、踏みつけ合い、悲鳴が上がる。誰かが転び、誰かがその上に倒れ込む。
すぐ近くで、一年生らしい女子生徒が、人波に押し倒された。片方の靴が脱げて、床を転がっていった。起き上がろうとするたびに、誰かの膝に押し戻されていた。
僕は、席に座ったまま、それを眺めていた。
慌てる理由が、なかった。
このくらいの騒ぎで死ぬことはないだろう。もし死んだとしても、三日前に戻るだけだ。人波に揉まれて骨を折るくらいなら、ここで座っている方がずっと合理的だった。
倒れた女子生徒のことも、同じように考えた。このくらいで、人は死なない。
そう考えている自分を、少しも不思議に思わなかった。
僕は、窓の外に目をやった。
校舎の向こう、正門の方角に、人影が見えた。カメラを担いだ大人たち。マイクを握った大人たち。今朝、門の前に群がっていた報道陣が、校舎の敷地内へなだれ込んできていた。
ただのマスコミだ。
そう分かった瞬間、ほっとするよりも先に、胸の奥がひやりと冷えた。
あの分厚い隔壁を、どうやって越えたのだろう。
学生証も許可証も持たない者が近づけば、自動的に閉まる門だ。報道陣が押し寄せたくらいで、開くはずがない。誰かが、開けたのだ。あるいは――壊したのだ。
『あとは、こちらで調べよう』
昨夜の電話の声が、耳の奥で柔らかく響いた。
僕は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
こちらで、調べる。
あの時は、聞き流した。けれど、どうやって調べるつもりだったのだろう。
僕が伝えたのは、オールマイトがほとんど毎回来ることと、学外の授業があることだけだった。どこで、何をするのかは分からない。
分からないのなら――知っている者のところから、直接持ち出せばいい。
教師たちの部屋から。
背筋を、冷たいものが這い上がった。
◇ ◇ ◇
「皆さん……大丈ー夫!!」
ふいに、食堂の上の方から、大きな声が降ってきた。
見上げると、出口の真上、非常口の案内表示に、飯田くんが張りついていた。手足を広げた奇妙な格好で、まるで表示の中の人型そのもののように。
麗日さんの個性で体を浮かせてもらい、エンジンの推進力で人波の頭上を飛び越えてきたのだ、と後で知った。
「ただのマスコミです! 何もパニックになることはありません、大丈ー夫!! ここは雄英! 最高峰の人間に相応しい行動をとりましょう!!」
食堂中が、しんと静まり返った。
出口に殺到していた生徒たちが、足を止め、上を見上げていた。押し合っていた手が、ゆっくりと離れていく。
やがて、窓の外にパトカーのサイレンが近づいてきた。警察が到着し、報道陣は次々と敷地の外へ連れ出されていった。
僕は、非常口の表示に張りついたままの飯田くんを見上げていた。
ヒーローだ、と思った。
自分の身の安全も、格好の悪さも顧みずに、ただ、パニックに呑まれた人々を落ち着かせるために、一番目立つ場所に飛び込んでいった。
僕は、その間、ずっと座っていた。死んでも構わないから、という理由で。
倒れていた女子生徒に手を貸して立たせたのも、僕ではなかった。名前も知らない、上級生だった。
同じ「動かない」でも、僕のそれは、ただの怠慢だった。
◇ ◇ ◇
午後のホームルームで、緑谷くんは教壇に立つと、真っ赤な顔で言った。
「委員長は、やっぱり飯田くんが良いと……思います!」
あの騒ぎの中で、みんなを落ち着かせたのは飯田くんだった。だから、自分よりも飯田くんの方が委員長に相応しい、と。
「あ! 良いんじゃね!! 飯田、食堂で超活躍してたし!」
「非常口の標識みてえになってたよな」
「非常口飯田!!」
教室中が笑いに包まれ、飯田くんは「委員長の指名ならば仕方あるまい!!」と、誇らしげに眼鏡を光らせた。
僕も、みんなと一緒に拍手をした。
◇ ◇ ◇
放課後、正門の前を通りかかった時、僕は足を止めた。
門の周りに、黄色いテープが張り巡らされていた。数人の教師が、厳しい顔で何かを調べている。その隙間から、ちらりと見えた。
分厚い隔壁が、崩れていた。
壊されたのではない。崩れていたのだ。まるで、何十年もの風雨にさらされた古い塀のように、ぼろぼろの塵になって。
ただのマスコミに、あんなことができるはずがない。
「何をしている。さっさと帰れ」
テープの内側から、相澤先生の声が飛んできた。僕は「メルシー、先生☆」と手を振って、足早にその場を離れた。
その夜、父の黒い携帯電話は、鳴らなかった。
鳴れば、いつものように、父が僕の部屋まで持ってくる。僕は、自分の部屋の扉を少しだけ開けて、廊下の向こうの、父の書斎の気配に耳を澄ませていた。
書斎の明かりは、夜遅くまで消えなかった。父も、扉の向こうで、同じように待っているのだと思った。鳴ってほしいのか、鳴らないでほしいのか、自分でも分からないまま。
日付が変わっても、鳴らなかった。
鳴らない電話が、鳴る電話よりも恐ろしいものだとは、知らなかった。
鳴れば、あの声が聞こえる。何を聞かれ、何を答え、何を言わずにおくのかを、考えることができる。けれど、鳴らなければ、何も分からない。あの男が今、何を手に入れ、何をしようとしているのか。僕の答えを、どう受け取ったのか。
次の夜も、その次の夜も、鳴らなかった。
三日目の夜、ようやく分かった。
あの男はもう、僕に聞く必要がなくなったのだ。
知りたかったことは、もう、自分の手で持ち出したのだから。
なら、聞く必要のなくなった駒は、どうなるのだろう。
須藤さんの口から溢れた血の色が、頭をよぎった。僕は、廊下の向こうの暗がりから目を逸らして、布団を頭までかぶった。